(Translated by https://www.hiragana.jp/)
珣子内親王 - Wikipedia コンテンツにスキップ

珣子内親王ないしんのう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
珣子内親王ないしんのう
だい96だい天皇てんのうきさき
皇后こうごう 元弘もとひろ3ねん12月7にち1334ねん1がつ13にち
しん室町むろまちいん
院号いんごう宣下せんげ のべもと2ねん/たてたけし4ねん1がつ16にち1337ねん2がつ17にち

誕生たんじょう のべけい4ねん2がつ23にち1311ねん3月13にち
山城やましろこく京都きょうと常盤井殿ときわいどの
崩御ほうぎょ のべもと2ねん/たてたけし4ねん5月12にち1337ねん6月11にち
いみな 珣子(しゅんし/たまこ)
氏族しぞく 持明院じみょういんみつる
父親ちちおや こう伏見天皇ふしみてんのう
母親ははおや 西園寺さいおんじ寧子やすこ広義こうぎもんいん
配偶はいぐうしゃ 後醍醐天皇ごだいごてんのう
子女しじょ 皇女おうじょ幸子こうじ内親王ないしんのう?)
宮廷きゅうてい首脳しゅのう人物じんぶつ 中宮なかみや大夫たいふ西園寺さいおんじこうむね堀川ほりかわおや
中宮なかみやけん大夫たいふ今出川いまでがわみのるいん
中宮なかみやあきら葉室はむろ長光ながみつ
宮廷きゅうてい女房にょうぼう 中宮なかみやくしげ殿どの別当べっとうしん室町むろまちいんくしげ
テンプレートを表示ひょうじ

珣子内親王ないしんのう(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう[注釈ちゅうしゃく 1])は、後醍醐天皇ごだいごてんのう皇后こうごう中宮なかみや)。こう伏見天皇ふしみてんのうだいいち皇女おうじょはは広義こうぎもんいん西園寺さいおんじ寧子やすこ)。北朝ほくちょうからの女院にょいんごうしん室町むろまちいん(しんむろまちいん)。

こう伏見ふしみ上皇じょうこう正室せいしつとの最初さいしょとして愛育あいいくされ、皇女おうじょながら、持明院じみょういんみつる嫡子ちゃくし同母どうぼおとうとりょうじん親王しんのう(のちのひかりげん天皇てんのう)に待遇たいぐうけた。やがて、元弘もとひろらん1331ねん - 1333ねん)で、持明院じみょういんみつる対立たいりつする皇統こうとう大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのうは、鎌倉かまくら幕府ばくふ北条ほうじょうとく宗家そうけ勝利しょうりし、元弘もとひろ3ねん1333ねん)6がつたてたけし新政しんせい開始かいし。しかし、最愛さいあい正妃せいひである皇太后こうたいごう西園寺さいおんじ禧子よしこが10がつ逝。後醍醐ごだいごあらたな正妃せいひとして、12月に珣子が中宮ちゅうぐう立后りっこうされた。珣子立后りっこう同月どうげつひかりげんへの太上天皇だじょうてんのうごう奉献ほうけんや、ひかりげん懽子内親王ないしんのう後醍醐ごだいご禧子よしこむすめ)との結婚けっこんおこなわれており、だい規模きぼ持明院じみょういんみつる懐柔かいじゅう政策せいさくだった。また、珣子の母方ははかた実家じっかは、有力ゆうりょく公家くげ西園寺さいおんじである。西園寺さいおんじ当主とうしゅおおやけむね(珣子の従兄じゅうけい)は、かつて関東かんとうさる朝廷ちょうてい鎌倉かまくら幕府ばくふ交渉こうしょうやく)として強大きょうだい権勢けんせいふるったが、幕府ばくふほろんで権威けんいげんじたおおやけむねへの配慮はいりょでもあった。翌年よくねん1がつには後醍醐ごだいご側室そくしつ阿野あのれん皇子おうじつねりょう親王しんのう立太子りったいしされたが、これは中継なかつぎの皇太子こうたいしであり、後醍醐ごだいごとしてはいずれ珣子とのあいだまれる皇子おうじ正嫡せいちゃくにとかんがえていたともられる。

夫妻ふさいはやくもめぐまれて、たてたけし元年がんねん1334ねん)10がつには、妊娠にんしん5かげつ着帯ちゃくたいおこなわれ、翌年よくねん3がつなかばの出産しゅっさん当日とうじつまで盛大せいだい御産おさん祈祷きとうおこなわれた。その回数かいすうはこの時代じだい最多さいたの66かいであり、後醍醐ごだいごの珣子へのおもれを物語ものがたる。祈祷きとうには、後醍醐ごだいご大覚寺だいかくじみつるだけではなく、珣子の持明院じみょういんみつるや、珣子の母方ははかた実家じっかである西園寺さいおんじからも支援しえんおこなわれた。御産おさんかんには、大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつる西園寺さいおんじ中立ちゅうりつ地帯ちたいであり、珣子がまれた場所ばしょでもある常盤井殿ときわいどのえらばれた。また、御産おさん奉行ぶぎょうにはひかりげん側近そっきんである葉室はむろちょうあらわ抜擢ばってきされるなど、後醍醐ごだいご人事じんじめんでも持明院じみょういんみつるとの融和ゆうわ路線ろせん強調きょうちょうした。

珣子の御産おさん結果けっかは、日本にっぽん最大さいだい分岐ぶんきてんひとつだった。もし皇子おうじであったならば、そのはやがて、大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつる西園寺さいおんじつな天皇てんのうとして、日本にっぽん統合とうごう象徴しょうちょうになったとかんがえられる。しかし、まれたのは皇女おうじょだった。これにより西園寺さいおんじ衰退すいたい可能かのうせいたかくなったことで、当主とうしゅおおやけむね後醍醐ごだいごへの暗殺あんさつ計画けいかくし、3かげつ捕縛ほばくされた。おおやけむね後醍醐ごだいご暗殺あんさつ計画けいかく起点きてんとして、ちゅう先代せんだいらんたてたけしらん南北なんぼくあさ内乱ないらん連鎖れんさてき発生はっせいし、日本にっぽん最大さいだい大乱たいらんひとつとなった。たてたけし政権せいけん軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では悪政あくせいのために崩壊ほうかいしたとえがかれるが、2010年代ねんだい時点じてんでの研究けんきゅうでは、実際じっさい後醍醐ごだいご改革かいかく現実げんじつてき優秀ゆうしゅうなものであり、政権せいけん崩壊ほうかい偶発ぐうはつてき事象じしょうかさなったものとられている。そのおおきな要因よういんひとつが、珣子との性別せいべつであり、だれにも責任せきにんえない不幸ふこう事態じたいだった。

皇女おうじょ誕生たんじょうから珣子は2ねんに、後醍醐ごだいごもまた4ねん崩御ほうぎょした。薄幸はっこう皇女おうじょのその不明ふめいだが、一説いっせつによれば、南朝なんちょう歌人かじんである幸子こうじ内親王ないしんのう姿すがたともわれる。幸子こうじにん皇女おうじょであるとすれば、すくなくともかぞえ31さい以上いじょうび、南朝なんちょうすぐれた歌人かじんとして活躍かつやくし、じゅん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうしん和歌集わかしゅう』などに和歌わかのこしている。

政略せいりゃく結婚けっこんであったとはいえ、後醍醐ごだいご正妃せいひである珣子にささやかな愛情あいじょうくした。立后りっこうときに、後醍醐ごだいごが珣子をおもってんだ和歌わか2しゅは、いずれも北朝ほくちょう勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう南朝なんちょうじゅん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう両方りょうほういれしゅうしたほどの秀歌しゅうかだった。そのうちのいちしゅ、「そでかへす 天津てんしん乙女おとめおもずや 吉野よしのみや昔語むかしがたりを」は、かつての吉野よしの行宮あんぐう公園こうえんとして整備せいびされた吉野よしのちょう皇居こうきょあと歌碑かひきざまれ、夫妻ふさいきずなを21世紀せいきにもつたえている。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき天皇てんのう皇統こうとうは、持明院じみょういんみつる大覚寺だいかくじみつる分裂ぶんれつしていた(両統りょうとう迭立)。その最中さいちゅうのべけい4ねん2がつ23にち1311ねん3月13にち)、珣子内親王ないしんのう持明院じみょういんみつるこう伏見ふしみ上皇じょうこうと、その正室せいしつである広義こうぎもんいん(もと女御にょうご西園寺さいおんじ寧子やすこ)とのあいだにおけるだい一子いっしとしてまれた(『花園天皇はなぞのてんのう宸記』『えんたいれき』)[4][注釈ちゅうしゃく 2]ひかりげん天皇てんのう光明こうみょう天皇てんのう同母どうぼあねたる[5]出生しゅっしょう京都きょうと常盤井殿ときわいどの[6]

はは広義こうぎもんいんは、関東かんとうさる朝廷ちょうてい鎌倉かまくら幕府ばくふ折衝せっしょうやく)である西園寺さいおんじこうむすめである[5]。このとき、おおやけ衡は「広義こうぎもんいん御産おさん」という記録きろくのこしているが、はやし葉子ようこせつによれば、これは、西園寺さいおんじからひさしぶりに国母こくぼ輩出はいしゅつされるかもしれないという期待きたいのもと、いずれるであろう皇子おうじ誕生たんじょうとき手引てびきしょとしてかれたものであるという[7]。このように、こう伏見ふしみおおやけ衡の両方りょうほうからの期待きたいった出産しゅっさんだった[7]

結果けっかとして広義こうぎもんいんからまれたのは皇子おうじではなく皇女おうじょだったが、こう伏見ふしみ上皇じょうこう正室せいしつとの最初さいしょである珣子のことを鍾愛しょうあいした[7]公卿くぎょうほらいんおおやけけん日記にっきえんたいれきなま同日どうじつじょうによれば、皇女おうじょであるにもかかわらず、御剣みつるぎによる儀式ぎしきおこなわれるなど、異例いれい待遇たいぐうあつかわれたという[7]まれたとし同年どうねんの6がつ15にち内親王ないしんのう宣下せんげけ、ぶん2ねん1318ねん)2がつ21にちには一品いっぴんじょされた(『女院にょいん次第しだい』)[8]。こうして、持明院じみょういん統内とうないでは、同母どうぼおとうと持明院じみょういんみつる嫡子ちゃくしであるりょうじん親王しんのう(のちのひかりげん天皇てんのう)に存在そんざいなされていた[7]

中宮なかみや冊立さくりつ[編集へんしゅう]

やがて、持明院じみょういんみつる対立たいりつする大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのうは、元弘もとひろらん1331ねん - 1333ねん)で鎌倉かまくら幕府ばくふ北条ほうじょうとく宗家そうけ勝利しょうりし、元弘もとひろ3ねん1333ねん6月5にちたてたけし新政しんせい開始かいしした[9]後醍醐ごだいごは、新政しんせい開始かいし翌々日よくよくじつである6がつ7にちから、持明院じみょういんみつる所領しょりょう安堵あんど花園はなぞの上皇じょうこう(珣子の叔父おじ)が崇敬すうけいする大徳寺だいとくじへの優遇ゆうぐう政策せいさくなどをつうじて、長年ながねん政敵せいてきである持明院じみょういんみつるとの和解わかい融合ゆうごうはかった(後醍醐天皇ごだいごてんのう#ぜんりつ国家こっか構想こうそう[10]。さらに、すぐれた内政ないせい能力のうりょく後醍醐天皇ごだいごてんのう現実げんじつてき政策せいさくおこない、新政しんせい機構きこう着実ちゃくじつととのえていった[11][注釈ちゅうしゃく 3]

しかし、新政しんせいはじまった矢先やさき同年どうねん10月12にちには、20ねん以上いじょうった最愛さいあい正妃せいひである皇太后こうたいごう西園寺さいおんじ禧子よしこ崩御ほうぎょして、後醍醐ごだいご精神せいしんてき痛恨つうこん打撃だげきらい、臨済ぜん高僧こうそうゆめまどうとせき心理しんり相談そうだんけた(『ゆめまど国師こくし年譜ねんぷ』)[12]

いた中宮なかみや正妃せいひ)のくらいには、同年どうねん12月7にち1334ねん1がつ13にち)、珣子内親王ないしんのうはいった(『女院にょいん小伝しょうでんとう[13][注釈ちゅうしゃく 4]中宮ちゅうぐう冊立さくりつ立后りっこうふしかい同日どうじつおこなわれた[14]後醍醐ごだいごかぞえ46さい、珣子はかぞえ23さいだった。『公卿くぎょう補任ほにん』によれば、珣子の中宮なかみや大夫たいふには従兄じゅうけいである西園寺さいおんじこうむねが、中宮なかみやけん大夫たいふには親族しんぞく今出川いまでがわみのるいんいた[13]。また、このとき、「みや女房にょうぼう」(中宮ちゅうぐうつかえる高級こうきゅう女性じょせい使用人しようにん)の要職ようしょくである中宮ちゅうぐうくしげ殿どのとしてはいったとられるものしん室町むろまちいんくしげという歌人かじんがおり、『風雅ふうが和歌集わかしゅう』に2しゅいれしゅうしている(あき・675[16]恋歌こいうた・1112[17])。

二人ふたり結婚けっこんは、21世紀せいき初頭しょとうまで、日本にっぽん研究けんきゅうじょうでは存在そんざい自体じたいがほとんど注目ちゅうもくされてこなかった[5]。しかし、2012ねん日本にっぽん研究けんきゅうしゃ三浦みうらりゅうあきらは、この婚姻こんいんたてたけし政権せいけん存続そんぞくたいして重大じゅうだい意味いみつ、大掛おおがかりな政略せいりゃく結婚けっこんだったのではないか、と指摘してきした[18]だいいち理由りゆうとして、この立后りっこうの3にち後醍醐ごだいご持明院じみょういんみつるひかりげん(珣子の同母どうぼおとうと)を「皇太子こうたいし」としるし(元弘もとひろらんあいだ天皇てんのうだったが、後醍醐ごだいごらん発生はっせい直前ちょくぜん状況じょうきょう皇位こうい官位かんいもどしたため)、崇敬すうけいのために「太上天皇だじょうてんのう」の尊号そんごうたてまつるとしたことがげられる[19]だい理由りゆうは、同月どうげつちゅうに、後醍醐ごだいごまえ正妃せいひ禧子よしことの愛娘まなむすめである懽子内親王ないしんのうひかりげん上皇じょうこうひそかにとついだことである(『女院にょいん小伝しょうでん』『つづけしょう』)[20]。このようにしてると、みっつの出来事できごとはまとまったひとつのおおきなながれとられ、政権せいけん安定あんていさせるために、持明院じみょういんみつるへの懐柔かいじゅう政策せいさく集中しゅうちゅうしてったのではないか、という[21]

三浦みうらによれば、この後醍醐天皇ごだいごてんのう婚姻こんいん政策せいさくは、ちちこう宇多天皇うだてんのうのものを見習みならったものではないか、という[22]こう宇多うた在位ざいいちゅう弘安ひろやす8ねん1285ねん)に、持明院じみょういんみつる後深草天皇ごふかくさてんのう皇女おうじょである姈子内親王ないしんのう(のちのゆうもんいん)を皇后こうごうとして例外れいがいてき立后りっこうおこなっているが、ばんせら明美あけみ三好みよし千春ちはるによって、これは持明院じみょういんみつるへの融和ゆうわ政策せいさくだった可能かのうせい指摘してきされている[22]。なお、『ぞうきょう』「さしぐし」によれば、こう宇多うた後年こうねん、姈子へのおもいがもるあまり、持明院じみょういんみつるかんからぬすして手元てもとき、最愛さいあいとして溺愛できあいしたという[23]。しかし、三好みよしによれば、こう宇多うたは姈子を皇后こうごうてた時点じてんではそのかおまったらず、純粋じゅんすい政治せいじてきなものだったという[21]

1かげつもとひろ4ねん(1334ねん)1がつ23にちには、後醍醐ごだいご阿野あのれんとの皇子おうじであるつねりょう親王しんのう立太子りったいしされた[24]三浦みうらによれば、側室そくしつであるかどとのつねりょうをそのまま皇太子こうたいしにすると、持明院じみょういんみつるからの反発はんぱつ予想よそうされるので、珣子と婚姻こんいんむすび、将来しょうらい持明院じみょういんみつる皇子おうじ天皇てんのうになれる可能かのうせいをちらつかせることで、持明院じみょういんみつる反感はんかん低下ていかねらったのではないか、という[24]。その一方いっぽうで、2017ねん亀田かめだ俊和としかず前節ぜんせつまでの三浦みうらせつみとめつつも、珣子との婚姻こんいんに、三浦みうらよりも積極せっきょくてき意味いみ見出みいだしている[25]。つまり、はは家格かかくがそれほどたかくはないつねりょうがわ中継なかつぎの皇太子こうたいしであって、将来しょうらい正妃せいひである珣子とのあいだまれるはずの皇子おうじほう正嫡せいちゃく天皇てんのうとする予定よていだったのではないか、という[25]

御産おさん祈祷きとう[編集へんしゅう]

二人ふたり結婚けっこん翌年よくねんにははやくも、珣子は懐妊かいにんした[26]たてたけし元年がんねん1334ねん10月16にちに、妊娠にんしん5かげつおこなわれる着帯ちゃくたいすすめられた[26][注釈ちゅうしゃく 5]。さて、天皇てんのうすめらぎたいするおもれをはか定量ていりょうてき尺度しゃくどひとつに、御産おさん祈祷きとう回数かいすうがある[28]以下いかに、この時期じきしょみかどおこなわせた御産おさん祈祷きとう回数かいすうしめ[29]

御産おさん祈祷きとう回数かいすう(「御産おさんいのり目録もくろく[注釈ちゅうしゃく 6][29]
れき 西暦せいれき 対象たいしょう 女院にょいんごう 配偶はいぐうしゃ 回数かいすう
ひろちょう2ねん 1262ねん 西園寺さいおんじ公子きみこ 東二条ひがしにじょういん こう深草ふかくさ 27
ひろちょう2ねん 1262ねん ほらいんただし 京極きょうごくいん 亀山かめやま 27
ぶんなが2ねん 1265ねん ほらいんただし 京極きょうごくいん 亀山かめやま 10
ぶんなが2ねん 1265ねん 西園寺さいおんじ公子きみこ 東二条ひがしにじょういん こう深草ふかくさ 26
ぶんなが4ねん 1267ねん ほらいんただし 京極きょうごくいん 亀山かめやま 15
ぶんなが7ねん 1270ねん 西園寺さいおんじ公子きみこ 東二条ひがしにじょういん こう深草ふかくさ 15
建治けんじ2ねん 1276ねん 近衛このえ しん陽明ようめいもんいん 亀山かめやま 25
弘安ひろやす2ねん 1279ねん 近衛このえ しん陽明ようめいもんいん 亀山かめやま 9
いぬいもと2ねん 1303ねん 西園寺さいおんじ瑛子えいこ あきらくんもんいん 亀山かめやま 36
のべけい3ねん 1311ねん 西園寺さいおんじ寧子やすこ 広義こうぎもんいん こう伏見ふしみ 51
正和しょうわ2ねん 1313ねん 西園寺さいおんじ寧子やすこ 広義こうぎもんいん こう伏見ふしみ 34
正和しょうわ3ねん 1314ねん 西園寺さいおんじ禧子よしこ こう京極きょうごくいん 後醍醐ごだいご 35
正和しょうわ4ねん 1315ねん 西園寺さいおんじ禧子よしこ こう京極きょうごくいん 後醍醐ごだいご 22
正和しょうわ4ねん 1315ねん 西園寺さいおんじ寧子やすこ 広義こうぎもんいん こう伏見ふしみ 16
ぶん3ねん 1319ねん 西園寺さいおんじ寧子やすこ 広義こうぎもんいん こう伏見ふしみ 10
げんとおる元年がんねん 1321ねん 西園寺さいおんじ寧子やすこ 広義こうぎもんいん こう伏見ふしみ 10
よしみれき元年がんねん 1326ねん 西園寺さいおんじ禧子よしこ こう京極きょうごくいん 後醍醐ごだいご 43
たてたけし2ねん 1335ねん 珣子内親王ないしんのう しん室町むろまちいん 後醍醐ごだいご 66
たてたけし4ねん 1337ねん 懽子内親王ないしんのう 宣政のぶまさもんいん ひかりげん 10

てわかるとおり、後醍醐天皇ごだいごてんのうが、珣子内親王ないしんのうのために、僧侶そうりょたちにおこなわせた御産おさん祈祷きとう回数かいすうは、歴代れきだい最高さいこうの66かいである[28]。いかに後醍醐ごだいごが珣子を大切たいせつおもい、丁重ていちょうあつかっていたかが証明しょうめいされる[28]

後醍醐ごだいごまえ正妃せいひである西園寺さいおんじ禧子よしこはおしどり夫婦ふうふとして著名ちょめいで、その夫婦ふうふ円満えんまんさは歴史れきし物語ものがたりぞうきょう』などの主要しゅよう題材だいざいとしてえがかれている[30]事実じじつうえひょう実証じっしょうてきても、1あたり平均へいきん33.3かい御産おさん祈祷きとう依頼いらいしており(珣子のぶん除外じょがいして算出さんしゅつ)、こう伏見ふしみ平均へいきん24.2かいこう深草ふかくさ平均へいきん23かい亀山かめやま平均へいきん20.3かいひかりげん平均へいきん10かいおおきくはなしている。さらに、ここにくわえて、後醍醐ごだいご真言宗しんごんしゅう阿闍梨あじゃり師僧しそう)の資格しかくっていたため、禧子よしこあんじて、僧侶そうりょまかせず天皇てんのうである自分じぶん自身じしん御産おさん祈祷きとうおこなうこともあった[30][注釈ちゅうしゃく 7]。そして、珣子にたいする御産おさん祈祷きとう回数かいすうは、その禧子よしこへの手厚てあつ祈祷きとう平均へいきん回数かいすうの、さらに2ばいである。

祈祷きとうは、着帯ちゃくたい翌年よくねんたてたけし2ねん1335ねん2がつ5にちから本格ほんかくてきなものとなり、出産しゅっさんの3がつ中旬ちゅうじゅんまでつづけられた[26]無論むろん、これらの盛大せいだい御産おさん祈祷きとうには、後醍醐ごだいご親族しんぞくとその側近そっきんだけではなく、持明院じみょういんみつる皇族こうぞく西園寺さいおんじだい貴族きぞく沙汰さたじん出資しゅっししゃ)となって支援しえんした[31]。たとえば、珣子の同母どうぼおとうとであるひかりげん上皇じょうこうと、後醍醐ごだいご愛娘まなむすめあたらしくひかりげん上皇じょうこうとして持明院じみょういんみつるがわうつった懽子内親王ないしんのう夫妻ふさい出資しゅっしおこなっている[31]後醍醐ごだいごだいよん皇子おうじであるみこときよし法親王ほうしんのう(のちの宗良親王むねながしんのう)は、自身じしん天台座主てんだいざしゅ天台宗てんだいしゅう延暦寺えんりゃくじちょう)であり[32]出資しゅっししゃ祈祷きとう実行じっこうしゃ両方りょうほうになっている[31]わったところでは、足利尊氏あしかがたかうじ新田にった義貞よしさだなど、後醍醐ごだいご抜擢ばってきされた武士ぶし沙汰さたじんとなった[31]

珣子の母方ははかたである西園寺さいおんじからの後援こうえん手厚てあつかったことは、「中宮ちゅうぐう御産おさんいのり日記にっき」(宮内庁くないちょうしょりょう皇室こうしつ制度せいど史料しりょうせい 誕生たんじょう pp. 151–155)からわかる[33]。これによれば、この御産おさん祈祷きとう着座ちゃくざ公卿くぎょう三条さんじょうみのるただし西園寺さいおんじこうむね徳大寺とくだいじこうきよしほらいんじつ西園寺さいおんじこうじゅう菊亭きくていみのるいん今出川いまでがわみのるいん)の6にん[34]。そして、そう奉行ぶぎょうそう奉行ぶぎょう)は今出川いまでがわけんで、御産おさん奉行ぶぎょう葉室はむろちょうあらわである[34]ほらいん今出川いまでがわは、西園寺さいおんじ分家ぶんけである。また、このうちおおやけむねじついん中宮ちゅうぐうちょう幹部かんぶでもある[35]

さらに、「中宮ちゅうぐう御産おさんいのり日記にっき」によれば、出産しゅっさん常盤井殿ときわいどのおこなわれたことも注目ちゅうもくされる[6]。これは、西園寺さいおんじみのる別邸べっていとしててられたのち大宮おおみやいんこう嵯峨天皇さがてんのう中宮なかみや西園寺さいおんじ姞子)・亀山かめやま上皇じょうこう後醍醐ごだいご祖父そふ)・あきらくんもんいん亀山かめやま側室そくしつ西園寺さいおんじ瑛子えいこ)・恒明つねあき親王しんのう後醍醐ごだいご叔父おじ)とがれてきた[6]鎌倉かまくら時代じだいさい末期まっきには、両統りょうとうによっていん御所ごしょとして使用しようされ、元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)には、持明院じみょういんみつる伏見ふしみ上皇じょうこうこう伏見ふしみ上皇じょうこう仙洞せんとう御所ごしょ上皇じょうこう邸宅ていたく)として使用しようしている[6]。さらに、珣子自身じしんまれたのもこのである[6]。つまり、大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつる西園寺さいおんじ結節けっせつてんとなる邸宅ていたくだったのである[6]

中宮ちゅうぐう御産おさんいのり日記にっき」からは、さらにもういちてん後醍醐ごだいご持明院じみょういんみつるとの融和ゆうわ路線ろせん維持いじするのに腐心ふしんした形跡けいせきられる[36]。それは御産おさん奉行ぶぎょう葉室はむろちょうあらわ起用きようしたことである[36]。この人物じんぶつは、ひかりげん上皇じょうこう同年どうねん6がつ24にち院宣いんぜん(懽子の御産おさん祈祷きとうのための命令めいれい)でたてまつものという役目やくめつとめており、いいかえれば、ひかりげん側近そっきんであったことになる[36]三浦みうらによれば、このような持明院じみょういんみつるりの人物じんぶつたいし、珣子への御産おさん祈祷きとう監督かんとくという重大じゅうだい役目やくめ依頼いらいしたのは、後醍醐ごだいごから持明院じみょういんみつるへの配慮はいりょかんがえられるのではないか、という[36]

御産おさん歴史れきしてき影響えいきょう[編集へんしゅう]

たてたけし2ねん1335ねん)3がつ中旬ちゅうじゅん、珣子の出産しゅっさん無事ぶじわった[37]正確せいかく出産しゅっさんについて、「御産おさんいのり目録もくろく」および『門葉もんよう』には3月14にち西暦せいれき4がつ8にち)とあり、一方いっぽうで『ゆうしょう』には3月18にち西暦せいれき4がつ12にち)とある[37]。『だい日本にっぽん史料しりょう編纂へんさんしゃは18にちせつ支持しじしているが[37]三浦みうらりゅうあきらは14にちせつ支持しじしている[38]

ゆうしょう』によれば、18にち出産しゅっさんからかぞえ7にちの24にちに、音楽家おんがくか綾小路あやのこうじあつしゆうによって「七夜しちや拍子ひょうし」のおこなわれ、あつしゆうわざ見事みごとさに感銘かんめいけた後醍醐ごだいごは、よく25にち賞賛しょうさん綸旨りんじ私的してき文書ぶんしょ)をおくったという[37]同書どうしょによれば、こののちも、中御門なかみかど綾小路あやのこうじらによってじゅうにち(5がつ12にち)とひゃくにち(9がつ9にち)のおいの拍子ひょうしおこなわれたという[37]

しかし、珣子と後醍醐ごだいごあいだまれたのは、皇女おうじょだった[37][39]。おさんの3かげつ6月22にち、珣子の従兄じゅうけい西園寺さいおんじこうむね後醍醐ごだいごへの暗殺あんさつ計画けいかくしたとしてらえられた[40]おおやけむねは、かつて鎌倉かまくら幕府ばくふとの交渉こうしょうやくである関東かんとうさるとして強大きょうだい権勢けんせいほこっていたが、幕府ばくふいま、その権勢けんせい衰退すいたいしていくばかりだった[41]西園寺さいおんじには家督かとくあらそいなどもあり、暗殺あんさつ計画けいかく原因げんいんかならずしもはっきりしないものの[39]権勢けんせい衰退すいたいによる不満ふまん原因げんいんだった可能かのうせいはしばしば指摘してきされる[39][41]。だが、もし従妹じゅうまいである珣子に皇子おうじ誕生たんじょうしていたとすれば、いずれは西園寺さいおんじ天皇てんのう即位そくいするのだから、おおやけむねがはたして暗殺あんさつ計画けいかくなどくわだてたかどうか、疑問ぎもんである[39][42]

おおやけむね後醍醐ごだいご暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんとほぼどう時期じきに、関東かんとうでは北条ほうじょうとく宗家そうけ遺児いじである北条ほうじょうぎょうちゅう先代せんだいらんこした[43]足利尊氏あしかがたかうじおとうと足利あしかが直義ただよしときぎょう敗北はいぼくし、これをたすけるためにみこと東国とうごくはしった[43]。ここから紆余曲折うよきょくせつあって後醍醐ごだいごたかしたたかたてたけしらん発生はっせいし、そしてたかし敗北はいぼくしたたてたけし政権せいけん崩壊ほうかいした[43]おおやけむね事件じけんは、たてたけし政権せいけん崩壊ほうかい幕開まくあけだったのである[43]

呉座ござ勇一ゆういちによれば、20世紀せいきまで存在そんざいした、たてたけし政権せいけん制度せいど政策せいさくには欠陥けっかんがあったとするいにしえせつは、たてたけし政権せいけんたたかいに敗北はいぼくして崩壊ほうかいしたことから、「すぐに崩壊ほうかいしたからには、まれ悪政あくせいだったにちがいない」と、結果けっかから逆算ぎゃくさんしたものにぎないという[44]実際じっさいには、たてたけし政権せいけん政策せいさくそのものは中世ちゅうせい常識じょうしき沿ったものであり、その崩壊ほうかい必然ひつぜんではなかったという[45]

三浦みうらによれば、このようにしてると、珣子のおさん結果けっかは、はからずもたてたけし政権せいけん崩壊ほうかいすくなくない影響えいきょうおよぼしたのではないか、という[39]

その[編集へんしゅう]

たてたけし政権せいけん崩壊ほうかいのべもと元年がんねん/たてたけし3ねん12月21にち1337ねん1がつ23にち)に発生はっせいした南北なんぼくあさ内乱ないらんでは、珣子が北朝ほくちょう首都しゅとである京都きょうととどまったのか、後醍醐天皇ごだいごてんのうしたがって南朝なんちょう臨時りんじ首都しゅとである吉野よしの行宮あんぐうったのかはっきりしない。ただし、北朝ほくちょうにおいても、やく1かげつあいだ正式せいしき中宮ちゅうぐうとしてあつかわれていたので(後述こうじゅつ)、きょうとどまっていた可能かのうせいはある。一方いっぽう二人ふたりまれた皇女おうじょ幸子こうじ内親王ないしんのうとするせつがあり(後述こうじゅつ)、この場合ばあい北朝ほくちょう名義めいぎじょう在籍ざいせきはしていたものの、赤子あかごれておっといていったという可能かのうせいもある。

珣子はのべもと2ねん/たてたけし4ねん1がつ16にち(1337ねん2がつ17にち)、北朝ほくちょうから「しん室町むろまちいん」の女院にょいんごう宣下せんげされた(『すめらぎだいれき』『女院にょいん次第しだい』)[46]。このときまでは北朝ほくちょう正式せいしき中宮ちゅうぐうとしてあつかわれていたが、女院にょいんとなったことで、中宮なかみや大夫たいふ堀川ほりかわおや中宮なかみやけん大夫たいふ今出川いまでがわみのるいん中宮なかみやあきら葉室はむろ長光ながみつらが辞任じにんした(『公卿くぎょう補任ほにん』)[46]

同年どうねん5月12にち西暦せいれき6月11にち)、崩御ほうぎょ(『女院にょいん次第しだい』)[8][注釈ちゅうしゃく 8]享年きょうねんかぞえ27さい皇女おうじょはまだかぞえ3さいだった。2ねんのべもと4ねん/こよみおう2ねん8がつ16にち1339ねん9月19にち)には、おっと後醍醐ごだいごもまた崩御ほうぎょした[47]享年きょうねんかぞえ52さい

珣子と後醍醐ごだいごあいだまれた皇女おうじょがどうなったか、正確せいかくにははっきりとしない[48]。しかし、江戸えど時代じだい津久井つくいしょうじゅうは、『南朝なんちょうすめらぎたね紹運ろく』(天明てんめい5ねん1785ねん))で、論拠ろんきょ不明ふめいだが、この皇女おうじょ南朝なんちょう幸子こうじ内親王ないしんのうという人物じんぶつのことであるとしている[49]。21世紀せいき前半ぜんはん歴史れきし研究けんきゅうしゃ三浦みうらりゅうあきらも、理由りゆうしめしていないが、やはり幸子こうじせつ支持しじしている[5]

幸子こうじ内親王ないしんのう正平しょうへい20ねん/貞治さだはる4ねん1365ねん)の歌会うたかいに「新参しんざん」(いままゐり)のえいしているため、そのとしまで生存せいぞんしていたのは確実かくじつである[50]かりにもし珣子のむすめせつただしいとすれば、かぞえ31さい正平しょうへい20ねん/貞治さだはる4ねん(1365ねん)に歌人かじんとしてデビューしたのち幸子こうじ南朝なんちょう優秀ゆうしゅう歌詠うたよみとして成長せいちょうした。『しん和歌集わかしゅう』には6しゅいれしゅうし、うたのこしている[51]とくに、まきだいはち羇旅きりょでは、巻軸かんじくまき末尾まつびめくくる重大じゅうだいうた)である後醍醐天皇ごだいごてんのう武将ぶしょう名和なわ長年ながとし追憶ついおくする有名ゆうめいうたひとまえ幸子こうじうたかれ(『しん和歌集わかしゅう羇旅きりょ・571)[52]ちちみかどうたみちび重要じゅうよう役割やくわりになっている。

後醍醐ごだいごから珣子へのうた[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう和歌わかまれた「ふじ鳥居とりい」(奈良ならけん奈良なら春日大社かすがたいしゃ

政略せいりゃく結婚けっこんではあったものの、後醍醐天皇ごだいごてんのうは珣子内親王ないしんのうふか愛情あいじょうそそいだ。たとえば、立后りっこう屏風びょうぶ中宮ちゅうぐうさだまったとき有力ゆうりょく歌人かじんうた色紙いろがみいて屏風びょうぶ行事ぎょうじ)では、じょうだい歌人かじんだった後醍醐ごだいご自身じしん和歌わかんでいるが、そのうち1しゅ勅撰ちょくせんしゅうしん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』およびじゅん勅撰ちょくせんしゅうしん和歌集わかしゅう』に、もう1しゅ勅撰ちょくせんしゅうしん千載せんざい和歌集わかしゅう』および『しん和歌集わかしゅう』にそれぞれ重複じゅうふくいれしゅうするほどの秀歌しゅうかになっている[48][53]

    元弘もとひろさんねん立后りっこう屏風びょうぶ五節ごせちごせちをよませたもうける
そでかへす てん乙女おとめおもいで吉野よしのみやの むかしかたりがたり[54]大意たいいそでひるがえして五節ごせちまい天女てんにょひとしいあなたも、どうかおもしてしい。吉野よしのみや昔語むかしがたりを。ときみかどである天武天皇てんむてんのうが、吉野よしのりたあなたの優雅ゆうがさに呆然ぼうぜんとして、「てん乙女おとめてんおんならしくうことよ からたまたもといて てんおんならしくうことよ」とたからかにうたった、あののことを[注釈ちゅうしゃく 9]
後醍醐ごだいごいん御製ぎょせい、『しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅうふゆ・622(『しん和歌集わかしゅうふゆ・501にほぼ同一どういつ[56][注釈ちゅうしゃく 10]
    元弘もとひろさんねん立后りっこう屏風びょうぶに、春日かすがさい
だてたちよらば つかさづかさも こころせよ ふじ鳥居とりいはな下陰したかげ[48][57]大意たいい来年らいねんがつ春日しゅんじつさい勅使ちょくしとして春日大社かすがたいしゃものは、しんめるように。春日大社かすがたいしゃの「ふじ鳥居とりい」は藤原ふじわらもののみがくぐることをゆるされるというが、そのかたわらでうめはな木陰こかげで。そして、その春日しゅんじつさいのように荘厳そうごんなこの婚儀こんぎるならば、すべてのぐんきょうひゃくりょう刮目かつもくせよ。うめはなではなく、その木陰こかげを。なぜなら、藤原ふじわら西園寺さいおんじき、うめはなですらただのやくになってしまうほどにうるわしいひとが、いまここにきさきとして門出かどでをするのだから[注釈ちゅうしゃく 11]
後醍醐天皇ごだいごてんのう御製ぎょせい、『しん和歌集わかしゅう神祇じんぎ・594(『しん千載せんざい和歌集わかしゅう神祇じんぎ・982[59]

ひとうたは、『しん和歌集わかしゅう』のはんである「そでかへす 天津てんしん乙女おとめおもずや 吉野よしのみや昔語むかしがたりを」がきざまれた歌碑かひが、2012ねん時点じてんで、奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野よしのちょう皇居こうきょあとてられている[60]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「珣」について、白川しらかわしずどおり』および小学館しょうがくかん新選しんせん漢和かんわ辞典じてん』によれば字音じおんは「シュン」[1][2]、『きょうしゅう』(ひろしもと3ねん1245ねん以前いぜん)によれば字訓じくんは「タマノルヰ」[1]一方いっぽうなにったかあきらかではないが、『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』(2015年版ねんばん)は、音読おんよみを「じゅんし」としている[3]
  2. ^ 三浦みうら論文ろんぶんは珣子 のなまを2がつ22にちとしている[5]理由りゆう不明ふめい
  3. ^ 後醍醐ごだいご対立たいりつした北朝ほくちょうかれた軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では、後醍醐天皇ごだいごてんのうたてたけし新政しんせい悪政あくせいおこなったので不満ふまん噴出ふんしゅつした、とえがかれる。しかし、2010年代ねんだい時点じてんでの研究けんきゅうでは、悪政あくせいせつ否定ひていてき見解けんかいがきわめてつよい(後醍醐天皇ごだいごてんのう#評価ひょうか研究けんきゅう)。
  4. ^ 武家ぶけ年代ねんだいした裏書うらがきは、珣子内親王ないしんのう立后りっこうおこなわれたこのきょうで「そら騒動そうどう」(流言飛語りゅうげんひごによる騒動そうどう)がきたとしており、『つづけしょう』もその記述きじゅつ[13]。しかし、これが珣子との婚姻こんいん関係かんけいがあるのかは不明ふめい[14]。『だい日本にっぽん史料しりょう編纂へんさんしゃ推測すいそくによれば、婚姻こんいんとは直接ちょくせつ関係かんけいなく、足利尊氏あしかがたかうじ護良親王もりよししんのう後醍醐天皇ごだいごてんのうだいさん皇子おうじ)の対立たいりつによるものではないか、という[14]一方いっぽう熱田あつたこうは、立后りっこうなんらかの関係かんけいがあるのではないか、としている(安田やすだ元久もとひさへん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい辞典じてん』(1985ねん[15]三浦みうらりゅうあきらは、いずれとも判断はんだんかない、している[14]
  5. ^ 三浦みうら論文ろんぶん原文げんぶんは「ななヶ月かげつ着帯ちゃくたい」としているが、普通ふつう着帯ちゃくたい妊娠にんしん5かげつおこなわれ[27]、珣子の出産しゅっさん翌年よくねん3がつであるため、誤植ごしょくかんがえて訂正ていせい
  6. ^ ぐんしょ解題かいだい』によれば、「御産おさんいのり目録もくろく」は、鎌倉かまくら時代ときよに、だい119だい天台座主てんだいざしゅである竹内たけうち僧正そうじょう慈厳かかわりをつ、延暦寺えんりゃくじそうだれかによってしるされたものではないか、という[26]異本いほんいくつかあるが、三浦みうら論文ろんぶん使用しようされたのは、『ぞくぐんしょ類従るいじゅう』・『門葉もんよう』に収録しゅうろくされたはん[26]
  7. ^ 現存げんそんするはんの『太平たいへい』では、禧子よしこへの御産おさん祈祷きとう幕府ばくふ呪詛じゅそ偽装ぎそうだったとえがかれた。しかし、2010年代ねんだい後半こうはん時点じてんで、これは虚構きょこうであることがほぼ確定かくていしている。詳細しょうさい西園寺さいおんじ禧子よしこ#『太平たいへい
  8. ^ きさきみや略伝りゃくでん』は崩御ほうぎょを5月13にちとする[8]
  9. ^ つて天武天皇てんむてんのう「をとめごが をとめさびすも からたまを たもとにまきて をとめさびすも」[55]。珣子を本物ほんものてん乙女おとめ天女てんにょ)にたとえるとともに、てん乙女おとめした「五節ごせち舞姫まいひめ」にえらばれた女性じょせいは、平安へいあん時代じだいには天皇てんのう最愛さいあいつまになることもあったので(清和せいわ天皇てんのう女御にょうご藤原ふじわら高子たかこなど)、両方りょうほうふくんでいる。
  10. ^ しん和歌集わかしゅう』では、だい2が「おもえ(おもひいづ)や」(おもすこともあるのだろうか)となっている[56]
  11. ^ 春日しゅんじつさいとは、大和やまとこく春日大社かすがたいしゃ旧暦きゅうれき2がつおよび11月の上申じょうしん(そのつきはじめのさる)におこなわれる祭儀さいぎ[58]京都きょうとからときおんなやの朝廷ちょうていまつり使派遣はけんされたほか藤原ふじわら東宮とうぐう皇太子こうたいし)・中宮ちゅうぐう使つかいをして、ぬさ奉献ほうけんした[58]春日しゅんじつさい当日とうじつ藤原ふじわらものは、春日大社かすがたいしゃの「ふじ鳥居とりい」をくぐって本殿ほんでんすすんだ[58]。なお、この後醍醐ごだいごうたの「はな」は、春日かすがさいぶしてきに、ふじはなではなく、おそらくうめはなかんがえられる[58]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 白川しらかわしずどおり』「珣」
  2. ^ 小学館しょうがくかん新選しんせん漢和かんわ辞典じてんだいはちはん(2011ねん)のWebばん(2018ねん)「珣」
  3. ^ "しん室町むろまちいん". デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus. コトバンクより2020ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ 史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ584ぺーじ.
  5. ^ a b c d e 三浦みうら 2012, p. 519.
  6. ^ a b c d e f 三浦みうら 2012, pp. 529–530.
  7. ^ a b c d e 三浦みうら 2012, pp. 519–520.
  8. ^ a b c だい日本にっぽん史料しりょう』6へん4さつ227–228ぺーじ.
  9. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん1さつ80–86ぺーじ.
  10. ^ 保立ほたて 2018, pp. 280–295.
  11. ^ 亀田かめだ 2016, pp. 59–61.
  12. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん1さつ243ぺーじ.
  13. ^ a b c だい日本にっぽん史料しりょう』6へん1さつ321–323ぺーじ.
  14. ^ a b c d 三浦みうら 2012, p. 521.
  15. ^ 三浦みうら 2012, pp. 521, 532.
  16. ^ jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000024773
  17. ^ jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000025210
  18. ^ 三浦みうら 2012, pp. 521–523.
  19. ^ 三浦みうら 2012, pp. 521–522.
  20. ^ 三浦みうら 2012, p. 522.
  21. ^ a b 三浦みうら 2012, p. 533.
  22. ^ a b 三浦みうら 2012, pp. 522–523.
  23. ^ 井上いのうえ 1983, pp. 402–406.
  24. ^ a b 三浦みうら 2012, p. 523.
  25. ^ a b 亀田かめだ 2017, pp. 70–74.
  26. ^ a b c d e 三浦みうら 2012, p. 524.
  27. ^ "着帯ちゃくたい". 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん. コトバンクより2020ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  28. ^ a b c 三浦みうら 2012, pp. 524–526.
  29. ^ a b 三浦みうら 2012, p. 525.
  30. ^ a b 兵藤ひょうどう 2018, pp. 83–88.
  31. ^ a b c d 三浦みうら 2012, pp. 524–527.
  32. ^ 保立ほたて 2018, p. 288.
  33. ^ 三浦みうら 2012, pp. 526–530.
  34. ^ a b 三浦みうら 2012, pp. 526–529.
  35. ^ 三浦みうら 2012, p. 529.
  36. ^ a b c d 三浦みうら 2012, p. 530.
  37. ^ a b c d e f だい日本にっぽん史料しりょう』6へん2さつ348–349ぺーじ.
  38. ^ 三浦みうら 2012, p. 528.
  39. ^ a b c d e 三浦みうら 2012, p. 531.
  40. ^ 亀田かめだ 2014, pp. 49–52.
  41. ^ a b 亀田かめだ 2014, pp. 52–54.
  42. ^ 亀田かめだ 2014, pp. 54–55.
  43. ^ a b c d 亀田かめだ 2014, p. 57.
  44. ^ 呉座ござ 2016, pp. 7–10.
  45. ^ 呉座ござ 2016, p. 13.
  46. ^ a b だい日本にっぽん史料しりょう』6へん4さつ52ぺーじ.
  47. ^ 兵藤ひょうどう 2018, p. 202.
  48. ^ a b c ところ 2000, pp. 116–117.
  49. ^ 津久井つくい 1785, 24コマ.
  50. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, pp. 55–56, 348.
  51. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, p. 348.
  52. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, p. 112.
  53. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, pp. 96, 285.
  54. ^ jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000029334
  55. ^ 田辺たなべ史郎しろう五節ごせちまい」『改訂かいてい新版しんぱん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2007ねん 
  56. ^ a b 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, p. 96.
  57. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, p. 117.
  58. ^ a b c d 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, p. 285.
  59. ^ jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000027307
  60. ^ isozaki (2012ねん9がつ12にち). “吉野よしの後醍醐天皇ごだいごてんのう”. ディープな吉野よしのあるかた. 吉野よしのスタイル. 2020ねん6がつ18にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

主要しゅよう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • 井上いのうえ宗雄むねおぞうきょうちゅう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1983ねんISBN 978-4061584495 
  • 亀田かめだ俊和としかず ちょ「【たてたけし政権せいけん評価ひょうか】2 「たてたけし新政しんせい」は、反動はんどうてきなのか、進歩しんぽてきなのか?」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ございさむいち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、43–63ぺーじISBN 978-4800310071 
  • 呉座ござ勇一ゆういち ちょ「はじめに」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ございさむいち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、3–14ぺーじISBN 978-4800310071 
  • ところ京子きょうこときおう歴史れきし文学ぶんがく国書刊行会こくしょかんこうかい、2000ねんISBN 978-4336042071 
  • 兵藤ひょうどう裕己ひろみ後醍醐天皇ごだいごてんのう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ 1715〉、2018ねんISBN 978-4004317159 
  • 保立ほたて道久みちひさ ちょ大徳寺だいとくじ創建そうけんたてたけし親政しんせい」、小島こじまあつし へん中世ちゅうせい日本にっぽん王権おうけんぜんそうまなぶ』汲古書院しょいんひがしアジア海域かいいき叢書そうしょ 15〉、2018ねん、263–300ぺーじ 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • はやし, 葉子ようこ西園寺さいおんじこう衡外まご珣子内親王ないしんのう生誕せいたん持明院じみょういん皇統こうとう―『広義こうぎもんいん御産おさん』を中心ちゅうしん素材そざいとして―」『政治せいじ経済けいざい史学しがくだい336ごう日本にっぽん政治せいじ経済けいざい史学しがく研究所けんきゅうじょ、1994ねん、52–64ぺーじ