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古事記こじき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
真福寺しんふくじ収蔵しゅうぞうの『古事記こじき』(国宝こくほうしん瑜の弟子でしけん瑜による写本しゃほん

古事記こじき(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)[1]は、日本にっぽん日本にっぽん神話しんわふく歴史れきししょ現存げんそんする日本にっぽん最古さいこ書物しょもつである[2][3]。そのじょによれば、和銅わどう5ねん712ねん)に太安万侶おおのやすまろ編纂へんさん[4]元明もとあき天皇てんのう献上けんじょうされたことで成立せいりつする[5]上中かみなかの3かん内容ないよう天地てんちのはじまりから推古天皇すいこてんのう記事きじである。

8ねん養老ようろう4ねん(720ねん)に編纂へんさんされた『日本書紀にほんしょき』とともに神代かみしろから上古じょうこまでをしるした史書ししょとして、近代きんだいになって国家こっか聖典せいてんなされ[6]記紀きき総称そうしょうされることもあるが、『古事記こじき』が出雲神いずものかみばなし重視じゅうしするなどりょうしょ内容ないようには差異さいもある[7][8]

和歌わか母体ぼたいである古代こだい歌謡かよう記紀きき歌謡かよう)などの民間みんかん伝承でんしょう歌謡かよう[9]古代こだい神話しんわ伝説でんせつなどの素材そざい記録きろくんだ『古事記こじき』は、日本にっぽん文学ぶんがく発生はっせい源流げんりゅうじょうでも重要じゅうよう素材そざい宝庫ほうことなっている[10][2][11]

概要がいよう

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古事記こじき』の原本げんぽん現存げんそんせず、いくつかの写本しゃほんつたわる。成立せいりつ年代ねんだいは、写本しゃほんじょしるされた年月日ねんがっぴ和銅わどう5ねん正月しょうがつ28にちユリウスれき712ねん3月9にち))により、8世紀せいきはじめと推定すいていされる。

内容ないようは、神代かみよにおける天地てんちはじまりから推古天皇すいこてんのう時代じだいいたるまでの出来事できごとが、神話しんわ伝説でんせつなどをふくめて、紀伝きでんたい記載きさいされる。また、すうおおくの歌謡かようふくむ。「高天原たかまがはら」というかたり多用たようされるてんでも特徴とくちょうてき文書ぶんしょである[注釈ちゅうしゃく 1]

古事記こじき』は『日本書紀にほんしょき』とともに後世こうせいでは「記紀きき」と総称そうしょうされる。内容ないようには一部いちぶちがいがあり、『日本書紀にほんしょき』のような勅撰ちょくせん正史せいしではないが、『古事記こじき』も序文じょぶん天武天皇てんむてんのうが、

せんろくみかど 討覈きゅう そぎにせ定實さだざね よくりゅう後葉こうよう
訓読くんどくぶんみかどせんろく(せんろく)し、きゅうを討覈(とうかく)して、いつわりをけずさだめて、後葉こうようながれ(つた)へむとほっ(おも)ふ。

みことのりしたと記載きさいがあるため、勅撰ちょくせんともかんがえられる。しかし史料しりょううえでは、序文じょぶんかれた成立せいりつ過程かてい皇室こうしつ関与かんよ不明ふめいてん矛盾むじゅんてんおおいとする見解けんかいもある。

ぞく日本にっぽん』には『日本書紀にほんしょき』の記事きじがあるのにたいし、『古事記こじき』にはそのような記述きじゅついている。稗田ひえた阿礼あれい実在じつざいせいひくさ、序文じょぶん不自然ふしぜんさから、偽書ぎしょせつ後述こうじゅつ)もとなえられている。

古事記こじき』は歴史れきししょであるととも文学ぶんがくてき価値かち非常ひじょうたか評価ひょうかされ、また日本にっぽん神話しんわつたえる神典しんてんひとつとして、神道しんとう中心ちゅうしん日本にっぽん宗教しゅうきょう文化ぶんか精神せいしん文化ぶんか多大ただい影響えいきょうあたえている。『古事記こじき』にあらわれるかみ々は、現在げんざいではおおくの神社じんじゃ祭神さいじんとしてまつられている[注釈ちゅうしゃく 2]一方いっぽう文化ぶんかてき側面そくめんは『日本書紀にほんしょき』よりもつよく、創作そうさくぶつ伝承でんしょうとう度々たびたび引用いんようされるなど、世間せけん一般いっぱんへの日本にっぽん神話しんわ浸透しんとうおおきな影響えいきょうあたえている。

編纂へんさん経緯けいい

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645ねん中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんぢてんのう)らによる蘇我入鹿そがのいるか暗殺あんさつ事件じけんおつへん)に憤慨ふんがいした蘇我蝦夷そがのえみしだい邸宅ていたくをかけ自害じがいした。このとき朝廷ちょうてい歴史れきししょ保管ほかんしていた書庫しょこまでもが炎上えんじょうしたとわれる。『天皇てんのう』などすうおおくの歴史れきししょはこのときうしなわれ、『くに』はなんのがれて天智天皇てんぢてんのう献上けんじょうされたとされるが、とも現存げんそんしない。663ねん天智天皇てんぢてんのう白村はくそんこうたたかとうしん連合れんごう敗北はいぼくし、予想よそうされた渡海とかい攻撃こうげきへの準備じゅんびのため史書ししょ編纂へんさん余裕よゆうはなかった。その時点じてんすで諸家しょかの『みかど』及『ほん』(『きゅう』)は虚実きょじつないぜの状態じょうたいであった。672ねんみずのえさるらん、673ねん天智天皇てんぢてんのうおとうとである天武天皇てんむてんのう即位そくいし、『天皇てんのう』やけてけてしまった『くに』にわる国史こくし編纂へんさんめいじた。そのさい、28さいたか識字しきじ能力のうりょく記憶きおくりょく稗田ひえた阿礼あれいに『みかど』及『ほん』などの文献ぶんけんを「誦習」させた[1]。その、711ねん元明もとあき天皇てんのういのちけ、太安万侶おおのやすまろ阿礼あれいの「誦習」していた『みかどすめらぎままし』(天皇てんのう系譜けいふ)と『先代せんだいきゅう』(ふる伝承でんしょう)を編纂へんさんし712ねんに『古事記こじき』を完成かんせいさせた。

成立せいりつ

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成立せいりつ経緯けいいしるじょによれば『古事記こじき』は、天武天皇てんむてんのういのち稗田ひえた阿礼あれいが「誦習」していた上述じょうじゅつの『みかどすめらぎつぎ』と『先代せんだいきゅう』を太安万侶おおのやすまろきし、編纂へんさんしたものである。かつて「誦習」は、たんに「暗誦あんしょう」することとかんがえられていたが、小島こじま憲之のりゆき(『上代うえだい日本にっぽん文学ぶんがく中国ちゅうごく文学ぶんがく じょうはなわ書房しょぼう)や西宮にしのみや一民かずたみ(「古事記こじき行文こうぶんわたしかい」『古事記こじき年報ねんぽう』15)らによって「文字もじ資料しりょうかた習熟しゅうじゅくする行為こうい」であったことがたしかめられている。

書名しょめい

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書名しょめいは『古事記こじき』とされているが、作成さくせい当時とうじにおいてはふる書物しょもつしめ一般いっぱん名詞めいしであったことから、正式せいしきめいではないといわれる。また、書名しょめいやすまん侶がけたのか、後人こうじんけたのかはさだかではない。みはほんきょ宣長のりながとなえた「ふることぶみ」とのせつもあったが、現在げんざい一般いっぱん音読おんよみで「コジキ」とばれる[1]

みかどきゅう

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古事記こじき』は『みかどてき部分ぶぶんと『きゅうてき部分ぶぶんとからる。

みかど』は初代しょだい天皇てんのうからだい33だい天皇てんのうまでの天皇てんのう后妃こうひ皇子おうじ皇女おうじょおよびその子孫しそん氏族しぞくなど、このほか皇居こうきょ治世ちせい年数ねんすうくずしねん干支えと寿命じゅみょう陵墓りょうぼ所在地しょざいちおよびその治世ちせいおも出来事できごとなどをしるしている。これらは朝廷ちょうてい語部かたりべなどが暗誦あんしょうして天皇てんのう大葬たいそう祭儀さいぎなどで誦みげる慣習かんしゅうであったが、6世紀せいきなかばになると文字もじによってあらわされたものである。

きゅう』は、宮廷きゅうていない物語ものがたり皇室こうしつ国家こっか起源きげんかんするはなしをまとめたもので、おなごろかれたものである。

武田たけだ祐吉ゆうきち岡田おかだきよし関根せきねあつしなどは、『古事記こじき』の本文ほんぶんが推古あさ完結かんけつしていることから、『古事記こじき』のもととなった『みかど』が推古あさわっていた=推古あさからとおくない時期じきしるされたと指摘してきしている。ただし、舒明天皇てんのうを「岡本おかもとみやましまして天下てんかなおらしめしし天皇てんのう」としるしていることから、舒明あさ段階だんかい加筆かひつはあったとされる[12]

なお、笹川ささかわ尚紀なおきは、舒明天皇てんのう時代じだい後半こうはん天皇てんのう蘇我そが対立たいりつふかまり、舒明天皇てんのう蘇我そがかかわった『天皇てんのう』などにわる自己じこ正統せいとうせい主張しゅちょうするための『みかど』と『きゅう』を改訂かいてい編纂へんさんおこなわせ、のちである天武天皇てんむてんのうがれてそれが『古事記こじき』のもとになったと推測すいそくしている[13]

表記ひょうき

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本文ほんぶん変体へんたい漢文かんぶん主体しゅたいとし、古語こご固有名詞こゆうめいしのように、漢文かんぶんでは代用だいようしづらいものはいちいちおと表記ひょうきとしている。歌謡かようすべいちいちおと表記ひょうきとされており、本文ほんぶんいちいちおと表記ひょうき部分ぶぶんふくめて上代じょうだい特殊とくしゅ仮名遣かなづかい[注釈ちゅうしゃく 3]研究けんきゅう対象たいしょうとなっている。またいちいちおと表記ひょうきのうち、一部いちぶかみめいなどのみぎはたうえ と、中国ちゅうごく文書ぶんしょにみられる漢語かんご声調せいちょうである四声しせいのうち上声じょうせい去声きょしょうおな文字もじはいしている[14]

歌謡かよう

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古事記こじき』は物語ものがたり中心ちゅうしんかれているが、それだけでなくおおくの歌謡かよう挿入そうにゅうされている。これらの歌謡かようおおくは、民謡みんよう俗謡ぞくようであったものが、物語ものがたりわせて挿入そうにゅうされた可能かのうせいたかい。

有名ゆうめいうたとして、須佐すさおとこいのちくし名田なたうり結婚けっこんしたときにうたい、和歌わかはじまりとされる「八雲やくもたつ 出雲いずも八重やえかき つまごみに 八重やえかきつくる そのはちじゅうかき」や、やまとけんいのち東征とうせい帰途きと故郷こきょうおもってうたった「やまとくにのまほろば たたなづく青垣あおがき やまかくれる やまとし うるわし」などがある。

構成こうせい

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  1. うえまきじょ神話しんわ
  2. なかまき初代しょだいからじゅうだい天皇てんのうまで)
  3. したまきだいじゅうろくだいからさんじゅうさんだい天皇てんのうまで)

の3かんよりっている。

特徴とくちょう

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古事記こじき』の系譜けいふ記事きじ特徴とくちょうてきなのは、収録しゅうろくしている氏族しぞく系譜けいふおお統一とういつせいたかく、母系ぼけい系譜けいふ重視じゅうししているてんげられる。『日本書紀にほんしょき』でしるされる登場とうじょうする系譜けいふは110氏族しぞくだが、『古事記こじき』は201かぞえる。くわえて、いちがた系譜けいふおおいとされる[15]

また、『日本書紀にほんしょき』でよう明天めいてんすめらぎ皇后こうごうについてべた部分ぶぶんは「あなあいだじん皇女おうじょてて皇后こうごうとす。ませるよんおとこ、其一は厩戸皇子うまやどのおうじと曰ふ」としるし、その厩戸皇子うまやどのおうじやその親族しんぞくについてしるしたのちに、「蘇我そが大臣だいじんいね宿禰すくね女石おんないしすんめいてて嬪とす。皇子おうじなまませり」としるされているのにたいし、『古事記こじき』では「いね宿禰すくね大臣だいじんおんなとみげい志比しひうりめとりてませる御子みこ多米ためおう。また庶妹あいだじん穴太あのうおうめとりてませる御子みこ上宮かみみやうまやゆたかさとしみみいのち」となっており、蘇我そが優先ゆうせんされ、上宮かみみや王家おうけについての記述きじゅつのちになっている。そして、『古事記こじき』には聖徳太子しょうとくたいしかんする記事きじ一切いっさいえないため、『古事記こじき』は聖徳太子しょうとくたいし存在そんざい蘇我そがより後退こうたいさせたり、聖徳太子しょうとくたいし歴史れきし無視むししているとされる[16]。7世紀せいき後半こうはんから8世紀せいき初頭しょとうにかけての『日本書紀にほんしょき』の編集へんしゅう作業さぎょうでは、聖徳太子しょうとくたいし礼賛らいさんする思潮しちょうえるのにたいし、おな時期じき成立せいりつした『古事記こじき』ではそのような思潮しちょうられないどころか、その事績じせき無視むししているうえに、蘇我馬子そがのうまこ主導しゅどうしたたかしたかし天皇てんのう暗殺あんさつかんする記述きじゅつも『古事記こじき』には存在そんざいしない[16]

古事記こじき』の皇女おうじょ記載きさい方法ほうほうには統一とういつせいがなく、「うりいのち」や「郎女いらつめ」などが混在こんざいしており、「皇女おうじょ」で統一とういつされている『日本書紀にほんしょき』とはおおきくことなっている。しかし、『古事記こじき』の欽明記めいきさとしたちでは皇子おうじ皇女おうじょも「おう」で統一とういつされている。これは、欽明王みょうおうみつる蘇我そがむすびついた政治せいじ形態けいたい成立せいりつしていたからであるとかんがえられる[17]

くわえて、『古事記こじき』の通常つうじょう用字ようじほうでは「葛木かつらぎ」と表記ひょうきされるべきであるが、仁徳にんとくくつちゅうでは「葛城かつらぎ」と好字こうじあらためられている箇所かしょがあり、これは蘇我馬子そがのうまこが「葛城かつらぎしん」をしょうしたためであるとかんがえられている[17]

また、『古事記こじき』ではこうもと天皇てんのう-武内たけうち宿禰すくね-蘇我そが石河いしかわ-蘇我そがという系譜けいふしるしているのにたいして、『日本書紀にほんしょき』ではそれをしるしていない。また、かけはちだい皇居こうきょ御陵ごりょう蘇我そが勢力せいりょく基盤きばんである葛城かつらぎ高市たかいち地域ちいき集中しゅうちゅうしている。これは「かけはちだい武内たけうち宿禰すくね系譜けいふが推古あさにおいて蘇我そがによって形成けいせいされたからである」とかんがえられるが、推古あさ段階だんかい蘇我そがすべての系譜けいふ確定かくていしていたのではなく、「蘇我そが石河いしかわ宿禰すくね」は蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろによって創作そうさくされたものであるとかんがえられる[18]

写本しゃほん

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現存げんそんする『古事記こじき』の写本しゃほんは、おもに「伊勢いせほん系統けいとう」と「卜部うらべほん系統けいとう」にかれる[19]

伊勢いせほん系統けいとう

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現存げんそんする『古事記こじき』の写本しゃほん最古さいこのものは、「伊勢いせほん系統けいとう」の南朝なんちょう: 建徳けんとく2ねん/北朝ほくちょう: おうやす4ねん1371ねん)からよく南朝なんちょう文中ぶんちゅう元年がんねん/北朝ほくちょうおうやす5ねん1372ねん)にかけて真福寺しんふくじ[注釈ちゅうしゃく 4]そうけん瑜によってうつされた真福寺しんふくじほん古事記こじきさんじょう国宝こくほう)である。奥書おくがきによれば、ほんうえ下巻げかん大中おおなかしんていほんちゅうまき藤原ふじわらどおりみやびほんである。みちはてほん上巻じょうかん前半ぜんはんのみ。南朝なんちょう弘和ひろかず元年がんねん/北朝ほくちょうえいいさお元年がんねん1381ねんうつし)、みちさちほん上巻じょうかんのみ。おうひさし31ねん1424ねんうつし)、はる瑜本(上巻じょうかんのみ。おうなが33ねん1426ねんうつし)のみちはてほんけい3ほん真福寺しんふくじほんちかく、ともに伊勢いせほん系統けいとうをなす。

卜部うらべほん系統けいとう

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伊勢いせほん系統けいとうのぞ写本しゃほんすべ卜部うらべほん系統けいとうぞくする。ほん卜部うらべ兼永かねなが自筆じひつほん上中かみなか3かん室町むろまち時代ときよ後期こうきうつし)である。

受容じゅよう研究けんきゅう

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ほんきょ宣長のりながによる『古事記こじきでん

朝廷ちょうていでは平安へいあん時代じだい、『日本書紀にほんしょき』についてだい学寮がくりょう学者がくしゃ公卿くぎょう解説かいせつする日本にっぽん講筵こうえん日本にっぽんこうこうしょ)がおこなわれ、『古事記こじき』は参考さんこう文献ぶんけんとして使つかわれた。古語こごつたえるしょとして重視じゅうしされることもあれば、矢田部やたべ公望きんもちのように編年体へんねんたいでないことでひく評価ひょうかしたうえで『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』のほうがよりふる史書ししょであると主張しゅちょうする講師こうしもいた[20]

鎌倉かまくら時代ときよには、朝廷ちょうていでも披見ひけんできるひとすくない秘本ひほんあつかいで、とくちゅうまき近衛このえ伝来でんらいしょおさめたかもいん文庫ぶんこにしかないとわれていた。そうしたなかひろちょう3ねん(1263ねん)にみぎ近衛このえ大将たいしょう藤原ふじわらとおるみやびが「不慮ふりょ」にちゅうまきれた。神祇官じんぎかん卜部うらべ兼文かねぶみ卜部うらべ兼方かねたかちち)はぶんひさし5ねん(1268ねん)につうみやびから、ぶんなが10ねん(1273ねん)には鷹司たかつかさ兼平かねひらからちゅうまきりて書写しょしゃした。弘安ひろやす4ねん(1281ねん)には藤原ふじわら一条いちじょう卜部うらべからりた『古事記こじき』を書写しょしゃして自家じか伝来でんらいほん校合きょうごうし、翌年よくねんさらに伊勢神宮いせじんぐう祭主さいしゅ大中おおなかしんていいちじょうからりて書写しょしゃした。まご大中おおなかしん親忠ちかただ伊勢神宮いせじんぐう外宮げくう禰宜ねぎ度会わたらい家行いえゆき伊勢いせ神道しんとう大成たいせいしゃ)にして写本しゃほんが2つくられた。これが、伊勢神宮いせじんぐう密接みっせつかかわりがあった真福寺しんふくじつたわる『古事記こじき最古さいこ写本しゃほんもとになったと推測すいそくされる。度会わたらいぎょう自著じちょ類聚るいじゅう神祇じんぎ本源ほんげん』に『古事記こじき』を引用いんようした[21]

室町むろまち時代ときよ後期こうき神道しんとう吉田よしだ兼倶かねともも、『日本書紀にほんしょき』を最上さいじょうとしつつも『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』と『古事記こじき』を「さん本書ほんしょ」とんで重視じゅうしした[22]

寛永かんえい版本はんぽん 古事記こじき初版しょはん國學院大學こくがくいんだいがく古事記こじきがくセンターぞう

江戸えど時代じだい初期しょき寛永かんえい21ねん(1644ねん)に京都きょうと印刷いんさつによる刊本かんぽん古事記こじき』(いわゆる「寛永かんえい古事記こじき」)が出版しゅっぱんされ、研究けんきゅうさかんになった。出口いでぐち延佳のぶよしが『鼇頭(ごうとう)古事記こじき』を貞享ていきょう4ねん(1687ねん)に刊行かんこうしたほか、『だい日本にっぽん』につながる修史しゅうし事業じぎょうはじめた徳川とくがわ光圀みつくに水戸みとはんおも)にも影響えいきょうあたえた[23]

江戸えど時代じだい隆盛りゅうせいする国学こくがくでも重視じゅうしされ、荷田春満かだのあずままろは『古事記こじき箚記(さっき)』、賀茂真淵かものまぶちは『古事記こじき頭書とうしょ(とうしょ)』をあらわした。そして京都きょうと遊学ゆうがくちゅう寛永かんえいばん古事記こじき入手にゅうしゅしたほんきょ宣長のりながは、賀茂真淵かものまぶちとの「松坂まつさか一夜いちや」でも『古事記こじき』の重要じゅうようせいかれて本格ほんかくてき研究けんきゅうみ、ぜん44かん註釈ちゅうしゃくしょ古事記こじきでん』を寛政かんせい10ねん(1798ねん)に完成かんせいさせた[24]。これは『古事記こじき研究けんきゅう古典こてんであり、厳密げんみつかつ実証じっしょうてき校訂こうてい後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえている。

だい世界せかい大戦たいせんこう自由じゆう解釈かいしゃく可能かのうとなり、倉野くらの憲司けんじ武田たけだ祐吉ゆうきち西郷さいごう信綱のぶつな西宮にしのみや一民かずたみ神野かみのこころざし隆光りゅうこうらによる研究けんきゅう注釈ちゅうしゃくしょ発表はっぴょうされた。とく倉野くらの憲司けんじによる岩波いわなみ文庫ぶんこはんは、初版しょはん1963ねん昭和しょうわ38ねん))刊行かんこう以来いらい重版じゅうはん通算つうさんやく100まんたっしている。20世紀せいき後半こうはんになり、『古事記こじき』の研究けんきゅうはそれまでの成立せいりつろんから作品さくひんろんへとシフトしている。成立せいりつろん代表だいひょうとしては津田つだ左右吉そうきち石母田いしもたただしがあり、作品さくひんろん代表だいひょうとしては、吉井よしいいわお西郷さいごう信綱のぶつな神野かみのこころざし隆光りゅうこうがいる。

偽書ぎしょせつ

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古事記こじき』には、近世きんせい江戸えど時代じだい以降いこう偽書ぎしょうたがいをものがあった。賀茂真淵かものまぶち宣長のりながあて書翰しょかん)や沼田ぬまたじゅんよしちゅう沢見さわみあきらいかだくん松本まつもと雅明まさあき大和やまと岩雄いわお大島おおしま隼人はやと三浦みうらたすくこれたから寿男としおらは、『古事記こじき成立せいりつおおやけ史書ししょ記載きさいがないことや、序文じょぶん不自然ふしぜんさなどへ疑問ぎもん提示ていじし、偽書ぎしょせつとなえている[25]

偽書ぎしょせつにはおもとおりあり、序文じょぶんのみが偽書ぎしょとするせつと、本文ほんぶん偽書ぎしょとするせつかれる。以下いか概要がいようしるす。

  • 序文じょぶん偽書ぎしょせつでは『古事記こじき』の序文じょぶん上表じょうひょうぶん)においてかたられる『古事記こじき』の成立せいりつ事情じじょうしょうする外部がいぶ有力ゆうりょく証拠しょうこがないことなどから序文じょぶん正当せいとうせい疑義ぎぎ指摘してきする。また稗田ひえた阿礼あれい実在じつざいせい非常ひじょうひくいことや、編纂へんさん勅命ちょくめいされた年号ねんごう記載きさいがないこと、官位かんい記載きさい成立せいりつまでの記載きさい杜撰ずさんなことから偽書ぎしょ可能かのうせい指摘してきしている。なお「偽書ぎしょ」とは著者ちょしゃ執筆しっぴつ時期じきなどの来歴らいれきいつわった書物しょもつのことであるから、その意味いみでは序文じょぶん偽作ぎさくであれば古事記こじきは「偽書ぎしょ」ということになる。もちろん、その場合ばあい本文ほんぶん正当せいとうせいべつ問題もんだいである。
  • 本文ほんぶん偽書ぎしょせつでは、『古事記こじき』には『日本書紀にほんしょき』よりあたらしい神話しんわ内容ないようや、延喜えんぎしきえない神社じんじゃふくまれているとして、より時代じだいくだ平安へいあん時代じだい初期しょきころ、または鎌倉かまくら時代ときよ成立せいりつとみなす。このせつには後世こうせい序文じょぶん本文ほんぶん全部ぜんぶ創作そうさくしたとするせつと、『日本書紀にほんしょき同様どうようふる史料しりょう途中とちゅう途中とちゅう加筆かひつ」しつづけたものとするせつがある。また『新撰しんせん姓氏せいしろく』でも『古事記こじき本文ほんぶん登場とうじょうする系譜けいふ伝承でんしょう引用いんようされていないなど、その成立せいりつ不審ふしんてん多々たたある。

このうち、本文ほんぶん偽書ぎしょせつのうち全部ぜんぶ創作そうさくしたとするせつ上代じょうだい文学ぶんがくかい歴史れきし学界がっかいにはれられていない。上代じょうだい特殊とくしゅ仮名遣かなづかいなかでも、『万葉集まんようしゅう』『日本書紀にほんしょき』ではすで消失しょうしつしている2種類しゅるいの「モ」の表記ひょうきじょう区別くべつが、『古事記こじき』には残存ざんそんするからである。[注釈ちゅうしゃく 5] なお序文じょぶんには上代じょうだい特殊とくしゅ仮名遣かなづかい一切いっさい使つかわれていない。

序文じょぶん偽書ぎしょせつ論拠ろんきょに、稗田ひえた阿礼あれい実在じつざいせいひくく、太安萬侶おおのやすまろのようなせい記載きさいがないことが国史こくしとして不自然ふしぜんであること、官位かんいのない低級ていきゅう身分みぶん人間にんげん[注釈ちゅうしゃく 6]舎人とねりとして登用とうようしたとはかんがえられないこと、編纂へんさんみことのりれいくだされたとし記載きさいがないこと、『古事記こじき以外いがい史書ししょ(『ぞく日本にっぽん』『ひろしじん私記しき』『日本にっぽん竟宴和歌わか』など)では「ふとしやす麻呂まろ」とかれているのに、『古事記こじき序文じょぶんのみ「太安萬侶おおのやすまろ」とことなる表記ひょうきになっていることがあった。ところが、1979ねん昭和しょうわ54ねん)1がつ奈良なら此瀬このせ(このせ)まちより太安万侶おおのやすまろ墓誌ぼしめい出土しゅつどし、そこに

左京さきょう四條しじょう四坊しぼうしたがえよんくんとうふとし朝臣あそんやすまんみずのと
としなながつろくにちそつ 養老ようろうななねん十二月じゅうにがつじゅうにちおつ[注釈ちゅうしゃく 7]

とあったことが判明はんめいし、漢字かんじ表記ひょうき異同いどうという論拠ろんきょかんしては否定ひていされることとなった。しかし、偽書ぎしょせつにおいては太安萬侶おおのやすまろ表記ひょうき異同いどう問題もんだいではなく、やすまん自身じしんが『古事記こじき編纂へんさん関与かんよしたことがなん証明しょうめいされていないことが問題もんだいとされる[26]

その平城京へいじょうきょうあとから出土しゅつどした、太安万侶おおのやすまろ墓誌ぼしめいふく木簡もっかん解析かいせきにより、『古事記こじき成立せいりつ当時とうじには、すでに『古事記こじき』で使用しようされる言葉ことば一般いっぱんてき使用しようされていたと判明はんめいした。それにより序文じょぶんちゅうの「しかれども、上古じょうこときげん(ことばこころ)ならびにほお(すなほ)にして、ぶんを構ふること、におきてすなはちかたし。」は序文じょぶん作成さくせいしゃ当時とうじ日本語にほんご使用しようじょうきょうらずに想像そうぞういたのではないかと指摘してきされている[だれ?]

また、『古事記こじき』が編纂へんさんされた時期じき正史せいしとされている『ぞく日本にっぽん』は、元々もともとぜん30かん編纂へんさんされていたものが途中とちゅうぜん20かん変更へんこうされた結果けっか原稿げんこうから相当そうとう記述きじゅつ削除さくじょもしくは圧縮あっしゅくされたのち姿すがた現在げんざいの『ぞく日本にっぽん』になったとかんがえられている。このさいに『古事記こじき』にかんする記述きじゅつもと原稿げんこうには記載きさいされていたものの、ぜん20かんにする過程かてい完成かんせい記事きじふくめてけずられてしまったことも十分じゅうぶんかんがえられる。これは『日本書紀にほんしょき』にかんしても同様どうようで、こちらには完成かんせいした事実じじつしめ記述きじゅつがあるもののの、本来ほんらいならば記述きじゅつされるべき舎人親王とねりしんのうが『日本書紀にほんしょき』の編纂へんさん責任せきにんしゃとなった経緯けいいしめ記事きじ完成かんせい天皇てんのうされたはず上表じょうひょうぶん完成かんせいおこなわれたはず編纂へんさん関係かんけいしゃへの褒賞ほうしょうかんする記事きじせられておらず、不完全ふかんぜん記述きじゅつとどまっている[27]。つまり、『ぞく日本にっぽん編纂へんさんにおける分量ぶんりょう圧縮あっしゅく過程かていで『古事記こじき』にかんする記事きじ省略しょうりゃくされた可能かのうせいがある以上いじょう史書ししょへの記述きじゅつ有無うむによって偽書ぎしょせつ根拠こんきょにはなりがたいことをしめしている。

外国がいこくやく

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古事記こじき』の最初さいしょ英語えいご完訳かんやくは、1882ねん明治めいじ15ねん)に初版しょはんされた英国えいこくじんバジル・ホール・チェンバレンによる「KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters”」である[28]日本にっぽん関心かんしんっていたラフカディオ・ハーン(小泉こいずみ八雲やくもは、この英訳えいやくほんをアメリカの出版しゅっぱんしゃからわたされ、日本にっぽんきの決意けついかたくした[29]

サブカルチャーでの受容じゅよう

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古事記こじき』はサブカルチャーでも受容じゅようされ、漫画まんがライトノベルなどもされている。

本文ほんぶん目次もくじ

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上巻じょうかん

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ちゅうまき

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下巻げかん

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内容ないよう

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じょあわせたり

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撰者せんじゃであるふとし朝臣あそんやすまん侶が天子てんし奏上そうじょうする形式けいしきならった序文じょぶんである。

じょだい1だん 稽古けいこあきらいまいにしえを稽へて、いまらす)
ここでは『古事記こじき』の内容ないよう要点ようてん天地開闢てんちかいびゃくからげ、さらに、それぞれの御代みよ事跡じせきことなるが政治せいじについての記載きさいにはほぼあやまりはなかったとべている。
しんやすまん侶言す。それ、こんもとすでりて、気象きしょうひつじこうあらはれず。もなくためし。だれれかそのかたちらむ。
しんやすまん侶言 おっとこんもとすんでしこり 氣象きしょうこう 無名むめい無爲むい だれ其形
ほしうかくことおのおのことに、ぶんしつおなじくあらずと雖も、いにしえかむがへてふう猷をすでくずおれたるになわただし、いまらしててんきょうぜっえむとするにはずといふことなし。
雖歩驟各 ぶんしつ不同ふどう 莫不稽古けいこ以繩ふう猷於すんでくずおれ あきらこん以補てんきょう於欲ぜっ
じょだい2だん古事記こじきせんろく発端ほったん
ここでは、まず、天武天皇てんむてんのう事跡じせきおごそかにべたのち天武天皇てんむてんのう稗田ひえた阿禮あれい勅語ちょくごして、『みかど』『きゅう』を誦習させたが、結局けっきょく文章ぶんしょうのこせなかった経緯けいいしるしている。
…ここに天皇てんのう天武てんむみことのりりたまひしく「ちんわれきたまへらく、『諸家しょかのもたらすみかどおよびほんすで正実まさみたがえひ、おお虚偽きょぎふ。』といへり。いまときたりて、しつあやまりあらためずは、いまいくねんをもずしてそのむねほろびなんとす。これすなはち、邦家ほうか経緯けいい王化おうかおおとりもとなり。これ、みかどせんろくし、きゅうを討覈して、いつわりをけずまことさだめて、後葉こうようのちのちながれつたへむとよくおもふ。」とのりたまひき。とき舎人とねりとねりありき。せいうぢ稗田ひえたひえだ阿禮あれいあれとしはこれじゅうはちひと聡明そうめいにして、みみわたればくちみ、みみはらいるればしんしるしき。すなはち、阿禮あれい勅語ちょくごしてみかどすめらぎまましすめらみことのひつぎおよ先代せんだいきゅうさきつよのふることを誦み習はしめたまひき。
於是天皇てんのうみことのり ちん聞諸これしょみかど及本 すんでたがえ正實まさみ 虚僞きょぎ 當今とうこんこれ あらため其失 けいいくねん 其旨よくめつ 斯乃邦家ほうか經緯けいい 王化おうかおおとりもとおもんみせんろくみかど 討覈きゅう そぎにせ定實さだざね よくりゅう後葉こうよう ゆう舍人とねり せい稗田ひえだめい阿禮あれい みのる廿にじゅうはち ためじん聰明そうめい 度目どめ誦口 はらいみみ勒心 そく勅語ちょくご阿禮あれい れい誦習みかどすめらぎつぎ 及先だいきゅう
じょだい3だん古事記こじき』の成立せいりつ
ここでは、元明もとあき天皇てんのうとなって、みことのりによりやすまん侶が稗田ひえた阿禮あれいの誦習をせんろくした経緯けいいべ、最後さいご内容ないよう区分くぶんについてしるしている。経緯けいいでは言葉ことば文字もじえるのに非常ひじょう苦労くろうしたむね具体ぐたいてきしるされている。
…ここに、きゅうあやまりたがへるをしみ、さきの謬りまじれるをせいさむとして、和銅わどうよんねんきゅうがつじゅうはちにちをもちて、しんやす麻呂まろみことのりりして、稗田ひえた阿禮あれいの誦むしょ勅語ちょくごきゅうせんろくして献上けんじょうせしむるといへれば、つつしみてみことのりむねおほみことずいまにまに、子細しさいりひろひぬ。しかれども、上古じょうこときげんことばこころならびにほおすなほにして、ぶんを構ふること、におきてすなはちかたし。
於焉惜舊あやませいさき紀之のりゆき謬錯 以和どうよんねんきゅうがつじゅうはちにち みことのりしんやすまんせんろく稗田ひえた阿禮あれいしょ誦之勅語ちょくごきゅう獻上けんじょうしゃ 謹隨みことのりむね 子細しさい摭然、上古じょうことき げんなみほお 敷文しきぶみ構句 於字そくなん
大抵たいていしるところは、天地開闢てんちかいびゃくよりはじめて、しょう治田はるたをはりだ御世みよをはる。てん御中おんちゅう主神しゅしんあめのみなかぬしのかみ以下いか日子にっしなみげんけん草葺くさぶきごういのちひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと以前いぜん上巻じょうかんとなし、かみやまと伊波いはあや毘古天皇てんのうかむやまといはれびこのすめらみこと以下いかしなへび御世みよほむだのみよ以前いぜんちゅうまきとなし、だいすずめ皇帝こうていおほさぎのみかど以下いかしょう治田はった大宮おおみやをはりだのおほみや以前いぜん下巻げかんとなし、あわせてさんかんろくして、つつしみてけんじのぼる。しんやすまん侶、まこと惶誠おそれ頓首とんしゅ頓首とんしゅ
大抵たいていしょ記者きしゃ 天地開闢てんちかいびゃくはじめ 以訖于しょう治田はるた御世みよ てん御中おんちゅう主神しゅしん以下いか 日子にっしなみげんけん草葺くさぶきごうとうと以前いぜん ため上卷じょうかん しんやまと伊波いはあや毘古天皇てんのう以下いか しな御世みよ以前いぜん ためちゅうまき だいすずめ皇帝こうてい以下いか しょう治田はった大宮おおみや以前いぜん ため下卷げかん 并録さんかん 謹以獻上けんじょう しんやすまんまこと惶誠おそれ頓首とんしゅ頓首とんしゅ
和銅わどうねん正月しょうがつじゅうはちにち せい五位上勲五等太朝臣安萬侶

上巻じょうかん(かみつまき)

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天地開闢てんちかいびゃくから日本にっぽん列島れっとう形成けいせい国土こくど整備せいびかたられ、天孫てんそん降臨こうりんてイワレヒコ(神武じんむ天皇てんのう)の誕生たんじょうまでをしるす。いわゆる「日本にっぽん神話しんわ」である。

天地開闢てんちかいびゃくのちななだいかみ交代こうたいし、その最後さいごイザナギイザナミまれた。二神にかみ高天原たかまがはらてん)から葦原よしわら中津なかつこく地上ちじょう世界せかい)にり、結婚けっこんしてむすばれ、そのとして、だいはち島国しまぐにみ、ついで、やまかみうみかみなど様々さまざまかみんだ。こうしたくに途中とちゅう、イザナミはかみんだため、火傷かしょうんでしまい、出雲いずもこく伯耆ほうきこくさかいにある比婆ひばさんげん島根しまねけん安来やすぎ)にほうむられた。イザナギはイザナミをこいしがり、黄泉よみくに死者ししゃ世界せかい)をおとずもどそうとするが、もどせず、くにみは完成かんせいのままわる。

イザナギは黄泉よみくにけがとすため、みそぎおこない、左目ひだりめあらったときに天照大御神あまてらすおおみかみアマテラスオオミカミ右目みぎめあらったときに月読つきよみいのちツクヨミノミコトはなあらったときに須佐すさおとこいのちスサノオノミコトむ。その最初さいしょんだ淡路島あわじしまかそけみやごした。これらさんかみ三貴子みきこばれ、かみ々のなか重要じゅうよう位置いちめるのだが、月読つきよみいのちかんしてはその誕生たんじょう記述きじゅつ一切いっさいない。スサノオノミコトは乱暴らんぼうしゃなため、あねのアマテラスに反逆はんぎゃくうたがわれる。そこで、アマテラスとスサノオノミコトはしん潔白けっぱく調しらべる誓約せいやくうけい)をおこななんさん女神めがみ誕生たんじょうする。その結果けっか、スサノオノミコトは潔白けっぱく証明しょうめいするが、調子ちょうしってあばれてしまい、そのためアマテラスは天岩屋戸あまのいわやどじこもるが、あつまったしょかみ知恵ちえそとすことに成功せいこうする。

一方いっぽう、スサノオノミコトはかみ々の審判しんぱんにより高天原たかまがはら追放ついほうされ、葦原よしわら中津なかつこく出雲いずもこくくだる。ここまでは乱暴らんぼうなだけだったスサノオノミコトの様相ようそう変化へんかし、英雄えいゆうてきなものとなってヤマタノオロチ退治たいじおこなう。つぎに、スサノオノミコトの子孫しそんである大国たいこく主神しゅしん登場とうじょうする。大国たいこくぬしいねうさぎ因幡いなば白兎しろうさぎ)や求婚きゅうこん受難じゅなんはなしつづき(大国たいこくぬし神話しんわ)、スクナヒコナとともにくにづくすすめたことがしるされる。国土こくどととのうとくにゆず神話しんわうつる。天照大御神あまてらすおおみかみ葦原よしわら中津なかつこく統治とうちけん天孫てんそん委譲いじょうすることを要求ようきゅうし、だい国主こくしゅ子供こども事代ことしろ主神しゅしんはそれを受諾じゅだくする。けん御名ぎょめいかたしんは、承諾しょうだくせず抵抗ていこうするが、のち受諾じゅだくする。葦原よしわら中津なかつこく統治とうちけんると高天原たかまがはらかみ々は天孫てんそんニニギ日向ひなた高千穂たかちほ降臨こうりんさせる。つぎに、ニニギの子供こどもやま幸彦さちひこうみ幸彦さちひこ説話せつわとなり、浦島うらしま太郎たろうのルーツともいわれる海神わたつみ宮殿きゅうでん訪問ほうもんことぞく服属ふくぞく由来ゆらいなどがかたられる。やま幸彦さちひこ海神わたつみむすめ結婚けっこんし、誕生たんじょうした息子むすこもまた海神わたつみむすめ結婚けっこんし、まご神武じんむ天皇てんのう誕生たんじょうして上巻じょうかんわる。

上巻じょうかんてくるおもかみ

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ちゅうまき(なかつまき)

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初代しょだい神武じんむ天皇てんのうから15だい応神天皇おうじんてんのうまでをしるす。2だいから9だいまではかけはちだいばれ、系譜けいふなどの記述きじゅつのみで、説話せつわなどは記載きさいすくない。そのため、このはちだい後世こうせい追加ついかされた架空かくう存在そんざいであるというせつがあるが、実在じつざいせつ存在そんざいする。なお、神武じんむ東征とうせいはじまり、ヤマトタケル神功じんぐう皇后こうごうについてしるす。「神武じんむ天皇てんのう」などのかく天皇てんのうかんふう諡号しごうは『古事記こじき編纂へんさん当時とうじさだめられていないため、国風くにぶり諡号しごうのみでしるされている。かく天皇陵てんのうりょう現在げんざい比定ひていについては「天皇陵てんのうりょう#一覧いちらん」も参照さんしょう

ちゅうまきてくるおも人物じんぶつ

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1だい神武じんむ天皇てんのう
かみやまと伊波いはあや毘古いのちかむやまといはれびこのみことうねしろ檮原ゆすはらみやかしはらのみや奈良ならけん畝傍山うねびやま東南とうなん)にすわいまして、てんしたらしめしき。天皇てんのうとし享年きょうねん)はいちひゃくさんじゅうななさいももあまりみそぢまりななとせ御陵ごりょうみはか畝傍山うねびやまきたかたしろかしにあり(奈良ならけん橿原かしはら)。
2だい綏靖天皇てんのう
かみぬまかわみみいのちかむぬなかはみみのみこと葛城かつらぎ高岡たかおかみや奈良ならけん御所ごしょ)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしよんじゅうさいよそぢまりいつとせ御陵ごりょう衝田つきだのおかにあり(奈良ならけん橿原かしはら)。
3だい安寧天皇あんねいてんのう
木津きづ日子にっし玉手たまてみるいのちしきつひこたまでみのみこと片鹽かたしお浮穴うけなみや奈良ならけん大和高田やまとたかだ)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしよんじゅうきゅうさいよそぢまりここのとせ御陵ごりょう畝傍山うねびやま御陰おかげみほとにあり(奈良ならけん橿原かしはら)。
4だい懿徳天皇てんのう
大倭おおやまと日子にっし鉏友いのちおほやまとひこすきとものみことけいさかい岡宮おかみや奈良ならけん橿原かしはら)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしよんじゅうさいよそぢまりいつとせ御陵ごりょう畝傍山うねびやま真名子まなこまなごたにうえにあり(奈良ならけん橿原かしはら)。
5だい孝昭たかあき天皇てんのう
しん日子にっし訶惠こころざしどろいのちみまつひこかゑしねのみこと葛城かつらぎわき上宮かみみや奈良ならけん御所ごしょ)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしきゅうじゅうさんさいここのそぢまりみとせ御陵ごりょう掖上わきがみわきがみ博多はかたはかたやまうえにあり(奈良ならけん御所ごしょ)。
6だい孝安たかやす天皇てんのう
大倭おおやまとたい日子にっしこく押人いのちおほやまとたらしひこくにおしひとのみこと葛城かつらぎしつ秋津島あきつしま奈良ならけん御所ごしょ)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくじゅうさんさいももあまりはたちまりみとせ御陵ごりょう玉手たまてたまでおかうえにあり(奈良ならけん御所ごしょ)。
7だいこうれい天皇てんのう
大倭おおやまと根子ねっこ日子にっし邇命おほやまとねこひこふとにのみこと黒田くろだあん戸宮とみや(いおり戸宮とみや)奈良ならけん田原本たわらもとまち)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくろくさいももあまりむとせ御陵ごりょう片岡かたおかうまざかうえにあり(奈良ならけん王寺おうじまち)。かけはちだい唯一ゆいいつだい吉備津きびつ日子にっしいのちわかけん吉備津きびつ日子にっしいのちによる吉備きび平定へいてい簡潔かんけつかれている。
8だいこうもと天皇てんのう
大倭おおやまと根子ねっこ日子にっしこく玖琉いのちおほやまとねこひこくにくるのみことけい境原さかいはらみや奈良ならけん橿原かしはら)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしじゅうななさいいそぢまりななとせ御陵ごりょうけんなかおかうえにあり(奈良ならけん橿原かしはら)。
9だい開化かいか天皇てんのう
わかやまと根子ねっこ日子にっしだい毘毘いのちわかやまとねこひこおほびびのみこと春日しゅんじつよこしまかわみやいざかはのみや奈良なら)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしろくじゅうさんさいむそぢまりみとせ御陵ごりょうよこしまいざかわさかうえにあり(奈良なら)。
10代たかしかみ天皇てんのう
眞木まき入日いりひしるしめぐみいのちみまきいりひこいにゑのみことしき水垣みずがきみやみずがきのみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくろくじゅうはちさいももあまりむそぢまりやとせつちのえとらとし十二月じゅうにがつくずれりましき。御陵ごりょう山邊やまべやまのべみちまがりおかうえにあり(奈良ならけん天理てんり)。
11だいたれじん天皇てんのう
久米くめ毘古伊佐いさ知命ちめいいくめいりびこいさちのみこと玉垣たまがきみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくじゅうさんさいももあまりいそぢまりみとせ御陵ごりょう菅原すがわら立野たちのなかにあり(奈良なら)。
12だいけいぎょう天皇てんのう
だいおび日子にっし淤斯りょ和氣わき天皇てんのうおほたらしひこおしろわけのすめらみことまといむこうまきむく日代ひしろみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくさんじゅうななさいももあまりみそぢまりななとせ御陵ごりょう山邊やまべみちうえにあり(奈良ならけん天理てんり)。
やまとけんいのちやまとたけるのみこと
のうはんのぼの三重みえけん鈴鹿すずかぐん)にいたりまし、うたふるすなわくずれりましき。御陵ごりょうつくる。ここに八尋やひろはくさとしとりやひろしろちどりりて、てんかけりてはまきてぎょうでましき。………河内かわうちこくこころざしいくしきまりましき。、其地に御陵ごりょうつくりてしずまりさしめき。すなわちその御陵ごりょうごうけて、白鳥はくちょう御陵ごりょうう。
13だいなりつとむ天皇てんのう
わかおび日子にっし天皇てんのうわかたらしひこのすめらみこと志賀しがこうあなみやたかあなほのみや滋賀しがけん大津おおつ)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしきゅうじゅうさいここのそぢまりいつとせおつとしさんがつじゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう沙紀さきたたなみにあり(奈良ならけん奈良なら)。
14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのう
おび中日ちゅうにち天皇てんのうたらしなかつひこのすめらみことあなもんあなど山口やまぐちけん下関しものせきちょう)、また筑紫つくし志比しひみやかしひのみや福岡ふくおか香椎かしい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしじゅうさいいそぢまりふたとせみずのえいぬとしろくがつじゅういちにちくずれりましき。御陵ごりょう河内かわうちめぐみ長江ながえながえにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
神功じんぐう皇后こうごう
いきちょうたいうれいのちおきながたらしひめのみこと皇后こうごうとしいちひゃくさい(ももとせ)にしてくずれりましき。せまじょうだてれつ(たたなみ)のりょうほうむりまつりき(奈良なら)。
15だい応神天皇おうじんてんのう
しなへび和氣わきいのちほむだわけのみことけいしまあきらみやあきらのみや奈良ならけん橿原かしはら)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくさんじゅうさいももあまりみそとせかぶとうまとしきゅうがつきゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう川内かわうちかふちめぐみふくもふしおかにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。

下巻げかん(しもつまき)

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16だい仁徳天皇にんとくてんのうから33だい推古天皇すいこてんのうまでをしるす。24だい仁賢天皇にんけんてんのうから推古天皇すいこてんのうまではかけはちだいおなじく系譜けいふなどの記述きじゅつのみで具体ぐたいてき著述ちょじゅつすくない。これは、当時とうじにおいては時代じだいちか自明じめいのことなのでかれなかったなどといわれる。

下巻げかんてくるおも人物じんぶつ

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16だい仁徳天皇にんとくてんのう
だいすずめいのちおほさざきのみこと難波なんば高津たかつみや大阪おおさか)にすわいまして、てんしたらしめしき。天皇てんのうとしはちじゅうさんさいやそぢまりみとせちょうしげるとしはちがつじゅうにちくずれりましき。御陵ごりょうもうもず耳原みのはらみみはらにあり(大阪おおさかさかい)。
17だい履中天皇りちゅうてんのう
よこしま本和氣ほんわけいのちいざほわけのみこと伊波いはあやいはれ若櫻わかさみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしろくじゅうよんさいむそじまりよとせみずのえさるとし正月しょうがつさんにちくずれりましき。御陵ごりょうもうにあり(大阪おおさかさかい)。
18だいはんせい天皇てんのう
みず別命べつめいみづはわけのみこと多治比たじひたじひ柴垣しばがきみやましまして、てんしたなおらしめしき(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。天皇てんのうとしろくじゅうさいむそとせちょううしとしなながつくずれりましき。御陵ごりょうもう受野もずのにあり。
19だい允恭天皇いんぎょうてんのう
おとこあさあいだ若子わかこ宿禰すくねいのちをあさづまわくごのすくねのみこととお飛鳥あすかみやとほつあすかのみや奈良ならけん明日香あすかむら)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしななじゅうはちさいななそぢまりやとせかぶとうまとし正月しょうがつじゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう河内かわうちめぐみちょうえだながえにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
20だい安康天皇あんこうてんのう
あな御子みこあなほのみこ石上いしがみいそのかみあなみやあなほのみや奈良ならけん天理てんり)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしじゅうろくさいいそぢまりむとせ御陵ごりょう菅原すがわら伏見ふしみおかにあり(奈良なら)。
21だい雄略天皇ゆうりゃくてんのう
大長谷おおながたにわかけんいのちおほはつせわかたけのみこと長谷ながたにはつせ朝倉あさくらみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしいちひゃくじゅうよんさいももあまりはたちまりよとせおのれとしはちがつきゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう河内かわうち多治比たじひこうたかわしにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
22だいせいやすし天皇てんのう
白髪はくはつ大倭おおやまと根子ねっこいのちしらかのおほやまとねこのみこと伊波いはあやいはれ栗宮くりみやみかくりのみや奈良ならけん橿原かしはら)にましまして、てんしたなおらしめしき。
23だい顕宗けんそう天皇てんのう
袁祁いし別命べつめいをけのいはすわけのみこときん飛鳥あすかみやちかつあすかのみや大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)にましまして、てんしたなおらしめすことはちさいなりき。天皇てんのうとしさんじゅうはちさいみそぢまりやとせ御陵ごりょう片岡かたおかいしいはつきおかうえにあり(奈良ならけん香芝かしば)。
24だい仁賢天皇にんけんてんのう
祁命おけのみこと石上いしがみこう高宮たかみや奈良ならけん天理てんり[30])にましまして、てんしたなおらしめしき。
25だいたけれつ天皇てんのう
小長谷こながやわかすずめいのちおはつせのわかさざきのみこと長谷ながたにれつ木宮きみやなみきのみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめすことはちさいなりき。御陵ごりょう片岡かたおかいし坏のおかにあり。
26だいつぎたい天皇てんのう
袁本柕命をほどのみこと伊波いはあや玉穂たまほみやたまほのみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめしき。天皇てんのうとしよんじゅうさんさいよそじまりみとせ丁未ていみとしよんがつきゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう三島みしまあい御陵ごりょうなり(大阪おおさか三島みしまぐん)。磐井いわいらん(「石井いしい」と表記ひょうき)について簡潔かんけつれている。
27だい安閑天皇あんかんてんのう
こうくに押建きんいのちひろくにおしたけかなひのみことまがりきむはしみやかなはしのみや奈良ならけん橿原かしはら)にましまして、てんしたなおらしめしき。おつとしさんがつじゅうさんにちくずれりましき。御陵ごりょう河内かわうち古市ふるいちふるち高屋たかやむらにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
28だいせん天皇てんのう
たてしょうこうくに押楯いのちたけおひろくにおしたてのみことひのきひのくまいおり入野いりのみやいほりののみや奈良ならけん明日香あすかむら)にましまして、てんしたなおらしめしき(奈良ならけん明日香あすかむら)。
29だい欽明天皇てんのう
天国てんごく押波りゅう岐広にわ天皇てんのうあめくにおしはるきひろにわのすめらみこと木島きしましきしま大宮おおみや奈良ならけん桜井さくらい[31]ましまして、てんしたなおらしめしき。
30だいさとしたち天皇てんのう
ぬま名倉なくらふとしだまじきいのちぬなくらふとたましきのみこと田宮たみやをさだのみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめすこと、じゅうよんさいなりき。かぶとたつとしよんがつろくにちくずれりましき。御陵ごりょう川内せんだいちょうしながにあり(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
31だいよう明天めいてんすめらぎ
たちばなゆたかにちいのちたちばなのとよひのみこと池邊いけべみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめすこと、さんさいなりき。丁未ていみとしよんがつじゅうにちくずれりましき。御陵ごりょういしすんいはれ掖上わきがみいけのうえにありしを、のちちょうなかりょううつしき(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。
32だいたかしたかし天皇てんのう
長谷部はせべわかすずめいのちはつせべのわかささぎのみこと倉橋くらはし柴垣しばがきみやしばかきのみや奈良ならけん桜井さくらい)にましまして、てんしたなおらしめすこと、よんさいなりき。みずのえとし十一月じゅういちがつじゅうさんにちくずれりましき。御陵ごりょうくら椅のおかうえにあり(奈良ならけん桜井さくらい)。
33だい推古天皇すいこてんのう
ゆたかしょく炊屋うりいのちとよみけかしきやひめのみことしょう治田はるたみやをわりたのみや奈良ならけん明日香あすかむら)にましまして、てんしたなおらしめすこと、さんじゅうななさいなりき。戊子ぼしとしさんがつじゅうにちくずれりましき。御陵ごりょう大野おおのおかうえにありしを、のちちょうたいりょううつしき(大阪おおさか南河内みなみかわちぐん)。

全文ぜんぶん

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  • 梵舜ふで古事記こじき上巻じょうかん 室町むろまち時代じだい末期まっきうつし 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[35]
  • 梵舜ひつ古事記こじきちゅうまき 室町むろまち時代じだい末期まっきうつし 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[36]
  • 梵舜ひつ古事記こじき下巻げかん 室町むろまち時代じだい末期まっきうつし 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[37]
  • ほんきょ宣長のりながくん古訓こくん古事記こじき』3かん 京都きょうと : 永田ながた調ちょう兵衛ひょうえ, 1874. こくほん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー[38]
  • 荷田春満かだのあずままろ訓点くんてん古事記こじき上巻じょうかん 寛永かんえい21ねん(1644ねん)かん 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[39]
  • 荷田春満かだのあずままろ訓点くんてん古事記こじきちゅうまき 寛永かんえい21ねん(1644ねん)かん 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[40]
  • 荷田春満かだのあずままろ訓点くんてん古事記こじき下巻げかん 寛永かんえい21ねん(1644ねん)かん 國學院大學こくがくいんだいがくデジタルライブラリー所収しょしゅう[41]
  • けん瑜筆『真福寺しんふくじほん 古事記こじきまきじょう 1925ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー[42]
  • けん瑜筆『真福寺しんふくじほん 古事記こじきまきちゅう 1925ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー[43]
  • けん瑜筆『真福寺しんふくじほん 古事記こじきまき 1925ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー[44]
  • 幸田こうだ成友しげとも校訂こうてい古事記こじき』1937ねん 岩波書店いわなみしょてん (岩波いわなみ文庫ぶんこ教科書きょうかしょばん ; 1) 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー[45]
  • けん瑜筆『国宝こくほう真福寺しんふくじほん 古事記こじき』1945ねん 京都きょうとしるししょかん 複製ふくせい
  • けん瑜筆『国宝こくほう 真福寺しんふくじほん 古事記こじき』1978ねん さくらかえでしゃ 影印えいいん
  • みちはてひつみちはてほん 古事記こじき』1943ねん 貴重きちょう図書としょ複製ふくせいかい 複製ふくせい
  • みちさちひつ伊勢いせほん 古事記こじき』1936ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい
  • はる瑜筆『はる瑜本 古事記こじき』1930ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい
  • はる瑜筆『古事記こじき上巻じょうかん おうひさしさんじゅうさんねん はる瑜写』神宮じんぐう古典こてんせき影印えいいんくさむらかん1『古事記こじき 日本書紀にほんしょき(うえ)』1982ねん 八木はちぼく書店しょてん 影印えいいん
  • 卜部うらべ兼永かねながひつ卜部うらべ兼永かねながほん 古事記こじき』1981ねん つとむまことしゃ 影印えいいん
  • 卜部うらべ兼永かねながひつ兼永かねながほん古事記こじき 出雲いずも風土記ふどきしょう CD‐ROM』国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかんデータベース古典こてんコレクション 2003ねん 岩波書店いわなみしょてん
  • ゆうはんふで古事記こじきみことけいかくくさむらかん 1937ねん 前田まえだいくとく財団ざいだん 複製ふくせい
  • ゆうはんひつ古事記こじきみことけいかく善本ぜんぽん影印えいいん集成しゅうせい だいよん古代こだい史籍しせき30 2002ねん 八木はちぼく書店しょてん 影印えいいん
  • 猪熊いのくま信男のぶおぞう 古事記こじき』1936~1937ねん 古典こてん保存ほぞんかい 複製ふくせい
  • いさおひつ古事記こじき阪本さかもとりゅうもん文庫ぶんこ善本ぜんぽんくさむらかん5 1986ねん つとむまこと出版しゅっぱん 影印えいいん

注解ちゅうかい刊行かんこう

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現代げんだいやく新版しんぱん

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注釈ちゅうしゃくほん

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朗読ろうどく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 高天原たかまがはら(たかまがはら)」は、『古事記こじき』のほかでは、神道しんとうにおいて唱される「祝詞のりと」でも多用たようされる。
  2. ^ 古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』『万葉集まんようしゅう』に祭神さいじん記載きさいがある神社じんじゃは、伊勢神宮いせじんぐう住吉すみよし神社じんじゃ出雲いずも大社たいしゃ大神神社おおみわじんじゃなどにかぎられている。10世紀せいきまれた『延喜えんぎしきかみめいちょう』においても、一部いちぶ社名しゃめい鎮座ちんざなどから主祭しゅさいしん類推るいすいできるが、おおくは地名ちめいしゃのみで祭神さいじん不明ふめいである。詳細しょうさい祭神さいじん参照さんしょう
  3. ^ 本来ほんらい仮名遣かなづかいとは現代げんだい仮名遣かなづかの「お」と「を」のように同音どうおんのものをことなる文字もじけることであるが、上代じょうだい文献ぶんけんられる万葉仮名まんようがな特殊とくしゅ使つかけの場合ばあい音韻おんいんちがいをあらわしているので特殊とくしゅ仮名遣かなづかいんでいる。通説つうせつによれば、上代じょうだい日本語にほんごは、キヒミ・ケヘメ・コソトノモヨロの13音節おんせつとこれらの濁音だくおんぶしがそれぞれ甲乙こうおつるいけられている。ただし、「モ」のけは記紀ききのみにみられるものである。
  4. ^ もともと『古事記こじき』を所蔵しょぞうしていたのは真福寺しんふくじ岐阜ぎふけん羽島はしま)であったが、徳川とくがわ家康いえやすいのちにより、真福寺しんふくじ一院いちいんである「宝生ほうしょういん」が名古屋なごやじょうした移転いてんさせられたさいに、写本しゃほん同時どうじ移転いてんとなった。これが現在げんざい大須おおす観音かんのんである。詳細しょうさい当該とうがい項目こうもく参照さんしょう
  5. ^ 1997ねんハワイ大学はわいだいがくのジョン・ベントリーが修士しゅうし論文ろんぶん日本書紀にほんしょきβべーたぐんにおいてもモ甲乙こうおつとホ甲乙こうおつ区別くべつされていることを指摘してきし(Mo and Po in Old Japanese (2005))、マーク・ヒデオ・ミヤケもこれを支持しじ(Old Japanese: a phonetic reconstruction (2003, p. 258)。近年きんねんではアレクサンダー・ボビンもこれをみとめている(A Descriptive and Comparative Grammar of Western Old Japanese (2005))。国内こくないでも2005ねん犬飼いぬかいたかしがこれを支持しじする研究けんきゅう成果せいかなりしょ発表はっぴょうした(上代じょうだい文字もじ言語げんご研究けんきゅう, p. 121–156)。
  6. ^ 畿内きないだいぞく氏姓しせい記録きろくした『新撰しんせん姓氏せいしろく』に稗田ひえたについての記録きろくはない。
  7. ^ 太字ふとじ引用いんようしゃ
  8. ^ 注記ちゅうき白文はくぶん荒山あらやまけいいち入力にゅうりょく
  9. ^ 白文はくぶん、『訂正ていせい古訓こくん古事記こじき』が底本ていほんあやまおおし、(FireFox推奨すいしょう). 岡島おかじま昭浩あきひろ入力にゅうりょく

出典しゅってん

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  42. ^ 古事記こじきまきのぼる
  43. ^ 古事記こじきまきちゅう
  44. ^ 古事記こじきまき
  45. ^ 幸田こうだ成友しげとも校訂こうてい古事記こじき

参考さんこう文献ぶんけん

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著書ちょしょ
論文ろんぶん

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん人物じんぶつ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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