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藤原ふじわらひろ嗣のらん

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藤原ふじわらひろ嗣のらん
戦争せんそう奈良なら時代じだい
年月日ねんがっぴ740ねん
場所ばしょ豊前ぶぜん筑前ちくぜん
結果けっか官軍かんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
朝廷ちょうてい 大宰府だざいふ
指導しどうしゃ指揮しきかん
大野東おおのひがしじん
きのめし麻呂まろ
佐伯さえき常人じょうじん
阿倍あべむし麻呂まろ
藤原ふじわらひろ
藤原ふじわら綱手つなで
多胡たご麻呂まろ
戦力せんりょく
やく1まん7000にん 1まんにん以上いじょう
損害そんがい
- 死罪しざい16にん
ぼつかん5にん
流罪るざい47にん
ざい32にん

藤原ふじわらひろ嗣のらん(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良なら時代じだいきた内乱ないらん藤原ふじわらひろ政権せいけんへの不満ふまんから九州きゅうしゅう大宰府だざいふ挙兵きょへいしたが、官軍かんぐんによって鎮圧ちんあつされた。

経緯けいい

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藤原不比等ふじわらのふひと政権せいけん末期まっきから、日本にっぽんしん朝貢ちょうこうさせることで安定あんていした外交がいこう関係かんけいきずき、それを前提ぜんていとした軍事ぐんじ縮小しゅくしょうおこな経済けいざいてき余裕よゆうった。つづ長屋王ながやおう軍縮ぐんしゅく路線ろせん継承けいしょうしたが藤原ふじわらよん兄弟きょうだいたれてしまう。藤原ふじわらよん兄弟きょうだいとう対立たいりつする渤海同盟どうめいし、とう支援しえんするしん軍事ぐんじてき圧力あつりょくをかける外交がいこう方針ほうしんった。それにともない、西海にしうみみち節度せつど使だい規模きぼ演習えんしゅうおこなうなど、軍事ぐんじ拡張かくちょう路線ろせんてんじた[1]

天平てんぺい9ねん737ねん朝廷ちょうてい政治せいじになっていた藤原ふじわらよん兄弟きょうだい天然痘てんねんとう流行りゅうこうによって相次あいついで死去しきょした。かわって政治せいじになった橘諸兄たちばなのもろえ軍拡ぐんかく政策せいさく天然痘てんねんとうによる社会しゃかい疲弊ひへい復興ふっこうするため、しんとの緊張きんちょう緩和かんわ軍事ぐんじりょく縮小しゅくしょう政策せいさくった[1]。 また、とうから帰国きこくした吉備真備きびのまきびげん重用じゅうようされるようになり、藤原ふじわら勢力せいりょくおおきく後退こうたいした。

天平てんぴょう10ねん738ねん藤原ふじわら宇合長男ちょうなんこう嗣(藤原ふじわらしき)はだいやしなえとく大和やまともりからだいおさむしょうにんじられ、大宰府だざいふ赴任ふにんした。この人事じんじたいしん強硬きょうこうろんしゃだったこう嗣を中央ちゅうおうからとおざけ、しん使つかい迎接げいせつたらせる思惑おもわくがあったが、こう嗣はこれを左遷させんかんじ、つよ不満ふまんいた[1]

天平てんぴょう12ねん740ねん)4がつしん派遣はけんしたしん使つかい[2]かえされるかたちで8がつ下旬げじゅん帰国きこくした。いきどおったこう嗣は8がつ29にち政治せいじ批判ひはんし、吉備真備きびのまきびげん昉の更迭こうてつもとめる上表じょうひょうおくった。同時どうじ筑前ちくぜんこく遠賀おんがぐん本営ほんえいきずき、烽火ほうかはっして太宰府だざいふ管内かんない諸国しょこくへい徴集ちょうしゅうした。軍縮ぐんしゅくによってかんへい動員どういんには時間じかんがかかると予測よそくしたこう嗣は、関門海峡かんもんかいきょうのぞ登美とみ板櫃いたびつ豊前ぶぜんこくくわだてすくいぐん)・京都きょうと豊前ぶぜんこく京都きょうとぐん)のさんぐん鎮にへい増派ぞうはした。また、中央ちゅうおうにはこう嗣の政治せいじ路線ろせん同調どうちょうするちゅうしん名代なだい大和やまと長岡ながおかといった実務じつむかんじんすくなくなく、挙兵きょへいおうじて在京ざいきょう支持しじ勢力せいりょくクーデター成功せいこうすることに期待きたいした[1]

9月3にちこう挙兵きょへいしたとのとびえきにもたらされる[3]聖武天皇しょうむてんのう大野東おおのひがしじん大将軍だいしょうぐんにんじてふしがたなさづけ、ふく将軍しょうぐんにはきのめし麻呂まろにんじられた。東海道とうかいどう東山ひがしやまみち山陰さんいんどう山陽さんようどう南海なんかいどうどうぐん1まん7,000にん動員どういんするようめいじた。4にち朝廷ちょうてい出仕しゅっししていた隼人はやと24にん従軍じゅうぐんめいじられる。5にち佐伯さえき常人じょうじん阿倍あべむし麻呂まろ勅使ちょくしにんじられた。

朝廷ちょうていからは伊勢神宮いせじんぐう幣帛へいはく奉納ほうのうされ、また、諸国しょこく観世音菩薩かんぜおんぼさつぞうをつくり、観世音かんぜおんけい10かん写経しゃきょうして戦勝せんしょう祈願きがんするようめいじられた。

藤原ふじわらひろ嗣のらん関係かんけい拡大かくだい

9月21にち長門ながとこく到着とうちゃくした大野東おおのひがしじんは、渡海とかいのために同地どうち停泊ていはくしているしんせん人員じんいん機器きき徴用ちょうよう許可きょかもとめた。 同日どうじつ額田ぬかたこう麻呂まろが40にんへいとともにひそかに渡海とかいし、登美とみ板櫃いたびつ京都きょうとさん鎮を奇襲きしゅうして営兵1,767にん捕虜ほりょとし、橋頭堡きょうとうほ確保かくほした[1]

9月22にち勅使ちょくし佐伯さえき常人じょうじん阿倍あべむし麻呂まろ隼人はやと24にんへい4,000にんひきいて渡海とかいして、板櫃いたびつ鎭にじんかまえ、一帯いったい制圧せいあつした[1]

こう嗣は大隅おおすみこく薩摩さつまこく筑前ちくぜんこく豊後ぶんごこくへい5,000にんひきいて鞍手くらてどう進軍しんぐんおとうと綱手つなで筑後ちくごこく肥前ひぜんこくへい5,000にんひきいて豊後ぶんごこくから進軍しんぐん多胡たご麻呂まろかわどう進軍しんぐんしてさんぽうから官軍かんぐん包囲ほういする作戦さくせんであった。

9月25にち豊前ぶぜんこくしょ郡司ぐんじが500、80にん、70にんひきいて官軍かんぐん投降とうこうしてきた(『ぞく』)。

9月29にち、「こう嗣は凶悪きょうあく逆賊ぎゃくぞくである。くるった反乱はんらんこして人民じんみんくるしめている。不孝ふこう不忠ふちゅうのきわみで神罰しんばつくだるであろう。これにしたがっているものただちに帰順きじゅんせよ。こう嗣をころせば以上いじょうさづける」とのみことのり九州きゅうしゅう諸国しょこくかんじん百姓ひゃくしょうにあててはっせられた。

10月9にちこう嗣軍1まん板櫃いたびつがわ北九州きたきゅうしゅう)にいたり、かわ西側にしがわ布陣ふじん[4]勅使ちょくし佐伯さえき常人じょうじん阿倍あべむし麻呂まろぐんは6,000にんあまりかわ東側ひがしがわ布陣ふじんした。こう嗣ははやぶさじん先鋒せんぽういかだんで渡河とかしようとし、官軍かんぐんいしゆみふせいだ。常人じょうじんらは部下ぶか隼人はやとてきがわ隼人はやと投降とうこうびかけさせた[5]。すると、こう嗣軍のはやぶさじんるのをやめた。

常人じょうじんらはじゅうこう嗣をんだ。ようやく乗馬じょうばしたこうあらわれ「勅使ちょくしたというがだれだ」とった。常人じょうじんらは「勅使ちょくしはわれわれ佐伯さえき常人じょうじん阿倍あべむし麻呂まろだ」とおうじた。すると、こう嗣は下馬げばして拝礼はいれいし「わたしは朝命ちょうめい反抗はんこうしているのではない。朝廷ちょうていみだ二人ふたり吉備真備きびのまきびげん昉)をばっすることをうているだけだ。もし、わたしが朝命ちょうめい反抗はんこうしているのなら天神てんじん地祇ちぎばっするだろう」とった。常人じょうじんらは「ならば、なぜ軍兵ぐんびょうひきいてせてたのか」とうた。こう嗣はこれにこたえることができずうまってかえした。

この問答もんどういていたこう嗣軍の隼人はやと3にんかわんで官軍かんぐんがわわたり、官軍かんぐんはやぶさじんたすげた。これをて、こう嗣軍の隼人はやと20にん騎兵きへい10あまり官軍かんぐん降伏ごうぶくしてきた。投降とうこうしゃたちは3方面ほうめんから官軍かんぐん包囲ほういするこう嗣の作戦さくせん官軍かんぐん報告ほうこくし、まだ綱手つなで多胡たご麻呂まろぐん到着とうちゃくしていないことをらせた[6]

そのこう嗣軍は板櫃いたびつがわ会戦かいせんやぶれて敗走はいそうした。こう嗣はふねって肥前ひぜんこく松浦まつうらぐんよしみしま五島列島ごとうれっとう)にわたり、そこからしんのがれようとした。ところがふけしま済州さいしゅうとう)のちかくまでふねすすまなくなり、ふうわってもどされそうになった。こう嗣は「わたしはだい忠臣ちゅうしんだ。神霊しんれい見捨みすてることはない。かみ風波ふうはしずめたまえ」といのってえきすずうみとうじたが、風波ふうはさらはげしくなり、よしみしまもどされてしまった。

10月23にちよしみしま現在げんざい宇久島うくしま)に潜伏せんぷくしていたこう嗣は安倍あべくろ麻呂まろによってらえられた[7]

11月1にち大野東おおのひがしじんこう嗣と綱手つなで兄弟きょうだいを、肥前ひぜんこく松浦まつうらぐん唐津からつげん佐賀さがけん唐津からつ)でった[7]

らん鎮圧ちんあつ報告ほうこくがまだ平城京へいじょうきょうとどかないうちに、聖武天皇しょうむてんのう突如とつじょ関東かんとうくだるとてしまった。聖武天皇しょうむてんのう伊賀いがこく伊勢いせこく美濃みのこく近江おうみこくめぐきょうひとしきょう山城やましろこく)にうつった。その難波なんばきょううつり、また平城京へいじょうきょうかえって、と遷都せんとかえすようになる。とお九州きゅうしゅうきたこう嗣のらん聖武天皇しょうむてんのう極度きょくどおそれたためであったとされる。

天平てんぴょう13ねん741ねん)1がつらん処分しょぶん決定けっていし、死罪しざい16にんぼつかん5にん流罪るざい47にんざい32にんつえざい177にんであった。藤原ふじわらしきこう嗣のおとうとたちもおおくが縁坐えんざして流罪るざいしょされた。

らん戦死せんし処罰しょばつされた人物じんぶつ

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家系かけい 氏名しめい 官位かんいなど 処罰しょばつ内容ないよう
藤原ふじわらしき 藤原ふじわらひろ したがえだいおさむしょう 死罪しざいけい
藤原ふじわらしき 藤原ふじわら宿やど麻呂まろ しょう 伊豆いずこくへの流罪るざい
藤原ふじわらしき 藤原田ふじわらだ麻呂まろ しょう 隠岐おきこくへの流罪るざい
藤原ふじわらしき 藤原ふじわら綱手つなで 官位かんい 死罪しざいけい
ちゅうしん ちゅうしん名代なだい したがえよん 流罪るざい
小野おの 小野おのひがしじん そとしたがえひだり兵衛ひょうえりつ つえざい100かいうえ伊豆いずこくへの流罪るざい
その 塩屋しおや麻呂まろ そとしたがえ 流罪るざい
その だいやしなえとくしょうひがしじん そとしたがえ 流罪るざい
その 小長谷こながや常人じょうじん したがえはちじょうだいおさむ史生ふみお 戦死せんし
その 三田みたしおかご 無位むいくわだてすくいぐん板櫃いたびつ鎮大ちょう 戦死せんし
その 凡河内田うちだみち 無位むいくわだてすくいぐん板櫃いたびつ鎮小ちょう 戦死せんし

備考びこう

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  • 大野東おおのひがしじんぐん投降とうこうした豪族ごうぞくれた人数にんずうは、楉(しもと)ぜい麻呂まろの500にんのぞけば、80 - 70にんであり、地方ちほう豪族ごうぞく1人ひとりあたりの軍事ぐんじじょう動員どういんりょくは100にん以下いかで、この人数にんずうは2、3さとぶん兵士へいしはつすう相当そうとうしているとされる[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 山口やまぐちけん 2008, pp. 744–749.
  2. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぺい12ねん4がつ2にちじょう
  3. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう12ねん9がつ3にちじょう、「こうへいうごかし、反乱はんらんした」とある。
  4. ^ ぞく日本にっぽん同年どうねん10がつ9にちじょう
  5. ^ ぞく日本にっぽん』の記述きじゅつでは、「こう嗣にしたがえば、おのれほろぶだけでなく、そのつみ妻子さいし親族しんぞくにまでおよぶぞ」とおどしたことがしるされている。
  6. ^ ぞく日本にっぽん』には、投降とうこう賊軍ぞくぐん作戦さくせん報告ほうこくした隼人はやとは、「ソオノキミタリシサ」としるす。天平てんぴょうかちたから元年がんねん749ねん)8がつ22にちじょうでは、タリシサをそとただしうえからしたがえさづけたとしるされ、賊軍ぞくぐんから投降とうこうしたにもかかわらず、功績こうせきから貴族きぞく地位ちいになっている。
  7. ^ a b ぞく日本にっぽん』より。
  8. ^ 鬼頭おにがしら清明きよあき大和やまと朝廷ちょうていひがしアジア』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1994ねん、pp.171-172.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山口やまぐちけんへん)『山口やまぐちけん 通史つうしへん 原始げんし古代こだい山口やまぐちけん、2008ねん 

関連かんれん項目こうもく

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