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大中おおなかしんきよし麻呂まろ

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大中おおなかしん きよし麻呂まろ
大中おおなかしんきよし麻呂まろ/菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 奈良なら時代じだい
生誕せいたん 大宝たいほう2ねん702ねん
死没しぼつ のべれき7ねん7がつ28にち788ねん9月6にち
別名べつめい きよまんりょきよしまんりょ
官位かんい せい右大臣うだいじん
主君しゅくん 聖武天皇しょうむてんのうこうけん天皇てんのう淳仁天皇じゅんにんてんのうしょうとく天皇てんのうひかりじん天皇てんのう桓武かんむ天皇てんのう
氏族しぞく ちゅうしん朝臣あそん大中おおなかしん朝臣あそん
父母ちちはは ちちちゅうしん麻呂まろ
はは多治比たじひしまむすめおもね岐良
兄弟きょうだい ちゅうしんひがしじんちゅうしん安比あっぴとうちゅうしん広見ひろみ
ちゅうしん長人ながとちゅうしんゆたかじんちゅうしんゆたかあし
きよし麻呂まろちゅうしんたい麻呂まろ
つま 多治比たじひあねまたはおつ奈子
宿やど麻呂まろろうつぎ麻呂まろしょさかな老人ろうじんこん麻呂まろ藤原ふじわらたき麻呂まろしつ
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大中おおなかしん きよし麻呂まろ(おおなかとみ の きよまろ)は、奈良なら時代じだい公卿くぎょう歌人かじんきよまんりょきよしまんりょともく。せいちゅうしん朝臣あそんのち大中おおなかしん朝臣あそん中納言ちゅうなごんちゅうしん麻呂まろなななん官位かんいせい右大臣うだいじん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

三河みかわじょう式部しきぶだいすすむ神祇じんぎだいゆう神祇じんぎしょうふくなどをて、天平てんぺい15ねん743ねんしたがえ神祇じんぎ大副おおそい叙任じょにんされる。ひじりたけしあさすえ天平てんぴょう19ねん747ねん尾張おわりもりとして地方ちほうかんてんじるが、こうけんあさはい天平てんぴょうかちたから3ねん751ねんしたがえじょうじょせられ、天平てんぴょうかちたから6ねん754ねん神祇じんぎ大副おおそいかえまかいでひだりちゅうべんにんぜられた。

そのは、天平てんぴょうかちたから9さい757ねんせい天平てんぴょうたから3ねん759ねんせいじょう藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ政権せいけんにおいて順調じゅんちょう昇進しょうしんし、天平てんぴょうたから6ねん762ねん正月しょうがつしたがえよんじょせられると、同年どうねん12がつにはなか麻呂まろであるくん麻呂まろあさかりとも参議さんぎ叙任じょにんされ公卿くぎょうれつした。また同年どうねん8がつには、藤原ふじわらさとし麻呂まろ上道じょうとう正道せいどうらととも中宮ちゅうぐういんして淳仁天皇じゅんにんてんのう勅旨ちょくし宣布せんぷ伝達でんたつする任務にんむつとめた[1]よく天平てんぴょうたから7ねん763ねんひだりだいべん摂津せっつ大夫たいふね、天平てんぴょうたから8ねん764ねん正月しょうがつにはしたがえよんじょうにんぜられる。

しかし、同年どうねん9がつ発生はっせいした藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらんにおいては、こうけん上皇じょうこうがわについてせいよん昇叙しょうじょされ、よく天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)にはくんよんとう叙勲じょくんける。また同年どうねんしょうとく天皇てんのう重祚じゅうそだい嘗会神祇じんぎはくとして供奉ぐぶしたが、幾度いくどにもわた神祇官じんぎかんかんじんつとめ、清廉せいれん勤勉きんべんであることを天皇てんのうよりしょうされ[2]したがえさんじょせられている。

しょうとくあさからひかりじんあさにかけても、神護かんごけいくも2ねん768ねん中納言ちゅうなごん神護かんごけいくも4ねん770ねんせいさん大納言だいなごんつづ昇進しょうしんつづけ、たからひさし2ねん771ねん)には左大臣さだいじん藤原ふじわらひさししゅ薨去こうきょ右大臣うだいじん吉備真備きびのまきび致仕ちしともない、したがえ右大臣うだいじん叙任じょにんされて、以後いご宝亀ほうき11ねん780ねんまつまで太政官だじょうかん首班しゅはんめた。なお、宝亀ほうき2ねん771ねん皇太子こうたいし親王しんのう東宮とうぐうでんとなるも、よく宝亀ほうき3ねん772ねん親王しんのう皇太子こうたいしはいされたために東宮とうぐうでんめんぜられる。しかし、宝亀ほうき4ねん773ねん)に今度こんど山部やまべ親王しんのう(のち桓武かんむ天皇てんのう)が立太子りったいしするとふたた東宮とうぐうでんかえまかされた。また、このあいだ神護かんごけいくも3ねん769ねんちゅうしん朝臣あそんから大中おおなかしん朝臣あそんせい改姓かいせいしている。

宝亀ほうき3ねん772ねんせいてんおう元年がんねん781ねん桓武かんむ天皇てんのう即位そくいあいだもなく致仕ちしゆるされ、のべれき7ねん788ねん)7がつ28にち薨去こうきょ享年きょうねん87。最終さいしゅう官位かんいぜん右大臣うだいじんせい

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国家こっかむかしのことをよくっている老臣ろうしんであり、朝廷ちょうてい儀式ぎしきについておおくをそらんじかつ熟練じゅくれんしていた。高位こうい官職かんしょくにあって政務せいむるにあたって、年老としおいても精勤せいきんおこたることがなかったという[2]

当時とうじとしては異例いれいの87さいという長寿ちょうじゅたもち、文武ぶんぶあさから桓武かんむあさきゅうあさわたってき、ひじりたけしあさから桓武かんむあさ六朝りくちょうつかえた。

歌人かじんとして『万葉集まんようしゅう』に5しゅ採録さいろくされている。

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『ぞく日本にっぽん』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ちゅうしん系図けいず」(『ぐんしょ類従るいじゅうまき62所収しょしゅう)による。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから6ねん8がつ11にちじょう
  2. ^ a b ぞく日本にっぽんのべれき7ねん7がつ28にちじょう
  3. ^ だい日本にっぽん古文書こもんじょへんねん文書ぶんしょ)』2かん335ぺーじ
  4. ^ だい日本にっぽん古文書こもんじょへんねん文書ぶんしょ)』15かん130ぺーじ
  5. ^ a b 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]