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木簡もっかん

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木簡もっかん(もっかん)とは、おも古代こだいひがしアジアですみ文字もじくために使つかわれた、短冊たんざくじょう細長ほそながいたである。かみ普及ふきゅうによりすたれたが、完全かんぜん存在そんざいしたわけではなく、荷札にふだなどにはながもちいられた。たけへんかれたたけ木簡もっかんわせて、簡牘ぶ。

荷札にふだ木簡もっかん複製ふくせい)。飛鳥あすか奈良なら時代じだい、7-8世紀せいき飛鳥あすかきょう藤原ふじわらみや平城ひらじろみやあと出土しゅつどひん

概要がいよう

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いた文字もじくことは、文字もじ存在そんざいする文化ぶんかけんではふるくからごく一般いっぱんおこなわれていた。後代こうだいにも文字もじいたというだけなら、落書らくがきした木片もくへんのろいのさつなど多種たしゅ多様たようなものがみられる。歴史れきしがく考古学こうこがく見地けんちからは、それらすべてが過去かこ生活せいかつ様子ようすつたえる貴重きちょう資料しりょうであり、ひろ意味いみでの木簡もっかんとして研究けんきゅう対象たいしょうになる[1][2]。この意味いみでの木簡もっかんは、研究けんきゅうじょう概念がいねんであり、その時代じだい人々ひとびとかれた様々さまざま木簡もっかんとしていちまとめにかんがえていたわけではない。

そのなかで、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん日本にっぽんではいちぎょうまたはすうぎょうぶんいた細長ほそながいた多数たすう出土しゅつどしており、これこそが典型てんけいてきな、狭義きょうぎ木簡もっかんである。これらは当時とうじ木簡もっかんばれていたが、用途ようと状況じょうきょうおうじて様々さまざまばれた。かんだいまで、木簡もっかんたけ簡で、さつしょつく場合ばあいは、いちぎょうしかけない細長ほそなが規格きかくつくられた。のちなが文書ぶんしょかみつくられるようになり、木簡もっかんかたちたいする制約せいやくがなくなっても、細長ほそながかたちわらなかった。

木簡もっかん特徴とくちょうひとつは、けずってなおしたりさい利用りようしたりすることができるというてんである。そのため当時とうじ文具ぶんぐにはふですみすずりくわえて小刀こがたなふくまれていた。けずくず習字しゅうじしたれいもあり、上述じょうじゅつ広義こうぎ木簡もっかんふくまれる。なおしが容易よういということは、反面はんめん改竄かいざん痕跡こんせきのこりにくいということでもあった[3]

中国ちゅうごく木簡もっかん

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きょのべ出土しゅつど木簡もっかんさつ帳簿ちょうぼ ACE97ころ

「簡」とは、もともとたけせいのふだをあらわ言葉ことばであり、中国ちゅうごくではたけ文字もじいたたけひろ使つかわれた[4]気候きこう関係かんけいたけ生育せいいくしない黄河こうが流域りゅういき以北いほくでは木簡もっかんもちいられる。

かみ普及ふきゅうするこうかん以前いぜん有力ゆうりょく筆記ひっき素材そざいたけ)かきぬ帛書)であった。帛書は高価こうかであったため、ひろもちいられたのは木簡もっかんたけ簡であった[5]中国ちゅうごく考古学こうこがくではたけ簡と木簡もっかん牘)を総称そうしょうして簡牘といい、日本にっぽんの「木簡もっかんがく」を中国ちゅうごくでは「簡牘がく」と呼称こしょうする[6]

木簡もっかん発見はっけん

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ハンガリー出身しゅっしんのイギリスじんオーレル・スタインあまみやびニヤ遺跡いせき)で50まい、スウェーデンのスウェン・ヘディンろうらんで120まいあまりすすむだい木簡もっかん発見はっけんした1901ねんを、遺跡いせきからの木簡もっかん出土しゅつど嚆矢こうしとする[7]。スタインは、1907ねん1913ねん-16ねんの、だい2だい3探検たんけんでも、やく900まいかんだい木簡もっかん発見はっけんした(敦煌とんこうかん)。その西北せいほく科学かがく考査こうさだんによって、1930ねんにはエチナがわ流域りゅういきから一挙いっきょに1まんてん以上いじょう大量たいりょう木簡もっかん発見はっけんされた(きょのべかん)。このときは木簡もっかんよこならべてつくったさつしょはじめてみつかった[8]。このように、20世紀せいき前半ぜんはん木簡もっかんは、ヨーロッパじん中央ちゅうおうアジア探検たんけんたい西北せいほく辺境へんきょう発見はっけんしたものであった。

20世紀せいき後半こうはんからは中国人ちゅうごくじん全国ぜんこく多数たすう発見はっけんするようになった[9]。スタインらの発見はっけん極度きょくど乾燥かんそう状態じょうたい保存ほぞんされたものだが、後半こうはん以降いこう地中ちちゅうはかにあってみずかった状態じょうたいたか湿度しつどのおかげでくさらずのこったものである[10]。20世紀せいきまつからは井戸いどからの出土しゅつどおおくなり、2007ねん以降いこう骨董こっとう市場いちばから購入こうにゅうするれいてきた[11]発見はっけんすうは100まんてんえるともわれる[12]

木簡もっかん歴史れきし

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さつ」は細長ほそなが木簡もっかんならべ、ひもとおしてまとめたかたちあらわしている。これと文字もじが、いんしょうだい甲骨文字こうこつもじられ、「さつ」とかんがえられている。木簡もっかんによる文字もじ記録きろくいんだいにはすでおこなわれていたと推定すいていされる[13][14]

出土しゅつど木簡もっかんなかかずおおいのはかん簡、つまりかんだい木簡もっかんである。かんだい一般いっぱんてきな簡牘はながいちしゃくやく23cm)、はばふんやく1cm)、あつさは0.2から0.3mmである[15]。これに20から40けた[16]。2ぎょうけるようにはばひろげた「両行りょうこう」というかたちもよく使つかわれた。重要じゅうようなものはおおきめのものにくというかんがえがあり、皇帝こうていようの簡牘はすこおおきくながいちしゃくいちすん(25cm)とされた[17]経書けいしょようの簡牘はしゃくよんすん(55cm)で、これは文献ぶんけんえる規定きてい出土しゅつど現物げんぶつ一致いっちする[18]。そして、律令りつりょうなど法律ほうりつ木簡もっかんは、さんしゃく(70cmじゃく)のながさをとった[19]

かんだい文書ぶんしょには、ふうどろをするための「けん」という宛名あてなくための木製もくせいものけておくった。けんふうどろれるためのへこみがあり、そのへこみの両側りょうがわにはひもをかけるためにけたところがある。木簡もっかん本体ほんたいけんかさね、へこみをとおしてひもをかけ、ひもうえからふうどろける。ふうどろうえしるしして完成かんせいする。しるし真正しんせいで、ふうどろこわれていないことをて、偽文書ぎぶんしょでないことを確認かくにんする[20]

かんだいまでは、文章ぶんしょうながくなるときには簡をつづりあわせてさつへんつづり簡)にした。かみ普及ふきゅうしはじめたたかしすすむころには、文書ぶんしょかみ併用へいようされた。公式こうしきてきなが文書ぶんしょにはかみ使つかわれ、特別とくべつ儀式ぎしきじょかんたばねてさつつくることはしなくなった。そのせいで木簡もっかんいちまい完結かんけつする文書ぶんしょもちいられることになり、かたち規格きかくがなくなった。中国ちゅうごくではふつう木簡もっかんうらかなかったようである[21]

著名ちょめい木簡もっかん発見はっけん

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日本にっぽん木簡もっかん

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日本にっぽん木簡もっかんとしては、せいくらいん宝物ほうもつけられていた30すうてんつたわるほか、江戸えど時代じだいには、当時とうじ小勝田おがたばれていた秋田あきたけん北秋田きたあきた脇神わきがみうずもれた家屋かおくから出土しゅつどしたれいや、明治めいじ時代じだい1902ねん出土しゅつどした材木ざいもくきざまれた文字もじ拓本たくほん大正たいしょう時代じだい1914ねんよく1915ねんおな秋田あきたけん大仙だいせんいか遺跡いせきから出土しゅつどしたれいなどの報告ほうこくがある[22]が、現存げんそんする日本にっぽん最初さいしょ木簡もっかん発見はっけんれいは、1904ねんに、香川かがわけんさぬき長福寺ちょうふくじつかった室町むろまち時代ときよ備蓄びちくぜにづけさつである[23]。なお、1928ねん三重みえけん桑名くわな柚井ゆい遺跡いせきで『さくらじゅきょう』としるされたもみづけさつふくめた3てん1930ねん秋田あきたけん大仙だいせん美郷みさとまちしろしがらみ遺跡いせき払田はらいだしがらみあとで2てんつかっていたが、いずれも当時とうじはあまり注目ちゅうもくされなかった[24]大量たいりょう出土しゅつど1961ねん平城京へいじょうきょうあとでの41てんはじまり[25]以後いご続々ぞくぞく各地かくちつかるようになった。かずてきおおいのは1996ねん平城京へいじょうきょう東南とうなんすみからやく1まん3せんてん、1988~1989ねん長屋王ながやおう木簡もっかん隣接りんせつするじょう大路おおじ木簡もっかんがあわせてやく11まんてん[26]長岡京ながおかきょうなどからのものである。とく長屋王ながやおう木簡もっかん発見はっけんで、重要じゅうよう考古こうこ資料しりょうとして木簡もっかんひろられるようになった[27]最近さいきんでは藤原ふじわらきょうより以前いぜんみややその周辺しゅうへん遺跡いせきからも、さらに、くにぐん地方ちほう官衙かんが寺院じいんなど全国ぜんこくからている[28]。2011ねんまつまでに38まんてん以上いじょうつかっている[29]

日本にっぽん木簡もっかんはほとんどがみずかった状態じょうたいなかから発見はっけんされている。1960年代ねんだいからきゅう発見はっけんおおくなったのは、それまで見逃みのがされがちだった土中どちゅう木片もくへん注意ちゅういはらい、調査ちょうさ緻密ちみつにしたためである。木簡もっかん点数てんすうおおくはけずくずで、けずくず文字もじかれていなければ木簡もっかんではないが、いちでも断片だんぺんでも墨書ぼくしょがあれば木簡もっかんとして記録きろくする。くず同士どうし接合せつごうすれば複数ふくすうへんをまとめて1てんかぞえるが、実際じっさいには困難こんなんなので、けずられた断片だんぺんかぞえられることになる[30]

日本にっぽん木簡もっかん研究けんきゅうは、木簡もっかん形状けいじょう用途ようと側面そくめんから分類ぶんるいしている。形状けいじょう分類ぶんるいでは、奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ平城京へいじょうきょう木簡もっかん分類ぶんるいさいしてとった18分類ぶんるい型式けいしきもちいられるが、分類ぶんるいには方法ほうほうもある。どの方法ほうほうでもかずおおくて目立めだつのは、短冊たんざくかたちりこみつき短冊たんざくがた一端いったんとがらせた短冊たんざくがたである。おおきさにさだまった規格きかくはなく、ほとんどはながさ20センチメートルから30センチメートル、はば1.5センチメートルから4センチメートルの範囲はんいはいるが、これとかけはなれたおおきさのものもあった。用途ようとべつでは、文書ぶんしょ木簡もっかんづけさつ木簡もっかん、そのみっつにける[31][32]用途ようと形状けいじょう密接みっせつにかかわっている。福岡ふくおかけん太宰府だざいふにある国分こくぶ松本まつもと遺跡いせきからは国内こくない最古さいことされる木簡もっかん出土しゅつどしている。

日本にっぽんたけ簡はなく[33]さつしょつくらなかった[34][35]

文書ぶんしょ木簡もっかん

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日本にっぽん最古さいこきゅう木簡もっかんは、奈良ならけん桜井さくらい山田やまだ寺跡てらあと堆積たいせきした地層ちそうさら下層かそうから出土しゅつどした習書木簡もっかんそぎくずで、年代ねんだいしるした最古さいこ木簡もっかんは、大阪おおさか大阪おおさか難波なんばみやあとから出土しゅつどした『つちのえたつとし』としるされた木簡もっかんであるとされているが、元号げんごうではなく推察すいさつ確証かくしょうはない[36]。そして、これらの段階だんかいすでに、文字もじ使用しようめずらしくなかったことがうかがわれるが、点数てんすう一気いっき増加ぞうかするのは672ねん以降いこう天武天皇てんむてんのう時代じだいで、文書ぶんしょ行政ぎょうせい整備せいびがその背景はいけいにある。その物的ぶってき証拠しょうことなる文書ぶんしょ木簡もっかんは、7世紀せいき後半こうはんから奈良なら時代じだい平安へいあん時代じだいの10世紀せいきまでを中心ちゅうしん使つかわれた。

日本にっぽん文字もじはいってきたとき、中国ちゅうごくではすでかみ普及ふきゅうしつつあり、かみ木簡もっかんたけ簡が併用へいようされていた。日本にっぽんもそれを踏襲とうしゅうし、比較的ひかくてきみじか文書ぶんしょについてだけ木簡もっかん使つかった[37]。すべての文書ぶんしょかみ使つかわなかったのは、当時とうじまだかみ高価こうかだったためでもあるが、簡単かんたんこわれない耐久たいきゅうせい活用かつようしためんもある[38]

文書ぶんしょ木簡もっかんは、役所やくしょあいだ連絡れんらく使つかった文書ぶんしょ狭義きょうぎ文書ぶんしょ木簡もっかん)と、日常にちじょう事務じむ帳票ちょうひょう記録きろく記録きろく木簡もっかん)のしゅ大別たいべつされる。ひと召還しょうかんする文書ぶんしょめし請求せいきゅうする文書ぶんしょなどみじか連絡れんらく請求せいきゅうもちいられる木簡もっかん官吏かんり人事考課じんじこうかよう一人ひとりいちまいずつつくって勤務きんむ評定ひょうじょうしるした木簡もっかん倉庫そうこ出納すいとう記録きろくしたくらさつなどがある。かたち短冊たんざくがたおおく、記録きろく木簡もっかんなかには、いたあなをあけてひもぼうとおしたものがある。

比率ひりつてきにみると、7世紀せいき文書ぶんしょ木簡もっかんには帳簿ちょうぼるいかずおおく、宛先あてさき文書ぶんしょ狭義きょうぎ文書ぶんしょ)はすくない[39]。その狭義きょうぎ文書ぶんしょ木簡もっかんでは、宛先あてさきであるぼうたいして「ぼうまえもうす」という意味いみからはじめるものが目立めだつ。ぜんしろ木簡もっかんという。目上めうえたいするものだけでなく、対等たいとう関係かんけいでもみられる[40]。また、連絡れんらくよう文書ぶんしょには日付ひづけがほとんどない[41]こえげてつたえたりせんべたりすることで公式こうしき業務ぎょうむがなされた口頭こうとう行政ぎょうせい背景はいけいにあるかとわれる[42]かたいちぎょうにずらずらならべ、字配じくばりがない[43]とししるすときには干支えと使つかわれ、元号げんごう使つかわれない。

これにたいして8世紀せいき文書ぶんしょ木簡もっかんは、差出さしであてしょ元号げんごう日付ひづけ字配じくばりよく配置はいちし、かん上下じょうげ関係かんけいによりうつりかいといった使つかけ、書式しょしきととのってくる[44]大宝たいほう元年がんねん701ねん制定せいてい大宝たいほうれい影響えいきょうとされる[45]

づけさつ

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づけさつもの内容ないようしめすためにつけるもので、みつきか、はしとがらせたものがおおい。みがあるのは、ひもをそこにかけていたむすび、ひも反対はんたいはし荷物にもつむすびつけるのである[46]日本にっぽん木簡もっかんでは上端じょうたんみがあるものがほとんどだが、したのほうにみをれたものもわずかながらある[47]とがらせたものは、それをたわら荷物にもつなわがけにむためとかんがえられている[47]づけさつには荷物にもつおくぬしさきしる荷札にふだみつぎ進物しんもつづけさつ)と、保管ほかんされるものけておく物品ぶっぴんづけさつがあった。

当時とうじぜいとして中央ちゅうおう役所やくしょ納入のうにゅうするものに荷札にふだけられており、おくしゅ内容ないよう情報じょうほう定型ていけいてきまれ、資料しりょうとしてれる情報じょうほうりょうおおい。なお、年紀としのりしるした荷札にふだ2020ねん現在げんざいのべれき16ねん797ねん以降いこうものつかっていない[48]

その

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そのには習字しゅうじ落書らくがき、呪符じゅふ将棋しょうぎこままでふくめた様々さまざまいたはいる。うた木簡もっかんは、和歌わか万葉仮名まんようがなしるしたもので、7世紀せいきからている[49]告知こくちさつふだのことで、史料しりょうに「牓」とかれるものらしいが、そのぶんが「告知こくち」ではじまることからこうばれる。だいだい箋軸)はかみ巻物まきものじくもちいるで、ながした部分ぶぶん巻物まきもの内容ないようしるした。封緘ふうかん木簡もっかんは、いちまいってふたつにしたものにかみ手紙てがみをはさんでひもでしばり、ひもうえから「ふう」のいたうえで、さきなどをしるしたものである。

製造せいぞうから廃棄はいきまで

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製造せいぞう

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木簡もっかん製造せいぞうについてはられることがないが、なにかれていない使用しようひん(または再生さいせい使用しようひん)の木簡もっかんがまとまってることもある。大量たいりょう必要ひつようとするところでは生産せいさん再生さいせい保管ほかん体制たいせいととのえられていたとかんがえられる。日本にっぽん荷札にふだ木簡もっかんについてはくにれいせいこく)によってもちいられるざいちがっていたことがられている。

さい利用りよう

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使用しよう木簡もっかんは、いちめんけずってさい利用りようされた。けずってうすくなると最終さいしゅうてきてられる。長屋王ながやおうではやしきないかく部局ぶきょくから使用しよう木簡もっかんいち箇所かしょ回収かいしゅうしてさい利用りようしていたらしい。うら使つかってべつ用途ようとにあてることもある。

けずくずはごみとしててられるが、なにかれていれば、広義こうぎ木簡もっかんとしてかぞえられる。情報じょうほうりょうすくないが、ったかたり年代ねんだい決定けってい役立やくだったり、その場所ばしょ機能きのうについてのがかりになることもある。

余白よはく使つかって練習れんしゅうをしたものもおおく、この部分ぶぶん注目ちゅうもくすると習書木簡もっかんばれる。情報じょうほう価値かちおおくないが、なんらかのの習書の出典しゅってんがつきとめられると、その文献ぶんけん日本にっぽん招来しょうらいされていた時期じき普及ふきゅう推測すいそくするがかりになる。

便所べんじょしりぬぐ籌木転用てんようされたものもあり、便所べんじょ遺構いこうから発見はっけんされる。1992ねんはじめ、藤原ふじわらきょうあとあなっていたときに、黒色こくしょくなかからながさ18センチ、はば1センチ、あつさ0.4センチほどのうすくて細長ほそながいたきれが多数たすうつかった。トイレットペーパーとおな役割やくわりのヘラである。そのヘラに文字もじえるものがあり、使用しようみの木簡もっかん転用てんようしたことがかる[50]

移動いどう廃棄はいき

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木簡もっかん最終さいしゅうてきには廃棄はいきされ、てられた場所ばしょ腐蝕ふしょくまぬかれたものが考古学こうこがく資料しりょうとしてされる。

木簡もっかん最初さいしょかれたところからとおはなれた場所ばしょてられることがある。荷札にふだ木簡もっかん多数たすうつかるのは藤原ふじわらきょう長岡京ながおかきょう平城京へいじょうきょうだが、いたのは全国ぜんこくみつぎ進物しんもつととのえた地方ちほう役人やくにんである。

中世ちゅうせい以降いこう変化へんか

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木簡もっかん盛期せいきは8世紀せいきまつまでで[51]文書ぶんしょ木簡もっかんは10世紀せいきよりのちになるとられなくなる。しかし運送うんそうするにつける荷札にふだつづ盛行せいこうし、やはり前代ぜんだいからられる呪術じゅじゅつのためのさつ寺社じしゃへの参詣さんけいしるしをしてくば参篭さんろうさつ一員いちいんである証明しょうめいとして今日きょう身分みぶん証明しょうめいしょのように使つかさつしつけん設定せっていしめすためにける質札しちふだなど多様たよう木簡もっかんつくられた。耐久たいきゅうせい利用りようしたものである。中世ちゅうせい木簡もっかんおお木札きふだばれた[52]荷札にふだ近代きんだいまでつづき、絵馬えま卒塔婆そとうば代表だいひょうされる宗教しゅうきょうてきさつ現代げんだいにもあるが、これらが木簡もっかんという歴史れきしがく考古学こうこがく用語ようごばれることはない。それでも、発掘はっくつ調査ちょうさつかると、現代げんだいのものも木簡もっかんとして報告ほうこくされることになる[53]

朝鮮ちょうせん木簡もっかん

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朝鮮ちょうせんでは戦前せんぜんらくなみ付近ふきんはかから木簡もっかんが1てん発見はっけんされた。ついで1975ねんしん王宮おうきゅうつきじょうかり鴨池かもいけから40てん出土しゅつどし、さんこく時代じだい統一とういつしん時代じだい遺跡いせきから多数たすう木簡もっかん発見はっけんされている。2013ねんごろまでの発見はっけんすうは35遺跡いせきやく750てんすくないが[54]日本にっぽん古代こだいにもかかわる重要じゅうよう知見ちけんられている[55]

日本にっぽん最古さいこ木簡もっかんは640年代ねんだい(7世紀せいき中程なかほど)でありかずおおくなるのは680年代ねんだい天武天皇てんむてんのう時代じだいからだが、朝鮮ちょうせんでは7世紀せいき前半ぜんはんのものがつかっている。京畿けいきどう河南かなんせい山城やましろでみつかった608ねん木簡もっかんや、慶州けいしゅうつきじょう垓子から木簡もっかんかたは、日本にっぽんぜんしろ木簡もっかん起源きげんかんがえるせつがある[56]。また従来じゅうらい日本にっぽん国字こくじかんがえられていたむく(くら)、鎰(かぎ)といった朝鮮半島ちょうせんはんとう由来ゆらいすると出土しゅつど木簡もっかんから推測すいそくする研究けんきゅうしゃがいる[57]

かん簡と同様どうよう[58][59]朝鮮ちょうせんでは、側面そくめんにもいた觚が使用しようされた。四面しめんあるいはそれ以上いじょうめんはしら各面かくめんしるしたものである[60]日本にっぽん木簡もっかんひょううらいたじょうのものが大半たいはんで、棒状ぼうじょうのものはごくめずらしい。觚のなかには、長大ちょうだいに『論語ろんご』の一部いちぶしるした論語ろんご木簡もっかんがあり、これには穴埋あなう問題もんだい対策たいさくよう試験しけん勉強べんきょう用具ようぐというせつがある[61]。またこううらら時代じだい沈没ちんぼつせん木簡もっかん注目ちゅうもくされる。モンゴルの侵攻しんこうからしま避難ひなんしていた事情じじょう反映はんえいしたもので、4せき189てんつかっている[54]

地域ちいき木簡もっかん

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木簡もっかんおお発見はっけんするのはひがしアジアであるが、書写しょしゃにおける使用しよう自体じたい普遍ふへんてきなもので、世界中せかいじゅう見受みうけられるものである[62]西洋せいようにおいては、ローマ時代じだい木簡もっかんが1920年代ねんだい以降いこうポンペイヘルクラネウムなどのローマ遺跡いせきから発掘はっくつされている[63]

インドにおいては、仏教ぶっきょう経典きょうてんかいかれていた[64]。また、タイにおいてはヤシかれたれいもある[64]。これらは狭義きょうぎの「木簡もっかん」とは区別くべつされるが、おなじく植物しょくぶつ筆記ひっき素材そざいとしたれいである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 鬼頭おにがしら 2004, pp. 8–9.
  2. ^ 和田わだ 2010, pp. 12–13.
  3. ^ 大庭おおば 1998, pp. 15–16.
  4. ^ 大庭おおば 2020, pp. 27–30.
  5. ^ 大庭おおば 2020, pp. 16–19.
  6. ^ 大庭おおば 2020, p. 27.
  7. ^ 鬼頭おにがしら清明きよあき木簡もっかん古代こだい」12ぺーじ
  8. ^ 大庭おおば 1998, p. 26.
  9. ^ 大庭おおば 1979.
  10. ^ 大庭おおば 1979, pp. 64–65.
  11. ^ 鷹取たかとり 2013.
  12. ^ 2012, p. 8.
  13. ^ おもねつじ哲次てつじ漢字かんじ歴史れきし、1989。
  14. ^ 大庭おおば 1998, p. 27.
  15. ^ 大庭おおば 1998, p. 22.
  16. ^ 大庭おおば 1998, p. 23.
  17. ^ 大庭おおば 1998, p. 25.
  18. ^ 大庭おおば 1998, pp. 25–26.
  19. ^ 大庭おおば 1998, p. 24.
  20. ^ 大庭おおば 1998, pp. 34–35.
  21. ^ 鬼頭おにがしら 1996, p. 10.
  22. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2020, p. 30.
  23. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2020, p. 32.
  24. ^ 栄原さかえはら永遠えいえんおとこ三重みえ柚井ゆい遺跡いせき」、どう秋田あきた払田はらいだしがらみあと」。払田はらいだしがらみあとでは1970ねんにも1てんつかった。鬼頭おにがしら清明きよあき木簡もっかん古代こだい」には払田はらいだしがらみあとで1930ねんに3てんつかったとある。和田わだ萃「木簡もっかんかたる」には1980年代ねんだいになって柚井ゆい遺跡いせきから1てん払田はらいだしがらみで2てん戦前せんぜん発見はっけんされていたことが1980年代ねんだいになって判明はんめいしたとあるが、らない。
  25. ^ 考古こうこ学者がくしゃ田中たなかみがく小雪こゆきがちらつくなか平城ひらじろみやあとで8世紀せいきのゴミためようあなって、出土しゅつどひんをバケツのなかであらっていたとき泥水どろみずなかから木片もくへんいた文字もじかんだのをつけた(田中たなか & 佐原さわら 1993, p. 54)。
  26. ^ 和田わだ萃「木簡もっかんかたる」4ぺーじ長屋王ながやおう木簡もっかんかぎるとやく3まん5せんてんである(どう3ぺーじ)。
  27. ^ 和田わだ 2010, p. 2.
  28. ^ 出土しゅつど秋田あきたけんから宮崎みやざきけんにおよんでいる。前掲ぜんけい田中たなか(1995) 54ページ
  29. ^ 2012, p. 4.
  30. ^ 2012, pp. 4, 8.
  31. ^ 鬼頭おにがしら 2004, pp. 32–33.
  32. ^ 2012, p. 9.
  33. ^ 池田いけだ 1996, p. 28.
  34. ^ 鬼頭おにがしら 1996, p. 9.
  35. ^ 池田いけだ 1996, pp. 30–31.
  36. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2020, p. 11.
  37. ^ 舘野たての 1998, pp. 324–325.
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  39. ^ 山本やまもと 2013.
  40. ^ 鶴見つるみ 1998, p. 306.
  41. ^ 鶴見つるみ 1998, p. 307.
  42. ^ 舘野たての 1998, p. 324.
  43. ^ かね 1998, pp. 289–291.
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  46. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2006, pp. 5, 44.
  47. ^ a b 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2006, p. 5.
  48. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ 2020, p. 20.
  49. ^ 山本やまもとたかし近年きんねん木簡もっかん調査ちょうさ研究けんきゅう動向どうこう」。
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  53. ^ 徳島とくしまけん徳島とくしま観音寺かんおんじ遺跡いせきで、昭和しょうわ30年代ねんだい徳島とくしま市立しりつ国府こくふ小学校しょうがっこう使つかっていたプールのいのちさつ出土しゅつどした。(和田わだ 2010, pp. 14–15、 2012, pp. 4)
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参考さんこう文献ぶんけん

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たんちょ

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  • 佐藤さとうしん日本にっぽん古代こだいみや木簡もっかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1997ねんISBN 4-642-02311-9 
  • みずふじしん木簡もっかん木札きふだかた中世ちゅうせい東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1995ねんISBN 4-490-20265-2 
  • 田中たなかみがく; 佐原さはらしん考古学こうこがく散歩道さんぽみち』 1-2かん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ, しんあかばん〉、1993ねんISBN 4004303125 
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  • とみたにいたる木簡もっかんたけ簡のかた中国ちゅうごく古代こだい 書記しょき文化ぶんか岩波書店いわなみしょてん世界せかい歴史れきし選書せんしょ〉、2003ねんISBN 4-00-026846-5 
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  • 平川南ひらかわみなみ古代こだい地方ちほう木簡もっかん研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2003ねんISBN 4-642-02380-1 
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記事きじ論文ろんぶん

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  • かねこう宏之ひろゆきなな世紀せいき地方ちほう木簡もっかん」『木簡もっかん研究けんきゅうだい20かん、1998ねん 
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  • 栄原さかえはら永遠えいえんおとこ秋田あきた払田はらいだしがらみあと」『木簡もっかん研究けんきゅうだい1かん、1979ねん 
  • 鷹取たかとり祐司ゆうじ中国ちゅうごく新出しんで木簡もっかん」『考古学こうこがくジャーナル』だい649かん、2013ねん 
  • 舘野たての和之かずゆき律令制りつりょうせい成立せいりつ木簡もっかん なな世紀せいき木簡もっかんをめぐって」『木簡もっかん研究けんきゅうだい20かん、1998ねん 
  • 鶴見つるみやすし寿ことぶきなな世紀せいきみや木簡もっかん」『木簡もっかん研究けんきゅうだい20かん、1998ねん 
  • 橋本はしもとしげる新出にいで韓国かんこく木簡もっかん」『考古学こうこがくジャーナル』だい649かん、2013ねん 
  • はら秀三郎ひでさぶろう木簡もっかん墨書ぼくしょ土器どき」『岩波いわなみ講座こうざ日本にっぽん通史つうしだい5かん、1995ねんISBN 4-000-10574-4 
  • しげるひがしアジアの木簡もっかん文化ぶんか 伝播でんぱ過程かていく」『木簡もっかんから古代こだいがみえる』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2010ねん 
  • 山本やまもとたかし従来じゅうらい木簡もっかん調査ちょうさ研究けんきゅう動向どうこう」『考古学こうこがくジャーナル』だい649かん、ニュー・サイエンスしゃ、2013ねんNCID AN00081950 
  • 山本やまもとたかし近年きんねん木簡もっかん調査ちょうさ研究けんきゅう動向どうこう」『考古学こうこがくジャーナル』だい649かん、ニュー・サイエンスしゃ、2013ねんNCID AN00081950 
  • 和田わだ木簡もっかんかたる 研究けんきゅう足跡あしあと」『木簡もっかんから古代こだいがみえる』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2010ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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