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はちおうらん

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はちおうらん

はちおうふうこく分布ぶんぷ
戦争せんそう内戦ないせん
年月日ねんがっぴ:291ねん - 306ねん
場所ばしょ中国ちゅうごく全土ぜんど
結果けっか西にしすすむ滅亡めつぼう
交戦こうせん勢力せいりょく

はちおうらん(はちおうのらん)は、中国ちゅうごく王朝おうちょうすすむ西にしすすむ)の滅亡めつぼうのきっかけをつくった皇族こうぞく同士どうし内乱ないらんである。西にしすすむさんこく時代じだい終止符しゅうしふって全土ぜんど統一とういつしたが、その平穏へいおんはわずかすうじゅうねんくずった。こののち中国ちゅうごくずい統一とういつするまでのおよそ300ねんにわたり、ふたた動乱どうらん時代じだいむかえることとなる。

はちおう

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西にしすすむ王朝おうちょう系図けいず】(編集へんしゅう
  • すすむしょ本紀ほんぎまき1~10、列伝れつでんまき7・8・29・44・68・69による
  • 太字ふとじ皇帝こうてい追贈ついぞうふくむ)、数字すうじ即位そくいじゅん
  • はいもうけははちおうらんにて殺害さつがいされた人物じんぶつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まいようこう
司馬しばぼう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)せんみかど
司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安平あびらおう
司馬しばまこと
 
 
 
 
 
東武とうぶじょうこう
司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)けいみかど
司馬しば
 
(おい)ぶんみかど
司馬しばあきら
 
なんじみなみおう
司馬しばあきら
 
琅邪おう
司馬しば
 
はりおう
司馬しば
 
ちょうおう
司馬しばりん
 
ふとげんおう
司馬しば
 
 
 
 
 
高密こうみつおう
司馬しばやすし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしおう
司馬しば
 
(1)たけみかど
司馬しばえん
 
 
 
 
 
琅邪おう
司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河間こうまおう
司馬しば
 
東海とうかいおう
司馬しばえつ
 
しん蔡王
司馬しばあが
 
南陽なんようおう
司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしおう
司馬しば
 
(2)めぐみみかど
司馬しば
 
すわえおう
司馬しば
 
淮南ワイナンおう
司馬しばまこと
 
ちょうすなおう
司馬しば
 
成都せいとおう
司馬しば
 
(3)ふところみかど
司馬しばおき
 
おう
司馬しば
 
 
 
 
 
南陽なんようおう
司馬しばたもつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愍懐太子たいし
司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)愍帝
司馬しば
 

はちおうらん関係かんけい系図けいずあおはちおう赤字あかじ女性じょせいしめす。また、まるかこ数字すうじ西にしすすむ即位そくいじゅんで、ローマ数字すうじあずますすむ即位そくいじゅんである。

なお、「はちおう」のしょうは、成都せいとおう司馬しば穎につかえた綝(こころざしおい)があらわした『はちおう故事こじ』(現在げんざい散逸さんいつ)に由来ゆらいするとう。

前史ぜんし

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前史ぜんし

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前漢ぜんかん時代じだい初期しょきにはきゅうろくこく末裔まつえい功臣こうしんなどを諸侯しょこうおうはいし、つづいてかれらを排除はいじょして皇帝こうてい一族いちぞく宗室そうしつ皇族こうぞく)を諸侯しょこうおうとする政策せいさくる。ところがすわえななこくらん契機けいきとして宗室そうしつ抑制よくせい政策せいさくられ、諸侯しょこうおう領国りょうごくにおいて中央ちゅうおう派遣はけんしたくにしょうこうかん)・かんこく謁者(たかし)などの厳重げんじゅう監視かんしかれ、その政策せいさくこうかんたかしにおいて強化きょうかされた。

末期まっきあに司馬しばのちいですすむおう地位ちいいた司馬しばあきらは、自己じこ一族いちぞく各地かくちふうじてまでの幽閉ゆうへい同様どうよう待遇たいぐう大幅おおはば向上こうじょうさせた。さらにかれらをみやこただしにんじて要地ようち駐屯ちゅうとんさせ、北方ほっぽう民族みんぞく対抗たいこうするためのぐんけん一部いちぶさづけた。とく時代じだいにもかれていたが、強力きょうりょくぐんけんゆえにおう毌丘倹しょかずらのように司馬しばたいして叛旗はんきひるがえもの相次あいついだ。反面はんめん司馬しば司馬しばとくとしてしょくしょかずらあきらきたふせいだことで権力けんりょく掌握しょうあくのきっかけをきずいた地位ちいでもあった。そのため、すすむではとく一族いちぞくにんじることでその反乱はんらんふせぎ、かつ北方ほっぽう民族みんぞくそなえようとしたのである。だが、一族いちぞくぐんけんあたえたことが、はちおうらんまねくきっかけとなったのであった。

はちおうらん経過けいか

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発端ほったん

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たけみかど平定へいてい以降いこう天下てんか統一とういつげたこと安心あんしんし、次第しだい政務せいむないがしろにして酒色しゅしょくおぼれるようになり、皇后こうごう楊芷ちちである楊駿わって政務せいむ仕切しきるようになった。かれみずからを支持しじするものてておおくの旧臣きゅうしんとおざけ、おとうと楊珧楊済とも権勢けんせいをほしいままにするようになり、かれらは『天下てんかさん』としょうされた。楊珧・楊済はかねてより声望せいぼうがあって才能さいのうったが、楊駿にはなん才能さいのうくただ外戚がいせきという理由りゆうだけで権力けんりょくにぎっていたので、官僚かんりょうからはきらわれていた。

ふとやすし10ねん289ねん)11月、たけみかどやまいたおれると、さとったかれは楊駿と大叔父おおおじであるなんじみなみおう司馬しばあきら二人ふたり後事こうじたくそうとかんがえたが、楊芷はたけみかどのこみことのりを『楊駿いちにんすべてをたくす』という内容ないようえた。ふとし元年がんねん(290ねん)3がつたけみかど崩御ほうぎょして皇太子こうたいし司馬しば衷(めぐみみかど)が即位そくいすると、楊駿の権勢けんせいはさらにるい、ついには皇帝こうてい住居じゅうきょまうようになった。だが、朝廷ちょうていでは失政しっせい連発れんぱつし、おおくの忠臣ちゅうしんの諫めにもみみさなかったので、内外ないがいから怨嗟えんさこえあつまるようになった。

1.291ねん3がつ:楊駿殺害さつがい

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めぐみみかど皇后こうごう賈南ふう陰険いんけん策謀さくぼうこの人物じんぶつであり、かねてより朝廷ちょうてい勝手かってう楊駿の存在そんざい非常ひじょううとましくおもっていた。また、もともと楊駿のむすめである皇太后こうたいごう楊芷ともいがわるかった。そのため彼女かのじょは楊氏一派いっぱ誅殺ちゅうさつ決断けつだんし、側近そっきん宦官かんがんただしたけし殿中でんちゅうちゅうろうはじめかんはじめ結託けったくして政変せいへん計画けいかくすすめ、さらに荊州にいるすわえおう司馬しばせて仲間なかまれた。

ながひらた元年がんねん291ねん)3がつはじめかんはじめめぐみみかどしたおもむいて楊駿の謀反むほんうったえるとともに、みことのりつくげて楊駿のつみをでっちげ、宮中きゅうちゅうへいに楊駿捕縛ほばくめいじた。楊駿は異変いへんるとうまうまや逃亡とうぼうするもころされ、楊氏はさんぞく皆殺みなごろしとなった。楊芷は庶人にとされてきむ墉城に監禁かんきんされ、のち殺害さつがいされた。

2.291ねん6がつ司馬しばあきらまもる瓘・司馬しば殺害さつがい

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楊氏一派いっぱ粛清しゅくせいされると、なんじみなみおう司馬しばあきらふとしまもる朝政ちょうせいつかさどることになったが、かれらは賈氏を警戒けいかいしてその権限けんげんおさんだので、賈南ふうはこれに不満ふまんいた。またまもる瓘については、たけみかど時代じだいめぐみみかど廃嫡はいちゃく進言しんげんしたことがあったので、とくつようらみをいていた。そんななかまもる瓘と対立たいりつしていた司馬しば瑋配岐盛ひそかに「司馬しばあきらまもる瓘は皇帝こうてい廃立はいりつたくらんでいる」とうそ情報じょうほうながすと、ついに賈南ふう司馬しばあきららをのぞことめた。

同年どうねん元康もとやす元年がんねん)6がつ、賈南ふうめぐみみかどみことのりつくらせ、司馬しばあきらまもる瓘の逮捕たいほ司馬しば瑋へめいじた。司馬しば瑋はこれにしたがって公孫こうそんひろしはじめ司馬しばあきら包囲ほういさせ、清河きよかわおう司馬しばまもる瓘の逮捕たいほめいじた。司馬しばあきらはじめ捕縛ほばくされて殺害さつがいされ、まもる瓘もまた司馬しば遐にらえられて誅殺ちゅうさつされた。よるけると、太子たいししょうでんちょうはなは賈南ふうしたおもむき、独断どくだん司馬しばあきらまもる瓘を殺害さつがいしたつみ司馬しば瑋を誅殺ちゅうさつするよう進言しんげんした。賈南ふう司馬しば瑋が権勢けんせいにぎこと危険きけんしていたのでこれに同意どういし、今回こんかい政変せいへんつみすべ司馬しば瑋になすけた。これにより、司馬しば瑋は謀反むほんつみらえられて処刑しょけいされた。

賈氏の時代じだい

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こうして、賈南ふうはその一族いちぞくとも天下てんかをほしいままにするようになり、近臣きんしん重職じゅうしょくくようになった。とくおい賈謐大伯父おおおじかくあきら権勢けんせい皇帝こうていしのほどであり、当時とうじひとは賈謐とかくあきらあわせて『賈郭』としたがい、群臣ぐんしんたびえた追従ついしょう様子ようすから『後塵こうじんはいす』という故事こじまれたという。賈謐とかくあきら屋敷やしき臣下しんか身分みぶんえた豪華ごうかさであり、自宅じたく宴会えんかいもよおすとくにちゅうからひとせるほどであった。また、賈南ふういんしいたげひどく、そとわかおとこつけると宮中きゅうちゅうまねれて行為こういおよび、ことむとくちふうじのためころされたという。ただ、賈南ふう政事せいじについては介入かいにゅうせず、ちょうはな裴頠賈模といった人物じんぶつすべゆだねており、かれらはけんしんであったのでちからわせて国政こくせいおおいに安定あんていさせること成功せいこうした。

3.299ねん12月 - 300ねん3がつ皇太子こうたいし暗殺あんさつ

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皇太子こうたいし司馬しばははよし側室そくしつ)のしゃであり、賈南ふう実子じっしではかった。そのため、賈南ふうはかねてよりかれ存在そんざいこころよおもっていなかったが、賈南ふうには男子だんしまれなかった。そこで彼女かのじょひそかにいもうと賈午おっとであるかん寿ひさし赤子あかご宮中きゅうちゅうれると、これをみずからのとして司馬しば遹にわって皇太子こうたいしてようと目論もくろんだ。当時とうじ、賈南ふう司馬しば遹をはいそうとしているのは朝廷ちょうていではだれもがところであり、重臣じゅうしんたちのあいだではひそかに賈南ふう廃位はいい幾度いくど議論ぎろんされたが、結局けっきょく実行じっこうにはうつされなかった。

元康もとやす9ねん299ねん)12月、賈南ふう司馬しば遹にさけませて酩酊めいてい状態じょうたいおちいらせ、めぐみみかどと賈皇后こうごうはいするという内容ないよう文章ぶんしょうかせた。そして黄門こうもんれいただしたけしかいしてこの文章ぶんしょうめぐみみかどせると、めぐみみかど司馬しば遹へ下賜かしすると宣言せんげんした。だが、重臣じゅうしんちょうはなと裴頠は文章ぶんしょう偽作ぎさくうたがってかたくなに反対はんたいし、賈南ふうちょうはならへは一目いちもくいていたので、ひとまず処刑しょけいあきらめて庶人にとすことめた。えいやすし元年がんねん300ねん)1がつ、賈南ふう宦官かんがん一人ひとりに、司馬しば遹と謀反むほんはかったとうそ発言はつげんをさせて自首じしゅさせ、司馬しば遹をもとあきらみや幽閉ゆうへいした。3月、かつて東宮とうぐう皇太子こうたいし宮殿きゅうでん)につかえていたみぎまもるとく司馬しばみやびつねしたがえとくもとちょう司馬しば遹復目論もくろみ、強大きょうだい兵権へいけんにぎちょうおう司馬しばりんに賈南ふう廃立はいりつ協力きょうりょく要請ようせいした。司馬しばりんいちはこれを快諾かいだくしたが、腹心ふくしんまごしゅうはあえてこの謀略ぼうりゃくを賈南ふうらすこと司馬しば遹を殺害さつがいするよう仕向しむけ、これを大義名分たいぎめいぶんとして賈南ふうはいして政権せいけん掌握しょうあくするようすすめると、司馬しばりん同意どういしてこれを実行じっこうした。かくして賈南ふうはこの賈南ふう廃立はいりつ司馬しば遹復計画けいかくつたえられると驚愕きょうがくし、黄門こうもんまごおもんばかめいじて司馬しば遹を殺害さつがいさせた。

4.300ねん4がつ:賈南ふう殺害さつがい

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4がつ司馬しばりんまごしげるみぎまもる佽飛とく閭和はりおう司馬しばひとしおう司馬しばとも司馬しば遹のかたきこと大義名分たいぎめいぶんとして政変せいへん決行けっこうし、めぐみみかどみことのりしょうして近衛このえぐん傘下さんかはいるようめいじ、さらに司馬しば冏にめいじてひゃくにんひきいて宮中きゅうちゅうはいらせた。賈謐は異変いへん気付きづいてげようとしたが、兵士へいしかこまれてそのころされた。賈南ふうらえられ、庶人にとされてきむ墉城に監禁かんきんされ、賈氏一族いちぞくことごとらえられ処刑しょけいされた。数日すうじつ司馬しばりんにせみことのりはっし、尚書しょうしょりゅうひろし金屑かなくずしゅ金粉きんぷんりのどくしゅ)をきむ墉城にとどけさせて賈南ふう自害じがいさせ司馬しばりんうらまれていた重臣じゅうしんちょうはなと裴頠も殺害さつがいされた。こうして賈氏一族いちぞく時代じだいわりをげた。

5.300ねん8がつ司馬しばまこと殺害さつがい

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賈氏一族いちぞく粛清しゅくせいした司馬しばりん相国しょうこく地位ちいのぼり、権力けんりょく手中しゅちゅうおさめた。かれはひとまずは人心じんしん掌握しょうあくめぐみみかど補佐ほさつとめていたが、次第しだい権力けんりょく独占どくせん志向しこうし、帝位ていい簒奪さんだつ野心やしんいだくようになった。しかし、かれ才能さいのうとぼしく知略ちりゃくかったので、実際じっさいには側近そっきんまごしゅう百官ひゃっかんうごかした。そのため衆望しゅうぼう次第しだい司馬しばりんではなくまごしゅうしたあつまるようになり、司馬しばりん自身じしん求心力きゅうしんりょくまったくとっていいほどかった。淮南ワイナンおう司馬しばまことめぐみみかどおとうと)は司馬しばりんめぐみみかどないがしろにするいに不平ふへいいだき、排斥はいせき目論もくろんでひそかに決起けっきへいやしなったが、司馬しばりんはこれを事前じぜん察知さっちし、その動向どうこうおおいに警戒けいかいしていた。

8がつまごしゅうにせみことのり司馬しばまこと謀反ぼうほんじんとして弾劾だんがいしたが、司馬しばまこと先手せんてって淮南ワイナンへいなかまもるぐんへいひきいて司馬しばりん謀反むほん宣言せんげんすると、司馬しばりんのいるあい国府こくふ攻撃こうげきした。司馬しばりん迎撃げいげきたるも司馬しばまこと連敗れんぱいきっし、これに対処たいしょするじゅつかった。司馬しばまことあめのようにゆみいしゆみらせ、司馬しばりん部下ぶかげまどってしたかくれ、すべてのすうひゃくさるほどであった。宮中きゅうちゅうにいた中書ちゅうしょれいちんじゅん司馬しばまこと援護えんごしようとおもい、白虎びゃっこはたすすむだい皇帝こうてい督戦とくせんふし)を司馬しばただしまもるふくたねわたして司馬しばまことじん派遣はけんした。だが、ふくたねうらでは司馬しばりんつながっており、司馬しばまことじんおもむくと、むかれた司馬しばまこと殺害さつがいした。これにより司馬しばまことぐん瓦解がかいし、あっけなくらん鎮圧ちんあつされた。このいちけんのち司馬しばりんめぐみみかどきゅうすず下賜かしさせ、帝位ていい簒奪さんだつ準備じゅんびすすめた。

司馬しばりん帝位ていい簒奪さんだつ

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えいやすし2ねん301ねん)1がつ司馬しばりん帝位ていい簒奪さんだつ実行じっこううつし、よしおう司馬しばたけし司馬しばまこと曾孫そうそん)を宮殿きゅうでん派遣はけんしてめぐみみかどぜんみことのり帝位ていいゆずみことのり)をかせた。さらにひだりまもる将軍しょうぐんおう輿こし司馬しばみやびらにへいあたえていれ殿どのさせ、百官ひゃっかんたいして禅譲ぜんじょう協力きょうりょくするようめいじた。こうして、司馬しばりん太極たいきょく殿どののぼり、帝位ていいそくいた。即位そくいした司馬しばりん群臣ぐんしん懐柔かいじゅうしようとして官爵かんしゃく濫発らんぱつし、司馬しばりん一派いっぱはみなれつきょうしょちゅうろうしょうにんじられ、即位そくい協力きょうりょくしたものすべ破格はかく抜擢ばってきけ、奴隷どれい士卒しそつであっても爵位しゃくいあたえられたという。だが、あまりにもそのかずおおかったので、下賜かしする賞賜しょうし巨額きょがくになって国庫こっこ不足ふそくしてしまい、ふうこうしゃわた印綬いんじゅりなくなってしまった。また、政事せいじについては側近そっきんまごしゅう専断せんだんするようになり、司馬しばりんしたみことのりれいまごしゅうによりしばしばえられた。あさされた勅命ちょくめいよるにはえられることもあり、百官ひゃっかん異動いどう頻繁ひんぱんおこなわれ、洛陽らくよう朝廷ちょうていおおいに混乱こんらんしたという。

6.301ねん3がつ - 4がつ司馬しばりん殺害さつがい

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当時とうじさんおうひとしおう司馬しば冏・成都せいとおう司馬しば河間こうまおう司馬しば)がそれぞれ強兵きょうへいようして地方ちほうおさめており、司馬しばりんはこれをふか憂慮ゆうりょしてかれらに官爵かんしゃくあたえること懐柔かいじゅうたばかるとともに、補佐ほさ名目めいもくとしてみずからの臣下しんかさんおうした派遣はけんして監視かんしたらせた。

3月、司馬しば冏は司馬しばりん臣下しんか殺害さつがいすると、しゅう刺史ししなにつとむりゅう驤将ぐんただしもぐさらととも挙兵きょへいし、さらに司馬しば穎・司馬しば顒・つね山王さんのう司馬しば新野しんのこう司馬しば使者ししゃおくって協力きょうりょくびかけ、各地かくち将軍しょうぐんしゅうぐんけんこくにも決起けっき檄文げきぶんおくった。司馬しば穎・司馬しば乂・司馬しば歆はこれに呼応こおうし、司馬しば顒だけはしたがわずに司馬しばりん援護えんごしたが、やがて司馬しば冏が優勢ゆうせいであることると寝返ねがえった。さんおう挙兵きょへいしたといて司馬しばりん驚愕きょうがくし、三軍さんぐん南下なんかさせて司馬しば冏らの北上ほくじょうふせいだ。司馬しば冏の討伐とうばつたったちょう泓・司馬しばみやびぐん翟・潁陰において連戦れんせん連勝れんしょうであったが、次第しだいかえされて潁水はさんで膠着こうちゃく状態じょうたいおちいった。司馬しばりん討伐とうばつたったまごかい猗・もとちょうきょう司馬しば穎軍に大勝たいしょうしたが、内輪揉うちわもめと油断ゆだんから司馬しば穎の急襲きゅうしゅうけて湨水で大敗たいはいきっした。これにより司馬しば穎は黄河こうがわたると、洛陽らくよう逼迫ひっぱくした。

4がつ司馬しば冏らの挙兵きょへい以後いご洛陽らくよう百官ひゃっかんしょしょう司馬しばりん敗亡はいぼう確信かくしんし、司馬しばりんまごしゅう殺害さつがいする機会きかいうかがうようになった。司馬しば穎が洛陽らくようせまっていることわたると、おう輿こし広陵こうりょうおおやけ司馬しばへいひきいて宮中きゅうちゅうかい、まずしょしょう宮門きゅうもんさえさせ、さらに中書ちゅうしょしょう攻撃こうげきして司馬しばりん側近そっきんであるまごしゅうらをらえて処刑しょけいした。こうして洛陽らくよう制圧せいあつすると、おう輿こし司馬しばりんめぐみみかど復位ふくいさせるみことのりくよう強要きょうようし、そのきん墉城に送還そうかんするとともぎゃくめぐみみかどまねれた。数日すうじつ司馬しばりん金屑かなくずしゅまされて自害じがいさせられた。司馬しばりんき、司馬しば冏と対峙たいじしていたちょう泓らはみな投降とうこうし、司馬しばりんによってもちいられた百官ひゃっかん罷免ひめんされた。司馬しば冏らが挙兵きょへいしてから司馬しばりん敗亡はいぼうまで60にちあまり、じつに10まんにん以上いじょう殺害さつがいされたという。

7.302ねん12月:司馬しば殺害さつがい

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司馬しば冏は司馬しばりん討伐とうばつ功績こうせきによりきゅうすず下賜かしされ、輔政のにんについたが、権力けんりょくにぎってからは奢侈しゃし生活せいかつおくるようになった。かれ皇宮こうぐう匹敵ひってきするほどの邸宅ていたくかんしゃおおいに建築けんちくし、酒食しゅしょくおぼれる日々ひびおくった。また、入朝にゅうちょうおこなわずにみずからの百官ひゃっかんまねいて政務せいむおこない、皇帝こうてい批准ひじゅんあおがずに事案じあん決済けっさいおこない、官員かんいん任用にんよう免官めんかんみずからの判断はんだんおこなった。これにより、民衆みんしゅうおおいに失望しつぼうしたという。群臣ぐんしんがこのこと度々たびたび諫めると、司馬しば冏はその意見いけん一定いってい理解りかいしめしたものの、結局けっきょく行動こうどうあらためることはなかった。司馬しば冏のあにであるひがし萊王司馬しばはかねてより司馬しば冏にうらみをいていたので、おう輿こしとも司馬しば冏をたお計画けいかくったが、計画けいかく事前じぜん露見ろけんして司馬しば蕤は庶人にとされ、おう輿こしさんぞくとも誅殺ちゅうさつされた。司馬しば蕤はうえいさおうつされたが、司馬しば冏はうえいさおないちんめいじて司馬しば蕤を暗殺あんさつした。

えいやすし2ねん302ねん)12月、長安ながやすまも司馬しば顒は司馬しば冏の専制せんせい批判ひはんし、その罪状ざいじょう上書うわがきしてへいげると、洛陽らくようにいる司馬しば乂に司馬しば冏の討伐とうばつめいじ、自身じしん司馬しば穎・新野あらたのおう司馬しば・范陽おう司馬しばとの合流ごうりゅう名目めいもくに、司馬しば乂と司馬しば冏の緒戦しょせん静観せいかんした。司馬しば乂は司馬しば討伐とうばつへいげると、まず宮中きゅうちゅうはいってめぐみみかど身柄みがら確保かくほし、いで司馬しば冏のいるだい司馬しば攻撃こうげきした。司馬しば冏はただしもぐさ司馬しば乂を攻撃こうげきさせたが、司馬しば乂は諸々もろもろかんかく千秋せんしゅうもん神武じんむもんちさせた。夕方ゆうがたになると、城内きうちではあめのようにい、ほのおいきおいはてんまでとどかんほどとなった。百官ひゃっかん消火しょうかはげんだが、その過程かてい次々つぎつぎいのちとした。たたかいはさん日間にちかんつづいたが、最終さいしゅうてきだい司馬しばちょうちょうふかし寝返ねがえって司馬しば冏をとらえ、司馬しば乂に投降とうこうした。司馬しば冏は閶闔門外もんがい処刑しょけいされ、司馬しば冏に協力きょうりょくしたものたちさんぞく誅滅ちゅうめつされ、死者ししゃせんにんえた。

8.303ねん8がつ - 304ねん1がつ司馬しば乂・りゅう殺害さつがい

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司馬しば乂はこののち朝廷ちょうていとどまったが、朝政ちょうせい専断せんだんせずに政務せいむ事案じあんについてはすべて鄴にいる司馬しば穎に報告ほうこくして裁決さいけつまかせた。また、けっしてめぐみみかどないがしろにすることかったので、部下ぶか民衆みんしゅうからもおおいにしたわれ、名望めいぼう声誉せいよ大変たいへんたかかった。だが、司馬しば穎は驕奢きょうしゃふけったので、司馬しば冏の時代じだい以上いじょう政治せいじ混乱こんらんするようになった。司馬しば顒は元々もともと司馬しば乂が司馬しば冏にやぶれてころされたのを口実こうじつ司馬しば冏をち、その司馬しば穎を擁立ようりつしてみずからは宰相さいしょうとなるのを計画けいかくしていたので、現状げんじょう不満ふまんいていた。そのため含らを洛陽らくよう派遣はけんして司馬しば乂を襲撃しゅうげきさせたが、事前じぜん警戒けいかいしていた司馬しば乂はかれらをらえて処刑しょけいした。司馬しば穎もまた権力けんりょく独占どくせん画策かくさくしていたので、朝廷ちょうていまる司馬しば乂を邪魔じゃまおもい、ひそかに刺客しかく派遣はけんして司馬しば乂の暗殺あんさつ目論もくろんだが、失敗しっぱいわった。

ふとしやす2ねん303ねん)8がつ司馬しば顒・司馬しば穎は含らを殺害さつがいしたこと口実こうじつ司馬しば討伐とうばつへいげ、これにたいしてめぐみみかどみことのりはっし、司馬しば顒らを弾劾だんがいして司馬しば乂に討伐とうばつめいじた。司馬しば穎配りくぐん20まん洛陽らくようせまると、司馬しば乂はめぐみみかどほうじてりく迎撃げいげきしてこれに大勝たいしょうした。司馬しば乂はさらに司馬しば顒配ちょうかたぐん7まん攻撃こうげきすると、ちょうかたへい皇帝こうてい輿こしおそれをして逃走とうそうした。11月、ちょうかた正攻法せいこうほうでは洛陽らくようとせないとかんがえ、洛陽らくよう包囲ほういして兵糧ひょうろうめをおこない、さらに千金せんきん堨(洛陽らくようひがしせき)を破壊はかいして洛陽らくよう水不足みずぶそくおとしいれた。これにより洛陽らくよう城内きうち混乱こんらんし、べい1せきが1まんぜにまで高騰こうとうするようになった。永安えいあん元年がんねん304ねん)1がつ司馬しば乂は司馬しば穎軍に連戦れんせん連勝れんしょうであったものの、合戦かっせん長期ちょうきわたったので城内じょうない食糧しょくりょう欠乏けつぼうしてしまい、洛陽らくよう城内じょうのうちにいる東海とうかいおう司馬しばえつ司馬しば乂にはがないと判断はんだんし、夜中よなかひだりまもる将軍しょうぐんしゅだまはじめとした殿中でんちゅうしょしょうとも司馬しば乂をらえてきむ墉城に幽閉ゆうへいしてしまった。これにより洛陽らくよう城門じょうもんひらかれ、ちょうかた城内じょうないはいるときむ墉城から司馬しば乂をし、自分じぶん陣営じんえいころした。なお、司馬しば乂の処刑しょけいいそいだ背景はいけいには、司馬しば乂をした洛陽らくよう兵士へいしたち幽閉ゆうへいされたかれかえして司馬しばえつちょうかたとうとしているとった司馬しばえつちょうかたにそのことをらせたからだとされている。

これより以前いぜんの11月、司馬しば乂は洛陽らくよう包囲ほういため雍州刺史ししりゅう沈を長安ながやす進軍しんぐんさせた。このとき司馬しば顒は高平たかひらてい駐屯ちゅうとんしてちょうかたぐん後援こうえんとなっていたが、りゅう沈挙へいほうくと渭城に帰還きかんして守備しゅびかため、とくまもるおそれむかたせた。だが、おそれ夔はこうりゅう沈に敗北はいぼくしたので、司馬しば顒はおおいにおそれて長安ながやす退却たいきゃくし、ちょうかたいそいで洛陽らくようからもどした。りゅう沈は司馬しば顒が派遣はけんしてきたぐん幾度いくどやぶると、ついすめらぎはじめまもるはく長安ながやすもんから城内きうち侵入しんにゅうさせた。かれらは奮戦ふんせんして司馬しば顒の本陣ほんじんまでせまったが、りゅう沈本たい到着とうちゃくおくれたので、救援きゅうえん馮翊太守たいしゅちょうから挟撃きょうげきけてしまい、ぐん壊滅かいめつした。りゅう沈は敗残はいざんへいひきいて軍営ぐんえい撤退てったいしたが、洛陽らくようから帰還きかんしてちょうかた軍営ぐんえい夜襲やしゅうし、軍勢ぐんぜい壊滅かいめつさせた。りゅう沈は逃亡とうぼうするもらえられ、やがて処断しょだんされた。

9.304ねん7がつ司馬しばえつ敗北はいぼく

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らんしずまると司馬しば穎は丞相じょうしょうにんじられ、やがてすめらぎふとしおとうととなった。司馬しば穎はいち洛陽らくよういたものの、すぐにふたたび鄴にもどって間接かんせつ統治とうち形式けいしきった。司馬しば穎の奢侈しゃし悪化あっかし、みずからが君主くんしゅであるかのようにい、殿中でんちゅうでは司馬しば穎にきらわれていたもの処刑しょけいされるか異動いどうめいじられ、宿衛しゅくえいへい司馬しば穎の沿ものえられた。これにより、みんおおいに失望しつぼうさせた。

7がつ司馬しばえつ司馬しば穎のいにいきどおり、みぎまもる将軍しょうぐんちん殿中でんちゅうちゅうろう逯苞なり司馬しば乂のきゅうしょう上官じょうかんらととも司馬しば討伐とうばつかかげて決起けっきすると、めぐみみかどほうじてともに鄴へけてぐんはっした。司馬しば穎は配下はいかいしちょう防戦ぼうせんめいじ、いしちょうとろけかげ皇帝こうていぐん奇襲きしゅうし、大勝たいしょうおさめた。百官ひゃっかんさむらいあわてて四散しさんしてしまい、司馬しば穎はめぐみみかど身柄みがら確保かくほして鄴にむかれた。司馬しばえつふうこく東海とうかい帰還きかんした。司馬しば穎はめぐみみかどようするようになると、百官ひゃっかん役所やくしょ設置せっちしてみずからの独断どくだん任官にんかん処罰しょばつおこなった。

10.304ねん8がつ司馬しば敗北はいぼく

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とくかそけしゅうしょ軍事ぐんじおうかそけしゅう強大きょうだい兵権へいけんっていたが、かつて司馬しば穎らがちょうおう司馬しばりん討伐とうばつしたとき協力きょうりょくしなかったので、司馬しば穎はこれをうらみ、機会きかいがあれば誅殺ちゅうさつしようとかんがえていた。司馬しば穎はかそけしゅう刺史ししえんじひそかにいのちくだし、がらすたんしんとう協力きょうりょくしておう浚を暗殺あんさつさせようとした。だが、しんとう寝返ねがえっておう浚に計画けいかくすべてをはなしたので、おう浚はひがし嬴公司馬しばあが結託けったくしてやわえんじ殺害さつがいした。

8がつおう浚は司馬しばあが連携れんけいい、司馬しば討伐とうばつかかげて決起けっきすると、だんがらす桓をふくめたへい2まんひきいて進軍しんぐん開始かいしした。司馬しば穎は北中きたじゅうろうしょうおうあきらいしちょうあつしらを派遣はけんしておう浚らを迎撃げいげきさせたが、連敗れんぱいきっしてしまい、おう浚はちにじょうじて進軍しんぐんして鄴にせまった。このとき司馬しば穎は匈奴きょうどりゅうふかしへ、匈奴きょうど救援きゅうえんとしてれてくるようめいじたが、りゅうふかし出征しゅっせいするとだいたん于を自称じしょうしてすすむちょうから自立じりつし、もなくかんぜんちょう)の樹立じゅりつ宣言せんげんしている。鄴城ない戦々恐々せんせんきょうきょうとし、百官ひゃっかん士卒しそつ逃走とうそうはじめてしまったので、司馬しば穎はこころざし進言しんげんによりめぐみみかどれて洛陽らくよう逃走とうそうした。洛陽らくようかえって以降いこう司馬しば穎は失脚しっきゃくし、司馬しば顒配ちょうかた兵権へいけんにぎってせんせいしたので政治せいじ関与かんよすること出来できなくなってしまった。

11.305ねん7がつ - 306ねん12月:司馬しば穎・司馬しば殺害さつがい

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ちょうかためぐみみかど無理矢理むりやりれて長安ながやすへの遷都せんと強行きょうこうした。司馬しば穎はすめらぎふとしおとうとからはいされて謹慎きんしんめいじられ、わって司馬しばおきふところみかど)がすめらぎふとしおとうとてられた。

永興りょうご2ねん305ねん)7がつ司馬しばえつめぐみみかど奪還だっかんかかげてじょしゅう決起けっきし、東平とうへいおう司馬しばおう浚・范陽おう司馬しばたいらあきらおおやけ司馬しばらもまたこれに呼応こおうした。司馬しばえつ刺史しし以下いか官員かんいん皇帝こうてい代行だいこうとして任命にんめいするようになり、朝臣あそん長安ながやすからはなれて司馬しばえつしたつどうようになった。だが、しゅう刺史ししりゅうたかしめぐみみかどいのちではないとして司馬しばえつからの任官にんかん拒絶きょぜつし、ぎゃくへいはっして司馬しば虓のまももとあきら攻撃こうげきし、さらにりゅうたかし長男ちょうなんりゅうゆうにはしょうけんれい璧で司馬しばえつぐんふせがせた。司馬しばえつはこれにやぶれ、しょうけんからすすめなくなった。東平とうへいおう司馬しば楙もまた寝返ねがえってりゅうたかし呼応こおうした。司馬しば顒は司馬しばえつ決起けっきると、めぐみみかどみことのりほうじて司馬しばえつらにふうじこくかえるようめいじたが、司馬しばえつらはみことのり無視むしした。10月、司馬しば顒はりゅうたかしを鎮東大将軍だいしょうぐんにんじてかりふしあたえ、ろう褒・いしちょうおう闡らをその後援こうえんとした。りゅうたかしもとあきら攻略こうりゃくして司馬しば虓らを河北かほく敗走はいそうさせたが、12月に司馬しば虓はおう浚の援護えんごけて反攻はんこうてんじ、かわきょうおう闡を・滎陽でいしちょうってりゅうたかし拠点きょてんこうじょうから撤退てったいさせた。さらに司馬しば楙を廩丘で撃破げきはすると、司馬しばえつ合流ごうりゅうして譙県でりゅうゆうやぶってころした。これによりりゅうたかしぐん壊滅かいめつし、たいら逃走とうそうした。いで、司馬しばえつらはぐんあわせて洛陽らくようけて進撃しんげきすると、洛陽らくよう守将しゅしょうりょろうらは戦意せんい喪失そうしつして投降とうこうした。こうして司馬しばえつぐん洛陽らくようはいった。

永興りょうご3ねん306ねん)1がつりゅうたかし敗戦はいせんくと司馬しば顒はおそれ、司馬しばえつとの和平わへいのぞむようになり、ちょうかた殺害さつがいしてそのくび司馬しばえつおくってうた。だが、司馬しばえつはこれにおうじずに祁弘・そうかぶと司馬しば纂に鮮卑へいあたえて長安ながやす攻略こうりゃくかわせた。4月、司馬しばえつぐんはこたにせきはいると、司馬しば顒はひろのうぐん太守たいしゅ彭随と北地きたじぐん太守たいしゅ刁黙に祁弘らの進軍しんぐんはばませたが、5月に祁弘は彭随と刁黙に大勝たいしょうし、はこたにせき突破とっぱした。司馬しば顒はさらにうま瞻とかくつたえを灞水に派遣はけんして防戦ぼうせんさせたが、うま瞻らは敗戦はいせんしてへいほろぼした。司馬しば顒はこれをくと、つい単身たんしん太白山たいはくさん逃走とうそうしてしまった。祁弘らが長安ながやす入城にゅうじょうすると、司馬しば顒の百官ひゃっかんもまた山中さんちゅう逃走とうそうした。祁弘らはめぐみみかどともなってひがし帰還きかんし、鎮西ちんぜい将軍しょうぐんはりやなぎせきちゅうまもらせた。

同年どうねんひかり元年がんねん)6がつ司馬しば顒配うま瞻らは長安ながやすはいってはりやなぎ殺害さつがいし、太白山たいはくさんから司馬しば顒をむかれた。だが、ひろのうぐん太守たいしゅ裴廙・はた国内こくない賈龕・安定あんていぐん太守たいしゅ賈疋らはこれに反発はんぱつして挙兵きょへいし、うま瞻らを討伐とうばつした。司馬しばえつもまたとくまもる糜晃を派遣はけんして司馬しば顒を攻撃こうげきさせると、司馬しば顒はひらきた将軍しょうぐん牽秀を馮翊にちゅうぐんさせて糜晃をふせがせたが、司馬しば顒のちょう楊騰はすきて牽秀をころし、投降とうこうしてしまった。これにより、せきちゅう勢力せいりょくすべ司馬しばえつ帰順きじゅんしてしまい、司馬しば顒はただ長安ながやすだけをたもつのみとなった。

9月、司馬しば穎は司馬しば顒の敗北はいぼく逃亡とうぼう生活せいかつつづけていたが、ひたすらおかぐん太守たいしゅ馮嵩によりらえられて鄴城におくられ、翌月よくげつちょうふみりゅう輿こしにより殺害さつがいされた。11月、めぐみみかどもちべて中毒ちゅうどくになり、あらわ殿どの崩御ほうぎょした(司馬しばえつによる毒殺どくさつせつもある)。12月、司馬しばえつ朝廷ちょうてい混乱こんらんしずめるため詔書しょうしょもちいて司馬しば顒のつみゆるしてつかさにんじ、洛陽らくよう招聘しょうへいした。司馬しば顒はこれをけて洛陽らくようかったが、司馬しばえつおとうとである南陽なんようおう司馬しばはこれをみとめず、ひそかに配下はいかはりしん派遣はけんして司馬しば顒を絞殺しめころした。

12.311ねん1がつ - 3月:司馬しばえつ憤死ふんし

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めぐみみかど崩御ほうぎょともなふところみかど即位そくいしたが、実際じっさいには司馬しばえつ権力けんりょく掌握しょうあくしていた。だが、ふところみかど次第しだいみずか政治せいじおこなことのぞみ、あらゆる事務じむくばったので、司馬しばえつおおいに不満ふまんいた。ふところみかどみずからの側近そっきんである中書ちゅうしょかん繆播ふとしぼく繆胤つねさむらいおうのべ尚書しょうしょなにたいれい高堂こうどうおきらを政治せいじ中枢ちゅうすうかかわらせるようになると、司馬しばえつはこれを不安ふあんし、りゅう輿こしはん滔と結託けったくして繆播らに謀反むほんつみをでっちげ、らえて処刑しょけいした。このいちけんにより、司馬しばえつおおいに衆望しゅうぼううしない、おおいに猜疑さいぎ感情かんじょういだかれることとなった。当時とうじ連年れんねんわたつづいた内乱ないらんおおくが宮中きゅうちゅうきていたことから、司馬しばえつ保身ほしんため宿衛しゅくえいへいすべ罷免ひめんし、まわりをみずからの近臣きんしんのみでかためた。

司馬しばえつふところみかどは、権力けんりょく闘争とうそう合間あいまかんたたか状況じょうきょうで、急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいするかんまえ対策たいさく後手ごてまわった。えいよしみ3ねん309ねん)、洛陽らくようせまったかんぐん撃退げきたいしたが、華北かほくでは敗退はいたいつづいた。他方たほうともえしょくではなりかん勢力せいりょく拡大かくだいし、西にしすすむ統一とういつ政権せいけん実態じったいうしないつつあった。

えいよしみ4ねん310ねん)6がつかんりゅうふかし死去しきょし、内紛ないふんきたが、西にしすすむはこの好機こうきかすことはできなかった。司馬しばえつ事態じたい打開だかいしようと、洛陽らくようへいもちいて兗州・しゅうらんしているいし勒をとうとかんがえた。ふところみかど洛陽らくようまもりをうすくすること猛然もうぜん反対はんたいしたが、司馬しばえつはききいれずに出発しゅっぱつした。司馬しばえつ人望じんぼう名声めいせいのあるものすべ従軍じゅうぐんさせたので、洛陽らくよう官員かんいんがいなくなって警護けいご不足ふそくし、宮中きゅうちゅうでも盗賊とうぞく人殺ひとごろしが横行おうこうするようになった。司馬しばえつひがしぐんはっするとこうけんちゅうぐんし、司馬しばえつ四方しほうはねげきはなってともいし勒をつようびかけたが、これにおうじるものはいなかった。司馬しばえつかん攻撃こうげきしたものの、たなかった。鎮東将軍しょうぐんしゅうは、ふところみかど寿ことぶきはるへの遷都せんとし、避難ひなんするよう上奏じょうそうしたが、司馬しばえつ越権えっけん行為こうい判断はんだんしてしゅう馥を攻撃こうげきし、けんぎょう駐屯ちゅうとんする司馬しば司馬しばえつ同調どうちょうした。

えいよしみ5ねん311ねん)1がつ司馬しばえつ側近そっきんである司馬しばはん尚書しょうしょりゅうのぞむらは共謀きょうぼうし、司馬しばえつ対立たいりつしていたあおしゅう刺史しし苟晞誣告ぶこくしておとしいれようとした。苟晞はこれに激怒げきどし、しょしゅうげきばして司馬しばえつつみならてた。ふところみかどもまた司馬しばえつ専横せんおう不満ふまんいていたので、苟晞にみつみことのりあたえて司馬しばえつ討伐とうばつめいじた。司馬しばえつはこのことると、げきばして苟晞の罪状ざいじょうべ、従事じゅうじちゅうろう楊瑁じょしゅう刺史しし裴盾に苟晞を攻撃こうげきさせた。3月、ふところみかど公然こうぜん司馬しばえつ討伐とうばつみことのりかた鎮(地方ちほうぐん長官ちょうかん)にくだした。司馬しばえついきどおためやまいかかり、もなくこうじょうにおいて急死きゅうしした。

はちおうらん

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はちおうらんさい諸王しょおう民族みんぞく傭兵ようへい戦場せんじょう投入とうにゅうした。一見いっけん磐石ばんじゃくおもえたすすむ急速きゅうそく弱体じゃくたいは、内乱ないらん参加さんかした民族みんぞく独立どくりつへの野心やしんあたえることとなる。やがて、それははちおうらんちゅうの304ねんにおける匈奴きょうどりゅうふかしかんぜんちょう)の建国けんこくへとつながり、中国ちゅうごく全土ぜんど内乱ないらんえいよしみらん)へと発展はってんしていった(はちおうらん終盤しゅうばんえいよしみらん同時どうじ進行しんこうしているが、はちおうらんれる西にしすすむはこれに対処たいしょするじゅつをもたなかった)。

そんなおりえいよしみ5ねん(311ねん)3がつ前述ぜんじゅつのようにふところみかど司馬しばえつ対立たいりつし、ふところみかどはもっぱら司馬しばえつとうとしていた。そして司馬しばえつ討伐とうばつ命令めいれいされ、逃亡とうぼうさき司馬しばえつ病死びょうししたことはかんぐんいきおいづかせ、いし勒は司馬しばえつあと西にしすすむぐんめて大勝たいしょうし、その将士しょうし10あまりまんころせするというだい戦果せんかげた。これにより西にしすすむ抵抗ていこうりょく統治とうちりょく完全かんぜんうしない、司馬しばえつからわずか3カ月かげつの6がつ洛陽らくよう陥落かんらくした[1]ふところみかどかんひら現在げんざい山西さんせいしょう臨汾堯都)に連行れんこうされたのちえいよしみ7ねん313ねん)1がつ処刑しょけいされ、ふところみかどおい愍帝長安ながやす残党ざんとうにより同年どうねん4がつ擁立ようりつされるも、この政権せいけん長安ながやす周辺しゅうへんだけを支配しはいするだけの地方ちほう政権せいけんでしかなく、全国ぜんこく政権せいけんだった西にしすすむ洛陽らくよう陥落かんらくにより事実じじつじょうたいとなった[2]

愍帝もけんきょう4ねん316ねん)11月にかんりゅう攻撃こうげきされて投降とうこうし、ひら拉致らちされてけんきょう5ねん317ねん)12月にころされて完全かんぜん西にしすすむ滅亡めつぼうした。こうして時代じだいえびすじゅうろくこく時代じだいへと突入とつにゅうしていく[2]

司馬しば懿のよんなんである司馬しばまごにあたる琅邪おう司馬しば睿は、めぐみみかど即位そくいしたふとし熙元ねん(290ねん)に15さいわかさで王位おういいだばかりではちおうらんふかかかわることなく、司馬しばえつ司馬しば穎のあらそいの混乱こんらんじょうじてふうこくの琅邪に帰還きかんすると、司馬しばえつから安東あんどう将軍しょうぐんみやこただしあげしゅうしょ軍事ぐんじにんぜられたのを口実こうじつ江南こうなんけんぎょう駐屯ちゅうとんしていた。西にしすすむ滅亡めつぼうした時点じてん江南こうなんにはおう滞在たいざいしていた(うま渡江とのえ)が、丞相じょうしょうだいとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじにんじられて江南こうなん平定へいていにあたっていた司馬しば睿があたらしい皇帝こうてい擁立ようりつされた(あずますすむ)。

一方いっぽう丞相じょうしょうだいとく陝西せんせいしょ軍事ぐんじにんじられて西方せいほう平定へいていにあたっていた南陽なんようおう司馬しばたもつちちである司馬しば洛陽らくよう陥落かんらく直後ちょくごりゅう曜が一時いちじ長安ながやす占領せんりょうしたさい殺害さつがいされていた)は長安ながやす西にしにあるうえ駐屯ちゅうとんしていた。西にしすすむ滅亡めつぼう司馬しば睿の即位そくいみとめずにみずかすすむおうしょうして皇帝こうてい即位そくいするうごきをせたが、だいきょう3ねん320ねん)には配下はいか裏切うらぎりによって殺害さつがいされてその勢力せいりょく崩壊ほうかい華北かほくにおけるすすむ皇族こうぞく事実じじつじょう消滅しょうめつした。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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