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一条いちじょう富子とみこ

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一条いちじょう 富子とみこ
だい118だい天皇てんのうはは
皇太后こうたいごう 明和めいわ8ねん5がつ9にち1771ねん
きょうれいもんいん
院号いんごう宣下せんげ 明和めいわ8ねん7がつ9にち1771ねん

誕生たんじょう ひろし3ねん2がつ4にち1743ねん2がつ27にち
崩御ほうぎょ 寛政かんせい7ねん11月30にち1796ねん1がつ9にち
氏族しぞく 藤原ふじわら一条いちじょう
父親ちちおや 一条いちじょうけんこう
母親ははおや いえ女房にょうぼう
配偶はいぐうしゃ 桃園ももぞの天皇てんのう
入内じゅだい たかられき5ねん11月(1755ねん
子女しじょ こう桃園ももぞの天皇てんのう
伏見ふしみみや貞行さだゆき親王しんのう
女御にょうご宣下せんげ たかられき5ねん11月(1755ねん
じゅんきさき たかられき9ねん3がつ(1759ねん
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一条いちじょう 富子とみこ(いちじょう とみこ、ひろし3ねん2がつ4にち1743ねん2がつ27にち) - 寛政かんせい7ねん11月30にち1796ねん1がつ9にち))は、桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうごこう桃園ももぞの天皇てんのうおよび伏見ふしみみや貞行さだゆき親王しんのうははじゅんさんみや皇太后こうたいごう女院にょいん院号いんごうきょうれいもんいん(きょうらい もんいん)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ちち関白かんぱく一条いちじょうけんこうははさかえしゅういんいえ女房にょうぼう)。じゅんはは飛鳥井あすかいまさゆたかけん大納言だいなごん)のむすめ一条いちじょう本姓ほんせい藤原ふじわらなので藤原ふじわら富子とみこ(ふじわら の とみこ)としるされることもある。

たかられき5ねん10がつ(1755ねん)にしたがえさんじょされ、同年どうねん11がつ入内じゅだいして桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうごとなる。たかられき9ねん3がつ(1759ねん)にはじゅんさんみや宣下せんげける。このとしの12月7にち桃園ももぞの天皇てんのう崩御ほうぎょしたが、桃園ももぞの天皇てんのうとのあいだもうけただいいち皇子おうじえいじん親王しんのうはまだおさなかったので、皇位こうい桃園ももぞの天皇てんのうあねこうさくらまち天皇てんのう)に一時いちじてきゆずることとなった。明和めいわ7ねん(1770ねん)にえいじん親王しんのう成長せいちょうするとのちさくらまち天皇てんのうから譲位じょういけて即位そくいこう桃園ももぞの天皇てんのうとなった。国母こくぼとなった富子とみこ明和めいわ8ねん5がつ9にち(1771ねん)に皇太后こうたいごう冊立さくりつされた。同年どうねん院号いんごう宣下せんげされ、きょうれいもんいん院号いんごうをうける。ただちに落飾らくしょくして「しん女院にょいん」、のち「女院にょいん」としょうした。

その安永やすなが8ねん10がつ29にち(1779ねん12月6にち)にこう桃園ももぞの天皇てんのう崩御ほうぎょつづいて天明てんめい3ねん10がつ12にち(1783ねん11月6にち)にその近衛このえ維子もりもんいん)が崩御ほうぎょすると、二人ふたり一人娘ひとりむすめであるまご欣子きんこ内親王ないしんのう手元てもと養育よういくした。欣子きんこ内親王ないしんのうひかりかく天皇てんのうもと入内じゅだい中宮ちゅうぐう冊立さくりつされるのを見届みとどけたのち寛政かんせい7ねん(1795ねん)に崩御ほうぎょ享年きょうねん53。

女院にょいん御所ごしょ[編集へんしゅう]

京都きょうと御所ごしょ南西なんせいにあったきょうれいもんいん女院にょいん御所ごしょは、のちに賀陽かよう宮家みやけ邸宅ていたくとして利用りようされたが、現在げんざい京都きょうと御苑ぎょえんない賀陽かようみや跡地あとちから相国寺しょうこくじ移築いちくされている。