(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小倉城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

小倉こくらじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
小倉こくらじょう
福岡ふくおかけん
小倉城復興天守と小倉城庭園
小倉こくらじょう復興ふっこう天守てんしゅ小倉こくらじょう庭園ていえん
別名べつめい 勝山かつやましろゆびがつじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 輪郭りんかくしき平城ひらじろうみじょう
天守てんしゅ構造こうぞう 連結れんけつしきそうとうがた4じゅう5かい(1609ねんきずけ 現存げんそん
連結れんけつしき望楼ぼうろうがた4じゅう5かい(1959ねんさい RCづくり復興ふっこう
築城ちくじょうぬし 毛利もうり毛利もうり勝信かつのぶ
築城ちくじょうねん えいろく12ねん1569ねん[1]
おも改修かいしゅうしゃ 細川ほそかわ小笠原おがさわら
おも城主じょうしゅ 細川ほそかわ小笠原おがさわら
はいじょうねん 慶応けいおう2ねん1866ねん
遺構いこう 石垣いしがきほりそう[2](含障子しょうじほり[2]
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ 天守てんしゅ模擬もぎ庭園ていえん
位置いち 北緯ほくい3353ふん4.0びょう 東経とうけい13052ふん27.32びょう / 北緯ほくい33.884444 東経とうけい130.8742556 / 33.884444; 130.8742556座標ざひょう: 北緯ほくい3353ふん4.0びょう 東経とうけい13052ふん27.32びょう / 北緯ほくい33.884444 東経とうけい130.8742556 / 33.884444; 130.8742556
地図ちず
小倉城の位置(福岡県内)
小倉城
小倉こくらじょう
テンプレートを表示ひょうじ
小倉城の位置(日本内)
小倉城
小倉こくらじょう

小倉こくらじょう(こくらじょう)は、福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきたにある日本にっぽんしろ勝山かちやまじょう[3]勝野かつのしろゆびがつじょうゆう金城きんじょうこいしろなど[よう出典しゅってん]別名べつめいがある。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

1569ねんえいろく12ねん)、中国ちゅうごく地方ちほう毛利もうりしろきずいたことからはじまり、高橋たかはしあきらしゅ毛利もうり勝信かつのぶ居城きょじょうした。1602ねんから細川ほそかわ忠興ただおきやく7ねんかけてからみやつこ天守閣てんしゅかく築城ちくじょう[4]細川ほそかわ熊本くまもとてんふうのち、1632ねん譜代ふだい大名だいみょうである小笠原おがさわら忠真ただざね入城にゅうじょうし、以後いご幕末ばくまつまで小笠原おがさわら居城きょじょうした。

1837ねん失火しっかのため天守閣てんしゅかく焼失しょうしつし、のこ城郭じょうかくも1866ねんだい長州ちょうしゅう征討せいとう混乱こんらんなか小倉こくらはんみずかしろ焼却しょうきゃくした[4]

明治めいじ時代じだいからだい世界せかい大戦たいせんちゅうには、歩兵ほへいだい12旅団りょだんだい12師団しだん司令しれい城内じょうないかれた。戦後せんご1959ねん天守閣てんしゅかく再建さいけんされた[5]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき小倉こくらはん春日しゅんじつしんじうつ編纂へんさんした「くらじょう大略たいりゃく」には、

  • 最初さいしょ築城ちくじょう年代ねんだいあきらかではないがぶんひさし年間ねんかん1264ねん - 1274ねん)に緒方おがた大膳だいぜんあきらおもんみじゅう居城きょじょうした。
  • 緒方おがたおもんみじゅうまご緒方おがた石見いわみまもるおもんみひさしは、のべけい年中ねんじゅう1308ねん - 1311ねん)に水原みずはら備中びっちゅうもりていまことしろとされ、伊予いよこく宇和島うわじままでびた。
  • 1330ねんもととく2ねん)に黒崎くろさき土佐とさ守景もりかげけい小倉おぐらしろきず居城きょじょうとしたが、たてたけし元年がんねん長野ながの七郎しちろうさだによってほろぼされ、長野ながのさだ城主じょうしゅとなった。
  • 長野ながの但馬たじままもるきょうのとき、おうひさし年中ねんじゅう大内おおうちによってほろぼされ、大内おおうちじょうとなり城代じょうだいとしてすぎひだりじょじゅうけんすぎ主膳しゅぜん重之しげゆきすぎ宮内みやうち左衛門さえもんじゅううえ小林こばやし六郎兵衛ろくろうべえこうにんとうかれた。
  • 1442ねん嘉吉よしきち2ねん)に太宰だざいしょうよりゆきふゆとし番兵ばんぺいいたが、さんよんヶ月かげつには原田はらだ近江おうみもりしゅとらうばわれた。
  • 文明ぶんめい年間ねんかん1469ねん - 1486ねん)には菊池きくち出羽守でわのかみ武村たけむら入道にゅうどういちげんとその菊池きくちあら太郎たろうたけりくざいしろしていた。
  • 延徳えんとく2ねん8がつ臼杵きゅうしょ掃部じょ高直こうじきによってとされ、菊池きくちたけしりく平蔵ひらぞう里見さとみ源三郎げんざぶろう介錯かいしゃくにより切腹せっぷくした。
  • えいただし年間ねんかんからとおるろく年間ねんかんにかけては小野田おのだ兵部ひょうぶしょう輔種なおざいしろした。
  • とおるろく4ねん4がつから天文てんもん年間ねんかんは、長野ながの壱岐いきかつもりざいしろした。
  • 弘治こうじからえいろくころ大内おおうち一族いちぞく冷泉れいせん五郎ごろうだかゆうざいしろした。

しるされているが、上記じょうきどう時代じだい信頼しんらいせいたか史料しりょうにはい。

構造こうぞう

[編集へんしゅう]

本丸ほんまる中心ちゅうしんに、みなみ松丸まつまるきたきたまる、それらをかこむようにまるさんまる外郭がいかくはいされたはしごくるわしき平城ひらじろであった。建物たてものは、野面のづら石垣いしがきうえだい天守てんしゅたいらしょう天守てんしゅ1ひら117、じゅう16、櫓門やぐらもん12、狭間はざま3271をはいしていた。城下じょうかは、しろひがしながれる紫川むらさきがわ天然てんねんほりとして活用かつよう城内じょうないまちんだそうかまっていた。

天守てんしゅ

[編集へんしゅう]

細川ほそかわ忠興ただおきによっててられた天守てんしゅは、4じゅう5かいだい天守てんしゅと1じゅうしょう天守てんしゅからなる連結れんけつしきそうとうがた天守てんしゅで、だい天守てんしゅさい上層じょうそう入母屋いりもや破風はふ以外いがい破風はふ簡素かんそ外観がいかんおおきな特徴とくちょうとしていた。最上階さいじょうかいは、3あいだ四方しほう上段じょうだんかこむように東西とうざいに2あいだ×5あいだ南北なんぼくに1あいだ×3あいだ縁側えんがわをめぐらせ、外側そとがわには戸板といたおおった半間はんまはば内縁ないえんがせりしており、「とうづく南蛮なんばんづくり)」としょうされた[11]。この戸板といたくろりで、したかいしろ漆喰しっくいぬりかごとは対照たいしょうてきであったため、「くろだん」とばれていた[11]。『くら見聞けんぶんしゅう』には、このとうづくりの構造こうぞう由来ゆらい記載きさいされている[12]当代とうだい一流いちりゅう茶人ちゃじんであり文化ぶんかじんであった忠興ただおき美意識びいしきあらわれた個性こせいてき独特どくとく外観がいかん天守てんしゅ当時とうじほかるいないものであり、視察しさつおとずれるほどの評判ひょうばんんだ。津山つやまじょう天守てんしゅ高松たかまつじょう天守てんしゅ小倉こくらじょう天守てんしゅ参考さんこうにしたものとつたわる[13]

この天守てんしゅ天保てんぽう8ねん(1837ねん)に失火しっかによって御殿ごてんとともに焼失しょうしつし、のこった天守てんしゅだいには「さんかい」とばれる建築けんちくて、天守てんしゅ代用だいようとしていた[11]

天守てんしゅ寸法すんぽう概要がいよう
階層かいそう 梁間はりま

南北なんぼく

桁行けたゆき

東西とうざい

たか
5かい 6あいだ 8あいだ 1あいだはん
4かい 5あいだ 7あいだ 1あいだはん
3かい 7あいだ 9あいだ 2あいだはん
2かい 10あいだ 12あいだ 2あいだはん
1かい 13あいだ 15あいだ 1あいだはん
総高そうだか

天守てんしゅだいじょうからむね

12あいだ3しゃく5すん
出典しゅってん 豊前ぶぜん小倉こくら天守てんしゅ[11] イラストによる江戸えど時代じだい小倉こくらじょう天守てんしゅ景観けいかん再現さいげん
復興ふっこう天守てんしゅ

現在げんざいられる天守てんしゅは『豊前ぶぜん小倉こくら天守てんしゅ』『小倉こくらじょう絵巻えまき』『のべとおるさんねん巡見じゅんけん上使じょうしこたえしょとうをもとに藤岡ふじおか通夫みちお設計せっけい考証こうしょうにより鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうによって復興ふっこうされたもので、6せんまんえん費用ひようけて1959ねん完成かんせいした。

藤岡ふじおか当初とうしょあん資料しりょう考証こうしょうもとづいたものであったものの、建設けんせつ資金しきん捻出ひねりだした地元じもと商工会しょうこうかいの「おしろ恰好かっこうをよくするためには必要ひつよう[14]という要望ようぼうによって、だい入母屋いりもや破風はふ千鳥ちどり破風はふ唐破風からはふなどの破風はふ追加ついかされてしまったため、外観がいかん史実しじつおおきくことなる。

藤岡ふじおかは「破風はふがなければ天守てんしゅらしくない、ぜひ破風はふけてもらいたい、あれがなければ観光かんこうきゃくうったえるちからがない、と強硬きょうこうめられるので、仕方しかたがなくくっつけたが、やはり本当ほんとうはないほうがよかった」[13]べている。

小倉おぐら出身しゅっしん小説しょうせつ地元じもと文化ぶんか振興しんこう尽力じんりょくしたりゅうかんきちは「破風はふのないノッペラボーのきおろしを特色とくしょくとする天守てんしゅであるほうが、資料しりょうてき価値かちとともに、どんなにか観光かんこうてきであったろうに」[13]べている。

ギャラリー

[編集へんしゅう]
北東ほくとうからのパノラマ写真しゃしん

うみじょうとしての小倉こくらじょう

[編集へんしゅう]

小倉こくらじょううみじょうであるが、豊臣とよとみ政権せいけん時代じだいから徳川とくがわ政権せいけん初期しょき段階だんかいにおいて九州きゅうしゅう地方ちほう入部にゅうぶした大名だいみょううみじょう居城きょじょうとしていることがおお[15]豊臣とよとみ政権せいけん時代じだいもり小倉こくらじょう入城にゅうじょうした。徳川とくがわ政権せいけん初期しょき段階だんかいには細川ほそかわ入城にゅうじょうしたが、細川ほそかわはこれまたうみじょうである豊前ぶぜん中津なかつじょう大分おおいたけん中津なかつ)を同時どうじ使用しようしている。細川ほそかわがそれ以前いぜん居城きょじょうとしていた丹後たんご宮津みやづしろ京都きょうと宮津みやづ)もうみじょうであり、細川ほそかわうみじょうたいする執着しゅうちゃくうかがえる[16]

祭事さいじ・イベント

[編集へんしゅう]
  • 小倉こくらじょう薪能たきぎのう - 9がつ下旬げじゅん
  • 北九州きたきゅうしゅう小倉こくらしろまつり - 10がつ中旬ちゅうじゅん
  • たけあかり - 10がつ下旬げじゅん-11月上旬じょうじゅん
  • 小倉こくらじょうおしるこかい - 1がつ上旬じょうじゅん
  • 夜桜よざくら見物けんぶつ - 3がつ下旬げじゅん-4がつ上旬じょうじゅん期間きかんかぎり、天守閣てんしゅかくぜん広場ひろばを22までの開門かいもん[17]
  • 小倉こくらじょうさくらまつり - 3がつ下旬げじゅん-4がつ上旬じょうじゅん

そのほか

[編集へんしゅう]
小倉こくらじょう案内あんないばん
  • きたとなりリバーウォーク北九州きたきゅうしゅう完成かんせいして以来いらい中央ちゅうおう図書館としょかんがわからはしろ背景はいけいにリバーウォークのあか建物たてものえる。
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)から10年間ねんかん小倉おぐら城内きうち北九州きたきゅうしゅう市役所しやくしょ敷地しきち付近ふきん)にゆう園地えんち設置せっちされていた[18]。「小倉こくらじょうとジェットコースター」(昭和しょうわ37ねんころ)という絵葉書えはがきのこされている。[19]
  • 天守閣てんしゅかく広場ひろば多数たすう花見はなみきゃくにぎわう花見はなみ名所めいしょとしてもられているが、花見はなみ時期じき広場ひろばでは、バーベキュー機材きざいやシートが放置ほうちされるなどマナーの改善かいぜんられないため、2019ねん平成へいせい31ねん)3がつ北九州きたきゅうしゅう天守閣てんしゅかく広場ひろばにおける花見はなみについて、2017ねん平成へいせい29ねん)に設定せっていしたルールを改定かいていすべてのエリアにおいて火気かき使用しよう禁止きんし場所ばしょりは当日とうじつ午前ごぜん8開始かいしとした[20]
  • バリアフリー対応たいおうとして2001ねん平成へいせい13ねん)に天守閣てんしゅかくないにあるかく階段かいだん階段かいだん昇降しょうこう設置せっちされ、2019ねん平成へいせい31ねん)のリニューアルにはエレベーターが設置せっちされた。
  • 城内きうちにあるちゃく(つきみやぐら)は、漬物つけものしょぬかぞう」の店舗てんぽとして営業えいぎょうしており、2011ねんからはもと女子じょしプロレスラーデビル雅美まさみ店長てんちょうつとめていた[21] 。2022ねんれい4ねん)6がつ12にち閉店へいてん

メディアへの登場とうじょう

[編集へんしゅう]
プラモデル
フジミ模型もけい株式会社かぶしきがいしゃからフジミ建築けんちくモデルシリーズ天下でんか名城めいじょうNo.6として1/400スケールでプラモデル製造せいぞう販売はんばいされている。
NHKデジCM「デジさむらい テレビ維新いしんまき
劇団げきだんギンギラ太陽たいよう'S出演しゅつえん加賀美かがみ幸子こうじナレーションを担当たんとう制作せいさくにあたったのは地元じもと北九州きたきゅうしゅうきょくではなく福岡ふくおかきょくであったが、ロケシーンは城前しろまえ小倉こくらじょう庭園ていえん撮影さつえいされた。2ふんばん最後さいごのシーンにはハローワーク小倉おぐら移転いてんしたあとてられたちょう高層こうそうアパートの上層じょうそううつりこんでいる。

交通こうつう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 小倉こくらじょう小倉こくらはん”. 北九州きたきゅうしゅう. 2019ねん4がつ27にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 小笠原おがさわら2016
  3. ^ “ぺたぺたタクシー:車体しゃたいさくら ぺたぺたろう 勝山かつやま自動車じどうしゃがイベント”. 毎日新聞まいにちしんぶん (毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ). (2016ねん3がつ17にち). https://mainichi.jp/articles/20160317/ddl/k40/040/451000c 2019ねん9がつ7にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b c d 井石いせき栄司えいじ (2018ねん3がつ17にち). 小倉こくらじょうほりみずいたらきゅう天守閣てんしゅかくかわら 180ねんまえ焼失しょうしつ. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). https://www.asahi.com/articles/ASL3J3SLLL3JTIPE005.html 2019ねん8がつ7にち閲覧えつらん 
  5. ^ 小倉こくらじょう3がつ30にち新装しんそうオープン 展望てんぼうコーナーや大型おおがたシアター 隣接りんせつ観光かんこう案内あんない施設しせつも”. 西日本にしにほん新聞しんぶん 北九州きたきゅうしゅうばん (西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ). (2019ねん2がつ21にち). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/488491/ 2019ねん8がつ7にち閲覧えつらん 
  6. ^ 土井どい重人しげとだい庄屋しょうやはし小倉こくらはん村役人むらやくにん日記にっき海鳥うみどりしゃ、2007ねん、182ぺーじ-183ぺーじ
  7. ^ 白石しらいしひさし小倉こくらはん家老がろう 島村しまむら志津しづ海鳥うみどりしゃ、2001ねん、36ぺーじ・73ぺーじ
  8. ^ 浜松はままつじょうにんじょうなど選定せんてい=「ぞく100名城めいじょう」-日本にっぽん城郭じょうかく協会きょうかい時事通信じじつうしん、2017ねん4がつ6にち
  9. ^ 改修かいしゅう小倉こくらじょう、30にち一般いっぱん公開こうかい 流鏑馬やぶさめゲームなど体験たいけんも”. 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ. (2019ねん3がつ29にち). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43096750Z20C19A3ACYZ00/ 2019ねん4がつ6にち閲覧えつらん 
  10. ^ 小倉こくらじょう「しろテラス」急増きゅうぞうする観光かんこうきゃく対策たいさく休憩きゅうけいスペース新設しんせつ. 小倉おぐら経済けいざい新聞しんぶん. (2019ねん4がつ1にち). https://kokura.keizai.biz/headline/1816/ 2019ねん4がつ6にち閲覧えつらん 
  11. ^ a b c d 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃへん復原ふくげん名城めいじょう天守てんしゅ』』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1996ねんISBN 4-05-500160-6
  12. ^ 平井ひらいきよし監修かんしゅうしろ』(〔8〕九州きゅうしゅう沖縄おきなわもえゆる強者きょうしゃどものしろ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1996ねんISBN 4-620-60518-2
  13. ^ a b c 北九州きたきゅうしゅう教育きょういく委員いいんかい文化ぶんか (1977ねん3がつ31にち). 小倉こくらじょう-小倉こくらじょう調査ちょうさ報告ほうこくしょ-. 北九州きたきゅうしゅう文化財ぶんかざいまもかい 
  14. ^ 米津よねつ三郎さぶろう (昭和しょうわ53ねん10がつ14にち). 小倉こくらじょうはなし. 小倉こくら観光かんこう株式会社かぶしきがいしゃ. p. 175 
  15. ^ 柴田しばた2008、16・17ぺーじ
  16. ^ 柴田しばた2008、17ぺーじ
  17. ^ 勝山かつやま公園こうえん(小倉こくらじょう)
  18. ^ 小倉こくらじょう昭和しょうわ39ねん九州きゅうしゅうはつ読売新聞よみうりしんぶん
  19. ^ 「ふくおか絵葉書えはがき浪漫ろうまん益田ますだ啓一郎けいいちろう へん(海鳥うみどりしゃかん)91ぺーじ ISBN 4-87415-491-3
  20. ^ 小倉こくらじょう花見はなみ バーベキュー禁止きんし マナーわるくルール見直みなおし 照明しょうめい、3月22にちから』 西日本にしにほん新聞しんぶん. 2019ねん02がつ9にち朝刊ちょうかん. 2019ねん04がつ7にち閲覧えつらん.
  21. ^ デビル雅美まさみ漬物つけものしょ店長てんちょうに プロレスもぬかけも地道じみち努力どりょくかさね - デイリースポーツ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]