(Translated by https://www.hiragana.jp/)
二条舎子 - Wikipedia コンテンツにスキップ

じょうしゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
じょう しゃ
だい116だい天皇てんのう嫡母ちゃくぼ
だい117だい天皇てんのうはは
皇太后こうたいごう のべとおる4ねん5がつ27にち1747ねん
あおあやぎぬもんいん
院号いんごう宣下せんげ 寛延かんえい3ねん6がつ26にち1750ねん

誕生たんじょう とおる元年がんねん8がつ24にち1716ねん10月9にち
崩御ほうぎょ 寛政かんせい2ねん1がつ29にち1790ねん3月14にち
りょうしょ 月輪げつりんりょう京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま
別称べっしょう だい女院にょいん
氏族しぞく 藤原ふじわらじょう
父親ちちおや じょうよしただし
母親ははおや 前田まえだ利子としこ
配偶はいぐうしゃ さくらまち天皇てんのう
子女しじょ 盛子もりこ内親王ないしんのう
こうさくらまち天皇てんのう
養子ようしおんな 桃園ももぞの天皇てんのう
女御にょうご宣下せんげ もとぶん元年がんねん11がつ15にち1736ねん
テンプレートを表示ひょうじ

じょう しゃ(にじょう いえこ、とおる元年がんねん8がつ24にち1716ねん10月9にち) - 寛政かんせい2ねん1がつ29にち1790ねん3月14にち))は、さくらまち天皇てんのう女御にょうごで、最後さいご女帝にょていこうさくらまち天皇てんのう生母せいぼのち皇太后こうたいごう女院にょいんごうあおあやぎぬもんいん(せいきもんいん)。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

関白かんぱく左大臣さだいじんじょうよしただし二女じじょ生母せいぼちち正室せいしつ加賀かが藩主はんしゅ前田まえだ綱紀つなのりむすめ利子りし同母どうぼあね有栖川ありすがわみやしょくじん親王しんのう淳子じゅんこ異母弟いぼてい右大臣うだいじん二条にじょうはじめがいる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

とおる18ねん1733ねん)、4さい年下としした皇太子こうたいし昭仁あきひと親王しんのう(のちのさくらまち天皇てんのうとして入内じゅだい。2ねん中御門天皇なかみかどてんのう譲位じょういして昭仁あきひと親王しんのう即位そくいすると、しゃ女御にょうご宣下せんげける。

そのもとぶん2ねん1737ねん)にだいいち皇女おうじょ盛子もりこ内親王ないしんのうもとぶん5ねん1740ねん)にだい皇女おうじょ智子さとこ内親王ないしんのう(のちののちさくらまち天皇てんのう出産しゅっさんするが、男児だんじにはめぐまれなかったため、のべとおる2ねん1745ねん)、典侍てんじあね小路しょうじ定子さだこ所生しょせいの遐仁親王しんのう(のちの桃園ももぞの天皇てんのう)を養子ようしむかえる。

のべとおる4ねん1747ねん)、さくらまち天皇てんのうが遐仁親王しんのう譲位じょういすると、しゃ皇太后こうたいごう冊立さくりつされる。このとき践祚せんそした桃園ももぞの天皇てんのうはわずか7さいであり、さくらまち上皇じょうこうによる院政いんせいおこなわれるが、譲位じょういから3ねん寛延かんえい3ねん1750ねん)にさくらまち上皇じょうこう崩御ほうぎょ皇太后こうたいごうしゃ女院にょいんごう宣下せんげけて落飾らくしょくする。

たかられき12ねん1762ねん)、桃園ももぞの天皇てんのうは22さい崩御ほうぎょする。天皇てんのう実子じっしであるえいじん親王しんのう(のちのこう桃園ももぞの天皇てんのう)はいまだ5さいであったことから、摂関せっかん当主とうしゅらの合議ごうぎうえ天皇てんのう異母いぼあねで、しゃ実子じっしである智子さとこ内親王ないしんのうが、えいじん親王しんのう成長せいちょうするまでの中継なかつぎとして即位そくい明正めいせい天皇てんのう以来いらい119ねんぶりの女帝にょていこうさくらまち天皇てんのう誕生たんじょうした。

明和めいわ7ねん1771ねん)、こうさくらまち天皇てんのうえいじん親王しんのう譲位じょういこう桃園ももぞの天皇てんのう即位そくいするが、ちちである桃園ももぞの天皇てんのうつづき、こう桃園ももぞの天皇てんのう安永やすなが8ねん1779ねん)に22さい崩御ほうぎょする。のこされた皇子おうじおんな同年どうねん誕生たんじょうしたばかりの欣子きんこ内親王ないしんのうただ一人ひとりであったため、ここに中御門天皇なかみかどてんのうけい皇統こうとう断絶だんぜつし、次代じだい傍系ぼうけいである閑院みやいえから仁王におうむかえ、ひかりかく天皇てんのうとして即位そくいさせた。

それから11ねん寛政かんせい2ねん1がつ29にち1790ねん3月14にち)、あおあやぎぬもんいんしゃは75さい崩御ほうぎょりょうしょ京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま月輪げつりんりょう

ようみかど女帝にょていつづいた時代じだい、4だい天皇てんのう治世ちせいわたって皇太后こうたいごう女院にょいんにあったことは特筆とくひつあたいする。晩年ばんねん桃園ももぞの天皇てんのう生母せいぼ開明かいめいもんいんあね小路しょうじ定子さだこ)やこう桃園ももぞの天皇てんのう生母せいぼきょうれいもんいん一条いちじょう富子とみこ)らにたいし、「だい女院にょいん」としょうされた。