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たかしかみ天皇てんのう

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たかしかみ天皇てんのう
歴代れきだいひゃく廿にじゅういち天皇てんのう尊影そんえい』より「たかしかみ天皇てんのう

在位ざいい期間きかん
たかしかみ天皇てんのう元年がんねん1がつ13にち - どう68ねん12月5にち
時代じだい 伝承でんしょう時代じだい古墳こふん時代じだい
先代せんだい 開化かいか天皇てんのう
次代じだい たれじん天皇てんのう

誕生たんじょう 開化かいか天皇てんのう9ねんまたは10ねん
崩御ほうぎょ たかしかみ天皇てんのう68ねん 120さい
りょうしょ 山邊やまべみち勾岡じょうりょう
かんふう諡号しごう たかしかみ天皇てんのう
和風わふう諡号しごう あいだじょうにゅう彦五じゅう瓊殖天皇てんのう
いみな あいだじょうにゅう彦尊
別称べっしょう はじめこく天皇てんのう眞木まき入日いりひしるしめぐみいのちところともはつくに眞木まき天皇てんのうまん天皇てんのう
父親ちちおや 開化かいか天皇てんのう
母親ははおや 伊香いかしょくなぞいのち
皇后こうごう あいだじょうひめこうもと天皇てんのう皇孫こうそん
子女しじょ たれじん天皇てんのう彦五じゅうせまかやいのちくにかたひめいのち千千ちじ衝倭ひめいのちやまと彦命じゅうにちづる彦命豊城とよきにゅう彦命ゆたか鍬入くわいれひめいのち大入おおいりきねいのち八坂やさかにゅう彦命渟名じょうにゅうひめいのちじゅう瓊入ひめいのち
皇居こうきょ 磯城しき瑞籬みずがきみや
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たかしかみ天皇てんのう(すじんてんのう、きゅう字体じたいたかししん󠄀天皇てんのう開化かいか天皇てんのう9ねんまたは10ねん[ちゅう 1] - たかしかみ天皇てんのう68ねん12月5にち[1])は、日本にっぽんだい10代天皇てんのう在位ざいいたかしかみ天皇てんのう元年がんねん1がつ13にち - どう68ねん12月5にち)。『日本書紀にほんしょき』でのは、あいだじょうにゅう彦五じゅう瓊殖天皇てんのう(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。祭祀さいし軍事ぐんじ内政ないせいにおいてヤマト王権おうけん国家こっか基盤きばんととのえたとされるはじめこく天皇てんのうはつくにしらすすめらみこと実在じつざいした可能かのうせいのある最初さいしょ天皇てんのう[2]とするせつがあり、考古学こうこがくじょう実在じつざいしたとすれば治世ちせい時期じきは3世紀せいき後半こうはんから4世紀せいき前半ぜんはん推定すいていされるが、近年きんねん発掘はっくつすすまといこう遺跡いせきとの関係かんけいからその存在そんざい注目ちゅうもくたかまっている天皇てんのう一人ひとりである。

略歴りゃくれき

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やや日本にっぽん根子ねっこ彦大日日ひび天皇てんのう開化かいか天皇てんのう)のだい皇子おうじはは伊香いかしょくなぞいのち(いかがしこめのみこと)でのち物部ものべ系譜けいふつらなる。異母いぼけいに彦湯さんすみいのち迦具よるうりいのち)。異父いふけい彦太しのぶしんいのちいわひめ)。異母弟いぼてい彦坐おう神功じんぐう皇后こうごう)。『古事記こじき』は同母どうぼいもうととしてきさき同名どうめいしんうりいのちしるす。19さい皇太子こうたいしとなる。

ちちみかど崩御ほうぎょした翌年よくねんの1がつ13にち即位そくい。2月16にち従妹じゅうまいあいだじょうひめ皇后こうごうとし、かつみことたれじん天皇てんのう)ややまと彦命らをた。即位そくい5ねんから7ねんにかけて疫病えきびょう流行りゅうこうしたが、大物おおもの主神しゅしんなどのかみ々をまつることでおさめた。即位そくい10ねんたけはに安彦やすひこ(たけはにやすびこ、こうもと天皇てんのう皇子おうじ)の反乱はんらんしずめ、よんみち将軍しょうぐん各地かくち派遣はけんした。即位そくい12ねん戸口とぐち調査ちょうさしてはじめてやくしたことではじめこく天皇てんのうとなえられている。即位そくい65ねんにんから朝貢ちょうこうがあった。即位そくい68ねん崩御ほうぎょ

  • あいだじょうにゅう彦五じゅう瓊殖天皇てんのう(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀にほんしょき
  • あいだじょう天皇てんのう(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀にほんしょき
  • あいだじょうにゅう彦尊(みまきいりひこのみこと) - 『日本書紀にほんしょき
  • はじめこく天皇てんのう(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀にほんしょき
  • 眞木まき入日いりひしるしめぐみいのち(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記こじき
  • ところともはつくに眞木まき天皇てんのう(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記こじき』 
  • まん天皇てんのう(みまきのすめらみこと) - 『常陸ひたちこく風土記ふどき

かんふう諡号しごうである「たかしかみ天皇てんのう」は、代々だいだい天皇てんのう同様どうよう奈良なら時代じだい淡海三船おうみのみふねによってせんしんされた。

事績じせき

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疫病えきびょう祭祀さいし

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即位そくい3ねん三輪山みわやま西麓にしふもと瑞籬みずがきみや(みずかきのみや)にうつした。

即位そくい4ねんみことのりはっして万世ばんせい一系いっけいうたった。

即位そくい5ねん疫病えきびょう流行りゅうこうして人口じんこうなかばがうしなわれた。祭祀さいし疫病えきびょうおさめようとした天皇てんのう翌年よくねんてんあきら大神おおがみやまと大国たいこくたましいしん宮中きゅうちゅうそとすことにした。てんあきら大神おおがみゆたか鍬入くわいれひめいのちたくして笠縫かさぬい現在げんざい檜原ひばる神社じんじゃ)にまつらせた[3][ちゅう 2]やまと大国たいこくたましいしんは渟名じょうにゅうひめいのちたく長岡ながおかみさき[ちゅう 3]まつらせた。しかし渟名じょうにゅうひめ身体しんたいほそってやまと大国たいこくたましいしんまつることが出来できなかった。

即位そくい7ねん、「むかし皇祖こうそおおいに聖業せいぎょうたかくにもりであったのに、ちんになり災害さいがいおおい。その所以ゆえんかめぼくにて見極みきわめよう。」とみことのりして、かみ浅茅あさじばらこうしてはちひゃくまんかみあつめてうらなった。するとやまと迹迹ひゃくかさねひめいのち大物おおもの主神しゅしんうつって自分じぶんまつるよう託宣たくせんした。かみおしえのままに祭祀さいしおこなったが霊験れいけんがなかった。そこで天皇てんのう沐浴もくよく斎戒さいかいして宮殿きゅうでんなかきよめて、「ねがいわくばゆめおしえて、かみおんしめしてほしい」といのった。するとそのよるゆめ一人ひとり貴人きじんあらわみずか大物おおもの主神しゅしんしょうして「もし大田おおた根子ねこを以ってまつればたちどころに平安へいあんとなる。」とげた。つづいてやまと迹速かみ浅茅あさじ原目はらめみょうひめだい水口みずぐち宿禰すくね穂積ほづみしん遠祖えんそ)・伊勢いせ麻績おみくんさんにんがともにおなゆめて、大物おおもの主神しゅしんやまと大国たいこくたましいしん大和やまと神社じんじゃ祭神さいじん)の祭主さいしゅをそれぞれ大田おおた根子ねっこいそ長尾ながお(いちしのながおち)にせよという神託しんたくけた。そこで天皇てんのうはおじの伊香いかしょくゆうめいじて物部ものべはちじゅうひら瓮(やそひらか)をつくらせ、大物おおもの主神しゅしんとも子孫しそんともわれる大田おおた根子ねっこさがして大物おおもの主神しゅしんまつ神主かんぬしとした。三輪山みわやま神体しんたいとする大神神社おおみわじんじゃはじまりである。またいそ長尾ながおやまと大国たいこくたましいしんまつ神主かんぬしとし、はちじゅうまん(やそよろず)のぐんしんまつった。すると疫病えきびょう終息しゅうそくして五穀豊穣ごこくほうじょうとなった。

即位そくい8ねんかつ(いくひ)というもの大神おおがみてのひらしゅ(さかびと)とした。そしてかつ神酒みきささげてうたみ、つづけてしょ大夫たいふ役人やくにん)と天皇てんのうもそれぞれうたんだ。

此の神酒みき神酒みきならず 日本にっぽん大物おおものぬしの 釀みし神酒みき 幾久いくひさ 幾久いくひさかつ
味酒みさけ さんりん殿しんがりちょうもんにも でてかな さんりん殿しんがりもんを(しょ大夫たいふ
味酒みさけ さんりん殿しんがりちょうもんにも ひらかね さんりん殿しんがりもんを(たかしかみ天皇てんのう

即位そくい9ねん天皇てんのうかみゆめあらわれたとしょう大和やまとこくひがしすみすみざかかみあかたてほこ西にしすみ大坂おおさかかみくろい(『古事記こじき』では墨色すみいろたてほこをもってまつった[ちゅう 4]。『古事記こじき』ではこれにつづいてすべてのさかかみかみに、文字通もじどおすみからすみまで幣帛へいはくたてまつって疫病えきびょう終息しゅうそくしたとしている。

よんみち将軍しょうぐん

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即位そくい10ねんよんみち将軍しょうぐん派遣はけんして全国ぜんこく教化きょうかすると宣言せんげんした。だい彦命北陸ほくりくどうに、たけ渟川べつ東海道とうかいどうに、吉備津きびつ西道さいどうに、丹波たんばみち主命しゅうめい丹波たんば山陰さんいんどう)に将軍しょうぐんとしてつかわししたがわないものを討伐とうばつさせることとなった。しかし北陸ほくりく出発しゅっぱつしただい彦命は珥坂(わにのさか、奈良ならけん天理てんり)であらわれた不思議ふしぎ童女どうじょから不吉ふきつうたくことになる。

真木まき入日いりひはや おのれいのちころせむと 竊まくらに ひめゆうすも
だい城戸きどより 窺ひて ころせさむと すらくをらに ひめゆうすも

かえして報告ほうこくしたところ、やまと迹迹ひゃくかさねひめいのちがさらに詳細しょうさい予言よげんおこなった。その結果けっかたけはに安彦やすひこ(たけはにやすびこ、こうもと天皇てんのう皇子おうじ)が謀反むほんこそうとしていることがわかった。叛乱はんらん露見ろけんしたたけはに安彦やすひこやまから、つまわれひめ大坂おおさかからともに襲撃しゅうげきしようとした。天皇てんのうは五十狭芹彦命(吉備津きびつ彦命)をつかわしてわれひめぜいむかち、一方いっぽうたけはに安彦やすひこぜいにはだい彦命と彦国葺(ひこくにぶく、かず珥氏)をかわせてやぶった。叛乱はんらん終息しゅうそくよんみち将軍しょうぐんさい出発しゅっぱつし、翌年よくねん帰還きかんしてえびすえびすしたがわせたことを報告ほうこくした。また北陸ほくりくどうすすんだだい彦命と東海道とうかいどうすすんだたけ渟川べつ親子おやこ合流ごうりゅうした土地とち相津そうづ会津あいづ)という。

はじめこく天皇てんのう

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即位そくい12ねん戸口とぐち調査ちょうさしてはじめてやくした。この偉業いぎょうをもってはじめこく天皇てんのうはつくにしらすすめらみこと)ととなえられている。『古事記こじき』には天下てんか統一とういつして平和へいわ人民じんみんゆたかでしあわせにらすことが出来できるようになり、その御世みよとなえてはじめてくにおさめた真木まき天皇てんのうところともはつ国之くにゆき真木まき天皇てんのう」とう、とある。

即位そくい17ねん献上けんじょうひんはこむためのふねつくらせた。

即位そくい48ねん豊城とよきいのちかつみことんでゆめうらないをおこなおとうとかつみこと皇太子こうたいしとした。あに豊城とよきいのちには東国とうごくおさめさせた。

即位そくい62ねん灌漑かんがい事業じぎょうおこなってもう(よさみのいけ、大阪おおさか住吉すみよし)やけい奈良ならけん高市たかいちぐん)の酒折さかおり(さかをり)いけなどをひらおおいに農業のうぎょう便びんはかったとつたえられる。

即位そくい65ねんにん使者ししゃとして曷叱(そなかしち)をつかわしてきた。戔嗚みことしんてんったというつてのぞけば『日本書紀にほんしょき』においてはじめての朝鮮半島ちょうせんはんとう関連かんれん記録きろくである[ちゅう 5]

即位そくい68ねん崩御ほうぎょ曷叱かつみことたれじん天皇てんのう)の即位そくい2ねんにん帰国きこくしたが、そのさい天皇てんのうからの下賜かしひんしんうばわれてしまった。『日本書紀にほんしょき』におけるにんしんこうそうはここからはじまる。

系譜けいふ

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系図けいず

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10 たかしかみ天皇てんのう
 
彦坐おう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城とよきにゅう彦命
 
11 たれじん天皇てんのう
 
丹波たんばみち主命しゅうめい
 
山代やましろ大筒おおづつわかおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うえ
下毛しもげ
 
12 けいぎょう天皇てんのう
 
やまとひめいのち
 
迦邇まいかみなりおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽんたけたかし
 
13 なりつとむ天皇てんのう
 
いきちょう宿禰すくねおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう
 
 
 
 
 
神功じんぐう皇后こうごう
仲哀ちゅうせつたかし皇后こうごう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇おうじんてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇にんとくてんのう
 
うさぎどうやや郎子いらつこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やや野毛のげ皇子おうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇りちゅうてんのう
 
18 はんせい天皇てんのう
 
19 允恭天皇いんぎょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とみとみおう
 
しのぶ坂大ばんだい中姫なかひめ
允恭天皇いんぎょうてんのうきさき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺いちのべ押磐皇子おうじ
 
木梨軽皇子きなしのかるのみこ
 
20 安康天皇あんこうてんのう
 
21 雄略天皇ゆうりゃくてんのう
 
 
 
 
 
乎非おう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ
 
24 仁賢天皇にんけんてんのう
 
23 顕宗けんそう天皇てんのう
 
22 せいやすし天皇てんのう
 
春日かすがだいむすめ皇女おうじょ
仁賢天皇にんけんてんのうきさき
 
彦主じんおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しろ皇女おうじょ
つぎたい天皇てんのうきさき
 
25 たけれつ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 つぎたい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃こうひ皇子おうじおんな

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年譜ねんぷ

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日本書紀にほんしょき』のつたえるところによれば、以下いかのとおりである[4]機械きかいてき西暦せいれきえた年代ねんだいについては「上古じょうこ天皇てんのう在位ざいいねん西暦せいれき対照たいしょうひょう一覧いちらん」を参照さんしょう

  • 開化かいか天皇てんのう9ねんまたは10ねん
    • 誕生たんじょう
  • 開化かいか天皇てんのう28ねん
    • 1がつ、19さい皇太子こうたいしてられた。
  • たかしかみ天皇てんのう元年がんねん
  • たかしかみ天皇てんのう3ねん
  • たかしかみ天皇てんのう5ねん
    • 疫病えきびょう流行はやり、おおくの人民じんみんんだ。
  • たかしかみ天皇てんのう6ねん
  • たかしかみ天皇てんのう7ねん
  • たかしかみ天皇てんのう8ねん
    • 4がつ高橋たかはし邑のかつ大神おおがみてのひらしゅにした。
    • 12月、大物おおものぬし祭祀さいしことして神酒みきささげた。
  • たかしかみ天皇てんのう9ねん
    • 4がつぼくざかかみ大坂おおさかかみまつった。
  • たかしかみ天皇てんのう10ねん
  • たかしかみ天皇てんのう11ねん
    • 4がつよんみち将軍しょうぐんえびすえびすしたがわせて帰参きさん、そのよう奏上そうじょうした。
  • たかしかみ天皇てんのう12ねん
    • 9月、戸口とぐち調査ちょうさし、やくした。天下てんか平穏へいおんとなり、天皇てんのうはじめこく天皇てんのうとなえられた。
  • たかしかみ天皇てんのう17ねん
    • 10月、献上けんじょうひんはこばせるためのふねつくった。
  • たかしかみ天皇てんのう48ねん
    • 4がつかついのち皇太子こうたいしとした。
  • たかしかみ天皇てんのう60ねん
  • たかしかみ天皇てんのう62ねん
    • 10月、もう造成ぞうせい
    • 11月、かりざかはんおり造成ぞうせい
  • たかしかみ天皇てんのう65ねん
  • たかしかみ天皇てんのう68ねん
    • 12月、崩御ほうぎょ宝算ほうさん120さい(『古事記こじき』ではつちのえとらとし12がつ聖寿せいじゅ168さい崩御ほうぎょ)。
  • たれじん天皇てんのう元年がんねん
    • 10月、山邊やまべみち勾岡じょうりょうほうむられた。
  • たれじん天皇てんのう2ねん
    • 曷叱にん帰国きこくしん下賜かしひんうばわれた。
たかしかみ天皇てんのう
磯城しき瑞籬みずがきみや阯碑
奈良ならけん桜井さくらい

みや皇居こうきょ)の名称めいしょうは、『日本書紀にほんしょき』では磯城しき瑞籬みずがきみや(しきのみずかきのみや)、『古事記こじき』では水垣みずがきみや(しきのみずかきのみや)。伝承でんしょう奈良ならけん桜井さくらい金屋かなや志貴しきけんすわ神社じんじゃ

りょう霊廟れいびょう

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りょう(みささぎ)の山邊やまべみち勾岡じょうりょう山辺やまべみち勾岡じょうりょう:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)。宮内庁くないちょうにより奈良ならけん天理てんり柳本やなぎもとまちにある遺跡いせきめい行燈あんどんやま古墳こふん」に治定じじょうされている。墳丘ふんきゅうちょう242メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。宮内庁くないちょうじょう形式けいしき前方後円ぜんぽうこうえん

古事記こじき』に「山邊やまべみち勾(まがり)岡上おかがみ」。『延喜えんぎしきしょりょうりょうでは「山邊やまべ道上どうじょうりょう」としてちょういき東西とうざい2まち南北なんぼく2まちもり1けむりとおりょうとしている。行燈あんどんやま古墳こふんは、形状けいじょう帆立貝ほたてがいがた古墳こふん初期しょき前方後円墳ぜんぽうこうえんふん前方ぜんぽうちいさくつくられている)のようになっているが、これは江戸えど時代じだい改修かいしゅう工事こうじによるものともわれている。なお行燈あんどんやま古墳こふんよりすこまえつくられた西にし殿塚とのづか古墳こふん前方後円墳ぜんぽうこうえんふん全長ぜんちょう220m)をしんりょうとするかんがかたもある。また江戸えど時代じだいには渋谷しぶや向山むかいやま古墳こふんげんけいぎょうりょう)が陵墓りょうぼとされていた。

吉村よしむら武彦たけひこ行燈あんどんやま古墳こふんについて巨大きょだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふんおうりょう天皇陵てんのうりょう)に間違まちがいなく宮内庁くないちょう比定ひていたかしかみ天皇陵てんのうりょうはほぼ間違まちがいないだろうとべている[5]

また皇居こうきょでは、皇霊こうれい殿どの宮中きゅうちゅうさん殿どのの1つ)においてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに天皇てんのうれいまつられている。

伝承でんしょう

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史料しりょうは、特記とっきのないかぎり『日本書紀にほんしょき』に[4]

はし伝説でんせつ

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大物おおものぬしまつることで疫病えきびょうおさまったのちやまと迹々ひゃくかさねひめいのち(やまとととびももそひめ)は大物おおもの主神しゅしんつまとなった。大物おおもの主神しゅしんよるしかあらわれなかったので、ひめはもっとよく姿すがたたいとった。そこで大物おおもの主神しゅしんあさひめくしかごはいるから姿すがたてもおどろかないでほしいとった。たしてひめはこなかてみると綺麗きれいちいさいへびがいた。ひめおどろいてさけんだ。大物おおもの主神しゅしんおおいにじてすぐにひとかたちもどひめのろった。大物おおもの主神しゅしんったのちひめこしかしてすわったところ、はし陰部いんぶいてしまいそのままくなった。ひめだいほうむられはかはし名付なづけられた。このはかひるひとつくり、よるかみつくったとわれる。はかつくるため人々ひとびとれつつくってリレー形式けいしきいしはこんだとつたえられ、この様子ようすうたまれた。

大坂おおさかのぼれる いしぐんを たごしにせば しがてむかも

なお、やまと迹々ひゃくかさねひめいのち薨去こうきょにはすくなくとも127さいえる老婆ろうばであった。

出雲いずも

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あるとき、あいだじょう天皇てんのう出雲いずもみやおさめられている神宝しんぽうたいと使者ししゃおくった。神宝しんぽう管理かんりする出雲いずも筑紫つくしこくって留守るすだったが、おとうとめしにゅうわりに神宝しんぽう献上けんじょうした。筑紫つくしからかえってきた出雲いずもはなぜあっさりと神宝しんぽうわたしてしまったのかとおこった。年月としつきても出雲いずもいかりはすばかりだった。出雲いずもはたいをするべくめしにゅうふちした。出雲いずもは「みずがきれいだ。まずからだきよめよう」とい、二人ふたりふくかたないでみずはいった。出雲いずもさきがってひそかにつくった真剣しんけんそっくりの木刀ぼくとうおとうと真剣しんけんをすりえた。そしてはたいがはじまったがめしにゅうけんこうとしてもけない。けんかたちをしただけのなのだから当然とうぜんである。出雲いずも容赦ようしゃなくおとうところした。そこでひとたちはうたんだ。

「やくもつ 出雲いずもふくろうそちける太刀たち くろかずらき さしに あはれ」

なお、このはなしは『古事記こじき』でやまとけんいのち出雲いずもけんはなし酷似こくじしている。

いかわがおもね斯等

[編集へんしゅう]

いかわがおもね斯等(つぬがあらしと)とは『日本書紀にほんしょき』でたれじん天皇てんのう2ねんじょうぶんちゅう記載きさいされる人物じんぶつである[6]説話せつわ時期じき内容ないよう類似るいじせいから上述じょうじゅつ曷叱同一どういつするせつがある。ふねあなもんから出雲いずもこく飯浦いいのうら来着らいちゃくしたいかわがおもね斯等のがくにはかくえていたとい「角鹿つのが(つぬが)」という地名ちめい語源ごげんわれる(角鹿つのがからのちに敦賀つるが転訛てんか)。またたれじん天皇てんのうとき帰国きこくさい天皇てんのうおもね斯等に先皇せんのうである(あいだじょう<みまき>天皇てんのう)の「みまき」を国名こくめいにするようみことのりし、これがにんわたる)の語源ごげんとされている。

たけ渟川別命べつめい

[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』によるとたかしかみ天皇てんのう10ねん9がつ9にちじょうではたけ渟川べつ東海とうかい派遣はけんするとあり、同書どうしょでは北陸ほくりく派遣はけんされただい彦命西道さいどう派遣はけんされた吉備津きびつ彦命丹波たんば派遣はけんされた丹波たんばみち主命しゅうめいとともに「よんみち将軍しょうぐん」と総称そうしょうされている。その将軍しょうぐんらはたかしかみ天皇てんのう10ねん10がつ22にち出発しゅっぱつし、たかしかみ天皇てんのう11ねん4がつ28にち平定へいてい報告ほうこくした。たかしかみ天皇てんのう60ねん7がつ14にちじょうによると、天皇てんのういのちによりたけ渟川べつ吉備津きびつとも出雲いずも誅殺ちゅうさつしている。たれじん天皇てんのう25ねん2がつ8にちじょうでは、彦国葺かず珥臣)・だい鹿島かしまちゅうしんれん)・じゅうせん物部ものべれん)・たけ大伴おおともれん)らとともに「大夫たいふ(まえつきみ)」の1人ひとりかぞえられており、天皇てんのうから神祇じんぎ祭祀さいしのことをめいじられている。また武蔵むさし御嶽おんたけ神社じんじゃたかしかみ天皇てんのう7ねんたけ渟川べつ東方とうほうじゅう二道ふたみち平定へいていおりだいおのれ貴命きめいしょう彦名ひこないのちまつったことがはじまりだとわれている[7]

考証こうしょう

[編集へんしゅう]

実在じつざいせい

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初代しょだい神武じんむ天皇てんのうとそれにかけはちだい天皇てんのうたち実在じつざいせい一般いっぱん希薄きはくであることされることから、このたかしかみ天皇てんのうヤマト王権おうけんはつ天皇てんのうかんがえるせつ存在そんざいし、また記紀ききしるされた事績じせき類似るいじ諡号しごう共通きょうつうせい後述こうじゅつ)から、神武じんむ天皇てんのうどう一人物いちじんぶつとするせつもある。井上いのうえ光貞みつさだ御名ぎょめい後世こうせいてき作為さくいうかがえず、かけはちだいちがってきゅうそなわっていることから、たかしかみ実在じつざい可能かのうせいのある最初さいしょ天皇てんのうとしている[2]

ただし、井上いのうえたかししん系譜けいふと15だい応神天皇おうじんてんのう以降いこう系譜けいふとのつながりには懐疑かいぎてきであり、直木なおき孝次郎こうじろう同様どうよう理由りゆうからおうしん以前いぜん大和やまと地方ちほう存在そんざいしたべつ王朝おうちょう首長しゅちょうかんがえており[8]、このように後代こうだい天皇てんのうたちとの連続れんぞくせいうたがう「王朝おうちょう交替こうたいせつ」も存在そんざいする。一方いっぽう神武じんむかけはちだい実在じつざい支持しじする立場たちばからは、『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつでは神武じんむ即位そくいしばらくは畿内きない周辺しゅうへんせま領域りょういき記述きじゅつしかてこずたかししんだいになってはじめて地方ちほうにまでわた記述きじゅつてくること(よんみち将軍しょうぐん派遣はけんなど)から、神武じんむから9だい開化かいか天皇てんのうまでは畿内きないにしかちからおよばなかったヤマト王権おうけんが、たかししんだいになってはじめて全国ぜんこく規模きぼ政権せいけんになったとかんがえるせつもある[9]

大津おおつとおるたかしかみ天皇てんのうのミマキイリヒコイニヱというが「イリヒコ」を実名じつめいちかかたちであり、またたかししんから「きゅう」がつたえられていること、記紀ききに「ハツクニシラススメラミコト」という名前なまえつたえられていることから実在じつざいせいみとめ、ある段階だんかい神武じんむ天皇てんのうにかわる初代しょだい天皇てんのうとしてつたえられていたとするせつ有力ゆうりょくであるとべている[10]

古事記こじき』はたかししん没年ぼつねん干支えとによりつちのえとらとし記載きさいしているので(くずしねん干支えとまたは没年ぼつねん干支えとという)、これを信用しんようして258ねんもしくは318ねんぼつ推測すいそくするせつられる。258ねんぼつせつった場合ばあいたかししん治世ちせい中国ちゅうごく文献ぶんけん記載きさいされている邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこだいあずか治世ちせい時期じきかさなることになる。たかしかみをヤマト王権おうけんいしずえきずいた存在そんざいとした場合ばあい邪馬台国やまたいこくたかししんのかかわりをどうかんがえるかが問題もんだいとなってくる。邪馬台国やまたいこく畿内きないせつからは、邪馬台国やまたいこくとヤマト王権おうけん同一どういつであるという認識にんしきした水野みずのただしこのみたかしかみを「卑弥呼ひみこ後継こうけい女王じょおうであっただいあずか摂政せっしょうだった」とするせつ西川にしかわ寿ひさししょうは「『こころざし倭人わじんでん』にしるされている卑弥呼ひみこおとこおとうとだった」というせつなどを提唱ていしょうしている。邪馬台国やまたいこく九州きゅうしゅうせつからは、「北九州きたきゅうしゅうにあった邪馬台国やまたいこくはヤマト王権おうけんとは別個べっこくにであって、この邪馬台国やまたいこくほろぼしたのが大和やまと地方ちほう統一とういつしたたかしかみ天皇てんのうである」とする田中たなかたくたけひかりまことたから寿男としおなどのせつや、「たかしかみ天皇てんのうどう時代じだい大和やまと卑弥呼ひみこのような女王じょおうはいないことからも邪馬台国やまたいこく畿内きないせつあやまりである」とする古田ふるた武彦たけひこなどのせつ存在そんざいする。

考古学こうこがくてき見地けんちから実在じつざいせい

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寺沢てらさわかおる日本書紀にほんしょきにはたかしかみ天皇てんのう磯城しき瑞籬みずがきみやたれじん天皇てんのうまといこうたまじょうみやけいぎょう天皇てんのうまとい向日むこうだいみやとあり、古事記こじきではミマキイリヒコイニエノミコト(たかしかみ天皇てんのう)の水垣みずがきみや、イクメイリヒコイサチノミコト(たれじん天皇てんのう)の玉垣たまがきみや、オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト(けいぎょう天皇てんのう)のまとい向日むこうだいみやがあったとあり、まといむかい磯城しき)に包括ほうかつされるからたかしかみ天皇てんのう磯城しき瑞籬みずがきみやまといこう水垣みずがきみやであったともかんがえられる。実在じつざいするとわれる初期しょきさんだいみやまといむかい造営ぞうえいされたという伝承でんしょうをもつこと自体じたい重大じゅうだい示唆しさふくまれていると指摘してきする[11]

また埼玉さいたまけん稲荷山いなりやま古墳こふん出土しゅつどてつけんめいたかしかみ天皇てんのう派遣はけんしたよんみち将軍しょうぐん一人ひとりだい彦命」をとする系譜けいふしるされていることは5世紀せいき後半こうはん雄略天皇ゆうりゃくてんのう時代じだいにはたかしかみ天皇てんのうとするおうみつるはらみかど)が存在そんざいした可能かのうせいしめしている [12]

またつぎたい天皇てんのう皇后こうごうであったしろ皇女おうじょりょう宮内庁くないちょう治定じじょう西にし殿塚とのづか古墳こふん考古学こうこがくではそのきたとなり西山にしやまづか古墳こふんかんがえられているが、いずれもつぎからだりょうのある摂津せっつ三島みしまからはなれた大和やまと山辺やまべ大和やまと古墳こふんぐんほうむられたのはおうみつる始祖しそであるたかしかみ天皇てんのうちかくということを意識いしきしてではないかというせつもある[13]

ただしたかしかみりょうとされる行灯あんどんやま古墳こふん最古さいこ大型おおがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんであるはし古墳こふんからかぞえると番目ばんめ築造ちくぞうされた大王だいおうふんかんがえられるため、はし被葬ひそうしゃ卑弥呼ひみこないしはヤマト王権おうけん初代しょだい大王だいおうなすと、たかしかみ天皇てんのう初代しょだいでも10代目だいめでもなく5代目だいめ大王だいおうだったことになる。

称号しょうごう

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たかしかみ天皇てんのう奈良盆地ならぼんち南東なんとう三輪山みわやまふもと根拠地こんきょちとして宗教しゅうきょうてき軍事ぐんじてき方法ほうほうによって国内こくない統一とういつすすめており、後世こうせいこれを「はつくにしらす」とおいしょうしているのはかれ原初げんしょてきしょう国家こっか統一とういつしてヤマト王権おうけん確立かくりつしたことをしめすものとかんがえられる[3]。また『日本書紀にほんしょき』における神武じんむ天皇てんのう称号しょうごうはじめ馭天下之したの天皇てんのう』とたかしかみ天皇てんのう称号しょうごうである『はじめこく天皇てんのう』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」とめる。「はじめてくにおさめた天皇てんのう」と解釈かいしゃくするならば、はじめてくにおさめた天皇てんのう二人ふたり存在そんざいすることになる。これについては、神武じんむ称号しょうごうにみえる「天下てんか」という抽象ちゅうしょうてきかたりたかししん称号しょうごうの「くに」という具体ぐたいてきかたりより形而上けいじじょうてき概念がいねんであるため、本来ほんらいたかししん初代しょだい天皇てんのうであったが後代こうだいになって神武じんむとそれにつづはちだい系譜けいふくわえられたとかんがえるせつがある[14](『常陸ひたち風土記ふどき』にも「はつくにしょ知美ともみ麻貴まき天皇てんのう」とある)。安本やすもとよしてん上述じょうじゅつ神武じんむたかししん称号しょうごうかんするくんかた鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい(あるいは平安へいあん末期まっき)のくんかたであり、『しょ編纂へんさんのものとはことなっていた可能かのうせいがあると主張しゅちょうしている。どちらもおな意味いみであるならばわざわざ漢字かんじつづりをえる理由りゆうわからず、また「高天原たかまがはら」などの用語ようご照応しょうおうするならば神武じんむの「天下てんか」は「天界てんかいした地上ちじょう世界せかい」といったニュアンスととらえるべきであり、神武じんむの『はじめ馭天下之したの天皇てんのう』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などとんでてんした世界せかいはじめておさめた王朝おうちょう創始そうししゃかいし、たかししんの『はじめこく天皇てんのう』はその治世ちせいにヤマト王権おうけん支配しはいはじめて全国ぜんこく規模きぼにまでひろまったことをたたえさんしたものと解釈かいしゃくすれば上手うま説明せつめいがつくとしている[15]

たかししん和風わふう諡号しごうの「みまきいりひこ」とつぎたれじん天皇てんのう和風わふう諡号しごうの「いくめいりひこ」は、ともに「いりひこ」(にゅう彦)が共通きょうつうしている。「いりひこ」・「いりひめ」は当時とうじ大王だいおう王族おうぞくめいあらわれる特定とくてい呼称こしょうである。「いり」が後世こうせい創作そうさくとはかんがえにくいことから、これらの大王だいおう王族おうぞく実在じつざいした可能かのうせいたかく、たかしかみ天皇てんのう始祖しそとする「イリ王朝おうちょう」「さんりん王朝おうちょうせつなども提唱ていしょうされている。たかししんたれじんみかど和風わふう諡号しごうではなく実名じつめいいみな)をそのまま記紀きき記載きさいした、とするせつ存在そんざいする。

高句麗こうくり建国けんこくとの関連かんれん

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日本書紀にほんしょき』は天智天皇てんぢてんのう7ねん668ねん)の高句麗こうくり滅亡めつぼう記事きじで、この滅亡めつぼうなか牟王(東明とうめい聖王せいおう)が高句麗こうくり建国けんこくしてからちょうど700ねんであったとしるしている[ちゅう 6]建国けんこくとしたかしかみ天皇てんのう66ねん機械きかいてき換算かんさんすると西暦せいれき紀元前きげんぜん32ねん)となり、『さん国史こくし東明とうめい聖王せいおう本紀ほんぎしる紀元前きげんぜん37ねんと5ねんがあるが、上述じょうじゅつ曷叱いかわがおもね斯等、およ天日てんじつやりアメノヒボコ)の記事きじとの関連かんれん推測すいそくされる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 日本書紀にほんしょき』で開化かいか天皇てんのう28ねんに19さい立太子りったいしとあり、これから逆算ぎゃくさんすると開化かいか天皇てんのう10ねん。またたかしかみ天皇てんのう68ねんに120さい崩御ほうぎょとあり、これから逆算ぎゃくさんすると開化かいか天皇てんのう9ねん
  2. ^ てんあきら大神おおがみまつ場所ばしょはその各地かくち移動いどうしたがたれじん天皇てんのう25ねん現在げんざい伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくう鎮座ちんざした。(詳細しょうさい記事きじもと伊勢いせ
  3. ^ たれ仁紀ひとのりに「あないそ邑のだい市長しちょうおかみさきまつった」とある。
  4. ^ ぼくざか神武じんむ東征とうせい古戦場こせんじょうであり、大坂おおさか翌年よくねんきたたけはに安彦やすひこらん戦場せんじょうとなった。
  5. ^ 古事記こじき』においては天孫てんそん降臨こうりんどきニニギ言葉ことばに「韓国かんこく(からくに)」があらわれる。
  6. ^ これはどの文献ぶんけんったか不明ふめいであるが、天平てんぴょうかちたから5ねん753ねん)にこうけん天皇てんのう渤海国王こくおうだい欽茂てた国書こくしょで『高麗こうらい旧記きゅうき』を引用いんようしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 日本書紀にほんしょき』による。
  2. ^ a b (井上いのうえ 1973)P275
  3. ^ a b 肥後ひご(1979)p.53
  4. ^ a b 日本書紀にほんしょきいち)』岩波書店いわなみしょてん ISBN 9784003000410
  5. ^ 「ヤマト王権おうけん岩波いわなみ新書しんしょ 2010 47ぺーじ
  6. ^ いかわがおもね斯等(古代こだい氏族しぞく) & 2010ねん.
  7. ^ 神社じんじゃ由緒ゆいしょ”. 武蔵むさし御嶽おんたけ神社じんじゃ公式こうしきサイト】. 武蔵むさし御嶽おんたけ神社じんじゃ. 2024ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  8. ^ (直木なおき 1990)P20-23
  9. ^ たから寿男としお『「神武じんむ東征とうせい」のはらぞう青垣あおがき出版しゅっぱん、2006ねん
  10. ^ 神話しんわから歴史れきしへ」講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 2017 128‐129
  11. ^ 卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 2023‐3‐10 95‐96ぺーじ
  12. ^ 「ヤマト王権おうけん吉村よしむら武彦たけひこ 2010ねん11月19にち 44~46ぺーじ、83ぺーじ
  13. ^ つぎたい王朝おうちょうだいたくみしゃ 2000‐11‐15 18ぺーじ
  14. ^ (井上いのうえ 1973)P269-270、(直木なおき 1990)P20
  15. ^ (安本やすもと 2006)P258-259

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえ光貞みつさだ日本にっぽん歴史れきし1 神話しんわから歴史れきしへ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1973ねん10がつISBN 4-12-200041-6 
  • 直木なおき孝次郎こうじろう日本にっぽん神話しんわ古代こだい国家こっか講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1990ねん6がつISBN 4-06-158928-8 
  • 肥後ひご和男かずお ちょたかしかみ天皇てんのう」、日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい へん日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてんだい6かん す-ち』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1979ねん11月。 
  • 安本やすもとよしてん大和やまと朝廷ちょうてい起源きげんつとむまこと出版しゅっぱん、2005ねん7がつISBN 978-4-585-05324-8 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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