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藤原ふじわらりょうつぎ

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藤原ふじわら りょうつぎ
時代じだい 奈良なら時代じだい
生誕せいたん れいかめ2ねん716ねん
死没しぼつ たからひさし8ねん9月18にち777ねん10月23にち
改名かいめい 宿やど麻呂まろりょうつぎ
官位かんい したがえ内大臣ないだいじんおくせいいち太政大臣だじょうだいじん
くんよんとう
主君しゅくん 聖武天皇しょうむてんのうこうけん天皇てんのう淳仁天皇じゅんにんてんのうしょうとく天皇てんのうひかりじん天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらしき
父母ちちはは ちち藤原ふじわら宇合
はは石川いしかわこく咸大刀自とじ石上麻呂いそのかみのまろむすめ?)
兄弟きょうだい こうままし清成きよなり綱手つなで麻呂まろ百川ももかわぞう麻呂まろ藤原ふじわらさかなめいしつ藤原ふじわら巨勢こせ麻呂まろしつ、掃子
つま 阿倍あべ美奈みな阿倍あべうるちちゅうむすめ
蓼原たではらむすめ
おつ牟漏桓武かんむ天皇てんのう皇后こうごう)、のうばらちょうえだたくよし藤原ふじわらかえで麻呂まろしつ人数にんずう藤原ふじわらわししつ)、藤原ふじわらしつ藤原ふじわらひさししゅしつ諸姉しょし藤原ふじわら百川ももがわしつ
特記とっき
事項じこう
平城ひらじろ嵯峨天皇さがてんのう外祖父がいそふ
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藤原ふじわら りょうつぎ(ふじわら の よしつぐ)は、奈良なら時代じだい公卿くぎょうはつ宿やど麻呂まろ(すくなまろ)。藤原ふじわらしきである参議さんぎ藤原ふじわら宇合次男じなん官位かんいしたがえ内大臣ないだいじんおくせいいち太政大臣だじょうだいじん勲等くんとうくんよんとう平城ひらじろ嵯峨さがりょう天皇てんのう外祖父がいそふ

経歴けいれき

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天平てんぺい12ねん740ねん)に発生はっせいしたあにこう反乱はんらん藤原ふじわらひろ嗣のらん)に連座れんざして伊豆いずこくへと流罪るざいとなる[1]天平てんぴょう14ねん742ねん)につみゆるされしょう判事はんじにんぜられ、天平てんぴょう18ねん746ねんせいろくからしたがえじょせられる。

その越前えちぜんまもる上総かずさまもる相模さがみもり上野うえのまもる地方ちほうかんや、みんしょうみぎちゅうべんみやつこみや大輔だいすけきょうかん歴任れきにんするが実績じっせきげること出来できなかった。くわえて、みなみきたくらべるとしき衰退すいたいりはいちじるしく、宿やど麻呂まろ不遇ふぐう日々ひびおくっていた。当時とうじ従兄じゅうけいみなみ藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ絶頂ぜっちょうであり、天平てんぴょうたから6ねん762ねん)にはなか麻呂まろの3にん息子むすこ真先まっさきくん麻呂まろあさかり)が参議さんぎとなる一方いっぽう宿やど麻呂まろは47さいにしていまだにしたがえじょう位階いかいあまんじていた。そのような状況じょうきょうなか宿やど麻呂まろ佐伯さえきこんじん石上宅嗣いそのかみのやかつぐ大伴家持おおとものやかもちらと結託けったくなか麻呂まろ暗殺あんさつ計画けいかく企図きとするも計画けいかくなか麻呂まろがわ漏洩ろうえい天平てんぴょうたから7ねん763ねん)に4にんらえられるが、宿やど麻呂まろ単独たんどく犯行はんこう主張しゅちょうはちしいたげひとつであるだい不敬ふけいとのつみによりかいかんうえせい剥奪はくだつされた。なお、の3にんつみわれなかったものの九州きゅうしゅう左遷させんされた(佐伯さえきこんじん大宰府だざいふ営城かん石上宅嗣いそのかみのやかつぐだいおさむしょう大伴家持おおとものやかもち薩摩守さつまのかみ)。

天平てんぴょうたから8ねん764ねん)9がつなか麻呂まろ反乱はんらんこすと(藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん)、宿やど麻呂まろ詔勅しょうちょくへいすうひゃくにんひきいてこれをち、したがえじょうからさんかい昇進しょうしんしてしたがえよん昇叙しょうじょされるとともくんよんとう叙勲じょくんされ、さらに同年どうねん10がつにはせいよんじょうだいおさむそち叙任じょにんされた。天平てんぺい神護かんご2ねん766ねん)にはしたがえさん昇進しょうしん参議さんぎにんぜられた石上宅嗣いそのかみのやかつぐとも公卿くぎょうれっす。

神護かんごけいくも4ねん770ねん参議さんぎ昇進しょうしんしてまもなくしょうとく天皇てんのう崩御ほうぎょ皇嗣こうし選定せんていにあたってはおとうと百川ももかわ従兄じゅうけいきた藤原ふじわらひさししゅらととも白壁しらかべおうひかりじん天皇てんのう)の擁立ようりつ尽力じんりょくし、せいさん中納言ちゅうなごん叙任じょにんされた。同年どうねんままし改名かいめい宝亀ほうき2ねん771ねん)に左大臣さだいじん永手ながて死去しきょするとひかりじん天皇てんのう擁立ようりつ功臣こうしんとして藤原ふじわら一門いちもん中心ちゅうしんてき存在そんざいとなり、中納言ちゅうなごんから一挙いっきょうちしんにんぜられ、右大臣うだいじん大中おおなかしんきよし麻呂まろいで、太政官だじょうかん次席じせきめる。この右大臣うだいじんうちしん併置へいち背景はいけいには、右大臣うだいじんきよし麻呂まろには太政官だじょうかん政務せいむにあたらせ、ひかりじん即位そくい貢献こうけんしたりょうつぎうちしんにんじて側近そっきんとして政務せいむたらせようとしたと推測すいそくされる[2]。なお、当時とうじ太政官だじょうかんせんしゃとしてきよし麻呂まろりょうつぎはほぼ同数どうすうあらわれており[3]当時とうじ太政官だじょうかんにはにん権力けんりょく並立へいりつしていたとられる[4]。ここで、きよし麻呂まろ左大臣さだいじんりょうつぎ右大臣うだいじんとする方法ほうほうかんがえられるが、位階いかいせいさんであるりょうつぎしたがえ大納言だいなごん文室ふむろ大市おおいち超越ちょうえつさせることができなかった[5]大中おおなかしんという家柄いえがらからきよし麻呂まろ左大臣さだいじん就任しゅうにんはばかったとする見解けんかいがある[6]。このころになるとままし権力けんりょくいちにぎっておもいのままに政治せいじおこない、かんじん人事じんじ自由じゆうにしたという[7]宝亀ほうき5ねん774ねんしたがえ

宝亀ほうき8ねん777ねん正月しょうがつ内大臣ないだいじんにんぜられるが、同年どうねん9がつ18にち薨御享年きょうねん62。最終さいしゅう官位かんい内大臣ないだいじんしたがえ即日そくじつしたがえいち位階いかいおくられた。

万葉集まんようしゅう』にられた和歌わか作品さくひんはないが、天平てんぴょうたから元年がんねん757ねん)12月18にちさんかたちおうていうたげつて誦されたつまうた[8]がある。

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ぞく日本にっぽん』による。

系譜けいふ

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阿倍あべ美奈みなとのあいだまれたむすめおつ牟漏は桓武かんむ天皇てんのうとのあいだ平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう高志こうし内親王ないしんのうもうけ、平城ひらじろ天皇てんのう即位そくいともない、りょうつぎせいいち太政大臣だじょうだいじん追贈ついぞうされた。しかしながら、男子だんしにはめぐまれず越前えちぜんまもりなどをつとめた一人ひとり息子むすこたく長岡京ながおかきょうぞくおそわれて死亡しぼうするといえ断絶だんぜつするにいたった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 公卿くぎょう補任ほにん
  2. ^ 土居どい[2020: 40]
  3. ^ 土居どい[2020: 42]
  4. ^ 二宮にのみや[1962: 10]
  5. ^ 倉本くらもと[2000: 101]
  6. ^ はやし[1994: 35]
  7. ^ ぞく日本にっぽん宝亀ほうき8ねん9がつ18にちじょう
  8. ^ 藤原ふじわら宿やど麻呂まろつま石川いしかわ女郎じょろううすあい離別りべつ悲恨作歌さっかまき20・4491ばん
  9. ^ みは「いしかわのくにみなのおおとじ」

出典しゅってん

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  • 宇治谷うじたにはじめぞく日本にっぽん』(ちゅう下巻げかん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1995ねん
  • 中川なかがわおさむ藤原ふじわらりょうつぎへん」『奈良ならちょう政治せいじ研究けんきゅう高科たかしな書店しょてん、1991ねん
  • 中川なかがわおさむ藤原ふじわらりょうつぎ境涯きょうがい」『北海道ほっかいどう私学しがく教育きょういく研究けんきゅう協会きょうかい研究けんきゅう紀要きよう』12ごう、1967ねん
  • 木本きもと好信よしのぶ石上宅嗣いそのかみのやかつぐ藤原ふじわらりょうつぎ百川ももかわ兄弟きょうだい」『律令りつりょう貴族きぞく政争せいそうはなわ書房しょぼう、2001ねん
  • 土居どい嗣和「律令制りつりょうせい大臣だいじんからみたひかりひとし桓武かんむ」『早稲田大学わせだだいがく高等こうとう学院がくいん研究けんきゅうねんだい64かん早稲田大学わせだだいがく高等こうとう学院がくいん、2020ねん3がつ、35-56ぺーじISSN 0287-1653NAID 120006821751 
  • 二宮にのみや正彦まさひこうちしん内大臣ないだいじんこう -藤原ふじわら朝臣あそんぎょめい主題しゅだいとして-」『ぞく日本にっぽん研究けんきゅう』911、1962ねん
  • はやしりくあきら桓武かんむちょう廟堂びょうどう構成こうせいとその特徴とくちょう」『桓武かんむちょうろん雄山閣ゆうざんかく、1994ねん
  • 倉本くらもと一宏かずひろ内大臣ないだいじん沿革えんかくこう」『摂関せっかん政治せいじ王朝おうちょう貴族きぞく吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん
  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん