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橘諸兄たちばなのもろえ

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たちばな 諸兄しょけい / 葛城王かつらぎおう
橘諸兄たちばなのもろえ・『前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 奈良なら時代じだい
生誕せいたん 天武天皇てんむてんのう13ねん684ねん
死没しぼつ 天平てんぴょうかちたから9さい[1]1がつ6にち(757ねん1がつ30にち
別名べつめい 井手いで左大臣さだいじん西院さいいん大臣だいじん
墓所はかしょ 京都きょうと綴喜つづきぐん井手いでまち南開みなみびらき
官位かんい せいいち左大臣さだいじん
主君しゅくん 元明もとあき天皇てんのう元正がんしょう天皇てんのう聖武天皇しょうむてんのうこうけん天皇てんのう
氏族しぞく たちばな朝臣あそん
父母ちちはは ちちつとむおうはは橘三千代たちばなのみちよ
兄弟きょうだい 諸兄しょけいため牟漏女王じょおう
つま 藤原ふじわら多比たびのう藤原不比等ふじわらのふひとむすめ
奈良なら麻呂まろあきらよるまえ
特記とっき
事項じこう
初代しょだいたちばな長者ちょうじゃ
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たちばな 諸兄しょけい(たちばな の もろえ)は、奈良なら時代じだい皇族こうぞく公卿くぎょうはつ葛城王かつらぎおう葛木かつらぎおう[2]で、臣籍しんせき降下こうかしてたちばな宿禰すくねのちたちばな朝臣あそんせいとなる。さとしたち天皇てんのう後裔こうえいで、だいおさむそちつとむおうはは橘三千代たちばなのみちよで、光明こうみょう光明皇后こうみょうこうごう異父いふいもうとにあたる。官位かんいせいいち左大臣さだいじん井手いで左大臣さだいじんまたは西院さいいん大臣だいじんごうする。初代しょだいたちばな長者ちょうじゃ

経歴けいれき

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和銅わどう3ねん710ねん無位むいからしたがえ直叙ちょくじょされ、よく和銅わどう4ねん711ねんうまりょうかんにんぜられる。元正がんしょうあさでは、れいかめ3ねん717ねんしたがえじょう養老ようろう5ねん721ねんせい養老ようろう7ねん723ねんせいじょう順調じゅんちょう昇進しょうしんする。

かみひさし元年がんねん724ねん聖武天皇しょうむてんのう即位そくいこうあいだもなくしたがえよんじょせられる。かみかめ6ねん729ねん長屋王ながやおうへんのちおこなわれた3がつ叙位じょいにてせいよんじょせられる[3]と、同年どうねん9がつひだりだいべんにんぜられ、天平てんぴょう3ねん731ねんしょかんじん推挙すいきょにより藤原ふじわら宇合麻呂まろ兄弟きょうだい多治比たじひけんもりらとともに参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれっす。天平てんぴょう4ねん732ねんしたがえさん天平てんぺい8ねん736ねんおとうとためおうともはは橘三千代たちばなのみちよ氏姓しせいであるたちばな宿禰すくねせいぐことをねが許可きょかされ、以後いご橘諸兄たちばなのもろえ名乗なの[4]

天平てんぴょう9ねん737ねん)4がつから8がつにかけて、天然痘てんねんとう流行りゅうこうによって太政官だじょうかん首班しゅはんにあった右大臣うだいじん藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ政権せいけんにぎっていた藤原ふじわらよん兄弟きょうだいをはじめ、中納言ちゅうなごん多治比たじひけんまも政官せいかん次々つぎつぎ死去しきょしてしまい、9月には出仕しゅっしできるしゅたる公卿くぎょうは、参議さんぎ鈴鹿すずかおう橘諸兄たちばなのもろえのみとなった。そこで急遽きゅうきょ朝廷ちょうていでは鈴鹿すずかおう太政官だじょうかんごとに、諸兄しょけい次期じき大臣だいじん資格しかくゆうする大納言だいなごん任命にんめいして応急おうきゅうてき体制たいせいととのえた。よく天平てんぴょう10ねん738ねん)には諸兄しょけいせいさん右大臣うだいじんにんぜられ、いちじょうとして一躍いちやく太政官だじょうかん中心ちゅうしんてき存在そんざいとなる。これ以降いこう国政こくせい橘諸兄たちばなのもろえ担当たんとう遣唐使けんとうしでのわたりとう経験けいけんがある下道げどう真備まび(のち吉備真備きびのまきび)・げんをブレインとして抜擢ばってきして、聖武天皇しょうむてんのう補佐ほさすることになった。天平てんぴょう11ねん739ねん正月しょうがつ諸兄しょけいしたがえ昇叙しょうじょされるが、ははけんけんやしなえさんせんだい同族どうぞくであるけんけんやしなえせき近々ちかぢか参議さんぎ登用とうようふくみでしたがえよん昇叙しょうじょさせる。さらに同年どうねん4がつにはこのいしくわえて、かんじんである大野東おおのひがしじん巨勢こせ奈弖麻呂まろ大伴おおともぎゅうよう参議さんぎにんじて、実態じったいとして橘諸兄たちばなのもろえ政権せいけん成立せいりつさせた[5]

天平てんぴょう12ねん740ねん)8がつだいおさむしょう藤原ふじわらひろが、政権せいけん批判ひはんしたうえ僧正そうじょうげん昉とみぎ衛士えじとく下道げどう真備まび追放ついほうするよう上表じょうひょうおこな[6]。しかし実際じっさいには、国政こくせいてのひらっていた諸兄しょけいへの批判ひはんおよ藤原ふじわらによる政権せいけん回復かいふく企図きとしたものと想定そうていされる。9月にはいこう九州きゅうしゅうへいうごかして反乱はんらんこすと(藤原ふじわらひろ嗣のらん)、10がつまつ聖武天皇しょうむてんのう伊勢いせこく行幸ぎょうこうする。さらにらん平定へいてい天皇てんのう平城京へいじょうきょうもどらず、12月になると橘諸兄たちばなのもろえみずからの本拠地ほんきょち山城やましろこく綴喜つづきぐん井手いで)にほどちかきょうじんきょう整備せいびしたきょうひとしみやはいり、遷都せんとおこなわれた。

天平てんぴょう15ねん743ねんしたがえいち左大臣さだいじん叙任じょにんされ、天平てんぴょうかんたから元年がんねん749ねん)4がつにはついにせいいちに陞階。生前せいぜんせいいちじょされた人物じんぶつ日本にっぽん史上しじょうでも6にん数少かずすくない。またのこりの5にんのうち、2人ふたり天皇てんのう生母せいぼ外祖母がいそぼであり、最後さいご生前せいぜん叙位じょいされた三条さんじょう実美みみぼっする寸前すんぜんであったため、純粋じゅんすい官職かんしょくのぼりつめてせいいち状態じょうたい政務せいむにあたったのは藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ藤原ふじわらひさししゅ諸兄しょけい史上しじょう3にんかぎられる。

しかし、同年どうねん8がつこうけん天皇てんのう即位そくいすると、国母こくぼ光明皇后こうみょうこうごう威光いこう背景はいけいに、大納言だいなごんけんむらさきほろれい藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ発言はつげんりょくすようになる。これに先立さきだって天平てんぴょう17ねん745ねんごろより諸兄しょけい子息しそく奈良なら麻呂まろ長屋王ながやおう遺児いじであるぶんおう擁立ようりつして謀反むほん企図きとはじめる[7]。この謀反むほんうごきにたいする諸兄しょけい動向どうこうあきらかでないが、諸兄しょけいなか麻呂まろ台頭たいとう対抗たいこうせずにおだやかにしょしたとして、関与かんよ否定ひていさらには奈良なら麻呂まろうごきをめたとするもの[8][9]積極せっきょくてき関与かんよがありのちの讒言ざんげんつながったとするものの双方そうほう見方みかたがある[10]後者こうしゃ立場たちばからは、天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)に以下いか開催かいさいされた諸兄しょけいによる橘奈良麻呂たちばなのならまろらん関係かんけいしゃ邸宅ていたくでのうたげ決起けっき勧誘かんゆう意思いし疎通そつう謀反むほん具体ぐたいてき計画けいかく策定さくていであったとし[11]、それを裏付うらづける証拠しょうことして、後年こうねん橘奈良麻呂たちばなのならまろらん終結しゅうけつらん未然みぜん防止ぼうし目的もくてきとしてかんとどのないかんじんうたげしゅう禁止きんしされたこと[12]げている[13]

同年どうねん11がつひじりたけし上皇じょうこう病気びょうきしていたさいに、さけせき上皇じょうこうについて不敬ふけい発言はつげんがあり謀反むほん気配けはいがあるむね側近そっきん佐味さみ宮守みやもりから讒言ざんげんけてしまう[17]。これは、11月28にちおこなわれた橘奈良麻呂たちばなのならまろていでの酒宴しゅえんでの発言はつげんすと想定そうていされるが、上皇じょうこうぼつ皇嗣こうし問題もんだいについてかたったとかんがえられ[18]前述ぜんじゅつ謀反むほんかんしてはなしおよ讒言ざんげんつながった可能かのうせいもある[19]。この讒言ざんげんについてはひじりたけし上皇じょうこうわなかったが、諸兄しょけいはこのことをよく天平てんぴょうかちたから8さい756ねん)2がつ辞職じしょくもう致仕ちしした。

天平てんぴょうかちたから9さい757ねん)1がつ6にち薨去こうきょ享年きょうねん74。最終さいしゅう官位かんいぜん左大臣さだいじんせいいち諸兄しょけい没後ぼつごあいだもない同年どうねん7がつに、子息しそく奈良なら麻呂まろ橘奈良麻呂たちばなのならまろらんこし獄死ごくししている。

橘諸兄たちばなのもろえ政権せいけん政治せいじ

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橘諸兄たちばなのもろえ太政官だじょうかん最高さいこうとなったのは天平てんぴょう9ねん(737ねん)である。このとし猛威もういるった天然痘てんねんとうによって、政権せいけん中枢ちゅうすうにいた右大臣うだいじん藤原ふじわら武智たけち麻呂まろをはじめ参議さんぎ藤原ふじわら房前ふさざき参議さんぎ藤原ふじわら麻呂まろ参議さんぎ藤原ふじわら宇合藤原ふじわらよん兄弟きょうだいがすべて病死びょうし[20]大納言だいなごんだった諸兄しょけい太政官だじょうかんしゅはんとなった[21]。このとし天然痘てんねんとう流行りゅうこう非常ひじょうだい規模きぼなもので、日本人にっぽんじんこうの25-35%[22]あるいは30-50%[23]うしなわれた。聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごう当面とうめん政治せいじてき課題かだい疫病えきびょうそこなわれた国力こくりょく回復かいふくであり、光明こうみょう異父いふけいであり、藤原不比等ふじわらのふひとむすめつまとして藤原ふじわらとも親和しんわてき[24]皇族こうぞく諸兄しょけい首班しゅはんえて皇族こうぞく貴族きぞく一体いったいとなった挙国一致きょこくいっち政治せいじ体制たいせいをとった[25]聖武天皇しょうむてんのう諸兄しょけい関係かんけいは、ひじりたけし天平てんぴょう12ねん諸兄しょけい相楽さがら別業べつぎょう行幸ぎょうこうしてうたげおこな[26]退位たいい天平てんぴょうかちたから4ねん(752ねん)も行幸ぎょうこうする[27]など非常ひじょう親密しんみつであり、元正がんしょう太上天皇だじょうてんのうとも天平てんぴょう15ねん難波なんばみやふくすうかいえんもよおすなど良好りょうこう関係かんけいたもっていた[26]

諸兄しょけい政権せいけんは、国力こくりょく回復かいふくのためにまず郡司ぐんじ定員ていいん削減さくげん郷里きょうりせい廃止はいしなど地方ちほう行政ぎょうせい簡素かんそおこなうと同時どうじに、東国とうごく農民のうみん負担ふたん軽減けいげん目的もくてきとして防人さきもり廃止はいしし、また諸国しょこく兵士へいし健児けんじ停止ていし公民こうみん負担ふたん軽減けいげんした。これらの兵士へいし当時とうじ軍事ぐんじてき緊張きんちょうにあったしんそなえたものであったが[28]軍備ぐんび維持いじする余裕よゆうがなくなってしんたいする強硬きょうこうさく転換てんかんせざるをなくなった。さら天平てんぴょう15ねんには農民のうみん人口じんこう減少げんしょう荒廃こうはいした土地とちさい開発かいはつを促べく墾田こんでん永年えいねん私財しざいほう発布はっぷした[29][24]あわせて国司くにしぐんによる善政ぜんせい督励とくれいされた[30]。また天平てんぴょう12ねん東国とうごく行幸ぎょうこうから17ねん平城京へいじょうきょう遷都せんと(もと平城京へいじょうきょうもどった)まで、聖武天皇しょうむてんのう次々つぎつぎ新都しんと建設けんせつして遷都せんとかえした彷徨ほうこうねん期間きかんちゅうひじりたけしむらさきかおりらくみや行幸ぎょうこうしたさい天皇てんのう留守るすまもって政治せいじまっとうすることもしばしばった[31]

諸兄しょけい致仕ちしする天平てんぴょうかちたから8さい(756ねん)まで太政官だじょうかんさい上位じょういしゃであったが、上記じょうきのようにこうけん天皇てんのう即位そくいした天平てんぴょうかちたから元年がんねん(749ねん)に光明皇后こうみょうこうごう皇太后こうたいごうになったことにさいして皇后こうごうみやしょくから再編さいへんされたむらさきほろ中台ちゅうたい長官ちょうかん(むらさきほろれい)に藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ就任しゅうにんして諸兄しょけいなら権力けんりょくれた[32][33]諸兄しょけい政権せいけん時代じだいは「現実げんじつ容認ようにんてき方針ほうしん」で運営うんえいされたが、天平てんぴょうかちたから4ねんごろからかんじん綱紀こうきめやしんたいする高圧こうあつてき外交がいこう姿勢しせい復活ふっかつし、このころ政治せいじ実権じっけん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ移行いこうしたことがれる[34]天平てんぴょうかちたから4ねん(752ねん)の大仏だいぶつ開眼かいがんには諸兄しょけい参加さんかして舞楽ぶがくつづみったが[35]天平てんぴょうかちたから6ねん(754ねん)とうからわたってきた鑑真がんじん右大臣うだいじん藤原ふじわら豊成とよしげ大納言だいなごん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ以下いか多数たすうかんじん東大寺とうだいじ拝礼はいれいしたときに左大臣さだいじん諸兄しょけい参加さんかしておらず、隠居いんきょちか状態じょうたいにあったとおもわれる[36]

人物じんぶつ

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大伴家持おおとものやかもち親交しんこうがあり、『万葉集まんようしゅう』の撰者せんじゃ1人ひとりとするせつもある。『栄花物語えいがものがたりがつうたげまきに、「むかし高野たかの女帝にょてい御代みよ天平てんぴょうかちたから5ねんには左大臣さだいじんたちばなきょう諸兄しょけいしょきょう大夫たいふとうたかりて万葉集まんようしゅうをえらびきゅう」との記述きじゅつがあり、もとこよみ校本こうほん裏書うらがきに、またあるしゅ写本しゃほん奥書おくがきにもはいっており、一定いってい信憑しんぴょうせいをもつものとされる。のち仙覚せんがく橘諸兄たちばなのもろえ大伴家持おおとものやかもち2人ふたりどもせんせつとなえている。『万葉集まんようしゅう』では8しゅうたのこしている[37]

藤原ふじわらとの関係かんけい

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ははけんけんやしなえさんせんだい最初さいしょつとむおうとつ葛城王かつらぎおうためおう牟漏女王じょおう(藤原ふじわら房前ふさざきとつぐ)をんだのちつとむおう別離べつりし、藤原不比等ふじわらのふひと結婚けっこんして安宿やすやどひめ(光明皇后こうみょうこうごう)を[38]諸兄しょけいとうむすめ多比たびのう(たひの)と結婚けっこんしており、諸兄しょけいたち兄弟きょうだい藤原ふじわら関係かんけい良好りょうこうであった[39]

たちばなせい

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諸兄しょけい皇族こうぞく出身しゅっしんでありもと葛城王かつらぎおうであった。たちばなせい和銅わどう元年がんねん(708ねん)ははけんけんやしなえさんせんだいたいして当時とうじ元明もとあき天皇てんのうから「さかずきかべたたちばな」とともたちばな宿禰すくねせいあたえられたのがはじまり[40]さんせんだい天平てんぴょう5ねん(733ねん)にぼっしたため、この時点じてんたちばな宿禰すくね名乗なのるものはいなくなった。3ねん天平てんぴょう8ねん葛城王かつらぎおうおとうとためおうが「ははたちばな宿禰すくねせいぎたい」と上表じょうひょうし、聖武天皇しょうむてんのうから葛城王かつらぎおうたいし「たちばな宿禰すくね諸兄しょけい」、ためおうに「たちばな宿禰すくねため」のあたえられた。そのさいせいともに「たちばなじつさへはなさへそのさへえだ霜降しもふりれどいや常葉ときわ」というしゅく元正がんしょう太上天皇だじょうてんのうからたまわった。一般いっぱん皇族こうぞくたまものせいされた場合ばあいおとうとためのようにおうときをそのまま使つかうことがおおい。諸兄しょけいというかれ光明皇后こうみょうこうごう異父いふけいであり、ひじりたけしにとってもあにすじにあたることを強調きょうちょうしたものとかんがえられる[41][42]。なお天平てんぴょうかちたから2ねん(750ねん)宿禰すくねよりもかくじょう朝臣あそんせいあたえられたちばな朝臣あそん諸兄しょけいとなった[43]たちばな諸兄しょけい橘奈良麻呂たちばなのならまろ謀反むほんこしたためおとうとため家族かぞくふくめて一旦いったん途切とぎれたが、その諸兄しょけいけいためけいともたちばな朝臣あそんふくしている[44]能書のうがきとして有名ゆうめい橘逸勢たちばなのはやなりと、嵯峨天皇さがてんのう檀林だんりん皇后こうごうしょうされたよしみ智子さとこ諸兄しょけい曾孫そうそんにあたる[45]

万葉集まんようしゅうとのかかわり

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万葉集まんようしゅうには宴席えんせき中心ちゅうしん短歌たんかが8しゅせられている[37]。8しゅすべてが対人たいじんえいであってどく詠歌えいかいちしゅもない[46]。また『万葉集まんようしゅうまきはちに、738ねん10がつ右大臣うだいじんたちばなきょう旧宅きゅうたく」で大伴家持おおとものやかもちらがうたげいんおこなあきの「黄葉こうよう」をんだうたつくったとある[47]など、諸兄しょけい屋敷やしきではたびたびうたげもよおされたが、そのとき参加さんかしゃ諸兄しょけい自身じしんうた多数たすう万葉集まんようしゅうのこっている。天平てんぴょうかちたから3ねん(751ねん)大伴家持おおとものやかもち諸兄しょけい長寿ちょうじゅ寿ことほぐためにつくったつぎうた万葉集まんようしゅうにあり親密しんみつ関係かんけいにあったことがわかる「いにしえきみさんだいつかまつへけりだいあるじななだいもうさね」[48]諸兄しょけい自身じしんうた批評ひひょうおこなった記録きろくがあり、万葉集まんようしゅう編纂へんさんについても「おそらく元正がんしょう上皇じょうこう意向いこうからだした橘諸兄たちばなのもろえいのちって」大伴家持おおとものやかもち編纂へんさんしたというせつがある[49]

たちばな関連かんれん遺跡いせき

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井手いで左大臣さだいじんばれた橘諸兄たちばなのもろえ邸宅ていたく関係かんけいする社寺しゃじについて確定かくていした遺跡いせきいが、京都きょうと井手いでまちにある奈良なら時代じだい寺院じいん遺跡いせき井手いで寺跡てらあと諸兄しょけい創建そうけんしたとつたえられ、大門だいもん中島なかじま石橋いしばし泉水せんすいなどの地名ちめいのこっている。この付近ふきんには聖武天皇しょうむてんのう行幸ぎょうこうしたという記録きろくのある相楽さがら別業べつぎょうもあったというせつ有力ゆうりょくである[50][51]。また井手いでまちちか木津川きづがわかみつよし寺跡てらあとたちばな造営ぞうえいるものとされている[52]ほかにも井手いで町内ちょうないには「別業べつぎょう井戸いど」とつたえられるろく角井かくいや、諸兄しょけいはかとされる北大塚きたおおつか古墳こふんなどかれかんする史跡しせき伝承でんしょうおおのこっている[51]

系譜けいふ

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さとしたち天皇てんのうの5せい(もしくは4せいまごたる。

かんれき

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ぞく日本にっぽん』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 天平てんぴょうかちたから7ねんから9ねんまでは「とし」。天平てんぴょうたから改元かいげんしたさいに「とし」へふくす。
  2. ^ みは「かつらぎのおおきみ」
  3. ^ このとき葛城王かつらぎおうふくむ3めいのみがかいきゅう昇進しょうしんしており、長屋王ながやおうへん処置しょちについておおきな功績こうせきがあったものとみられる。橘諸兄たちばなのもろえ p23-24
  4. ^ 亀田かめだ隆之たかゆきは、「律令りつりょう貴族きぞく改名かいめいかんする覚書おぼえがき」(関西学院大学かんせいがくいんだいがく人文じんぶん論究ろんきゅう』42かん4ごう(1993ねん))のなかで、「諸兄しょけい」の聖武天皇しょうむてんのうにおける親族しんぞく秩序ちつじょなか自分じぶん諸兄しょけい天皇てんのうにとってはつま同母どうぼけい)にあたる存在そんざいであることを主張しゅちょうする意味合いみあいがあったとしている。
  5. ^ 木本きもと[2017: 3]
  6. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう12ねん8がつ29にち
  7. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから元年がんねん7がつ4にちじょう
  8. ^ 森田もりた越中えっちゅうもり時代じだい大伴家持おおとものやかもち」『金沢かなざわ大学だいがく教育きょういく学部がくぶ教育きょういく学科がっか教育きょういく研究けんきゅう』25ごう、1989ねん
  9. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p219
  10. ^ 木本きもと[2013: 143]
  11. ^ 木本きもと[2013: 146]
  12. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから2ねん2がつ20日はつかじょう
  13. ^ 木本きもと[2013: 145]
  14. ^ 万葉集まんようしゅうまき20-4446~4448
  15. ^ 万葉集まんようしゅうまき20-4449~4451
  16. ^ 万葉集まんようしゅうまき20-4454
  17. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから元年がんねん6がつ28にちじょう
  18. ^ 北山きたやま茂夫しげお大伴家持おおとものやかもち平凡社へいぼんしゃ、1971ねん
  19. ^ 木本きもと[2013: 147]
  20. ^ 当時とうじ有力ゆうりょく皇族こうぞくだった舎人親王とねりしんのうもこのときくなった
  21. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p52-54
  22. ^ ウェイン・フェリスによる推定すいてい 日本にっぽん歴史れきしだい3かん p53
  23. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p55
  24. ^ a b 聖武天皇しょうむてんのうふつ平城京へいじょうきょう p133
  25. ^ 日本にっぽん歴史れきしだい3かん p54
  26. ^ a b 橘諸兄たちばなのもろえ p71
  27. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p202
  28. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p39
  29. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p63-68
  30. ^ 日本にっぽん歴史れきしだい3かんp54
  31. ^ たとえば天平てんぴょう16ねんひじりたけし難波なんばみやからむらさきかおりらく行幸ぎょうこうちゅうに、諸兄しょけい難波なんばみやで「難波なんばみやへの遷都せんとみことのり」をせん読した。
  32. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p190-192
  33. ^ 日本にっぽん歴史れきしだい3かんp58
  34. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p198-202
  35. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p198
  36. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p204
  37. ^ a b 萬葉集まんようしゅうハンドブック p249
  38. ^ 葛城王かつらぎおうが11さいときつとむおう筑紫つくし太宰だざいりつにんじられて九州きゅうしゅう赴任ふにんしたときにさんせんだい親子おやこ藤原ふじわらきょうまりそのとう結婚けっこんしたとおもわれる。橘諸兄たちばなのもろえ p6-7
  39. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p15-16
  40. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p7
  41. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p45-51
  42. ^ れいによれば「諸兄しょけい」は君主くんしゅどう世代せだい年長ねんちょう親族しんぞくをさす。 「けんけんやしなえたちばな美千代みちよ義江よしえ明子あきこ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2009ねん p98
  43. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p194-195
  44. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p220-225
  45. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p223-227
  46. ^ セミナーまんよう歌人かじん作品さくひんだいじゅういちかん 神野かみのこころざし隆光りゅうこう坂本さかもと信幸のぶゆき編集へんしゅう 和泉いずみ書院しょいん発行はっこう 2005ねん p195 ここに諸兄しょけい作歌さっか8しゅ掲載けいさいされている
  47. ^ 天平てんぴょうびとのはないのり-なぞかみつよしてら- 京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ研究けんきゅうセンターへん 2010ねん 柳原やなぎはら出版しゅっぱん p308
  48. ^ 橘諸兄たちばなのもろえ p196-197
  49. ^ 萬葉集まんようしゅうハンドブック p6
  50. ^ 古代こだい寺院じいん造営ぞうえい考古学こうこがく南山城みなみやましろにおける仏教ぶっきょう受容じゅよう展開てんかい- 中島なかじまただし どうなりしゃ 2017ねん p127,p153
  51. ^ a b 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 26 京都きょうと下巻げかん 昭和しょうわ57ねん p645-646
  52. ^ 古代こだい寺院じいん造営ぞうえい考古学こうこがく p42

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 宇治谷うじたにはじめぞく日本にっぽんうえ)』講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1995ねん
  • 木本きもと好信よしのぶ橘諸兄たちばなのもろえ奈良なら麻呂まろへん」『奈良なら時代じだいひとびとと政争せいそうおうふう、2013ねん
  • 木本きもと好信よしのぶきのめし麻呂まろ橘諸兄たちばなのもろえ政権せいけん」『奈良なら時代じだい藤原ふじわら諸氏しょしぞく』おうふう、2004ねん
  • 井上いのうえゆたか橘諸兄たちばなのもろえろんⅠ・Ⅱ」『上代じょうだい文学ぶんがく』5・7、1955・56ねん
  • 横田よこた健一けんいち橘諸兄たちばなのもろえ奈良なら麻呂まろ」『歴史れきし教育きょういく』15-4、1967ねん
  • 市村いちむらひろし橘諸兄たちばなのもろえ」『東洋とうようがく研究けんきゅう』9、1975ねん
  • 直木なおき孝次郎こうじろう諸兄しょけい元正がんしょう太上天皇だじょうてんのう」『国文学こくぶんがく 解釈かいしゃく教材きょうざい研究けんきゅう』23-5、1978ねん
  • 中西なかにしすすむ橘諸兄たちばなのもろえ周辺しゅうへん」『学士がくしかい会報かいほう』795、1992ねん
  • 木本きもと好信よしのぶ藤原ふじわらゆたかなりについて-奈良なら時代じだい中期ちゅうき政治せいじいち動向どうこう-」『甲子園短期大学こうしえんたんきだいがく紀要きよう』35ごう、2017ねん
  • 橘諸兄たちばなのもろえ』 中村なかむらじゅんあきら 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 人物じんぶつ叢書そうしょ 2019ねん
  • 天皇てんのう歴史れきし02 「聖武天皇しょうむてんのうふつ平城京へいじょうきょう」 吉川よしかわ真司しんじ 講談社こうだんしゃ 2011ねん
  • 岩波いわなみ講座こうざ 日本にっぽん歴史れきし だい3かん古代こだい3 岩波書店いわなみしょてん 2014ねん
  • 万葉集まんようしゅうハンドブック」多田ただ一臣かずおみ 三省堂さんせいどう 1999ねん

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