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藤原ふじわら宇合

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藤原ふじわら 宇合
藤原ふじわら宇合『前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 奈良なら時代じだい
生誕せいたん もちすべ天皇てんのう8ねん694ねん
死没しぼつ 天平てんぺい9ねん8がつ5にち737ねん9月3にち
改名かいめい うまよう→宇合
官位かんい せいさん参議さんぎ式部しきぶきょうだいおさむそち
主君しゅくん 元正がんしょう天皇てんのう聖武天皇しょうむてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらしき
父母ちちはは ちち藤原不比等ふじわらのふひとはは蘇我そが娼子蘇我そが連子つれこむすめ
兄弟きょうだい 武智たけち麻呂まろ房前ふさざき宮子みやこ文武ぶんぶ天皇てんのう夫人ふじん)、ちょう娥子長屋王ながやおうわらわ)、宇合麻呂まろひかり明子あきこ聖武天皇しょうむてんのう皇后こうごう)、多比たびのう橘諸兄たちばなのもろえしつ)、殿しんがり刀自とじ?(大伴おおとも慈斐しつ
つま 石上いしがみこくもり石上麻呂いそのかみのまろむすめ
おもね禰娘(高橋たかはしかさ朝臣あそんむすめ
しょう治田はるたいさお麿まろおとこうし養女ようじょ
わかおんな久米くめ奈保なお麻呂まろむすめ?)
家主やぬしむすめ佐伯さえきいさお麻呂まろむすめ
こうままし清成きよなり綱手つなで麻呂まろ百川ももかわぞう麻呂まろ藤原ふじわらさかなめいしつ藤原ふじわら巨勢こせ麻呂まろしつ、掃子
特記とっき
事項じこう
藤原ふじわらしき
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藤原ふじわら 宇合(ふじわら の うまかい、もちすべ天皇てんのう8ねん694ねん〉 - 天平てんぺい9ねん737ねん〉)は、奈良なら時代じだい公卿くぎょうはつうまよう右大臣うだいじん藤原不比等ふじわらのふひと三男さんなん藤原ふじわらしき官位かんいせいさん参議さんぎ勲等くんとうくんとう

経歴けいれき

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れいかめ2ねん716ねん)8がつだい9遣唐使けんとうし使節しせつ任命にんめいされるが、うまようから副使ふくしにんぜられ(とう押使多治比たじひけんもり)、まもなくせいろくからかい昇進しょうしんしてしたがえ叙爵じょしゃくする。このときから大使たいしである大伴おおとも山守やまもり位階いかいしたがえであり、大使たいし副使ふくし位階いかいおなじとすることめずらしく、この叙位じょいたいしてちちとう政治せいじりょくはたらいていたこと想定そうていされる[1]れいかめ3ねん717ねん)6がつから7がつごろ入唐にっとうし、10月に長安ながやす到着とうちゃくする。養老ようろう2ねん718ねん)10がつ遣唐使けんとうしぶしいちぎょう九州きゅうしゅう帰着きちゃく[2]よく養老ようろう3ねん719ねん正月しょうがつ復命ふくめいたす[3]。宇合はから副使ふくしこうによりせいからせいじょう昇叙しょうじょされた。なお、遣唐使けんとうしぶしとしての入唐にっとうつうじて、うまようから宇合改名かいめいしている。

同年どうねん7がつ按察使設置せっちに、常陸ひたちまもるとして安房あわ上総かずさ下総しもうさ3こくの按察使にんぜられる。養老ようろう4ねん720ねん)8がつちちとうが薨じると、よく養老ようろう5ねん721ねん正月しょうがつにそのである藤原ふじわらよん兄弟きょうだいはそれぞれ大幅おおはばじょけるが、宇合はよんかいすすんでせいよんじょうじょせられる。

かみひさし元年がんねん724ねん)3がつ海道かいどう蝦夷えぞ反乱はんらんこして、陸奥むつだいじょう佐伯さえき麻呂まろ殺害さつがいする[4]。そのため、宇合は式部しきぶきょう官職かんしょくにあったが、4がつぶし大将軍だいしょうぐん任命にんめいされ反乱はんらん鎮圧ちんあつするために遠征えんせいし、11月に帰還きかん[5]。このこうによりよくかみかめ2ねん725ねん正月しょうがつしたがえさんくんとう叙位じょい叙勲じょくんけ、公卿くぎょうれっする。

そのなが式部しきぶきょうつとめる一方いっぽうで、かみひさし3ねん726ねんづくり難波なんばみやごとにんぜられ、後期こうき難波なんばみや造営ぞうえい責任せきにんしゃねる。かみかめ6ねん729ねん)の長屋王ながやおうへんさいしては、長屋王ながやおう謀反むほんかんして密告みっこくおこなわれると、ただちに宇合はろくまもる兵士へいしひきいて長屋王ながやおうてい包囲ほういするひとし軍事ぐんじめん主要しゅよう役割やくわりたした[6]。なお、へんでの活躍かつやくにもかかわらず、すで藤原ふじわらから2めい武智たけち麻呂まろ房前ふさざき)の政官せいかん輩出はいしゅつしていたこともあり、この時点じてんでの宇合の参議さんぎ昇進しょうしん見送みおくられている。

天平てんぺい3ねん731ねん)8がつしょかんじん推薦すいせんにより、6めいもの大量たいりょう参議さんぎ抜擢ばってきおこなわれ、宇合はおとうと麻呂まろとも参議さんぎ昇進しょうしん藤原ふじわらよん兄弟きょうだい全員ぜんいん政官せいかんとなり、藤原ふじわらよん政権せいけん確立かくりつされた。同年どうねん11がつ畿内きないそうかん諸道しょどう鎮撫ちんぶ使設置せっちされると、畿内きないふくそうかんにんぜられる(畿内きないだいそうかんしん田部たなべ親王しんのう)。天平てんぴょう4ねん732ねん)、地方ちほう軍備ぐんび体制たいせい整備せいびをおこなうために節度せつど使かれると、宇合は西海にしうみみち節度せつど使にんぜられ、九州きゅうしゅう赴任ふにんする。赴任ふにんにあたって宇合が作成さくせいした漢詩かんしが『ふところふう』にあり[7]高橋虫麻呂たかはしのむしまろ見送みおく和歌わかが『万葉集まんようしゅう』にのこる。九州きゅうしゅうでは軍事ぐんじ行動こうどうマニュアルとして「しき」を整備せいびする。やく50ねんたからひさし11ねん780ねん)になっても大宰府だざいふたいして、宇合のしきもとづいて警固けいごをおこなうようにみことのりれいており[8]、宇合が整備せいびしたしき後世こうせいがれ活用かつようされていた様子ようすうかがわれる[9]天平てんぴょう6ねん734ねんせいさんいたる。

天平てんぴょう9ねん737ねん平城京へいじょうきょうなか疫病えきびょう猖獗しょうけつ(しょうけつ)をきわめるなか、8がつ5にち藤原ふじわらよん兄弟きょうだい最後さいご薨去こうきょした。享年きょうねん44。最終さいしゅう官位かんいせいさん参議さんぎ式部しきぶきょうけんだいおさむそち

かんれき

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ぞく日本にっぽん』による。

系譜けいふ

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注記ちゅうきのないものは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 木本きもと[2013: 33]
  2. ^ ぞく日本にっぽん養老ようろう2ねん10がつ20日はつかじょう
  3. ^ ぞく日本にっぽん養老ようろう3ねん正月しょうがつ10日とおかじょう
  4. ^ ぞく日本にっぽんかみひさし元年がんねん3がつ25にちじょう
  5. ^ ぞく日本にっぽんかみひさし元年がんねん11がつ29にちじょう
  6. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう元年がんねん2がつ10日とおかじょう
  7. ^ ふところふう』93
  8. ^ ぞく日本にっぽん宝亀ほうき11ねん7がつ15にちじょう
  9. ^ 土佐とさ[2012: 4]
  10. ^ 木本きもと[2013: 35]
  11. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくとう。ただし、反対はんたいろん根強ねづよくはっきりしたことは不明ふめい
  12. ^ 公卿くぎょう補任ほにん

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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