紀伝きでんたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

紀伝きでんたい(きでんたい)は、ひがしアジア歴史れきししょ書式しょしきひとつ。中国ちゅうごく正史せいし(いわゆるじゅうよん)はすべて紀伝きでんたいである。

構成こうせい[編集へんしゅう]

紀伝きでんたい以下いかのような項目こうもくから構成こうせいされる。「紀伝きでん」の名称めいしょうは、このうち上位じょうい位置いちづけられた2項目こうもく、「ほんきの」と「れつつて」に由来ゆらいする。

  • 本紀ほんぎ(ほんぎ)
皇帝こうていおうなどの支配しはいしゃかんした出来事できごととしごと記述きじゅつする。武田たけだ泰淳たいじゅんが「世界せかい中心ちゅうしん記録きろくである」[1]ったように、皇帝こうていなどの支配しはいしゃ中心ちゅうしんとした世界せかいたとえば倭国わのくにから朝貢ちょうこうがあった場合ばあいもそれについてしるす)[2]である。『史記しき』の「高祖こうそ本紀ほんぎ」「はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ」など。

本紀ほんぎっている皇帝こうてい実情じつじょうかかわらず、「世界せかい中心ちゅうしん」であることがもとめられている。したがって、中国ちゅうごく全土ぜんど太古たいこむかしからはたかん帝国ていこくのごとく統一とういつされていたかのような記載きさいになっている。現代げんだい歴史れきしがくでは、『史記しき』のなつ本紀ほんぎいん本紀ほんぎなどのころはたかん帝国ていこくのような強大きょうだい権力けんりょくかん民族みんぞく国家こっかがあったわけではないとされているが、本紀ほんぎでは儒教じゅきょう正統せいとう思想しそう中華ちゅうか思想しそうもとづいて実態じったいことなる記載きさいがなされていると、歴史れきし学者がくしゃ岡田おかだ英弘ひでひろべている。[3]

本紀ほんぎではくにひらいた帝王ていおうがいかに立派りっぱ人物じんぶつであり、天命てんめいけたかどうかが物語ものがたられるため、その王朝おうちょう古代こだい聖王せいおう末裔まつえいであるとか、なんの地位ちいもないひとであった場合ばあい瑞祥ずいしょう予言よげんについてかたられることがおおい。[4]たとえば先祖せんぞとう下級かきゅう官吏かんりぎず、祖父そふ武功ぶこうげたために出世しゅっせしただけで、本来ほんらいかん民族みんぞくだったかもうたがわしいそうふとしちょうただしたねまれたときに「あかひかり部屋へやおおい、わったかおりがえず、からだ金色きんいろひかかがやいてさんにちわらなかった」と瑞祥ずいしょう記録きろくされている。[5]

本来ほんらいかならずしも正統せいとう天子てんしについてのみのこうではなく、その勢力せいりょく天下てんかおおものについてもてられた。『史記しき』の「項羽こうう本紀ほんぎ」などがそのれいである。『漢書かんしょ』は「みかど」と「きさき」の本立ほんだてになっている。『史記しき』の「はた本紀ほんぎ」、『三国志さんごくし』の「たけみかど」など、本人ほんにん生前せいぜん皇帝こうてい名乗なのっていなくとも子孫しそん皇帝こうていとなりみかどごうおくられた場合ばあい本紀ほんぎれる慣例かんれいがある[6]神話しんわしかのこらず帝王ていおう記録きろくがはっきりしない場合ばあい世紀せいきじょ)」が冒頭ぼうとうもうけられ、神話しんわじょう帝王ていおうについてべている場合ばあいがある。『しょ』(きたしょ)「みかどだいいち じょ」がそのれいである。

  • (せいか)
諸侯しょこうかんする記述きじゅつ世界せかい中心ちゅうしんである皇帝こうてい恒星こうせい)のまわりをまわ惑星わくせい[1]たとえられる。「ちょう」「」など。諸侯しょこうおうという存在そんざい後世こうせいほとんどなくなったため、『史記しき以外いがいでは後世こうせいではあまてられていない。世々せぜろくけるもの」という意味いみだが、本来ほんらい諸侯しょこうのみならず「時代じだいをこえて祭祀さいしけるもの」についてもてた。『史記しき』の「孔子こうし」や「ちんまさるひろ」がそのれいである。[よう出典しゅってん]
  • 列伝れつでん(れつでん)
個々ここ人物じんぶつ伝記でんきである。『史記しき』ではとく義士ぎし大臣だいじん将軍しょうぐん学者がくしゃ文人もんとだい商人しょうにん皇帝こうてい寵愛ちょうあいされた同性愛どうせいあいもの任侠にんきょう冷酷れいこく残忍ざんにん酷吏こくりなど多彩たさい人物じんぶつ伝記でんきえがかれていた。[7]また、列伝れつでん冒頭ぼうとうは『史記しき以外いがいは、皇帝こうていになれなかった初代しょだい皇帝こうていのライバルの群雄ぐんゆうたちをくのがれいになっており、漢書かんしょでは項羽こうう列伝れつでんこうせきでん』が列伝れつでん筆頭ひっとうこう漢書かんしょでは光武みつたけみかどのライバルだったりゅうげんりゅうぼん列伝れつでん筆頭ひっとうとなっている。後世こうせいになると群雄ぐんゆう后妃こうひなどのうしろにあるケースもある(あかりなど)。『三国志さんごくし』では、正統せいとう皇帝こうていみとめられなかったりゅう[8]まごけんまごさく[9]まごけん[10]つて列伝れつでん)としてかれ、しょくのそれぞれの人物じんぶつがそのうしろにつづくが、それぞれこくごとにかれているのは異例いれいである。

群雄ぐんゆうがいない場合ばあいは、皇帝こうてい皇后こうごうえがく「后妃こうひでん」が列伝れつでん筆頭ひっとうとなる。したがって初代しょだい皇帝こうてい皇后こうごうがもっとも冒頭ぼうとうとなる。たとえば、すすむしょでは初代しょだい皇帝こうてい司馬しばせんみかど)の皇后こうごうであるちょう春華はるか[11]列伝れつでん筆頭ひっとうであり、もとでは初代しょだい皇帝こうていチンギスハン皇后こうごうボルテ[12]列伝れつでん筆頭ひっとうとなっている。後世こうせい場合ばあい后妃こうひでん皇帝こうていどもたちで帝位ていいがなかった人々ひとびと列伝れつでん群雄ぐんゆうつてとなっているケースもる。たとえば『あかり』では后妃こうひでん諸王しょおうでん公主こうしゅでんつぎ群雄ぐんゆう列伝れつでんている。

ひとつの列伝れつでんにん人生じんせいしるすものを「ごうでん」といい、同種どうしゅ人物じんぶついちまとめにして「貨殖かしょくでん」「忠義ちゅうぎでん」「任侠にんきょうでん」「れつおんなでん」「かたわざでん」などのようにまとめたものを「ざつでん」という。[13]史記しき列伝れつでんでは前述ぜんじゅつとお様々さまざま人物じんぶつげられていたが、後世こうせいになればなるほど列伝れつでん人物じんぶつげる範囲はんいせまくなる傾向けいこうがあり、こう漢書かんしょにおいて「市井しせいいやしいひとのわざなど、史書ししょ記載きさいする必要ひつようがない」として『史記しき』で庶民しょみんざつでんてられていたのをすべ削除さくじょしてしまってから、「後世こうせい史書ししょ列伝れつでん官僚かんりょう履歴りれきしょ上表じょうひょうぶんあつまりのようになってしまった」と岡田おかだ英弘ひでひろべている。[4]庶民しょみん女性じょせい列伝れつでんとうだい以降いこう正史せいしではほとんどなく、そうふみちょうじゅんつてあかりはたりょうだまつてなどが数少かずすくない例外れいがいである。ぎゃく日本にっぽんつくられた紀伝きでんたい史書ししょは『史記しき』にならってつくられたため、たとえばだい日本にっぽん続編ぞくへんにあたる飯田いいだ忠彦ただひこだい日本にっぽん野史やしでは史記しき以来いらいの『遊侠ゆうきょうでん』が『任侠にんきょうでん』として復活ふっかつしており、りょ新左衛門しんざえもん前田まえだ利益りえき前田まえだけい次郎じろうふとし)の列伝れつでんてられている。[14]

反乱はんらんこしたがあっけなく短期間たんきかんほろんだものも列伝れつでん末尾まつび夷狄いてき前後ぜんごしるされる。これを「叛臣でん逆臣ぎゃくしんでんりゅうぞくでん)」という。たとえばそうふみほうつてあかりなりつて清史きよし稿こう洪秀全こうしゅうぜんつて、『だい日本にっぽん野史やし九戸くのへ政実まさみつて天草あまくさ時貞ときさだつて明智あけち光秀みつひで惟任これとう光秀みつひでつてなどである。ただし、あまりにも反乱はんらん小規模しょうきぼだった場合ばあいきたそうそうこうのように列伝れつでんにすらてられずそうらえた『そうちょう叔夜つて一部いちぶ名前なまえのみのこるケースもる。

また「匈奴きょうど列伝れつでん」や「朝鮮ちょうせん列伝れつでん」など、周辺しゅうへん民族みんぞくくにについてならべたものもこうんだ。有名ゆうめいこころざし倭人わじんでん三国志さんごくししょ東夷あずまえびすでん倭人わじんじょう)もそのひとつであり、そのなかにはやまとおうたけし雄略天皇ゆうりゃくてんのうか)がそうぶんみかどにたてまつった上表じょうひょうぶん[15]奝然そうふとしむねにたてまつった『おう年代ねんだい[16]など現在げんざいでは原本げんぽんのこらず、正史せいしのみにのこった貴重きちょう史料しりょうふくんでいる。本来ほんらいは「列侯れっこう爵位しゃくいった家臣かしん)のつて」という意味いみでこの名称めいしょうとなったのではないかとかんがえられている(『史記しき』の「淮陰こう列伝れつでん」や「りょ韋列でん」など)。列侯れっこうはじてっこうっていたが、かんたけみかどのときにそのいみなりゅうとおる)を忌避きひしてつうこうあらためられ、そのさらに列侯れっこうあらためられた。ちょうど司馬しばが『史記しき』をいた時代じだいたけみかど時代じだいで、列侯れっこうばれはじめていた時期じき一致いっちするからである。[よう出典しゅってん]

  • こころざし(し)
天文てんもん地理ちり礼楽れいがく制度せいどなど、分野ぶんやべつ歴史れきし。『史記しき』ではしょとしているほか、てんりゃくこうなど歴史れきししょによっていろいろないいかたがされている。
  • ひょう(ひょう)
各種かくしゅ年表ねんぴょう月表げっぴょう
  • (さいき)
各地かくち割拠かっきょした自立じりつしょ勢力せいりょく記述きじゅつ天子てんし公然こうぜん反旗はんきひるがえして自立じりつしたり、みずか帝位ていい僭称せんしょうしたりしたてんるが、記述きじゅつされる群雄ぐんゆうはかつて天子てんしによって各地かくち封建ほうけんされた正統せいとう諸侯しょこう出自しゅつじであるのにたいし、記述きじゅつされる群雄ぐんゆう戦乱せんらんじょうじて各地かくち武装ぶそう蜂起ほうきした反乱はんらん勢力せいりょく出自しゅつじであるてんことなる。『すすむしょ』からはじまったもので、いわゆるえびすじゅうろくこく記述きじゅつもちいられた。司馬しば遷ははたまつ反乱はんらん首謀しゅぼうしゃちんまさるひろ事績じせきを「ちんまさるひろ」としているように、当初とうしょはこれを区別くべつする意図いとはなかったとかんがえられる。『しんだい』でのじゅうこく記述きじゅつとしてかれている。
  • 修史しゅうしみことのり(しゅうし しょう)
その歴史れきししょ奉勅ほうちょくこうせんであることをおおやけしめすために、編纂へんさんめいじた詔勅しょうちょくうつしを付録ふろくしたもの(『すすむしょ』)。
  • よんえびす(しい)
列伝れつでんから民族みんぞく出身しゅっしん人物じんぶつかんする記述きじゅつ独立どくりつさせたもの(『すすむしょ』)。『しんだい』ではちぎりりょう)がこれにふくまれる。
  • 国語こくごかい(こくご かい)
民族みんぞく王朝おうちょう場合ばあいかれらに固有こゆう民族みんぞく頻出ひんしゅつするため、とくにその解説かいせつえたもの(『りょう』『きむふみ』)。

正史せいし以外いがい紀伝きでんたい史書ししょ[編集へんしゅう]

基本きほんてき紀伝きでんたい史書ししょ正史せいしであることがおおいが、正史せいし意図いとして民間みんかん学者がくしゃいた紀伝きでんたい史書ししょいくつか存在そんざいする。これらはのち正式せいしき正史せいし編纂へんさんされるときの基礎きそ資料しりょうとなった。

などがそうである。 また、日本にっぽん水戸みとはんんだ『だい日本にっぽんおよ続編ぞくへんの『だい日本にっぽん野史やし』も紀伝きでんたいかれている。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

このような記述きじゅつ形式けいしきであるから、おな事柄ことがら重複じゅうふくすることもよくあるが[17]個人こじんひとつのくにかんしての情報じょうほうがまとめて紹介しょうかいされるためにその人物じんぶつくにかんしては理解りかいしやすい。これにたいしてすべてをとしごとならべていく方法ほうほう編年体へんねんたいといい、こちらは全体ぜんたいとしてのながれがつかみやすいという利点りてんがある。

中国ちゅうごくでは『春秋しゅんじゅう』と名作めいさくがあったために最初さいしょ編年体へんねんたい主流しゅりゅうだったが、司馬しばの『史記しき以降いこう紀伝きでんたい主流しゅりゅうになり、じゅうよんすべ紀伝きでんたいである。ただし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく編纂へんさんちゅうの『清史きよし』は本紀ほんぎはいし、わりに編年体へんねんたいつうれている。これは、本紀ほんぎ政権せいけん全体ぜんたい時間じかんながれをくためにっている編年体へんねんたいてき特徴とくちょうつよめたものである。編年体へんねんたい代表だいひょうとしては春秋しゅんじゅうほか司馬しばひかりの『どおりかん』がある。

紀伝きでんたい編年体へんねんたいほかには、ごと本末ほんまつたい国史こくしたい(こくしたい)がある。

  • ごと本末ほんまつたい - ストーリー展開てんかいって事件じけんすじがわかりやすいようにまとめなおしたもの。つうかんごと本末ほんまつあかり記事きじ本末ほんまつなど。
  • 国史こくしたい - 日本にっぽん独自どくじのもので、編年体へんねんたい基本きほんとしながらも人物じんぶつ死亡しぼう記事きじがあった場合ばあいにその人物じんぶつ列伝れつでん薨伝ぶ)をするものである。国史こくしたいから発展はってんしてのち漢文かんぶんでんという漢文かんぶん伝記でんきかれるようになった。

なお、日本にっぽんには記紀きき成立せいりつする以前いぜんに『古事記こじき』の序文じょぶんなどにしるされている『みかど』と『きゅう』のようなふたつの史書ししょわせた「日本にっぽんしき紀伝きでんたい」とでもいうべき形態けいたい存在そんざいしたのではないかとするせつもある[18]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 武田たけだ泰淳たいじゅん司馬しば遷 史記しき世界せかい中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  2. ^ こう漢書かんしょ光武みつたけ本紀ほんぎやまとおうへのかんやつ国王こくおうしるし下賜かしかれているなどがそのれいである。
  3. ^ 岡田おかだ世界せかい誕生たんじょう』ちくま文庫ぶんこもとはんは1992、筑摩書房ちくましょぼう
  4. ^ a b 岡田おかだ1992
  5. ^ そう巻一けんいち本紀ほんぎだいいちふとしいちには先祖せんぞほろかんもうしょうだった祖父そふ出世しゅっせしたことをべたあと、ちょうただしたねまれたときに「あかこうにょうしつこうけい宿やどからだ有金ありかねしょくさんにち不變ふへん。」とある。
  6. ^ このため、『三国志さんごくし』には重臣じゅうしんとして歴史れきしくのにかせない存在そんざいであるはずの司馬しば司馬しばあきらなどのつててられていない(やがてかれるはずの『すすむしょ』の本紀ほんぎ記載きさいされるべき人物じんぶつであるから。ただし、六朝りくちょう時代じだい混乱こんらんゆえに『すすむしょ』の編纂へんさんすすむ滅亡めつぼうすうひゃくねんになった)。
  7. ^ 史記しき』(集英社しゅうえいしゃ世界せかい文学ぶんがくだい辞典じてん執筆しっぴつ福島ふくしま吉彦よしひこ集英社しゅうえいしゃ、1998ねん
  8. ^ 三国志さんごくししょくしょさきおもでん
  9. ^ 三国志さんごくししょだい一孫破虜討逆伝
  10. ^ 三国志さんごくししょくれぬしでん
  11. ^ 列伝れつでんだいいち后妃こうひうえでんせんきよしちょう皇后こうごうでん
  12. ^ もと列伝れつでんだいいち后妃こうひ伝一でんいちふとしきさき孛児だい(ボルテ)あさひしん(ウジン)つてあさひしん(ウジン)は漢語かんご夫人ふじん」に由来ゆらいするモンゴル貴人きじんつま敬称けいしょう
  13. ^ 福島ふくしま1998
  14. ^ 飯田いいだ忠彦ただひこだい日本にっぽん野史やしだい275かん任侠にんきょう列伝れつでんりょとぎ新左衛門しんざえもんでん前田まえだとしたいでん飯田いいだ忠彦ただひこ野史やし だい5かん 3はん日本にっぽん随筆ずいひつ大成たいせい刊行かんこうかい昭和しょうわ4-5、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクションより
  15. ^ そうしょ倭国わのくにでん
  16. ^ そうまきよんひゃくきゅうじゅういち列伝れつでんだいひゃくじゅう外国がいこくなな日本にっぽんでん
  17. ^ 重複じゅうふくけるためもあって、ひとつの事柄ことがら複数ふくすうじんつてけたり不名誉ふめいよ事柄ことがら本人ほんにんつてかずほか箇所かしょいたりするれいがあり、たとえば「三国志さんごくし」では曹仁しゅ大敗たいはいしたことは曹仁でんではなくしゅ桓伝に記載きさいされている。さか口和くちわきよし正史せいし三國志さんごくし群雄ぐんゆう銘銘めいめいでん光人みつひとしゃ、2005ねん、P375
  18. ^ くら西にし裕子ゆうこ「『日本にっぽんしき紀伝きでんたい』は存在そんざいした - ほん史書ししょ一対いっついとする編纂へんさん記述きじゅつ様式ようしき」『記紀ききはいかにして成立せいりつしたか - てん史書ししょ史書ししょ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、講談社こうだんしゃ2004ねん、pp. 46-59。 ISBN 9784062583015

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]