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もと肄城

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もと肄城
(椽城)
福岡ふくおかけん佐賀さがけん
頂上部の土塁
いただき上部じょうぶるい
城郭じょうかく構造こうぞう 古代こだい山城やましろ
築城ちくじょうぬし 大和やまと朝廷ちょうてい
築城ちくじょうねん 天智天皇てんぢてんのう4ねん665ねん
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう るいいしるい城門じょうもん水門すいもん礎石そせき
指定してい文化財ぶんかざい くに特別とくべつ史跡しせきもと肄(椽)城跡じょうせき
位置いち 北緯ほくい3326ふん42びょう 東経とうけい13030ふん47びょう / 北緯ほくい33.44500 東経とうけい130.51306 / 33.44500; 130.51306 (もと肄城)座標ざひょう: 北緯ほくい3326ふん42びょう 東経とうけい13030ふん47びょう / 北緯ほくい33.44500 東経とうけい130.51306 / 33.44500; 130.51306 (もと肄城)
地図ちず
基肄城の位置(福岡県内)
基肄城
もと肄城
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基肄城の位置(日本内)
基肄城
もと肄城

もと肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡ふくおかけん筑紫野ちくしの佐賀さがけん三養基みやきぐん基山きやままちにまたがる基山きやま(きざん)にきずかれた[1]日本にっぽん古代こだい山城やましろ城跡じょうせきは、1954ねん昭和しょうわ29ねん)3がつ20日はつかくに特別とくべつ史跡しせきもと肄(椽)城跡じょうせき」に指定していされている[2]

概要がいよう

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もと肄城は、白村はくそんこうたたかとうしん連合れんごうぐん大敗たいはいしたのち大和やまと朝廷ちょうていやまと日本にっぽん)の防衛ぼうえいのためにきずいた古代こだい山城やましろである。665ねん天智天皇てんぢてんのう4ねん)、大野城おおのじょうとともにきずいたことが『日本書紀にほんしょき』に記載きさいされている[ちゅう 1]城郭じょうかく建設けんせつ担当たんとうしたのはいずれも亡命ぼうめい百済くだらひとで、「兵法ひょうほうに閑(なら)う」とひょうされた、軍事ぐんじ技術ぎじゅつ専門せんもん憶礼福留ふくとめ(おくらいふくる)とよん福夫ふくお(しひふくぶ)である。また、大野城おおのじょうもと肄城とともに長門ながとこくにも亡命ぼうめい百済くだらじんしろ建設けんせつしているが、しろ名称めいしょう記載きさいされず、所在地しょざいち不明ふめいである[3]。そして、『ぞく日本にっぽん』 の698ねん文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん)には、大野城おおのじょうもと肄城きくさとしじょう三城みき修復しゅうふく記事きじ記載きさいされ[ちゅう 2]、『万葉集まんようしゅう』にも、「えびすじょう(きいのき)」と、記載きさいされている[4]

もと肄城が所在しょざいする基山きやまは、大宰府だざいふ南方なんぽう8キロメートルに位置いちする。山麓さんろくには、大宰府だざいふから南下なんかする古代こだいかんどうとおり、もとえき(きいのうまや)できずけこく方面ほうめん肥後ひごこく方面ほうめん分岐ぶんきしたとされる要衝ようしょうにある。もと肄城は、標高ひょうこう404メートルの基山きやまの3かしょたにかこみ、その東峰とうほう(327メートル)にかけて、やく3.9キロメートルの城壁じょうへきまわらせたつつみたにしき山城やましろで、しろ面積めんせきやく60ヘクタールである。城壁じょうへきは、ほとんどが尾根おねまわるいであるが、谷部やべいしるいふさいでいる。また、山頂さんちょうでは、北側きたがわ博多湾はかたわん南側みなみがわ久留米くるめ有明海ありあけかい東側ひがしがわ筑紫野ちくしの朝倉あさくら方面ほうめん西側にしがわ背振せふり山並やまなみを一望いちぼうすることができる。古代こだいは、大宰府だざいふ政庁せいちょう大野城おおのじょう阿志岐あしき山城やましろ[5]高良こうら山神さんじんかごせきなど、軍事ぐんじ施設しせつ連携れんけいはかれるこう位置いちにある。そのため、もと肄城は、大宰府だざいふまもみなみ防御ぼうぎょ拠点きょてんとして、おも有明海ありあけかい方面ほうめん有事ゆうじそなえてきずかれたとされている。[4]

発掘はっくつ調査ちょうさでは、やく40むね礎石そせき建物たてものあと[ちゅう 3]のきまるかわらけんひらめかわら土器どきなどの出土しゅつど遺物いぶついただき上部じょうぶ溜池ためいけ遺構いこうなどが確認かくにんされている。城門じょうもんは、推定すいてい2かしょふくめ、4かしょひらく。残存ざんそん遺構いこうのある城門じょうもんは、城内きうちきたりの「きたみかど(きたみかど)もん」と「東北とうほくもん」である。城内南じょうないみなみりの「みなみもん」と「東南とうなんもん」は、あったとされる推定すいてい城門じょうもんである。城跡じょうせき見学けんがく玄関げんかんこうとなるみなみもん一連いちれん水門すいもん石垣いしがき[ちゅう 4]るいとともにもと肄城を代表だいひょうする水門すいもん遺構いこうがあり、つう水口みずぐち国内こくない最大さいだいきゅう[ちゅう 5]である。また、2015ねん平成へいせい27ねん)の水門すいもん石垣いしがき保存ほぞん修理しゅうりで、あらたにみっつのつうすいみぞ発見はっけんされた。同一どういつ石垣いしがきめんよっ以上いじょう排水はいすい施設しせつ古代こだい山城やましろは、国内こくないにおいては唯一ゆいいつもと肄城のみである[6]

もと肄城の東南とうなん山麓さんろくに、「とうれぎるい」と「関屋せきやるい」が確認かくにんされている[7][ちゅう 6]水城みずき大野城おおのじょう関係かんけい同様どうように、もと肄城とたいとなり、もっとせま交通こうつういだ遮断しゃだんじょうとされている[8]

天智てんじ政権せいけん白村はくそんこう敗戦はいせん以降いこうとう高句麗こうくりしん交戦こうせん加担かたんせず、友好ゆうこう外交がいこうてっしながら、対馬つしま九州きゅうしゅう北部ほくぶ瀬戸内海せとないかい畿内きない連携れんけいする防衛ぼうえい体制たいせいととのえる。また、大宰府だざいふ都城みやこのじょう外郭がいかくは、けわしい連山れんざん地形ちけいと、それにつらなる大野城おおのじょうもと肄城と平野ひらの水城みずき大堤おおつつみ小水しょうすいじょうなどで防備ぼうびかためる。この原型げんけいは、百済くだら泗沘都城みやこのじょうにあるとされている[9]

2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ6にちぞく日本にっぽん100名城めいじょう(184ばん)に選定せんていされた。

関連かんれん歴史れきし

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日本書紀にほんしょき』に記載きさいされた白村はくそんこうたたかと、防御ぼうぎょ施設しせつ設置せっち記事きじ下記かきとおり。

調査ちょうさ研究けんきゅう

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遺構いこうかんする事柄ことがらは、概要がいよう記述きじゅつとおり。

  • 1912ねん大正たいしょう元年がんねん)、関野せきのさだ踏査とうさ研究けんきゅう[10]により古代こだい山城やましろであることが確定かくていした[4]
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん以降いこう久保山くぼやまよしうつ松尾まつおただしさく踏査とうさ研究けんきゅうすすめる。1959ねん昭和しょうわ34ねん)、鏡山かがみやまたけし城跡じょうせきがわ調査ちょうさおこない、1968ねん昭和しょうわ43ねん)、『大宰府だざいふ都城みやこのじょう研究けんきゅう』で実測じっそく結果けっか発表はっぴょうした[7]
  • 発掘はっくつ調査ちょうさは、1976ねんと2003ねんから3かねん森林しんりん整備せいびとうともな発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされた。また、2009ねん水門すいもん石垣いしがき保存ほぞん修理しゅうり事業じぎょう着手ちゃくしゅし、あらたなつうすいみぞ発見はっけんして、2015ねん平成へいせい27ねん)に完了かんりょうした[4]
  • 九州きゅうしゅう管内かんないしろも、瀬戸内海せとないかい沿岸えんがんしろも、その配置はいち構造こうぞうから一体いったいてき計画けいかくてききずかれたもので、なな世紀せいき後半こうはん日本にっぽんんだ一大いちだい国家こっか事業じぎょうである[11]
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)、高良山こうらさん列石れっせき遺構いこう学会がっかい紹介しょうかいされ、「かみかごせき」の名称めいしょう定着ていちゃくした[ちゅう 7]。そして、その発掘はっくつ調査ちょうさ城郭じょうかく遺構いこうとされた。一方いっぽう文献ぶんけん記載きさいのあるもと肄城などは、「古代こだい山城やましろ」の名称めいしょう分類ぶんるいされた。この分類ぶんるいによる論議ろんぎながつづいてきた。しかし、近年きんねんでは、がくてき用語ようごとしてあつかわれ[ちゅう 8]すべての山城やましろ共通きょうつう事項じこう検討けんとうすることが定着ていちゃくしてきた。また、日本にっぽん古代こだい山城やましろ築造ちくぞう目的もくてきは、対外たいがいてき防備ぼうび軍事ぐんじ機能きのうのみでかたられてきたが、地方ちほう統治とうち拠点きょてんてき役割やくわり認識にんしきされるようになってきた[12]

天智天皇てんぢてんのう欽仰いしぶみ

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1933ねん昭和しょうわ8ねん)、もと肄城をきずいた天智天皇てんぢてんのうたたえるため「天智天皇てんぢてんのう欽仰いしぶみ」が建立こんりゅうされた[13]当初とうしょ銅像どうぞう建立こんりゅうする計画けいかくだったが、みや内省ないせい当時とうじ)の許可きょかられずどうとなった[13]土台どだい基礎きそせき銘板めいばん痕跡こんせきとみられる箇所かしょたて30センチ×よこ90センチ)があるが、完成かんせい写真しゃしんでははっきりせず、戦時せんじちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつなどがあったのかなど詳細しょうさいかっていない[13]

イベント

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  • 平成へいせい25ねん平成へいせい27ねんさんねんにわたり、「水城みずき大野城おおのじょうもと肄城 1350ねん記念きねん事業じぎょう」が企画きかくされ、関連かんれん自治体じちたいくわえ、官民かんみん連携れんけいした各種かくしゅ記念きねん事業じぎょう展開てんかいされた[14]。そして、基山きやままちイメージキャラクター「きやまん」が、まんが『もと肄城のヒミツ』[15]などで活躍かつやくする。
  • 平成へいせい27ねん(2015ねん)10がつだい5かい 古代こだい山城やましろサミットがもと肄城(基山きやままち)で開催かいさいされた。

現地げんち情報じょうほう

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ギャラリー

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい 監修かんしゅう月刊げっかん 文化財ぶんかざい』 631ごう古代こだい山城やましろ世界せかい)、だいいち法規ほうき、2016ねん
  • 小田おだ富士雄ふじお へん季刊きかん 考古学こうこがく』 136ごう西日本にしにほんの「天智てんじおさむ山城やましろ)、雄山閣ゆうざんかく、2016ねん
  • 西谷にしたにただし へんひがしアジア考古学こうこがく辞典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2007ねんISBN 978-4-490-10712-8
  • 小島こじま憲之のりゆき こうちゅうやく日本書紀にほんしょき ③』、小学館しょうがくかん、1998ねんISBN 4-09-658004-X
  • 齋藤さいとう慎一しんいち向井むかい一雄かずお ちょ日本にっぽん城郭じょうかく』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2016ねんISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井むかい一雄かずお ちょ 『よみがえる古代こだい山城やましろ』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねんISBN 978-4-642-05840-7

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく 

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  1. ^ 日本書紀にほんしょき』の天智天皇てんぢてんのうよんねん(665ねんはちがつじょうに、「・・・ちく 大野おおの及椽 しろ」と、記載きさいする。
  2. ^ ぞく日本にっぽん』の文武ぶんぶ天皇てんのうねん(698ねんがつじょうに、「れい 大宰府だざいふ つくろえ 大野おおの はじめ三城みき」と、記載きさいされている。
  3. ^ もと肄城には、さん×あいだそうはしら礎石そせき建物たてものが23むねあり、大野城おおのじょう同一どういつ仕様しようである。発掘はっくつ調査ちょうさすすめば、大野城おおのじょう同数どうすうの35むね想定そうていできる(赤司あかし善彦よしひこ 「古代こだい山城やましろ建物たてものきくさとしじょう大野城おおのじょうもと肄城—」『きくさとしじょう 東京とうきょうシンポジウム 2015』、熊本くまもとけん教育きょういく委員いいんかい、2016ねん、63ぺーじ)。
  4. ^ いしるいは、ながやく26m×たかやく8m×上端じょうたんはばやく3.3mである。
  5. ^ 水口みずぐちは、天井てんじょうながさ9.5m×たかさ1.4m×はば1.0mである。
  6. ^ とうれぎるいながさ350m、関屋せきやるいながさ200m(主要しゅよう遺構いこう消滅しょうめつ)である。
  7. ^ 歴史れきし学会がっかい考古こうこ学会がっかいにおけるだい論争ろんそうがあった(宮小路みやこうじひろし亀田かめだ修一しゅういちかみかごせき論争ろんそう」『論争ろんそう学説がくせつ 日本にっぽん考古学こうこがくだい6かん、1987ねん。)
  8. ^ 1995ねん平成へいせい7ねん)、文化財ぶんかざい保護ほごほう指定してい基準きじゅん改正かいせいにともない「かみかごせき」は削除さくじょされ、「城跡じょうせき」が追加ついかされた)。

出典しゅってん 

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  1. ^ 電子でんし国土こくど基本きほん地理ちり情報じょうほう国土こくど地理ちりいん
  2. ^ もと肄(椽)城跡じょうせき - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう)。
  3. ^ もりこうあきら倭国わのくにから日本にっぽんへ」『倭国わのくにから日本にっぽんへ』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん、78ぺーじ
  4. ^ a b c d 田中たなか正弘まさひろもと肄城と水門すいもん石垣いしがき保存ほぞん修理しゅうり」『月刊げっかん 文化財ぶんかざい』 631ごうだいいち法規ほうき、2016ねん、37-40ぺーじ
  5. ^ 阿志岐あしきさん城跡じょうせき - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  6. ^ 田中たなか正弘まさひろもと肄城」『季刊きかん 考古学こうこがく』136ごう雄山閣ゆうざんかく、2016ねん、29-31ぺーじ
  7. ^ a b 向井むかい一雄かずおもと肄城」『ひがしアジア考古学こうこがく辞典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2007ねん、126ぺーじ
  8. ^ 松尾まつお洋平ようへい古代こだい遮断しゃだん施設しせつ防塁ぼうるい)についてのいち考察こうさつ」『文化ぶんかだんくさむらだい60しゅう九州きゅうしゅう古文こぶん研究けんきゅうかい、2008ねん、129-133ぺーじ
  9. ^ 小田おだ富士雄ふじお大宰府だざいふ都城みやこのじょう形成けいせいひがしアジア」『季刊きかん 考古学こうこがく』136ごう西日本にしにほんの「天智てんじおさむ山城やましろ)、雄山閣ゆうざんかく、2016ねん、19ぺーじ
  10. ^ 関野せきのさだ所謂いわゆるかみかごせきやま城址じょうしなり」『考古学こうこがく雑誌ざっしだい4かん だい2ごう日本にっぽん考古学こうこがく協会きょうかい、1913ねん
  11. ^ 狩野かのひさ西日本にしにほん古代こだい山城やましろかたるもの」『岩波いわなみ講座こうざ 日本にっぽん歴史れきしだい21かん 月報げっぽう21、岩波書店いわなみしょてん、2015ねん、3ぺーじ
  12. ^ 赤司あかし善彦よしひこ古代こだい山城やましろ研究けんきゅう現状げんじょう課題かだい」『月刊げっかん 文化財ぶんかざい』 631ごうだいいち法規ほうき、2016ねん、10-13ぺーじ
  13. ^ a b c もと肄城の“まぼろし”の銘板めいばん写真しゃしんさがしています どうから欠落けつらくか 基山きやままち復旧ふっきゅう計画けいかく”. 佐賀さが新聞しんぶん. 2023ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  14. ^ 山村やまむら信榮のぶえい水城みずき大野城おおのじょうもと肄城 1350ねん記念きねん事業じぎょうについて」『月刊げっかん 文化財ぶんかざい』 631ごうだいいち法規ほうき、2016ねん、21ぺーじ
  15. ^ 基山きやままち図書館としょかん へんもと肄城のヒミツ』、基山きやままち、2014ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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