邪馬台国
概要 [編集 ]
なお、
なお、
「魏 志 倭人 伝 」中 の“邪馬台国 ”[編集 ]
道程 [編集 ]
倭人 在 帶 方 東南 大海 之 中 依 山島 爲國 邑舊 百 餘 國 漢 時 有 朝見 者 今 使 譯 所 通 三 十 國
從 郡 至 倭 循海岸水 行 歴 韓國 乍南乍東到 其北岸 狗 邪 韓國 七 千 餘 里
始 度 一 海 千 餘 里 至 對 海國 其大官 曰卑狗 副 曰卑奴 毋離所 居 絶島 方 可 四 百 餘 里 土地 山 險 多 深林 道路 如禽鹿 徑 有 千 餘 戸 無 良田 食 海 物 自活 乗船 南北 市 糴
又 南 渡 一 海 千 餘 里 名 曰瀚海 至 一 大國 官 亦 曰卑狗 副 曰卑奴 毋離方 可 三 百 里 多 竹 木叢 林 有 三 千 許 家 差 有田 地 耕田 猶 不足 食 亦 南北 市 糴
又 渡 一 海 千 餘 里 至 末 盧 國 有 四 千 餘 戸 濱 山海 居 草木 茂 盛行 不 見 前 人 好捕 魚 鰒 水無 深淺 皆 沈没 取 之
東南 陸行 五 百 里 到 伊都 國 官 曰爾支 副 曰泄謨觚柄 渠 觚有 千 餘 戸 世 有 王 皆 統 屬 女王 國 郡 使 往來 常 所 駐
東南 至 奴 國 百 里 官 曰兕馬 觚副曰卑奴 毋離有 二 萬 餘 戸
東 行 至 不 彌 國 百 里 官 曰多模 副 曰卑奴 毋離有 千 餘 家
南 至 投 馬 國 水 行 二 十 日 官 曰彌彌 副 曰彌彌 那 利 可 五 萬 餘 戸
南 至 邪馬壹國 女王 之 所 都 水 行 十 日 陸行 一 月 官有 伊 支 馬 次 曰彌馬 升 次 曰彌馬 獲 支 次 曰奴佳 鞮可 七 萬 餘 戸
自 女王 國 以北 其戸數 道 里 可 得 略 載 其餘旁 國遠 絶 不可 得 詳
次 有 斯馬國次 有 巳 百 支 國次 有 伊 邪 國次 有 都 支 國次 有彌 奴 國次 有 好 古都 國次 有 不 呼 國次 有 姐 奴 國次 有 對 蘇 國次 有 蘇 奴 國次 有 呼 邑國次 有 華 奴 蘇 奴 國次 有 鬼 國次 有爲 吾 國次 有 鬼 奴 國次 有 邪 馬 國次 有 躬臣國次 有 巴 利國 次 有 支 惟 國次 有 烏 奴 國次 有 奴 國 此女王 境界 所 盡 其南
有 狗 奴 國 男子 爲 王 其官有 狗 古 智 卑狗不 屬 女王
自 郡 至 女王 國 萬 二 千 餘 里 (
中略 )計 其道里 當 在 會 稽東冶之東
その
倭 地 、女王 国 の地理 [編集 ]
女王 國東 渡海 千 餘 里 復 有 國 皆 倭 種 又 有 侏儒 國 在 其南人 長 三 四 尺 去 女王 四 千 餘 里 又 有 裸 國 黑 齒 國 復 在 其東南 船行 一 年 可 至
參 問 倭 地 絶 在 海中 洲島 之 上 或 絶 或 連 周旋 可 五 千 餘 里
政治 [編集 ]
收 租賦有 邸 閣 國 國有 市 交易 有無 使 大倭 監 之
自 女王 國 以北 特 置 一大 率 檢察 諸國 諸國 畏 憚 之 常治 伊都 國 於國中有 如刺史 王 遣 使 詣 京都 帶 方 郡 諸 韓國 及郡使 倭國 皆 臨津搜 露 傳送 文書 賜 遺 之 物詣 女王 不 得 差 錯
其國本 亦 以男子 為 王 住 七 八 十 年 倭國 亂 相 攻 伐 歴年 乃共立 一 女子 為 王 名 曰卑彌呼 事 鬼道 能 惑衆年 已 長大 無 夫 婿 有男 弟 佐 治國 自 為 王 以來 少 有 見 者 以婢千 人 自 侍 唯 有 男子 一 人 給 飲食 傳 辭 出入 居 處 宮室 樓 觀 城 柵 嚴 設 常 有人 持 兵 守衛
また、
卑彌呼 以死大作 冢徑 百 餘 歩 徇葬者 奴婢 百 餘人 更 立男 王 國 中 不服 更 相 誅殺 當時 殺 千 餘人 復 立 卑彌呼 宗 女 壹 與 年 十 三 為 王 國 中 遂 定 政 等 以檄告 喩 壹 與 壹 與 遣 倭 大夫 率 善 中 郎 將 掖 邪 狗 等 二 十人送政等還因 詣 臺 獻上 男女 生 口 三 十 人 貢 白 珠 五 千 孔 青 大 句 珠 二 枚 異 文 雜 錦 二 十 匹
魏 ・晋 との外交 [編集 ]
「
建 安 年間 (196年 -220年 )公孫 康 が屯 有 県 以南 の荒地 の一部 に帯 方 郡 を置 いた、後 漢 の遺 民 を集 めるため公孫 模 や張 敞 などを派遣 し兵 を興 して韓 と濊を討伐 したが、後 漢 の旧 民 は少 ししか見 い出 せなかった。この後 、倭 と韓 は帯 方 郡 に服属 した。景 初 2年 (238年 )、魏 の明 帝 は劉 昕を帯 方 太守 、鮮于嗣を楽 浪 太守 に任 じ、この両者 は海路 で帯 方 郡 と楽 浪 郡 をそれぞれ収 めた(『三国志 』魏 書 東夷 伝 序文 )。- 6
月 [注釈 13] または景 初 3年 (239年 )6月 女王 は大夫 の難 升 米 と次 使 の都市 牛 利 を帯 方 郡 に派遣 し、天子 に拝謁 を願 い出 た。帯 方 太守 の劉 夏 は彼 らを都 に送 り、使者 は男 の生 口 (奴隷 )4人 と女 の生 口 6人 、班 布 2匹 2丈 を献 じた。 - 12月、
悦 んだ魏 の皇帝 (景 初 2年 だとすると明 帝 (12月8日 から病床 、27日 の曹宇罷免 の詔勅 も直筆 できなかった。-『三国志 』裴注引用 習鑿歯 『漢 晋 春秋 』)景 初 3年 だとすると曹芳)は女王 を親 魏 倭 王 とし、金 印 紫綬 を授 けるとともに銅鏡 100枚 を含 む莫大 な下賜 品 を与 えた。また、難 升 米 を率 善 中 郎 将 、牛 利 を率 善 校 尉 とした。 - 8
月 23日 帯 方 郡 と楽 浪 郡 を支配 していた公孫 淵 が司馬 懿により斬首 される。 帯 方 郡 と楽 浪 郡 が魏 に占領 される[1]。景 初 3年 (239年 )春 正月 丁 亥 日 (1月 1日 )明 帝 崩御 (『三国志 』魏 書 明 帝 紀 )。
- 6
正 始 元年 (240年 )帯 方 太守 弓 遵は建 中 校 尉 梯 儁らに詔書 と印綬 を持 たせて倭国 へ派遣 し、倭 王 の位 を仮 授するとともに下賜 品 を与 えた。正 始 4年 (243年 )12月、女王 俾彌呼 は魏 に使者 として大夫 伊 聲 耆、掖 邪 狗 らを送 り、生 口 と布 を献上 。皇帝 (斉 王 )は掖 邪 狗 らを率 善 中 郎 将 とした(『三国志 』魏 書 少 帝 紀 )。正 始 6年 (245年 )皇帝 (斉 王 )は帯 方 郡 を通 じ難 升 米 に黄 幢(黄色 い旗 さし)を下賜 した。正 始 6年 (245年 )帯 方 太守 弓 遵と楽 浪 太守 劉 茂 は嶺 東 へ遠征 して濊を討 った後 、郡 内 の韓 族 が反乱 して崎 離 営を襲 ったため、軍 を出 して韓 族 を討 ち滅 ぼしたが弓 遵は戦死 した。正 始 8年 (247年 )女王 は太守 王 頎に載 斯烏越 を使者 として派遣 して、狗 奴 国 との戦 いについて報告 。太守 は塞 曹掾史 張 政 らを倭国 に派遣 した。女王 に就 いた壹 与 は、帰任 する張 政 に掖 邪 狗 ら20人 を同行 させ、掖 邪 狗 らはそのまま都 に向 かい男女 の生 口 30人 と白 珠 5,000孔 、青 大 句 珠 2枚 、異 文 の雑 錦 20匹 を貢 いだ。
また
この
言語 [編集 ]
開 音節 (母音 終 わり)を原則 とする。- ア
行 は原則 として頭 音 にくること。つまり二 重母音 は回避 されること。 頭 音 には原則 としてラ行 が来 ないこと。頭 音 には原則 として濁音 が来 ないこと。
などである。こうした
風俗 [編集 ]
男子 はみな顔 や体 に入墨 を施 している。人々 は朱 や丹 を体 に塗 っている。入墨 は国 ごとに左右 、大小 などが異 なり、階級 によって差 が有 る。- その
風俗 は淫 らではない。 男子 は冠 をつけず、髪 を結 って髷 をつくっている。女子 はざんばら髪 。着物 は幅広 い布 を横 で結 び合 わせているだけである。稲 、紵麻(からむし)を植 えている。桑 と蚕 を育 てており、糸 を紡 いで上質 の絹織物 を作 っている。牛 ・馬 ・虎 ・豹 ・羊 ・鵲 (かささぎ)はいない。兵器 は矛 、盾 、木 弓 を用 いる。その木 弓 は下 が短 く上 が長 い。(和 弓 #歴史 参照 )矢 は竹 であり、矢先 には鉄 や骨 の鏃(やじり)が付 いている。土地 は温暖 で、冬 夏 も生 野菜 を食 べている。みな、裸足 である。家屋 があり、寝床 は父母 兄弟 は別 である。身体 に朱 丹 を塗 っており、あたかも中国 で用 いる白粉 のようである。飲食 は籩豆(たかつき)を用 い、手 づかみで食 べる。人 が死 ぬと10日 あまり哭泣して、もがり(喪 )につき肉 を食 さない。他 の人々 は飲酒 して歌舞 する。埋葬 が終 わると水 に入 って体 を清 める。倭 の者 が船 で海 を渡 る際 、持 衰 が選 ばれる。持 衰 は人 と接 さず、虱 を取 らず、服 は汚 れ放題 、肉 は食 べずに船 の帰 りを待 つ。船 が無事 に帰 ってくれば褒美 が与 えられる。船 に災難 があれば殺 される。真珠 と青玉 が産出 する。倭 の山 には丹 があり、倭 の木 には柟(だん、タブノキ)、杼 (ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪 (れき、クヌギ)・投 橿 (とうきょう、カシ)・烏 号 (うごう、クワ)・楓 香 (ふうこう、カエデ)。竹 は篠 (じょう)・簳(かん)・桃 支 (とうし)がある。薑 (きょう、ショウガ)・橘 (きつ、タチバナ)・椒 (しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味 しいのを知 らない。また、猿 、雉(きじ)もいる。特別 なことをする時 は骨 を焼 き、割 れ目 を見 て吉凶 を占 う。(太 占 )集会 での振 る舞 いには、父子 ・男女 の区別 がない。人々 は酒 が好 きである。敬意 を示 す作法 は、拍手 を打 って、うずくまり、拝 む。長命 で、百 歳 や九 十 、八 十 歳 の者 もいる。身分 の高 い者 は4、5人 の妻 を持 ち、身分 の低 い者 でも2、3人 の妻 を持 つものがいる。女 は慎 み深 く嫉妬 しない。盗 みは無 く、訴訟 も少 ない。法 を犯 した場合 、軽 い者 は妻子 を没収 し、重 い者 は一族 を根絶 やしにする。宗族 には尊卑 の序列 があり、上 の者 のい付 けはよく守 られる。
邪馬台国 のその後 [編集 ]
3
名称 ・表記 [編集 ]
『
発音 と表記 [編集 ]
発音
畿内 説
「
九州 説
論争 [編集 ]
三 十 九 年 。是 年 也大歲 己 未 。魏 志 云 。明 帝 景 初 三 年 六 月 。倭 女王 遣 大夫 難 斗米 等 。詣 郡 求 詣 天子 朝 獻 。太守 鄧夏遣 吏將送 詣 京都 也。
四 十 年 。魏 志 云 。正 始 元年 。遣 建 忠 校 尉 梯 携等。奉 詔書 印綬 。詣 倭國 也。四 十 三 年 。魏 志 云 。正 始 四 年 。倭 王 復 遣 使 大夫 伊 聲 者 掖 耶約等 八 人 上 獻 。
位置 に関 する論争 [編集 ]
「
2009
連続 式 と放射 式 [編集 ]
- 「
連続 説 」(連続 読 み)- 「魏 志 倭人 伝 」に記述 されている順序 に従 うが、都度 、方角 を90度 変更 したり距離 、日数 を修正 したりして各国 を順次 比定 する読 み方 で、帯 方 郡 を出発 後 、狗 邪 韓国 ・対 海国 ・一 大国 を経 て北部 九州 に上陸 し、末 廬 国 ・伊都 国 ・奴 国 ・不 弥 国 ・投 馬 国 ・邪馬台国 までを順 にたどる説 。 - 「
放射 説 」(放射 読 み) -榎 一雄 の説 [11]。伊都 国 までは連続 読 みと同 じだが、伊都 国 以降 では、行程 の表現 方法 、つまり、文型 が変化 していることから、伊都 国 から奴 国 、伊都 国 から不 弥 国 、伊都 国 から投 馬 国 、伊都 国 から邪馬台国 というふうに、伊都 国 を起点 に放射状 の行程 が書 かれていると読 む説 。同 じ「放射 読 み」だが、伊都 国 ではなく、末 廬 国 を起点 とする説 。
伊都 国 を起点 とする「放射 読 み」だが、投 馬 国 への行程 だけは、伊都 国 からでなく不 彌 国 から起点 として読 む説 。い換 えると、邪馬台国 までの「連続 読 み」の行程 に、不 弥 国 から奴 国 、投 馬 国 それぞれへの二 つの「傍線 行程 」(支線 )があると解釈 するもの[12]。- さらに
古田 武彦 は、邪馬壱国 への「水 行 十 日 ・陸行 一 月 」を「帯 方 郡 から邪馬壱国 」の全 日程 と読 み、不 弥 国 の南 に邪馬壱国 が「接 している」とする。
- さらに
距離 の計算 [編集 ]
「
また「
短 里 説 [編集 ]
露 布 説 [編集 ]
中国 正史 の卑弥呼 [編集 ]
- 『
後 漢書 』卷 85東夷 列傳 第 75「桓靈閒 倭國 大亂 更 相 攻 伐 歴年 無主 有 一 女子 名 曰卑彌呼 年長 不 嫁 事 鬼神 道 能 以妖惑衆 於是共立 爲 王 (桓帝・霊 帝 の治世 の間 (146〜189年 )、倭国 大乱 があり、さらに互 いに攻 め合 い、8年 ±数 年 も主 無 き状態 となった。卑弥呼 という名 の一人 の女子 が有 り、年長 だが嫁 いでいなかった。鬼神 道 を用 いてよく衆 を妖 しく惑 わした。ここに於 いて共立 し王 にした。)」とある通 り、倭国 大乱 は、最 も早 くても146年 に勃発 し、最 も遅 くても189年 までには終結 して卑弥呼 が女王 に共立 されたと推定 される。 - 『
三国志 』魏 書 卷 30東夷 伝 倭人 (魏 志 倭人 伝 )「其國本 亦 以男子 爲 王 住 七 八 十 年 倭國 亂 相 攻 伐 歴年 乃共立 一 女子 爲 王 名 曰卑彌呼 事 鬼道 能 惑衆年 已 長大 無 夫 婿 (其 の国 もまた元々 男子 を王 として70〜80年 を経 ていた。倭国 乱 があり、8年 ±数 年間 も相互 に攻 め合 った。そこで、一人 の女子 を共立 して王 にした。名 は卑弥呼 という。鬼 (神 )道 を用 いてよく衆 を惑 わした。年齢 は35歳 を過 ぎ、夫 は無 かった。)」とある通 り、107年 の倭 王 帥 升 の後 漢 遣 使 から70〜80年 後 となる177〜187年 頃 までには倭国 大乱 が集結 して卑弥呼 が女王 に共立 されたと推定 される。 - 『
梁 書 』卷 54列傳 第 48諸 夷 傳 東夷 条 倭 「漢 靈 帝 光和 中 ,倭國 亂 ,相 攻 伐 歷年 ,乃共立 一 女子 卑彌呼 爲 王 。((後 )漢 の霊 帝 の光和 年間 (178〜184)、倭国 乱 があり、8年 ±数 年 も相互 に攻 め合 った。そこで、一人 の女子 卑弥呼 を共立 して王 にした。)」とある通 り、178〜184年 までには倭国 大乱 が集結 して卑弥呼 が女王 に共立 されたと推定 される。 - 『
三 国史 記 』新 羅 本紀 に「二 十 年 夏 五 月 。倭 女王 卑彌乎。遣 使 来 聘」とある通 り、遅 くとも173年 の旧暦 5月 には、倭国 大乱 の終結 により卑弥呼 が女王 に共立 されていた、と推定 される。 帯 方 郡 は204年 に設置 され313年 に廃 された。三国志 の魏 志 は魏 (220〜265)を対象 とする。
畿内 説 [編集 ]
- 「
邪 馬 台 」は当時 の中国 語 の発音 で"*jamadə"であったと言語 学 的 に推定 され、当時 の日本語 では清音 と濁音 を区別 しないことから、「大和 」の当時 の発音 である"jamatə"と完全 に一致 すること。 箸 墓 古墳 の付近 から出土 した土器 の考古学 的 年代 決定 論 で、纏 向 遺跡 の始期 や変革期 が3世紀 である可能 性 が高 いこと[15]。吉備 、阿 讃 播など広範 な地域 起源 の文化 に起源 を求 めうる前方後円墳 (纏 向 型 前方後円墳 を含 む)が、大和 を中心 に北九州 (倭国 に属 すとされる)から南関東 まで分布 するようになり[16] 、古墳 期 の時代 が下 るにつれて全国 に広 がっていること(箸 墓 古墳 ほか)。南関東 など北九州 以外 の広 い地域 からの土器 が出土 していること[17]。卑弥呼 の遣 使 の頃 の景 初 三 年 、正 始 元年 銘 を持 つものもある三角縁神獣鏡 が畿内 に分布 していること。弥生 時代 から古墳 時代 にかけておよそ4,000枚 の鏡 が出土 するが、そのうち12枚 は235年 -244年 の間 に収 まって銘 されたものが畿内 を中心 に分布 していること。- 『
日本書紀 』神功 紀 では、魏 志 と『後 漢書 』の倭国 の女王 を直接 神功 皇后 に結 び付 けている。中国 の史書 においても、『晋 書 』帝 紀 では邪馬台国 を「東 倭 」と表現 していること。また、正 しい地理 観 に基 づいている『隋 書 』では、都 する場所 邪 靡堆を「魏 志 に謂 うところの邪 馬 臺 なるものなり」と同一 視 していること。
帯 方 郡 から狗 邪 韓国 までの行程 で既 に7000余 里 あり、南 を東 に読 み替 えても残 り5000里 ではおさまらないこと。箸 墓 古墳 を卑弥呼 の冢とする説 があるが、卑弥呼 死後 に男 王 が即位 するも再 び混乱 したことが記録 されており、国内 が混乱 していた時期 に当時 最大 の墳丘 を持 つ古墳 を造営 することは難 しい。また古墳 周囲 には記録 にある殉葬の跡 も見 られない。加 えて服属 先 である魏 朝 自体 が薄葬令 で墳墓 を縮小 しており、朝鮮 諸国 の王 墓 や帯 方 郡 の郡 守 墓 も30メートル前後 の方墳 であるため、邪馬台国 だけが飛 び抜 けて巨大 な前方後円墳 を築造 したとは考 えにくい。三角縁神獣鏡 が中国 、朝鮮 の遺跡 から一 面 も出土 していないことに加 え、全国 での出土 数 が記録 にある100面 (確認 されただけで500面 以上 )を遥 かに上回 っている。未 だに大陸 から一 面 の鏡 も鋳型 の出土 もない。また古墳 での埋葬 例 を見 ると、扱 いが非常 に粗雑 であることが指摘 されている[18]。当時 の畿内 が日本 最大 勢力 であったとしても、北九州 にはそれと別 の勢力 が並立 していたとすれば、必 ずしも邪馬台国 が畿内 である必要 はない。ただし、考古学 的 には当時 の北九州 が畿内 の勢力 圏内 にあった可能 性 が高 いため、このような推論 は成立 しづらい。奈良 県立 橿原考古学研究所 が、箸 墓 古墳 とほぼ同 時期 または先行 して築造 されたホケノ山 古墳 の年代 について、発掘 調査 で出土 した木 槨木材 の炭素 年代 測定 結果 の幅 が4世紀 前半 をも含 む範囲 であることを報告 し[19]ていること。- 「
魏 志 倭人 伝 」の記述 は北部 九州 の小国 を紹介 する一方 で、畿内 説 が投 馬 国 に比定 する近畿 以西 の道程 に存在 したはずの有力 な吉備 国 や出雲 国 などの仔細 には全 く触 れられておらず、伊都 国 から近畿 圏 まで含 む道程 の記述 が全 く欠 けていること。 - 「
古事記 」、「日本書紀 」には、天皇 による熊 襲 討伐 など九州 征伐 が記載 されており、4世紀 前期 から中期 の大王 と推定 される景 行 天皇 の頃 までは北九州 が大和 王権 の勢力 圏外 にあったと国内 史料 からは読 み取 れる。ただし、考古学 的 には3世紀 の時点 で北九州 が大和 王権 の勢力 圏 にあった可能 性 が高 いため、これらの記述 の信憑 性 には疑問 がある。 - 「
魏 志 倭人 伝 」には邪馬台国 は伊都 国 や奴 国 より南 にあるとする記述 が三 箇所 あり、また会 稽東冶の東 (緯度 的 にはほぼ沖縄 県 に一致 する)にあるとしていること。また諸国 を統率 する一大 率 が伊都 国 におかれたとしていること。
九州 説 [編集 ]
邪馬台国 は伊都 国 の南 にあると三 回 書 かれている。帯 方 郡 から女王 國 までの12,000里 のうち、福岡 県内 に比定 される伊都 国 までで既 に10,500里 使 っていることから、残 り1,500里 (佐賀 県 唐津 市 に比定 される末 盧 國 から伊都 國 まで500里 の距離 の3倍 )では短 里 説 をとれば邪馬台国 の位置 は九州 地方 北部 にかぎられること[注釈 18]。福岡 県 久留米 市 には、宝 賀 寿男 など複数 の研究 者 が『魏 志 倭人 伝 』に記載 される「卑弥呼 の塚 」と規模 や副葬品 、石棺 はあるが槨が無 いこと、石棺 に朱 が塗 られていることなど主体 部 の形式 がよく一致 する[20]祇園山 古墳 がある。- 『
魏 略 』には投 馬 国 も水 行 陸行 の記事 も存在 せず、また里数 記事 において末 廬 国 から伊都 国 への行程 記事 が不自然 であることから、水 行 陸行 の記事 が後世 の加筆 と見 られる。 卑弥呼 の墓 について倭人 伝 は「大 いに冢を作 る」とあり、冢はしばしば墳丘 のない墓 を指 すところ、北九州 には墳丘 がない環 濠 集合 墓 が多数 見 つかっている。古代 中国 には、軍事 報告 書 を「実際 の距離 を正確 に10倍 して記載 する」「露 布 」という慣習 があった。魏 志 倭人 伝 は魏 呉 蜀 三 国 時代 の史書 なので、当時 の一 里 は459m。行政 機関 と軍事 拠点 を兼 ねた帯 方 郡 の情報 を元 に書 かれたと推定 される魏 志 倭人 伝 は、露 布 で千里 と記 されていても、実際 の距離 はその1/10の45.9Kmであった可能 性 がある。この距離 は九州 と一致 する[注釈 19]。したがって、魏 志 倭人 伝 の里 の距離 は、古代 中国 の文献 に明記 される露 布 慣習 で説明 できる。
九州 説 論 者 の間 でも邪馬台国 やその他 の国々 の比定 地 に統一 的 な見解 がなく、一言 に九州 説 と言 っても多 くの異 なる説 の総称 でしかないこと。魏 から女王 たちに贈 られた品々 や位 が、西 の大月 氏 国 に匹敵 する最恵国 への待遇 であること。畿内 の古墳 築造 の開始 時期 を、3世紀 にまで繰 り上 げるのが近年 の通説 であること。- 3
世紀 の紀年 鏡 をいかに考 えるべきかという点 。はやくから薮田 嘉一郎 や森 浩一 は、古墳 時代 は4世紀 から始 まるとする当時 の一般 的 な理解 にしたがって、「三角縁神獣鏡 は古墳 ばかりから出土 しており、邪馬台国 の時代 である弥生 時代 の墳墓 からは1枚 も出土 しない。よって、三角縁神獣鏡 は邪馬台国 の時代 のものではなく、後 のヤマト王権 が邪馬台国 との関係 を顕示 するために偽作 したものであり、事実 中国 では三角縁神獣鏡 は殆 ど出土 していない」とする見解 を表明 し、その後 の九州 論 者 はほとんどこのような説明 に追随 している。 九州 説 論 者 の見解 では、いわゆる「卑弥呼 の鏡 」は後 漢 鏡 であるとするが、弥生 時代 の北九州 遺跡 から集中 して出土 する後 漢 鏡 は主 として1世紀 に編 年 され、卑弥呼 の時代 には届 かないこと。祇園山 古墳 は方墳 であること。
東遷 説 [編集 ]
倭国 大乱 で東遷 したという説 [編集 ]
卑弥呼 と壹 與 の間 に東遷 したという説 [編集 ]
邪馬台国 時代 の後 に東遷 したという説 [編集 ]
その他 の説 [編集 ]
四国 説 [編集 ]
存在 しなかったという仮説 [編集 ]
これは、
越 前説 [編集 ]
2
712
フィクション[編集 ]
フィクションの
横光 利一 の小説 「日輪 」(1923年 )では、具体 的 な地理 は出 てこないが、卑弥呼 は元々 不 弥 国 (本 作 では「うみ」とルビで宇美 を示唆 )の出身 で、奴 国 との抗 争 の結果 、耶馬台 (「やまと」とルビ)に行 ったとされている。これら三 国 はお互 いにすぐに攻 め込 める程度 の距離 関係 として描 かれている(船 に乗 ったりする描写 はない)。奴 国 は考古学 上福岡 に比定 されている国 である。手塚 治虫 の漫画 『火 の鳥 黎明 編 』(1967年 )は邪馬台国 を舞台 としている。卑弥呼 を連想 させるキャラクターも登場 する。邪馬台国 は九州 にある倭 の大国 (火 の鳥 が棲 む火 の山 が九州 にあり、海 を渡 る描写 もある)だったが、卑弥呼 の死後 に大陸 から渡 った騎馬 民族 が滅 ぼしその後 日本 を支配 した。当時 、一般 に強 い影響 を与 えた騎馬 民族 征服 王朝 説 に立 ち、騎馬 民族 の長 のニニギが後 の皇室 の始祖 と解釈 している。この漫画 は『火 の鳥 』のタイトルで1978年 に実写 映画 化 された。監督 は市川 崑 、主演 は高峰 三枝子 。- 1974
年 に篠田 正浩 監督 、岩下 志麻 主演 による映画 『卑弥呼 』が制作 された。映画 に出 る火口 は阿蘇 を思 わせるが撮影 は吾妻小富士 で行 われた。映画 の最後 では近畿 の古墳 群 が撮影 されるなど、九州 説 と畿内 説 の両方 が暗示 されている。 安彦 良和 の漫画 『ナムジ』(1989年 -1991年 )は、ナムジ(おおなむち、すなわち大 国主 )を主人公 に神話 を独自 解釈 した作品 。邪馬台国 は九州 にあり、スサノオ率 いる強国 出雲 と敵対 している。卑弥呼 は天 照 大神 に比定 されている。続編 の『神武 』(1992年 -1995年 )は、卑弥呼 の孫 のイワレヒコが(政略 結婚 のため)畿内 へ東征 しヤマト王権 の祖 となる東遷 説 を採 っている(市井 の古代 史 研究 者 である原田 常治 の著書 の影響 を大 きく受 けている[54][55])。星野 之 宣 による漫画 『ヤマタイカ』(1986年 -1991年 )および『宗像 教授 異 考 録 』第 2集 第 2話 :『割 られた鏡 』(2005年 )では、九州 ・甘木 と畿内 ・奈良 、そして九州 ・日向 と畿内 ・熊野 の地名 相似 をひとつのキーワードとして、邪馬台国 の場所 は九州 説 、そして東遷 説 (甘木 →阿蘇 平野 →日向 →熊野 →大和 )を採用 している。また、「火 」をもうひとつのキーワードとして、卑弥呼 (火 を司 る巫女 の女王 )-天照大御神 (太陽 神 )-伊 邪 那 美 (火山 神 )の三 者 を同一 の存在 としている。作 ・寺島 優 、画 ・藤原 カムイによる漫画 『雷火 』(1987年 -1997年 )は、邪馬台国 の乗 っ取 りを図 る張 政 (魏 から派遣 された役人 )とライカたちとの神仙 術 を駆使 した戦 いを描 く作品 。邪馬台国 の場所 は九州 説 を採用 している。矢吹 健 太朗 による漫画 『邪 馬 台 幻想 記 』(1998年 -1999年 、連載 前 の読 みきり分 を含 む)。卑弥呼 亡 き後 、その意思 を継 ぎ倭国 統一 を目指 していた壱 与 (台 与 )と、国王 を暗殺 し国 を滅 ぼす「国 崩 し」を行 っていた少年 、紫苑 との出会 いと触 れ合 い、壱 与 を亡 き者 にしようと企 む敵 との戦 いを描 いている。短期 打 ち切 りのためさまざまな謎 を残 したまま唐突 な終 わり方 をしている。邪馬台国 の場所 は九州 説 を採用 している。都築 和彦 による漫画 『IZUMO』および『やまとものがたり』では九州 説 を採用 している。推敲 堂 著 :倭 といふ国 の物語 副題 :歩 むべき道 の彼方 に(Independently published(アマゾン)ISBN-13:979-8847832014)長崎 県 、佐賀 県 、福岡 県 の、九州 北部 を舞台 に、倭国 大乱 から女王 卑弥呼 が登場 するまでを描 いた歴史 小説 。「歴史 は繰 り返 す」をテーマに、さまざまな史実 やい伝 えを取 り込 んで描 かれた作品 。平岡 陽明 による小説 『眠 る邪馬台国 』では、新聞 社 の古代 史 担当 記者 である叔父 をワトソン役 に、主人公 である天才 学者 (夢 の研究 者 )が、魏 志 倭人 伝 を読 み解 き九州 説 と畿内 説 を比較 しながら邪馬台国 の謎 に迫 っている。
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
又 問 耶馬臺 耶摩堆 之 号 若 各 有心 哉?答 師 説 雖有三 号 、其義不 異 。皆 取 称 倭 之 音 也。(釈 紀 第 一 開題 ) - ^ 『
外国 之 事 調書 』新井 白石 。ただし未 公刊 の草稿 であることから、流布 した経緯 は不 詳 。 - ^ ただし、
郡 とは景 初 2年 (238年 )の8月 23日 に公孫 淵 が殺 された時期 に、魏 が回復 した朝鮮 中部 の帯 方 郡 と考 えられる、『三国志 魏 書 』の倭人 伝 にも帯 方 郡 の記述 しかなく韓 伝 にも「倭 韓 遂 屬 帶 方 」とあり、楽 浪 郡 あるいは玄 菟 郡 などの可能 性 はほとんどない。 - ^
先 に詳細 が記 されている奴 国 と同一 とする説 がある。 - ^ この
場合 の「大倭 」とは倭人 の中 の大人 (首長 )の意 とする説 、邪馬台国 が任命 派遣 した官 とする説 、大和 朝廷 のこととする説 などがある。 - ^
古田 武彦 の説 では「使 大倭 」の3文字 で一 つの官 名 とする。 - ^
刺史 は大 きな行政 単位 である州 の巡察 官 のこと - ^ この
戦乱 は、原文 では「倭国 乱 」だが、魏 志 倭人 伝 に基 づいたとされる後 漢書 東夷 伝 では「倭国 大乱 」と「大 」の字 を付加 して書 かれている。また後代 の史料 になるが梁 書 ではこの戦乱 を漢 の霊 帝 の光和 年間 のこととしている。ただしこれは梁 書 が107年 の倭国 王 帥 升 をここでいう男 王 に同定 して机上 で算出 した年代 にすぎず、光和 年間 説 には史料 的 はないとする説 (『新版 ・魏 志 倭人 伝 』講談社 1986山尾 幸久 )もある。 - ^
政治 を補佐 していたという弟 とは別人 とする説 と同 一人物 とする説 とがある。 - ^
卑弥呼 の「鬼道 」についての解釈 としてはシャーマン説 、五斗米 道 (道教 の源流 の一 つ)と関係 があるとする説 、五斗米 道 ではなく「邪 術 」とする説 などがある。以上 の諸説 は、いずれの説 をとるにしろ、社会 学的 には呪術 カリスマの概念 でとらえるものである。 - ^
呪術 カリスマと見 ない説 としては「鬼道 」をありふれた漢語 として単 に祖先 祭祀 の意 とする説 や、当時 の中国 の文献 では儒教 にそぐわない体制 を「鬼道 」と表現 している用法 があることから単 に儒教 的 価値 観 にそぐわない政治 体制 であることを意味 するという説 もある。 - ^
後 の推古天皇 と聖徳太子 との関係 が例 として挙 げられる。一方 で、卑弥呼 が閉 じこもって祭祀 のみ行 い、実際 の政治 を男 弟 に委 ねていたとする説 に対 しては、『日本書紀 』の記述 ではワカタケル(雄略天皇 )も呉 からの使者 に面会 しておらず、また稲荷山 古墳 出土 鉄 剣 にも、豪族 ヲワケがワカタケルを(男 弟 が卑弥呼 に対 したように)「左 治 」したとあることから、卑弥呼 はワカタケルと同質 の王 であったとの反論 がある(義江 2018, pp. 92, 98, 100)。 - ^ この
景 初 2年 6月 (司馬 懿が遼東 の公孫 淵 攻撃 のため出発 した月 )は『梁 書 』と『日本書紀 』引用 文 では翌年 の景 初 3年 になっている。2年 だと未 だ帯 方 郡 は公孫 淵 の支配 下 で遣 使 は困難 であることから3年 説 がやや有力 ではあるが確定 的 ではない。2年 説 を支持 する根拠 としては、卑弥呼 の遣 使 は2人 で貢物 が奴婢 10人 布 2匹 2丈 と、かつての奴 国 の貢物 奴婢 160人 と比 べて粗末 なものにも拘 らず魏 が邪馬台国 を厚遇 しているのは、公孫 氏 政権 からいち早 く魏 に乗 り換 えた事 の功績 が認 められた為 という観点 から、公孫 氏 政権 滅亡 直前 の景 初 2年 の遣 使 が正確 であるという説 (古田 武彦 『「邪馬台国 」はなかった』角川 文庫 1977年 )や、「魏 志 は倭人 伝 の前 の東夷 伝 前半 で、魏 の毌丘倹の軍隊 が沿海州 から朝鮮半島 の日本海 側 の玄 菟 郡 故 府 方面 に遠征 していたことを語 り、その記事 の延長線 上 に倭人 伝 が書 かれているため、朝鮮 の西側 の帯 方 郡 と逆 の東海岸 に遣 使 した可能 性 があり、この場合 、遣 使 困難 とは言 えない」という説 、『日本書紀 』引用 文 では3年 としながら明 帝 ともあって矛盾 しており3年 が実 は2年 の誤記 という方 が明 帝 を誤写 で書 き入 れたという想定 よりは容易 であるとの説 、などがある。 - ^
現存 する版本 は全 て宋 (王朝 )以後 のものである。隋 書 では「邪 靡堆」と国 ではなく地域 となっていることにも注意 すべきであろう。 - ^
那珂 通世 は神功 皇后 と卑弥呼 を同 一人物 とするこの日本書紀 の記述 を否定 する。市村 其三郎 は『卑弥呼 は神功 皇后 である』(新人物往来社 、1972年 )を著 している。 - ^
岡田 英弘 の説 。『後 漢書 』によると洛陽 から大月 氏 まで16,370里 で洛陽 から帯 方 郡 までが5,000里 である。よって帯 方 郡 から邪馬台国 までは最短 でも11,370里 以上 はないと洛陽 からの距離 が同等 もしくはそれ以上 にならないので、12,000里 に設定 された説 。 - ^
後者 の東遷 説 は神武 東征 をその事実 の反映 と見 る立場 が多 いが、『隋 書 』の記述 がすでに現存 する記紀 神話 とは相当 異 なっている可能 性 があるとして、神話 を根拠 とすることは受 け入 れがたいとする意見 もある。神武 東征 とは関係 ないとする説 もある。 - ^
三宅 米吉 は、12,000里 は里程 のわかっている不 弥 国 までの距離 であるとし、山田 孝雄 は、これは一部 不明 のところのある現実 の距離 をあわせたものではなく、単 に狗 邪 韓国 までの7,000里 と倭 地 の周旋 5,000里 を合算 したものに過 ぎないとする。九州 王朝 説 を唱 えた古田 武彦 は、「正確 を期 するため同 じ行程 を距離 と掛 かる日数 とで二 重 に標記 している」とする読 み方 を提唱 している。 - ^
報告 書 は全 て軍事 報告 書 として書 かれたと推定 する。実際 、魏 志 倭人 伝 には、釜山 から対馬 、対馬 から壱岐 、壱岐 から九州 北岸 がそれぞれ千 余 里 と記 されているが、最短 渡海 距離 で考 えれば、釜山 南端 から対馬 北端 まで約 50Km、対馬 南端 から壱岐 北端 まで約 50Km、壱岐 南端 から九州 北岸 (糸島半島 の付 け根 )まで約 50Kmなので、露 布 で「正確 に10倍 した千 余 里 」にほぼ合致 する
出典 [編集 ]
- ^ 『
三国志 』魏 書 東夷 伝 序文 - ^
森 博 達 「倭人 伝 の地名 と人名 」(『日本 の古代 1、倭人 の登場 』、中央公論社 、1985) - ^ ただし、『
三国志 』には「臺 獄 」という表記 や死体 を積 み上 げた塚 を「臺 」としている例 があることから、これに反対 する説 もある。 - ^ Bentley 2008, p. 11
- ^
世界 大 百科 事典 『一大 率 』 - コトバンク - ^ 『
訓読 日本書紀 .中 』黒板 勝美 岩波書店 p.128 (国立 国会図書館 ) - ^
岡本 健一 『邪馬台国 論争 』(講談社 選書 メチエ、1995年 )p89に引 く岡田 英弘 の説 - ^
邪馬台国 論争 が再 び白熱 「九州 説 」派 巻 き返 し -日本経済新聞 - ^ 「
邪馬台国 はどこにあったのか」考古 学界 で優位 の近畿 説 に反論 九州 説 の「逆襲 」相次 ぐ理由 は |毎日新聞 - ^
吉野 ヶ里 遺跡 “謎 エリア”の墓 から赤 い顔料 、有力 者 であれば邪馬台国 につながる発見 の可能 性 も | TBS NEWS DIG (1ページ) - ^ 「
邪馬台国 の方位 について」(『オリエンタリカ』1、1948年 8月 ) - ^ 『「
邪馬台国 」はなかった』 - ^
孫 栄 健 『邪馬台国 の全 解決 』六興 出版 よってこの説 では里数 は5倍 でなく10倍 になっているとする。 - ^ 『
魏 志 倭人 伝 の謎 を解 く三国志 から見 る邪馬台国 』中公新書 2012渡邉 義浩 - ^ 『
纏 向 :奈良 県 桜井 市 纒 向 遺跡 の調査 』(奈良 県立 橿原考古学研究所 編 1976)など - ^ 『
日本 列島 における国家 形成 の枠組 み』寺澤 薫 (纏 向学 研究 センター研究 紀要 2013所収 )など - ^
寺澤 前掲 など、 - ^
羽 黒熊 鷲 「三角縁神獣鏡 魏 鏡 説 の否定 と古墳 編 年 大系 の見直 し」『古 樹 紀之 房間 』、年 。 - ^
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年 に刊行 された「邪馬台国 」、日向 起源 説 。 - ^ 『
国家 の誕生 』 - ^ 1960
年 に刊行 された「日本 の歴史 1神話 から歴史 へ」の中 で邪馬台国 の東遷 が最 も自然 な解釈 とした。 - ^ 「
新 邪馬台国 論 ―女王 の鬼道 と征服 戦争 ―」『歴史 における政治 と民衆 』1986年 、「親 魏 倭 王 印 とその歴史 的 背景 」『日本 印章 史 の研究 』雄山閣 、2004年 ) - ^ 『
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解 きあかす古代 史 の謎 !ついに発見 !!幻 の国 ・皇祖 の地 高天原 」 - ^ 『
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原田 実 『トンデモ日本 史 の真相 と学会 的 偽 史学 講義 』文芸 社 、2007年 6月 。ISBN 978-4-286-02751-7。 - ^ 『ナムジ』
第 1巻 著者 あとがき。
参考 文献 [編集 ]
邪馬台国 論争 関連
宝 賀 寿男 「卑弥呼 の冢補論 -祇園山 古墳 とその周辺 -」『季刊 ・古代 史 の海 』第 26巻 、「古代 史 の海 」の会 、2001年 12月 20日 、62-96頁 、ISSN 13415522、NAID 40005104602。- John R. Bentley (2008). The Search for the Language of Yamatai .
佐伯 有 清 『邪馬台国 論争 』岩波 新書 、2006年 、ISBN 4004309905 -著者 の遺著 、ほかにも関連 書籍 を吉川弘文館 で数 冊 出 している。真野 和夫 『邪馬台国 論争 の終焉 』 、2009年 、大分 県 教育 委員 会 に長年 勤務 、考古学 に携 わってきた著者 が退職 記念 として、邪馬台国 に対 して自 らの見解 をまとめ、自費 出版 した。邪馬台国 研究 大会 『公式 記録 DVD』 ジャパンライム、2011年 、JAN 4562301590100 -石原 洋三 郎 『邪馬台国 』2019年 (令 和 元年 )10月 第一印刷 -魏 志 倭人 伝 、さらには北 史 や南 史 などの中国 正史 を活用 した形 で邪馬台国 の所在地 を熊本 県 の阿蘇山 に確定 できると述 べている。
- その
他
義江 明子 『つくられた卑弥呼 ――〈女 〉の創出 と国家 』筑摩書房 〈ちくま学芸 文庫 〉、2018年 (原著 2005年 )。奥山 ,誠 義 「ホケノ山 古墳 中心 埋葬 施設 から出土 した木材 の14C年代 測定 」『ホケノ山 古墳 の研究 』橿原考古学研究所 、2008年 11月、191-192頁 。ISBN 9784902777611。 NCID BA89391331。岡林 ,孝作 、水野 ,敏典 、北山 ,峰 生 「実年 代 について」『ホケノ山 古墳 の研究 』橿原考古学研究所 、2008年 11月、289-291頁 。ISBN 9784902777611。 NCID BA89391331。