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藤原ふじわらきょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原ふじわらきょう復元ふくげん模型もけい橿原かしはら藤原ふじわらきょう資料しりょうしつ所蔵しょぞう)。南側みなみがわから
藤原ふじわらみや 大極殿たいきょくでんいんごう門跡もんぜき
れつばしら実際じっさい位置いちからみなみ30メートルで標示ひょうじおく大極殿たいきょくでんあとくさむら)。

藤原ふじわらきょう(ふじわらきょう)は、飛鳥あすかきょう西北せいほく奈良ならけん橿原かしはら明日香あすかむらにかかる地域ちいきにあった飛鳥あすか時代ときよ都城みやこのじょう[1]みずのえさるらんにより即位そくいした天武天皇てんむてんのう計画けいかくにより日本にっぽん史上しじょうはじめてとうふうじょうぼうせいもちいられた。平城京へいじょうきょう遷都せんとされるまでの日本にっぽん首都しゅととされた。

日本書紀にほんしょき』などの正史せいしには「あらたにしたきょう」という意味いみしんえききょう[注釈ちゅうしゃく 1](あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの表記ひょうきされている[2]藤原ふじわらきょうというは、大正たいしょう2ねん1913ねん)に藤原ふじわらきょう研究けんきゅう先駆せんくとなった喜田きた貞吉さだきちが『藤原ふじわらきょう考証こうしょう』という論文ろんぶんにおいて使つかった仮称かしょうが、その論文ろんぶんなどで多用たようされ定着ていちゃくしたもので[注釈ちゅうしゃく 2][2]当時とうじ皇居こうきょが『日本書紀にほんしょき』で藤原ふじわらみやばれていることから飛鳥あすかきょう同様どうようづけられた学術がくじゅつ用語ようごである。ほんこうではこの藤原ふじわらみやについてもべる。

概要がいよう

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藤原ふじわらみや 大極殿たいきょくでんあと

日本書紀にほんしょき』の天武天皇てんむてんのう5ねん676ねん)に天武天皇てんむてんのうが「新城しんじょう(にいき)」の選定せんてい着手ちゃくしゅし、そのも「京師けいし」に巡行じゅんこうしたという記述きじゅつがある。これらの何処どこすのかは明確めいかく結論けつろんていないが、発掘はっくつ調査ちょうさ発見はっけんされた規格きかくことなるじょうぼうなどから、藤原ふじわらきょう造営ぞうえい天武天皇てんむてんのう時代じだいから段階だんかいてきすすめられたというせつ有力ゆうりょくである[3]

天武天皇てんむてんのう死後しご一旦いったん頓挫とんざした造営ぞうえい工事こうじは、その皇后こうごうでもあった後継こうけいもちすべ天皇てんのう4ねん690ねん)をさかい再開さいかいされ[注釈ちゅうしゃく 3]、4ねん694ねん飛鳥あすかきよしはらみややまときょう[注釈ちゅうしゃく 4]からみやうつ[注釈ちゅうしゃく 5]藤原ふじわらきょう成立せいりつした[4]以来いらいみやにはもちみつる文武ぶんぶ元明もとあきさんだいにわたって居住きょじゅうした。

それまで、天皇てんのうごと、あるいはいちだい天皇てんのうすう遷宮せんぐうおこなわれていた慣例かんれいから3だい天皇てんのうつづけて使用しようされたみやとなったことはおおきな特徴とくちょうとしてあげられる[5]。この時代じだいは、刑罰けいばつ規定きていりつ行政ぎょうせい規定きていれいという日本にっぽんにおける古代こだい国家こっか基本きほんほうを、飛鳥あすかきよしはら(あすかきよみはら)れい、さらに大宝たいほう律令りつりょうはじめていた重要じゅうよう時期じきかさなっている。政治せいじ機構きこう拡充かくじゅうとともに壮麗そうれい都城みやこのじょう建設けんせつは、くに内外ないがい律令りつりょう国家こっか成立せいりつせんするために必要ひつようだったとかんがえられ[5]、このみや中心ちゅうしんじょうぼうそなえた最初さいしょみや建設けんせつとなった。 藤原ふじわらきょう居住きょじゅうした人口じんこうは、きょういき確定かくていなため諸説しょせつあるが、小澤おざわあつしによる推定すいていでは4 - 5まんにんられている。そのおおくは貴人きじんかんじんとその関係かんけいしゃや、夫役ぶやくとして徴集ちょうしゅうされた人々ひとびと百姓ひゃくしょうだった[2]自給自足じきゅうじそくできる本拠地ほんきょちからはなされたかれらは、食料しょくりょう生活せいかつ物資ぶっし外界がいかい依存いぞんする日本にっぽんはつ都市とし生活せいかつしゃとなった[6]

708ねん和銅わどう元年がんねん)に元明もとあき天皇てんのうより遷都せんとみことのりくだり、710ねん和銅わどう3ねん)に平城京へいじょうきょう遷都せんとされた。 藤原ふじわらみや遺構いこうからは、平城ひらじろ遷都せんとまる時期じきいたってもあさどうかこ回廊かいろう区画くかく工事こうじつづいていたことをしめ木簡もっかん出土しゅつどしており、藤原ふじわらきょう完成かんせいのまま放棄ほうきされた可能かのうせい示唆しさしている[7]。 その翌年よくねん711ねん和銅わどう4ねん)に、みやけたとされている(『扶桑ふそう略記りゃっき』、藤原ふじわらみや焼亡しょうぼうせつ参照さんしょう)。

藤原ふじわらきょう範囲はんい構造こうぞう

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藤原ふじわらきょう 朱雀すじゃく大路おおじあと
北方ほっぽう藤原ふじわらみやあとのぞむ。後背こうはい耳成山みみなりやま

藤原ふじわらきょうきし俊男としおなどによる研究けんきゅう初期しょき想定そうていでは、大和やまと三山さんざんきた耳成山みみなりやま西にし畝傍山うねびやまひがし天香久山あまのかぐやま)の内側うちがわにあると想像そうぞうされ、12じょう8ぼうからなる東西とうざい2.1km、南北なんぼく3.2km 程度ていど長方形ちょうほうけいで、藤原ふじわらみや中央ちゅうおうよりややきたりにあったとかんがえられていた[4]。しかし1990年代ねんだい東西とうざい京極きょうごく大路おおじ発見はっけんにより、規模きぼは、5.3km(10さと四方しほうすくなくとも25km2はあり、平安京へいあんきょう(23km2)や平城京へいじょうきょう(24km2)をしのぎ、古代こだい最大さいだいとなることがわかり、発見はっけん当時とうじは「だい藤原ふじわらきょう」とんでいた[2]。この広大こうだいきょういきは、南側みなみがわ旧来きゅうらい飛鳥ひちょうにかかっており、「やまときょう」の整備せいびともなって北西ほくせいあらたに造営ぞうえいされた地域ちいきくわえ、もちすべ天皇てんのうじょうぼうせい整備せいびともな京極きょうごく確立かくりつとともにやまときょうから独立どくりつした空間くうかんとして認識にんしきされたとみられている[8]

特色とくしょくとして、以降いこう建設けんせつされる、きた宮殿きゅうでん政庁せいちょうはいした北朝ほくちょう形式けいしき太宰府だざいふ平城京へいじょうきょう平安京へいあんきょうとはことなり、きょうのほぼ中心ちゅうしん内裏だいり官衙かんがのある藤原ふじわらみやはいしている。これは天武天皇てんむてんのうとうへの対抗たいこう意識いしきとして、えて長安ながやすじょうだいきょうじょうならわず『しゅうあやふゆかんこうこうにある理想りそうてき都城みやこのじょうづくりをもと設計せっけいされたとかんがえられている[6]じょうぼうせい採用さいようし、東西とうざい5.3km(20ぼう)、南北なんぼく4.8km(18じょう)の範囲はんいない碁盤ごばんじょう街路がいろはいしたとされる[1]

藤原ふじわらみやからきたみなみ方向ほうこうにメインストリートである朱雀すざく大路おおじがあり、これをさかい東側ひがしがわ左京さきょう西側にしがわ右京うきょうかれた。朱雀すざく大路おおじは、平城京へいじょうきょう平安京へいあんきょうのようなはば70メートル以上いじょうひろいものではなく、はば24メートルきょう側溝そっこう中心ちゅうしんあいだ)と非常ひじょうせまいものであった。想定そうていされるみやいきには「和田わだ廃寺はいじ」「田中たなか廃寺はいじ」「豊浦寺とようらでら向原寺むかいはらでら)」の遺構いこうなどが確認かくにんされ、みやはこのような既存きそん施設しせつとのいで飛鳥川あすかがわ南側みなみがわ朱雀すざく大路おおじ城門じょうもん整備せいびされなかった[注釈ちゅうしゃく 6]とするせつもある[8]

東西とうざいとお京極きょうごくのぞいて縦横じゅうおう9ほんずつの大路おおじ計画けいかくされ、南北なんぼく東西とうざいじゅうぼうじょうぼうせい地割じわりが設定せっていされている。ひだり右京うきょうとも四坊しぼうごとに一人ひとりぼうれい(ぼうれい)をわせて12にんぼうれいいたことが、大宝たいほうれい(こりょう)と大宝たいほう官員かんいんれい(かんいんりょう)にみえる。みや北方ほっぽう存在そんざいしたことがあきらかになっている。大和やまとさんやまにかかる部分ぶぶんじょうぼう省略しょうりゃくされたとかんがえられるが、右京うきょう四条しじょう付近ふきんにあった古墳こふんぐんは、神武じんむりょう綏靖りょうのぞいてこのときにそぎたいらされてしまったとられている。また広大こうだいみや南東なんとうたか北西ほくせいひく地形ちけいのまま造営ぞうえいされており、汚物おぶつふく排水はいすい南東なんとうからみや周辺しゅうへんながれていたとみられる。なお藤原ふじわらきょうには外的がいてき防衛ぼうえい機能きのうはなく、かこ城壁じょうへき正門せいもん存在そんざいしない。

藤原ふじわらみや

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藤原ふじわらみや復元ふくげん模型もけい橿原かしはら藤原ふじわらきょう資料しりょうしつ所蔵しょぞう)。東側ひがしがわから

藤原ふじわらみや調査ちょうさ結果けっか宮城みやぎうちに、宮城みやぎがい街路がいろ延長線えんちょうせんじょうおな規格きかく街路がいろ痕跡こんせきつかっている。通常つうじょう宮城みやぎないには一般いっぱんひと通行つうこうする街路がいろがあるはずがないので、藤原ふじわらきょう建設けんせつ予定よていではまず全域ぜんいき格子こうしじょう街路がいろ建設けんせつし、そののちに宮城みやぎ位置いち範囲はんい決定けっていしてそのぶん街路がいろ廃止はいししたとかんがえられる。そのことは、薬師寺やくしじあと発掘はっくつでも立証りっしょうされている。

藤原ふじわらみやはほぼ1km四方しほうひろさであった。周囲しゅういをおよそ5mほどのたかさのへいかこみ、東西とうざい南北なんぼくへいにはそれぞれ3かしょ全部ぜんぶで12かしょもん設置せっちされていた。みなみ中央ちゅうおうもん正面しょうめん玄関げんかんたる朱雀すざくもんである。へい構造こうぞうは、2.7m間隔かんかくはしらとそれでささえたたかさ5.5mのかわら屋根やねふとさ4、50cmのはしらあいだをうめるあつさ25cmのかべ藤原ふじわらみや大垣おおがきである。平城ひらじろみや発掘はっくつ調査ちょうさで、藤原宮ふじわらぐうからさい利用りようしたものが発見はっけんされている。藤原ふじわらみやは、南北なんぼくやく600m、東西とうざいやく240mにおよぶ日本にっぽん最大さいだい規模きぼちょうどういん遺構いこうである。大極殿たいきょくでん基壇きだん東西とうざいやく52m、南北なんぼくやく27m[10])などの建物たてもの礎石そせき建築けんちくがなされ、中国ちゅうごくふう日本にっぽん宮殿きゅうでん建築けんちくでははじめてかわらいた建築けんちくがなされていた。

藤原ふじわらみや焼亡しょうぼうせつ

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扶桑ふそう略記りゃっき』に、藤原ふじわらきょう大官大寺だいかんだいじ和銅わどう4ねん(711ねん)に焼失しょうしつしたという記事きじがある。これが事実じじつだとすると、遷都せんと翌年よくねんけたことになる。しかし、藤原ふじわらきょうあとでの発掘はっくつで、火災かさい痕跡こんせき発見はっけんされていない。一方いっぽう大官大寺だいかんだいじ金堂こんどうとう回廊かいろうちた痕跡こんせきつかった。遺物いぶつから8世紀せいきごろのものとみられる。

藤原ふじわらきょう遺構いこう

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木簡もっかんやく1200てん出土しゅつどしている。金石かねいしあやや、後年こうねんになり日本書紀にほんしょきなど潤色じゅんしょくうたがわれる史料しりょうとはことなり、木簡もっかん現場げんば律令りつりょう実践じっせん使用しようされた潤色じゅんしょく必要ひつようせいのなかった史料しりょうとされる。このため、大宝たいほう律令りつりょう内容ないよう復元ふくげん期待きたいされている。「大宝たいほう元年がんねん」という年号ねんごうや「中務なかつかさしょう」・「みや内省ないせい」などの官庁かんちょうめいじった文書ぶんしょ当時とうじ高官こうかん名前なまえなどもかれており書誌しょしにはない史料しりょうふくんでいる。

ぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくけた木簡もっかん

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藤原ふじわらみやあと出土しゅつど木簡もっかん複製ふくせい
うえ捄国阿波あわひょう松里まつざと」の表記ひょうきられる。奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ附属ふぞく博物館はくぶつかん展示てんじ

ぐん評論ひょうろんそう」とは、大化たいか改新かいしんみことのり記述きじゅつなかに、政治せいじ改革かいかく方針ほうしんなかに、地方ちほうを「くに」、「ぐん」、「さと」を単位たんいとして組織そしきする制度せいど施行しこうふくまれており、大化たいか年間ねんかんぐん制度せいどができたことになっている。この「ぐん」にたいして、疑問ぎもんていするせつされていた。この「ぐん評論ひょうろんそう」に決着けっちゃくをつけたのが、藤原ふじわらみやあとから発見はっけんされた木簡もっかんである。1967ねん藤原ふじわらみやあとから発見はっけんされた木簡もっかんには、「おのれ亥年いどし十月上捄国阿波評松里」とあり、「おのれ亥年いどし」は文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん699ねん)、「うえ捄国阿波あわひょう」は、上総かずさこく安房あわぐん安房あわこく安房あわぐん)こととかんがえられることから、7世紀せいきまつには、「ぐん」ではなく、「ひょう」であったことをあきらかにした。一方いっぽう、701ねん大宝たいほう元年がんねん)をさかいに、「ひょう」は発見はっけんされなくなり、「ぐん」のみとなる。このことから、改新かいしんみことのりによってではなく、大宝たいほう律令りつりょう施行しこうにその規定きていしたがって、「ひょう」が「ぐん」に変更へんこうされたということが立証りっしょうされた[7]

呪符じゅふ木簡もっかん

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わざわいの原因げんいんとなる邪気じゃき悪鬼あっきふせいだり、駆逐くちくするための呪文じゅもん符号ふごういた木札きふだ呪符じゅふ木簡もっかんというが、7世紀せいき出現しゅつげんする。7世紀せいきれい全国ぜんこくで8れいあるが、そのうち6れい藤原ふじわらみやあとから出土しゅつどしている[11]

もんごう

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藤原ふじわらみやは、東西とうざい南北なんぼくにそれぞれ3かしょ全部ぜんぶで12かしょもん設置せっちされていた。それぞれのもんごうは、ふるくから天皇てんのうつかえ、まもってきた氏族しぞく名前なまえをとったものとかんがえられる。まず、みや正面しょうめんにあたるみなみ中央ちゅうおうもんである朱雀すざくもんは、大伴おおとももん別称べっしょうがあった。ほかにもかっているもんには、北辺ほくへん中央ちゅうおういのしし使もん北辺ほくへんひがしまむしおうもん多治比たじひもんひがしきた山部やまべもん西にし佐伯さえきもん玉手たまてもんひがし中央ちゅうおう建部たけべもん北辺ほくへん西にしうみけんやしなえもんがある。ただ、まだ実際じっさい発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれたのは朱雀すざくもんなど一部いちぶにすぎず、はや調査ちょうさたれる。

現状げんじょう

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発掘はっくつ調査ちょうさ現場げんば

奈良ならけん橿原かしはら高殿たかどのまち藤原ふじわらみや大極殿たいきょくでんだんのこっており、周辺しゅうへん史跡しせき公園こうえんになっている。藤原ふじわらみやあとの6わりほどがくに特別とくべつ史跡しせき指定していされており、藤原ふじわらみやおよ藤原ふじわらきょう発掘はっくつ調査ちょうさつづけられている。

1968ねん昭和しょうわ43ねん9月13にち歴史れきしてき風土ふうど特別とくべつ保存ほぞん地区ちく[12]指定していされている。公共こうきょう施設しせつである橿原かしはら斎場さいじょう橿原かしはら昆虫こんちゅうかんひとし建設けんせつのために道路どうろつくられて、香具こうぐさん歴史れきしてき風土ふうど特別とくべつ保存ほぞん地区ちく)と分断ぶんだんされることになる。2005ねん平成へいせい17ねん)、大和やまと三山さんざんくに名勝めいしょう指定していされた。

2007ねん平成へいせい19ねん)1がつ日本にっぽん政府せいふ世界せかい遺産いさん登録とうろく前提ぜんていとなる暫定ざんていリストに「飛鳥あすか藤原ふじわらみやとその関連かんれん資産しさんぐん」を登録とうろくした。

藤原ふじわらみやあとをよりおおくの人々ひとびと認知にんちししてもらうことを目的もくてきに、2006ねん平成へいせい18ねんより地元じもと5まち醍醐だいごまち木之本きのもとまち縄手なわてまち別所べっしょまち高殿たかどのまち)で構成こうせいされた藤原ふじわらみやあと整備せいび協力きょうりょく委員いいんかい協力きょうりょくにより藤原ふじわらみやあと花園はなぞのうえ事業じぎょうおこなわれ[13]はる醍醐だいご北側きたがわやく20,000 平方へいほうメートルやく250まんほんはな[14]なつに、醍醐だいごいけ西側にしがわやく7,000 平方へいほうメートルにやく100まんほんキバナコスモス[15]大極殿たいきょくでんあと南東なんとうやく3,000 平方へいほうメートルに大賀おおがれん唐招提寺とうしょうだいじはちすなどの11種類しゅるいハス[16]あき大極殿たいきょくでんあと南側みなみがわやく30,000 平方へいほうメートルにやく300まんほんコスモス[17]うえ栽されている。

白鳳はくほう文化ぶんか

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このはないたのが、おおらかな白鳳はくほう文化ぶんかであった。白鳳はくほう文化ぶんかは、天皇てんのう貴族きぞく中心ちゅうしん文化ぶんかでもあった。大官大寺だいかんだいじ大安寺だいあんじ高市たかいち大寺おおてら)や薬師寺やくしじなどが造営ぞうえいされていた。白鳳はくほう文化ぶんか代表だいひょうするものとしては興福寺こうふくじふつあたまなどがある。

異説いせつ俗説ぞくせつ

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大宰府だざいふは、藤原ふじわらきょう先立さきだって日本にっぽん列島れっとう最初さいしょじょうぼうせいをしいた都城みやこのじょうであり、日本にっぽん古代こだい以外いがいの「世界せかい」にならえば、都城みやこのじょう出現しゅつげんを以って国家こっか確立かくりつしたとみなすため、九州きゅうしゅう王朝おうちょう倭国わのくに)を日本にっぽん最初さいしょ王朝おうちょうとする主張しゅちょうがなされた(九州きゅうしゅう王朝おうちょうせつ参照さんしょう)。だいいち大宰府だざいふ政庁せいちょうじょうぼう築造ちくぞう時期じきについては、7世紀せいきまつとのせつ発表はっぴょうされたが、さらに観世音寺かんぜおんじよりもじょうぼう先行せんこうする可能かのうせいしめされている[18][19][20]観世音寺かんぜおんじ創建そうけんが7世紀せいき後半こうはんとされることをかんがわせると、大宰府だざいふじょうぼう築造ちくぞう時期じきはそれ以前いぜんということになり、藤原ふじわらきょうどう時期じきあるいはさらにふるくなる可能かのうせいてくる。

阿波あわせつ

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大和やまと朝廷ちょうてい前身ぜんしんとしての邪馬台国やまたいこく奈良盆地ならぼんちはし古墳こふんホケノさん古墳こふんのルーツとなる墳墓ふんぼ[21]発掘はっくつされ、弥生やよい時代じだいだい集落しゅうらく遺跡いせきぐん[22]があり、3世紀せいき水銀すいぎんしゅたつすな硫化りゅうか水銀すいぎん))採掘さいくつ遺跡いせき[23]全国ぜんこく唯一ゆいいつ発掘はっくつされ、鉄器てっき製作せいさくのための国内こくない最古さいこきゅう鍛冶たんやそなえた竪穴たてあな建物たてもの[24]発掘はっくつされた阿波あわ成立せいりつし、大和やまと朝廷ちょうていは710ねん和銅わどう3ねん)に奈良なら平城京へいじょうきょう遷都せんとするまで阿波あわにあった、とする阿波あわせつでは、藤原ふじわらみやふたって[25]最初さいしょ藤原ふじわらみや比定ひてい阿波あわ徳島とくしまけん吉野川よしのがわ鴨島かもじままち飯尾いのお呉郷団地ごごうだんちみなみ山際やまぎわ飯尾いいおたかし神社じんじゃあたり)であったとする。その痕跡こんせき飯尾いいおたかし神社じんじゃ境内けいだいには、藤原ふじわらみやつくった棟梁とうりょうつたえられる「藤原ふじわらやくきみ」の尊像そんぞう安置あんちされていること、ふじ神社じんじゃ飯尾いいおたかし神社じんじゃふもと鎮座ちんざ)という天皇てんのうみやつくったとの伝承でんしょうつ「工藤くどう」の氏神うじがみまつ神社じんじゃ比定ひていちかくに鎮座ちんざしていること、比定ひていちかくに「くにいち八幡宮はちまんぐう」(鴨島かもじままち山路さんじ)が鎮座ちんざし、神社じんじゃまえ由緒ゆいしょきには、「ここはむかしけいくもみやばれていた」とかれていることである。また、藤原ふじわらみやふじ乃井は、四国しこく霊場れいじょうだい11ばん札所ふだしょ藤井寺ふじいでら境内けいだいいけ湧水わきみず)があって現在げんざい水量すいりょうはほとんどないものの大昔おおむかし面影おもかげめ、藤棚ふじだなには初夏しょかには見事みごとほこり、また境内けいだいながれる小川おがわ上流じょうりゅうふじ自生じせいりんとしてられ、ふじ自生じせいりんあいだながれる小川おがわゆえにふじ乃井のけられたとしている。

さらに万葉集まんようしゅうにある藤原宮ふじわらぐうやくみん(えのたみ)のつくれるうた『やすみしし わご大王だいおう だからす 皇子おうじ あらたえ(あらたへ)の 藤原ふじわらがうへに くえ(を)すくにきゅうはむと みや高知こうちらさむと かみ(かむ)ながら おもほすなべに 天地てんち(あめつち)も りてあれこそいしはし淡海たんかい(あふみ)のくに衣手ころもで田上たのえさん(たなかみやま)の もくさくひのきの嬬手を もののふのはちじゅうかわ(やそうじがわ)に 玉藻たまもなす かべながせれ 其をると さわくみんいえわすもたならず かもじものみずきゐて わがつく御門みかどらぬくに よせ巨勢こせどう(こせぢ)より わがくに常世とこよにならむ(ふみ)まけへる かみしきかめ新代にいしろいずみかわせる 眞木まきの嬬手を ひゃくらず いかだつくり 泝(のぼ)すらむ つとむ(いそ)はくれば かみながらならし』(万葉集まんようしゅうまきいち50ばん)を『てんてら神子みこいのち以来いらい我国わがくに天皇てんのうが、やすらけくます大宮おおみや藤原ふじわらつくるにあたり、我々われわれ田上たのえさんひのきはちじゅうがわみずすじ利用りよう泉谷いずみやまでおおくのみん々が手助てだすけしてはこび、このいずみ入江いりえすうおおくのいかだにしつらえ対岸たいがん鴨島かもじま入江いりえまできのぼり、この木材もくざいをもって藤原ふじわらみやつくったのだ』とほこったやく人々ひとびとみやぼめ解釈かいしゃくし、①「あらたえ藤原ふじわらがうへに」とはこのきゅう麻植おえぐんうちにちぎの神事しんじ皇祖こうそ御衣おんぞとしてこの藤原ふじわらみや後方こうほう山上さんじょうみつぐむらからるあらたえを枕詞まくらことばとして使つかったもの。 ②「しょくくに」とは、五穀豊穣ごこくほうじょう象徴しょうちょうだいむべうり国名こくめいとした阿波あわのこと ③「淡海たんかいくに衣手ころもで田上たのえさん」の「淡海たんかい(あふみ)」とは「阿波あわかい(あわうみ)」の転化てんかで、鳴門なるとからみなみにかけての阿波あわうみのこと。通説つうせつは「淡海たんかい(あふみ)」を「近江おうみ」とし「淡海たんかいうみ」を琵琶湖びわこのこととしているがあやまり。ほんきょ宣長のりながも「あふみ」は「阿波あわ宇美うみきり(つづ)ま」ったものといている。田上たのえさんとは伊太いた乃郡田上たのえ邑(げん徳島とくしまけん鳴門なると大麻おおさまちきゅうさとめい)のやま現在げんざい大麻山おおさやまのこと ④「ひのき」は、大麻町桧おおあさちょうひのき地名ちめいくほどひのき産地さんち ⑤「もののふのはちじゅうかわ」とは、吉野川よしのがわ北岸ほくがん田上たうえ邑をふくめた伊太いた乃郡山下郷やましたごう大津おおつあたりから上流じょうりゅう上板かみいたまちいずみ谷川たにがわあたりまでの、クモくものように水路すいろじるところ ⑥「かもじも」とは、鴨島かもじま上下島じょうげじまかれているので、かも下島しもじまのこと ⑦「しんしいかめ」とは、はや吸門鳴門海峡なるとかいきょう)で海人あま大人おとな(うし)宇豆彦かめってあらわれて神武じんむぐん案内あんないしたという神武じんむ東征とうせい[26]伝説でんせつにもとりうたわれたもの ⑧「いずみかわ」とは板野いたのぐん上板かみいたまちながれるかわ ⑨「いかだつくり」など大河たいが吉野川よしのがわ如何様いかさまにも運搬うんぱんできるとしている。一方いっぽう通説つうせつ琵琶湖びわこちかくの滋賀しが田上たのえさんから木材もくざいいかだんで、琵琶湖びわこから宇治川うじがわへ、そして木津川きづがわはこび、木津きづからは陸路りくろ運河うんがなどで大和やまとさんやまかこまれた奈良なら藤原ふじわらきょう橿原かしはら高殿たかどのまち)まではこんだというひのき運搬うんぱん経路けいろは、あまりに非合理ひごうりにして現実げんじつてき経路けいろであり、ひのき産地さんち奈良なら藤原ふじわらきょう近辺きんぺんにもおおくあるとしている[27][28]

もちすべあさには34かいもの吉野よしのみやへの行幸ぎょうこう記録きろく記載きさいされており、奈良ならけん吉野よしのみやあとといわれているところは吉野よしのぐん吉野よしのまちとされているが、明日香あすか橿原かしはら奈良なら藤原宮ふじわらぐうまでは、地図ちずじょう直線ちょくせん距離きょりじゅうすうキロになり、しかも標高ひょうこう500メートル以上いじょうやまつらなっている。あるいて最短さいたんのコースをとったとしても20キロあまりの急峻きゅうしゅん坂道さかみちとおらなければならず、かくまでして吉野よしのかしめたものはなにであったのか。また、『たきうえさんふねやまに ゐるくもつねにかあらんと わがおもはなくに』(万葉集まんようしゅうまきさん242)や『み吉野よしのたき白浪しらなみ らねども かたりしげば いにしへおもえほゆ』(どうまきさん313)とまれているように、吉野よしのみやちかくにはたきがなければならないし、柿本人麻呂かきのもとのひとまろうたどうまきいち36、37、38、39)にまれているように、吉野川よしのがわあさゆうふねならべてきそってわたるほど川幅かわはばひろくなければならない。奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまちの「宮滝みやたき」は明日香あすかきよしはらみや橿原かしはら藤原ふじわらみやおな吉野川よしのがわ北岸ほくがんにあり、吉野川よしのがわわた必要ひつようがない。一方いっぽう阿波あわせつにおける吉野よしのみや推定すいてい三好みよし三野みのまち加茂野宮かものみや王地おうじで、その北側きたがわうら山奥やまおくには「龍頭滝りゅうずのたき」と「きむつよしたき」の瀑があり、柿本人麻呂かきのもとのひとまろうたの『やすみしし わご大君おおきみきこしょくてんしたくにはしも (さは)にあれども 山川やまかわきよかわないしん吉野よしのくにはならふ 秋津あきつ野辺のべみやばしら ふとしきませば 百磯城ももしき大宮人おおみやびとふねならべて 朝川あさかわわたせんきおいゆうかわわたる このかわぜっゆることなく このやまの いやだからず みずたぎたきれどかぬかも』(万葉集まんようしゅうまきいち36ばん)の「みずげき(たぎ)つたき」をまさ彷彿ほうふつとさせ、吉野川よしのがわもちすべ天皇てんのう随行ずいこうした宮廷きゅうていじんふねかべてあそび、朝夕あさゆうふねならべて対岸たいがんまできそうほど川幅かわはばひろ水量すいりょうゆたかであり、三好みよし三野みのまち加茂野宮かものみや吉野よしのみや吉野川よしのがわ北岸ほくがんにあり、吉野川よしのがわ鴨島かもじままち藤原ふじわらみや小松島こまつしま飛鳥あすかきよしはらみや[29]吉野川よしのがわ南側みなみがわにあり、吉野川よしのがわわた必要ひつようがある。

691ねん藤原不比等ふじわらのふひとは、とう帝国ていこく文明ぶんめい軍事ぐんじてき圧力あつりょくたりにして、列島れっとう全域ぜんいき律令制りつりょうせい統治とうち不可欠ふかけつかんがえ、うみをまたいでしんえききょう奈良ならけん橿原かしはら)の地鎮祭じちんさいおこなったが、もちすべ天皇てんのうとう度重たびかさなる奈良ならへの遷都せんと説得せっとくにも決心けっしんがつかず、やまと阿波あわこく)にまりたいと、692ねん藤原ふじわらみや鴨島かもじままち)で地鎮祭じちんさいおこない、ねんの694ねん飛鳥あすか徳島とくしまけん小松島こまつしま)から藤原ふじわらみや吉野川よしのがわ鴨島かもじままち)へ遷ったとし、これがいち度目どめ藤原ふじわらきょう度目どめ奈良ならけん橿原かしはら藤原ふじわらきょうであったとしている。702ねん大宝たいほう2ねんすべ天皇てんのう薨去こうきょし、けた704ねんけいくも元年がんねん)、とうなか中断ちゅうだんしていたしんえききょう本格ほんかくてき造営ぞうえい着手ちゃくしゅし、みやめい藤原ふじわらみやあらた造営ぞうえいはじめた。707ねんけいくも4ねんはじめて上級じょうきゅう官僚かんりょうあつめて遷都せんと議論ぎろんをさせたが、その4かげつ遷都せんとでなかった文武ぶんぶ天皇てんのうが25さいわかさで薨去こうきょ元明もとあき天皇てんのういそ必要ひつようはないと反対はんたいしたが、とうられ、遷都せんとみことのりはっしたとしている[30][31]

文化財ぶんかざい

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特別とくべつ史跡しせき

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  • 藤原ふじわらみやあと - 1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち指定してい[32]
1946ねん昭和しょうわ21)11月21にち史跡しせき指定していされたのち、1952ねん昭和しょうわ27ねん)に特別とくべつ史跡しせき指定していされた。また10すうにわたり指定してい範囲はんい追加ついかおこなわれている[32]

交通こうつうアクセス

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地図

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ もちすべ天皇てんのう6ねん正月しょうがつ12にち692ねん2がつ4にちじょう
  2. ^ 万葉集まんようしゅうまきだいいち 和銅わどう3ねん題詞だいしに「藤原ふじわらきょう」のあらわれるが、後世こうせい付加ふかされたものというせつ有力ゆうりょくである[2]
  3. ^ 日本書紀にほんしょきすべ天皇てんのう4ねん10がつ690ねん11月)じょうみずのえさるに、高市皇子たけちのおうじ藤原ふじわら(ふぢはら)の宮地みやじ(みやどころ)を(みそなほ)す。公卿くぎょうひゃくりょう(まへつきみつかさつかさおほみ)したがえ(とも)なり」とあり、同年どうねん12がつ691ねん1がつ)のじょうに「からしとりに、天皇てんのう藤原ふじわらこうして宮地みやじかんす。公卿くぎょうひゃくりょうみなしたがえなり」。もちすべ天皇てんのう8ねん12月(695ねん1がつじょう藤原ふじわらみや(ふじわらのみや)に遷(うつ)りきょ(おは)します」
  4. ^ 藤原ふじわらきょう先立さきだやまときょうについては諸説しょせつがあるが、飛鳥あすかみや周辺しゅうへん施設しせつふくんで藤原ふじわらきょう建設けんせつされたため、まだ飛鳥あすかみやかれていた時代じだい遷宮せんぐう以前いぜん藤原ふじわらきょう関連かんれんするしょ施設しせつしょ制度せいどに「きょう」のかんしてんでいた可能かのうせい指摘してきされている。
  5. ^ 一説いっせつ12月6にち694ねん12月30にち昼前ひるまえに遷行したとされる。
  6. ^ ぞく日本にっぽん』には和銅わどう3ねん(710ねん)の朝賀ちょうが軍事ぐんじ行進こうしんが“朱雀すざく”でおこなわれたとする記述きじゅつからも、整備せいびされたどういちぶく規格きかく大路おおじとお意図いと希薄きはくであった可能かのうせいがある[9]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 浅井あさいけんなんじ 2001, p. 142.
  2. ^ a b c d e 千田せんだ金子かねこ 2000, pp. 268–286.
  3. ^ 亀田かめだひろしにちかん古代こだいみや研究けんきゅう』(学生がくせいしゃ、 2000ねんISBN 4-311-30473-0 pp.134-137.
  4. ^ a b 渡辺わたなべ 2001, pp. 28–36.
  5. ^ a b 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん藤原ふじわらみや
  6. ^ a b 文化庁ぶんかちょう 2015, pp. 209–212.
  7. ^ a b 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ木簡もっかん古代こだいからの便たより』(岩波書店いわなみしょてん、 2020ねんISBN 978-4-00-025325-3 pp.33-38.
  8. ^ a b あみ伸也しんや 2011, pp. 28–35.
  9. ^ あみ伸也しんや 2011, pp. 31–32.
  10. ^ "奈良なら藤原宮ふじわらぐう大極殿たいきょくでん基壇きだん規模きぼ判明はんめい 奈文研なぶんけん調査ちょうさ"産経新聞さんけいしんぶん、2016ねん6がつ29にち記事きじ)。
  11. ^ 奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ飛鳥あすか藤原ふじわらみや発掘はっくつ調査ちょうさがいほう 26』奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ飛鳥あすか藤原宮ふじわらぐうあと発掘はっくつ調査ちょうさ,1996ねん.
  12. ^ 国土こくど交通省こうつうしょう歴史れきしてき風土ふうど保存ほぞん区域くいきおよ歴史れきしてき風土ふうど特別とくべつ保存ほぞん地区ちく指定していじょうきょう
  13. ^ 藤原ふじわらみやあと花園はなぞの紹介しょうかい”. 橿原かしはら 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  14. ^ はな藤原ふじわらみやあと花園はなぞの はるゾーン)”. 橿原かしはら 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  15. ^ キバナコスモス(藤原ふじわらみやあと花園はなぞの なつゾーン)”. 橿原かしはら 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  16. ^ ハナハス(藤原ふじわらみやあと花園はなぞの れんゾーン)”. 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  17. ^ コスモス(藤原ふじわらみやあと花園はなぞの あきゾーン)”. 橿原かしはら. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  18. ^ 井上いのうえ信正のぶまさ大宰府だざいふまち区割くわりとまち成立せいりつについての予察よさつ」(『じょうさとせい古代こだい都市とし研究けんきゅう』Ⅰ、2001ねん
  19. ^ 大宰府だざいふじょうぼう新説しんせつ紹介しょうかい きゅうれき史跡しせき発掘はっくつ50ねん特別とくべつてん”. 西日本にしにほん新聞しんぶん. 2018ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  20. ^ 井上いのうえ信正のぶまさ大宰府だざいふじょうぼう成立せいりつ」(『 考古学こうこがくジャーナル』 588ごう、2009ねん
  21. ^ 徳島とくしまけん鳴門なると大麻おおさまち萩原はぎはら1ごうはか(3世紀せいきだい1よんよう築造ちくぞうのちえん直径ちょっけいやく18メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんいしかこえ槨積せき墳丘ふんきゅう)、萩原はぎはら2ごうはか国内こくない最古さいこ、2世紀せいきまつから3世紀せいき初頭しょとう築造ちくぞうのちえん直径ちょっけいやく20メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんいしかこえ槨積せき墳丘ふんきゅう)、鳴門なると大麻おおさまち西山にしやまたに2ごうふん(3世紀せいきなかばの築造ちくぞう竪穴たてあなしき石室いしむろ直径ちょっけいやく20メートルのえんふん
  22. ^ しょう遺跡いせき南庄みなみしょう遺跡いせき鮎喰あくい遺跡いせき名東めいとう遺跡いせき矢野やの遺跡いせき石井いしい城ノ内しろのうち遺跡いせき井ノ元いのもと遺跡いせき清成きよなり遺跡いせきなど
  23. ^ 徳島とくしまけん阿南あなん水井すいいまち若杉山わかすぎやま遺跡いせき
  24. ^ 徳島とくしまけん阿南あなん加茂かもまち加茂かもみやぜん遺跡いせきなど
  25. ^ 日本書紀にほんしょきでは、もちみつる8ねん(694ねん)12月6にち藤原ふじわらみやに遷居せられ、9にちには百官ひゃっかんあさはいけられた、としるされており、どう11ねん(697ねん)8がつ1にちには文武ぶんぶ天皇てんのう譲位じょういされた。その皇居こうきょうつした記録きろく見当みあたらないが、けいくも元年がんねん(704ねん)11がつ20日はつかはじめて藤原ふじわらみやていむ、としるされている。
  26. ^ 阿波あわせつでは、神武じんむ東征とうせいみなみ九州きゅうしゅうから北九州きたきゅうしゅう中国ちゅうごく地方ちほう経由けいゆして大阪おおさかわんへ、そこから和歌山わかやまけんまわって吉野川よしのがわから奈良ならはいるという経路けいろ記紀きき成立せいりつ挿入そうにゅうされた創作そうさくとし、神武じんむ東征とうせい吉野川よしのがわ流域りゅういき覇権はけんあらそいで、吉野川よしのがわ南岸なんがん神武じんむ天皇てんのう勢力せいりょく吉野川よしのがわ北岸ほくがんにょうそくいのち勢力せいりょく鎮撫ちんぶする事件じけんとしている。神武じんむぐん参謀さんぼうつとめた宇豆彦は宇志うし彦ともばれ、鳴門なると大麻町大谷おおあさちょうおおたに鎮座ちんざする宇志うし神社じんじゃまつられており、その北側きたがわにある西山にしやまたに2ごうふんは宇豆彦のはかとみられている。神社じんじゃはその遙拝ようはいしょ
  27. ^ 藤井ふじいさかえよみがえすめらぎ阿波あわへのたび
  28. ^ 笹田ささだたかしいたりすめらぎヤマトは阿波あわだった』サンロータス研究所けんきゅうじょ2024ねん、pp.308-324
  29. ^ 阿波あわせつでは、だい34だい舒明天皇てんのうからだい41だいもちすべ天皇てんのうまでの飛鳥ひちょうきょう徳島とくしまけん小松島こまつしま天武天皇てんむてんのうすべ天皇てんのう飛鳥あすかきよしはらみや推定すいてい小松島こまつしま大林おおばやしまち本村ほんそん小松島こまつしま大林おおばやしまちには「あすか」とばれていたという伝承でんしょうのこっており、いま飛鳥あすか神社じんじゃげん日吉ひよし神社じんじゃ)が鎮座ちんざし、秋祭あきまつりに「飛鳥あすか神社じんじゃ」ののぼりつ。徳島とくしまはん地誌ちしである『阿波あわこころざし』には「飛鳥あすかほこら 大林おおばやしむらまた日吉ひよしほこら天満てんまほこら蛭子えびすほこら牛頭ごずほこら八幡やはたほこらあり……」と記載きさいされている。舒明天皇てんのう飛鳥あすか岡本おかもとみや推定すいてい小松島こまつしま中田なかだまち千代ちよばら、すぐ北側きたがわにはにち峯山みねやま標高ひょうこう191.6m)がある。この峯山みねやまからは、「大和やまとには ぐんやまあれど とりよろふ てん香具こうぐやま のぼ國見くにみをすれば 國原くにはらけむり海原うなばらは 鷗つ うましこく蜻蛉とんぼとう 大和やまとくには」という舒明天皇てんのう国見くにみうたそのままに、国原くにはら徳島とくしま平野へいや)も海原うなばら紀伊きい水道すいどう)も見晴みはらすことができ、いまわらずカモメのようをみることができる。後世こうせい小松島こまつしまがわ山頂さんちょうにちほう神社じんじゃ創建そうけんされ、にち峯山みねやまばれるようになったが、むかし籠山かごやま標識ひょうしきっていたとのことであり、「かご」は元々もともと香具こうぐ」からの転化てんかであり、「かごやま」または「かぐやま」とばれていたとみられる。また海岸かいがん沿いには「大神子おおみこ」「しょう神子みこ」の地名ちめいもある。すめらぎごく天皇てんのう飛鳥あすかいたぶたみや推定すいてい小松島こまつしま田野たのまち芝田しばた推古天皇すいこてんのうしょう墾田こんでんみや徳島とくしま北田きただみやひとし明天めいてんすめらぎこう飛鳥あすか岡本おかもとみや田中たなかみや推定すいてい岡本おかもとみや西にしとなりちなみに天智天皇てんぢてんのう淡海たんかい大津おおつみや推定すいてい鳴門なると撫養町木津むやちょうきづ応神天皇おうじんてんのう難波なんば大隅おおすみみや推定すいてい香川かがわけんさぬき津田つだまち、このあたりは『和名わみょうしょう』に全国ぜんこく唯一ゆいいつ讃岐さぬきこく寒川さむかわぐん難波なんばきょう」とあるとおり古代こだい難波なんば仁徳天皇にんとくてんのう難波なんば高津たかつみや推定すいていはさぬき津田つだまち雨滝あめだき山北やまきたふもと御座ぎょざ)、あるいは香川かがわけん高松たかまつ元山もとやままち
  30. ^ 藤井ふじいさかえよみがえすめらぎ阿波あわへのたび
  31. ^ 笹田ささだたかしいたりすめらぎヤマトは阿波あわだった』サンロータス研究所けんきゅうじょ2024ねん、pp.308-324
  32. ^ a b 藤原ふじわらみやあと史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース / 文化庁ぶんかちょう. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  33. ^ かしはらしコミュニティバスのご案内あんない”. 橿原かしはら公式こうしきホームページ(かしはらプラス). 2020ねん5がつ28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • あみ伸也しんや平安京へいあんきょう造営ぞうえい古代こだい律令りつりょう国家こっかはなわ書房しょぼう、2011ねん、28-35ぺーじISBN 9784827312447 
  • 浅井あさいけんなんじみちみちがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2001ねん11がつ10日とおか、142ぺーじISBN 4-534-03315-X 
  • 木下きのした正史せいし藤原ふじわらきょう よみがえる日本にっぽん最初さいしょ都城みやこのじょう』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2003ねんISBN 4-12-101681-5
  • 田中たなかみがくへん古都こと発掘はっくつ』(岩波いわなみ新書しんしょ、1996ねんISBN 4-00-430468-7
  • 林部はやしべ ひとし飛鳥ひちょうみや藤原ふじわらきょう よみがえる古代こだい王宮おうきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー、2008ねんISBN 978-4-642-05649-6
  • 八木やぎ たかし研究けんきゅう 飛鳥あすか藤原ふじわらきょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねんISBN 4-642-07128-8
  • 千田せんだみのる金子かねこ裕之ひろゆき飛鳥あすか藤原ふじわらきょうなぞる』(だい2さつぶんえいどう、2000ねんISBN 4-578-12958-6 
  • 文化庁ぶんかちょう へん日本にっぽん発掘はっくつ!:ここまでわかった日本にっぽん歴史れきし朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4-02-263030-8 
  • 渡辺わたなべ晃宏あきひろ平城京へいじょうきょう木簡もっかん世紀せいき講談社こうだんしゃ日本にっぽん歴史れきし〉、2001ねんISBN 4-06-268904-9 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
飛鳥あすかみや飛鳥あすかきよしはらみや
日本にっぽん首都しゅと
694ねん - 710ねん
次代じだい
平城京へいじょうきょう

座標ざひょう: 北緯ほくい3430ふん7びょう 東経とうけい13548ふん26びょう / 北緯ほくい34.50194 東経とうけい135.80722 / 34.50194; 135.80722