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光明皇后こうみょうこうごう

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光明皇后こうみょうこうごう
光明皇后こうみょうこうごう
1897ねん明治めいじ30ねん下村しもむら観山かんざん
さんまるなお蔵館くらだて くら
だい45だい天皇てんのうきさき
皇后こうごう 天平てんぴょう元年がんねん(729ねん8がつ10日とおか
皇太后こうたいごう 天平てんぴょうかちたから元年がんねん749ねん7がつ2にち

誕生たんじょう 大宝たいほう元年がんねん701ねん
崩御ほうぎょ 天平てんぴょうたから4ねん760ねん6月7にち
りょうしょ 佐保山さほやま東陵とうりょう
いみな 安宿やすやどひめ(あすかべひめ)
尊号そんごう 天平てんぴょうおう真仁まさみせい皇太后こうたいごう
別称べっしょう ひかり明子あきこふじさんむすめ
戒名かいみょう 沙弥さや万福ばんぷく
氏族しぞく 藤原ふじわら
父親ちちおや 藤原不比等ふじわらのふひと
母親ははおや けんけんやしなえ橘三千代たちばなのみちよ
配偶はいぐうしゃ 聖武天皇しょうむてんのう
入内じゅだい れいかめ2ねん716ねん
子女しじょ こうけん天皇てんのう
もとおう
夫人ふじん皇后こうごう皇太后こうたいごう
宮廷きゅうてい首脳しゅのう人物じんぶつ 藤原仲麻呂ふじわらのなかまろむらさきほろれい
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光明皇后こうみょうこうごう(こうみょうこうごう、701ねん大宝たいほう元年がんねん〉- 760ねん7がつ23にち天平てんぴょうたから4ねん6月7にち〉)は、聖武天皇しょうむてんのう皇后こうごうこうけん天皇てんのう生母せいぼ[1]藤原不比等ふじわらのふひとけんけんやしなえ橘三千代たちばなのみちよで、ひじりたけしはは藤原ふじわら宮子みやこ異母いぼあね一般いっぱんられる光明皇后こうみょうこうごうという名前なまえは、在世ざいせいちゅう名乗なのったひかり明子あきこ(こうみょうし)[注釈ちゅうしゃく 1]ちなんで後世こうせいけられたもので[5]、『拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』が初出しょしゅつである。本来ほんらい尊号そんごう天平てんぴょうおう真仁まさみせい皇太后こうたいごう(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)[6][注釈ちゅうしゃく 2]いみな安宿やすやどひめ(あすかべひめ)[8]。そのほかにふじさんむすめ(とうさんじょう)[注釈ちゅうしゃく 3]などの署名しょめい現存げんそんするほか[1]法名ほうみょう沙弥さや万福ばんぷくつたわる[10]ほん記事きじでの呼称こしょう光明こうみょう統一とういつする。

光明こうみょうとう権力けんりょく基盤きばんかためつつあった時期じきまれ、藤原ふじわら中心ちゅうしんとした権力けんりょく闘争とうそう皇位こうい継承けいしょうなど、周囲しゅうい政争せいそうえない生涯しょうがいごした。とくに光明こうみょう自身じしん立后りっこうおよび息子むすこもとおうむすめ阿倍あべ内親王ないしんのう立太子りったいしなどの前例ぜんれいのない政治せいじてき決定けっていと、むらさきほろ中台ちゅうたいによる政治せいじ運営うんえいにおいて、その中心ちゅうしんにいた人物じんぶつである[11]光明こうみょう藤原ふじわらあるいはとうむすめであることをつよ意識いしきしており[9][12][1]、またこのころ政策せいさくにはのり天武てんむきさき政策せいさくをなぞらえるものもおおく、光明こうみょうのり天武てんむきさき関連付かんれんづける見方みかたすくなくない[11][13][14]。しかし、それらの政争せいそう皇位こうい継承けいしょう政治せいじ運営うんえい光明こうみょう意向いこうがどの程度ていどはたらいたのかは記録きろくにほとんどのこされておらず、断片だんぺんてき情報じょうほうから研究けんきゅうされている状況じょうきょうである[11]。そのため、光明こうみょうを「病弱びょうじゃくでひよわひじりたけし傀儡かいらいとした」「女帝にょてい即位そくいする野心やしんがあった」などと権力けんりょくよくをもった人物じんぶつひょうする意見いけんもあるいっぽうで、藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ藤原ふじわら権力けんりょく掌握しょうあく利用りようされただけとの見方みかたもあり、評価ひょうかかれる人物じんぶつである[11][15]

文化ぶんかめんでは両親りょうしんとくさんせんだい影響えいきょうけて仏教ぶっきょうふか帰依きえした[16][14]光明こうみょうどう時期じき仏教ぶっきょう政策せいさくふか関与かんよしており、東大寺とうだいじ大仏だいぶつ造立ぞうりゅう国分寺こくぶんじ建立こんりゅう光明こうみょうすすめにより実施じっしされた[17][18][16]。また、光明こうみょう創建そうけんしたとつたわる寺院じいんには法華寺ほっけじ[19]しん薬師寺やくしじ[20]海龍かいりゅう王寺おうじ[21]があり、建立こんりゅうした堂塔どうとう興福寺こうふくじ[22]法隆寺ほうりゅうじ[23]などにあった。その写経しゃきょう事業じぎょうにもちかられたほか[24]ひじりたけし遺愛いあいひん東大寺とうだいじ献納けんのうしたことが正倉院宝物しょうそういんほうもつはじまりとなった[25]福祉ふくし事業じぎょうおこなったことでもられており、後世こうせいにはせんにん風呂ふろ伝説でんせつまれた[26]。また、奈良なら時代じだい代表だいひょうする能筆のうひつのひとりでもある。

生涯しょうがい

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8世紀せいき政治せいじについて、従来じゅうらい研究けんきゅうでは藤原ふじわら権力けんりょく闘争とうそうじくとして説明せつめいされることがおおく、また現在げんざいでもそうした見方みかた根強ねづよい。一方いっぽう傀儡かいらい評価ひょうかされてきたひじりたけしやそのまえ女性じょせい天皇てんのう中継なかつぎとしてきた従来じゅうらい通説つうせつ異議いぎとなえるせつなど、どう時期じき天皇てんのう政治せいじりょくについて見直みなお意見いけんもある[27]。そうしたなかで、光明こうみょうによる政治せいじ関与かんよひいては光明こうみょう評価ひょうかについても、研究けんきゅうしゃ見解けんかいかれている。ほん記事きじでは藤原ふじわら皇位こうい継承けいしょうじくとした時代じだい背景はいけい記述きじゅつしつつ、光明こうみょうかかわる諸説しょせつ記載きさいしていく。

両親りょうしん

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光明皇后こうみょうこうごう中心ちゅうしんとした、天皇てんのう藤原ふじわらたちばな関係かんけい系図けいず

ちち藤原不比等ふじわらのふひと中臣鎌足なかとみのかまたり次男じなんだが、長男ちょうなん貞恵さだえ早世そうせいしたため藤原ふじわらぐこととなった。かまあし天智天皇てんぢてんのう側近そっきんであったため天武てんむとう冷遇れいぐうけていたが、もちみつる抜擢ばってきされ藤原ふじわらきょう造営ぞうえい大宝たいほう律令りつりょう制定せいていなどで成果せいかすべ天皇てんのう信頼しんらい[28]けい皇子おうじ文武ぶんぶ天皇てんのう)の立太子りったいし尽力じんりょくしたとうは、むすめ藤原ふじわら宮子みやこけい入内じゅだいさせて皇室こうしつ外戚がいせきとなり、権勢けんせい拡大かくだいしていった[29]

ははけんけんやしなえ橘三千代たちばなのみちよ中小ちゅうしょう豪族ごうぞく出身しゅっしんだが一族いちぞくけんけんやしなえ大伴おおともみずのえさるらんでの功績こうせきをきっかけに後宮こうきゅう出仕しゅっしし、もちすべには地位ちいかためていた[30]さんせんだいけい乳母うばもしくは養育よういくがかりであった可能かのうせいたか[31][32][33]

二人ふたり出会であった時期じきあきらかではないが、宮子みやこ名門めいもん出身しゅっしん女性じょせいともけい入内じゅだいできた背景はいけいにはさんせんだい協力きょうりょくがあったとするせつがあり、宮子みやこ入内じゅだいよりまえとする意見いけんがある[30][34]

ひかり明子あきこひじりたけし誕生たんじょう

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光明こうみょう大宝たいほう元年がんねん(701ねん)に誕生たんじょうした。いみな安宿やすやどひめ河内かわうちこく安宿あすかぐんちなんだもので、安宿あすかぐんさんせんだいほんぬき隣接りんせつしていたためとも、とう養育よういくした田辺たなべふみほんぬきであったためともわれる[8][3]とう何人なんにん子供こどもがいたのかさだかではないが、光明こうみょう自身じしん署名しょめいから光明こうみょうさんじょであったとするのが定説ていせつである[35][注釈ちゅうしゃく 4]光明こうみょういもうと橘諸兄たちばなのもろえとついだ藤原ふじわら多比たびのうがいるが、生母せいぼべつとのせつもある[38]異母いぼ兄弟きょうだいには宮子みやこのほか藤原ふじわらよん兄弟きょうだい藤原ふじわらちょう娥子異父いふ兄弟きょうだい橘諸兄たちばなのもろえ牟漏女王じょおうなどがいる[35]幼少ようしょう記録きろくはないが、さんせんだいとうてい同居どうきょしていたとかんがえられることや[39][40]、のちに光明こうみょうとうてい出産しゅっさんしていることから、とうていそだてられた可能かのうせいたか[39][41][42][注釈ちゅうしゃく 5]

光明こうみょう誕生たんじょうおなねんに、文武ぶんぶ宮子みやこあいだ嫡子ちゃくしくび皇子おうじ聖武天皇しょうむてんのう)も誕生たんじょうした[44]宮子みやこくび出産しゅっさんしたのちにひどいうつびょうかかり、くびはははなれて養育よういくされた。くび幼少ようしょう記録きろくのこされていないが、外祖父がいそふとうさんせんだい養育よういくされたとするせつがあり、事実じじつであればくび光明こうみょうおさないころにとうていともそだった幼馴染おさななじみであった[45][46][注釈ちゅうしゃく 6]

元明もとあき元正がんしょう即位そくいくび立太子りったいし

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けいくも4ねん(707ねん)6がつ文武ぶんぶ崩御ほうぎょし、翌月よくげつ文武ぶんぶははおもね陪皇おんな即位そくい元明もとあき天皇てんのうとなる。これまで天皇てんのう没後ぼつごきさき即位そくいすることはあったが、元明もとあきおっと草壁皇子くさかべのおうじ即位そくいせずにくなっており、天皇てんのうはは即位そくいするという異例いれい皇位こうい継承けいしょうであったため、あらためつねてんばれる皇位こうい継承けいしょう理論りろんはじめてもちいられた。この皇位こうい継承けいしょうには文武ぶんぶつよ意向いこうがあったが、とうにとってもまごくび即位そくい実現じつげんするためにはつなぎの女性じょせい天皇てんのう必要ひつようであった[47][48]元明もとあき即位そくいするととう右大臣うだいじんにんぜられ、さんせんだい翌年よくねんたちばなせいたまものせいされており、両親りょうしんがそれぞれの立場たちば政権せいけん基盤きばんかためていくなかで光明こうみょう幼少ようしょうごした[47][30]

和銅わどう3ねん(710ねん)3がつ平城京へいじょうきょう遷都せんとされ、和銅わどう7ねん(714ねん)にはくび立太子りったいしする[49][50]義江よしえ明子あきこは、くび立太子りったいしまえはは宮子みやこだけが夫人ふじん昇格しょうかくして2人ふたりは嬪の地位ちいをはくだつされたてん指摘してきし、藤原ふじわらくび立太子りったいし実現じつげんするために障害しょうがいとして排除はいじょされたとしている[51]立太子りったいしわせて皇太子こうたいし教育きょういくにあたる東宮とうぐうでんとう嫡男ちゃくなん藤原ふじわら武智たけち麻呂まろき、くびらす東宮とうぐうとうていとなり造営ぞうえいされた[49][52][53][54]。しかしくび即位そくいするにはまだわかすぎるため、さらに皇位こういつな女性じょせい天皇てんのうとしてよく和銅わどう8ねん(715ねん)にもとあかりむすめごおりだか内親王ないしんのう即位そくいし、元正がんしょう天皇てんのうとなった。元正がんしょう即位そくい独身どくしん女性じょせいによる前例ぜんれいのない皇位こうい継承けいしょうであり、くび即位そくいねがとう意向いこうはたらいたとかんがえられている[55][56]

ひかり明子あきここう刀自とじ入内じゅだい阿倍あべ誕生たんじょう

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れいかめ2ねん(716ねん)に光明こうみょうくびのもとに入内じゅだいする[57][58]光明こうみょう入内じゅだいについては、のちにひじりたけしが「おう祖母そぼ天皇てんのう元明もとあきもしくは元正がんしょう)からたまわった」とべているが[59]藤原ふじわら皇室こうしつとの関係かんけい強固きょうこにするためにはは宮子みやこくわえてにも光明こうみょうれたとするのが通説つうせつである[32]養老ようろう2ねん(718ねん)に光明こうみょう阿倍あべ内親王ないしんのうこうけん天皇てんのう)を出産しゅっさんした[57][60]

光明こうみょう入内じゅだいおなごろさんせんだい同族どうぞくであるけんけんやしなえこう刀自とじ入内じゅだいしているが、二人ふたり立場たちば対等たいとうではなかったとかんがえられる[57][58]瀧浪たきなみ貞子さだこは、こう刀自とじんだ井上いのうえ内親王ないしんのう若干じゃっかん5さいときおうになるべく潔斎けっさい生活せいかつはいったが、たいする光明こうみょうんだ2はいずれも皇太子こうたいしとなったこと指摘してきし、光明こうみょう次代じだい天皇てんのうとなる皇子おうじむことを期待きたいされていたと推測すいそくしている[61]

とう元明もとあき死去しきょ

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養老ようろう4ねん(720ねん)8がつ3にちとう死去しきょ[62]、さらによく養老ようろう5ねん(721ねん)12月7にちには元明もとあき崩御ほうぎょした[63]。この二人ふたり死去しきょ前後ぜんごして朝廷ちょうてい人事じんじ刷新さっしんされている。まずとう死後しごに、天武てんむ皇子おうじ舎人親王とねりしんのう太政官だじょうかんごとに、おなじくしん田部たなべ親王しんのう五衛及授刀舎人事ににんぜられる。けて正月しょうがつには長屋王ながやおう右大臣うだいじんとう嫡男ちゃくなん武智たけち麻呂まろ中納言ちゅうなごんにんぜられ、次男じなん藤原ふじわら房前ふさざきしたがえさん昇叙しょうじょされた[64][65]。さらに房前ふさざきは、元明もとあき直前ちょくぜんうちしんにんぜられる[63]藤原ふじわらからにん人物じんぶつてられたことは、当時とうじ慣例かんれいであったひとつの氏族しぞくからいちにんだけが主要しゅよう地位ちいくという原則げんそくやぶるものであり、異例いれい人事じんじであった[65]

この人事じんじについての解釈かいしゃく研究けんきゅうしゃことなっている。おおくの場合ばあいすめらぎおや勢力せいりょく長屋王ながやおう舎人親王とねりしんのう新田にった親王しんのう)と藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ房前ふさざきひかり明子あきこ)の対立たいりつ想定そうていして、各々おのおの勢力せいりょくばしたと解釈かいしゃく[66][53]、そのなかでも野村のむら忠夫ただお政治せいじりょくけた房前ふさざき武智たけち麻呂まろあやつっていたとしている[67]。いっぽうで瀧浪たきなみは、房前ふさざきてたのはすめらぎおや政治せいじ目論もくろ元明もとあき元正がんしょう推測すいそくし、すめらぎおや勢力せいりょく長屋王ながやおう舎人親王とねりしんのう新田にった親王しんのう房前ふさざきしゅ)が武智たけち麻呂まろ家長かちょうとする藤原ふじわらおさえていたとしている[65]

またこのとき光明こうみょうは、とうていふうなどの資産しさん相続そうぞくしたとするのが通説つうせつで、これらがのちに光明こうみょうおこなった福祉ふくし事業じぎょう原資げんしになったとかんがえられている[68][69]。ただし義江よしえは、とう遺産いさん相続そうぞくしたのはさんせんだい推測すいそくしている[70]

ひじりたけし即位そくいもとおう

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かみひさし元年がんねん(724ねん)2がつ4にちくび即位そくいして聖武天皇しょうむてんのうになる[71][72]。これにより光明こうみょうこう刀自とじとも皇太子こうたいしから夫人ふじんとなった[73]

ひじりたけし即位そくいするとはは宮子みやこだい夫人ふじんぶように勅命ちょくめいくだすが、これを長屋王ながやおう批判ひはん一旦いったんされた勅命ちょくめい撤回てっかいされすめらぎ太夫たゆうじんにされるという、いわゆるからし事件じけんきる[74][75]。これは臣下しんか藤原ふじわら出身しゅっしんしゃである宮子みやこだい夫人ふじんにすることに反対はんたいした長屋王ながやおうと、藤原ふじわらとのつながりがふかひじりたけしとの対立たいりつとするのが通説つうせつだが[75][76]瀧浪たきなみひじりたけし元正がんしょうからすめらぎおや政治せいじ路線ろせんいでいたとしたうえで、長屋王ながやおうへの信頼しんらいあつ二人ふたり対立たいりつはなかったとしている[74]。またさぎもり浩幸ひろゆきは、結果けっかとして宮子みやこ尊号そんごうに「すめらぎ」がついたこと藤原ふじわら政治せいじてき地位ちいたかまったとしたうえで、ひじりたけし長屋王ながやおうのやりとりはこれを貴族きぞく総意そういとするための政治せいじてき演出えんしゅつであったとしている[76]

かみひさし4ねん(727ねんうるう9がつ29にちに、光明こうみょう待望たいぼう嫡男ちゃくなんもとおう出産しゅっさんした。藤原ふじわら嫡男ちゃくなん出産しゅっさん期待きたいされていた光明こうみょうはもちろん、ひじりたけしよろこびもおおきく、同日どうじつまれた諸国しょこくいわいのしな下賜かしされた。さらにもとおう生後せいごわずか33にち立太子りったいしした[77][78]赤子あかご皇太子こうたいしになるのはきわめて異例いれいであり、藤原ふじわらもと皇統こうとうぐことをねが藤原ふじわら意向いこうはたらいたとするせつ有力ゆうりょくである[77][78]。しかしよくかみかめ5ねん(728ねん)9がつ13にちもと夭折ようせつしてしまう[79][80]もと菩提ぼだいとむらうためにやまぼう東大寺とうだいじ前身ぜんしんとなるかねがねてらとするのが通説つうせつ)が造営ぞうえいされた[79]

長屋王ながやおうへん

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海龍かいりゅう王寺おうじじゅうしょうとう
光明こうみょう創建そうけんした当時とうじ建築けんちくとされる。

もと死去しきょ前後ぜんごして、こう刀自とじ安積あさか親王しんのう出産しゅっさんした。安積あさかせいたけ唯一ただいち皇子おうじとなったことで、藤原ふじわら危機ききかんつのらせたとかんがえられる[81][82]もと死去しきょからほどないかみかめ6ねん(729ねん)2がつ12にち長屋王ながやおうへんきる[83][84]事件じけん同年どうねん3がつ4にち武智たけち麻呂まろ大納言だいなごん昇格しょうかくし、事実じじつじょう首班しゅはんとなった[85]

長屋王ながやおうへん藤原ふじわら仕組しくんだ偽証ぎしょうにより藤原ふじわら実行じっこうしたとするのが通説つうせつであり[86][82]木本もくほん武智たけち麻呂まろ首謀しゅぼうしゃとしている[87]。その目的もくてきについては、光明こうみょう立后りっこう実現じつげんするためにからし事件じけん苦言くげんていした長屋王ながやおう排除はいじょしたとするせつ有力ゆうりょくで、もと長屋王ながやおうへん光明こうみょう立后りっこうまでをひとつのながれとする意見いけんおお[88][89][75]。また、元正がんしょうつながりがふか有力ゆうりょく皇位こうい継承けいしょう候補こうほであった長屋王ながやおう、もしくは嫡男ちゃくなん膳夫かしわておう排除はいじょするためとするせつもある[59]

しかし、河内かわうちさち長屋王ながやおう吉備きび内親王ないしんのうたい血統けっとうてき劣等れっとうかんをもつひじりたけしにも動機どうきみとめられるとし[90]瀧浪たきなみ武智たけち麻呂まろ仕組しくんだ偽証ぎしょうとしつつ、実行じっこうできる権限けんげんをもつひじりたけし偽証ぎしょうしんけたと推測すいそくしている[86]。また大友おおとも裕二ゆうじは、藤原ふじわらよん行動こうどう職務しょくむじょう業務ぎょうむ範囲はんいおさまるとしたうえで、藤原ふじわらによる陰謀いんぼうろん前提ぜんていにした議論ぎろん異議いぎていしている[89][91]

光明こうみょう立后りっこう

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天平てんぴょう元年がんねん(729ねん)8がつ光明こうみょう皇后こうごうてられた。立后りっこうたり、まず10日とおかみことのりされて、つづく24にち宣命せんみょうされた。立后りっこう儀式ぎしきが2おこなわれることは前例ぜんれいにない。このけんについて河内かわうちは、10日とおか儀式ぎしき伝統でんとうてきなもので、24にち儀式ぎしき招集しょうしゅうしたかんじんまえおこなあたらしい儀礼ぎれいであり、政治せいじてき演出えんしゅつであったと推測すいそくしている[92]。また水野みずの柳太郎りゅうたろうは、10日とおか簡単かんたんみことのりしたものの予想よそうがい反発はんぱつがあったため、あわてて24にち宣命せんみょうしたと推測すいそくしている[93]。この当時とうじれいせいでは、皇后こうごうけるのは入内じゅだいした女性じょせいなかでも天皇てんのうむすめだけだったとするせつがあり、臣下しんか女性じょせい皇后こうごうくのはこの原則げんそくやぶるものであった。そのため立后りっこう宣命せんみょうには釈明しゃくめいともれる文言もんごんならんでおり、周囲しゅうい抵抗ていこうがあったことがうかがえる[94][95][96][97]

  • 光明こうみょうもと皇太子こうたいしははであり、皇后こうごう相応ふさわしい。
  • 政治せいじ天皇てんのう皇后こうごうならんでおこなうのがのぞましく、皇后こうごうさだめる。(しりへのせい
  • 即位そくいから6年間ねんかん皇后こうごうさだめなかったのは慎重しんちょう人選じんせんをしたからである。
  • 光明こうみょうちちとう功績こうせきわすれてはならない。光明こうみょう過失かしつければかるんじてはならない。
  • 臣下しんかむすめ立后りっこうするのは仁徳天皇にんとくてんのう前例ぜんれいがある[注釈ちゅうしゃく 7]
— 立后りっこう宣命せんみょう要旨ようし[95]

光明こうみょう立后りっこう政治せいじてき意図いと、あるいはそれを企図きとした人物じんぶつについて研究けんきゅうしゃ見解けんかいかれる。きし俊男としお推古天皇すいこてんのうもちすべ天皇てんのうなどの女性じょせい天皇てんのう即位そくい念頭ねんとうひじりたけしきあとに光明こうみょう女帝にょてい即位そくいするためとするせつ発表はっぴょうし、おおくの賛同さんどう[98][88][99][100]。そのに、笹山ささやまさぎもりらは光明こうみょう今後こんごむことを期待きたいされた次男じなん安積あさかさきんじて即位そくいさせるための布石ふせきであったとし[88][76][98]、また木本きもと好信よしのぶ上村うえむら正裕まさひろは、しりへのせい着目ちゃくもく光明こうみょうによる政治せいじ関与かんよ目的もくてきとしている[101][102][注釈ちゅうしゃく 8]。いずれのせつ藤原ふじわらもしくは光明こうみょう意向いこうであったとするきがおおいが、これにたい瀧浪たきなみは、立后りっこうひじりたけし意思いしおこなわれたとしたうえで、その理由りゆう長屋王ながやおうくずれたすめらぎおや政治せいじなおして藤原ふじわら対抗たいこうするためと推測すいそくしている[104]。また河内かわうち義江よしえは、はは藤原ふじわらにもつひじりたけし阿倍あべ血統けっとうてき権威けんいひくかったとしたうえで、これを補強ほきょうするために「えらばれし貴族きぞく藤原ふじわらははとするあらたな皇位こうい継承けいしょう原理げんり創造そうぞうする必要ひつようがあり、そのためにひじりたけし光明こうみょう制度せいどてき権威けんい付与ふよしたとしている[105][106]

立后りっこうよく9がつには皇后こうごう家政かせい機関きかんとして皇后こうごうみやしょく皇后こうごうづけ役所やくしょ)がかれた。皇后こうごうみやしょく設置せっちはじめてのことである[98][107]皇后こうごうみやしょく所在地しょざいちについてはとうていあととするのが通説つうせつだが、長屋王ながやおうていあとから発見はっけんされた木簡もっかんにより長屋王ながやおうていつぶしてつくられたとする新説しんせつがある[108]よく天平てんぴょう2ねん(730ねん)4がつ17にちに、皇后こうごうみやしょく施薬せやくいん設置せっちされた記録きろくがあり、おなじころに悲田院ひでんいん設置せっちされたとかんがえられている。施薬せやくいん運営うんえいには皇后こうごうしょくふうとうから相続そうぞくしたふういさおてられた[109][110]同年どうねん4がつ28にち光明こうみょう興福寺こうふくじ五重塔ごじゅうのとう建立こんりゅう発願ほつがんする。建立こんりゅうにあたって光明こうみょうみずからがをもってはこんだとつたわっている。五重塔ごじゅうのとうすで完成かんせいしていたひじりたけし建立こんりゅう東金とうがねどう一体いったいとなり東院とういん仏殿ぶつでんいん形成けいせいした[22][111]以上いじょう施薬せやくいん悲田院ひでんいん五重塔ごじゅうのとう建立こんりゅうは、時期じきてき一連いちれん事業じぎょうであったとかんがえられる[109]十川そがわ陽一よういちはこうした寺院じいん建立こんりゅう福祉ふくし事業じぎょうなどの財源ざいげん着目ちゃくもくし、光明こうみょうとうから相続そうぞくした藤原ふじわら家財かざい天皇てんのう家財かざい一体いったいとなって国家こっかてき事業じぎょう推進すいしんされていたとしている[112]。またてらでんによれば、天平てんぴょう3ねん(731ねん)に光明こうみょうによってすみてら現在げんざい海龍かいりゅう王寺おうじ)が創建そうけんされた。すみてら名称めいしょう皇后こうごうみや北東ほくとうすみ位置いちすることにちな[113][114][21][注釈ちゅうしゃく 9]

武智たけち麻呂まろ政権せいけんさんせんだい死去しきょ

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左:光明子が建立した西金堂旧蔵の阿修羅像 右:光明子が法隆寺に奉納した海磯鏡(法隆寺献納宝物) 左:光明子が建立した西金堂旧蔵の阿修羅像 右:光明子が法隆寺に奉納した海磯鏡(法隆寺献納宝物)
ひだり光明こうみょう建立こんりゅうした西にし金堂こんどうきゅうぞう阿修羅あしゅらぞう
みぎ光明こうみょう法隆寺ほうりゅうじ奉納ほうのうしたうみいそきょう法隆寺ほうりゅうじ献納けんのう宝物ほうもつ

よく天平てんぴょう3ねん(731ねん)に、藤原ふじわら宇合藤原ふじわら麻呂まろふくむ6めいあらたに参議さんぎくわえられた。この人事じんじ従前じゅうぜん天皇てんのうによる指名しめいではなく、かんじんによる推挙すいきょによるものであった。これによりすで参議さんぎであった武智たけち麻呂まろ房前ふさざきふくとうよん全員ぜんいん政官せいかんとなり、そのおよそ半数はんすう藤原ふじわらめるにいたる。この人事じんじにより文官ぶんかん武官ぶかん人事じんじけん掌握しょうあくした武智たけち麻呂まろ政権せいけんにぎった[116][117]はやしりくあきらは、藤原ふじわらよん活躍かつやくには光明こうみょううしたてがあったとしている[117]

天平てんぴょう5ねん(733ねん)1がつ11にち光明こうみょうははさんせんだい死去しきょする。光明こうみょうはひどく気落きおちしたようで、ながせっている光明こうみょう心配しんぱいしたひじりたけしは、同年どうねん5がつ病気びょうき平癒へいゆねがって大赦たいしゃみことのりしている[118][119]光明こうみょうやまいせながらも、さんせんだい菩提ぼだいとむらうために興福こうふく寺西てらにし金堂こんどう建立こんりゅうし、翌年よくねん盛大せいだいいち周忌しゅうきおこなった[120][119]西にし金堂こんどうはのちに焼失しょうしつしてしまうが、阿修羅あしゅらぞう著名ちょめいはちしゅじゅうだい弟子でしなど建立こんりゅう当時とうじ仏像ぶつぞう現存げんそんしている[121]

また、光明こうみょうさんせんだい死後しごから法隆寺ほうりゅうじ度々たびたびほどこせいれおこなうようになる[23][122]とく現在げんざい東院とういん伽藍がらん光明こうみょう中心ちゅうしんにしたさんせんだい女性じょせい親族しんぞくによる建立こんりゅうである可能かのうせい東野とうの治之はるゆきらによって指摘してきされており、光明こうみょうらがさんせんだいから太子たいし信仰しんこういだとしている[23][123]。また聖徳太子しょうとくたいし虚構きょこうせつとなえる大山おおやま誠一せいいちは、法隆寺ほうりゅうじ薬師如来像やくしにょらいぞう光背こうはい銘文めいぶんなどを捏造ねつぞうして太子たいし信仰しんこう創出そうしゅつした人物じんぶつ光明こうみょうとしている[124]

天然痘てんねんとう流行りゅうこう

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天平てんぴょう7ねん(735ねん)に大宰府だざいふ天然痘てんねんとう流行りゅうこうし、いちおさまるが天平てんぴょう9ねん(737ねん)1がつには平城京へいじょうきょうさい流行りゅうこうする。この疫病えきびょうにより8にんいた公卿くぎょうのうち5にん犠牲ぎせいとなり、そのなかふくまれる藤原ふじわらよん兄弟きょうだい死去しきょにより武智たけち麻呂まろ政権せいけん終了しゅうりょうした[125][126][127]天平てんぴょう10ねん(738ねん)1がつにはのこった人物じんぶつ中心ちゅうしん政権せいけんなおしがはかられた。このさいには公卿くぎょういち氏族しぞくいちにん原則げんそく復活ふっかつし、藤原ふじわらからは藤原ふじわら豊成とよしげてられた。また、光明こうみょう父兄ふけい橘諸兄たちばなのもろえ右大臣うだいじん抜擢ばってきされたことが注目ちゅうもくされる[126][128][129]諸兄しょけいちちさとしたち天皇てんのう後裔こうえいつとむおうであり、このあたらしい政権せいけんすめらぎおや勢力せいりょく復活ふっかつとみるきがある[130]諸兄しょけいうごとに昇進しょうしんかさね、やがて嫡男ちゃくなん橘奈良麻呂たちばなのならまろてられてたちばな全盛期ぜんせいきむかえる[131]諸兄しょけい天平てんぴょう8ねんまつ葛城王かつらぎおうから改名かいめいしているが、諸兄しょけい光明こうみょう異父いふけいであったことからたまわったとするせつがある[132][注釈ちゅうしゃく 10]瀧浪たきなみは、ひじりたけし光明こうみょう諸兄しょけいにかけた期待きたいおおきかったのだろうと推測すいそくしている[128]。いっぽうで中川なかがわおさむは、諸兄しょけいてたのは元正がんしょうで、光明こうみょう対抗たいこうするためとしている[133]

このころ光明こうみょうまわりで3つの出来事できごとがあった。1つひじりたけしひじりたけしはは宮子みやこ再会さいかいである。宮子みやこひじりたけし出産しゅっさんしたのちにうつびょうかかり、ひじりたけしはは隔離かくりされて養育よういくされていたが、天平てんぴょう9ねん(738ねん)12月27にちひじりたけし宮子みやこは36ねんぶりに再会さいかいたした[134]。この再会さいかいげん治療ちりょうによる病状びょうじょう回復かいふくによって実現じつげんしたことはられているが[135]瀧浪たきなみ再会さいかい場所ばしょ皇后こうごうみやであることや藤原ふじわらよん兄弟きょうだい死後しごであることをげて、再会さいかいはばんでいたのが藤原ふじわらであり、その死後しご実現じつげんしたのは光明こうみょう意向いこうがあったと推測すいそくしている[134]

2つ天平てんぴょう9ねんのはじめごろにひじりたけし後宮こうきゅうに3にん女性じょせい入内じゅだいしていることである。その3にんみなみ夫人ふじん武智たけち麻呂まろむすめ)・きた夫人ふじん房前ふさざきむすめ)・たちばなさとし[注釈ちゅうしゃく 11]たちばなたすくためむすめ)で、いずれも藤原ふじわらたちばな一族いちぞくである。3にん入内じゅだいは30だい後半こうはんになっていた光明こうみょうたい皇子おうじ誕生たんじょう期待きたいうすまりつつあったことが背景はいけいにあるとかんがえられるが、結果けっかとしていずれの夫人ふじんからも子女しじょまれることはかった[136]。なおひじりたけし寵愛ちょうあいけたが入内じゅだいしていない女性じょせい矢代やしろ女王じょおうがいるが、皇族こうぞくでありながら入内じゅだいしなかった(出来できなかった)理由りゆう藤原ふじわら関係かんけいするのかは不明ふめいである[73]

3つ継続けいぞくてきかつだい規模きぼ写経しゃきょう事業じぎょうはじまったことである(後述こうじゅつ[24]

阿倍あべ立太子りったいし

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諸兄しょけい政権せいけん成立せいりつおな天平てんぴょう10ねん(738ねん)1がつ13にちに、光明こうみょうむすめ阿倍あべ立太子りったいしした。このとききよしたけ唯一ただいち皇子おうじたちばな安積あさかは11さいになっており、いずれ安積あさか擁立ようりつうごきがこることは確実かくじつであった[注釈ちゅうしゃく 12]たいして阿倍あべは、21さいになるこのときまで未婚みこんであったことをかんがえると、以前いぜんから阿倍あべ即位そくい予定よていされていた可能かのうせいたかいとかんがえられる[138][139]異例いれい女性じょせい立太子りったいしおこなわれたのは安積あさか擁立ようりつはかたちばなへの対抗たいこうさくで、藤原ふじわら阿倍あべ即位そくいのぞ藤原ふじわらひいては光明こうみょう意向いこうであったというのが通説つうせつである[138][139]。また、阿倍あべ立太子りったいしとそれを強行きょうこうした藤原ふじわら反感はんかんをもつ群臣ぐんしんすくなくなく、のちに奈良なら麻呂まろらんこす原因げんいんひとつにもなったとされる[140]

木本もくほんは、元正がんしょう同意どういられぬまま立太子りったいし強行きょうこうされたとしたうえで、徐々じょじょ影響えいきょうりょく光明こうみょうつよ要望ようぼうがあったと推測すいそくしている[141]一方いっぽうひじりたけし意思いしであったとするせつとしては、いわゆるあらためつねてん皇統こうとう嫡子ちゃくし相続そうぞくとしたうえで、その原則げんそくまもるために阿倍あべ立太子りったいししたとする瀧浪たきなみせつ[142][141]阿倍あべ安積あさか即位そくいまでのいわゆる中継なかつ天皇てんのうであった(ただし、安積あさか自体じたいひかり明子あきこもしくはきた殿どの南殿なんでん男子だんし誕生たんじょうするまでのつなぎである)とするかわないせつなどがある[143]

藤原ふじわらひろ嗣のらん国分寺こくぶんじ大仏だいぶつ建立こんりゅう

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ひじりたけし後期こうき難波なんばみや復元ふくげん模型もけい

天平てんぴょう10ねん(738ねん)に、き宇合の嫡子ちゃくし藤原ふじわらひろだいやしなえとくまもり出世しゅっせするが、親族しんぞく誹謗ひぼうしたこと理由りゆう同年どうねん12がつだいおさむしょう左遷させんされた[144]こう誹謗ひぼうした親族しんぞく具体ぐたいてきだれなのかはさだかではないが[144]笹山ささやま晴生はるお光明こうみょうたいする批判ひはんであった可能かのうせい指摘してきしている[145]。さらに天平てんぴょう12ねん(740ねん)8がつこう嗣は、諸兄しょけい政権せいけん批判ひはんしそのブレーンであったげん昉と吉備真備きびのまきび追放ついほう上表じょうひょうした。このこう嗣の行動こうどう反乱はんらん藤原ふじわらひろ嗣のらん)となされて討伐とうばつぐん派遣はけんされ、同年どうねん11がつ1にち鎮圧ちんあつされた[144][146]

らんがいまだ解決かいけつしていない同年どうねん10がつ29にちに、ひじりたけし突如とつじょとして東国とうごく行幸ぎょうこうする。この行幸ぎょうこうみずのえさるらんにおける大海人皇子おおあまのおうじつい体験たいけんするためとされ、光明こうみょうらも同行どうこうしている。同年どうねん12がつ1にち不破ふわ警護けいごする騎兵きへい解散かいさんした[147][148]ひじりたけし行幸ぎょうこうえても帰京ききょうせず、諸兄しょけい別荘べっそうがある相楽さがらぐんきょうひとしきょう造営ぞうえいめいじた。ひじりたけしみずからも天平てんぴょう12ねん(740ねん)12月15にちきょうひとしきょうはいり、おくれて光明こうみょうらもつづいた[149]

よく天平てんぴょう13ねん(741ねん)2がつ14にちひじりたけし国分寺こくぶんじ建立こんりゅうみことのりすが、これは光明こうみょうすすめによるものであった[145][18][150]光明こうみょうみことのりはっせられる1がつまえとうから相続そうぞくしていたしょくふう5000返上へんじょうし、その一部いちぶ国分寺こくぶんじほどこせいれしている[151][152]国分寺こくぶんじ建立こんりゅうは、とうのり天武てんむきさき各州かくしゅう建立こんりゅうした大雲寺だいうんじならったとするのが通説つうせつである。のり天武てんむきさき大雲寺だいうんじ奉安ほうあんさせた『だいくもけい』には、仏教ぶっきょう帰依きえしたきよしこう天女てんにょ出世しゅっせして女王じょおうはなしがあり、大雲寺だいうんじ建立こんりゅうのり天武てんむきさき即位そくい正当せいとうすることが目的もくてきであったとかんがえられている[151][153]。このような由来ゆらい寺院じいんならって国分寺こくぶんじ建立こんりゅうしたことから、光明こうみょうによる権力けんりょく掌握しょうあく正当せいとうさせる目的もくてきがあったとするせつもある[151]。またはやしは、記録きろくにはないが国分こくぶ尼寺あまでら建立こんりゅう光明こうみょう発案はつあんであったであろうとしている[154]

天平てんぴょう14ねん2がつきょうひとしきょうから甲賀こうがぐんかう東北道とうほくどうひらかれ、ひじりたけしむらさきかおりらくへの行幸ぎょうこうかえ[155]よく天平てんぴょう15ねん(743ねん)10がつ15にちには甲賀こうがてら大仏だいぶつ造営ぞうえいするみことのりくだし、同年どうねん12がつにはきょうひとしきょう造営ぞうえい中止ちゅうしむらさきかおりらくみや造営ぞうえい着手ちゃくしゅする[156][157]。この大仏だいぶつ造営ぞうえい発願ほつがんは、天平てんぴょう12ねんひじりたけし光明こうみょう河内かわうちこく知識ちしきてら行幸ぎょうこう盧舎那仏るしゃなぶつたことがきっかけであり、これも光明こうみょうすすめたことであった[17][158]

大仏だいぶつ造営ぞうえい着手ちゃくしゅした直後ちょくご天平てんぴょう16ねんうるう1がつに、安積あさかあしやまい急死きゅうしする。この急死きゅうしについて、藤原ふじわらあるいは光明こうみょうによる暗殺あんさつとするせつ一部いちぶ根強ねづよ[145][159][160][161]安積あさか死去しきょしたのち、大仏だいぶつ造営ぞうえい担当たんとうしゃ諸兄しょけいから藤原仲麻呂ふじわらのなかまろわった。武智たけち麻呂まろ次男じなんであったなか麻呂まろはこれまで出世しゅっせ機会きかいがなかったが、この抜擢ばってき以降いこう実績じっせきかさねて昇進しょうしんしていく[162][163][164]りんさぎもりは、なか麻呂まろ出世しゅっせ光明こうみょう意向いこうであったとしている[165][14]。また木本もくほんは、安積あさか擁立ようりつ目指めざしていたたちばなはんひかり明子あきこなか麻呂まろ勢力せいりょくは、安積あさか死去しきょにより政治せいじてき苦境くきょうまれ、安積あさかわる擁立ようりつ候補こうほ一本いっぽんできなかったため藤原ふじわら台頭たいとうゆるしたとしている[137]

平城ひらじろかえ

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法華寺ほっけじじゅう一面観いちめんかん音像おんぞう

度重たびかさなる遷都せんと大仏だいぶつ造営ぞうえいたいする周囲しゅういからの不満ふまんかんじていたひじりたけしは、5ねんわた東国とうごく行幸ぎょうこうえて天平てんぴょう17ねん(745ねん)5がつ11にち平城京へいじょうきょうもどった[166][167]。このとき平城京へいじょうきょう皇后こうごうみやがあった場所ばしょ宮寺みやでらあらためられ、さらに天平てんぴょう19ねん(747ねん)までに法華寺ほっけじ改称かいしょうされて大和やまとこく国分こくぶ尼寺あまでらとなった。法華寺ほっけじには光明こうみょうさく、あるいは光明こうみょうをモデルにしたとつたわるじゅういちめん観音かんのん菩薩ぼさつぞう現存げんそんしている[113][168][注釈ちゅうしゃく 13]かえ光明こうみょうまいについて記録きろくいが、瀧浪たきなみひじりたけしとも中宮ちゅうぐうんだか、あるいは長屋王ながやおうていあと皇后こうごうみやうつしたと推測すいそくしている[170][108]

どう天平てんぴょう17ねん8がつ23にちには、東大寺とうだいじ場所ばしょうつして大仏だいぶつ造営ぞうえい再開さいかいされる。このさいひじりたけし光明こうみょうすそれてはこ基壇きだんつくったとつたわる[113]。この直後ちょくご難波なんばみや行幸ぎょうこうしていたひじりたけし体調たいちょうくずす。これを奈良なら麻呂まろらは反乱はんらん企図きとするが、これを察知さっちした光明こうみょうたまなどをせてそなえたため、計画けいかく実行じっこうされなかった[171][172]中川なかがわは、このころから体調たいちょうのすぐれないひじりたけしわり、大権たいけん一部いちぶ光明こうみょうゆだねられていたとしている[172]

また、光明こうみょうひじりたけし回復かいふくねがってしん薬師寺やくしじ建立こんりゅうした。しん薬師寺やくしじ創建そうけんについては天平てんぴょう17ねんとする伝承でんしょうと、天平てんぴょう19ねんとする記録きろくがある[173][174]

こうけん即位そくいむらさきほろ中台ちゅうたい

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天平てんぴょう20ねん(748ねん)4がつ元正がんしょう崩御ほうぎょする。りん木本もくほんは、元正がんしょう死去しきょをきっかけとして、光明こうみょう政治せいじ仕切しきるようになったとしている[137][175]

天平てんぴょう21ねん(749ねん)1がつに、光明こうみょうひじりたけしとも行基ぎょうきから受戒じゅかいする[10]同年どうねん4がつ14にちひじりたけし豊成とよしげ右大臣うだいじんにん[176]同年どうねん天平てんぴょうかんたから元年がんねん(749ねん)7がつ2にちひじりたけし譲位じょういし、阿倍あべ即位そくいしてこうけん天皇てんのうとなる[10]おとこみかど譲位じょういはじめてのことである[177]譲位じょういにあたってひじりたけし臣下しんかに「阿倍あべだけがちんである」「光明こうみょう自分じぶんわらぬようにつかえよ」とめいじており[178][101][179]、また光明こうみょうこうけんに「草壁くさかべ皇統こうとうやさないために、女性じょせいではあるが即位そくいさせる」とげている[178]。この譲位じょういについて中川なかがわは、すで実権じっけんにぎっていた光明こうみょうがその体制たいせい正統せいとうせい強化きょうかするために要請ようせいしたとし[137][133]木本もくほんもこれにしたがいつつその理由りゆうについてはん藤原ふじわら勢力せいりょく対抗たいこうするために光明こうみょう皇太后こうたいごう地位ちいのぞんだとしている[180]

こうけん即位そくいから1かげつ皇后こうごう家政かせい機関きかんである皇后こうごうみやしょくむらさきほろ中台ちゅうたい改称かいしょうされ、大納言だいなごんにんぜられたばかりのなか麻呂まろがその長官ちょうかんであるむらさきほろれい就任しゅうにんした[181]むらさきほろ中台ちゅうたい名称めいしょうは、とうげんむね設置せっちしたむらさきほろしょうのり天武てんむきさき設置せっちした中台ちゅうたいならったとするのが通説つうせつである[181][182][注釈ちゅうしゃく 14]瀧浪たきなみはこの改称かいしょう唐風とうふうこのみのなか麻呂まろ献策けんさく推測すいそくしている[181]むらさきほろ中台ちゅうたい構成こうせいする職員しょくいんかず官位かんいたかさは太政官だじょうかん匹敵ひってきするもので[184]以降いこうむらさきほろ中台ちゅうたいこうけんわって国政こくせい執行しっこうしていく[181][101][185]

これについて木本もくほん義江よしえらは光明こうみょう中心ちゅうしん政治せいじ運営うんえいされるようになったとし、光明こうみょうこうけん後見人こうけんにん[179]、あるいはひじりたけし代行だいこうしゃであったとしている[101][186][187]。またはやしは、光明こうみょう立場たちば君主くんしゅてき存在そんざいとしつつ主体しゅたいとなったのはなか麻呂まろで、光明こうみょう庇護ひごしゃとなって積極せっきょくてき後押あとおししたとする[188]。いっぽうで瀧浪たきなみは、光明こうみょう政治せいじ運営うんえいする意図いとはなく、むらさきほろ中台ちゅうたいによる政策せいさくひじりたけし存命ぞんめいちゅうひじりたけし意向いこう反映はんえいされていたとしている[189]。またさぎもりも、統治とうち中心ちゅうしん依然いぜんとして太政官だじょうかんであり、むらさきほろ中台ちゅうたい太上天皇だじょうてんのう代行だいこうしゃとしてこうけん補佐ほさしていたとしている[190]

天平てんぴょうかちたから4ねん(752ねん)4がつ9にち大仏だいぶつ開眼かいがん盛大せいだいおこなわれた。行事ぎょうじわったのち光明こうみょうこうけんなか麻呂まろていはい御在所ございしょとした[191]天平てんぴょうかちたから6ねん(754ねん)4がつに、ひじりたけしひかり明子あきここうへりくだらは鑑真がんじんから受戒じゅかいする[192]

ひじりたけし死去しきょ正倉院宝物しょうそういんほうもつ

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東大寺とうだいじ献物けんもつちょう』のうち『国家こっか珍宝ちんぽうちょう』の願文がんもん。「皇太后こうたいごう御製ぎょせい」とあり、紙面しめん全体ぜんたい天皇てんのうだま璽が押印おういんされる。

天平てんぴょうかちたから7さい(755ねん)のあきごろからひじりたけしふたた体調たいちょう悪化あっかし、よく天平てんぴょうかちたから8さい5がつ2にち崩御ほうぎょした。ひじりたけしのこみことのりとして道祖どうそおう皇太子こうたいし指名しめいした[193][194]

ひじりたけし没後ぼつごひじりたけし遺愛いあいひん東大寺とうだいじなどに献納けんのうされた[195]。このうち5かいけておこなわれた東大寺とうだいじへの献納けんのうが、正倉院宝物しょうそういんほうもつはじまりである[25][196]ひじりたけし遺愛いあいひん献納けんのうは『東大寺とうだいじ献物けんもつちょう』の願文がんもんによりこうけん協力きょうりょくながら光明こうみょう意向いこうおこなわれたとするのが通説つうせつであり、その献納けんのう宝物ほうもつなかにはあかうるしぶん欟木厨子ずしのように歴代れきだい天皇てんのうがれてきた宝物ほうもつふくまれている[197][198][199]。このことについてさぎもり義江よしえは、光明こうみょう天皇てんのう財産ざいさん処分しょぶんする権限けんげんゆうしていたとしているが[190][199]瀧浪たきなみひじりたけし意向いこう無視むしできないとしている[200]

また、献納けんのう宝物ほうもつには光明こうみょう自筆じひつの『らくあつしろん』と『もりたてなり雑書ざっしょ要略ようりゃく』がふくまれており、現存げんそんしている(後述こうじゅつ[201][202]

なか麻呂まろ政権せいけん大炊おおい立太子りったいし

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ひじりたけしいち周忌しゅうきわるとこうけん光明こうみょうなか麻呂まろていはいった。なか麻呂まろつとめるむらさきほろれいむらさきほろ内相ないしょう格上かくあげされ、中央ちゅうおう地方ちほう軍事ぐんじけん掌握しょうあくするなど権力けんりょく基盤きばんかためていく[189][203]。また、このころ謀反むほんうたがいをけられていた諸兄しょけいは、みずか政界せいかいからいた[204]。さらに大伴おおとも慈斐と淡海三船おうみのみふねが、なか麻呂まろたくらみにより禁固きんこさせられている[205]

なか麻呂まろ政権せいけん掌握しょうあくした背景はいけいには、光明こうみょううしたてがあったとするのが通説つうせつだが、政権せいけん運営うんえい光明こうみょうがどこまで関与かんよしていたのかについては研究けんきゅうしゃ見解けんかいことなる。この時期じき光明こうみょうたまえきすずにぎってみことのりはっ[206][101]光明こうみょうみずからが勲功くんこうじょし、本来ほんらい天皇てんのうくだみことのりむらさきほろ中台ちゅうたいはっしている[207][101][208]。これらから笹山ささやまは、むらさきほろ中台ちゅうたい光明こうみょうによる専制せんせいてき政治せいじ機構きこうとしたうえでなか麻呂まろ一体いったいとなって権勢けんせいるったとしている[206]。また、このころに年号ねんごうよんにしたことや「とし」を「とし」にあらためたことものり天武てんむきさき影響えいきょうとする意見いけんもあり、光明こうみょうみずからをのり天武てんむきさきになぞらえたとする見方みかたもある[209][210]

天平てんぴょうかちたから9さい(757ねん)1がつ諸兄しょけい死去しきょすると、同年どうねん3がつ皇太子こうたいし道祖どうそおうはいされ、同年どうねん4がつには大炊おおいおう淳仁天皇じゅんにんてんのう)が立太子りったいしされる[206][211][注釈ちゅうしゃく 15]史料しりょうにははい太子たいしこうけん意向いこうによっておこなわれたとしるされているが、大炊おおいおう関係かんけいふかなか麻呂まろ主導しゅどうしたとするのが通説つうせつである[211][186]。ただし共謀きょうぼうしゃについて研究けんきゅうしゃ見解けんかいかれており、瀧浪たきなみはやしなか麻呂まろいちにんによる計画けいかくとするが[211][213]渡辺わたなべ晃宏あきひろ倉本くらもと一宏かずひろこうけんなか麻呂まろ2人ふたりによるものとし[214][215]義江よしえ光明こうみょうなか麻呂まろ2人ふたりによるものとし[179]木本もくほん光明こうみょう中心ちゅうしんとしてこうけんなか麻呂まろの3にんによるとしている[186][180]上野うえの正裕まさひろ塩焼しおやきおう池田いけだおう光明こうみょう意中いちゅう候補者こうほしゃであったがおも年齢ねんれいてき理由りゆうによるもので大炊おおいおう積極せっきょくてき反対はんたいする理由りゆうもなかったとしている[216]

奈良なら麻呂まろらん

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こうけん立太子りったいし以降いこう藤原ふじわらによる専権せんけん政治せいじこうする勢力せいりょくたが、これらは首謀しゅぼうしゃ左遷させんなどで未然みぜんに、かつ穏便おんびんふせがれていた[217]。しかしこのころからなか麻呂まろは、敵対てきたいする橘奈良麻呂たちばなのならまろらの反乱はんらん計画けいかくあかるみにし、敵対てきたい勢力せいりょく排除はいじょ目論もくろむようになる[218][219]一方いっぽう穏便おんびんませたかった光明こうみょうは、天平てんぴょうたから元年がんねん(757ねん)6がつ28にちなか麻呂まろたい追及ついきゅうめるようつよ要請ようせい[219][220]、また同年どうねん7がつ2にちにはこうけん光明こうみょうがそれぞれ臣下しんかたいして謀反むほん自重じちょううったえ、さらに翌日よくじつ光明こうみょう奈良なら麻呂まろしてふたた自重じちょううている[219][220][221]。しかし光明こうみょうらのねがいはかなわず、なか麻呂まろ小野おのひがしじんたいする尋問じんもんにより同年どうねん7がつ4にち奈良なら麻呂まろ謀反むほん計画けいかくあかるみに[206]奈良なら麻呂まろ謀反むほん理由りゆうについて「東大寺とうだいじ創建そうけんによる人民じんみん辛苦しんく」と証言しょうげんし、その襲撃しゅうげき対象たいしょうには光明こうみょうふくまれていたことがあきらかになった[206][101][222]。これによりなか麻呂まろ反対はんたいする勢力せいりょく一掃いっそうされ、なか麻呂まろ政権せいけん強化きょうかされた[207][注釈ちゅうしゃく 16]奈良なら麻呂まろへんにおいて光明こうみょうなか麻呂まろ対応たいおうちがいがあったことについて木本もくほんは、光明こうみょう天武てんむ皇統こうとうによる安定あんていてき皇位こうい継承けいしょう藤原ふじわらたくそうとしたとするのにたいし、なか麻呂まろ目的もくてき藤原ふじわら中心ちゅうしんとした貴族きぞく専権せんけん政治せいじ目指めざしたことから齟齬そごしょうじていたとしている[223]

淳仁じゅんにん即位そくい

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天平てんぴょうたから2ねん(758ねん)に光明こうみょう体調たいちょうくずす。同年どうねん7がつ4にちには、殺生せっしょう禁断きんだんむらさきほろ中台ちゅうたい奴隷どれい解放かいほうなど病気びょうき平癒へいゆねがみことのりれいくだされている。同年どうねん8がつ1にちこうけん天皇てんのうは「光明こうみょう孝養こうようをつくすため」として譲位じょういし、大炊おおいおう即位そくい淳仁天皇じゅんにんてんのうとなった[224]。しかしこうけん譲位じょういかならずしも本人ほんにん意向いこうではなかったとするのが通説つうせつである[224][101]即位そくい宣命せんみょうでは「光明こうみょうひじりたけしのこみことのりけて大炊おおいおう即位そくいさせる」とべられており、木本もくほん義江よしえらは光明こうみょうこうけん譲位じょういせまったとしている[101][225][226]。また水谷みずたに千秋ちあきは、淳仁じゅんにん即位そくい光明こうみょうが「事実じじつじょう太上天皇だじょうてんのう」として影響えいきょうりょくっていたとしている[227]。いっぽうで瀧浪たきなみは、なか麻呂まろ光明こうみょうわる勢力せいりょく基盤きばんをつくるためにすすめたことで、光明こうみょうあらがこと出来できなかったとしている[224]

淳仁じゅんにん即位そくい同日どうじつこうけん光明こうみょう尊号そんごう献上けんじょうされた。存命ぞんめいちゅう唐風とうふう尊号そんごうおくることははじめてのことである。光明こうみょう尊号そんごうである天平てんぴょうおう真仁まさみせい皇太后こうたいごうは「てんひらたらかになり、究極きゅうきょくしん到達とうたつしたことにおうえた、ひとしただししいとくをもつ皇太后こうたいごう」の意味いみである[6]。この尊号そんごうながいため「ひとしせい皇太后こうたいごう」という略称りゃくしょう使つかわれている[7]同年どうねん8がつ9にちにはひじりたけし草壁くさかべにも尊号そんごうおくられ、さらに8がつ25にちにはなか麻呂まろふとし右大臣うだいじん)ににんじられて恵美押勝えみのおしかつ尊号そんごうあたえられる[6]。また、天平てんぴょうたから4ねん藤原ふじわら顕彰けんしょう一環いっかんとしてとう淡海たんかいこう諡号しごうおくられている[228]

よく天平てんぴょうたから3ねん(759ねん)6がつ16にちには淳仁じゅんにんちち舎人親王とねりしんのう尊号そんごうおくられ、ははだい夫人ふじん兄弟きょうだい親王しんのう内親王ないしんのうとしてあつかうことが表明ひょうめいされた。この決定けっていには譲位じょうい不満ふまんっていたこうけん反対はんたいしたが、光明こうみょうすすめによって実現じつげんされた[229]。また、このさい淳仁じゅんにんみずからを「ひじりたけし皇太子こうたいし」とひょうし、こうけん先代せんだい天皇てんのうみとめない態度たいどあきらかにしている[230]

同年どうねん12がつ26にちせいくらいんからひじりたけし遺愛いあいひん一部いちぶ出庫しゅっこされた。米田よねだ雄介ゆうすけ栄原さかえはららはせいくらいんからした人物じんぶつ光明こうみょうとしている[41][231]。このときされた草壁くさかべ佩刀はかせくろさくかか佩刀はかせは、草壁くさかべ死後しごとうかいして歴代れきだい天皇てんのう相承そうしょうされてきた草壁くさかべ皇統こうとう藤原ふじわら関係かんけい象徴しょうちょうする大刀たちとするのが通説つうせつである[41][232]。この大刀たち行方ゆくえわかっていないが、瀧浪たきなみ淳仁じゅんにん皇位こういたしかにするために光明こうみょうくろさくかか佩刀はかせ淳仁じゅんにん継受けいじゅさせたと推測すいそくしている[41]

これまでしるしたように、淳仁じゅんにんひじりたけしのこみことのりはいして立太子りったいしし、即位そくいこうけん対立たいりつするまでにいたっている。このような淳仁じゅんにん皇位こうい継承けいしょうについて押勝の意図いととするのが通説つうせつであり、光明こうみょう淳仁じゅんにんがわっていたとする意見いけんおお[233][180]木本もくほんは、皇統こうとう転換てんかんはか光明こうみょう意図いとこうけんれられず母子ぼし対立たいりつしたとするが[180]瀧浪たきなみ光明こうみょうこうけんたいするおもいやりでありこうけん光明こうみょうおもいをんで母子ぼし対立たいりつはなかったとしている[233]

死去しきょ

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佐保山さほやま東陵とうりょう

天平てんぴょうたから3ねんなつごろから法華寺ほっけじ境内けいだい阿弥陀あみだ浄土じょうどいん建立こんりゅうはじめられる[234][注釈ちゅうしゃく 17]阿弥陀あみだ浄土じょうどいんあとさんせんだい建立こんりゅうしたかん無量むりょう寿ことぶきいんえたもので、とうてい時代じだい園池そのいけれた伽藍がらんとなっており、浄土じょうどしき庭園ていえん嚆矢こうしとなった[235]

天平てんぴょうたから4ねん(760ねん)のはるごろから光明こうみょうふたた体調たいちょうくずす。同年どうねん3がつ13にちには諸国しょこく神社じんじゃ祈祷きとうおこなわれ、さらにうるう4がつ23にち宮中きゅうちゅうで『だい般若はんにゃけい』の転読てんどく同月どうげつ28にち五大ごだいてらほどこせいれ、5月18にちにはろく大寺おおてら法会ほうえいとなまれた。しかしその甲斐かいなく光明こうみょうは6がつ7にちくなる。享年きょうねん60さい[236][237]即日そくじつ葬儀そうぎおこな装束しょうぞくにんぜられたが、ふね親王しんのう以下いか25にんというだい人数にんずうであった。りょうひじりたけしとなり造営ぞうえいされた。りょう佐保山さほやま東陵とうりょう治定じじょうされている[236][238]

ななななである7がつ26にちには平城京へいじょうきょうすべてのてらときかいいとなまれるとともに、国中くになか僧尼そうに動員どういんして『しょうさん浄土じょうどけい』を書写しょしゃさせて国分寺こくぶんじ法会ほうえおこなわせている[239][240]。12月12にちには、宮子みやことも光明こうみょう命日めいにちくにさだめられた。臣下しんか出身しゅっしんしゃ命日めいにちくにになるのははじめてのことであり、藤原ふじわら出身しゅっしんしゃ天皇てんのうじゅんずるあつかいをけたことになる[239][241]いち周忌しゅうき阿弥陀あみだ浄土じょうどいんおこなわれ、光明こうみょう死後しごに165にん動員どういんして写経しゃきょうされた5330かんの『しゅうとき一切経いっさいきょう』が供養くようされた[239][241][242]。また、全国ぜんこく国分寺こくぶんじではたけろく阿弥陀あみだぞうなどがあらわづくりされ、押勝は興福寺こうふくじ光明こうみょう菩提ぼだいとむらうために東院とういん建立こんりゅうした[239]

光明こうみょう没後ぼつごうしたてうしなった淳仁じゅんにん・押勝とこうけんとの対立たいりつふかまり、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらんから淳仁じゅんにん廃帝はいていへといたった[243]木本もくほんは、光明こうみょうによってさえつけられていたこうけん権力けんりょくへの執着しゅうちゃく発露はつろしたとしたうえで、一連いちれん政争せいそう発端ほったんとして光明こうみょうのぞんだ天武てんむ皇統こうとう存続そんぞく途絶とだえてしまったとしている[180]

写経しゃきょう事業じぎょう

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光明こうみょう功績こうせきとしてだい規模きぼ写経しゃきょう事業じぎょうおこなったこともげられる。写経しゃきょう功徳くどくるための手段しゅだんであり、とく光明こうみょうによる写経しゃきょう鎮護ちんご国家こっか実現じつげんするための国家こっか事業じぎょうであった[244]光明こうみょう発願ほつがんにより写経しゃきょうされた経典きょうてんは『光明皇后こうみょうこうごうねがいけい』と総称そうしょうされる[24]

光明こうみょう写経しゃきょう事業じぎょう私的してき写経しゃきょうしょからはじめられたが、これが皇后こうごうみやしょく写経しゃきょうしょ東院とういんうつし一切経いっさいきょうしょ福寿ふくじゅてら写経しゃきょうしょ金光かねみつあきら写経しゃきょうしょ東大寺とうだいじ写経しゃきょうしょ変遷へんせん拡大かくだいしていった。研究けんきゅうしゃはこれらの写経しゃきょうしょ一括いっかつして皇后こうごうみや系統けいとう写経しゃきょう機構きこうぶが、その記録きろくせいくらいん写経しゃきょうしょ文書ぶんしょとして現存げんそんしている[245]

だい般若はんにゃけい

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光明こうみょう写経しゃきょうかみかめ4ねん(727ねん)とかみかめ5ねんの『だい般若はんにゃけい』の写経しゃきょうはじまる。このとき写経しゃきょうはまだ夫人ふじんであった光明こうみょうてい設置せっちされた私的してき写経しゃきょうしょにおいておこなわれた。このような私的してき写経しゃきょうしょ祈願きがんなどをするさい臨時りんじ設置せっちされるもので、当時とうじ貴族きぞく慣行かんこうしたがったものである。この写経しゃきょうは2おこなわれており、栄原さかえはら永遠えいえんおとこは1度目どめかみかめ4ねん3がつからよく5ねん3がつまではもと懐妊かいにんしたさい男子だんし出産しゅっさん祈願きがんしたもので、2かいかみかめ5ねん9がつまつからおこなわれた写経しゃきょうもと菩提ぼだいとむらうためだったとしている。また、写経しゃきょうした経典きょうてんが『だい般若はんにゃけい』であることから、たんなる安産あんざん祈願きがんではなく光明こうみょう出産しゅっさん国家こっかてき意味いみっていたことがうかがえるとしている[246][247]

五月ごがついちにちけい

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がついちにちけい』のうち『おもね闍世おうけい まき』の巻末かんまつ

天平てんぴょう元年がんねん(729ねん)に光明こうみょう皇后こうごうになると写経しゃきょうしょはそのまま皇后こうごうみやしょくまれ、継続けいぞくして写経しゃきょう事業じぎょうおこなうようになる[246]天平てんぴょう5ねんから天平てんぴょうかちたから8さい(756ねん)までにおこなわれた一切経いっさいきょう(あらゆる仏教ぶっきょう経典きょうてん)の写経しゃきょうもっとだい規模きぼおこなわれた写経しゃきょう事業じぎょうで、その経典きょうてん願文がんもんにある天平てんぴょう12ねん5がつ1にち日付ひづけから『五月ごがついちにちけい』とばれる[248]

この写経しゃきょうとうさんせんだい追善ついぜん供養くようとして発願ほつがんされたものだが、天平てんぴょう8ねんからは帰朝きちょうしたげん昉がもたらした目録もくろくによる写経しゃきょうへと方針ほうしん転換てんかんされている[248]。その一切経いっさいきょう写経しゃきょう度々どど中断ちゅうだんされているが、1かい中断ちゅうだん阿倍あべ立太子りったいしかかわり、2かいは『福寿ふくじゅてら般若はんにゃけい』『北大ほくだい写経しゃきょう』の写経しゃきょうによる中断ちゅうだんで、3かい東院とういんうつし一切経いっさいきょうしょから福寿ふくじゅてら写経しゃきょうしょへの移行いこう期間きかんとされる。底本ていほん入手にゅうしゅできずに4かい中断ちゅうだんとなった天平てんぴょう14ねんまつにはそのかずは4561かんおよんだ。そのげん昉の目録もくろくにないしょう疏・べつせいなども写経しゃきょうされるようになり、この写経しゃきょう事業じぎょう目的もくてき経典きょうてん研究けんきゅう資料しりょう作成さくせいへと発展はってんしたとかんがえられる。つづいて天平てんぴょう20ねん(748ねん)からおよそ2年間ねんかん中断ちゅうだんがあるが、山下やました有美ゆみこうけん即位そくい目前もくぜんひじりたけしが『華厳経けごんきょう』の写経しゃきょうおこなったことによる中断ちゅうだんとしている。天平てんぴょうかちたから2ねん(750ねん)に再開さいかいされた『がついちにちけい』の写経しゃきょう事業じぎょう大仏だいぶつ開眼かいがんかい期限きげん設定せっていされ、どう3ねんまでに三蔵さんぞうしゅうでん完了かんりょうしてどう5ねん東大寺とうだいじ大仏だいぶつ奉納ほうのうされた。しかし、そのも疏(経典きょうてん注釈ちゅうしゃくしょ)の写経しゃきょう継続けいぞくされどう8ねん(756ねん)のりまでに総数そうすうはおよそ6500かんおよんだ。以上いじょうのおよそ20年間ねんかんおよぶ『がついちにちけい』の写経しゃきょう事業じぎょうは、当時とうじ史料しりょうに「つねうつし」と記録きろくされており、その写経しゃきょう意味いみする「あいだうつし」「そとうつし」と区別くべつされている[248]

天平てんぴょうかちたから6ねん(764ねん)から天平てんぴょうたから4ねん(760ねん)までのあいだに、『がついちにちけい』はむらさきほろ中台ちゅうたい主体しゅたいとなってかんけい底本ていほんとはべつ経典きょうてんによって校訂こうていすること)がおこなわれ、日本にっぽん国内こくない唯一ゆいいつ絶対ぜったい信頼しんらいせいをもつ経典きょうてんとして不動ふどう地位ちい[249]。なお、『がついちにちけい』はせいくらいんひじりぞうやく750かん民間みんかんやく250かん現存げんそんしている[250]

ひつじさるかん一切経いっさいきょうたたえさん浄土じょうどけい周忌しゅうきとき一切経いっさいきょう

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天平てんぴょうたから4ねん(760ねん)2がつに、ふたた一切経いっさいきょう3433かん写経しゃきょう(『ひつじさるかん一切経いっさいきょう』)がめいじられた。この写経しゃきょうについて栄原さかえはらは、同年どうねん正月しょうがつ死去しきょした藤原ふじわらきた夫人ふじん菩提ぼだいとむらうために光明こうみょう発願ほつがんしたとしている。しかし同年どうねん6がつ光明こうみょう死去しきょするとそののうちに光明こうみょう菩提ぼだいとむらうための『しょうさん浄土じょうどけい』1800かん写経しゃきょうめいじられ、『ひつじさるかん一切経いっさいきょう』の写経しゃきょうは760かんりとなった[251]。さらに、光明こうみょういち周忌しゅうきのために一切経いっさいきょう写経しゃきょう(『しゅうとき一切経いっさいきょう』)が計画けいかくされ、翌年よくねん3がつ5にちまでに5330かん書写しょしゃ完了かんりょうさせられた[251]。このさい写経しゃきょう事業じぎょうは、けい140にんそう潢10にん校正こうせい20にん動員どういんされるという前例ぜんれいのない規模きぼおこなわれた[252]

文化ぶんかてき側面そくめん

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らくあつしろん

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らくあつしろん

光明皇后こうみょうこうごう臨。巻首かんしゅみぎ)と巻末かんまつひだり)の自署じしょせいくらいんぞう

王羲之おうぎしの『らくあつしろん』を臨書りんしょした名品めいひん本文ほんぶんは43ぎょうおくじくづけ黄麻おうまいちちょうえて「天平てんぴょうじゅうろくねんじゅうがつさんにち744ねん11月11にちふじさんむすめ」と、年紀としのり署名しょめいがあり、光明皇后こうみょうこうごうが44さいときしょだとかる。署名しょめい部分ぶぶん別紙べっしいでおり、本文ほんぶんとやや書風しょふうことなるとなされたことなどから、かつては皇后こうごう自筆じひつでないのではとのせつもあったが、本文ほんぶんや『もりたてなり雑書ざっしょ要略ようりゃく』との詳細しょうさい比較ひかくなどから、現在げんざい皇后こうごう真筆しんぴつうたが意見いけん皆無かいむって[253]料紙りょうしちょうはんぎ、たて25 cm、ながさ126.6 cm。みぎ画像がぞうではかりづらいが、しろ麻紙ましたてに0.6 cmごとにすだれのようなならぶ「たてすだれ」とばれる精良せいりょうかみもちいており、紙質かみしつうすいため、現在げんざいはそこにいている。あきらだい翻刻ほんこくされた『らくあつしろん』とくらべると脱字だつじすうヶ所かしょあり、反対はんたいに2ぎょう行末ゆくすえの「ためれつ以叙而」がおおい。しかし、この6文字もじがないとぶんつづかない[254]

筆力ひつりょくけんであるが、文字もじ構成こうせい軽視けいし目立めだつ。かみにはたてせんがあるのでをつければ文字もじれつととのえるのは容易よういなはずだが、表題ひょうだいの「らくあつしろん」からいきなりみぎにずれ、そのくのをつぎとし、行間ぎょうかん不揃ふぞろいである。文字もじ間隔かんかくおおきさも均一きんいつで、行末ゆくすえ文字もじちいさく扁平へんぺいになってしまうあやまりをなんかえす。文字もじ単体たんたいても、毛筆もうひつ状態じょうたいくなかったのか、筆先ふでさきが2つにれたりかすれている箇所かしょがしばしばられ、均衡きんこういたゆい散見さんけんする。しかし、ながした文字もじ一切いっさいなく、日本にっぽん書道しょどううえほとん類例るいれいのないつよふか起筆きひつつよおくふで、そしてつよふかおわりひつのもつ表現ひょうげんりょくが、構成こうせい杜撰ずさんさをおおかくし、光明皇后こうみょうこうごうつよ決意けつい決断けつだんかんじさせる魅力みりょくてき作品さくひん仕上しあがっている。」書家しょか石川いしかわきゅうは『らくあつしろん』を以上いじょうのようにき、光明皇后こうみょうこうごう意志いしだけによって意志いし集合しゅうごうたい、「意志いし化成かせい」とひょうしている[255]

もりたてなり雑書ざっしょ要略ようりゃく

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標題ひょうだいもりもり正蔵しょうぞう)が編纂へんさんした速成そくせい手紙てがみ模範もはん例文れいぶんしゅう意味いみで、書簡しょかん往復おうふく2つうを1くみとして36くみ模範もはん例文れいぶん記載きさいされている。書写しょしゃされた時期じきあきらかではないが、筆致ひっちから前述ぜんじゅつらくあつしろんよりこうかんがえられる。『東大寺とうだいじ献物けんもつちょう』には「頭陀寺ずだじ碑文ひぶん幷楽あつしろんもりたてなりいちかん」としるされており、元々もともと碑文ひぶんらくあつしろんわせていちかんであったが裁断さいだんされ、もりたてなり部分ぶぶんのみがのこされたとかんがえられる[256]たて27.0 cmで、様々さまざまいろ麻紙まし19はりわせているが、いちはばおおむね37.3 cm程度ていどである。らくあつしろん臨書りんしょなのにたいもりたてなりうんであり、はやしは「特色とくしょくある字形じけい字配じくばりがあり、女性じょせいとはおもえない自由じゆう闊達かったつさがうかがえ、気品きひんたかうつくしい」とひょうしている[257][256]

このしょには、「積善せきぜんふじ(せきぜんのとうけ)」という朱印しゅいんされている。この言葉ことばは『えきけい』に由来ゆらいし、天智天皇てんぢてんのう病床びょうしょう中臣鎌足なかとみのかまたりおくった言葉ことばからられている。その意味いみは「代々だいだい善行ぜんこうかさなって藤原ふじわら子孫しそんはその祝福しゅくふくける」であり、光明皇后こうみょうこうごう藤原ふじわら出自しゅつじであることをつよ意識いしきしていたあらわれとされる[12]

和歌わか

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和歌わかは『万葉集まんようしゅう』に3しゅ[注釈ちゅうしゃく 18]、『拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』には1しゅとられている。

わが背子せこにんませば いくばくか このゆきうれしからまし
意訳いやく:このゆきおっと二人ふたりられたならば、どんなにうれしいことでしょう。『万葉集まんようしゅう』8かん-1658。光明こうみょうひじりたけしけておもいをんだうた立后りっこうさくかんがえられるが時期じきあきらかではない[258]
朝霧あさぎりの たなびく田居たいかりむかも がやどのはぎ
意訳いやく朝霧あさぎりがたなびくいているかりを、めておくことができるであろうか、わたしいえはぎは。『万葉集まんようしゅう』19かん-4224。吉野よしのみや行幸ぎょうこうしたさいんだうたまれた時期じきあきらかではないが、瀧浪たきなみ天平てんぴょう8ねん(736ねん)と推測すいそくしている[259]
大船おおぶねかじしげるつらぬき この吾子あご韓国かんこくときかみたち
意訳いやく大船おおぶね沢山たくさんかじけて、このとうつかわします、かみ々の庇護ひごがありますように。『万葉集まんようしゅう』19かん-4240。天平てんぴょうかちたから4ねん(752ねん)におい藤原ふじわら清河きよかわから大使たいしとしておくすときにおくったうた[192]
みそちあまりふたつのすかたそなへたるむかしのひとのふめるあとそこれ
詞書ことばがき光明皇后こうみょうこうごう山階やましなてらにあるふつあとにかきつけたまひける。『拾遺しゅうい和歌集わかしゅうまきだい20[260]

伝説でんせつ

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歌川うたがわ国芳くによし木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅう』「赤坂あかさか 光明皇后こうみょうこうごう」。中山道なかせんどう赤坂あかさか(あかさか)宿やどあか(あか)をとす光明皇后こうみょうこうごうとをかけた洒落しゃれで、身体しんたいから後光ごこうはっする病人びょうにんおもね閦如らいであることをしめしている。

もっとられている伝説でんせつは、せんにん風呂ふろ伝説でんせつである。よくられる『げんとおるしゃくしょ』にしるされる伝説でんせつ概略がいりゃくは「ふつ啓示けいじにより光明こうみょう浴室よくしつててせんにんあかると請願せいがんてた。せんにんハンセン病はんせんびょう患者かんじゃあらわれたが光明こうみょうおくすることなくあらい、患者かんじゃねがいによりうみった。すると患者かんじゃおもね閦仏化身けしんであることをあきらかにして姿すがたした。その光明こうみょうおもね閦寺を建立こんりゅうした」というもので[261]平安へいあん後期こうき成立せいりつかんがえられる[262]。この伝説でんせつもと鎌倉かまくら時代じだいには忍性にんしょう北山きたやまじゅうはちあいだ建立こんりゅうしたほか[263]太平洋戦争たいへいようせんそうまえには小学校しょうがっこう教科書きょうかしょにもげられていた[264]

信仰しんこうしんあつ光明こうみょうげん昉に私淑ししゅくしていたとかんがえられており、一説いっせつにはすみてら建立こんりゅうげん昉のためであったとされているが[265]のち二人ふたり関係かんけいには様々さまざま俗説ぞくせつまれた。『今昔こんじゃく物語ものがたり』には「光明こうみょうげん昉を寵愛ちょうあいしたため、くないうわさながれた」とあり、『源平げんぺい盛衰せいすい』ではこう嗣のらん原因げんいん光明皇后こうみょうこうごうげん昉の密通みっつうであったとしている。また仏教ぶっきょう批判ひはんする平田ひらた篤胤あつたねは、『ぞく神道しんとう大意たいい』に光明こうみょうげん昉のぜんたまんだとしるしている[266]

また『のべれきそうろく』には「おさな光明こうみょう市場いちば商人しょうにんしゃくおしえたところ、みな感心かんしんされて「もし天子てんしつかえて良風りょうふうべれば、度量衡どりょうこう天下てんか流布るふするだろう」とたたえられた」という伝説でんせつしるされている[267]

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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漫画まんが

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テレビドラマ

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宝塚歌劇たからづかかげき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 天平てんぴょう12ねん(740ねん)の『五月ごがついちにちけい』にしるされる署名しょめい。『げんとおるしゃくしょ』には「ひかかがやくようなうつくしさ」という由来ゆらいしるされているが、笹山ささやま晴生はるお八重樫やえがしただしいにしえらは『金光かねみつあきらさいかちおうけい』に由来ゆらいするとしている[2][3][4]
  2. ^ 略称りゃくしょうひとしせい皇太后こうたいごう[7]
  3. ^ らくあつしろんしるされる署名しょめい[9]
  4. ^ 署名しょめいの「ふじさんむすめ」「ふじさんじょ」から推測すいそくされるせつ[35]。ただし、光明こうみょうさんじょであったとしる史料しりょうはなく、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』は次女じじょ[35]、『一代いちだいよう』はろくじょ[36]、『興福寺こうふくじりゅう』がく『たから』はななじょ[37]などとしるす。
  5. ^ 奈良なら時代じだいでは夫婦ふうふ各々おのおの住宅じゅうたくち、母方ははかた養育よういくされるのが普通ふつうである[43]
  6. ^ くび養育よういくされたいえについては、宮子みやこはは賀茂かもうりやしきとするせつもある[45]
  7. ^ 仁徳天皇にんとくてんのう最初さいしょ皇后こうごう葛城かつらぎむすめいわひめいのち立后りっこうしたことをす。
  8. ^ 後宮こうきゅう(しりへ)の政治せいじ。のちにてんじて皇后こうごうによる政治せいじてき内助ないじょ[103]
  9. ^ ただし一帯いったいからは飛鳥あすか時代じだいかわら出土しゅつどしており、福山ふくやま敏男としお前身ぜんしん寺院じいんとうていまれたとしている[115]
  10. ^ おとうとたちばなたすくため改姓かいせいしてもためおういでいるのにたいし、諸兄しょけい葛城王かつらぎおうから改名かいめいしている。
  11. ^ 橘奈良麻呂たちばなのならまろへん以降いこう広岡ひろおか朝臣あそんたまものせい
  12. ^ 木本もくほんによると具体ぐたいてきには、たちばな大伴おおとも佐伯さえき安積あさか擁立ようりつはか勢力せいりょくとしている[137]
  13. ^ ただし、このぞう作風さくふう平安へいあん前期ぜんきである[169]
  14. ^ むらさきほろとは天帝てんてい場所ばしょ意味いみする[183]
  15. ^ 木本もくほんは、ひじりたけしのこみことのり反故ほごにされたことについて、ひじりたけし事前じぜんだれにも相談そうだんしていなかったのだろうと推測すいそくしている[212]
  16. ^ 奈良なら麻呂まろ消息しょうそくについて記録きろくはないが、獄死ごくししたとするのが定説ていせつである[207]
  17. ^ ぞく日本にっぽん』には光明こうみょうときためつくられたとしるされるが、造営ぞうえい担当たんとうしたみやつこ金堂こんどうしょ設置せっち天平てんぴょうたから3ねんなつごろである[234]
  18. ^ だい9かん-4268を光明こうみょう御製ぎょせいとするせつもあるが、ここでは出典しゅってんとした瀧浪たきなみしたがう。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c コトバンク: 光明皇后こうみょうこうごう.
  2. ^ 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. 121–124.
  3. ^ a b 義江よしえ明子あきこ 2009, pp. 37–38.
  4. ^ 笹山ささやま晴生はるお 1975, pp. 110–114.
  5. ^ 吉川よしかわ真司しんじ 2011, pp. 124–126.
  6. ^ a b c 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. 249–250.
  7. ^ a b ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから4ねんうるう4がつ28にちじょうおよび6がつ17にちじょう
  8. ^ a b 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. 1–3.
  9. ^ a b 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. 217–221.
  10. ^ a b c 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. 186–188.
  11. ^ a b c d 瀧浪たきなみ貞子さだこ 2017, pp. ⅰ-ⅳ.
  12. ^ a b はやしりくろう 1981, pp. 1–2.
  13. ^ はやしりくろう 1981, pp. 195–200.
  14. ^ a b c さぎもり浩幸ひろゆき 2004, pp. 48–51.
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参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき

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論文ろんぶんなど

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  • 大友おおとも裕二ゆうじ「「長屋王ながやおうへん」における「藤原ふじわらよん」について」『日本にっぽんがく研究けんきゅうだい22かん金沢工業大学かなざわこうぎょうだいがく日本にっぽんがく研究所けんきゅうじょ、2019ねんNAID 40022165550 
  • 小野おの健吉けんきち奈良なら時代じだい浄土じょうど庭園ていえん-阿弥陀あみだ浄土じょうどいんとその前身ぜんしんたるかん無量むりょう寿ことぶきいん」『ひがしアジアにおける理想郷りそうきょう庭園ていえん』、国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ文化ぶんか遺産いさん遺跡いせき整備せいび研究けんきゅうしつ、2009ねんdoi:10.24484/sitereports.16671-13564 
  • 滝川たきがわ政次郎まさじろうむらさきほろ中台ちゅうたいこう」『法制ほうせい論叢ろんそうだい4さつ (律令りつりょうもろせいおよれいそとかん研究けんきゅう)、角川書店かどかわしょてん、1967ねんdoi:10.11501/2998672 
  • 水野みずの柳太郎りゅうたろう「いわゆる光明こうみょう立后りっこうみことのりについて」『奈良なら史学しがくだい26かん角川書店かどかわしょてん、2008ねんNAID 120002694661 

辞典じてんなど

webなど

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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