(Translated by https://www.hiragana.jp/)
朝臣 - Wikipedia コンテンツにスキップ

朝臣あそん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝臣あそん(あそん、あそみ)は、684ねん天武天皇てんむてんのう13ねん)に制定せいていされたはちしょくせいやくさのかばね制度せいどあらたにつくられたせいかばねで、うえから番目ばんめ相当そうとうする。 うえからいち番目ばんめ真人まさとまひとは、おも皇族こうぞくあたえられたため、皇族こうぞく以外いがい臣下しんかなか事実じじつじょうもっとうえ地位ちいにあたる。 ふるくは「あそみ」とみ、阿曽あそよしだんしんともいた。

制定せいていされた背景はいけい

[編集へんしゅう]

この朝臣あそんつくられた背景はいけいには、従来じゅうらいしん(おみ)、れん(むらじ)、くび(おびと)、じき(あたい)などのせい上位じょうい位置いちするせいつくることで、せい優劣ゆうれつ待遇たいぐうをつけ、天皇てんのうへの忠誠ちゅうせいあつ(うじ)を優遇ゆうぐうし、皇室こうしつへの権力けんりょく掌握しょうあくをはかったとおもわれる。

たまものせいれい

[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』には、684ねん天武天皇てんむてんのう13ねん)11月1にちはじめて朝臣あそんたまわった52として、だいさんりんだい春日しゅんじつ阿倍あべきょせらぜんきの波多はた物部ものべ平群へぐりすずめちゅうしん大宅おおたく粟田あわた石川いしかわ桜井さくらい[よう曖昧あいまい回避かいひ]采女うねめ田中たなかしょう墾田こんでん穂積ほづみやまかも小野おの川辺かわべくぬぎ柿本かきもと軽部かるべわかさくら岸田きしだこうむかい宍人ししうどいぬじょううえすみ星川ほしかわむねかたくるま持氏もちうじあや下道げどう伊賀いがおもね閉氏はやしなみわたる下毛しもげあじみちもり大野おおの[よう曖昧あいまい回避かいひ]坂本さかもと池田いけだ玉手たまてりゅうしるされている[1]

朝臣あそんは、おもみずのえさるらん功績こうせきのあったおもしんせい氏族しぞくふる時代じだい皇室こうしつからかれたものがおおい)に優先ゆうせんてきあたえられた。そのつぎ位置いちするおもれんせい氏族しぞくには宿禰すくねせいあたえていた。しかしながら、その朝廷ちょうてい功績こうせきった氏族しぞくには朝臣あそんせい下賜かししていき、奈良なら時代じだいにはほとんどの朝臣あそんせいつようになった。

朝臣あそんたまものせいのその

[編集へんしゅう]

さらに時代じだいくだると、大半たいはん貴族きぞく武士ぶし藤原ふじわら朝臣あそんたちばな朝臣あそんみなもと朝臣あそんひら朝臣あそんなどの子孫しそんめられてしまい、また、武家ぶけ台頭たいとうによる下級かきゅう貴族きぞく没落ぼつらくもあり、朝臣あそんは、序列じょれつけのためせいとしての意味いみうしなってしまい、公式こうしき文書ぶんしょ使つか形式けいしきてきなものになっていった。

平安へいあん時代じだい以降いこう公卿くぎょうさん以上いじょうおよ参議さんぎ)は、した朝臣あそんいみなしたおおやけ大臣だいじん)ないしきょうという敬称けいしょうを以ってしょうした。よん以下いかものいみなしたせいをつけて呼称こしょうした。ではなくいみなした朝臣あそんとつけたものとく名乗なの朝臣あそんという。

有名ゆうめい朝臣あそん姓氏せいしぞく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本書紀にほんしょきまきだいじゅうきゅう天武天皇てんむてんのう13ねん11月1にちじょう
  2. ^ ひろし4ねん12月17にち1848ねん1がつ22にち

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]