邪馬台国やまたいこく

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邪馬台国やまたいこく
よこしま󠄂うまだいこく
xxxxねん - xxxxねん ヤマト王権
公用こうよう 古代こだい日本語にほんご
首都しゅと 不明ふめい
女王じょおう
xxxxねん - 248卑弥呼ひみこ
xxxxねん - xxxxねんだいあずか
元首げんしゅとう
xxxxねん - xxxxねん 不明ふめい
変遷へんせん
不明ふめい xxxxねんxxつきxx
現在げんざい日本の旗 日本にっぽん
 

邪馬台国やまたいこく(やまたいこく/やまとこく、きゅう字体じたいよこしま󠄂うまだいこく)は、2世紀せいき - 3世紀せいき日本にっぽん列島れっとう存在そんざいしたとされるくに(くに)のひとつ。邪馬台国やまたいこくやまと女王じょおう卑弥呼ひみこ宮室きゅうしつがあった女王じょおうこくであり、倭国わのくに連合れんごう(邪馬台国やまたいこく連合れんごう)のがあったとされている。ふるくから大和やまとこく(やまとこく)の音訳おんやくとして認知にんちされていたが[注釈ちゅうしゃく 1]江戸えど時代じだい新井あらい白石はくせき通詞つうじ今村いまむら英生ひでお発音はつおんする当時とうじ中国ちゅうごくもとづき音読おんどくした[注釈ちゅうしゃく 2] ことから「やまたいこく」のかたひろまった。日本にっぽん文献ぶんけんには邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこ存在そんざい一切いっさい記載きさい日本にっぽんでは存在そんざい立証りっしょうされていない。所在地しょざいちについて、いま議論ぎろんつづいている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくの『三国志さんごくし』における「こころざし倭人わじんでん」(『三国志さんごくししょ東夷あずまえびすでん倭人わじんじょう)では、卑弥呼ひみこは、やく30のくにからなる倭国わのくにとしてここに住居じゅうきょしていたとされている。

なお、現存げんそんする三国志さんごくし版本はんぽんでは「よこしま󠄂うまいちこく」(しん字体じたい邪馬壱国やまいちこく)と表記ひょうきされているが、ばんとう以降いこう写本しゃほん誤写ごしゃしょうじたものとするのが通説つうせつである(だいきゅう字体じたいだい」はいちきゅう字体じたいいち」とているため)。現代げんだいじん著作ちょさくおおくは、それぞれ「いち」「だい」で代用だいようしているので、ほんこうでも「邪馬台国やまたいこく」と表記ひょうきする。

倭国わのくに元々もともとおとこおうおさめていたが、くに成立せいりつ(1世紀せいき中頃なかごろ2世紀せいき初頭しょとう)から70-80ねん倭国わのくに長期間ちょうきかんにわたる騒乱そうらんきた(倭国わのくに大乱たいらん時期じきは2世紀せいき後半こうはん)。そこで卑弥呼ひみこという巫女ふじょおう共立きょうりつすることによって混乱こんらんおさまり、邪馬台国やまたいこく連合れんごう成立せいりつした。おとうと彼女かのじょ補佐ほさしてくにおさめており、かんとしてささえつぎわたるますつぎわたるささえつぎやつけい鞮をいていた。戸数こすうななまんあったとされるが、誇張こちょうないし伝聞でんぶんもとづくものとする意見いけんもある。

女王じょおう使節しせつ派遣はけんおややまとおうふうごうた。もとからいぬやつこくとは対立たいりつしており、いぬやつこくとのたたかいがあった時期じきからもなく248ねんころ卑弥呼ひみこ死去しきょし、おとこおう後継こうけいてられたが混乱こんらんおさえることができず、卑弥呼ひみこむねおんなの「いちあずか」(いちあずか)または「だいあずか」(だいあずか)が巫女ふじょ女王じょおうになることで連合れんごうこくおさまった。いちあずか女王じょおう266ねんすすむたけみかど使つかい朝貢ちょうこうしている。また、いちあずか治世ちせい時期じきは、近畿きんきヤマト王権おうけんではたかしかみ天皇てんのう治世ちせい時期じきかさなるとするせつもある。

なお、倭人わじんでんちゅう出現しゅつげんする表記ひょうきじょうは、「邪馬台国やまたいこく」は1かいぎず、「女王じょおうこく」が5かいかぞえる。邪馬台国やまたいこくヤマト王権おうけん関係かんけい邪馬台国やまたいこく位置いちについては諸説しょせつある。一般いっぱんてきみは「やまたいこく」だが、本来ほんらいみについても諸説しょせつがある。

こころざし倭人わじんでんちゅうの“邪馬台国やまたいこく[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん原文げんぶん抜粋ばっすい

以下いかは「こころざし倭人わじんでん」に記述きじゅつされた邪馬台国やまたいこく概要がいようである。

道程どうてい[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでんには、たかし領土りょうど朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶないし中部ちゅうぶ当時とうじあったぐん[注釈ちゅうしゃく 3] から邪馬台国やまたいこくいた道程どうていしるされている。

倭人わじんざいおびかた東南とうなん大海たいかいちゅう 山島やましま爲國ためくにきゅうひゃくあまりこく かんゆう朝見ちょうけんしゃ こん使つかいやくしょどおりさんじゅうこく

したがえこおりいたるやまと 循海岸水きしみずゆき れき韓國かんこく 乍南乍東いた 其北がんいぬよこしま韓國かんこくななせんあまりさと

はじめいちうみせんあまりさと いたりたい海國かいこく 其大かん曰卑いぬふく曰卑やつ毋離しょ きょ絶島ぜっとうかたよんひゃくあまりさと 土地とちやまけわし深林しんりん 道路どうろ如禽鹿しかみち ゆうせん 良田よしだしょくうみぶつ自活じかつ 乗船じょうせん南北なんぼく

またみなみわたりいちうみせんあまりさと めい曰瀚うみ いたりいち大國たいこく かんまた曰卑いぬふく曰卑やつ毋離 かたさんひゃくさと たけ木叢こむらりん ゆうさんせんもと 有田ありた 耕田こうだなお不足ふそくしょくまた南北なんぼく

またわたりいちうみせんあまりさと いたりまつこく ゆうよんせん はま山海さんかいきょ 草木くさきしげ盛行せいこうぜん ひと好捕こうほぎょふぐ 水無みずなし深淺しんせんみな沈没ちんぼつこれ

東南とうなん陸行りくこうひゃく いた伊都いとこく かん曰爾ささえふく曰泄謨觚がらみぞゆうせん ゆうおう みなすべぞく女王じょおうこく ぐん使往來おうらいつねしょちゅう

東南とうなんいたりやつこくひゃくさと かん曰兕觚副曰卑やつ毋離 ゆうまん

ひがしぎょういたりわたるこくひゃくさと かん曰多ふく曰卑やつ毋離 ゆうせんいえ

みなみいたるとうこくすいぎょうじゅうにち かん曰彌わたるふく曰彌わたる まん

みなみいたり邪馬壹國やまいちこく 女王じょおうところ すいぎょうじゅうにち陸行りくこういちがつ 官有かんゆうささえ曰彌ます曰彌ささえ曰奴けいななまん

女王じょおうこく以北いほく 其戸すうどうさととくりゃく 其餘つくり國遠くにとおぜっ 不可ふかとくしょう

ゆう斯馬國次くにつぐゆうひゃくささえ國次くにつぐゆうよこしま國次くにつぐゆうささえ國次くにつぐ有彌あややつ國次くにつぐゆうこう古都こと國次くにつぐゆうよび國次くにつぐゆうあねやつ國次くにつぐゆうたい國次くにつぐゆうやつ國次くにつぐゆうよび邑國ゆうはなやつやつ國次くにつぐゆうおに國次くにつぐ有爲ゆういわれ國次くにつぐゆうおにやつ國次くにつぐゆうよこしまうま國次くにつぐゆう躬臣國次くにつぐゆうともえ利國としくにゆうささえおもんみ國次くにつぐゆうがらすやつ國次くにつぐゆうやつこく 此女おう境界きょうかいしょつき

其南ゆういぬやつこく 男子だんしためおう官有かんゆういぬさとし卑狗 ぞく女王じょおう

ぐんいたり女王じょおうこく まんせんあまりさと

中略ちゅうりゃく

けい其道さと とうざいかい稽東冶之ひがし

たい海国かいこくいち大国たいこくすえいおりこく伊都いとこくやつこくわたるこくとうこく邪馬台国やまたいこくかんしては、「こころざし倭人わじんでん」にくわしい記述きじゅつがある。位置いちについては畿内きないせつ九州きゅうしゅうせつ有力ゆうりょくとされる(#位置いちかんする論争ろんそう参照さんしょう)。道程どうていについても「連続れんぞくせつ」と「放射ほうしゃせつ」がある(#邪馬台国やまたいこくかんする論争ろんそう参照さんしょう)。位置いち道程どうてい比定ひていをめぐっては論争ろんそうきてきた(#邪馬台国やまたいこくかんする論争ろんそう参照さんしょう)。

その、斯馬こくひゃくささえこくよこしまこくささえこくわたるやつこくこう古都ことこくよびこくあねやつこくたいこくやつこくよび邑国、はなやつやつこくおにこくためわれこくおにやつこくよこしまこく、躬臣こくともえ利国としくにささえおもんみこくがらすやつこくやつこく[注釈ちゅうしゃく 4] があり、女王じょおうこくみなみにはおとこおう卑弥ゆみよびおさめるいぬやつこくがあり女王じょおうこく不和ふわ戦争せんそう状態じょうたいにあった。なお、てんあきら大神おおがみ神話しんわ系図けいずによれば、薩摩さつまとう隼人はやと部族ぶぞくもまたてんあきら子孫しそんであり、てんあきら卑弥呼ひみこかれていた状況じょうきょうにも類似るいじてんがうかがえる。

やまと女王じょおうこく地理ちり[編集へんしゅう]

女王じょおう國東くにさき渡海とかいせんあまりさと ふくゆうこく みなやまとしゅ またゆう侏儒しゅじゅこくざい其南 じんちょうさんよんしゃく 女王じょおうよんせんあまりさと またゆうはだかこく くろこくふくざい其東みなみ 船行ふなゆきいちねんいたり


まいりといやまと ぜっざい海中かいちゅう洲島すのしまこれじょう あるぜっあるれん 周旋しゅうせんせんあまりさと

女王じょおうこくからひがしに1,000さとほどうみわたればまたやまとしゅくにがあることは、九州きゅうしゅうせつ前提ぜんていとすれば中国ちゅうごく地方ちほうを、畿内きないせつ前提ぜんていとすれば東海とうかい地方ちほう琵琶湖びわこ対岸たいがんやまとしゅくに想起そうきされる。そのやまとしゅくにからはみなみに、小人こどもくにである侏儒しゅじゅこくがあると説明せつめいされている。それとはべつにまた船行ふなゆきいちねんにてけるところとしてはだかこくくろこくがあった。やまと女王じょおうこくについて説明せつめいがあり、「やまとについてさんとい情報じょうほう収集しゅうしゅう)すると、海中かいちゅう洲島すのしまうえぜっましましていて、あるいはえ、あるいはつらなり、一周いっしゅうめぐるのに千里せんりばかりである。」とある。この周旋しゅうせん5,000については、後述こうじゅつするたんさとせつによれば一周いっしゅう400kmじゃくとなるから九州きゅうしゅうのことだというせつおよびその諸説しょせつがある。

政治せいじ[編集へんしゅう]

おさむ租賦 ゆうていかく こく國有こくゆう 交易こうえき有無うむ 使大倭おおやまとかん

租税そぜい賦役ふえき徴収ちょうしゅうおこなわれ、国々くにぐににはこれらをおさめるくらがつくられていた。また、国々くにぐにには市場いちばひらかれ、「大倭おおやまと[注釈ちゅうしゃく 5]交易こうえき監督かんとくさせていた[注釈ちゅうしゃく 6]

女王じょおうこく以北いほく とくおけ一大いちだいりつ 檢察けんさつ諸國しょこく 諸國しょこくかしこはばかこれ 常治つねじ伊都いとこく 於國中有ちゅうう如刺 おう使つかいまい京都きょうと たいかたぐん しょ韓國かんこく 及郡使倭國わのくに みな臨津さがせ 傳送でんそう文書ぶんしょたまもののここれ物詣ものもうで女王じょおう とく

女王じょおうこくきたにはとく一大いちだいりつというかんかれ、諸国しょこく検察けんさつし、諸国しょこくこれおそれていた。つね伊都いとこくおさめられており、中国ちゅうごくでいう刺史しし[注釈ちゅうしゃく 7] のようである。おうおびかたぐんかん国々くにぐに使者ししゃ派遣はけんするさいや、ぐん使者ししゃ倭国わのくにさいは、みなのぞんで調査ちょうさ確認かくにんし、文書ぶんしょ伝送でんそうして贈物おくりもの女王じょおうとどけるので間違まちがいはこらなかった。

國本こくほんまた男子だんしためおう じゅうななはちじゅうねん 倭國わのくにらん しょうおさむ歴年れきねん共立きょうりついち女子じょしためおう めい卑彌呼ひみこ ごと鬼道きどう のう惑衆 ねんやめ長大ちょうだい おっと婿むこ 有男くにおおとうと治國ちこく ためおう以來いらい しょうゆうしゃ 以婢せんにんさむらい ただゆう男子だんしいちにんきゅう飲食いんしょく でん出入でいり きょしょ宮室きゅうしつろうかん じょうしがらみげんしつらえ つね有人ゆうじんへい守衛しゅえい

倭国わのくにには元々もともとおとこおうがいて、70-80ねんほど在位ざいいしたが、かれ崩御ほうぎょしたのち倭国わのくにみだれ、おたがなんねんっていた[注釈ちゅうしゃく 8] ので、一人ひとり女子じょし共立きょうりつおうとした。

卑弥呼ひみこといい、女王じょおう鬼道きどう使つかい、のう人心じんしん掌握しょうあくし、すで高齢こうれいで、おっとたず、おとうと政治せいじ補佐ほさした。卑弥呼ひみこ王位おういってからは、ひと会見かいけんすることがすくなく、1,000にん女性じょせいはべっていて、ただ一人ひとり男子だんし[注釈ちゅうしゃく 9]飲食いんしょく世話せわ取次とりつぎぎをしていた。宮室きゅうしつろうかん起居ききょし、けわしいしがらみもうけ、つね多数たすう兵士へいし守衛しゅえいをしていた。

卑弥呼ひみこ呪術じゅじゅつつかさど巫女ふじょ(シャーマン)であるとする見方みかたがある[注釈ちゅうしゃく 10] 一方いっぽうたん祭祀さいしおこなっていたとする見解けんかい[注釈ちゅうしゃく 11] もある。

また、おとうと政治せいじ補佐ほさしたという記述きじゅつから、巫女ふじょ卑弥呼ひみこ神事しんじつかさどり、実際じっさい統治とうち男子だんしおこな二元にげん政治せいじヒメヒコせい)とする見方みかたもある[注釈ちゅうしゃく 12]

卑彌呼ひみこ以死 大作たいさくみちひゃく 徇葬しゃ奴婢ぬひひゃく餘人よにん さら立男たつおおう こくちゅう不服ふふく さらしょう誅殺ちゅうさつ 當時とうじころせせん餘人よにん ふくりつ卑彌呼ひみこむねおんないちあずか としじゅうさんためおう こくちゅうとげてい せいとう以檄つげたとえいちあずか いちあずかやまと大夫たいふりつぜんちゅうろうはたわきよこしまいぬとう十人送政等還 いんまいたい 獻上けんじょう男女だんじょせいこうさんじゅうにん みつぎしろたませんあな あおだいたままい ぶんざつにしきじゅうひき

卑弥呼ひみこ死去しきょによって、おおいに冢がつくられ、直径ちょっけいが100ほど、奴婢ぬひ100にんあまりが殉葬された。そのおとこおうてられたが、くにちゅうはこれにふくさずさらにおたがいを誅殺ちゅうさつし1,000にんあまりがんだ。再度さいど卑弥呼ひみこ親族しんぞくで13さい少女しょうじょいちあずかだいあずか)をおうついくにさだまった。さき倭国わのくに派遣はけんされたちょうまさし檄文げきぶんをもっていちあずかさとした。いちあずか大夫たいふりつぜんちゅうろうはたわきよこしまいぬなどじゅうにん使者ししゃおくり、男女だんじょ奴隷どれい30にんしろたませんあなだい たままいぶんざつにしきじゅうひき朝貢ちょうこうした。「大作たいさく冢」とはおおきいではなくおおいに、また多数たすうの冢の意味いみである。

たかしすすむとの外交がいこう[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん」には、おびかたぐんつうじた邪馬台国やまたいこくとの交渉こうしょう記録きろくされている。女王じょおうけいはつ2ねん238ねん以降いこうおびかたぐんつうすうにわたって使者ししゃおくり、皇帝こうていからおややまとおうにんじられた。せいはじめ8ねん(248ねん)には、使者ししゃいぬやつこくとの紛争ふんそう報告ほうこくしており、おびかたぐんからふさが曹掾ちょうまさし派遣はけんされている。詳細しょうさい以下いかとおり。

  • たてやすし年間ねんかん(196ねん-220ねん公孫こうそんやすしたむろゆうけん以南いなん荒地あれち一部いちぶおびかたぐんいた、こうかんのこみんあつめるため公孫こうそんちょうたかしなどを派遣はけんへいおこしてかん討伐とうばつしたが、こうかんきゅうみんすこししかせなかった。こののちやまとかんおびかたぐん服属ふくぞくした。
  • けいはつ2ねん(238ねん)、あかりみかどりゅうおびかた太守たいしゅ鮮于嗣らくなみ太守たいしゅにんじ、この両者りょうしゃ海路かいろおびかたぐんらくなみぐんをそれぞれおさめた(『三国志さんごくししょ東夷あずまえびすでん序文じょぶん)。
    • 6がつ[注釈ちゅうしゃく 13] またはけいはつ3ねん(239ねん)6がつ女王じょおう大夫たいふなんますまいつぎ使都市としうしおびかたぐん派遣はけんし、天子てんし拝謁はいえつねがた。おびかた太守たいしゅりゅうなつかれらをおくり、使者ししゃおとこなまくち奴隷どれい)4にんおんななまくち6にんはんぬの2ひき2たけけんじた。
    • 12月、よろこんだたかし皇帝こうていけいはつ2ねんだとするとあかりみかど(12月8にちから病床びょうしょう、27にち曹宇罷免ひめん詔勅しょうちょく直筆ちょくひつできなかった。-『三国志さんごくし』裴注引用いんよう 習鑿かんすすむ春秋しゅんじゅう』)けいはつ3ねんだとすると曹芳)は女王じょおうおややまとおうとし、きむしるし紫綬しじゅさづけるとともに銅鏡どうきょう100まいふく莫大ばくだい下賜かしひんあたえた。また、なんますまいりつぜんちゅうろうはたぎゅうとしりつぜんこうじょうとした。
    • 8がつ23にちおびかたぐんらくなみぐん支配しはいしていた公孫こうそんふち司馬しばにより斬首ざんしゅされる。
    • おびかたぐんらくなみぐん占領せんりょうされる[1]
    • けいはつ3ねん(239ねんはる正月しょうがつひのと(1がつ1にちあきらみかど崩御ほうぎょ(『三国志さんごくししょあきらみかど)。
  • せいはじめ元年がんねん240ねんおびかた太守たいしゅゆみたてちゅうこうじょうはしご儁らに詔書しょうしょ印綬いんじゅたせて倭国わのくに派遣はけんし、やまとおうかり授するとともに下賜かしひんあたえた。
  • せいはじめ4ねん243ねん)12月、女王じょおう俾彌よび使者ししゃとして大夫たいふごえ耆、わきよこしまいぬらをおくり、なまくちぬの献上けんじょう皇帝こうていひとしおう)はわきよこしまいぬらをりつぜんちゅうろうしょうとした(『三国志さんごくししょしょうみかど)。
  • せいはじめ6ねん245ねん皇帝こうていひとしおう)はおびかたぐんつうなんますまい幢(黄色きいろはたさし)を下賜かしした。
  • せいはじめ6ねん245ねんおびかた太守たいしゅゆみ遵とらくなみ太守たいしゅりゅうしげるみねひがし遠征えんせいしてったのちぐんないかんぞく反乱はんらんしてさきはなれおそったため、ぐんしてかんぞくほろぼしたがゆみ遵は戦死せんしした。
  • せいはじめ8ねん(247ねん女王じょおう太守たいしゅおう斯烏こし使者ししゃとして派遣はけんして、いぬやつこくとのたたかいについて報告ほうこく太守たいしゅふさが曹掾ちょうまさしらを倭国わのくに派遣はけんした。
  • 女王じょおういたいちあずかは、帰任きにんするちょうまさしわきよこしまいぬら20にん同行どうこうさせ、わきよこしまいぬらはそのままかい男女だんじょなまくち30にんしろたま5,000あなあおだいたま2まいぶんざつにしき20ひきみついだ。

またこころざし倭人わじんでん記述きじゅつによれば、朝鮮半島ちょうせんはんとう国々くにぐにとも使者ししゃ交換こうかんしていたらしい。

こののち、『日本書紀にほんしょき』の「神功しんこう皇后こうごうしょ引の『すすむ起居ききょちゅう』(現存げんそんしない)に、たいはつやすしはじめあやまり)2ねん266ねん)にやまと女王じょおう使者ししゃおく通訳つうやくかさねて朝貢ちょうこうしたとの記述きじゅつがある。現存げんそんする『すすむしょたけみかどにもたいはじめ2ねん倭人わじん朝貢ちょうこうしたとあるので(女王じょおうという記述きじゅついが)現在げんざいでは、時代じだいてきかんがえるとこの女王じょおう神功しんこう皇后こうごうではなく邪馬台国やまたいこくいちあずかであり、しん女王じょおういちあずかかわって成立せいりつしたすすむ皇帝こうていたけみかど)に朝貢ちょうこうしたとかんがえられる。また『すすむしょよんえびすでんによるとたけみかどちちぶんみかど司馬しばあきら)が政権せいけんにあった255ねん265ねん女王じょおう使者ししゃなんもやってたが、やすしはじめはじめには通訳つうやくかさねた入貢にゅうこうがあったという。せんみかど司馬しばには240ねんひがしやまと」が通訳つうやくかさねておさめみつぎしたともある。『日本書紀にほんしょき』のたかしかみ天皇てんのう12ねんにもぞく人々ひとびとが「わけかさねて」たとあるが関連かんれん不明ふめいである。

言語げんご[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん には31の地名ちめい(「やまと」をふくむ)と14のかんめい、そして8にん人名じんめいてくる。これら53の音訳おんやく日本にっぽん列島れっとうもちいられた言語げんご最古さいこ直接ちょくせつ資料しりょうである。これら3世紀せいき以前いぜん邪馬台国やまたいこく言語げんご特徴とくちょうは8世紀せいき奈良なら時代じだい)の日本語にほんご特徴とくちょうおなじであることが、もりひろしたちらによって指摘してきされている[2]。その特徴とくちょうとは

  1. ひらき音節おんせつ母音ぼいんわり)を原則げんそくとする。
  2. ぎょう原則げんそくとしてあたまおんにくること。つまり重母音じゅうぼいん回避かいひされること。
  3. あたまおんには原則げんそくとしてラぎょうないこと。
  4. あたまおんには原則げんそくとして濁音だくおんないこと。

などである。こうした特徴とくちょう見出みいだされることは現代げんだい日本語にほんご基礎きそ邪馬台国やまたいこく時代じだいにすでに形作かたちづくられていたことを物語ものがたる。重母音じゅうぼいん回避かいひ規則きそくせいしたがえば「よこしまだい」を「ヤマタイ」と発音はつおんすることは回避かいひされ、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」とう発音はつおんされることになる。ただし、同書どうしょには、はち世紀せいき国内こくない資料しりょうから推定すいていされる発音はつおんさん世紀せいき中国ちゅうごく文書ぶんしょしめされた地名ちめいかんめい人名じんめいの53との連携れんけいは、確実かくじつであることもしめされている。

風俗ふうぞく[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん当時とうじ倭人わじん風俗ふうぞく記述きじゅつされているが、2ヶ所かしょけてかれており、両者りょうしゃあいだには重複じゅうふく矛盾むじゅんがある。以下いか便宜上べんぎじょうその2ヶ所かしょ区別くべつせず列記れっきする。

  • 男子だんしはみながおからだ入墨いれずみほどこしている。人々ひとびとしゅからだっている。入墨いれずみこくごとに左右さゆう大小だいしょうなどがことなり、階級かいきゅうによってる。
  • その風俗ふうぞくみだではない。
  • 男子だんしかんむりをつけず、かみってまげをつくっている。女子じょしはざんばらかみ
  • 着物きもの幅広はばひろぬのよこむすわせているだけである。
  • いね、紵麻(からむし)をえている。くわかいこそだてており、いとつむいで上質じょうしつ絹織物きぬおりものつくっている。
  • うしうまとらひょうひつじかささぎ(かささぎ)はいない。
  • 兵器へいきほこたてゆみもちいる。そのゆみしたみじかうえながい。(かずゆみ#歴史れきし参照さんしょうたけであり、矢先やさきにはてつほねの鏃(やじり)がいている。
  • 土地とち温暖おんだんで、ふゆなつなま野菜やさいべている。みな、裸足はだしである。
  • 家屋かおくがあり、寝床ねどこ父母ちちはは兄弟きょうだいべつである。身体しんたいしゅっており、あたかも中国ちゅうごくもちいる白粉おしろいのようである。飲食いんしょく籩豆(たかつき)をもちい、づかみでべる。
  • ひとぬと10にちあまり哭泣して、もがり()につきにくくえさない。人々ひとびと飲酒いんしゅして歌舞かぶする。埋葬まいそうわるとみずはいってからだきよめる。
  • やまとものふねうみわたさいもちおとろええらばれる。もちおとろえひとせっさず、しらみらず、ふくよご放題ほうだいにくべずにふねかえりをつ。ふね無事ぶじかえってくれば褒美ほうびあたえられる。ふね災難さいなんがあればころされる。
  • 真珠しんじゅ青玉せいぎょく産出さんしゅつする。やまとやまにはがあり、やまとには柟(だん、タブノキ)、(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・くぬぎ(れき、クヌギ)・とう橿かし(とうきょう、カシ)・がらすごう(うごう、クワ)・かえでかおり(ふうこう、カエデ)。たけしの(じょう)・簳(かん)・ももささえ(とうし)がある。はじかみ(きょう、ショウガ)・たちばな(きつ、タチバナ)・はじかみ(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味おいしいのをらない。また、さる、雉(きじ)もいる。
  • 特別とくべつなことをするときほねき、吉凶きっきょううらなう。(ふとしうらない
  • 集会しゅうかいでのいには、父子ふし男女だんじょ区別くべつがない。人々ひとびとさけきである。
  • 敬意けいいしめ作法さほうは、拍手はくしゅって、うずくまり、おがむ。
  • 長命ちょうめいで、ひゃくさいきゅうじゅうはちじゅうさいものもいる。
  • 身分みぶんたかものは4、5にんつまち、身分みぶんひくものでも2、3にんつまつものがいる。
  • おんなつつしふか嫉妬しっとしない。
  • ぬすみはく、訴訟そしょうすくない。
  • ほうおかした場合ばあいかるもの妻子さいし没収ぼっしゅうし、おももの一族いちぞく根絶ねだやしにする。
  • 宗族そうぞくには尊卑そんぴ序列じょれつがあり、うえもののいいつけはよくまもられる。

邪馬台国やまたいこくのその[編集へんしゅう]

3世紀せいきなかばのいちあずか朝貢ちょうこう最後さいごにして、5世紀せいき9ねん413ねんやまとおう雄略天皇ゆうりゃくてんのうなどヤマト王権おうけん天皇てんのう)の朝貢ちょうこうまで150ねんちか中国ちゅうごく史書ししょやまと、ないしは倭国わのくにかんする記録きろくはない。この時期じきに、朝鮮半島ちょうせんはんとうたかし(または西にしすすむ)の植民しょくみんおびかたぐん政情せいじょう不安定ふあんていになり、のちに百済くだら高句麗こうくりされてほろびたことの影響えいきょうかんがえられる。いちあずか以後いご邪馬台国やまたいこく連合れんごうおとろえて中国ちゅうごく朝貢ちょうこうする国力こくりょくくなったためか、あるいは、あずますすむおよ南朝なんちょう諸国しょこく南方なんぽう逼塞ひっそくしたため、地理ちり事情じじょう問題もんだい容易ようい到達とうたつできなくなったためともおもわれる。いずれにしろ、このため日本にっぽん歴史れきし4世紀せいきは「空白くうはく世紀せいき」とばれた。

邪馬台国やまたいこく連合れんごうヤマト王権おうけんとの関係かんけいについては諸説しょせつあるが、若井わかい敏明としあきは『邪馬台国やまたいこく滅亡めつぼう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん2010ねん出版しゅっぱん)で、邪馬台国やまたいこく連合れんごう九州きゅうしゅう北部ほくぶにあり近畿きんきのヤマト王権おうけんとの関係かんけいかったとした。しかし西暦せいれき366ねんごろのヤマト王権おうけん仲哀ちゅうせつ天皇てんのう神功じんぐう皇后こうごう九州きゅうしゅう遠征えんせいにより邪馬台国やまたいこく末裔まつえい最終さいしゅうてき滅亡めつぼうしたとしている。

名称めいしょう表記ひょうき[編集へんしゅう]

現存げんそんする『三国志さんごくしこころざし倭人わじんでん)』の版本はんぽんでは「邪馬壹國やまいちこく」とかれている。『三国志さんごくし』はすすむ時代じだいちん寿ひさし(233-297)が編纂へんさんしたものであるが、現存げんそんする刊本かんぽん最古さいこのものは、12世紀せいきそうだい紹興しょうこうほん紹興しょうこう年間ねんかん(1131ねん - 1162ねんこくばん)と紹熙ほん(紹熙年間ねんかん(1190ねん - 1194ねんこくばん)である。一方いっぽう勅撰ちょくせん類書るいしょでみると、そうだいの『太平たいへい御覧ごらん現存げんそん刊本かんぽんは、成本なりもと時期じき10世紀せいき現存げんそんの『三国志さんごくし刊本かんぽん時期じきよりふるいが、『三国志さんごくし』を引用いんようした箇所かしょをみると「邪馬臺国やまたいこく」の表記ひょうきもちいられている。

三国志さんごくし』よりのち5世紀せいきの『こう漢書かんしょやまとでん現存げんそん刊本かんぽんでは「邪馬臺国やまたいこく」、7世紀せいきの『はりしょやまとでん現存げんそん刊本かんぽんでは「祁馬だいこく」、7世紀せいきの『ずいしょ現存げんそん刊本かんぽんではくにについて「於邪靡堆 そくこころざし所謂いわゆるよこしまだいもの」(こころざしにいうよこしまだい)、とうだいの『きたよんえびすでん現存げんそん刊本かんぽんでは「きょ于邪うずたか すなわちこころざし所謂いわゆるよこしまだいもの」となっている。これらの正史せいし現存げんそん刊本かんぽんは、用字ようじ不安定ふあんていであるが、現存げんそんそうだいの『三国志さんごくし』よりふるい、不安定ふあんていしょ写本しゃほん引用いんようしているために不安定ふあんていとなっているものと推定すいていされる。

日本にっぽん漢字かんじ制限せいげん当用漢字とうようかんじ常用漢字じょうようかんじ教育きょういく漢字かんじでは、「いち」はいちいちにあたる文字もじ(ただし通常つうじょういち代用だいようする)であり、「だい」はだいにあたる文字もじである。

表記ひょうきのぶれをめぐっては、11世紀せいき以前いぜん史料しりょう現存げんそん刊本かんぽんに「いち」はられないため、「いち」を「だい」のはんかさねたことによる誤記ごきとするせつ[注釈ちゅうしゃく 14] のほか、「いちあずか,やまと大夫たいふりつぜんちゅうろうはたわきよこしまいぬとうじゅうにんおく,せいとうかえいんまいだい,」から混同こんどうけるためにけたとするせつ皇帝こうてい居所きょしょす「だい」の文字もじひがし蛮人ばんじん国名こくめいにはもちいず「いち」をもちいたとするせつ[3] などがある。

発音はつおん表記ひょうき[編集へんしゅう]

発音はつおん

よこしまだい(だい)

こうかん中国ちゅうごく(当時とうじ発音はつおん) *ja-ma-də[4]

現在げんざい邪馬台国やまたいこく」は一般いっぱんに「やまたいこく」とまれる。この「やまたいこく」というみは、江戸えど時代じだい新井あらい白石はくせき通詞つうじ今村いまむら英生ひでお発音はつおんする当時とうじ中国ちゅうごくもとづいて音読おんどくしたものであるため、こころざし倭人わじんでんかれた当時とうじ発音はつおんただしくあらわすものではない。上述じょうじゅつとおり、当時とうじ発音はつおんは"*jamadə"であったと推測すいそくされ、これは仮名かめい文字もじ表記ひょうきすると「やまど」となる。しかし、当時とうじ日本語にほんごでは清音せいおん濁音だくおん区別くべつがなくどちらもおなおん認識にんしきしていたため、当時とうじただしい発音はつおんは「やまと」となる。

畿内きないせつ

邪馬壹國やまいちこく」と「邪馬臺国やまたいこく」の表記ひょうきのいずれも、発音はつおんちかさから「やまと」の宛字あてじではないかと類推るいすいする。これは、邪馬台国やまたいこくおなじく「こころざし倭人わじんでん」に登場とうじょうするたいうみ対馬つしまこく対馬つしま一大いちだいいちささえこく壱岐いきすえいおりこく肥前ひぜんこく松浦まつうらぐんといったふうに発音はつおんちかさを手掛てがかりとしてあてはめるのと同様どうように、邪馬台国やまたいこく発音はつおんから地名ちめいをあてはめようとするものである。新井あらい白石はくせきしるした「古史こしどおりあるとい」や「外国がいこくこと調書ちょうしょ」では、その場所ばしょ大和やまとこく山門やまとぐんいていることから、白石しらいしは「よこしまだい」を「やまと」にちかおと想定そうていしてその場所ばしょ比定ひていしたとかんがえられている。

九州きゅうしゅうせつ

日本語にほんごの「ヤマ」は通常つうじょうやま」を意味いみし、漢字かんじでは耶麻やま、耶馬などと表記ひょうきされることがあるが、「よこしまだい」の漢字かんじも、九州きゅうしゅうやま台地だいち表現ひょうげんしたとする。ヤマが「よこしま」と「うま」で表記ひょうきされた理由りゆうあきらかではないが、こころざし倭人わじんでん倭国わのくにうまがいなかったとしている(うま輸入ゆにゅう古墳こふん時代じだい九州きゅうしゅうとおそらくおびかたぐんとの貿易ぼうえきによりはじまったものであり、大和やまと朝廷ちょうていにおいては蘇我馬子そがのうまこ厩戸皇子うまやどのおうじ飛鳥ひちょう時代じだい重要じゅうようされるようになったとおもわれる)。また、治安ちあん不安定ふあんていのため伊都いとこく一大いちだいりつ設置せっちさせて治安ちあんはか必要ひつようがあったこともあろう(一大いちだいりつの「りつ」は漢語かんごけい用字ようじなので、おびかたぐん官僚かんりょう設置せっちした機関きかんである可能かのうせいもある[5])。中国ちゅうごくやまはシャン(shān)、軍事ぐんじてき官職かんしょくがシマ(司馬しばうまつかさどる)であるなど、言葉ことばちがいに由来ゆらいすることもかんがえられる。

論争ろんそう[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおける邪馬台国やまたいこくへの言及げんきゅうは、『日本書紀にほんしょきまきだいきゅう神功しんこう皇后こうごう摂政せっしょうさんきゅうねんよんじゅうねんおよびよんじゅうさんねんちゅうに「こころざし」から引用いんよう[6] があり、神功しんこう皇后こうごう卑弥呼ひみこどう一人物いちじんぶつなした記述きじゅつとなっていることが嚆矢こうしである。[注釈ちゅうしゃく 15]。なお、一般いっぱんに「こころざし倭人わじんでん」の名称めいしょうられるのは『三国志さんごくししょだいさん十烏丸鮮卑東夷伝の一部分いちぶぶんで(参照さんしょうWikisource)、以降いこうかれた中国ちゅうごく正史せいしもしくはそれ以外いがい史書ししょにも、この「こころざし」に由来ゆらいするとおもわれる記事きじすくなくない。

さんじゅうきゅうねんねん也大としおのれこころざしうんあかりみかどけいはつさんねんろくがつやまと女王じょおう大夫たいふなん斗米とまいとうまいぐんもとめまい天子てんしあさけんじ太守たいしゅ鄧夏吏將おくまい京都きょうと也。

よんじゅうねんこころざしうんせいはじめ元年がんねんたてただしこうじょうはしご携等。たてまつ詔書しょうしょ印綬いんじゅまい倭國わのくに也。

よんじゅうさんねんこころざしうんせいはじめよんねんやまとおうふく使つかい大夫だいぶごえしゃわき耶約とうはちにんじょうけんじ
国史こくし大系たいけい. だいかん 日本書紀にほんしょき p.172(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん

史料しりょうによって漢字かんじ表記ひょうき不安定ふあんていであるうえに、「やまたいこく」とむべきかかも統一とういつてき理解りかいはなく、その場所ばしょ大和やまと朝廷ちょうていとの関係かんけいについても長期ちょうきてき論争ろんそうつづいている。

ふるくは邪馬台国やまたいこく大和やまと音訳おんやくとしてれられていたとのせつがあり、であれば、この論争ろんそうはじまったのは江戸えど時代じだい中期ちゅうきないしは後期こうきとなる。新井あらい白石はくせきは「古史こしどおりあるとい」において、奈良なら存在そんざいする大和やまとこくせついたが、のちあらわした「外国がいこくこと調書ちょうしょ」では筑後ちくごこく山門やまとぐんせついた。その国学こくがくものほんきょ宣長のりながは「卑弥呼ひみこ神功じんぐう皇后こうごう邪馬台国やまたいこく大和やまとこく」としながらも「日本にっぽん天皇てんのう中国ちゅうごく朝貢ちょうこうした歴史れきしなどあってはならない」という立場たちばから、「馭戎がいごと」において、九州きゅうしゅうくまかさねによるにせ僭説を提唱ていしょうした。大和やまと朝廷ちょうてい邪馬台国やまたいこく)とはまったくべつでつながることはない王国おうこく想定そうていし、筑紫つくし九州きゅうしゅう)にあった小国しょうこく神功じんぐう皇后こうごう卑弥呼ひみこ)のかたったくまかさねおんな酋長しゅうちょうであるとするものである。これ以来いらい政治せいじてき意図いとやナショナリズム、地元じもとあいなどをからめながら、学界がっかいはもちろん在野ざいや研究けんきゅうしゃんだ論争ろんそう現在げんざいつづいており、一般いっぱんにもよくられた古代こだい論争ろんそうである。

位置いちかんする論争ろんそう[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん」の行程こうてい距離きょり方角ほうがく追従ついしょうすると、邪馬台国やまたいこく太平洋たいへいようなかきつくとするとのせつが、ふるくからられている[7]。ゆえに、白石しらいし宣長のりながも、はら史料しりょうたいしてさまざまなえや注釈ちゅうしゃくれてきた。江戸えど時代じだいから現在げんざいまで学界がっかい主流しゅりゅうは「九州きゅうしゅうせつ」(白鳥庫吉しらとりくらきちら)と「畿内きないせつ」(内藤ないとう湖南こなんら)のせつおおきくかれている。ただし九州きゅうしゅうせつには、邪馬台国やまたいこくが“畿内きない移動いどうしてヤマト政権せいけんとなった”とするせつ(「東遷とうせんせつ」)と、邪馬台国やまたいこく勢力せいりょくは“畿内きない成立せいりつしたヤマト政権せいけんほろぼされた”とするせつ若井わかい敏明としあきの2010ねん著書ちょしょ邪馬台国やまたいこく滅亡めつぼう』など)がある。若井わかいは、筑後ちくご川下かわしも流域りゅういきにあった邪馬台国やまたいこく後裔こうえい仲哀ちゅうせつ天皇てんのう九州きゅうしゅう遠征えんせいにより365ねんごろ滅亡めつぼうしたとしている。

邪馬台国やまたいこくこころざし倭人わじんでんにあるように卑弥呼ひみこ朝貢ちょうこうしたけいはつ3ねん(239ねん)(こころざし けいはつ2ねん(238ねん))にくわえ『日本書紀にほんしょきしょ引の「すすむ起居ききょ註」にやまと女王じょおうすすむたいはじめ2ねん(266ねん)に使つかい朝貢ちょうこうしたとあることから、3世紀せいき中期ちゅうき存在そんざいしたことがたしかである。畿内きないせつてば、3世紀せいき日本にっぽん大和やまとから大陸たいりくいた交通こうつう確保かくほできた勢力せいりょく存在そんざいしたことになり、九州きゅうしゅうせつてば九州きゅうしゅう存在そんざいした「邪馬台国やまたいこく」からヤマトに政権せいけんうつったことになる。「よこしま」は、やま(ヤマ)と音訳おんやくできるとのせつもある。

2009ねん奈良ならけんまといこう遺跡いせきから大型おおがた建物たてもの遺物いぶつつかったことで考古こうこ学会がっかいでは畿内きないせつ優勢ゆうせいひょうされており、たいする九州きゅうしゅうせつ東遷とうせんせつ九州きゅうしゅう王朝おうちょうせつむ、吉野よしのさと遺跡いせき期待きたいするなどしてかえしをはかっている[8][9][10]

連続れんぞくしき放射ほうしゃしき[編集へんしゅう]

  • 連続れんぞくせつ」(連続れんぞくみ)- 「こころざし倭人わじんでん」に記述きじゅつされている順序じゅんじょしたがうが、都度つど方角ほうがくを90変更へんこうしたり距離きょり日数にっすう修正しゅうせいしたりして各国かっこく順次じゅんじ比定ひていするかたで、おびかたぐん出発しゅっぱついぬよこしま韓国かんこくたい海国かいこくいち大国たいこく北部ほくぶ九州きゅうしゅう上陸じょうりくし、すえいおりこく伊都いとこくやつこくわたるこくとうこく邪馬台国やまたいこくまでをじゅんにたどるせつ
  • 放射ほうしゃせつ」(放射ほうしゃみ) - えのき一雄かずおせつ[11]伊都いとこくまでは連続れんぞくみとおなじだが、伊都いとこく以降いこうでは、行程こうてい表現ひょうげん方法ほうほう、つまり、文型ぶんけい変化へんかしていることから、伊都いとこくからやつこく伊都いとこくからわたるこく伊都いとこくからとうこく伊都いとこくから邪馬台国やまたいこくというふうに、伊都いとこく起点きてん放射状ほうしゃじょう行程こうていかれているとせつ
    • おなじ「放射ほうしゃみ」だが、伊都いとこくではなく、すえいおりこく起点きてんとするせつ
  • 伊都いとこく起点きてんとする「放射ほうしゃみ」だが、とうこくへの行程こうていだけは、伊都いとこくからでなくわたるこくから起点きてんとしてせつ。いいかえると、邪馬台国やまたいこくまでの「連続れんぞくみ」の行程こうていに、わたるこくからやつこくとうこくそれぞれへのふたつの「傍線ぼうせん行程こうてい」(支線しせん)があると解釈かいしゃくするもの[12]
    • さらに古田ふるた武彦たけひこは、邪馬壱国やまいちこくへの「みずぎょうじゅうにち陸行りくこういちがつ」を「おびかたぐんから邪馬壱国やまいちこく」のぜん日程にっていみ、わたるこくみなみ邪馬壱国やまいちこくが「せっしている」とする。

距離きょり計算けいさん[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん」の距離きょり里数りすう)が大雑把おおざっぱやく5ばい誇張こちょうされているようにえるという問題もんだいについては、後述こうじゅつするようにたんさと使用しようされていたとするせつ当時とうじ兵力へいりょくなどを10ばい誇大こだい記載きさいするれいがあったことから、公孫こうそん討伐とうばつするぐんおびかたぐん接収せっしゅうした当時とうじ軍事ぐんじ報告ほうこくもとづいたためというせつ[13]地理ちりじょうはさちにできるとして威圧いあつする目的もくてきで、実際じっさいよりみなみちかくにあるようにせかけるためえたというせつ[14]曹爽功績こうせきである西域せいいきの「おや大月おおつきおう」の距離きょりと、曹爽の政敵せいてき司馬しば功績こうせきである東夷あずまえびすおややまとおう距離きょり東西とうざいのバランスをとるため誇張こちょうしたというせつ[注釈ちゅうしゃく 16]、などがある。

宮崎みやざき康平やすひらは、道程どうていかんして「古代こだい海岸かいがんせん現代げんだいとはことなることを想起そうきしなければならない」と指摘してきし、現在げんざい海岸かいがんせん議論ぎろんおこなっていた当時とうじ学会がっかいいちせきとうじた。しかし、古代こだい海岸かいがんせんもと考察こうさつしても、連続れんぞくせつあるいは放射ほうしゃせつ根本こんぽん部分ぶぶんおおきな影響えいきょうあたえるほどの学説がくせつではないことから現在げんざいではこのてん課題かだいではないとされている。

また「ぐんいたり女王じょおうこくまんせんあまりさと」の記述きじゅつは、行程こうていかんする重要じゅうよう一文いちぶんであるにもかかわらず、おおくのせつにおいて無視むしされていると見受みうけられる。

古代こだい中国ちゅうごくにおける「さと」の距離きょりつぎとお時代じだいごとに微妙びみょうことなる。

たんさとせつ[編集へんしゅう]

距離きょり問題もんだいについては「たんさと」の概念がいねん提示ていじされている。「たんさと」とは尺貫法しゃっかんほうの1さとやく434mではなく75-90mほど観念かんねんじょうは76-77m)とするせつである。こころざし倭人わじんでんではいぬよこしま韓國かんこくからたい海國かいこく対馬つしま)までが千里せんりたい海國かいこくからいち大國たいこく壱岐いき)までが千里せんりとあるが、地図ちずじょうの「じつ距離きょり」はそれぞれやく70kmであり、たんさと採用さいようされていたことを裏付うらづけている。

古田ふるた武彦たけひこは、たかし西にしすすむ時代じだいにはしゅう王朝おうちょう時代じだいもちいられたながさにあらためられたとした。[よう出典しゅってん]これを傍証ぼうしょうするように、生野いくのしんこのみによる『三国志さんごくし全編ぜんぺん調査ちょうさでは、「たんさと」で記述きじゅつされているとおもわれる記述きじゅつは「こころざし」と「こころざし」の一部いちぶ集中しゅうちゅうし、「しょくこころざし」にはまったられない。また、「こころざし」のうちでもこうかんからへの禅譲ぜんじょうとしである西暦せいれき220ねんより以前いぜん記事きじには「たんさと」での記事きじ見当みあたらず、220ねん以後いごの「こころざし」に集中しゅうちゅうしてあらわれると考察こうさつしている。これは、ちん寿ひさしが、三国志さんごくしと雖も、「しょくこころざし」については、しょくかん伝統でんとうまもっていたことをしるしたものとおもわれる。[よう出典しゅってん]これを「ちょうたんさとせつ」という。

ぬのせつ[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく正史せいし卑弥呼ひみこ[編集へんしゅう]

  • こう漢書かんしょまき85 東夷あずまえびす列傳れつでんだい75「桓靈あいだ 倭國わのくに大亂たいらん さらしょうおさむ 歴年れきねん無主むしゅ ゆういち女子じょし めい卑彌呼ひみこ 年長ねんちょうよめ ごと鬼神きじんどう のう以妖惑衆 於是共立きょうりつためおう(桓帝・れいみかど治世ちせいあいだ(146〜189ねん)、倭国わのくに大乱たいらんがあり、さらにたがいにい、8ねん±すうねんおも状態じょうたいとなった。卑弥呼ひみこという一人ひとり女子じょしり、年長ねんちょうだがとついでいなかった。鬼神きじんどうもちいてよくしゅうあやしくまどわした。ここにいて共立きょうりつおうにした。)」とあるとおり、倭国わのくに大乱たいらんは、もっとはやくても146ねん勃発ぼっぱつし、もっとおそくても189ねんまでには終結しゅうけつして卑弥呼ひみこ女王じょおう共立きょうりつされたと推定すいていされる。
  • 三国志さんごくししょ まき30 東夷あずまえびすでん 倭人わじんこころざし倭人わじんでん)「其國ほんまた男子だんしためおうじゅうななはちじゅうねん 倭國わのくにらん しょうおさむ歴年れきねん共立きょうりついち女子じょしためおう めい卑彌呼ひみこ こと鬼道きどう のう惑衆 としやめ長大ちょうだい おっと婿むこくにもまた元々もともと男子だんしおうとして70〜80ねんていた。倭国わのくにらんがあり、8ねん±すう年間ねんかん相互そうごった。そこで、一人ひとり女子じょし共立きょうりつしておうにした。卑弥呼ひみこという。おに(かみ)みちもちいてよくしゅうまどわした。年齢ねんれいは35さいぎ、おっとかった。)」とあるとおり、107ねんやまとおうそちますのちかん使つかいから70〜80ねんとなる177〜187ねんごろまでには倭国わのくに大乱たいらん集結しゅうけつして卑弥呼ひみこ女王じょおう共立きょうりつされたと推定すいていされる。
  • はりしょまき54 列傳れつでんだい48 しょえびすでん 東夷あずまえびすじょう やまとかんれいみかど光和こうわちゅう倭國わのくにらんそうおさむ歷年れきねん,乃共立きょうりついち女子じょし卑彌呼ひみこためおう。(()かんれいみかど光和こうわ年間ねんかん(178〜184)、倭国わのくにらんがあり、8ねん±すうねん相互そうごった。そこで、一人ひとり女子じょし卑弥呼ひみこ共立きょうりつしておうにした。)」とあるとおり、178〜184ねんまでには倭国わのくに大乱たいらん集結しゅうけつして卑弥呼ひみこ女王じょおう共立きょうりつされたと推定すいていされる。
  • さん国史こくししん本紀ほんぎに「じゅうねんなつがつやまと女王じょおう卑彌乎。使つかいらい聘」とあるとおり、おそくとも173ねん旧暦きゅうれき5がつには、倭国わのくに大乱たいらん終結しゅうけつにより卑弥呼ひみこ女王じょおう共立きょうりつされていた、と推定すいていされる。
  • おびかたぐんは204ねん設置せっちされ313ねんはいされた。
  • 三国志さんごくしこころざし(220〜265)を対象たいしょうとする。

畿内きないせつ[編集へんしゅう]

邪馬台国やまたいこく畿内きないせつでは、奈良ならけん桜井さくらい三輪山みわやまちかくのまといこう遺跡いせき邪馬台国やまたいこく比定ひていする意見いけんおおくをめる。少数しょうすう意見いけんとして、琵琶湖びわこ湖畔こはん大阪おおさかなどに比定ひていするせつもある。

  1. よこしまだい」は当時とうじ中国ちゅうごく発音はつおんで"*jamadə"であったと言語げんごがくてき推定すいていされ、当時とうじ日本語にほんごでは清音せいおん濁音だくおん区別くべつしないことから、「大和やまと」の当時とうじ発音はつおんである"jamatə"と完全かんぜん一致いっちすること。
  2. はし古墳こふん付近ふきんから出土しゅつどした土器どき考古学こうこがくてき年代ねんだい決定けっていろんで、まといこう遺跡いせき始期しき変革期へんかくきが3世紀せいきである可能かのうせいたかいこと[15]
  3. 吉備きびおもねさん播など広範こうはん地域ちいき起源きげん文化ぶんか起源きげんもとめうる前方後円墳ぜんぽうこうえんふん(まといむこうがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんふくむ)が、大和やまと中心ちゅうしん北九州きたきゅうしゅう(倭国わのくにぞくすとされる)から南関東みなみかんとうまで分布ぶんぷするようになり[16]古墳こふん時代じだいくだるにつれて全国ぜんこくひろがっていること(はし古墳こふんほか)。
  4. 南関東みなみかんとうなど北九州きたきゅうしゅう以外いがいひろ地域ちいきからの土器どき出土しゅつどしていること[17]
  5. 卑弥呼ひみこ使つかいころけいはつさんねんせいはじめ元年がんねんめいつものもある三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう畿内きない分布ぶんぷしていること。
  6. 弥生やよい時代じだいから古墳こふん時代じだいにかけておよそ4,000まいかがみ出土しゅつどするが、そのうち12まいは235ねん-244ねんあいだおさまってめいされたものが畿内きない中心ちゅうしん分布ぶんぷしていること。
  7. 日本書紀にほんしょき神功じんぐうおさむでは、こころざしと『こう漢書かんしょ』の倭国わのくに女王じょおう直接ちょくせつ神功じんぐう皇后こうごうむすけている。中国ちゅうごく史書ししょにおいても、『すすむしょみかどでは邪馬台国やまたいこくを「ひがしやまと」と表現ひょうげんしていること。また、ただしい地理ちりかんもとづいている『ずいしょ』では、する場所ばしょよこしま靡堆を「こころざしうところのよこしまだいなるものなり」と同一どういつしていること。

ぎゃくに、畿内きないせつ弱点じゃくてんとしてげられるのはつぎてんである。

  1. おびかたぐんからいぬよこしま韓国かんこくまでの行程こうていすでに7000あまりさとあり、みなみひがしえてものこり5000さとではおさまらないこと。
  2. はし古墳こふん卑弥呼ひみこの冢とするせつがあるが、卑弥呼ひみこ死後しごおとこおう即位そくいするもふたた混乱こんらんしたことが記録きろくされており、国内こくない混乱こんらんしていた時期じき当時とうじ最大さいだい墳丘ふんきゅう古墳こふん造営ぞうえいすることはむずかしい。また古墳こふん周囲しゅういには記録きろくにある殉葬のあとられない。くわえて服属ふくぞくさきであるちょう自体じたい薄葬令はくそうれい墳墓ふんぼ縮小しゅくしょうしており、朝鮮ちょうせん諸国しょこくおうおびかたぐんぐんもりも30メートル前後ぜんこう方墳ほうふんであるため、邪馬台国やまたいこくだけがけて巨大きょだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふん築造ちくぞうしたとはかんがえにくい。
  3. 三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん遺跡いせきからいちめん出土しゅつどしていないことにくわえ、全国ぜんこくでの出土しゅつどすう記録きろくにある100めん確認かくにんされただけで500めん以上いじょう)をはるかに上回うわまわっている。いまだに大陸たいりくからいちめんかがみ鋳型いがた出土しゅつどもない。また古墳こふんでの埋葬まいそうれいると、あつかいが非常ひじょう粗雑そざつであることが指摘してきされている[18]
  4. 当時とうじ畿内きない日本にっぽん最大さいだい勢力せいりょくであったとしても、北九州きたきゅうしゅうにはそれとべつ勢力せいりょく並立へいりつしていたとすれば、かならずしも邪馬台国やまたいこく畿内きないである必要ひつようはない。ただし、考古学こうこがくてきには当時とうじ北九州きたきゅうしゅう畿内きない勢力せいりょく圏内けんないにあった可能かのうせいたかいため、このような推論すいろん成立せいりつしづらい。
  5. 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょが、はし古墳こふんとほぼどう時期じきまたは先行せんこうして築造ちくぞうされたホケノさん古墳こふん年代ねんだいについて、発掘はっくつ調査ちょうさ出土しゅつどした槨木ざい炭素たんそ年代ねんだい測定そくてい結果けっかはば4世紀せいき前半ぜんはんをもふく範囲はんいであることを報告ほうこく[19]ていること。
  6. こころざし倭人わじんでん」の記述きじゅつ北部ほくぶ九州きゅうしゅう小国しょうこく紹介しょうかいする一方いっぽうで、畿内きないせつとうこく比定ひていする近畿きんき以西いせい道程どうてい存在そんざいしたはずの有力ゆうりょく吉備きびこく出雲いずもこくなどの仔細しさいにはまったれられておらず、伊都いとこくから近畿きんきけんまでふく道程どうてい記述きじゅつまったけていること。
  7. 古事記こじき」、「日本書紀にほんしょき」には、天皇てんのうによるくまかさね討伐とうばつなど九州きゅうしゅう征伐せいばつ記載きさいされており、4世紀せいき前期ぜんきから中期ちゅうき大王だいおう推定すいていされるけいぎょう天皇てんのうころまでは北九州きたきゅうしゅう大和やまと王権おうけん勢力せいりょく圏外けんがいにあったと国内こくない史料しりょうからはれる。ただし、考古学こうこがくてきには3世紀せいき時点じてん北九州きたきゅうしゅう大和やまと王権おうけん勢力せいりょくけんにあった可能かのうせいたかいため、これらの記述きじゅつ信憑しんぴょうせいには疑問ぎもんがある。
  8. こころざし倭人わじんでん」には邪馬台国やまたいこく伊都いとこくやつこくよりみなみにあるとする記述きじゅつさん箇所かしょあり、またかい稽東冶のひがし緯度いどてきにはほぼ沖縄おきなわけん一致いっちする)にあるとしていること。また諸国しょこく統率とうそつする一大いちだいりつ伊都いとこくにおかれたとしていること。

九州きゅうしゅうせつ[編集へんしゅう]

邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうせつでは、福岡ふくおかけん糸島いとしま中心ちゅうしんとした北部ほくぶ九州きゅうしゅう広域こういきせつ筑後ちくご平野へいやせつ福岡ふくおかけん大宰府だざいふ太宰府だざいふ)、大分おおいたけん宇佐うさ神宮じんぐう宇佐うさ)、宮崎みやざきけん西にし都原みやこばる古墳こふんぐん西都さいと)など、ほとんど九州きゅうしゅう全域ぜんいきわたって諸説しょせつ乱立らんりつしている。その邪馬台国やまたいこくについては、畿内きない勢力せいりょく征服せいふくされたというせつと、ぎゃく東遷とうせんして畿内きない制圧せいあつしたとのりょうせつがある[注釈ちゅうしゃく 17]

邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうにあったとするせつは、以下いか理由りゆうとうによる。

  1. 邪馬台国やまたいこく伊都いとこくみなみにあるとさんかいかれている。
  2. おびかたぐんから女王じょおうこくまでの12,000さとのうち、福岡ふくおか県内けんない比定ひていされる伊都いとこくまでですでに10,500使つかっていることから、のこり1,500佐賀さがけん唐津からつ比定ひていされるすえこくから伊都いとこくまで500さと距離きょりの3ばい)ではたんさとせつをとれば邪馬台国やまたいこく位置いち九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶにかぎられること[注釈ちゅうしゃく 18]
  3. 福岡ふくおかけん久留米くるめには、たから寿男としおなど複数ふくすう研究けんきゅうしゃが『こころざし倭人わじんでん』に記載きさいされる「卑弥呼ひみこづか」と規模きぼ副葬品ふくそうひん石棺せっかんはあるが槨がいこと、石棺せっかんしゅられていることなど主体しゅたい形式けいしきがよく一致いっちする[20]祇園山ぎおんやま古墳こふんがある。
  4. りゃく』にはとうこくみずぎょう陸行りくこう記事きじ存在そんざいせず、また里数りすう記事きじにおいてすえいおりこくから伊都いとこくへの行程こうてい記事きじ不自然ふしぜんであることから、みずぎょう陸行りくこう記事きじ後世こうせい加筆かひつられる。
  5. 卑弥呼ひみこはかについて倭人わじんでんは「おおいに冢をつくる」とあり、冢はしばしば墳丘ふんきゅうのないはかすところ、北九州きたきゅうしゅうには墳丘ふんきゅうがないたまきほり集合しゅうごう多数たすうつかっている。
  6. 古代こだい中国ちゅうごくには、軍事ぐんじ報告ほうこくしょを「実際じっさい距離きょり正確せいかくに10ばいして記載きさいする」「ぬの」という慣習かんしゅうがあった。こころざし倭人わじんでんたかししょくさんこく時代じだい史書ししょなので、当時とうじいちは459m。行政ぎょうせい機関きかん軍事ぐんじ拠点きょてんねたおびかたぐん情報じょうほうもとかれたと推定すいていされるこころざし倭人わじんでんは、ぬの千里せんりしるされていても、実際じっさい距離きょりはその1/10の45.9Kmであった可能かのうせいがある。この距離きょり九州きゅうしゅう一致いっちする[注釈ちゅうしゃく 19]。したがって、こころざし倭人わじんでんさと距離きょりは、古代こだい中国ちゅうごく文献ぶんけん明記めいきされるぬの慣習かんしゅう説明せつめいできる。

ぎゃくに、九州きゅうしゅうせつ弱点じゃくてんとしてげられるのはつぎてんである。

  1. 九州きゅうしゅうせつろんしゃあいだでも邪馬台国やまたいこくやその国々くにぐに比定ひてい統一とういつてき見解けんかいがなく、一言ひとこと九州きゅうしゅうせつってもおおくのことなるせつ総称そうしょうでしかないこと。
  2. から女王じょおうたちにおくられた品々しなじなくらいが、西にし大月おおつきこく匹敵ひってきする最恵国さいけいこくへの待遇たいぐうであること。
  3. 畿内きない古墳こふん築造ちくぞう開始かいし時期じきを、3世紀せいきにまでげるのが近年きんねん通説つうせつであること。
  4. 3世紀せいき紀年きねんきょうをいかにかんがえるべきかというてん。はやくから薮田やぶた嘉一郎かいちろうもり浩一こういちは、古墳こふん時代じだいは4世紀せいきからはじまるとする当時とうじ一般いっぱんてき理解りかいにしたがって、「三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう古墳こふんばかりから出土しゅつどしており、邪馬台国やまたいこく時代じだいである弥生やよい時代じだい墳墓ふんぼからは1まい出土しゅつどしない。よって、三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう邪馬台国やまたいこく時代じだいのものではなく、ヤマト王権おうけん邪馬台国やまたいこくとの関係かんけい顕示けんじするために偽作ぎさくしたものであり、事実じじつ中国ちゅうごくでは三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうほとん出土しゅつどしていない」とする見解けんかい表明ひょうめいし、その九州きゅうしゅうろんしゃはほとんどこのような説明せつめい追随ついずいしている。
  5. 九州きゅうしゅうせつろんしゃ見解けんかいでは、いわゆる「卑弥呼ひみこかがみ」はこうかんきょうであるとするが、弥生やよい時代じだい北九州きたきゅうしゅう遺跡いせきから集中しゅうちゅうして出土しゅつどするのちかんきょうしゅとして1世紀せいきへんねんされ、卑弥呼ひみこ時代じだいにはとどかないこと。
  6. 祇園山ぎおんやま古墳こふん方墳ほうふんであること。

東遷とうせんせつ[編集へんしゅう]

九州きゅうしゅう成立せいりつした王朝おうちょう邪馬台国やまたいこく)が東遷とうせんして畿内きない移動いどうしたというせつ東遷とうせんせつには、この東遷とうせん神武じんむ東征とうせい天孫てんそん降臨こうりんなどの神話しんわにむすびつけるせつと、とく記紀きき神話しんわとは関係かんけいないとするせつりょうパターンがある。東遷とうせんした時期じき形態けいたいについても九州きゅうしゅう王朝おうちょうせつ関連かんれんしておおくのせつがある。

ふるくはあきら時代じだいていしゅんいさお指摘してき[21]白鳥庫吉しらとりくらきちかずつじ哲郎てつろう[22]先駆さきがけとして戦前せんぜんひろまったが、戦後せんごは、歴史れきしがくおよび歴史れきし教育きょういくから日本にっぽん神話しんわ資料しりょうとしてあつかうことは忌避きひされた。しかしこの東遷とうせんせつ戦後せんごおも東京大学とうきょうだいがく中心ちゅうしん支持しじされ、栗山くりやま周一しゅういち黒板こくばん勝美かつみ林家はやしや友次ともじろう飯島いいじま忠夫ただお和田わだきよし[23]えのき一雄かずお[24]橋本はしもと増吉ますきち植村うえむら清二せいじ市村いちむら三郎さぶろう坂本さかもと太郎たろう[25]井上いのうえ光貞みつさだ[26] らによってろんじられていた。このほかにも、もり浩一こういち中川なかがわ成夫しげお谷川たにがわ健一けんいち金子かねこ武雄たけお布目ぬのめ順郎じゅんろう奥野おくの正男まさおらが細部さいぶことなるもののそれぞれの東遷とうせんせつろんじていた。

倭国わのくに大乱たいらん東遷とうせんしたというせつ[編集へんしゅう]

久米くめ雅雄まさおは「王朝おうちょう並立へいりつろん」を提唱ていしょうし、「ぐんいたり女王じょおうこくまんせんあまりさと」の「筑紫つくし女王じょおうこくおも)」と「海路かいろさんじゅうにち」(「みなみいたりとうこくすいぎょうじゅうにち」をて「みなみいたり邪馬台国やまたいこくすいぎょうじゅうにち」してたどりく)の「畿内きない邪馬台国やまたいこくふく)」とを想定そうてい両者りょうしゃべつの「そうことなるこく」であり、筑紫つくしにあった女王じょおうこくが「倭国わのくに大乱たいらん」をつうじて畿内きないしゅうつしそこで卑弥呼ひみこ擁立ようりつされたのであるとした[27]。このせつでは卑弥呼ひみこいちあずか畿内きないにいたことになる。

卑弥呼ひみこいちあずかあいだ東遷とうせんしたというせつ[編集へんしゅう]

大和やまと岩雄いわお九州きゅうしゅうにあった女王じょおうこくとは「畿内きないをもふく倭国わのくに全体ぜんたい首都しゅと」であって、卑弥呼ひみこ死後しご畿内きない邪馬台国やまたいこく東遷とうせんして女王じょおういちあずか擁立ようりつしたが、それは倭国わのくに勢力せいりょくけん内部ないぶでの移動いどうにすぎないとした(ただし天岩戸あまのいわと天孫てんそん降臨こうりん神武じんむ東征とうせいなどの神話しんわ関係かんけいづけることはしていない)。このせつでは卑弥呼ひみこ九州きゅうしゅうに、いちあずか畿内きないにいたことになる。

邪馬台国やまたいこく時代じだいのち東遷とうせんしたというせつ[編集へんしゅう]

安本やすもとよしてんは「卑弥呼ひみこてんあきら大神おおがみ」「いちあずか=万幡豊秋津師比賣(しのぶみのるみみ)」だと同定どうていしたうえで、その子孫しそんである神武じんむ天皇てんのう東遷とうせんしてヤマト政権せいけんになったのであるとした。このせつでは卑弥呼ひみこいちあずか九州きゅうしゅうにいたことになる。

そのせつ[編集へんしゅう]

四国しこくせつ[編集へんしゅう]

日本にっぽん列島れっとうにおいてはじめに淡路あわじせまべつとう(淡路島あわじしま)、番目ばんめ伊予いよ二名にみょうとう(四国しこく)が誕生たんじょうしたとされる日本にっぽん神話しんわくにみにもとづくせつで、1970年代ねんだい後半こうはんより注目ちゅうもくされたものである。邪馬台国やまたいこくまでのかた道順みちじゅん)をあらわしているとされる古代こだい中国ちゅうごくこころざし倭人わじんでんの(「みなみいたりとうこくすいぎょうじゅうにち」をて「みなみいたり邪馬台国やまたいこくすいぎょうじゅうにち」してたどりく)の解釈かいしゃくとして、まず大陸たいりくからわたいたとされる九州きゅうしゅう北部ほくぶから水路すいろ豊後水道ぶんごすいどう南下なんか高知こうちけん西部せいぶより四国しこく上陸じょうりく、その畿内きないせつおなじくみなみひがしみかえて陸路りくろ徳島とくしまけん辿たどくとの見解けんかいしめされることおおい。

当初とうしょ郷土きょうど史家しかこおりのぼる四国しこくせつとな著書ちょしょ自費じひ出版しゅっぱんおこなった[28]。その古代こだい阿波あわ研究けんきゅうかいなども四国しこくせつ主張しゅちょうし、[29]邪馬壱国やまいちこく阿波あわだったこころざし倭人わじんでん古事記こじきとの一致いっち』には多田ただいたる板東ばんどう一男かずお椎野しいの英二えいじ上田うえだじゅんけいらが編集へんしゅう委員いいんとしてつらねている。日本にほんテレビ番組ばんぐみ[30] で、番組ばんぐみプロデューサーの山中やまなか康男やすおはその高天原たかまがはら阿波あわだった』(講談社こうだんしゃ)を出版しゅっぱんした。1980年代ねんだいにはNHK高知放送こうちほうそうきょく制作せいさくした「かみ巨石きょせきぐんなぞ」のなか邪馬台国やまたいこく土佐とさ四国しこく山頂さんちょうせつ主張しゅちょうする土佐とさ文雄ふみお著書ちょしょかみ巨石きょせきぐんなぞ』(リヨンしゃ)を出版しゅっぱんほかにも浜田はまだ秀雄ひでお大杉おおすぎひろしはやし博章ひろあきなどが四国しこくせつ主張しゅちょうする著書ちょしょ出版しゅっぱん[31]、2009ねんにはテレビ東京てれびとうきょうの『新説しんせつ!?みのもんたの日本にっぽんミステリー!うしなわれた真実しんじつせまる』で四国しこく徳島とくしませつ放送ほうそうされた。月刊げっかんムーでも特集とくしゅうされた。

存在そんざいしなかったという仮説かせつ[編集へんしゅう]

これは、邪馬台国やまたいこく自体じたい存在そんざいしないということではなく、こころざし倭人わじんでんしるされたような規模きぼ距離きょり邪馬台国やまたいこくというくに存在そんざいしなかったというもの。邪馬台国やまたいこく国交こっこうむすんだのは司馬しば懿の功績こうせきであるが、司馬しば懿にとってライバルにあたる曹爽は西方せいほう大月おおつきこく国交こっこうむすんだという功績こうせきがあった。すなわち、司馬しば懿の功績こうせきを曹爽の功績こうせき匹敵ひってきさせるために、邪馬台国やまたいこく大月おおつきこく匹敵ひってきする規模きぼ距離きょり国家こっかであるとして史書ししょ記載きさいしたというもの。岡田おかだ英弘ひでひろ提唱ていしょうしている。

えつ前説ぜんせつ[編集へんしゅう]

せつくらべてマイナーだが、せつにはない農業のうぎょう観点かんてんから邪馬台国やまたいこく越前えちぜん福井ふくいけん)にあったとするせつ主張しゅちょうするひともいる[32][33][34][35]

2世紀せいき当時とうじ大国たいこく成立せいりつするには、おおくの人口じんこうささえるための広大こうだい水田すいでん必要ひつようとなる。2世紀せいき以前いぜん日本にっぽんでは、平坦へいたんみずはけのわる広大こうだい湿地しっち水田すいでん稲作いなさく利用りようしていたとかんがえられている[36]弥生やよい時代じだいにその条件じょうけんはままるのが、弥生やよい時代じだいまでに広大こうだいみずうみみずいたことでまれた、越前えちぜんにある福井平野ふくいへいやというのが、えつ前説ぜんせつ根拠こんきょである[36][37]えつ前説ぜんせつでは、近畿きんき地方ちほう弥生やよい時代じだいよりのち古墳こふん時代じだい以降いこう日本にっぽん中心ちゅうしんとなった地方ちほうであり、邪馬台国やまたいこくがあった当時とうじ近畿きんき地方ちほうみずうみみずいておらず、稲作いなさくてきしていなかったとかんがえられている[38]えつ前説ぜんせつでは、たとえば21世紀せいき現在げんざいでは土壌どじょう改良かいりょう品種ひんしゅ改良かいりょうにより稲作いなさくさかんとなった九州きゅうしゅう最大さいだい平野へいやである筑紫平野つくしへいやは、筑後川ちくごがわ洪水こうずいによるひろし積層せきそうや、筑後川ちくごがわやその支流しりゅうである宝満川ほうまんがわなどによる中小ちゅうしょう河川かせん沖積ちゅうせき作用さようによりからできており[39]すなシルトといったつぶおおきい土壌どじょうであり、2世紀せいき当時とうじ九州きゅうしゅう北部ほくぶ畑作はたさくにはいているが基本きほんてき水田すいでん稲作いなさくには不向ふむきな土地とちであったとかんがえられている[40]九州きゅうしゅう中部ちゅうぶ南部なんぶ火山かざんによるシラスくろボクで、21世紀せいき現在げんざい野菜やさいさく畜産ちくさんさかんだが水田すいでん稲作いなさくには不向ふむきな土地とちとされている[41][42][43]

農業のうぎょう以外いがいには、1999ねんに、福井ふくい泉田いずみたまち集落しゅうらく遺跡いせきはやし藤島ふじしま遺跡いせき」(弥生やよい後期こうき西暦せいれき200ねんごろ)から全国ぜんこくでも最多さいた(1999ねん当時とうじ)の出土しゅつどすうとなる1000てんえるきりなどの鉄器てっき鍛冶たんやあとつかったことが根拠こんきょとしてげられている[35][44][45][46][47]鉄器てっき以外いがいには、弥生やよい時代じだい後期こうき集落しゅうらくあとでは竪穴たてあな建物たてもの平地ひらち建物たてもの掘立柱ほったてばしら建物たてものあなみぞたまづく工房こうぼうたま材料ざいりょうかんだま勾玉まがたま完成かんせいひん未成みせいひん、ガラスせい小玉こだまかんだま土製どせい勾玉まがたまなどが出土しゅつどしている[47]弥生やよい時代じだい遺跡いせきで、たま完成かんせいひん未成みせいひんとその製作せいさく使用しようした鉄製てつせい工具こうぐ大量たいりょう出土しゅつどした事例じれいすくなく、出土しゅつどした遺物いぶつは、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、保存ほぞん修理しゅうりおこなわれた[47]

712ねんにまとめられた『古事記こじき』のなかには、「高志こうしはち俣遠りょさとしとしごとたり」としるされた、ヤマタノオロチ伝説でんせつかれている。高志こうし(こし)は、7世紀せいき以前いぜんえつこく(こしのくに)のかたであり、おも北陸ほくりく地方ちほう現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるがから山形やまがたけん庄内しょうない地方ちほう一部いちぶ相当そうとうする地域ちいきである[48]。21世紀せいき現在げんざい福井ふくい一部いちぶ地域ちいき高志こうし地区ちくぶことがある[49]一般いっぱんてきに、「高志こうしはち俣遠りょさとしとしごとたり」という記述きじゅつは「高志たかしえつこく)のヤマタノオロチが出雲いずも毎年まいとした」という意味いみだとかんがえられている[50][51][52]えつ前説ぜんせつでは、「高志こうしはち俣遠りょさとし」は「えつよこしまだいへび(おろち)」という意味いみであり、越前えちぜんにはよこしまだいというくにがあったことを示唆しさしているとかんがえられている[53]

フィクション[編集へんしゅう]

フィクションの世界せかいでは、邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうにあり、その近畿きんき東遷とうせんしたとのせつをとっているものが圧倒的あっとうてきおお[よう出典しゅってん]

  • 横光よこみつ利一としかず小説しょうせつ日輪にちりん」(1923ねん)では、具体ぐたいてき地理ちりてこないが、卑弥呼ひみこ元々もともとわたるこくほんさくでは「うみ」とルビで宇美うみ示唆しさ)の出身しゅっしんで、やつこくとのこうそう結果けっか耶馬だい(「やまと」とルビ)にったとされている。これらさんこくはおたがいにすぐにめる程度ていど距離きょり関係かんけいとしてえがかれている(ふねったりする描写びょうしゃはない)。やつこく考古学こうこがく上福岡かみふくおか比定ひていされているくにである。
  • 手塚てづか治虫おさむ漫画まんがとり 黎明れいめいへん』(1967ねん)は邪馬台国やまたいこく舞台ぶたいとしている。卑弥呼ひみこ連想れんそうさせるキャラクターも登場とうじょうする。邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうにあるやまと大国たいこくとりやま九州きゅうしゅうにあり、うみわた描写びょうしゃもある)だったが、卑弥呼ひみこ死後しご大陸たいりくからわたった騎馬きば民族みんぞくほろぼしその日本にっぽん支配しはいした。当時とうじ一般いっぱんつよ影響えいきょうあたえた騎馬きば民族みんぞく征服せいふく王朝おうちょうせつち、騎馬きば民族みんぞくちょうニニギ皇室こうしつ始祖しそ解釈かいしゃくしている。この漫画まんがは『とり』のタイトルで1978ねん実写じっしゃ映画えいがされた。監督かんとく市川いちかわこん主演しゅえん高峰たかみね三枝子みえこ
  • 1974ねん篠田しのだ正浩まさひろ監督かんとく岩下いわした志麻しま主演しゅえんによる映画えいが卑弥呼ひみこ』が制作せいさくされた。映画えいが火口かこう阿蘇あそおもわせるが撮影さつえい吾妻小富士あづまこふじおこなわれた。映画えいが最後さいごでは近畿きんき古墳こふんぐん撮影さつえいされるなど、九州きゅうしゅうせつ畿内きないせつ両方りょうほう暗示あんじされている。
  • 安彦やすひこ良和よしかず漫画まんがナムジ』(1989ねん-1991ねん)は、ナムジ(おおなむち、すなわちだい国主こくしゅ)を主人公しゅじんこう神話しんわ独自どくじ解釈かいしゃくした作品さくひん邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうにあり、スサノオひきいる強国きょうこく出雲いずも敵対てきたいしている。卑弥呼ひみこてんあきら大神おおがみ比定ひていされている。続編ぞくへんの『神武じんむ』(1992ねん-1995ねん)は、卑弥呼ひみこまごイワレヒコが(政略せいりゃく結婚けっこんのため)畿内きない東征とうせいヤマト王権おうけんとなる東遷とうせんせつっている(市井しせい古代こだい研究けんきゅうしゃである原田はらだ常治つねじ著書ちょしょ影響えいきょうおおきくけている[54][55])。
  • 星野ほしのせんによる漫画まんがヤマタイカ』(1986ねん-1991ねん)および『宗像むなかた教授きょうじゅこうろくだい2しゅうだい2:『られたかがみ』(2005ねん)では、九州きゅうしゅう甘木あまぎ畿内きない奈良なら、そして九州きゅうしゅう日向ひなた畿内きない熊野くまの地名ちめい相似そうじをひとつのキーワードとして、邪馬台国やまたいこく場所ばしょ九州きゅうしゅうせつ、そして東遷とうせんせつ甘木あまぎ阿蘇あそ平野へいや日向ひなた熊野くまの大和やまと)を採用さいようしている。また、「」をもうひとつのキーワードとして、卑弥呼ひみこつかさど巫女ふじょ女王じょおう)-天照大御神あまてらすおおみかみ太陽たいようしん)-よこしま火山かざんしん)のさんしゃ同一どういつ存在そんざいとしている。
  • さく寺島てらしまゆう藤原ふじわらカムイによる漫画まんが雷火らいか』(1987ねん-1997ねん)は、邪馬台国やまたいこくりをはかちょうまさしから派遣はけんされた役人やくにん)とライカたちとの神仙しんせんじゅつ駆使くししたたたかいをえが作品さくひん邪馬台国やまたいこく場所ばしょ九州きゅうしゅうせつ採用さいようしている。
  • 矢吹やぶきけん太朗たろうによる漫画まんがよこしまだい幻想げんそう』(1998ねん-1999ねん連載れんさいまえみきりぶんふくむ)。卑弥呼ひみこあと、その意思いし倭国わのくに統一とういつ目指めざしていたいちあずかだいあずか)と、国王こくおう暗殺あんさつこくほろぼす「くにくずし」をおこなっていた少年しょうねん紫苑しおんとの出会であいとい、いちあずかものにしようとたくらてきとのたたかいをえがいている。短期たんきりのためさまざまななぞのこしたまま唐突とうとつわりかたをしている。邪馬台国やまたいこく場所ばしょ九州きゅうしゅうせつ採用さいようしている。
  • 都築つづき和彦かずひこによる漫画まんがIZUMO』および『やまとものがたり』では九州きゅうしゅうせつ採用さいようしている。
  • 推敲すいこうどう ちょやまとといふくに物語ものがたり 副題ふくだいあゆむべきみち彼方かなたに(Independently published(アマゾン)ISBN-13:979-8847832014)長崎ながさきけん佐賀さがけん福岡ふくおかけんの、九州きゅうしゅう北部ほくぶ舞台ぶたいに、倭国わのくに大乱たいらんから女王じょおう卑弥呼ひみこ登場とうじょうするまでをえがいた歴史れきし小説しょうせつ。「歴史れきしかえす」をテーマに、さまざまな史実しじつやいいつたえをんでえがかれた作品さくひん
  • 平岡ひらおか陽明ようめいによる小説しょうせつねむ邪馬台国やまたいこく』では、新聞しんぶんしゃ古代こだい担当たんとう記者きしゃである叔父おじをワトソンやくに、主人公しゅじんこうである天才てんさい学者がくしゃゆめ研究けんきゅうしゃ)が、こころざし倭人わじんでん九州きゅうしゅうせつ畿内きないせつ比較ひかくしながら邪馬台国やまたいこくなぞせまっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ またとい耶馬だい耶摩うずたかこれごうわかかく有心うしん哉?こたえせつ雖有さんごう、其義ことみなしょうやまとおと也。(しゃくおさむだいいち 開題かいだい
  2. ^ 外国がいこくこと調書ちょうしょ新井あらい白石はくせき。ただし公刊こうかん草稿そうこうであることから、流布るふした経緯けいいしょう
  3. ^ ただし、ぐんとはけいはつ2ねん(238ねん)の8がつ23にち公孫こうそんふちころされた時期じきに、回復かいふくした朝鮮ちょうせん中部ちゅうぶおびかたぐんかんがえられる、『三国志さんごくししょ』の倭人わじんでんにもおびかたぐん記述きじゅつしかなくかんつたえにも「やまとかんとげぞくたいかた」とあり、らくなみぐんあるいはげんうさぎぐんなどの可能かのうせいはほとんどない。
  4. ^ さき詳細しょうさいしるされているやつこく同一どういつとするせつがある。
  5. ^ この場合ばあいの「大倭おおやまと」とは倭人わじんなか大人おとな首長しゅちょう)のとするせつ邪馬台国やまたいこく任命にんめい派遣はけんしたかんとするせつ大和やまと朝廷ちょうていのこととするせつなどがある。
  6. ^ 古田ふるた武彦たけひこせつでは「使つかい大倭おおやまと」の3文字もじひとつのかんめいとする。
  7. ^ 刺史ししおおきな行政ぎょうせい単位たんいであるしゅう巡察じゅんさつかんのこと
  8. ^ この戦乱せんらんは、原文げんぶんでは「倭国わのくにらん」だが、こころざし倭人わじんでんもとづいたとされるのち漢書かんしょ東夷あずまえびすでんでは「倭国わのくに大乱たいらん」と「だい」の付加ふかしてかれている。また後代こうだい史料しりょうになるがはりしょではこの戦乱せんらんかんれいみかど光和こうわ年間ねんかんのこととしている。ただしこれははりしょが107ねん倭国わのくにおうそちますをここでいうおとこおう同定どうていして机上きじょう算出さんしゅつした年代ねんだいにすぎず、光和こうわ年間ねんかんせつには史料しりょうてきはないとするせつ(『新版しんぱんこころざし倭人わじんでん講談社こうだんしゃ1986 山尾やまお幸久ゆきひさ)もある。
  9. ^ 政治せいじ補佐ほさしていたというおとうととは別人べつじんとするせつどう一人物いちじんぶつとするせつとがある。
  10. ^ 卑弥呼ひみこの「鬼道きどう」についての解釈かいしゃくとしてはシャーマンせつ五斗米ごとべいどう道教どうきょう源流げんりゅうひとつ)と関係かんけいがあるとするせつ五斗米ごとべいどうではなく「よこしまじゅつ」とするせつなどがある。以上いじょう諸説しょせつは、いずれのせつをとるにしろ、社会しゃかい学的がくてきには呪術じゅじゅつカリスマの概念がいねんでとらえるものである。
  11. ^ 呪術じゅじゅつカリスマとないせつとしては「鬼道きどう」をありふれた漢語かんごとしてたん祖先そせん祭祀さいしとするせつや、当時とうじ中国ちゅうごく文献ぶんけんでは儒教じゅきょうにそぐわない体制たいせいを「鬼道きどう」と表現ひょうげんしている用法ようほうがあることからたん儒教じゅきょうてき価値かちかんにそぐわない政治せいじ体制たいせいであることを意味いみするというせつもある。
  12. ^ 推古天皇すいこてんのう聖徳太子しょうとくたいしとの関係かんけいれいとしてげられる。一方いっぽうで、卑弥呼ひみこじこもって祭祀さいしのみおこない、実際じっさい政治せいじおとこおとうとゆだねていたとするせつたいしては、『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつではワカタケル(雄略天皇ゆうりゃくてんのう)もからの使者ししゃ面会めんかいしておらず、また稲荷山いなりやま古墳こふん出土しゅつどてつけんにも、豪族ごうぞくヲワケがワカタケルを(おとこおとうと卑弥呼ひみこたいしたように)「ひだりおさむ」したとあることから、卑弥呼ひみこはワカタケルと同質どうしつおうであったとの反論はんろんがある(義江よしえ 2018, pp. 92, 98, 100)。
  13. ^ このけいはつ2ねん6がつ司馬しば遼東りゃおとん公孫こうそんふち攻撃こうげきのため出発しゅっぱつしたつき)は『はりしょ』と『日本書紀にほんしょき引用いんようぶんでは翌年よくねんけいはつ3ねんになっている。2ねんだといまおびかたぐん公孫こうそんふち支配しはい使つかい困難こんなんであることから3ねんせつがやや有力ゆうりょくではあるが確定かくていてきではない。2ねんせつ支持しじする根拠こんきょとしては、卑弥呼ひみこ使つかい2人ふたり貢物みつぎもの奴婢ぬひ10にんぬの2ひき2たけと、かつてのやつこく貢物みつぎもの奴婢ぬひ160にんくらべて粗末そまつなものにもかかわらず邪馬台国やまたいこく厚遇こうぐうしているのは、公孫こうそん政権せいけんからいちはやえたこと功績こうせきみとめられたためという観点かんてんから、公孫こうそん政権せいけん滅亡めつぼう直前ちょくぜんけいはつ2ねん使つかい正確せいかくであるというせつ古田ふるた武彦たけひこ邪馬台国やまたいこく」はなかった角川かどかわ文庫ぶんこ 1977ねん)や、「こころざし倭人わじんでんまえ東夷あずまえびすでん前半ぜんはんで、の毌丘倹の軍隊ぐんたい沿海州えんかいしゅうから朝鮮半島ちょうせんはんとう日本海にほんかいがわげんうさぎぐん方面ほうめん遠征えんせいしていたことをかたり、その記事きじ延長線えんちょうせんじょう倭人わじんでんかれているため、朝鮮ちょうせん西側にしがわおびかたぐんぎゃく東海岸ひがしかいがん使つかいした可能かのうせいがあり、この場合ばあい使つかい困難こんなんとはえない」というせつ、『日本書紀にほんしょき引用いんようぶんでは3ねんとしながらあかりみかどともあって矛盾むじゅんしており3ねんじつは2ねん誤記ごきというほうあかりみかど誤写ごしゃれたという想定そうていよりは容易よういであるとのせつ、などがある。
  14. ^ 現存げんそんする版本はんぽんすべそう (王朝おうちょう)以後いごのものである。ずいしょでは「よこしま靡堆」とくにではなく地域ちいきとなっていることにも注意ちゅういすべきであろう。
  15. ^ 那珂なか通世みちよ神功しんこう皇后こうごう卑弥呼ひみこどう一人物いちじんぶつとするこの日本書紀にほんしょき記述きじゅつ否定ひていする。市村いちむら三郎さぶろうは『卑弥呼ひみこ神功しんこう皇后こうごうである』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1972ねん)をあらわしている。
  16. ^ 岡田おかだ英弘ひでひろせつ。『こう漢書かんしょ』によると洛陽らくようから大月おおつきまで16,370さと洛陽らくようからおびかたぐんまでが5,000である。よっておびかたぐんから邪馬台国やまたいこくまでは最短さいたんでも11,370以上いじょうはないと洛陽らくようからの距離きょり同等どうとうもしくはそれ以上いじょうにならないので、12,000さと設定せっていされたせつ
  17. ^ 後者こうしゃ東遷とうせんせつ神武じんむ東征とうせいをその事実じじつ反映はんえい立場たちばおおいが、『ずいしょ』の記述きじゅつがすでに現存げんそんする記紀きき神話しんわとは相当そうとうことなっている可能かのうせいがあるとして、神話しんわ根拠こんきょとすることはれがたいとする意見いけんもある。神武じんむ東征とうせいとは関係かんけいないとするせつもある。
  18. ^ 三宅みやけ米吉よねきちは、12,000里程りていのわかっているわたるこくまでの距離きょりであるとし、山田やまだ孝雄たかおは、これは一部いちぶ不明ふめいのところのある現実げんじつ距離きょりをあわせたものではなく、たんいぬよこしま韓国かんこくまでの7,000さとやまと周旋しゅうせん5,000さと合算がっさんしたものにぎないとする。九州きゅうしゅう王朝おうちょうせつとなえた古田ふるた武彦たけひこは、「正確せいかくするためおな行程こうてい距離きょりかる日数にっすうとでじゅう標記ひょうきしている」とするかた提唱ていしょうしている。
  19. ^ 報告ほうこくしょすべ軍事ぐんじ報告ほうこくしょとしてかれたと推定すいていする。実際じっさいこころざし倭人わじんでんには、釜山ぷさんから対馬つしま対馬つしまから壱岐いき壱岐いきから九州きゅうしゅう北岸ほくがんがそれぞれせんしるされているが、最短さいたん渡海とかい距離きょりかんがえれば、釜山ぷさん南端なんたんから対馬つしま北端ほくたんまでやく50Km、対馬つしま南端なんたんから壱岐いき北端ほくたんまでやく50Km、壱岐いき南端なんたんから九州きゅうしゅう北岸ほくがん糸島半島いとしまはんとう)までやく50Kmなので、ぬので「正確せいかくに10ばいしたせんあまりさと」にほぼ合致がっちする

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  3. ^ ただし、『三国志さんごくし』には「たいごく」という表記ひょうき死体したいげたづかを「だい」としているれいがあることから、これに反対はんたいするせつもある。
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  10. ^ 吉野よしのさと遺跡いせきなぞエリア”のはかからあか顔料がんりょう有力ゆうりょくしゃであれば邪馬台国やまたいこくにつながる発見はっけん可能かのうせいも | TBS NEWS DIG (1ページ)
  11. ^ 邪馬台国やまたいこく方位ほういについて」(『オリエンタリカ』1、1948ねん8がつ
  12. ^ 邪馬台国やまたいこく」はなかった
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  27. ^ しん邪馬台国やまたいこくろん女王じょおう鬼道きどう征服せいふく戦争せんそう―」『歴史れきしにおける政治せいじ民衆みんしゅう』1986ねん、「おややまとおうしるしとその歴史れきしてき背景はいけい」『日本にっぽん印章いんしょう研究けんきゅう雄山閣ゆうざんかく、2004ねん
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  29. ^ 邪馬壱国やまいちこく阿波あわだったこころざし倭人わじんでん古事記こじきとの一致いっち』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

邪馬台国やまたいこく論争ろんそう関連かんれん
その

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]