きゅう

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きゅう』(きゅうじ、くじ)とは、『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき以前いぜん存在そんざいしたとかんがえられている日本にっぽん歴史れきししょひとつ。『みかど』とともにふるくに散逸さんいつしたため、内容ないようつてそんしていない。「ほん」「先代せんだいきゅう」とも。

概要がいよう[編集へんしゅう]

記紀きき基本きほん資料しりょうといわれるかく氏族しぞく伝来でんらい歴史れきししょだとかんがえられている。『古事記こじき序文じょぶんの「先代せんだいきゅう」(せんだいのくじ、さきのよのふること)および「ほん」、『日本書紀にほんしょき天武天皇てんむてんのう10ねん3がつじょうの「上古じょうこ諸事しょじ」はこのしょすともかんがえられている。

ただし『みかど』と『きゅう』は、別々べつべつ書物しょもつではなく、一体いったいのものだったとするせつもある。日本にっぽん学者がくしゃ津田つだ左右吉そうきちは、『きゅう』は記紀きき説話せつわ伝承でんしょうてき部分ぶぶんもとになったものであるとかんが[1]、『古事記こじき』の説話せつわてき部分ぶぶんたけれつ天皇てんのうのあたりでわっており、そのはほとんど系譜けいふのみとなること、また『日本書紀にほんしょき』もおなあたりでおおきく性格せいかくわり、それまではあまりなかった具体ぐたいてき日時にちじしめすようになることなどの理由りゆうから、『きゅう』の内容ないようはこのあたりでわり、そのまもなく6世紀せいきごろになってそれまで口承こうしょうつたえられてきた『きゅう』が文書ぶんしょされたと推論すいろんしている。

そのこのせつ通説つうせつとなったが、『古事記こじき』の序文じょぶん厳密げんみつかぎりでは、史書ししょ作成さくせい作業さぎょうは『みかど』と『きゅう』の両方りょうほうおこなわれたものであり、『古事記こじき』の内容ないよう自体じたいは『きゅう』のみにもとづくはずであることから、『古事記こじき』が系譜けいふ説話せつわ両方りょうほうふく以上いじょう、「みかど=系譜けいふきゅう=説話せつわ」とする一般いっぱんてき理解りかいりたないとする見解けんかいもある。

また、一定いってい条件じょうけんたす複数ふくすう書物しょもつないしは文書ぶんしょ総称そうしょうである普通ふつう名詞めいしとしての「きゅう」と、特定とくてい時点じてん編纂へんさんされた特定とくてい書物しょもつしめ固有名詞こゆうめいしとしての『きゅう』は明確めいかく区別くべつすべきだとするせつもある[2]

またほとんどの場合ばあいに『みかど』と『きゅう』がなみしるされることなどから、これらはわせることを前提ぜんていにしており、ふたつの史書ししょわせた日本にっぽん独自どくじ歴史れきし叙述じょじゅつ形態けいたいがあった可能かのうせい指摘してきされている[3]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 津田つだ左右吉そうきち日本にっぽん古典こてん研究けんきゅう
  2. ^ 遠山とおやま美都みとおとこ根拠こんきょとぼしい『みかど』『きゅう』の成立せいりつ年代ねんだい」『日本書紀にほんしょきなにかくしてきたか』よういずみしゃ新書しんしょy035、よういずみしゃ、2001ねん7がつ21にち、pp. 196-204。ISBN 4-89691-549-6 もとは「『みかど』『きゅう』を復元ふくげんする」として「歴史れきし読本とくほん」1999ねん4がつごう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ掲載けいさい
  3. ^ くら西にし裕子ゆうこ「『日本にっぽんしき紀伝きでんたい』は存在そんざいした - ほん史書ししょ一対いっついとする編纂へんさん記述きじゅつ様式ようしき」『記紀ききはいかにして成立せいりつしたか - てん史書ししょ史書ししょ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、講談社こうだんしゃ、2004ねん6がつ10日とおか、pp. 46-59。 ISBN 4-06-258301-1

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]