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りゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あきられつみかど りゅう
しょくかん
初代しょだい皇帝こうてい
あきられつみかど肖像しょうぞう
王朝おうちょう しょくかん
在位ざいい期間きかん あきらたけ元年がんねん4がつ6にち - あきら3ねん4がつ24にち
221ねん5月15にち - 223ねん6がつ10日とおか
都城みやこのじょう 成都せいと
せいいみな りゅう[1]
げんとく[2]
諡号しごう あきられつ皇帝こうてい
びょうごう れつ[3]
生年せいねん のべ4ねん161ねん
没年ぼつねん あきらたけ3ねん4がつ24にち[4]
223ねん6がつ10日とおか
ちち りゅうひろし
后妃こうひ 皇后こうごう
陵墓りょうぼ めぐみりょう
年号ねんごう あきらたけ221ねん - 223ねん
りゅう
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ りゅう
簡体字かんたいじ 刘 备
拼音 Liú Bèi
ちゅう音符おんぷごう ㄌㄧㄡˊ ㄅㄟˋ
ラテン Liu2 Pei4
発音はつおん リィゥ ベイ
英文えいぶん Liu Bei
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りゅう
こうかん
かんちゅうおうじょしゅうまぎ
出生しゅっしょう 161ねん
死去しきょ 223ねん
げんとく
諡号しごう あきられつ皇帝こうてい
びょうごう れつ
主君しゅくん けんじみかど
氏族しぞく りゅう
ちち りゅうひろし
つま 皇后こうごう
りゅうぜん
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りゅう(りゅう び、のべ4ねん161ねん) - あきらたけ3ねん4がつ24にち223ねん6がつ10日とおか))は、こうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょうしょくかん初代しょだい皇帝こうていげんとくげんとく

はばらん鎮圧ちんあつ功績こうせきげ、その各地かくち転戦てんせんした。しょかずらあきら天下てんかさんぶんけいもとづいてえきしゅう勢力せいりょくきずき、こうかん滅亡めつぼうけて皇帝こうてい即位そくいして、しょくかん建国けんこくした。そのしょくたかしによるさんこく鼎立ていりつ時代じだいしょうじさせた。

あきらだい小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では中心ちゅうしん人物じんぶつとして登場とうじょうする。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

成都せいとたけしこうほこらりゅう備像

わか[編集へんしゅう]

涿郡涿県(現在げんざい河北かほくしょうてい涿州ろうくわさと出身しゅっしん祖父そふりゅうつよしちちりゅうひろしである。祖父そふこうれんされ、ろうちゅうとなり、最終さいしゅうてきには兗州ひがしぐん范県のれいとなった。ちちしゅうぐん官吏かんりつとめたが、りゅう備がまだおさなころんだために土豪どごう現地げんちしょう豪族ごうぞく)の身分みぶんでありながらりゅう備のいえまずしくなり、ははともむしろって生計せいけいてていた。

おさなときに、いえまええているおおきなくわ少年しょうねんだったりゅう備は「おおきくなったら天子てんしっている馬車ばしゃるんだ」とった(天子てんし馬車ばしゃくわ出来できている)。そのさい叔父おじりゅうけいりゅうひろしおとうと)がりゅう備のくちふさぎ「滅多めったことうでない、そのようなことくちすだけで、一族いちぞく皆殺みなごろしのけいうぞ」と叱責しっせきしたという[5]。また、涿郡のひとじょうりゅう備の生家せいかて「このいえから貴人きじんるだろう」とべた[5]敦煌とんこう文書ぶんしょによれば、この故事こじりゅう備が7さいのときのものである[6]

熹平4ねん175ねん)、15さいときははいつけで、したがえ叔父おじりゅうもとおこりりゅうつよしおい)の援助えんじょて、そのりゅういさおしかともに、同郷どうきょう儒学じゅがくしゃとして有名ゆうめいしょくした学問がくもんまなぶようになる。このとき同窓どうそうりょう西にし豪族ごうぞく庶子しょし公孫こうそん同郷どうきょうこうさそえ中国語ちゅうごくごばんがおり、りゅう備は公孫こうそん瓚とこうさそえらにたいして兄事けいじしており大変たいへんなかかったという。同時どうじ牽招とも交流こうりゅうがあり、「刎頸のまじわり」をちかったなかつたわる[7]柿沼かきぬま陽平ようへいによれば、しょくは175ねんきゅうぐん太守たいしゅとなり、やまい辞職じしょくし、すぐにいおりぐん太守たいしゅになり、その1ねんあまりのち(ただし178ねん以前いぜん)にろうとなっており、しかもりゅう備がおとずれたときにしょくは「もとのきゅう太守たいしゅ」と名乗なのっていることから、しょくには当時とうじ学生がくせい直接ちょくせつおしえる時間じかんなどほとんどなく、りゅう備が師事しじした期閒きかんはせいぜいすうヶ月かげつあったにすぎない[8]

中山なかやま豪商ごうしょうちょうひらたそうは、りゅう備を只者ただものではないとおもい、大金たいきんあたえた。なお、ちょうたいらうま商人しょうにんであることやこのころ公孫こうそん瓚が涿県の県令けんれいつとめていたため、りゅう備は乗馬じょうば趣味しゅみ公孫こうそん瓚とのつながりからちょうたいら面識めんしきたとする見方みかたもある[9]。このおかげでりゅう備は資金しきんにして仲間なかまあつめることが出来できた。

決起けっき[編集へんしゅう]

はばらん発生はっせいすると、せきはねちょう簡雍らととも義勇軍ぎゆうぐん結成けっせいし、こうじょう鄒靖したがって、そのげた。そのこうによりちゅう山国やまぐにやす熹県のじょう任命にんめいされた[10]

しかし、ぐんとく郵(監察かんさつかんしょく)が公務こうむやす熹にやってさい面会めんかいことわられたのにはらててそのままると、しばりあげてつえで200かいはたき、かん印綬いんじゅとく郵のくびにかけ、かんてて逃亡とうぼうした[11]

あるとき、大将軍だいしょうぐんなんしんじょう毌丘あつし丹陽たんようぐん派遣はけんした。りゅう備は毌丘あつし従事じゅうじとして従軍じゅうぐんしてしもかい、てきぐんたたかい、軍功ぐんこうのこみつけんすすむにんじられたが、短期間たんきかん官職かんしょくした。のちに、こうからけんじょうとなり昇進しょうしんして県令けんれいとなった[12]

191ねんはつたいら2ねん)、てきぐんやぶれて、むかしなじみのちゅうろうしょう公孫こうそん瓚のもとせ、公孫こうそん瓚からべつ司馬しばにんじられ、あおしゅう刺史ししたすけて袁紹ぐんたたかった。そこで戦功せんこうてたので、公孫こうそん瓚の推薦すいせんにより平原ひらばらけんかりれいという地位ちい、そののち平原へいげんこくそうとなった。りゅう備はぞく侵入しんにゅうふせぎ、みん経済けいざいてき恩恵おんけいあたえ、身分みぶんひく士人しじん差別さべつしなかったので、大勢おおぜい人々ひとびとしんせられた。

公孫こうそん瓚は袁術むすんでおり、はつたいら3ねん192ねん)、袁術と袁紹が決裂けつれつすると、袁術の要請ようせいりゅう備をこうとうに、たんけい平原へいげんに、じょしゅうまきとうけんはつ駐屯ちゅうとんさせ、袁紹を圧迫あっぱくした。

このころ平原へいげんひとりゅうたいらりゅう備の配下はいかになるのを不快ふかいかんじて、刺客しかく派遣はけんした。そうとはらずにりゅう備は、刺客しかく手厚てあつくもてなした。刺客しかくころすのがしのびなくなり、みずからの任務にんむりゅうつぶさげてかえってしまった[13]

はつたいら4ねん193ねん)、じょしゅうとうけん曹操そうそうめられて楷に救援きゅうえんもとめてたので、楷はりゅう備を補佐ほさとしてとうけんもとへとかった。とうけんりゅう備を評価ひょうかして4000にん丹陽たんようへいあたえた。そのためりゅう備は楷のもとはなれてとうけんせるようになった。

きょうひらた元年がんねん194ねん)、曹操そうそう退しりぞいたのちとうけんりゅう備をしゅう刺史しし推挙すいきょしてみとめられた。そのとうけんやまいおもくなり、じょしゅうりゅうつぶさたくそうとした。りゅう備ははじめはことわったものの、親交しんこうがあったちんのぼるあなとおるらの説得せっとくけてじょしゅうりょうした。このときていげん推薦すいせんで、北海ほっかいぐんひとまごいぬい従事じゅうじとしてむかえた(『ていげんでん』では、とうけん推挙すいきょしゅう刺史ししにんじられたときとする)。ちんおさむとも交流こうりゅうがあり、そのちんりゅう備がしゅう刺史ししにんじられたとき登用とうようされ、べつ従事じゅうじとなった。ひねいたりゅう備のしゅう刺史しし時代じだいからの配下はいかとされ、また、同姓どうせいのため賓客ひんきゃくあつかいされたりゅうもこの時期じきりゅう備へ仕官しかんし、以後いご流浪るろうともにした。

曹操そうそう敗北はいぼくしたりょぬのじょしゅうへやってたので、むかれた。その、袁術がめてたのでこれと対峙たいじし、1ヶ月かげつ経過けいかしたころしも邳の守将しゅしょう曹豹裏切うらぎってりょぬの城内じょうないむかれ、りゅう備の妻子さいしとらわれてしまった。りゅう備はじょしゅうかえってりょぬの和睦わぼくし、みずからはしょう沛へとうつった。苦境くきょうおちいったりゅう備を援助えんじょしたのは、じょしゅうだい地主じぬしであった糜竺であり、りゅう備は後々あとあとまでかれ重用じゅうようすることになる[9]

流浪るろう[編集へんしゅう]

りゅう備はへいを1まんあまあつめたが、りゅう備が多数たすうへいあつめたことを不快ふかいおもったりょぬのりゅう備を敗走はいそうさせた。りゅう備は曹操そうそうもとせた。ここで、曹操そうそうりゅう備の器量きりょう評価ひょうかして優遇ゆうぐうした。しばらくして曹操そうそう上奏じょうそうし、りゅう備を鎮東将軍しょうぐんとし、むべしろていこうふうじ、しゅうまき任命にんめいして、りゅう備を援助えんじょしてふたたしょう沛にはいらせた。

たてやすし2ねん197ねん)、楊奉かんりょぬの同盟どうめいむすび、袁術をおおいに撃破げきはし、じょしゅうあげしゅう付近ふきんらしていたため[14]りゅう備は楊奉・かん暹を[15]

けんやす3ねん198ねんはるりょぬのめてたので、りゅう備は曹操そうそう援軍えんぐん要請ようせいした。曹操そうそうなつほうあつし派遣はけんしたが、りょぬの部下ぶかこうじゅん撃破げきはされ、ちょうりょうこうじゅんらは半年はんとし以上いじょう包囲ほういつづけ9がつついに沛城は陥落かんらくし、りゅう備は逃走とうそうした(さきぬしでんちゅうく『英雄えいゆう』)。りゅう備の妻子さいしふたた捕虜ほりょとなった。曹操そうそうみずか出陣しゅつじんしてりゅう備軍と合流ごうりゅうすると共同きょうどうしてりょぬのめて、りょぬのりにした。曹操そうそうりょぬの将軍しょうぐんとして有能ゆうのうなのでころすのをすこしためらったが、りゅう備は「りょぬのがかつてちょうげんただしたくころしたことをおわすれか」と曹操そうそういさめた。これをいたりょぬの激怒げきどし、りゅうつぶさたいして「やつこそが一番いちばん信用しんようならぬのだぞ!」[16]罵倒ばとうしたが、結局けっきょくりょぬの絞首刑こうしゅけいしょされた(しも邳のたたか)。

りゅう備は曹操そうそうれられて曹操そうそう根拠地こんきょちけんじみかどのいるもとあきらはいり、ひだり将軍しょうぐん任命にんめいされた。ここでのりゅうつぶさたいする曹操そうそう歓待かんたいりは、くるまときにはつねおなしゃ使つかい、せきすわときにはせき同格どうかくにするという異例いれいのものであった。曹操そうそう歓談かんだんしていたとき曹操そうそうから「いま、この天下てんか英雄えいゆうさるせるものは、貴公きこうとこのわしのみだ。本初ほんしょごときでは不足ふそくよ」とひょうされている。かつて曹操そうそう配下はいか将軍しょうぐんであったじょ翕・もうあきらりょぬのかついで反乱はんらんこし、琅邪こくしょう臧覇かくまわれていた。りゅう備は曹操そうそういのちけ、臧覇にじょ翕・もうあきらくびおくるよう説得せっとく使者ししゃつとめた。

このころ宮中きゅうちゅうではけんじみかどよりのみつみことのりけたただしうけたまわによる曹操そうそう討伐とうばつ計画けいかくられており、りゅう備はその同志どうしまれた。その討伐とうばつ計画けいかく実行じっこううつされるまえしゅれいみちらとともに袁術討伐とうばつおもむき、からじょしゅう名分めいぶんたという。袁術は袁紹と合流ごうりゅうしようとしたが、りゅうつぶさみちをふさがれたので、かえし、やがて病死びょうしした[17]

袁術が死去しきょしたので、しゅれいらは帰還きかんしたが、りゅう備はじょしゅう居残いのこり、しも邳を根拠地こんきょちとし、じょしゅう刺史ししくるまかぶところした。した邳の守備しゅびかんまかせてみずからはしょう沛にうつると、多数たすうぐんけん曹操そうそうそむいてりゅうつぶさ味方みかたした。曹操そうそう敵対てきたいすることになったのでまごいぬい派遣はけんして袁紹と同盟どうめいし、曹操そうそう派遣はけんしたりゅうおうただしりょうしょうやぶった。りゅう備はりゅうらにかって「おまえたち100にんたとしても、わたしをどうすることもできぬ。曹操そうそう殿どのがご自身じしんられるなら、どうなるかわからぬがね」とった[18]

だが、りゅう備の裏切うらぎりに激怒げきどした曹操そうそう自身じしんめてるとてきず、袁紹のもとへとげ、せきはねなつほうひろしりゅう備の妻子さいしとも曹操そうそうとらわれた。『三国志さんごくししょくしょさきおもでんちゅうく『しょ』によれば、りゅう備はめて曹操そうそう指揮しきはたると、たたかわずして逃走とうそうしたという。袁紹の長子ちょうし袁譚をかつてりゅう備がしげざいさときょさとせん科目かもくひとつ)に推挙すいきょしていたので、そのえんで袁紹のもとせておおいに歓待かんたいされた。

袁紹が、曹操そうそうかんわたりでにらみっているときに、なんじみなみもとはばぐんりゅう曹操そうそうたいして反旗はんきひるがえしたので、りゅう備は袁紹のいのちけこれに合流ごうりゅうして、すうけんると、おおくのけん曹操そうそうそむいてりゅう備らに味方みかたした。このときせきはね曹操そうそうもとり、りゅう備のところへかえってきた。曹操そうそう曹仁派遣はけんして、りゅう備を撃退げきたいした。そのりゅう備は袁紹のいのちけ、ふたたなんじみなみ侵攻しんこうし、ぞく龔都らとむすんだ。曹操そうそう蔡陽派遣はけんりゅう備らを攻撃こうげきさせたが、蔡陽は敗北はいぼくたれた。『三国志さんごくしちょうげんつてによれば、このとき袁紹がしゅうへい派遣はけんし、しゅうしょぐん味方みかたになるようさそいをかけると、おおくのぐんがそれにおうじたという。

袁紹が敗北はいぼくしたあと、みずかへいひきいてりゅう討伐とうばつかまえをみせてきた曹操そうそうたいして衆寡しゅうかてきせずと判断はんだんし、袁紹のもとからはな荊州りゅうひょうもとへとせた。

三顧さんこれい[編集へんしゅう]

りゅうひょうから新野しんのじょう現在げんざい河南かなんしょう南陽なんよう新野あらたのけん)をあたえられ、ここに駐屯ちゅうとんしてなつほうあつし于禁ぐんひろしもちにて撃破げきはした(ひろしもち坡のたたか)。しかし、りゅう備のもとあつまるひとえたことで、りゅうひょうりゅう備を猜疑さいぎするようになった。また、りゅうひょう外征がいせい熱心ねっしんではなかったため、曹操そうそう烏丸からすま討伐とうばつすきをついてもとあきら襲撃しゅうげきするようにというりゅう備の進言しんげんりゅうひょうれられなかった。

この時期じきのエピソードとして「ある宴席えんせきで、りゅう備がかわやったのちなみだながしてかえってきた。どうしたのかとりゅうひょうくと『わたしわかころからうまくらっていたので髀(もも)のにくすべちていました。しかしいまうまらなくなったので髀ににくいてしまいました。すで年老としおいて、なん功業こうぎょうげていないので、それがかなしくなったのです』とこたえた」というはなしがある(裴松ちゅうく『九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう』より)。このことから髀肉ひにく嘆(ひにくのたん)という故事こじ成語せいごまれた。

このころけんやす12ねん207ねん))、しょかずらあきら三顧さんこれいにてむかれ、すで強大きょうだい勢力せいりょくきずいている曹操そうそう対抗たいこうするためには荊州と西にしえきしゅうれて天下てんかさん分割ぶんかつしてそのひとつのあるじとなりまごけん協力きょうりょくして曹操そうそうかうべしという天下てんかさんぶんけいかれた。

りゅうひょうぼっし、りゅうひょうのちいだりゅう曹操そうそう降伏ごうぶくした。しょかずらあきらりゅう琮をって荊州をうばってしまえと進言しんげんしたが、りゅう備は「しのびない」とってことわり、逃亡とうぼうした。

りゅう備が逃亡とうぼうすると、りゅう琮配周辺しゅうへん住民じゅうみん10すうまんいてきた。そのためそのあゆみは非常ひじょうおそく、すぐにでも曹操そうそうぐんいつかれそうであった。あるひと住民じゅうみんててはや行軍こうぐんこうりょう確保かくほするべきだとりゅうつぶさ進言しんげんしたが、「大事だいじすにはひとをもって大本おおもととしなければならない。わたしについてきたひとたちをてるのはしのびない」とって住民じゅうみんとも行軍こうぐんつづけた。

その曹操そうそうけい騎兵隊きへいたいいつかれてだい打撃だげきけ、りゅう備の軍勢ぐんぜいすらりで妻子さいしはなればなれになり、2人ふたりむすめ曹純らえられるという悲惨ひさん状況じょうきょうだった。ただし、ちょうくも乱戦らんせんのなかりゅう備の阿斗あとりゅうぜん)とあま夫人ふじんすくっている。

殿軍でんぐんつとめたちょう少数しょうすう部隊ぶたい時間じかんかせぎをし、せきはねぐん合流ごうりゅうすること態勢たいせいなおし、さらにりゅうひょう長子ちょうしりゅうぐん合流ごうりゅうした(長坂ながさかたたか)。

そしてまごけん陣営じんえいから様子見ようすみ派遣はけんされてきた魯粛面会めんかいし、しょかずらあきらまごけんした同盟どうめい使者ししゃとして派遣はけんする。しょかずらあきらまごけん説得せっとく成功せいこうして同盟どうめいむすび、けんやす13ねん208ねん)、あかかべたたかにおいて曹操そうそうぐんやぶった。

あかかべたたかいののちりゅう備は荊州南部なんぶ占拠せんきょし、りゅう琦を上表じょうひょうして荊州刺史しして、荊州のみなみよんぐんたけりょうちょうすなかつらようれいりょう)を併合へいごうし、じょしゅうされて以来いらいはじめて確固かっこたる基盤きばんた。そのほどなくしてりゅう琦が死去しきょすると、家臣かしんたちに推戴すいたいされて荊州まきとなった。せきはね盪寇将軍しょうぐんじょう太守たいしゅちょうせいとりこ将軍しょうぐんむべ太守たいしゅ廖立ちょうすな太守たいしゅ郝普かつらよう太守たいしゅむかいあきらを秭帰など4けんとく任命にんめいした。りゅう備が荊州をおさめるようになると、はんちゅう従事じゅうじにんじた。のちりゅう備がしょくはいると、かれを荊州にめてしゅう事務じむ処理しょりにあたらせた[19]

りゅう備の荊州まき就任しゅうにんりゅう備の勢力せいりょく拡大かくだい憂慮ゆうりょしたまごけんは、みずからのいもうとまご夫人ふじん)をりゅうつぶさめとわせ、さらに共同きょうどうして西にししょくえきしゅう)をろうともうてきた。 この提案ていあんるべきだという意見いけんもあったが、いんかんは、まごけん先駆さきがけとなってえきしゅう攻撃こうげきするよりも、まごけんへの態度たいど曖昧あいまいにしたうえで、独力どくりょくえきしゅうるべきだと意見いけんした。りゅう備はいんかん提案ていあんしたがい、「いまは荊州をたばかりであり、準備じゅんびができていない」と返答へんとうしてことわった。

まごけんはききいれず、まご水軍すいぐん統率とうそつさせなつこう駐留ちゅうりゅうさせた。りゅう備はぐん通過つうかみとめず、まご瑜に「おまえしょくうばるつもりならば、わたしかみみだしてやまはいり[隠遁いんとんして]、天下てんかたいして信義しんぎうしなわぬようにするぞ」とい、せきはねこうりょうに、ちょう秭帰(しき)に駐屯ちゅうとんさせ、しょかずらあきら南部なんぶらせ、りゅう自身じしん孱陵(せんりょう)に駐留ちゅうりゅうした。まごけんりゅう備の意思いしると、まご瑜を召還しょうかんした。

天下てんかさんふん[編集へんしゅう]

けんやす16ねん211ねん)、しょくおもであるりゅうあきら五斗米ごとべいどうちょう対抗たいこうするために、りゅうつぶさたいへいえきしゅうれてしいと要請ようせいしてきた。ところが、要請ようせい使者ししゃであるちょうまつ法正のりまさすでりゅうあきら見限みかぎっており、りゅうつぶさたいしてしょくってしまうようにすすめた。龐統もこのはなしるように進言しんげんし、りゅう備はこれをれた。

せきはねちょうしょかずらあきららを留守るすのこし、りゅう備はみずから龐統・ただし法正のりまさすうまんにんへいれて、しょくおもむいた。しょくはいるとりゅうあきらによって歓待かんたいけ、うたげひらかれた。龐統はこの機会きかいりゅうあきららえて一気いっきしょくれるように進言しんげんしたが、りゅう備は「いまはその状況じょうきょうではない(これは重大じゅうだいことであるから、あわててはいけない[20]他国たこくはいったばかりで恩愛おんあい信義しんぎはまだあらわれていない、それはいかん[21])」とべて退しりぞけた。ちょうひろしりゅうあきら従事じゅうじとしてりゅう備との会談かいだん同席どうせきしていたが、りゅう備はちょうひろしひげゆたかであったのをてからかった。それにたいし、ちょうひろしひげのないりゅうつぶさにあてつけるかたちで「潞涿くん」(ひげのうす人物じんぶつ)といいかえした。これにより、りゅう備はちょうひろしうらみをおぼえることとなった。

りゅうあきらりゅうつぶさへい戦車せんしゃ武器ぶきよろいなどをし、りゅう備軍は総勢そうぜい3まんにんとなった。そのりゅう備はへいひきいて前線ぜんせんかやもえ駐屯ちゅうとんし、このちょう魯を討伐とうばつするよりも住民じゅうみんたちの人心じんしん収攬しゅうらんすることにつとめ、たるべくしょく占領せんりょうけて準備じゅんびととのえた。けんやす17ねん212ねん)、曹操そうそうまごけんめ、りゅうつぶさたいして救援きゅうえん要請ようせいた。りゅう備たちはこれを兵力へいりょく移動いどうかくみのにしてりゅうあきらからけられた監視かんしやくこう楊懐しょう謀殺ぼうさつして、かやもえじょう霍峻まもらせ、しょく首都しゅと成都せいとへとけて侵攻しんこうはじめた(りゅう備のにゅうしょく)。しょかずらあきらちょうちょうくもらも長江ながえをさかのぼり、えきしゅうぐんけん攻略こうりゃくした。せき本拠地ほんきょちさえとしてつづき荊州にのこった。

りゅう備本ぐん涪城占拠せんきょし、ひやつとりゅうちょうつとむ鄧賢やぶり、綿めんちくそう指揮しきかんであるいわお降伏ごうぶくさせるなど、はじめは順調じゅんちょうすすんでいたものの、りゅうちょうつとむまもる雒城にて頑強がんきょう抵抗ていこうい、1ねんものなが包囲ほういせんおこなわざるをなかった。この戦闘せんとうちゅうに龐統がながたって戦死せんしした。りゅう備が龐統に賛美さんび慨嘆がいたん言葉ことばをもらしたさいに、ちょうそんはかねてより龐統をっていなかったので、「龐統は忠義ちゅうぎくしてしむべき人物じんぶつでありますが、しかし君子くんしみちはんしておりました」とべた。りゅう備ははらて、「龐統はころしてじんげたのだ。おまえはそれをわるいともうすか」とって、ちょうそん免官めんかんにした。ちょうそんはほどなく病没びょうぼつした。[22]そして、ながこうしろせんすえ雒をとすことに成功せいこうし、荊州から進軍しんぐんしてきたしょかずらあきらちょうらもくわわり成都せいと包囲ほういした。うまちょうりゅう備が成都せいと包囲ほういしたとくや、密書みっしょおくって降伏ごうぶくねがた。りゅう備はかんちゅう派遣はけんしてうまちょう味方みかたれさせた。うまちょうはかくて命令めいれいしたがった。りゅう備はうまちょう到着とうちゃくしたといてよろこび、「わたしえきしゅうれたぞ」といった。使者ししゃをやってうまちょうむかえさせると、うまちょう軍兵ぐんびょうひきいて、まっすぐに城下じょうか到着とうちゃくした。りゅうあきらは「わしはもはや領民りょうみんくるしめたくない」とい、降伏ごうぶくした。こうしてりゅう備のしょくりはこうした。これにより天下てんかさんぶん形勢けいせいがほぼさだまった。

りゅう備はまき兼任けんにんすると、従事じゅうじ任命にんめいした。正月しょうがつ元旦がんたん邈はさけをついでまわやくめいぜられ、りゅうつぶさ目通めどおりする機会きかいさいりゅう備を難詰なんきつして、「将軍しょうぐん(りゅうあきら)は、将軍しょうぐん(りゅう備)のご一族いちぞくとして、ぞく討伐とうばつ委任いにんなされたのです。それなのに、大功たいこうをおあげにならぬうちに、賊軍ぞくぐんよりさきに[将軍しょうぐん(りゅうあきら)を]ほろぼしてしまわれました。わたしは、将軍しょうぐんしゅううばわれたことを、はなはだよろしくないこととおもっております」とった。りゅう備が「それがよくないとわかっていたなら、どうしてかれたすけなかったのだ」とたずねると、邈は「たすけようとしなかったわけではありません。力不足ちからぶそくだっただけです」とこたえた。

さんこく争覇そうは[編集へんしゅう]

しょくうばって安定あんていした地盤じばんりゅう備であったが、まごけん勢力せいりょくからの警戒けいかいうこととなった。もともとあかかべ勝利しょうり孫呉そんごちからによるものであるとかんがえていたまごけんは、荊州はその戦果せんかとして当然とうぜん帰属きぞくするべきものとかんがえていた。りゅう備の荊州統治とうちみとめていたのは、曹操そうそうへの防備ぼうびたらせるためであり、りゅう備の勢力せいりょく伸長しんちょうしすぎることはこのましいことではないとかんがえていたのである。

けんやす20ねん215ねん)、りゅう備がしょくれたことで、まごけんが荊州のしょぐんちょうすなかつらようれいりょう[23]わたすようにとってきたが、りゅう備は「りょうしゅうれたら荊州のかえします」とこたえた[24]。これにおこったまごけんりょこうむ派遣はけんして荊州をおそわせ、両者りょうしゃ戦闘せんとう状態じょうたいはいった。

しかしそのころちょう魯が曹操そうそう降伏ごうぶくしてえきしゅう雍州つな要害ようがいであるかんちゅう地方ちほう曹操そうそうはいった。このこと危機ききかんいたりゅう備は荊州のりょこうむうばわれたちょうすなぐんかつらようぐん領有りょうゆうみとめることでまごけん和解わかいし、うばわれたれいりょうぐん返還へんかんみなみぐん領有りょうゆうみとめさせ、かんちゅう攻略こうりゃく目標もくひょうとすることになった。 りゅう備は曹操そうそうからかんちゅううばおうと出兵しゅっぺいくわだてて、しゅううらなわせた。しゅう羣は「土地とちれても住民じゅうみんはいらないでしょう。また、一部いちぶたいしかさないのであればかならけます」とこたえた。りゅう備は進言しんげんかず、らんかみなりどう出撃しゅつげきさせたがにんともはいした。そのかんちゅう攻略こうりゃくには成功せいこうしたが、住民じゅうみんおおくは曹操そうそうによって移住いじゅうさせられたのちだった。

けんやす24ねん219ねん)、みずか陣頭じんとう指揮しきかんちゅうなつほうふかしちょうめ、法正のりまさけんさくしたがいこれらを撃破げきはし、なつほうふかしちょうらをころした(じょうぐんやまたたか)。りゅう備はちょう郃をおそれてなつこうふちかるていた。なつこうふちころしてから、りゅう備はった、「いちばんの大物おおものれなければならぬ。こんなことでどうする[25]。」ちょう郃は陽平ようへいかえした。りゅうつぶさにつけこまれることを心配しんぱいしてぜんぐんいろうしなったが、かく軍兵ぐんびょう命令めいれいくだした「ちょう将軍しょうぐん国家こっか名将めいしょうであり、りゅうつぶさおそれられている。今日きょう事態じたい急迫きゅうはくしている。ちょう将軍しょうぐんでなければかせることはできぬ。」かくてちょう郃をぐんそう大将たいしょうとした。

その曹操そうそう自身じしんかんちゅう奪還だっかんすべくぐんひきいてめてきたが、りゅう備はたかやまもり防御ぼうぎょてっして、曹操そうそうぐんおおくの損害そんがいあたえ、曹操そうそうぐん撤退てったいさせた。

りゅう備はひだり将軍しょうぐんりょう隷校じょう荊益さんしゅうまきむべしろていこうしょうしていたが、かんちゅうれたことや曹操そうそうけんやす21ねん216ねん)におうになっていたことをけてかんちゅうおう自称じしょうした。前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほうかんおうであった故事こじならったものであった。また、同時どうじだい司馬しばしょうした。なお、群臣ぐんしんりゅう備をかんちゅうおう推挙すいきょしたさい文章ぶんしょうは、ちょういたものである[26]ひら西にし将軍しょうぐんていこううまちょうひだり将軍しょうぐんちょう・鎮軍将軍しょうぐんもとやすし、営司龐羲曹・従事じゅうじちゅうろうぐんちゅうろうしょう軍師ぐんし将軍しょうぐんしょかずらあきら、盪寇将軍しょうぐんかん寿ことぶきていこうせきせいとりこ将軍しょうぐんしんちんこうちょうせい西にし将軍しょうぐんただし、鎮遠将軍しょうぐんよりゆききょうあげ武将ぶしょうぐん法正のりまさ興業こうぎょう将軍しょうぐんいわおらが上表じょうひょうつらねた。

一方いっぽうひがしでは荊州を奪還だっかんするべくまごけんりょこうむたちとともにさくり、せきはねが曹仁のまも樊城めているあいだに、曹操そうそう同盟どうめいむすび、荊州本拠ほんきょおそって、孤立こりつしたせきはねらをらえ、これを処刑しょけいした。これにより荊州は完全かんぜんまごけん勢力せいりょくのものとなった(樊城のたたか)。

りゅう備の養子ようしりゅうふうせき救援きゅうえんおもむかず、対立たいりつしていたはじめたち軍楽隊ぐんがくたい没収ぼっしゅうし、はじめたち曹操そうそう寝返ねがえり、曹操そうそうぐんうえいさおうばわれた。りゅう備はしょかずらあきら提案ていあんしたがい、りゅうふう軍規ぐんきにより処刑しょけいさせた。

えびすりょう(猇亭)のたたか[編集へんしゅう]

りゅう備は曹操そうそうんだことくと弔問ちょうもん使者ししゃかん冉をつかわせて、蜀錦しょっきんを曹丕に貢献こうけんした[27]。曹丕はりゅう備が曹操そうそう利用りようしてこのみつうじようということをきらい、その使者ししゃころすようにと荊州刺史ししめいじた。

ちょうひろしはあるひとかんちょう滅亡めつぼうりゅう備の予言よげんした。そのひとひそかにうったると、りゅう備は以前いぜんからの不遜ふそん態度たいどもあったため激怒げきどし、かんちゅうについての発言はつげんあやま[28]あきらかにさせちょうひろし処刑しょけいしようとした。しょかずらあきらちょうひろし助命じょめい嘆願たんがんしたが、りゅう備は「うつくしいらんでももんいていればらなければならない」とい、ちょうひろし処刑しょけいされた。

けんやす25ねん220ねん)に曹操そうそう嫡子ちゃくし曹丕こうかんけんじみかどから帝位ていい禅譲ぜんじょうけた。これに対抗たいこうしてふとしでんもとやすしあんかん将軍しょうぐん糜竺・ふとしつねよりゆききょうしょうおうはかりごとひかりろくくんばしららはりゅうつぶさ帝位ていいへの即位そくいうなが勧進かんじんぶんおくり、りゅう備はれた。しょくつくられたかん王朝おうちょうであるため、前漢ぜんかん西にしかん)、こうかんひがしかん)と区別くべつし、しょくかんかん)ともいう。丞相じょうしょうろく尚書しょうしょごとしょかずらあきらつかさもとやすしくるま将軍しょうぐんつかさ隷校じょうちょう、驃騎将軍しょうぐんりょうしゅう刺史ししうまちょうへん将軍しょうぐんせきちゅうとく、鎮北将軍しょうぐんのべ、輔漢将軍しょうぐんいわおさむらいちゅううまりょう尚書しょうしょ楊儀だいおおとりなにむねらがひょうつらねた。即位そくい反対はんたいした左遷させんされた[29]

りゅう備が派遣はけんした使者ししゃかん病気びょうきしょうしてうえいさおよりさきへはかず、りゅう備の弔問ちょうもんしょうえいさおから曹丕のもとまでとどいたという。その返答へんとうりゅう備はみずかみかどしょうした。こうして、りゅう備は皇帝こうてい即位そくいしたが、同年どうねん6がつちょう部下ぶかちょういたると范彊によって殺害さつがいされた。ちょういたると范彊は、そのくびって長江ちょうこうくだってまごけんした逃亡とうぼうした。その報告ほうこく使者ししゃおとずれると発言はつげんするまえりゅう備は「ああ、んだ」と、なげいた。

りゅう備は討伐とうばつしようとしたとき、ひとをやってむかえた。其がるとれいくしてうやまい、出兵しゅっぺい吉凶きっきょうたずねた。其はこれにこたえず、かみふでもとめて、へいうま武器ぶきすうじゅうまいえがきあげると、すぐさまいちまいいちまいこれをやぶて、またおおきな身体しんたい人物じんぶつえがき、地面じめんってそれをめてった。りゅう備はたいへん不快ふかいがったという[30]はたてんあたえる時期じきからいってかなら勝利しょうりられないといたかどで、ごく幽閉ゆうへいされたが、のち釈放しゃくほうされた[31]

りゅう備はあきらたけ元年がんねん(221ねん)、まごけんたいする報復ほうふくとしてちょうくもの諫言[32]っておやせいえびすりょうたたか)をおこなった。はじめのうちはくれぐん軽快けいかいやぶりながら進軍しんぐんは荊州の拠点きょてんであったこうりょう背後はいごのこすまでにめられた。また、たけりょう従事じゅうじである樊伷民族みんぞくものたちにさそいをかけ、たけりょうぐんげてりゅうつぶさ帰属きぞくしようとくわだてた[19]。 しかし、よく222ねんなつしょくかんぐんえびすりょうにてりくへりくだけいさくはま大敗たいはいし、まごは、敗走はいそうするりゅう備をって、夔城(きじょう)につうじるみちち、そのみちよう所要しょようしょ閉鎖へいさした。りゅう備は、山中さんちゅうをたどりけんがいえて、やっとのことで脱出だっしゅつすると、いきどお嘆息たんそくして「わたしむかしまごけんたよりに(の)きょうじょう首都しゅと)にったさいには、まごはまだ子供こどもであったのに、そのまご桓にいまわたしがこのようにいつめられるとは」とった[33]。そしてしろみかどじょうみ、ここに永安えいあんみや造営ぞうえいし、崩御ほうぎょするまで滞在たいざいした。永安えいあんにてうまただしって言葉ことばわしたのちりゅうともみかって「けんうしなったが、わりにきつねあつ[34](うまただし)をた。これこそ、賢者けんじゃすくなくないということだ」とった[35]

じょもりはんあきらそうけんらは「こんりゅう備をめれば、かならずやらえられます」と上表じょうひょうした。しかし、りくへりくだしゅしか駱統は「曹丕がへいあつめているのは、表向おもてむきはたすけ、りゅう備をつためとしていますが、実際じっさいめることをたくらんでいます。すみやかにぐん帰還きかんさせるべきです」と進言しんげんした。そのため、まごけん使者ししゃ派遣はけんして和睦わぼくうた。りゅう備はこれを許可きょかそうらをやって返事へんじをさせた。まもなく曹丕はたいしてこうりょうなど3方面ほうめんから攻撃こうげきをしかけてきたりゅう備はりくへりくだ手紙てがみおくり、しょくから援軍えんぐんこうりょうおくることを提案ていあんしたが、りくへりくだくれしょく国交こっこう回復かいふくしたばかりであることと、しょくぐん敗北はいぼくつかれきっており、国力こくりょく回復かいふくつとめるべきではないか、と意見いけんし、これをことわったという[36]

遺言ゆいごん[編集へんしゅう]

ここでりゅう備はやまいはっ病床びょうしょうせってしまう。あきらたけ3ねん4がつ24にち223ねん6がつ10日とおか)、りゅう備は丞相じょうしょうしょかずらあきらりゅうひさしりゅうさとし諸子しょしせた。しょかずらあきらには「そなたの才能さいのうたかし曹丕の10ばいはある。かならずやくに安定あんていをもたらしてくれることであろう。りゅうぜん)が皇帝こうていとしての素質そしつそなえているようならば、補佐ほさしてしい。だが、もし補佐ほさするにりない暗愚あんぐであったならば、まよわずそなたが皇帝こうていとなりこくおさめるのだ」、「馬謖ばしょく自分じぶん実力じつりょく以上いじょうことくちにするゆえかれ重要じゅうよう仕事しごとまかせてはいけない。そなたはそれをわすれずにな」とのこし、息子むすこたちにたいしては「悪事あくじはどのようなちいさなことでもってはいけない。善事ぜんじはどのようなちいさなことでもおこなうように。おまえたちちちとくうすく、これを見習みならってはいけない。『漢書かんしょ』・『れい』・『ろくりょひさししるつたえられる兵法ひょうほうしょ)』・『しょうくんしょしょうしるつたえられる法律ほうりつろん)』とうんでしっかり勉強べんきょうするように。これより丞相じょうしょうしょかずらあきら)をちちおもってづかえよ。いささかもおこたったらばおまえたち不孝ふこうであるぞ」とのこしてもなく崩御ほうぎょした。63さいであった。人々ひとびとはそこで、くだんの意味いみ理解りかいした。其がおおきな人物じんぶつえがいてこれをめたのは、とりもなおさずりゅう備がぬことを予言よげんしていたのである。

三国志さんごくし著者ちょしゃであるちん寿ひさしりゅう備の遺言ゆいごんを「くにまかせて遺児いじしょかずらあきらたくし、しんになんの疑惑ぎわくたなかったこととなると君臣くんしん私心ししんなきありかたとして古今ここんををつうじて立派りっぱおこないである」と絶賛ぜっさんし、にもりゅう備のこの遺言ゆいごんおおくの人々ひとびと称賛しょうさんけてきた。

しかし、この遺言ゆいごんはかなり異様いようなものであり、後世こうせいらんいのち」とするせつあらわれた。皇帝こうてい臣下しんかに「おまえ息子むすこわりに皇帝こうていになってみろ」といいはなつのは中国ちゅうごくでもほとんどれいがないことであり、しょかずらあきら簒奪さんだつをたくらんでいるのかと誤解ごかいされる内容ないようだからである。[37]きよしかんひろしみかどどおりかんのこの箇所かしょみ、「りゅう備はしょかずらあきら水魚すいぎょまじわりと自分じぶんたとえたりしており、しょかずらあきら忠臣ちゅうしん真面目まじめ人柄ひとがらだったことは熟知じゅくちしていたはずだ。遺言ゆいごんしょかずらあきら裏切うらぎりをうたがうようなことをなんでいたのだろう?さんこく時代じだいだまごういをこの時代じだいだったからだろうか、ひどはなしだ!」となげいて自分じぶん蔵書ぞうしょにコメントをのこしている。[38]ただ、りゅう備がしょかずらあきらうたがった理由りゆうは「しょかずらあきら丞相じょうしょう」だったからである。このころ丞相じょうしょうただしたく曹操そうそうがそうであったように、ほぼ皇帝こうてい代行だいこうちかく、簒奪さんだつ可能かのう地位ちいであった。そして、無能むのうりゅうぜんしょかずらあきらおさめるちからはない。しょかずらあきら帝位ていい可能かのうせい十分じゅうぶん存在そんざいしていた。那珂なか通世みちよはこのことを指摘してきして、「中国ちゅうごく中世ちゅうせい丞相じょうしょうのうち、帝位ていいねらわず忠義ちゅうぎくしたのはしょかずらあきらほかあずますすむおうしるべぜんしんおうたけしすうめいだけである」とべ、「しょかずらあきらなどのわずかな例外れいがいのぞくと、司馬しばあきらりゅうひろししょう道成みちなりほうけい楊堅ふかしひとし丞相じょうしょうしょくにあった人物じんぶつはすべて皇帝こうていりをはかった。丞相じょうしょうしょく国家こっかりの段階だんかいである姦雄かんゆう帝位ていい簒奪さんだつはかときにまずねらうのが丞相じょうしょうくらいであった」とさえ極言きょくげんしている。[39]

陵墓りょうぼ[編集へんしゅう]

陵墓りょうぼなり都市とし南西なんせい郊外こうがいめぐみりょう現在げんざいしょかずらあきらをまつるたけこうほこら区内くないにある。前面ぜんめんにはいぬいたかし53ねん建立こんりゅうこくされた「かんあきられつ皇帝こうていりょう」のいしぶみがある[40]。しかし、彭山けん蓮花れんげむらにあるさんこく時代じだいはか比定ひていするせつもあり、しろみかどじょうのあったたてまつふしけん墓所はかしょもとめるせつもあり、おくに自慢じまんもからんで現在げんざいもにぎやかに議論ぎろんつづいている[41]

子孫しそん[編集へんしゅう]

りゅう備の子孫しそんは、えいよしみ年間ねんかんはちおうらんによりほとんどがころされたが、りゅうひさしまごであるりゅうげんのみがのこった[42]かれチベットけいぞく一派いっぱであるともえ氐の酋長しゅうちょうつよししょく建国けんこくしたなりしょくたよったという。

すすむしょりゅうもとうみりゅう備の祭祀さいし継承けいしょうしたとされているのはりゅうふかしである。かんおう即位そくいれい本文ほんぶん引用いんようされており、そこには「あきられつりゅう備)は岷蜀に播越しおわりにはたいになり(えきけい大凶だいきょうやすし大吉だいきち)、きゅうきょうに旋軫することをこいねがうも、はからんやてんいまわざわいいず、こうみかど窘辱せられ、社稷しゃしょく淪喪より、宗廟そうびょうしょくせざること茲にいてよんじゅうねん」(あきられつみかど陛下へいかしょくのがれられ、大凶だいきょううん大吉だいきちわって洛陽らくよう凱旋がいせんされることを夢見ゆめみていたが、てんあきられつみかどさいわいせず、りゅうぜん陛下へいか亡国ぼうこく屈辱くつじょくあじわい、よんじゅう年間ねんかんかん王朝おうちょう祭祀さいし途絶とだえている)とある。りゅうふかしさん高祖こうそ劉邦りゅうほう光武みつたけみかどりゅうしげるれつあきられつみかどりゅう備)をまつり、司馬しば一族いちぞくへの復讐ふくしゅうちかった。[43]このことから『三国志さんごくし平話へいわ』ではりゅうふかしじつりゅう備のまごであるという伝説でんせつしょうじた。

中華民国ちゅうかみんこく14ねん1926ねん)に『とみりゅうむね』なるぞく公表こうひょうされ、浙江せっこうしょう杭州こうしゅうとみりょう山郷さんごうあけぼのほしむらなる村落そんらくりゅう備の子孫しそんがいると主張しゅちょうされ、現在げんざいでも大々的だいだいてき喧伝けんでんされている。ただこのぞくでは、光武みつたけみかど末裔まつえい自称じしょうしたりゅうかわなる人物じんぶつ西にしすすむ時代じだいしょくかん親族しんぞくとみられることをおそれてきむ改姓かいせいしたことがべられているのみで、史書ししょでのりゅう備の血統けっとうとするつながりは確認かくにんできない。

逸聞いつぶん[編集へんしゅう]

  • あるときりょぬの袁渙りゅう備を罵倒ばとうする手紙てがみかせようとしたが、袁渙はこれを拒否きょひした。このためりょぬの武器ぶきを袁渙にけ、無理むりやりかせようとした。しかし袁渙が顔色かおいろえることなく、ぎゃく冷静れいせいさをもって「ひとはずかしめるのに文書ぶんしょでもってしても、そのひとりゅう備)のとくたかければたいするものりょぬの)がはずかしめられるのです」と説得せっとくしたため、りょぬのってがった。また、あるときりゅう備がんだとのうわさつたえられたが、しょかん慶賀けいがするなかで、(袁渙は)それにくみしなかった。
  • りょぬのしも邳を占拠せんきょすると、ちょう敗走はいそうした。りゅう備はこれをくと軍勢ぐんぜいをまとめてげ、しも邳にいたったところで、ぐん崩壊ほうかいした。崩壊ほうかいしたへいあつめながらひがしぎょうして広陵こうりょう攻略こうりゃくしたが、袁術とたたかいになって、またも敗北はいぼくした。飢餓きがのため困窮こんきゅうし、りゅう備軍の兵士へいしたがいにいあったというのである。(『英雄えいゆう』)
  • りゅう備は成都せいと攻略こうりゃくにあたって、ひきいる部下ぶかたちに「ことさだまったさいには、成都せいと国庫こっこないのあらゆるものわたしあずからない」と約束やくそくした。成都せいととすと、部下ぶかたちはほこきそって国庫こっこ所蔵しょぞうされた財貨ざいかった。このため、軍事ぐんじよう資金しきん物資ぶっし枯渇こかつりゅう備はこれをうれいた。りゅうともみりゅうつぶさに「ひゃくぜに貨幣かへいちょくひゃく銖)を鋳造ちゅうぞうしょ物価ぶっか安定あんていさせ、くに管理かんりするてればいでしょう」と進言しんげんし、りゅう備がこれにしたがったところすうげつぞういちはいになった。部下ぶかたちに成都せいと住居じゅうきょしろがいえんはたけ恩賞おんしょうとしてあたえようという議論ぎろんがあった、ちょうくも反対はんたいしたのでりゅう備はそれにしたがったという。(『ちょうくも別伝べつでん』『どおりかん』)
  • 彭羕は、その野心やしん警戒けいかいしたしょかずらあきらりゅうつぶさ密告みっこくしたために、左遷させんされることとなった。彭羕は左遷させんされるまえうまちょう訪問ほうもんすると、りゅう備を「ろうかわ[44](おいぼれ、老兵ろうへい)」と批判ひはんしたのち、「きみそとへいげ、わたしうちてば、天下てんかおもいのままである」とうまちょう反乱はんらんちかけた。流浪るろうすえ帰順きじゅんしたうまちょうは、自分じぶん危惧きぐしていたのでこの言葉ことばれず、彭羕がかえるとその言葉ことば上表じょうひょうしたため、彭羕はりゅうつぶさ処刑しょけいされた(『三国志さんごくししょくこころざし「彭羕でん」)。
  • りゅう備がかんちゅう出陣しゅつじんすると兵力へいりょく不足ふそくおぎなうため至急しきゅう文書ぶんしょをよこしへいほろはっせよといってきた。しょかずらあきら楊洪進言しんげんをききいれ、かんちゅうえきしゅう百姓ひゃくしょうおくんだ[45](『楊洪でん』)。
  • けんやすまつとしごろに、ちょうひろしはあるひとかんちょう滅亡めつぼうりゅう備の予言よげんした。そのひとひそかにうったると。りゅう備は以前いぜんからかれ不遜ふそん態度たいどもあったため、今回こんかいらした言葉ことば激怒げきどした。さらにかんちゅうについての予言よげんたらなかったことをあきらかにさせ、ちょうひろし処刑しょけいしようとした。しょかずらあきらちょうひろしのために助命じょめい嘆願たんがんしたが、りゅう備はうつくしいらんでももんまえいていればらなければならないとの返答へんとうをしたという。結局けっきょくちょうひろし処刑しょけいされ、のちかれ予言よげんしたとお成立せいりつしてかんほろび、りゅう備が崩御ほうぎょした(『しゅう羣伝』)。
  • 芸文げいぶんやま』というしょによると、長生ちょうせいはかつてりゅうつぶさつかえていたという[46]とく時代じだいいたるまで130ねん以上いじょう経過けいかしている。また、みなみそうほうりきよしあらわした『ほう輿こししょうらん』によると、かつりゅう備はかれ征伐せいばつしようとしたが失敗しっぱいし、その逍遥しょうようこうふうじたという。りゅうぜんこうぐと、かれ邸宅ていたく長生ちょうせいかん名付なづけたという。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

性格せいかくについて[編集へんしゅう]

学生がくせい時代じだい読書どくしょはなはだしくはたのしまず、いぬ音楽おんがく見栄みばえがある衣服いふくこのんだ。言葉ことばすくなく、よくひとにへりくだり、喜怒きど感情かんじょうひょうにださなかった。ごう侠とまじわることをこのんだため、若者わかものあらそってかれについていった。

風貌ふうぼうについて[編集へんしゅう]

りゅう

りゅう備は背丈せたけななしゃくすんこうかん時代じだい尺度しゃくどではやく173cm、西にしすすむ時代じだい尺度しゃくどではやく181cm)、うでひざとどくまであり、みみ非常ひじょうおおきく自分じぶんみみることが出来できたという[47]

しょくしょしゅうつてにはちょうひろしに「潞涿くん」(ひげのうすひと[48])とあげつらわれたとある。

呼称こしょうについて[編集へんしゅう]

げんとく(げんとく)は、「げんとく」は「明徳めいとく」に相対そうたいする言葉ことばである。明徳めいとくとはそとあらわれる意識いしきてき仁徳じんとくい、げんとくとは無意識むいしき玄妙げんみょう無限むげんなる仁徳じんとくす。しょくけたのではないかと漢学かんがくしゃ安岡やすおか正篤まさあつ推測すいそくしている。[49]。『三国志さんごくし』(正史せいし)では、りゅう備を諡号しごうあきられつみかどではなく「さきぬし」とんでいる。これは、正統せいとうとする位置いちくに2人ふたり皇帝こうていがいることは儒教じゅきょうてきゆるされないので、皇帝こうていのような微妙びみょう位置いちんだのである。[50]

系譜けいふについて[編集へんしゅう]

りゅう備は前漢ぜんかんけいみかどだい9中山なかやまやすしおうりゅうまさる(? - 紀元前きげんぜん113ねんぼつ)の庶子しょしりゅうさだ末裔まつえいという。りゅうまさるまごわせると120にん以上いじょうになり、りゅう備のとされるりゅうさだは、紀元前きげんぜん117ねんに涿郡涿県の列侯れっこうとしてりくじょうちんこう爵位しゃくいたまわった[51]。だが、紀元前きげんぜん112ねん年始ねんし正月しょうがつごろに、かれ列侯れっこうのみにされたかんあさへの上納じょうのうきん酎金)をおさめなかったために、ほうこくのぞかれ、史書ししょ系譜けいふもそこでまっている。

また、「さきぬしでんちゅうく『てんりゃく』では、りゅう備は臨邑こう[52]の庶流としるされている。

けいみかどりゅうまさるりゅうさだ 以後いご系譜けいふしょう(『三国志さんごくししょくしょさきおもでんけいみかど常山つねやまけんおうりゅうしゅんじょうごろおうりゅうひらていれつおうりゅう偃-ていこうおうりゅうゆかりてい安王やすおうりゅう雍-じょうどもおうりゅうひろし-臨邑こうりゅうゆずる(『てんりゃく』/下記かき系譜けいふ同様どうようけいみかどちょうすなじょうおうりゅうはつうすりょうふしこうりゅうかいうつりん太守たいしゅりゅうがい-鉅鹿じょうりゅうかいみなみひたぶる県令けんれいりゅう欽-ひとしたけおうりゅう縯-北海ほっかいやすしおうりゅうきょう-臨邑こうりゅうふく-臨邑こうりゅう騊駼
閻立ほん歴代れきだい帝王ていおうまき』より

物語ものがたりである『三国志さんごくし平話へいわ』および『三国志さんごくし演義えんぎ』においては、中山なかやまやすしおうりゅうまさる、そのりくじょうちんこうりゅうさだ以後いご系譜けいふは、りゅうさだりゅうのぼるは沛侯、そのりゅうろくは漳侯、そのりゅう欒は沂水こうりゅうすぐるは欽陽こうふうぜられ、りゅうさだ以後いごすうだい列侯れっこう爵禄しゃくろくけたものの、家運かうん衰退すいたいによりりゅう備の父母ちちははだいにはくつりやむしろりにまで零落れいらくするも、りゅう備のだいけんじみかど拝謁はいえつかんそうちかしみとめられてひだり将軍しょうぐんむべしろていこうふうぜられ、そのかん滅亡めつぼうによりしょくかんおこしその皇帝こうていとして君臨くんりんしたとされている。これは一部いちぶのぞいて創作そうさくである。

江戸えど時代じだいはやし羅山らざんは『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』において、「しょくかんりゅう備が中山なかやまやすしおうりゅうまさる)の子孫しそんだといったり、きたそうちょうただしたねちょうひろかん末裔まつえいだといったりしているのは途中とちゅう系図けいずれていてうたがわしい。日本にっぽん戦国せんごく武将ぶしょう系図けいずにも同様どうようれいおおい」とわざわざいにしている[53]

なお、かんだいふくじょ(徭役の免除めんじょ)を研究けんきゅうしている山田やまだ勝芳かつよしは、のべ2ねん159ねん以降いこうぞくつきしょうされていた宗室そうしつ資格しかくうしなった歴代れきだい皇帝こうてい子孫しそん各種かくしゅ免税めんぜい特権とっけんけていたことを指摘してきし、りゅう備の幼少ようしょう逸話いつわ一族いちぞくしゅうじゅう学資がくし援助えんじょけるはなし)はかれぞくつき一員いちいんとして一族いちぞく集団しゅうだん保護ほごけていた(一族いちぞく団結だんけつ官吏かんり外部がいぶ人々ひとびと特権とっけん存在そんざい明示めいじする手段しゅだんになる)、すなわちかれぞくつきであっても宗室そうしついえつらなるものであったことを確認かくにんできる証明しょうめいになるとしている[54]

一般いっぱんてきに、初代しょだい皇帝こうてい祖先そせん皇帝こうていとしておいとうとしたり、自分じぶん前代ぜんだい皇帝こうてい養子ようしにしたりしていた。光武みつたけみかどれいに、光武みつたけみかどは、前漢ぜんかんせんみかどやしなえ祖父そふもとみかど養父ようふとすることとみとめ、前漢ぜんかんきんささえ皇統こうとう本家ほんけ)を継承けいしょうしたことを表明ひょうめいしたため、自分じぶんじつおや分家ぶんけ)をおいとうとしなかった。しかし、りゅう備はこうかん皇統こうとうぐことを主張しゅちょうしたわけではない。父母ちちははは、皇帝こうてい皇后こうごうとしてついみことわれることもなかった。

しょくかん正統せいとうろん[編集へんしゅう]

りゅう備が傍系ぼうけいとはかん王室おうしつ血筋ちすじであったことから、はやくもあずますすむ時代じだいには習鑿が『かんすすむ春秋しゅんじゅう』にてしょくかん正統せいとうろんとなえ、りゅう備のしょくかんこそ正統せいとう曹操そうそう簒奪さんだつしゃであると主張しゅちょうした。以後いご議論ぎろん日本にっぽん江戸えど時代じだい浅見あさみ絅斎けいさいやすしけんじ遺言ゆいごん講義こうぎまきの「さんこく正統せいとうべん」にまでつづいた。

後世こうせいひょう[編集へんしゅう]

ちん寿ひさしひょう:「度量どりょうひろく、意志いしつよく、しんおおきく親切しんせつであって、人物じんぶつ見極みきわめて士人しじん待遇たいぐうした。おもうに前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)の面影おもかげがあり、英雄えいゆううつわであった。くにのそのしょかずらあきらすべたくすのにさいして、しんなにらの疑念ぎねんいだかなかったこととなると、まことに君臣くんしん私心ししんなきありかたとして最高さいこうのものであり、古今ここんつうじての盛事せいじである。権謀けんぼう策略さくりゃくにかけては、曹操そうそう)におよばず、これがために国土こくどもまたせまかった。しかしながらやぶれても屈服くっぷくせず、最後さいごまで臣下しんかとならなかったのは、たけみかど曹操そうそう)の度量どりょうからいって絶対ぜったい自分じぶんれないとはかったからで、たんきそうためというのでなく同時どうじ害悪がいあく回避かいひするためであったのである[55]。」(『しょくしょ』「さきぬしでん」)

習鑿はいう。さきぬし顛倒てんとう困難こんなんおちいったときであっても、信義しんぎをますますあきらかにし、状況じょうきょう逼迫ひっぱく事態じたい危険きけんになっても、道理どうりはずれぬ発言はつげんをした。けいます(りゅうひょう)の恩顧おんこ追慕ついぼすれば、その心情しんじょう三軍さんぐん感動かんどうさせ、道義どうぎにひかれる人々ひとびとしたわれ(についてこられ)れば、(見捨みすてることなく)あまんじてともに敗北はいぼくした。かれ人々ひとびとしんむすびついた経過けいか観察かんさつすれば、いったい、どぶろくをあたえてこごえているもの慰撫いぶし、たで(にがい)をくちふくみ、みん病気びょうき見舞みまった程度ていどのことであろうか。かれだい事業じぎょうげたのも当然とうぜんであろう[56]

三国志さんごくし演義えんぎ』におけるりゅう[編集へんしゅう]

清朝せいちょう三国志さんごくし演義えんぎにおけるりゅう備の肖像しょうぞう

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』は、はばらんによってみだれるなかりゅう備がせきはねちょう桃園ももぞのちかむすび、義勇ぎゆうへいこす場面ばめんからはじまる。

りゅう備は仁徳じんとくによってしょ勢力せいりょくおもんじられ、同時どうじ警戒けいかいされたが『演義えんぎ』のなかりゅう備はさらにその個性こせい徹底てっていはかられ武勇ぶゆうかんちょうをはじめとする武臣ぶしんたち、知略ちりゃくしょかずらあきらなどのはかりごとしんあづけ、多様たよう個性こせい周囲しゅういける中心ちゅうしんとして位置いちしている。しかも、わかとき母子ぼし草鞋わらじつく行商ぎょうしょうし、吉川よしかわ英治えいじ小説しょうせつ三国志さんごくし』では当時とうじ庶民しょみんでは高級こうきゅうひんであったとわれるちゃははませるためにかねめていたという苦労くろうじんとしてえがかれている。ここから儒教じゅきょう理想りそうとする君子くんしてき高潔こうけつさがえがかれ、これによって奸雄かんゆう曹操そうそう対立たいりつじく構成こうせいしている。

演義えんぎ』のなかりゅう備は「そうまたけん」と「てき」を愛用あいようしている[57]。「そうまたけん」は、桃園ももぞのちかいで義兄弟ぎきょうだいちぎりをたしたあと、ちょうたいらそうからおくられた軍用ぐんようきん一部いちぶさせたほんわせのけん吉川よしかわ小説しょうせつでは、「大小だいしょうけん」と表記ひょうきされ、りょぬのとのたたかいで使用しようされた。また、どう小説しょうせつでは先祖せんぞからつたわるけん所持しょじしており、旅先たびさきはばぞくおそわれているところをすくってくれたちょうたいれいとしてこのけんわたしたが、旅先たびさきからもどりこれをったりゅう備のははがひどくかなしんだとされている。このけんちょう再会さいかい義兄弟ぎきょうだいちぎりをわしたさいりゅう備のもどった。

演義えんぎ』では、りょぬのわれているときんだいえ主人しゅじんりゅうやすしは、りゅう備をもてなす食料しょくりょうがなかったのでつま殺害さつがいして、オオカミのにくいつわって、そのにくし、そうとはらず感激かんげきしていたりゅう備だったが、顛末てんまつるやひどく悲嘆ひたんしたという逸話いつわ存在そんざいする(和訳わやくほんでは削除さくじょされるか、価値かちかんちがいについて注釈ちゅうしゃくうえ紹介しょうかいされている。また、吉川よしかわ小説しょうせつではこの描写びょうしゃまえに、中国ちゅうごく日本にっぽん文化ぶんかちがいについて明記めいきしている)。『演義えんぎ』では、しょくうばったあと、義兄弟ぎきょうだいであるせきはねくれ連合れんごうぐんころされ、そのこうかんほろぶ。しょかずらあきらはじめとする群臣ぐんしんりゅうつぶさ帝位ていいくようすすめるが、「そなたいたるわたし不義ふぎ不忠ふちゅうやから仕立したてるか」と激昂げっこうする。即位そくいには部下ぶかちょうころして逃亡とうぼうしたことによりいかくるい、義兄弟ぎきょうだい敵討かたきうちを大義名分たいぎめいぶんとしてかう。そのさいただし老人ろうじんあつかいしたり、自軍じぐんが75まんというだい軍勢ぐんぜいうえくれぐん士気しきひくいのを傲慢ごうまんになっていた。そこをいたりくへりくだにより大敗たいはいしろみかどじょうび、まもなく後悔こうかいねんにさいなまれ病気びょうきになる。やまいゆかゆめあらわれたせきはねちょうから「とおくなく兄弟きょうだいさんにんがまたつどうことになるでしょう」とわれ、みずからの死期しきさとる。そしてしょかずらあきらせ、のことをたくしてる。

妻子さいし血縁けつえん[編集へんしゅう]

前漢ぜんかん王朝おうちょう系図けいず】(編集へんしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふとし上皇じょうこう
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
だいおう
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)高祖こうそ
劉邦りゅうほう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すわえおう
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おう
りゅう
 
ひとしおう
りゅうこえ
 
(2)めぐみみかど
りゅうみつる
 
ちょうおう
りゅう如意にょい
 
(ぜん3)ぶんみかど
りゅうひさし
 
 
 
 
 
淮南ワイナンおう
りゅうおさむ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしおう
りゅうじょう
 
城陽じょうようおう
りゅうあきら
 
*ぜんしょうみかど
りゅうぼう
 
*こうしょうみかど
りゅうひろし
 
(4)けいみかど
りゅうあきら
 
はりおう
りゅうたけし
 
淮南ワイナンおう
りゅうやすし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
臨江おう
りゅうさかえ
 
ちゅう山王さんのう
りゅうまさる
 
ちょうすなおう
りゅうはつ
 
 
 
 
 
(5)たけみかど
りゅうとおる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひだり丞相じょうしょう
りゅうこごめ
 
(おい)もど太子たいし
りゅうよりどころ
 
つばめおう
りゅうだん
 
(6)あきらみかど
りゅうどるりょう
 
あきら邑王
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)悼皇
りゅうすすむ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*あきら邑王
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(7)せんみかど
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)もとみかど
りゅう
 
 
 
 
 
すわえおう
りゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(9)なりみかど
りゅう
 
(おい)きょうすめらぎ
りゅうやすし
 
ちゅう山王さんのう
りゅうきょう
 
りゅういさお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)あいみかど
りゅう
 
(11)ひらみかど
りゅう
 
りゅうあらわ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*孺子じゅし
りゅう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 簡体字かんたいじでの表記ひょうき:刘备ピンおんLiú Bèi
  2. ^ 現代げんだい中国語ちゅうごくごではXuándé
  3. ^ すすむしょまきいちひゃく列伝れつでんだいななじゅうでは、りゅう備を「れつ」としょうしている
  4. ^ よんふんれき太陰たいいん太陽暦たいようれき
  5. ^ a b かんすすむ春秋しゅんじゅう』より。
  6. ^ 柿沼かきぬま陽平ようへいりゅう備としょかずらあきら カネ勘定かんじょうの『三国志さんごくし』』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2018ねん5がつ、57ぺーじ
  7. ^ 太平たいへい御覧ごらんまき409人事じんじ50交友こうゆう4がまごすわえの『牽招』より。
  8. ^ 柿沼かきぬま陽平ようへいりゅう備としょかずらあきら カネ勘定かんじょうの『三国志さんごくし』』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2018ねん5がつ、59-60ぺーじ
  9. ^ a b 柿沼かきぬま陽平ようへいこうかんまつ群雄ぐんゆう経済けいざい基盤きばん財政ざいせい補填ほてんさく」(初出しょしゅつ:『三国志さんごくし研究けんきゅうだい11ごう(2016ねん)/所収しょしゅう:柿沼かきぬま中国ちゅうごく古代こだい貨幣かへい経済けいざい持続じぞく展開てんかい』(汲古書院しょいん、2018ねん)) 2018ねん、P119-120・123-124.
  10. ^ てんりゃく』によると、187ねんちょうじゅん反乱はんらんこした。あおしゅう刺史ししちょうじゅん討伐とうばつめいじた。その討伐とうばつぐん平原へいげん通過つうかしたとき、りゅう子平しへいりゅうたいら?)はりゅう備が武勇ぶゆうすぐれているとべて従事じゅうじ推薦すいせんした。りゅう備は従軍じゅうぐんし、田野でんやてきぐんたたか負傷ふしょうし、んだ真似まねをした。友人ゆうじんたすけられ脱出だっしゅつした。のち軍功ぐんこうやす熹県のじょうになった、としるされている。
  11. ^ てんりゃく』によると、当時とうじぐん勅命ちょくめいにより軍功ぐんこうによって官吏かんりとなった人間にんげん罷免ひめん審議しんぎおこなっていた。りゅう備は自分じぶんがそこにふくまれているのではないかとうたがい、旧知きゅうちぐん監察かんさつかんであるとく郵がけんにやってきたとき、これに面会めんかいもうんだところいつわりびょうによって拒否きょひされた。これをうらんだりゅう備は吏卒をひきいてもんり、とく郵をしばげて100かいあまはたき、命乞いのちごいをけてった
  12. ^ 英雄えいゆう』によると、れいみかどすえとしりゅう備は洛陽らくようにいた。のち曹操そうそうとともにき、へい募集ぼしゅうしてあつめた。あいだもなく曹操そうそうただしたく討伐とうばつかった、としるされている。
  13. ^ しょ』より。
  14. ^ 太平たいへい御覧ごらんまき838引『英雄えいゆう』によれば、りゅう備の領土りょうど作物さくもつうばってぐんかてとしていた。
  15. ^ 英雄えいゆう』によれば、一計いっけいあんじたりゅう備は楊奉をさそって会見かいけんし、会見かいけん席上せきじょうで楊奉を謀殺ぼうさつした。かん暹はしたが、あき守備しゅび隊長たいちょうちょうせんられ、その首級しゅきゅうりゅうつぶさとどけられたという。
  16. ^ 三国志さんごくしりょぬのでんでは「さい叵信しゃ」といった記録きろく後代こうだいの『こう漢書かんしょりょぬのでんでは「だいみみさい叵信」に改変かいへんされている。
  17. ^ こう漢書かんしょ』袁術でん
  18. ^ けんじみかど春秋しゅんじゅう
  19. ^ a b 三国志さんごくしこころざし はん濬伝
  20. ^ 三国志さんごくし』「しょくしょ まき さきおもでん
  21. ^ 三国志さんごくし』「しょくしょ まきなな 龐統でん
  22. ^ かんしんさん
  23. ^ 三国志さんごくし』「くれしょ魯粛でん
  24. ^ しょくしょさきおもでん まごけん以先ぬしやめえきしゅう使つかい使つかいむくい欲得よくとく荊州。さきぬしげん「須得りょうしゅうとう以荊しゅうしょうあずか
  25. ^ りゃく
  26. ^ 華陽かようこくこころざし
  27. ^ てんりゃく
  28. ^ かんちゅう占領せんりょうしようとするりゅうつぶさたいし、敗北はいぼく予言よげんしていた。しかし、りゅう備はかんちゅうれたので、ちょうひろし予言よげんはずれたのだと理解りかいした。
  29. ^ 習鑿左遷させんされたのは当然とうぜんであるとべており、裴松は習鑿議論ぎろんうちでこのろんもっとすぐれていると意見いけんしている。それに反論はんろんして弼は、ろん賛同さんどうします。りゅう備の即位そくい行為こういにはおうおっとこれ批判ひはんされた。「でん
  30. ^ かずらひろし神仙しんせんでん
  31. ^ はた宓伝
  32. ^ ちょうくも別伝べつでんにいう。ちょうくもは諫めて、「国賊こくぞく曹操そうそうであって、まごけんではありません。しかもまずほろぼせば、はおのずと屈服くっぷくするでありましょう。曹操そうそう自身じしんんだとはいっても、の曹丕が簒奪さんだつをはたらいております。[それをおこる]人々ひとびとしんにそいつつ、はやせきちゅうをわがものとし、黄河こうが・渭水の上流じょうりゅう根拠こんきょとして、逆賊ぎゃくぞく討伐とうばつすべきです。関東かんとう正義せいぎ志士ししかならずや食糧しょくりょううまむちうって官軍かんぐん歓迎かんげいするでありましょう。をそのままにして、さきたたかってはなりません。戦闘せんとうがひとたびまじえられれば、すぐにはくことができないものです」といった。
  33. ^ まご桓伝
  34. ^ わかころ母方ははかたいえやしなわれ、せいきつねとくといったが、のちもとせいもどり、ちゅうあらためた。
  35. ^ うまただしでん
  36. ^ ろく
  37. ^ 渡邉わたなべ義浩よしひろ三国志さんごくし中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ
  38. ^ かんひろしみかどなどのどおりかん批評ひひょうをまとめたいぬいたかしみかど勅撰ちょくせんの『批歴だいどおりかん輯覽』に、「あきられつ於亮平日へいじつ以魚すい喻,あきらちゅうさだあにふか,受遺なんいたりさく猜疑さいぎ,三國人以譎詐相尚,ひな哉!」とある。
  39. ^ 那珂なか通世みちよささえ通史つうし岩波いわなみ文庫ぶんこちゅうさつ、P234、はら漢文かんぶんおろ
  40. ^ 四川しせん文物ぶんぶつ』1987ねんだい1りゅう備墓及真にせこうべん
  41. ^ たてまつふしけん公式こうしきページによる議論ぎろん概要がいよう。もちろんこのページではたてまつふしけん墓所はかしょがあると主張しゅちょうされている。
  42. ^ ぞくによるとりゅうひさしにはりゅうというがいて、りゅう備の血統けっとうつたえたことになっているがうたがわしい。りゅう晨の系図けいず外部がいぶリンクを参照さんしょう
  43. ^ すすむしょりゅうもとうみ永興りょうご元年がんねんもとうみ乃為だん南郊なんこう,僭即かん王位おういしたれい曰:「(中略ちゅうりゃくあきられつ播越岷蜀,冀否おわりゆうやすし,旋軫きゅうきょうなにてん悔禍,みかど窘辱。自社じしゃきび淪喪,宗廟そうびょうしょくよんじゅうねん於茲矣。こんてんさそえ其衷,悔禍皇漢こうかん使つかい司馬しば父子ふし兄弟きょうだい迭相ざんめつはじむ庶塗ずみ,靡所ひかえつげこん猥為ぐん公所ぐぞ推,紹修さんこれぎょう。顧茲尪暗,せん惶靡厝。ただし以大はじゆき社稷しゃしょく無主むしゅ,銜膽棲冰,つとむしたがえ群議ぐんぎ。」乃赦其境ないねんごうもと熙,ついみことりゅうぜんためこうふところ皇帝こうていたてかん高祖こうそ以下いか三祖五宗神主而祭之。」
  44. ^ あげゆうの『方言ほうげん』にいう。悈・えらいぬい・耇・かわろう意味いみである。かくちゅうにいう。みな老人ろうじんかわがかさかさになりりをうしなった状態じょうたいをいう言葉ことばである。しん(わたくし)裴松かんがえる。かわからったものをかわという。むかしかわをもってへい(武器ぶき)をつくった。だから兵革へいかくという言葉ことばがあるのであり、かわへい同義どうぎである。彭羕がりゅう備を罵倒ばとうしてろうかわといったのは、ちょうど老兵ろうへいといったようなものである。
  45. ^ しょかずらあきらがそのことを楊洪にたずねると、楊洪は「男子だんしたたかい、女子じょし輸送ゆそうたるべきだ」と進言しんげんした
  46. ^ じゅうろくこく春秋しゅんじゅうまき80 范長生ちょうせいでん
  47. ^ 渡辺わたなべ精一せいいち三国志さんごくし人物じんぶつ鑑定かんてい辞典じてん』では、「ひざまでれるなが」は「うごかせる範囲はんいひろい」≒「多才たさい」と解釈かいしゃくでき、さらに「自分じぶんみみることもできる」は「こまかいところまでよくることができる」という意味いみれるため、りゅう備の身体しんたいてき特徴とくちょうについての記録きろくは「聡明そうめいである」という意味いみ解釈かいしゃくできる、との説明せつめいがされている。
  48. ^ 潞はつゆ(あらわ)と同音どうおん、涿はついばめ(くち)と同音どうおんで、くちがあらわなひとという意味いみになる。
  49. ^ 安岡やすおか正篤まさあつじゅうはちりゃく
  50. ^ 高島たかしま俊男としお三国志さんごくしきらめく群像ぐんぞう』ちくま文庫ぶんこ。『しょくしょ』におけるりゅう備のつてでは「さきぬしでん」とある。また、りゅう備ののちいだりゅうぜんこうぬしとされている。
  51. ^ 漢書かんしょ』「王子おうじこうひょう」によるとりくしげるこう。「ちんこう」はこうかん爵位しゃくい制度せいどで、前漢ぜんかんには存在そんざいしていなかった。つづき「王子おうじこうひょう」でりゅうさだ紀元前きげんぜん127ねんほうふうじられたと、しるされている(くわしくはりゅうさだ参照さんしょう)。
  52. ^ こう漢書かんしょ』には3にんの臨邑こう記録きろくされている。一人ひとりたてたけし2ねん西暦せいれき26ねん)にじょうおうりゅうともこうかんへの謀反むほんこしたりゅうゆずるであり、もう一人ひとりたてたけし30ねん54ねん)に臨邑こうふうじられたりゅうふく、いまいちにんりゅうふくりゅう騊駼である。りゅうゆずるりゅう楊のおとうとであり、りゅう楊は前漢ぜんかんけいみかどの7だいまごである。りゅうふく北海ほっかいやすしおうりゅうきょうであり、りゅうきょう光武みつたけみかどあにひとしたけおうりゅうはくます)のである。
  53. ^ はやしあきらかち橋本はしもとまさしせん斎木さいき一馬かずま寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん だい1ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1980ねん1がつ1にち、14ぺーじISBN 4797102365https://www.google.co.jp/books/edition/寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん_1/hkC4gvzXLqQC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP32&printsec=frontcover 
  54. ^ 山田やまだ勝芳かつよしはたかん財政ざいせい収入しゅうにゅう研究けんきゅう』(汲古書院しょいん、1993ねんISBN 4-7629-2500-4 pp.631-632
  55. ^ 原文げんぶん:「弘毅こうき寛厚かんこう知人ちじんさむらいぶた高祖こうそふう英雄えいゆううつわ焉。及其挙国きょこくたく於諸かずらあきら、而心しんうたぐまこと君臣くんしんいたりこう古今ここんもり軌也。けんみきりゃく逮魏たけ以基宇亦せましかおり不撓ふとうおわり不為ふためじんしゃそもそも揆彼りょう必不ようおのれただきおい、且以避害うんなんじ
  56. ^ さきぬしでん だい
  57. ^ 三国志さんごくし』にはそのようなけんがあったという記録きろくはない。てきは『三国志さんごくし』「さきぬしでん」のちゅうや『さきぬしでんしゅうかい』にそのがある。
  58. ^ 三国志さんごくし』「しょきゅう 曹仁でん」には、曹純りゅう備のむすめ2にんらえたとある。

参考さんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]