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豊前ぶぜんこく

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豊前ぶぜんこく

-豊前ぶぜんこく
-西海にしうみみち
別称べっしょう ゆたかしゅう(ほうしゅう)
ゆたか(にほう)[注釈ちゅうしゃく 1]
所属しょぞく 西海にしうみみち
相当そうとう領域りょういき 福岡ふくおかけん東部とうぶ大分おおいたけん北西ほくせい
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 8ぐん43さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
豊前ぶぜん国府こくふ 1.福岡ふくおかけん京都きょうとぐんみやこまち豊前ぶぜん国府こくふあと
2.(推定すいてい福岡ふくおかけん行橋ゆくはし
豊前ぶぜん国分寺こくぶんじ 福岡ふくおかけん京都きょうとぐんみやこまち豊前ぶぜん国分寺こくぶんじあと
豊前ぶぜん国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい福岡ふくおかけん京都きょうとぐんみやこまち
一宮いちのみや 宇佐うさ神宮じんぐう大分おおいたけん宇佐うさ
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豊前ぶぜんこく(ぶぜんのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。西海にしうみみちぞくし、現在げんざい福岡ふくおかけん東部とうぶおよ大分おおいたけん北西ほくせいぞくする。和名わみょう平安へいあん時代じだいまでは「とよくにのみちのくち」とんだ。

領域りょういき[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい下記かき区域くいき相当そうとうする。

1876ねん明治めいじ9ねん)、豊前ぶぜんいちこく管轄かんかつした小倉こくらけんは、全体ぜんたい福岡ふくおかけん編入へんにゅうされたのち山国川やまくにがわ以東いとうの2ぐん大分おおいたけん編入へんにゅうされた。しかし豊前ぶぜんこくとして共通きょうつう歴史れきしつため、現在げんざいでも文化ぶんかめん生活せいかつめんでのむすきがつよい。豊前ぶぜんこく豊津とよつみやこまち出身しゅっしんさかい利彦としひこはその自伝じでんなかで、「筑前ちくぜん筑後ちくご豊前ぶぜんさんこく福岡ふくおかけんしているのだが、わたし福岡ふくおかけんじんばれることがあまりうれしくなかったなにだか筑前ちくぜん附属ふぞくになったような気持きもちのするのがすこいやだった福岡ふくおかけんというものは、わたしって、故郷こきょうでない。故郷こきょうはただ豊前ぶぜんばかりである。わたしはどこまでも、豊前ぶぜんじんでありたい。ただし豊前ぶぜんなかでも、北部ほくぶろくぐんもと小倉おぐらりょうだけにしたしみがある。」としるしている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

古墳こふん時代じだい豊前ぶぜん国内こくないは、北西ほくせい中心ちゅうしんとした地域ちいき豊国とよくにづくり宇佐うさぐん中心ちゅうしんとした地域ちいき宇佐うさ国造くにのみやつこ設置せっちされた。

7世紀せいきすえに、豊国ほうこく(とよのくに)を分割ぶんかつして豊後ぶんごこくとともにもうけられたとされる。

1871ねん明治めいじ4ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけん豊前ぶぜん国内こくないにあった豊津とよつはん千束せんそくはん中津なかつはんがそれぞれけんとなり、同年どうねん11がつ14にちだい1府県ふけん統合とうごうによって3けんおよび豊前ぶぜん国内こくない日田にったけんかんくわだてすくいぐんひとし)が統一とういつされて小倉こくらけんとなった。

1876ねん明治めいじ9ねん4がつ小倉こくらけん福岡ふくおかけん編入へんにゅうされたが、同年どうねん8がつ豊前ぶぜんこく延喜えんぎしき8ぐん)のうちさい南部なんぶの2ぐん宇佐うさぐん下毛しもげぐん)は大分おおいたけん編入へんにゅうされた。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

国府こくふ[編集へんしゅう]

国府こくふは、なかぐんげん 福岡ふくおかけん1896ねん明治めいじ29ねん2がつ26にち 京都きょうとぐん編入へんにゅう)にあった。なかぐんは、けいぎょう天皇てんのうによる豊国ほうこく地名ちめい伝承でんしょう発祥はっしょう(『風土記ふどき』)である。なお、現在げんざい福岡ふくおかけん京都きょうとぐんみやこまちきゅう豊津とよつまち)の国作こくさく総社そうじゃ地区ちく遺跡いせき発見はっけんされ、豊前ぶぜん国府こくふあと公園こうえんとして整備せいびされている。

国分寺こくぶんじ[編集へんしゅう]

豊前ぶぜん国分寺こくぶんじ
福岡ふくおかけんみやこまち(きゅう豊津とよつまち)

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ33しゃしょう33しゃけい66しゃ記載きさいされている(「豊前ぶぜんこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ3しゃ以下いかしめすもので、すべ名神めいしん大社たいしゃである。
  • 宇佐うさぐん 八幡はちまんだい菩薩ぼさつ宇佐うさみや
  • 宇佐うさぐん うり神社じんじゃ
  • 宇佐うさぐん だいたいひめびょう神社じんじゃ

これらは宇佐うさ神宮じんぐう大分おおいたけん宇佐うさ)にかかわる神社じんじゃである。なお小社しょうしゃ3しゃはいずれも現在げんざい香春かわら神社じんじゃであり、6しゃとも渡来とらいけいかみであることが特色とくしょくである。

総社そうじゃ一宮いちのみや
  • 総社そうじゃ 惣社そうしゃ八幡やはた神社じんじゃ福岡ふくおかけん京都きょうとぐんみやこまち国作こくさく総社そうしゃ
  • 一宮いちのみや 宇佐うさ神宮じんぐう

二宮にのみや以下いか存在そんざいしない。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう[編集へんしゅう]

  • 興国寺こうこくじ - 福岡ふくおかけんふくさとしまち上野うえの
  • 安国寺あんこくじ - 福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきたたてまち

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはん[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国司こくし[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

しゅとして彦山ひこさん権現ごんげん宇佐うさ八幡やはたひとし寺社じしゃ勢力せいりょく、および城井しろい麻生あそうひとし宇都宮うつのみや一族いちぞく中心ちゅうしんとした国人くにびとしゅう割拠かっきょしていた。ここに大内おおうち大友おおともひとし隣接りんせつする戦国せんごく大名だいみょう守護しゅごだいとうとしてすぎ大内おおうちけい)や田原たはら大友おおともけい)をいて、かどつかさぬき香月かつき豊前ぶぜん長野ながの豊前ぶぜん佐々木ささき時枝ときえだなどのかく勢力せいりょくはそのした離合りごう集散しゅうさんかえしていた。

豊臣とよとみ政権せいけん大名だいみょう[編集へんしゅう]

武家ぶけ官位かんいとしての豊前ぶぜんもり[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい以前いぜん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

豊前ぶぜんこく合戦かっせん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 別称べっしょうの「ゆたかしゅう」は、豊後ぶんごこくとあわせて、または単独たんどくでの呼称こしょう。また、「ゆたか」は、豊後ぶんごこくとあわせての呼称こしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 末広すえひろとしじん日田にったけんかん実体じったい : 佐伯さいきはんあずかところ場合ばあい」『大分おおいたけん地方ちほうだい105ごう大分おおいたけん地方ちほう研究けんきゅうかい、1982ねん3がつ、20-37ぺーじNAID 120004878384 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]