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いしひめ皇女おうじょ

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いしひめ皇女おうじょ
だい29だい天皇てんのうきさき
皇后こうごう 欽明天皇てんのう元年がんねん1がつ15にち540ねん2がつ8にち
皇太后こうたいごう さとしたち天皇てんのう元年がんねん4がつ3にち572ねん4がつ30にち

誕生たんじょう 不明ふめい
崩御ほうぎょ 不明ふめい
りょうしょ いそ長原ながはらりょう大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち大字だいじ太子たいし
いみな いしひめ/いしうりいのち
父親ちちおや せん天皇てんのう
母親ははおや たちばななか皇女おうじょ仁賢天皇にんけんてんのう皇女おうじょ雄略天皇ゆうりゃくてんのう外孫そとまご
配偶はいぐうしゃ 欽明天皇てんのう
子女しじょ 箭田やたたま勝大かつおおけい皇子おうじ
さとしたち天皇てんのう
笠縫かさぬい皇女おうじょ
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いしひめ 皇女おうじょ(いしひめ の ひめみこ/いしひめ の おうじょ[1]なま没年ぼつねんしょう)は、日本にっぽんだい29だい天皇てんのう欽明天皇てんのう皇后こうごう。『古事記こじき』にはいしうりいのち(いしひめのみこと)とある。

ちちせん天皇てんのうははたちばななか皇女おうじょ仁賢天皇にんけんてんのう皇女おうじょ雄略天皇ゆうりゃくてんのう外孫そとまご)。さとしたち天皇てんのうはは

経歴けいれき

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同母どうぼいもうと小石こいしひめ皇女おうじょのみ)・くらややあやひめ皇女おうじょ日影ひかげ皇女おうじょ以上いじょうきののみ)とともに欽明天皇てんのうとなった。欽明天皇てんのう元年がんねん1がつ15にち(540ねん2がつ8にち)に欽明天皇てんのう皇后こうごうてられた。さとしたち天皇てんのう元年がんねん4がつ3にち(572ねん4がつ30にち)、息子むすこさとしたち天皇てんのう即位そくい同日どうじつ皇太后こうたいごうてられた。

系譜けいふ

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りょう

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りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち大字だいじ太子たいしにあるいそ長原ながはらりょう(しながのはらのみささぎ)に治定じじょうされている。さとしたち天皇てんのうとのごうそうりょうで、宮内庁くないちょうじょう形式けいしき前方後円ぜんぽうこうえん遺跡いせきめいは「太子たいし西山にしやま古墳こふん」で、墳丘ふんきゅうちょう113メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。

いしひめ皇女おうじょ崩御ほうぎょねん不明ふめいであるが、『日本書紀にほんしょき』ではたかしたかし天皇てんのう4ねん591ねん?)4がついしひめ皇女おうじょはかさとしたち天皇てんのうおいそうされたとし、そのりょうごうを「いそちょうりょう」とする[2]。『延喜えんぎしきしょりょうりょうではいしひめ皇女おうじょとおはかの「いそ長原ながはらはか」として記載きさいされ、河内かわうちこく石川いしかわぐんさとしたち天皇陵てんのうりょうない所在しょざいで、もり3けむり毎年まいとしあてるとする[2]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 
    • 川副かわそえたけしたねいしひめ皇女おうじょ石田いしだ茂輔もすけいそ長原ながはらりょう」(いしひめ皇女おうじょ項目こうもくない石田いしだ茂輔もすけ河内かわうちいそちょう中尾なかおりょう」(さとしたち天皇てんのう項目こうもくない

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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