かみかごせき

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かみかごせき(こうごいし)またはかみかごせきしき山城やましろ(こうごいししきやまじろ)は、九州きゅうしゅう地方ちほうから瀬戸内せとうち地方ちほうにある、石垣いしがき区画くかくした列石れっせき遺跡いせき総称そうしょう一般いっぱんには『日本書紀にほんしょき』や『ぞく日本にっぽん』に記載きさいがなく遺構いこうでのみ存在そんざい確認かくにんされる山城やましろす。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

かみかごせきは、皮籠石かわごいし交合こうごうせき皇后こうごうせきなどともき、「こうご」の本来ほんらい意味いみかっていない。本来ほんらい高良こうら大社たいしゃ参道さんどうわきにある「馬蹄ばていせき」など、かみだいとなる岩石がんせきのことを名称めいしょうであったが、ちかくにある列石れっせき高良山こうらさんでは「はちようせきるい」「はちよう石畳いしだたみ」とばれていた)と混同こんどうして学会がっかい報告ほうこくされたため、列石れっせき遺構いこうほうにこのけられた[1]。その類似るいじした石積いしつ遺構いこうにもかみかごせきかんするようになったが、命名めいめい経緯けいいからすればあきらかなあやまりである。

文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうとしては、従来じゅうらい唐原とうのはるしんかごせき」とばれていたものが2005ねんに「唐原とうのはるさん城跡じょうせき」という名称めいしょうくに史跡しせき指定していされたれいがある。すでに「かみかごせき」という名称めいしょう指定していされている史跡しせき今後こんご改名かいめいされる可能かのうせいがある。

発見はっけん論争ろんそう[編集へんしゅう]

かみかごせき学会がっかい発表はっぴょうされたのは、1898ねん明治めいじ31ねん)に小林こばやし庄次郎しょうじろう筑後ちくご高良こうら山神さんじんかごせきを「霊地れいちとして神聖しんせいたもたれた区別くべつしたもの」として紹介しょうかいしたのが最初さいしょである[2]1900ねん明治めいじ33ねん)に九州きゅうしゅう所在しょざいかみかごせき踏査とうさした八木やぎすすむ三郎さぶろうが「城郭じょうかくのぞいては、にこのるいだい工事こうじなかるべし」として城郭じょうかくであることを主張しゅちょうした[3]のにたいし、喜田きた貞吉さだきち神社じんじゃかこ聖域せいいきであると反論はんろんした[4]ことで、かみかごせき性格せいかくについて霊域れいいきせつ城郭じょうかくせつとの論争ろんそう展開てんかいされた。

1963ねん昭和しょうわ38ねん)の佐賀さがけんたけ雄市ゆういちおつぼ山神さんじんかごせき発掘はっくつ調査ちょうさで、列石れっせき背後はいごにあるはんちくによってきずかれたるいと、列石れっせき前面ぜんめんに3m間隔かんかくなら掘立柱ほったてばしら痕跡こんせき発見はっけんされ、山城やましろであることが確定かくていてきとなった[5]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

  • いくつかのたにみ、山腹さんぷくかこ場所ばしょ立地りっちする[6]
  • 標高ひょうこう200 ~ 400mの山頂さんちょうから中腹ちゅうふくにかけてすうkmにわたっていちへんが70cm切石きりいし(きりいし=いわってつくったいし)による石積いしつみを配列はいれつ列石れっせき)し[1]、その上部じょうぶはんちくによるるいゆうする[6]列石れっせき配置はいちは、山頂さんちょうから平野ひらのななめに構築こうちくする九州きゅうしゅうがたと、山頂さんちょう鉢巻はちまきじょうかこ瀬戸内せとうちがたがある[7]
  • たに通過つうかする場所ばしょに、すうだん石積いしつみをゆうする城門じょうもん水門すいもんもうけている[6]
  • 列石れっせき遺構いこう内部ないぶに、顕著けんちょ建物たてもの遺構いこうられない[6]
  • 日本書紀にほんしょきもちすべ天皇てんのうさんねん689ねんさんがつじょうにある「九月庚辰朔己丑 ちょくこうまいり石上いしがみ朝臣あそん麿まろ ちょくこう石川いしかわ朝臣あそんむしめいとう於筑むらさき きゅうおく位記いき 且監新城しんじょう」の「新城しんじょう」との関連かんれん指摘してきする意見いけんもある[8]

性格せいかく[編集へんしゅう]

古代こだい山城やましろ比定ひていにされることもあるが、築造ちくぞう主体しゅたいなど建設けんせつ経緯けいい一切いっさい不明ふめいである。

それぞれのかみかごせき差異さいおおきい。御所ごしょだにのように「最初さいしょ形成けいせい時代じだい以降いこうにかなりのはいっているとおもわれるもの」や、雷山らいざんのように「生活せいかついき食料しょくりょう生産せいさんいき隔絶かくぜつし、みず確保かくほむずかしく、籠城ろうじょうにはかず、祭祀さいし遺跡いせきとの位置いち関係かんけい特殊とくしゅであるもの」、おつぼやまのように「稲作いなさく農耕のうこう地域ちいきしょう丘陵きゅうりょう設置せっちされているもの」など様々さまざまである。

現在げんざいまで、かみかごせきなんごろつくられたかも判明はんめいしておらず、成立せいりつ年代ねんだいおなじであったとしても、これほど様々さまざま状況じょうきょうちがうものを現在げんざいてき視点してんから総轄そうかつ暫定ざんていてきかみかごせき総称そうしょうしている可能かのうせいもあり、おつぼやま調査ちょうさ結果けっかは「かみかごせきなか山城やましろとして使つかわれていたことがあるものもある」ことが確定かくていしただけにぎない。生活せいかついきちかかみかごせき場合ばあい遺構いこうちゅうからの発掘はっくつぶつ批判ひはんかみかごせき性格せいかく規定きていできるものではないのも当然とうぜんである。

また、かりにこれらすべてが単純たんじゅん古代こだい山城やましろであった場合ばあいでも、それらが戦略せんりゃく拠点きょてんたりえた状況じょうきょうふくめて、そのようなものが西日本にしにほん広範こうはん地域ちいき存在そんざいしていること、現在げんざいまでほとんどられていなかったことは、大和やまと王朝おうちょう成立せいりつ前後ぜんこうや、その過程かてい古代こだいかんがえるうえ非常ひじょう重要じゅうようなはずであるが、現代げんだい(21世紀せいき初頭しょとう)の歴史れきし研究けんきゅう環境かんきょうなかつよ興味きょうみってとらえられることはすくないことから、歴史れきしがどのように形成けいせいされていくのかを現代げんだいにおいてきわめて有効ゆうこう事例じれいであるとのこえもある。

八木はちぼく三郎さぶろうは、古墳こふん石室いしむろ構築こうちくほうとの比較ひかくから、かみかごせき築造ちくぞう年代ねんだい推古あさ(7世紀せいきはつ以前いぜんとしている。鏡山かがみやまたけしは、列石れっせき前面ぜんめん掘立柱ほったてばしらあな間隔かんかくやく3mでならんでおり、ずいとうだいだいしゃくいちしゃく=29.4cm)のじゅうしゃく(2.94m)とほぼひとしいことからとうじゃく使つかわれた7世紀せいき中頃なかごろ以降いこう築造ちくぞう主張しゅちょうしたが、南朝なんちょう小尺しょうしゃくいちしゃく=24.5cm)でもじゅうしゃく(2.94m)とするとほとんかわらないなので7世紀せいき中頃なかごろ以降いこう築造ちくぞうとする根拠こんきょはない。北部ほくぶ九州きゅうしゅうから瀬戸内せとうち沿岸えんがんにかけて、16箇所かしょられる。

史跡しせき指定してい[編集へんしゅう]

山城やましろせつ霊域れいいきせつ対立たいりつしたままであったが、古代こだい重要じゅうよう遺跡いせきであるのは間違まちがいないので、昭和しょうわ20ねんまでに雷山らいざん石城山いししろやま鹿毛馬かけのうま(がげのうま)のかみかごせきが、昭和しょうわ20年代ねんだいには御所ケ谷ごしょがだに高良山こうらさん女山おんなやま(ぞやま)・おびくまさん(おぶくやま)のかみかごせき史跡しせき指定していされた。その、おつぼやま杷木はき(はき)が史跡しせき指定していされている。[9]

かみかごせき一覧いちらん[編集へんしゅう]

名称めいしょう 所在地しょざいち 備考びこう
おつぼ山神さんじんかごせき   佐賀さがけんたけ雄市ゆういちたちばなまち小野原おのばら 史跡しせきくに指定してい
おびくま山神さんじんかごせき英語えいごばん おぶくまやま 佐賀さがけん佐賀さが久保泉町川久保くぼいずみまちかわくぼまち神埼かんざきまち西郷さいごう 史跡しせきくに指定してい
おんな山神さんじんかごせき ぞやま 福岡ふくおかけんみやま瀬高せたかまち大草おおくさ女山おんなやま 史跡しせきくに指定してい
高良こうら山神さんじんかごせき こうらさん 福岡ふくおかけん久留米くるめ御井みいまち高良山こうらさん 史跡しせきくに指定してい
かみなり山神さんじんかごせき らいざん 福岡ふくおかけん糸島いとしま雷山いかずちやま 史跡しせきくに指定してい
鹿毛馬かけのうましんかごせき かけのうま 福岡ふくおかけん飯塚いいづか鹿毛馬かけのうま 史跡しせきくに指定してい
御所ごせ谷神やちかみかごせき ごしょがたに 福岡ふくおかけん行橋ゆくはし津積つつみみやこまち勝山かつやま大久保おおくぼ犀川さいがわ木山きやま 史跡しせきくに指定してい
杷木はきかみかごせき はき 福岡ふくおかけん朝倉あさくら林田はやしだ穂坂ほさか 史跡しせきくに指定してい
石城せきじょう山神さんじんかごせき いわきさん 山口やまぐちけんひかり石城せきじょう 史跡しせきくに指定してい
鬼城きじょう山城やましろおにしろ おにのき(きのじょう) 岡山おかやまけん総社そうしゃ奥坂おくさか黒尾くろお 史跡しせきくに指定してい
だい迴小迴山じょう おおめぐり・こめぐりやまじょう 岡山おかやまけん岡山おかやまくさ 史跡しせきくに指定してい
えいおさむ山城やましろ えいのうさんじょう 愛媛えひめけん西条さいじょう河原津かわらづ 史跡しせきくに指定してい
讃岐さぬき城山しろやまじょう さぬききやまのき 香川かがわけん坂出さかいで西庄さいしょうまち府中ふちゅうまち川津かわづまち飯山いいのやままち 史跡しせきくに指定してい
播磨はりま城山しろやまじょう はりまきやまのき 兵庫ひょうごけんたつの新宮しんぐうまち馬立うまたて揖西町中垣内いっさいちょうなかがいち  
唐原とうのはる山城やましろ とうばる(たうばる) 福岡ふくおかけん築上ちくじょうぐんうえまち下唐原しもとうばる土佐井つちさい 史跡しせきくに指定してい
阿志岐あしきじょう(旧名きゅうめい宮地岳みやじだけ古代こだい山城やましろ) あしき 福岡ふくおかけん筑紫野ちくしの阿志岐あしき 1999ねん発見はっけんあしじょうか)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 小林こばやし行雄ゆきお「こうごいし しんかごせき水野みずの精一せいいち小林こばやし行雄ゆきお へん図解ずかい 考古学こうこがく辞典じてん東京とうきょうそうもとしゃ 1959ねん
  2. ^ 小林こばやし庄次郎しょうじろう筑後ちくごこく高良山こうらさんちゅうかみかごせきなるものにいて」 『人類じんるいがく雑誌ざっし』14-153 1898ねん
  3. ^ 八木やぎすすむ三郎さぶろう九州きゅうしゅう地方ちほう遺蹟いせき調査ちょうさ報告ほうこく東京とうきょう人類じんるい学会がっかい東京とうきょう人類じんるい学会がっかい雑誌ざっし』15-173 1900ねん
  4. ^ 喜田きた貞吉さだきちかみかごせきとはぞや」 『歴史れきし地理ちりだい4かんだい5ごう 1902ねん
  5. ^ 鏡山かがみやまたけし へん『おつぼ山神さんじんかごせき佐賀さがけん文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい14しゅう 1965ねん
  6. ^ a b c d 門田かどた誠一せいいち「《研究けんきゅうノート》ひがしアジアにおけるかみかごせきけい山城やましろ位置いち古代こだいがく協會きょうかい古代こだいがく研究けんきゅうだい112ごう 1986ねん
  7. ^ 渋谷しぶや忠章ただあきかみかごせきしき山城やましろ江坂えさかてるわたる芹沢せりざわ長介ちょうすけさかつめ秀一ひでかずへん日本にっぽん考古学こうこがくしょう辞典じてんニュー・サイエンスしゃ 1983ねん
  8. ^ 宮小路みやこうじひろし へん杷木はきかみかごせき 朝倉あさくらぐん杷木はきまち所在しょざい杷木はきしんかごせき調査ちょうさ杷木はきまち文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい1しゅう 1970ねん
  9. ^ 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい保護ほご史跡しせき研究けんきゅうかい監修かんしゅう図説ずせつ 日本にっぽん史跡しせき だい1かん 原始げんし1』 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 1991ねん 235ページ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]