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前漢ぜんかん

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かん > 前漢ぜんかん
前漢ぜんかん
かん
秦 ぜん206ねん - 8ねん 新
前漢の位置
前漢ぜんかん領域りょういき
公用こうよう 漢語かんご上古じょうこ漢語かんご
首都しゅと 長安ながやす
皇帝こうてい
ぜん202ねん - ぜん195ねん 劉邦りゅうほう
ぜん11ねん - 5ねんひらみかど最後さいご
面積めんせき
50 BCE6,800,000km²
人口じんこう
2ねん57,671,400にん
変遷へんせん
建国けんこくすわえかん戦争せんそう ぜん206ねん
垓下のたたかぜん202ねん
おう簒奪さんだつ滅亡めつぼう8ねん
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅう
 
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だいきたぞく
こうかん六朝りくちょう統治とうち
ぜんちょう
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ずいとうみなみかん統治とうち
ちょう
ひのとあさ
ぜんはじむあさ
ちょう みなみ
すすむ

ひねあさ
えびすあさ
だいよんきたぞく
あきら統治とうち
こうひねあさ
こうはじむあさ前期ぜんき
莫朝
こうはじむあさ
後期こうき
南北なんぼくあさ
莫朝
南北なんぼくあさ
こうはじむあさ後期こうき
阮氏政権せいけん てい政権せいけん
西山にしやまちょう
阮朝
フランスりょう
インドシナ
ベトナム帝国ていこく
コーチシナ共和きょうわこく ベトナム
民主みんしゅ共和きょうわこく
ベトナムこく
ベトナム
共和きょうわこく
みなみベトナム
共和きょうわこく
ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

前漢ぜんかん(ぜんかん、紀元前きげんぜん206ねん - 8ねん)は、中国ちゅうごく王朝おうちょうである。西にしかん(せいかん)ともばれる。はた滅亡めつぼうすわえかん戦争せんそう項羽こううとのあらそい)に勝利しょうりした劉邦りゅうほうによっててられ、長安ながやすとした。

たけみかどとき全盛ぜんせいむかえ、その勢力せいりょくきたそとこうむふるみなみベトナムひがし朝鮮ちょうせん西にし敦煌とんこうまでおよんだが、孺子じゅしとき重臣じゅうしんおうにより簒奪さんだつされ一旦いったん滅亡めつぼうした。そのかんちょう傍系ぼうけい皇族こうぞくであったりゅうしげる光武みつたけみかど)により再興さいこうされる。前漢ぜんかんたいしこちらをこうかんぶ。

中国ちゅうごくにおいてはひがし洛陽らくようしたのちかんたいして西にし長安ながやすしたことから西にしかんと、こうかんひがしかんしょうされる[1]前漢ぜんかんこうかんとの社会しゃかい文化ぶんかなどにはつよ連続れんぞくせいがあり、そのあいだ明確めいかく区分くぶんむずかしく、前漢ぜんかんこうかんあわせてりょうかん総称そうしょうされることもある。この項目こうもく社会しゃかい文化ぶんかふしでは前漢ぜんかんこうかん全体ぜんたいてきながれを記述きじゅつし、こうかん項目こうもくでは明確めいかくこうかんはいってながれが変化へんかした事柄ことがら記述きじゅつする。

かんという固有名詞こゆうめいし元々もともと長江ながえ支流しりゅうであるかんすい由来ゆらいする名称めいしょうであり、本来ほんらい劉邦りゅうほうがその根拠地こんきょちとしたかんちゅうといういち地方ちほうをさす言葉ことばぎなかったが、劉邦りゅうほう天下てんか統一とういつ支配しはいやく400ねんおよんだことから、中国ちゅうごく全土ぜんど中国人ちゅうごくじん中国ちゅうごく文化ぶんかそのものを言葉ことばになった(れい:「漢字かんじ」)。

文中ぶんちゅう単位たんいについては以下いかとおり。距離きょり・1=30=1800しゃく=415m 面積めんせき・1うね=1/100ごろ=4.65a おもさ・1/120せき=1きん=16りょう=384銖=258.24g 容積ようせき・1斛=34.3l。

歴史れきし[編集へんしゅう]

建国けんこく[編集へんしゅう]

高祖こうそ劉邦りゅうほう

戦国せんごく時代じだいわらせて、史上しじょうはじめて中国ちゅうごく統一とういつしたはた始皇帝しこうてい皇帝こうていごう創出そうしゅつぐんけんせい施行しこうなど、そのかん帝国ていこくおよ中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょう基礎きそとなる様々さまざま政策せいさくした[2]。しかしその死後しごせい皇帝こうてい即位そくいするとちょうだかせんよこゆるし、また阿房宮あぼうきゅうなどの造営ぞうえい費用ひよう労働ろうどうりょく民衆みんしゅうもとめたために民衆みんしゅう負担ふたん増大ぞうだい、その不満ふまん全国ぜんこく蔓延まんえんしていった[3]

ぜん209ねん河南かなんちんまさるによる反乱はんらん発生はっせいしたことが契機けいきとなり、ちんまさるひろらんしょうされる全国ぜんこくてき騒乱そうらん状態じょうたい発生はっせいした。ちんまさる自身じしんはた討伐とうばつぐん敗北はいぼくし、敗走はいそうちゅう部下ぶか殺害さつがいされた[4]。しかし、はんしん勢力せいりょくきゅうすわえぞくであるこうはり継承けいしょうされ、すわえふくこくふところおう擁立ようりつこうはり死後しごはそのおい項羽こううはんしんぐんひきいてはんはた活動かつどうおこなった[5]劉邦りゅうほうふところおういのちけ、はたであった咸陽とし、ここにはた滅亡めつぼうした[6]。そのすわえ実権じっけん掌握しょうあく西にしすわえ覇王はおう名乗なのった項羽こううと、その項羽こううからせきなか封建ほうけんされてかんおうとなった劉邦りゅうほうとのあいだでの戦争せんそう発生はっせいした(すわえかん戦争せんそう[7]

当初とうしょ軍事ぐんじりょく優勢ゆうせいであった項羽こうう劉邦りゅうほうはたびたび敗北はいぼくした。しかし、投降とうこうした兵士へいし虐殺ぎゃくさつするなどの悪行あくぎょう目立めだった項羽こううたいし、劉邦りゅうほう陣中じんちゅうにおいてはちょうりょう意見いけん重視じゅうしし、みずからの根拠地こんきょちであるせきちゅうには旗揚はたあ当時とうじからの部下ぶかであるしょうなにいて民衆みんしゅう慰撫いぶつとめさせ、せきちゅうからの物資ぶっし兵力へいりょく補充ほじゅうにより敗北はいぼく勢力せいりょく回復かいふくおこなった。さら劉邦りゅうほう将軍しょうぐんかんしん派遣はけんし、華北かほくひろ地帯ちたい征服せいふくすることに成功せいこうする[8]。これらにより徐々じょじょ勢力せいりょくげていった劉邦りゅうほうぜん202ねん垓下のたたかにて項羽こううやぶり、中国ちゅうごく全土ぜんど統一とういつした[9]

劉邦りゅうほうしょしょう推戴すいたいされ皇帝こうてい即位そくいする(高祖こうそ[10]高祖こうそしょうなにかんしんらの功臣こうしんたちを諸侯しょこうおう列侯れっこうふうじ、あらたに長安ながやすじょう造営ぞうえいしんせいもとにした官制かんせい整備せいびなどをおこない、国家こっか支配しはいもときずいていった[11]。しかし高祖こうそみずからのきずいた王朝おうちょう無事ぶじ子孫しそん継承けいしょうされるかを憂慮ゆうりょし、反対はんたい勢力せいりょくとなり可能かのうせいのあるかんしん功臣こうしん諸侯しょこうおう粛清しゅくせい、それにわってみずからの親族しんぞく諸侯しょこうおうけることで「りゅうにあらざるものおうたるべからず」という体制たいせい構築こうちくした。はたぐんけんせいたいして、こおりけん諸侯しょこうこく並立へいりつするかん体制たいせいぐんこくせい[12]

りょ専横せんおう[編集へんしゅう]

ぜん195ねん高祖こうそ崩御ほうぎょし、りゅうみつるめぐみみかど)がこういだ。めぐみみかど自身じしん性格せいかく脆弱ぜいじゃくであったとつたわり、政治せいじ実権じっけんにぎったのは生母せいぼ高祖こうそ皇后こうごうであったりょきさきであった。りょきさき高祖こうそ生前せいぜんめぐみみかどわって太子たいしてようとしていたりゅう如意にょい毒殺どくさつ、さらにそのはは戚夫じん残忍ざんにん方法ほうほうころした。めぐみみかどはは残忍ざんにんさに衝撃しょうげきけ、失望しつぼうのあまり酒色しゅしょくおぼれ、わかくして崩御ほうぎょしてしまう[13]りょきさきぜんしょうみかどこうしょうみかどりゅうひろし相次あいついで帝位ていいけるが、りゅうひろし実際じっさいにはりゅうではなかったとされる[14][15]

りょきさき諸侯しょこうおうとなっていた高祖こうそたちを粛清しゅくせい、そしてみずからの親族しんぞくであるりょさんりょろくらを要職ようしょくけ、さらにこれらを王位おういのぼらせ外戚がいせき政治せいじおこな[15]。「りゅうにあらざるものは……」という高祖こうそ遺志いし無視むしされたのである。りょきさきりょ体制たいせい確立かくりつつとめたが、ぜん180ねん死去しきょした[15]りょきさき死去しきょするや、しゅきょこうりゅうあきら丞相じょうしょう陳平ちんぺいふとしじょうしゅうらが中心ちゅうしんとなりりょさんりょ一族いちぞく粛清しゅくせいし、りょ影響えいきょうりょく宮中きゅうちゅうから一掃いっそうされた[16]

ぶんけい[編集へんしゅう]

りょ粛清しゅくせいされたのち皇帝こうていとして即位そくいしたのがだいおうであったりゅうひさしぶんみかど)である[17]

はた滅亡めつぼうからかん建国けんこくまでの8ねんおよなが戦争せんそうにより、しょ王国おうこく国力こくりょくはげしく疲弊ひへいさせ、一般いっぱんみんおおくが生業せいぎょううしなっていた。これにたいしてぶんみかど民力みんりょく回復かいふくつとめ、農業のうぎょう奨励しょうれいし、田租でんそをそれまでの半分はんぶんの30ぶんの1ぜいあらため、貧窮ひんきゅうしたものには国庫こっこひらいて援助えんじょし、にくけいきんじ、そのわりに労働ろうどうけいした。またみずか倹約けんやくみ、みずからのまわりを質素しっそにし、官員かんいんかずらした[18]

ぜん157ねんぶんみかど崩御ほうぎょした。のこみことのりぶんみかどは、あたらしくりょうきずかず、金銀きんぎんを陪葬せず、そのも3にちけさせるように遺言ゆいごんした[19]いだりゅうあきらけいみかど)も、基本きほんてきぶんみかどおな政治せいじ姿勢しせいのぞみ、民力みんりょく回復かいふくつとめた。その結果けっか倉庫そうこべきれない食糧しょくりょうあふれ、銅銭どうせんとおしたひもくさってしまうほどに国庫こっこげられたという[# 1]実際じっさい数字すうじからも国力こくりょく回復かいふくあきらかで、たとえば曹参領地りょうちとしてあたえられたひら戸数こすうは、当初とうしょは1まん6せんであったのがこの時代じだいには4まんたっしていた[# 2]。この2人ふたり治世ちせいたたえてぶんけいぶ。

国力こくりょく回復かいふくともに、諸侯しょこうおう勢力せいりょく増大ぞうだいあらたな問題もんだいとして浮上ふじょうした。また、しおてつ製品せいひんさば商人しょうにんや、国家こっか物資ぶっし輸送ゆそうに携る商業しょうぎょう活動かつどう活発かっぱつし、商人しょうにん経済けいざいりょく増大ぞうだいした。もの生産せいさんせず巨利きょり商人しょうにんたいして、商業しょうぎょうおさんで農業のうぎょう涵養かんようすることをぶんみかど提言ていげんしたのが賈誼鼂錯であった。ぶんみかどかん農政のうせいさくは賈誼の提言ていげんしたがったものである(#豪族ごうぞくふし参照さんしょうのこと。[20])。

生産せいさん回復かいふく中央ちゅうおう勢力せいりょく増大ぞうだいさせたが、同時どうじ諸侯しょこうおう勢力せいりょく増大ぞうだいさせた。諸侯しょこうこく中央ちゅうおう朝廷ちょうていおなじように官吏かんりき、政治せいじ財政ざいせい軍事ぐんじもある程度ていど自治じちけんみとめられていた。これを抑圧よくあつすることを提言ていげんしたのが袁盎や賈誼・鼂錯である[21]。とりわけけいみかど即位そくいの鼂錯は、諸侯しょこうおう過誤かごつけてはこれを口実こうじつ領地りょうち没収ぼっしゅうしていき、諸侯しょこうおう勢力せいりょくけずりにかかった。これにたいして諸侯しょこうおうがわ反発はんぱつし、くれおうりゅう中心ちゅうしんとなってぜん154ねんすわえななこくらんこす。このらんかん東西とうざいけるだい規模きぼ反乱はんらんだったがしゅうおっとらの活躍かつやくにより半年はんとし鎮圧ちんあつされる[22]

これ以後いご諸侯しょこうおう財政ざいせいけん官吏かんり任命にんめいけんなどをげられ、諸侯しょこうおう領地りょうちおうじた収入しゅうにゅうるだけの存在そんざいになり、ふうこく支配しはいする存在そんざいではなくなった。これによりぐんこくせいはほぼぐんけんせいわりなくなり、かん中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつされた[23]

たけみかどひかりかげ[編集へんしゅう]

けいみかどぜん141ねん崩御ほうぎょし、16さいりゅうとおるたけみかど)が即位そくいした。たけみかどは、ぶんけい国家こっか財政ざいせい経済けいざい充実じゅうじつし、政治せいじ安定あんていしたことから、積極せっきょくてき活動かつどうおこなおうとかんがえた。まずたけみかど儒者じゅしゃてて政治せいじ刷新さっしんはかろうとしたが、これは祖母そぼ竇太きさき反対はんたいって推進すいしんできなかった[24]。しかし、紀元前きげんぜん135ねんに竇太きさき死去しきょすると状況じょうきょうわる[25]

竇太きさきという束縛そくばくくなったたけみかどはこれより「ゆうざい大略たいりゃく[26]」ぶりを発揮はっきする。内政ないせいめんにおいては儒者じゅしゃ公孫こうそんひろしただしなからを重用じゅうようし、さときょさとせんほうさだ儒者じゅしゃ官僚かんりょう登用とうよう開始かいしした[27][25]。また諸侯しょこうおう権力けんりょくさらよわめるために諸侯しょこうおう領地りょうち子弟していあたえて列侯れっこう封建ほうけんするのをゆる推恩のれいした。これによりふうこく細分さいぶんされ、諸侯しょこうおう勢力せいりょく弱体じゃくたい一層いっそう顕著けんちょなものとなった[28][29]

外交がいこうめんでは北方ほっぽう匈奴きょうどとは、ぜん200ねん高祖こうそ大敗たいはいきっして以来いらい敵対てきたい和平わへい政策せいさくかえされていたが、おおむ匈奴きょうど優勢ゆうせいである状況じょうきょうつづいていた[30]。これにたいしてたけみかどぜん134ねんうま[# 3]土豪どごうであった聶壱けんさく採用さいようたい匈奴きょうどせん着手ちゃくしゅした[31][32]ぜん129ねん実施じっしされただいいちかい遠征えんせいでは4にん将軍しょうぐん派遣はけんされ、将軍しょうぐん敗北はいぼくきっするなかくるま将軍しょうぐんまもるあお匈奴きょうどすうひゃくくび獲得かくとくする戦果せんかげている[33][34]以後いごまもるあおは7わた匈奴きょうど遠征えんせいしその都度つどおおきな戦果せんかげ、匈奴きょうど壮丁そうていすうまん家畜かちくすうじゅうまんとう記録きろくされる被害ひがいけた[35][36]。またまもるあおおいである霍去びょう活躍かつやくにより、渾邪おうすうまんしゅうとも投降とうこうするという戦果せんかげた[37][38]かんぐん攻勢こうせいけるため、匈奴きょうどばくきたゴビ砂漠ごびさばくきた)への移住いじゅう余儀よぎなくされた[39][40]かんあらたに獲得かくとくした領域りょういきついたちかた敦煌とんこうなどのぐんもう直接ちょくせつ統治とうち開始かいしした[41]

朝鮮半島ちょうせんはんとうまもる朝鮮ちょうせん・ベトナムの南越なんごしこくへの征服せいふく実施じっしし、朝鮮ちょうせんにはらくなみぐんなどのよんぐんを、ベトナムには日南にちなんぐんなどきゅうぐんもうけ、あらたな領土りょうどとした[42][43]。また、匈奴きょうど対策たいさく一環いっかんとしてちょう西方せいほう派遣はけんし、がらすまごだいあて・その西域せいいき諸国しょこく関係かんけいむすび、西域せいいきとのあいだにいわゆるシルクロード交易こうえきけた[44][45]。そして「中国ちゅうごく」とばれる領域りょういき大枠おおわくがこの時代じだい形作かたちづくられた[46]

さらにたけみかど始皇帝しこうていれいにならい各地かくち巡行じゅんこうし、もとふう元年がんねんぜん110ねん)には泰山たいざんふうぜんおこなった[47][48]。これはせい天子てんしにのみゆるされる儀式ぎしきであり、それ以前いぜんったのは始皇帝しこうていのみであった。このころたけみかど絶頂ぜっちょうであったとされる[46]

しかし、相次あいつ軍事ぐんじ行動こうどう財政ざいせい悪化あっかまねき、国庫こっこそらになっていた[49][50]たけみかど経済けいざい官僚かんりょうであるくわひろひつじ登用とうようし、しおてつ専売せんばい開始かいしし、また商人しょうにんたいしてはひとし輸・平準へいじゅんおこなったほか、商工しょうこう業者ぎょうしゃ対象たいしょうとした新税しんぜいもうけた[51][52]一連いちれん政策せいさくにより財政ざいせい収入しゅうにゅう増大ぞうだいしたが、専売せんばい新税しんぜいにより商人しょうにん商業しょうぎょう活動かつどう打撃だげきこうむった[53]

また、農民のうみん自作じさく放棄ほうきともなだい地主じぬしによる土地とち併呑へいどん深刻しんこく問題もんだいとなっていた。たけみかど治世ちせい後半こうはんは、没落ぼつらくした多数たすう農民のうみん商人しょうにんによる盗賊とうぞく横行おうこうなやまされる[54][55]社会しゃかい不安ふあんたいしてたけみかど酷吏こくり登用とうようし、厳格げんかく法治ほうち主義しゅぎ対応たいおうした[56][57]盗賊とうぞく摘発てきはつできない、また摘発てきはつ件数けんすうすくない地方ちほう官僚かんりょう死刑しけいとする沈命ほうしている。またぜん106ねんには、ぐん太守たいしゅ盗賊とうぞく豪族ごうぞく結託けったくしている現状げんじょう打破だはすべく、全国ぜんこくを13しゅう分割ぶんかつし、しゅうないぐんけん監察かんさつかんとしてしゅう刺史しししょく新設しんせつした[58][59]

晩年ばんねんたけみかど不老不死ふろうふしねが神秘しんぴ思想しそう傾倒けいとうし、それにともな宮中きゅうちゅうではみこ蠱(ふこ)が流行りゅうこうするようになる。みこ蠱とはにく相手あいて人形にんぎょうつくり、これをめることで相手あいてのろいころせするものであり、これをおこなうことは厳禁げんきんされていた[60][61]。それを逆用ぎゃくようし、人形にんぎょう捏造ねつぞうすることで対立たいりつ相手あいて謀殺ぼうさつすることが頻繁ひんぱんおこなわれた。そして紀元前きげんぜん91ねん皇太子こうたいしであったもど太子たいしつねより対立たいりつしていた酷吏こくりこうたかしによる策謀さくぼうにより謀反むほん汚名おめいせられ、められたもど太子たいし長安ながやす挙兵きょへいし、はいした(みこ蠱のわざわい[62][63]のちもど太子たいしみこ蠱の嫌疑けんぎ無実むじつであったことをったたけみかどふかかなしみ、こうたかし一族いちぞく誅殺ちゅうさつした。皇太子こうたいしうしなったたけみかど老齢ろうれいかさなって気力きりょく減退げんたいさせ、周辺しゅうへんへの進出しんしゅつはこれ以降いこうめられた[64][65]

たけみかど時代じだいかん絶頂ぜっちょうであったが、同時どうじ様々さまざま問題もんだい萌芽ほうがした時代じだいでもあった[46]

霍光とせんみかど[編集へんしゅう]

みこ蠱のらんのち皇太子こうたいし長期間ちょうきかん空位くういつづいていたが、たけみかど崩御ほうぎょ直前ちょくぜんにわずか8さいようよわいであるりゅうどるりょうあきらみかど)を立太子りったいしし、ようみかど補佐ほさとして、みずからの側近そっきんであった霍光くわひろひつじ上官じょうかんきむにち後見こうけんやくめいじた[66][67]

ぜん87ねんたけみかど崩御ほうぎょするとあきらみかど即位そくいしたが、翌年よくねん後見人こうけんにん一人ひとりであるきむにち磾が死去しきょすると、霍光・上官じょうかん桀とくわひろひつじとの主導しゅどうけんあらそいが発生はっせいした。うちあさ代表だいひょうする霍光・上官じょうかん桀とそとあさ代表だいひょうするくわひろひつじとの対立たいりつ深刻しんこくなものとなった[68]。霍光はくわひろひつじ排除はいじょすべく全国ぜんこくからあつめた賢良けんりょう文学ぶんがくしょうする儒学じゅがくやしない、くわひろひつじ主導しゅどうおこなわれた専売せんばいせいひとし輸・平準へいじゅん廃止はいしする建議けんぎした。この「しおてつ会議かいぎ」の模様もようしるしたのが『しおてつろん』である。しかし、優秀ゆうしゅう経済けいざい官僚かんりょうであったくわひろひつじ儒教じゅきょう建議けんぎ論破ろんぱし、霍光の計画けいかく頓挫とんざした[69]

そのくわひろひつじも霍光に対抗たいこうするために上官じょうかん桀と接近せっきんした。そしてあきらみかどあにであるつばめおうりゅうだん共謀きょうぼうし、霍光を謀殺ぼうさつし、あきらみかどはいするクーデターを画策かくさくしたが失敗しっぱい上官じょうかん桀とくわひろひつじ一族いちぞく誅殺ちゅうさつされた[# 4][70]。これにより霍光が政権せいけん掌握しょうあく一族いちぞく次々つぎつぎ要職ようしょくけ霍氏を中心ちゅうしんとした政権せいけん運営うんえいおこなわれた。霍光はたけみかど時代じだい積極せっきょく政策せいさく転換てんかんし、儒教じゅきょうてきな恤民政策せいさく立脚りっきゃくした施策しさくした。具体ぐたいてきには租税そぜい減免げんめん匈奴きょうどたいする和平わへいさくなどである[71]

ぜん74ねんあきらみかどが21さい早世そうせいすると、霍光はりゅう皇帝こうてい擁立ようりつした。しかし、素行そこう不良ふりょう理由りゆう即位そくいまもなく廃位はいいさせ、あらたにもど太子たいしまごもど太子たいし死後しご市井しせいらしていたりゅうびょうやめせんみかど)を擁立ようりつした[72]せんみかどみずからの立場たちば理解りかいし、霍光による専横せんおうつづおこなわれた。しかしぜん68ねんに霍光が病死びょうしするとせんみかどは霍氏一族いちぞく権力けんりょく縮小しゅくしょうはかり、ぜん66ねんに霍氏一族いちぞくぞくほろぼさせ親政しんせいはじめた[73]

せんみかど政治せいじ基本きほんてきに霍光時代じだい政策せいさく継承けいしょうした恤民政策せいさくであった。全国ぜんこく地方ちほうかんたいしてこれまでの酷吏こくりのようにけるのではなく、おしさと生活せいかつ改善かいぜんするように指導しどうさせる循吏をおお登用とうようしている。その一方いっぽう豪族ごうぞくたいしては酷吏こくりもちいてきびしい姿勢しせいのぞんだ[74]

対外たいがいめんでは、匈奴きょうどにおいて短命たんめいたん于が相次あいついだことによる内紛ないふんや、天候てんこう不順ふじゅんによる状況じょうきょう悪化あっかじょうじてぜん71ねんこうじょうつねめぐみがらすまご連合れんごうぐんによる攻撃こうげきで、3まん9せん余人よにん捕虜ほりょと70まんあまり家畜かちく匈奴きょうど壊滅かいめつてき打撃だげきあたえた。さらに西域せいいき進出しんしゅつし、ぜん60ねんには匈奴きょうど西域せいいきオアシスしょ国家こっか支配しはい徴税ちょうぜいのために派遣はけんしていた逐王先賢せんけん撣を投降とうこうさせることに成功せいこうしている。これを西域せいいきみやこまもる設置せっちし、帰服きふくした逐王をとくこうふうじた[75]

匈奴きょうど西域せいいき失陥しっかん年賦ねんぷきん途絶とぜつにより、衰退すいたい内紛ないふん激化げきかさせたん並立へいりつこうそういたった。よびかんよこしまたん匈奴きょうど国家こっかさい統一とういつすすめたが、あにひだりけんおうよびほふわれ斯があらたに即位そくいして郅支たん名乗なのると、これにやぶれた。よびかんよこしまたん于は南下なんかしてかん援助えんじょもとめ、51ねんみずか入朝にゅうちょうしてせんみかど拝謁はいえつきゃくしん待遇たいぐうた。これを匈奴きょうどこくかん臣従しんじゅうするひがし匈奴きょうどと、かん対等たいとう関係かんけい志向しこうしつつ対立たいりつする西にし匈奴きょうど分裂ぶんれつした[76]

これらの功績こうせきによりせんみかどかん中興ちゅうこうたたえられる。

儒教じゅきょう国家こっかへのみち簒奪さんだつ[編集へんしゅう]

ぜん49ねんせんみかど崩御ほうぎょし、りゅうもとみかど)が即位そくいした。儒教じゅきょう傾倒けいとうしていたもとみかどは、れられなかったものの太子たいし時代じだいせんみかどたい儒教じゅきょう重視じゅうし政策せいさく提言ていげんした経験けいけんゆう人物じんぶつである[77]即位そくいみつぎなどの儒家じゅか官僚かんりょう登用とうよう儒教じゅきょうてき政策せいさく推進すいしんしていくこととなる[78]

みつぎ禹の建議けんぎにより宮廷きゅうてい費用ひよう削減さくげん民間みんかんへの減税げんぜい専売せんばいせい廃止はいし(その、すぐにふくされている)などの政策せいさく実施じっしされた。また貨幣かへい廃止はいしによる現物げんぶつ経済けいざいへの回帰かいきという極端きょくたん政策せいさく立案りつあんされたが、これは実現じつげんしなかった[79]みつぎ禹ののちけた韋玄なりらにより、郊祀せい改革かいかくぐんこくびょう廃止はいし決定けっていされ、ななびょうせいはなわれることになった[80](郊祀・ぐんこくびょうななびょうなどにいては#祭祀さいし後述こうじゅつ)。

もとみかど時代じだい儒者じゅしゃ政策せいさく主導しゅどうけんにぎり、儒教じゅきょうてき教義きょうぎ政治せいじ決定けってい左右さゆうするひとし政治せいじ混乱こんらんした。また、宦官かんがんおよび外戚がいせき台頭たいとうすすんだ。

せんみかど信任しんにんけた宦官かんがん弘恭ひろゆきいしあらわは、病弱びょうじゃくもとみかどわって朝政ちょうせい仕切しき権力けんりょく拡大かくだいついには中書ちゅうしょれい政権せいけん掌握しょうあくした。ぜん将軍しょうぐんしょうもちらは、宦官かんがん壟断ろうだん弾劾だんがいする文書ぶんしょ奏上そうじょうするが、ぎゃくつみとされ自殺じさつまれた。ただ、せんよこるったいしあらわなりみかど即位そくいとも失脚しっきゃくしている[81]

かんへの臣従しんじゅうこば西にし匈奴きょうどの郅支たん于にたいしては、臣従しんじゅうしたひがし匈奴きょうど西方せいほう西にし匈奴きょうど対立たいりつするがらすまご攻守こうしゅ同盟どうめいむす次第しだいめていった。郅支たん于はがらすまご対立たいりつするかんきょ同盟どうめいしてしゅひきいてきた移動いどうしたが、おりからの寒気さむけによりおおくの家畜かちく凍死とうしした。ぜん36ねん西域せいいきみやこまもるあま延寿えんじゅ西域せいいきふくこうじょうちん独断どくだんで郅支たん于をめ、郅支たん于を西にし匈奴きょうどほろぼした。

ぜん33ねんもとみかど崩御ほうぎょによりりゅうなりみかど)が即位そくいする[82]政治せいじ実権じっけん外戚がいせきおうにぎられており、なりみかど側近そっきんともな市井しせい放蕩ほうとうふけるなど政治せいじかかわらなかった。実際じっさい政治せいじおこなったのは皇太后こうたいごうである王政おうせいくんおうふとしきさき)の兄弟きょうだいおうおおとりらである。なりみかどおうふとしきさき近親きんしん次々つぎつぎ列侯れっこうふうじた。そのなかにはおうふくまれる[83]

おうおおとり死後しごおうふとしきさき一族いちぞくが輔政しゃとなったが、その専横せんおう生活せいかつ態度たいど翟方すすむ儒教じゅきょう官僚かんりょう反発はんぱつまねいた。そのなかおう莽はおうなかひと謙虚けんきょ態度たいどよそおい、名声めいせいたかめた[84]

ぜん7ねんなりみかど崩御ほうぎょにより、なりみかどおい皇太子こうたいしりゅうあいみかど)が即位そくいした。あいみかど外戚がいせき台頭たいとうしたことで、おう排斥はいせきされおう莽も執政しっせいしゃ地位ちいから退しりぞけられ、一時いちじてき失脚しっきゃくする[85]

あいみかどおう大臣だいじん処断しょだんするなど親政しんせいへの意欲いよくせ、吏民の私有しゆうできる田地でんち奴婢ぬひ制限せいげんし、官制かんせい改革かいかく着手ちゃくしゅするなど積極せっきょくてき政策せいさく推進すいしんした。しかし、ぜん1ねんあいみかど後継こうけいしゃのこさないまま突然とつぜん崩御ほうぎょした。おうふとしきさきおう莽は皇帝こうてい印綬いんじゅ管理かんりしていたただしけんから印綬いんじゅ強奪ごうだつもとみかど末子まっしであるりゅうひらみかど)を擁立ようりつした[86]

政権せいけん掌握しょうあくしたおう莽はおう実力じつりょく背景はいけい権勢けんせいつよめていく。『しゅうあや』にのっと聖人せいじん執政しっせいする場所ばしょとされるあかりどう建築けんちく遠国おんごくからの進貢しんこうりゅうたやら鳳凰ほうおうんできたやら瑞祥ずいしょうとされる事柄ことがら演出えんしゅつした。またみずからのむすめたいらみかどめとわせすめらぎしゅうととなり、あんかんこうふうずるとともおさむ衡という称号しょうごう名乗なのり、きゅうすずさづけ、臣下しんかとして最高さいこう地位ちいのぼった[87]

紀元きげん5ねんひらみかど崩御ほうぎょすると、おう莽はわずかさいりゅう後継こうけいしゃえらぶ。りゅう嬰はまだ幼年ようねんであることを理由りゆう正式せいしきには帝位ていいけられず、よく6ねんおう莽はみずかかり皇帝こうてい皇帝こうていとしてりゅう嬰の後見こうけんとなった[88]さら8ねんおう莽は皇帝こうてい即位そくい国号こくごうしんあらため、かん一旦いったん断絶だんぜつすることになった[89]

おう莽は儒教じゅきょうしょくきわめてつよ政治せいじおこない、土地とち奴婢ぬひ売買ばいばい禁止きんし貨幣かへいさかんな改鋳かいちゅうなどをおこなったが、あまりに性急せいきゅう政策せいさく失敗しっぱいかさねた[90]りょははらんけに全国ぜんこく農民のうみん蜂起ほうき発生はっせいし、おう莽は敗亡はいぼうした。戦乱せんらんなかからりゅうしげる登場とうじょうふたた中国ちゅうごく統一とういつかん復興ふっこうされた(こうかん[91]

政治せいじ[編集へんしゅう]

劉邦りゅうほう咸陽りしたさいに、しょうなにはた法律ほうりつ文書ぶんしょくらおさえておおくを保護ほごし、それを参考さんこうとしてかんりつつくった。そのためはたかん連続れんぞくせい強調きょうちょうする「はたかん」、「はたかん帝国ていこく」という熟語じゅくごがよく使つかわれる。

皇帝こうてい[編集へんしゅう]

皇帝こうてい」のごうは、はた始皇帝しこうていはじまり、きよしせんすべみかどまでつづ[92]。そのあいだ中国ちゅうごくにおいて皇帝こうてい存在そんざいしなかった時代じだいはなく、すべての権威けんい名目めいもくじょう権力けんりょく皇帝こうてい帰属きぞくするものとかんがえられていた。

史記しき』「はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ」には、「皇帝こうてい」とは始皇帝しこうていみずからをさんすめらぎみかどにならぶほどとうと存在そんざいになぞらえて造語ぞうごしたものとあり、それまでの最高さいこうであったおううえ地位ちいである。

一方いっぽうで、かんだいには天子てんし称号しょうごう使つかわれている[93]天子てんしはそのまま天帝てんていしめ言葉ことばであり、おううえである皇帝こうていからすれば一段いちだんがる言葉ことばのはずである。おう称号しょうごう使つかっていたしゅうだいにおいても天子てんしかたり使つかわれている。

そのあいだ説明せつめいする『こう経緯けいい[# 5]には「うえせっしては天子てんししょうして、爵をもっててんつかえ、したせっしては帝王ていおうしょうして、以って臣下しんか号令ごうれいす」とある。つまりてんたいしては天子てんしであり、民衆みんしゅう臣下しんかたいしては皇帝こうていなのである[94]

この使つかけは現実げんじつ場面ばめんにおいて、国内こくない臣下しんかたいしてと国外こくがいそとはんたいしての称号しょうごうとしてあらわれる。国内こくない臣下しんかうちしん)にたいしての文書ぶんしょには「皇帝こうていたま」がされ、国外こくがいそとはんそとしん)にたいする文書ぶんしょには「天子てんしたま」をしている[95]

なお、前漢ぜんかんこうかんつうじて、こう諡号しごうけて「たかし皇帝こうてい」という諡号しごう皇帝こうていおおいが、これは国立こくりつのために「以孝為本ためもとこうもっほんす)」をとなえたためである。

官制かんせい[編集へんしゅう]

[96]

かん官制かんせいにおいて、共通きょうつうする文字もじおな意味いみあらわす。

れい長官ちょうかんあらわす。ろうちゅうれいあるいは県令けんれいなど。すすむ補佐ほさ次官じかんあらわす。たとえば丞相じょうしょう皇帝こうてい補佐ほさし、けんすすむけんふく長官ちょうかんである。文書ぶんしょ業務ぎょうむ担当たんとうするかんのこと。じょう軍事ぐんじ関連かんれんかんふとしじょう中尉ちゅういなど[97]

かんせいにおいては官僚かんりょう等級とうきゅうせんせきろくひゃくせきなどとあらわされる[97]。この数字すうじ以前いぜんは俸禄の数字すうじであったが、かんだいでは等級とうきゅうあらわすものにぎない。等級とうきゅうふくまれるおもかん以下いかひょうとおり。このうち、はちひゃくせきひゃくせき前漢ぜんかん末期まっき廃止はいし

かん まんせき ちゅうせんせき せんせき せんせき せんせき せんせき はちひゃくせき ろくひゃくせき ろくひゃくせき ひゃくせき よんひゃくせき よんひゃくせき さんひゃくせき さんひゃくせき ひゃくせき ひゃくせき ひゃくせき
実際じっさいかん 三公みつきみ大将軍だいしょうぐん きゅうきょう こおりまもるうちなど ぐんじょうちゅうろうしょうなど 三公みつきみすすむ ふとなか大夫たいふなど   ふとしれいなど 博士はかせろうちゅうろうなど   けんすすむなど さむらいろうなど   ろうちゅうなど けんじょうなど  
俸禄[# 6] つき350斛 180 120 100 90 80   70 60   50 45 40 37 30 27 16

中央ちゅうおう[編集へんしゅう]

かん中央ちゅうおう官制かんせい三公みつきみしたきゅうきょう[# 7]ばれるしょ部署ぶしょ配置はいちされている。このさんおおやけきゅうきょうはその役割やくわりにおいておおきく2つに分類ぶんるいされる。1つは政府せいふ中枢ちゅうすうにあって地方ちほう統治とうちする機関きかんであり、1つはすめらぎ家政かせい機関きかんとしての役割やくわりつものである[98]前者ぜんしゃ分類ぶんるいされるのは以下いかのようなものである。

後者こうしゃ皇帝こうてい家政かせい機関きかん)に分類ぶんるいされるものは以下いかのようなものである。

国家こっか統治とうち機関きかん皇帝こうてい家政かせい機関きかんとが並立へいりつしているのがかんせいおおきな特徴とくちょうである[98]。また、もとみかど時代じだいだいつかさみのりあわないから改称かいしょう)のあつか金額きんがく年間ねんかん70おくせんしょう分離ぶんりしたみず衡都じょうあつか金額きんがくが33おくせん地方ちほうこおりけんあつか金額きんがくが92おくぜにと、地方ちほう財政ざいせいおおきいのも特徴とくちょうである。

地方ちほう[編集へんしゅう]

地方ちほう制度せいど基本きほんてきにははたぐんけんせいぎ、同時どうじ皇族こうぞくふうじこくして諸侯しょこうおうとする並立へいりつせいいた。これをぐんこくせい[106]諸侯しょこうおういては後述こうじゅつ

行政ぎょうせい最大さいだい単位たんいぐんであり、そのちょうもりこおりまもる)である。その属官ぞっかんには次官じかんたるすすむ軍事ぐんじ担当たんとうじょうがある。ぐんした単位たんいけんであり、そのちょういちまん以上いじょう場合ばあいれいまん以下いかちょうばれる。その属官ぞっかんぐんおなじくすすむじょうである。けいみかど紀元前きげんぜん148ねんもり太守たいしゅぐんじょうじょうへそれぞれ改称かいしょうされる[107]。なお辺境へんきょうにおいては若干じゃっかんことなるが、それは#兵制へいせいこう記述きじゅつする。

たけみかど時代じだい末期まっき紀元前きげんぜん106ねん全国ぜんこくを13のしゅうけて、そのなか監視かんしおこな刺史しし創設そうせつされた。首都しゅと周辺しゅうへん皇帝こうてい直属ちょくぞく監察かんさつかんであるつかさ隷校じょうおな役割やくわりたした。当時とうじ太守たいしゅ豪族ごうぞくたちと結託けったくして悪事あくじはたらくことがおおかったので、その監察かんさつ任務にんむとして刺史しし創設そうせつされた。当初とうしょ太守たいしゅの秩せんせきたいして秩ろくひゃくせきかくじょうでもはるかにひくく、また一定いっていしょたず、しゅうない転々てんてんとしていた。紀元前きげんぜん8ねんにはまき改称かいしょうされ、名称めいしょうまき刺史ししあいだなんわり、時期じき明確めいかくには特定とくていできないが、刺史しし監察かんさつかんからしゅうない行政ぎょうせいかんとしての権力けんりょくつようになった[108]

ここまでが政府せいふよりさだめられた行政ぎょうせい単位たんいであり、そのした単位たんいとしてさとちんさとばれる組織そしきがある。これにいては#農村のうそん都市とし参照さんしょう

ぐんこくせい[編集へんしゅう]

すわえななこくらんさい諸侯しょこうおう勢力せいりょく黄色おうしょく直轄ちょっかつりょうあか諸侯しょこうこく

本節ほんぶしでは諸侯しょこうこくかんする事項じこうしるす。高祖こうそ時代じだいにはかんしんはじめとする武功ぶこうげた功臣こうしん諸侯しょこうおうとした。しかし、高祖こうそ異姓いせい諸侯しょこうおう粛清しゅくせいして、親族しんぞく諸侯しょこうおうけ、りゅう政権せいけん安定あんていはかった[109]

ぶんみかど時代じだいには藩屏はんぺいとして期待きたいされた諸侯しょこうおうりゅう本流ほんりゅうたる中央ちゅうおう朝廷ちょうていたいする反抗はんこうてき姿勢しせい目立めだち、また諸侯しょこうおう領土りょうど実力じつりょくおおきな脅威きょういとなっていた。諸侯しょこうこくみずからの朝廷ちょうていち、丞相じょうしょう大夫たいふなどの中央ちゅうおう朝廷ちょうていおな名前なまえかんいた。このなか丞相じょうしょう基本きほんてきには中央ちゅうおうから派遣はけんされ、そのかんすべ諸侯しょこうおうした任命にんめいした。基本きほんてき諸侯しょこうこく政治せいじたいして中央ちゅうおう介入かいにゅうすることはできなかった。諸侯しょこうこくちゅう最大さいだいくれこく領内りょうないてつしお産地さんちかかえ、民衆みんしゅうぜいをかける必要ひつようほどんでいたという。中央ちゅうおう朝廷ちょうていからすればうえのたんこぶであった。そこで諸侯しょこうおう権力けんりょくけずることを進言しんげんしたのがぶんみかど賈誼けいみかどの鼂錯であり、これにたいする反発はんぱつからすわえななこくらんこった[110]

らん終結しゅうけつ諸侯しょこうおう領地りょうちにおける行政ぎょうせいけんげて、中央ちゅうおう派遣はけんする官僚かんりょうまかせ、諸侯しょこうおうたん領地りょうちからがるぜいるだけの存在そんざいへとわり、諸侯しょこうおうちから大幅おおはばけずられた。また、紀元前きげんぜん127ねん諸侯しょこうおう自分じぶん領地りょうち子弟していあたえて列侯れっこう封建ほうけんするのをゆるす「推恩のれい」をした。しゅちち献策けんさくによる。このれいにより、諸侯しょこうおう封地ほうちだいかさねるごと細分さいぶんされ弱体じゃくたいした。一連いちれん政策せいさくによりほぼぐんけんせいおおきなはなくなった[111]

採用さいよう制度せいど[編集へんしゅう]

たけみかど以前いぜん官吏かんり採用さいよう制度せいどは、一定いってい以上いじょう役職やくしょくにある官吏かんりにん)や、一定いってい以上いじょう資産しさん(10まんせんのちに4まんぜに)をいえもの採用さいようする制度せいどであった[112]

一方いっぽう諸侯しょこうおうぐんもりなどが地方ちほう才能さいのう人格じんかくすぐれた人材じんざい中央ちゅうおう推薦すいせんする制度せいどあわせておこなわれた[112]。これはたけみかどにはぐんもり義務ぎむとされ、さときょさとせんせいとなる。推薦すいせんする基準きじゅん賢良けんりょう才能さいのうがある)・方正ほうせいおこないがただしい)・諫言・文学ぶんがく勉強べんきょうである)・こうれんおやたいして孝行こうこうであり、廉直れんちょくである)などがあり、採用さいようされた人材じんざいけん方正ほうせいぶ。これら賢良けんりょう方正ほうせい首都しゅと長安ながやすにあるふとしがくばれる学問がくもんしょあつめられて五経ごきょう博士はかせによる教育きょういくけ、官僚かんりょうとなった。この制度せいど有力ゆうりょくしゃ推薦すいせん必要ひつようとするため、次第しだい豪族ごうぞく子弟していおも対象たいしょうとなった。

兵制へいせい[編集へんしゅう]

戸籍こせき登録とうろくされた男子だんしは23さいから56さいあいだの1年間ねんかん自分じぶんぞくするぐんぐん兵士へいしに、もう1年間ねんかん中央ちゅうおう衛士えじとならねばならない。ただし病人びょうにん不具ふぐ身長しんちょうろくしゃくすん(143 cm)以下いかもののぞく。

軍事ぐんじ最高さいこうしょくふとしじょうである。しかしぜん軍事ぐんじけん皇帝こうていぞくするものであり、当初とうしょふとしじょう必要ひつようおうじて改廃かいはいかえ常置じょうちしょくであった。たけみかどもとかりよんねん紀元前きげんぜん119ねん)に将軍しょうぐんごうかんする一種いっしゅ称号しょうごうとしてだい司馬しば設置せっちされる。だい司馬しばになったものとしてはまもるあお霍去びょう両者りょうしゃがあり、その親族しんぞく霍光もまただい司馬しば大将軍だいしょうぐんとして政権せいけんった。そのせんみかどぶしさんねん紀元前きげんぜん67ねん)に称号しょうごうから実際じっさい役職やくしょくとなるが、このころになると外戚がいせきちょうだい司馬しばいて政権せいけんることがおおくなり、だい司馬しば軍事ぐんじよりも政治せいじしょくとなった。

首都しゅと長安ながやすかれる中央ちゅうおうぐん中尉ちゅうい指揮しきするきたぐんまもるじょう指揮しきするみなみぐんとがあった。きたぐん長安ながやす北部ほくぶにその屯所とんしょがあり、長安ながやす周辺しゅうへん人々ひとびと構成こうせいいんとなって長安ながやす防衛ぼうえい警察けいさつたった。みなみぐん地方ちほうから衛士えじとしてやってくる人々ひとびと構成こうせいいんとなって宮殿きゅうでん警備けいびたった。またこれにくわえて皇帝こうてい身辺しんぺん警護けいごたるのがろうちゅうれいによって統括とうかつされるろうかんたちである。長安ながやすじゅうもんには城門じょうもんこうかれて警備けいびたり、城門じょうもんこう統括とうかつする存在そんざいとして城門じょうもんじょうがあった。またこれらとはべつたむろ歩兵ほへいえつちょうみずえびすしゃごえとら賁のななこうじょう統括とうかつする部隊ぶたいがある。

地方ちほうぐん単位たんいぐん単位たんいであり、統括とうかつしゃ太守たいしゅである。太守たいしゅした実際じっさい軍事ぐんじたずさわるのがじょうである。通常つうじょうじょうぐん一人ひとりだけであるが、軍事ぐんじてき重要じゅうよう辺境へんきょうぐんなどでは複数ふくすうおかれる場合ばあいがあり、これをじょうぶ。また太守たいしゅ軍事ぐんじめんでの副官ふっかんとしてぐんちょうふみく。

これらが平時へいじ体制たいせいである。遠征えんせいさいにはこれら軍兵ぐんびょうをまとめるための将軍しょうぐんかれる。「はたぐんにありては君命くんめいけざるところあり」とわれるように将軍しょうぐん人事じんじけん懲罰ちょうばつけんなどそのぐんいてはほぼ全権ぜんけんっていた。将軍しょうぐん最高さいこう大将軍だいしょうぐんである。大将軍だいしょうぐんはその将軍しょうぐんたいする命令めいれいけん特別とくべつ将軍しょうぐんである。大将軍だいしょうぐんつぎくらいするのがくるま将軍しょうぐんまもる将軍しょうぐんであり、それにくわえて驃騎将軍しょうぐん霍去びょう活躍かつやくにより前期ぜんきさん将軍しょうぐん同格どうかくとされ、このよん将軍しょうぐんくらいさんおおやけ匹敵ひってきした。このつぎにくるのが左右さゆう前後ぜんこうよん将軍しょうぐんである。これにくわえて任命にんめいされるとき名前なまえおなじくけられるざつごう将軍しょうぐんがある。またへん将軍しょうぐんおよび裨将ぐんがあり、これは独自どくじぐんひきいず、将軍しょうぐんしたはいって指揮しきするものである。

将軍しょうぐん司令しれいとして幕府ばくふひらく。最高さいこうよん将軍しょうぐん幕府ばくふには将軍しょうぐん副官ふっかんとしてちょう司馬しばき、それぞれ事務じむへいつかさどる。参謀さんぼうとして従事じゅうじちゅうろう2人ふたりき、書記官しょきかんとしてじょうぞくれいぞくく。実戦じっせん部隊ぶたい最小さいしょう単位たんいは「たむろ」でありそのちょうたむろちょうたむろがいくつかあつまってきょくになりそのちょうぐんこうきょくあつまってになりそのちょうこうじょうあつまって全体ぜんたいぐんとなる。

祭祀さいし[編集へんしゅう]

#皇帝こうていふし説明せつめいしたように、皇帝こうてい天子てんしでもあり、天帝てんていによってえらばれた存在そんざいである。ゆえ皇帝こうてい天帝てんていまつらねばならない。前漢ぜんかんにおいて、それまで漠然ばくぜんとしていた皇帝こうてい祭祀さいしかたまり、ふうぜん郊祀というかたちになった。

また祖先そせん崇拝すうはい重視じゅうしする儒教じゅきょう勢力せいりょくつよくなったことで皇帝こうてい祖廟そびょうまつかたもまた定式ていしきされた。

郊祀[編集へんしゅう]

郊祀とは首都しゅと長安ながやすの「郊」そとおこなまつりまつ」の意味いみである。まつられる対象たいしょうてんで、長安ながやすみなみ南郊なんこうてんまつり、きた北郊ほっこうまつる。それぞれ南郊なんこう冬至とうじ北郊ほっこう夏至げしおこなわれる。

前漢ぜんかん初期しょき高祖こうそによっておこなわれていた天帝てんてい祭祀さいしみかど祭祀さいしである。ここでいうみかどとはさんすめらぎみかどみかどではない。元々もともとはたにおいて、はたきゅう首都しゅとである[# 8]においてよんみかどみかどしろみかどあかみかどあおみかど)をまつっていたが、高祖こうそはそれにくろみかどしてみかどまつりをすることにめた。このみかどまつ場所ばしょのことをという[113]

たけみかどてん象徴しょうちょうである天帝てんていまつりながらそれに対応たいおうする象徴しょうちょうであるきさきまつらないのはおかしいということになり、紀元前きげんぜん113ねんに汾陰[# 9]沢中さわなかにてきさきまつることをめた。さらにそれまで最高さいこうしんとされていたみかど本当ほんとう最高さいこうしんである太一たいち補佐ほさぎないということになり、あらたにかん長安ながやすじょう離宮りきゅうであるあま泉宮いずみみやにて太一たいちまつることにめた。このとき以降いこうあまいずみ・汾陰・畤の3つを1ねんごとに順番じゅんばんまわってまつることにされた[114]

しかし儒教じゅきょう勢力せいりょく拡大かくだいするとともにこのようなまつかたれいわないとして、なりみかど紀元前きげんぜん32ねん丞相じょうしょうただしらによりあまいずみと汾陰でおこなうのをめて、あらたに長安ながやすみなみ南郊なんこうてんまつる)・きた北郊ほっこうまつる)にて祭祀さいしおこなうことにめた。さら畤もはいされ、南郊なんこう北郊ほっこうのみが皇帝こうていまつるところとなった。その天災てんさい相次あいついだことにたいしてりゅうむかい祭祀さいし制度せいど改悪かいあくしたせいだとい、一旦いったんすべてがきゅうふくされた。その再度さいど南郊なんこう北郊ほっこうもどされ、さらもどされるなど動揺どうようつづいたが、最終さいしゅうてきひらみかど5ねんおう莽により、南郊なんこう北郊ほっこうまつることが決定けっていされた[115]

ふうぜん[編集へんしゅう]

あま泉宮いずみみやにて太一たいちまつることをめた直後ちょくご紀元前きげんぜん110ねんたけみかど東方とうほう巡幸じゅんこうて、泰山たいざんにてふうじぜんおこなった[116]ふうぜんせい天子てんし以外いがいおこなうことができないといわれている儀式ぎしきであり、たけみかど祖父そふぶんみかどはこの儀式ぎしきおこなうことを臣下しんかからすすめられたがこれを退しりぞけている。

たけみかどくにはつ以来いらい念願ねんがんであったたい匈奴きょうどせん勝利しょうりおさめ、みずからこそふうぜんおこなうに相応ふさわしいとかんがえ、この儀式ぎしきおこなった。このとき儒者じゅしゃ儀式ぎしきのやりかたたずねたが始皇帝しこうていときおなじように儒者じゅしゃはこれにこたえることができず、結局けっきょくたけみかどともをしたのは霍去びょう息子むすこの霍子こうだけだった。そのためこれもまた始皇帝しこうていときおなじくその儀式ぎしき内容ないよう判然はんぜんとしない[47]

このような状態じょうたいであるため郊祀が毎年まいとし恒例こうれいしていったのにくらべ、ふうぜんはその光武みつたけみかどおこなったものの特別とくべつおこなわれる秘密ひみつ儀式ぎしきまり、中国ちゅうごく歴代れきだいでもこれをおこなったものかぞえるほどである。

びょうせい[編集へんしゅう]

高祖こうそみずからのちちであるりゅうふとしおおやけまつびょうつくるにたり、同族どうぞくである全国ぜんこく諸侯しょこうおうにもりゅうふとしおおやけびょうつくることをめいじた。これが以後いご定式ていしきとなり、かくぐんこくにそれぞれりゅうびょうつくられることになった。これをぐんこくびょう[117]本来ほんらいおや祭祀さいしおこなうことがゆるされるのは大宗たいそう本家ほんけ)だけ、かん場合ばあい皇帝こうてい系譜けいふ、でありしょうむね分家ぶんけ)はこれをまつれないことになっていた。ましてや臣下しんか皇帝こうてい祖先そせんまつるなどというぐんこくびょう本来ほんらいれいせいからはおおきくはずれたものであった。高祖こうそ何故なぜこのようなことをおこなったかといえば、諸侯しょこうおうおよび天下てんか万民ばんみんあいだに「われらはひとつの家族かぞくである」との意識いしきたせようとしたとかんがえられる。その儒教じゅきょう勢力せいりょくすとれいせいからはずれたぐんこくびょうはやはり問題もんだいとなり、もとみかど紀元前きげんぜん40ねん韋玄なりらの建議けんぎによってぐんこくびょう廃止はいしされた[118]

またおなじく儒教じゅきょう勢力せいりょく拡大かくだいとも問題もんだいとされたのがななびょうせいである。本来ほんらいれいせいにおいては天子てんし祖先そせんまつびょうななまでにまっていた。しかしもとみかど時点じてんきゅう[# 10]になっており、このうちのどれを廃止はいしするかで議論ぎろんこった。この議論ぎろん紛糾ふんきゅうつづけ、最終さいしゅうてきひらみかどおう莽によって高祖こうそぶんみかどたけみかどさんしゃ功績こうせきだいなので不変ふへん・それにくわえてげん皇帝こうていの4だいまえまで(せんみかどもとみかどなるみかどあいみかど)とすることにめられた[119]

元号げんごうこよみ[編集へんしゅう]

元号げんごうたけみかど紀元前きげんぜん113ねんどうかなえ発見はっけんされ、このとしもとかなえ4ねんとしたのがはじまりとされる。たけみかどさかのぼってみずからの治世ちせい最初さいしょから元号げんごうけている。この制度せいど中華民国ちゅうかみんこくにより廃止はいしされるまでつづき、朝鮮ちょうせん日本にっぽんなど周辺しゅうへん各国かっこくでも採用さいようされた。

またそれまでの10がつ正月しょうがつとしていた顓頊れきわって立春りっしゅん正月しょうがつとする太初たいしょれき採用さいようした。

経済けいざい[編集へんしゅう]

貨幣かへい制度せいど[編集へんしゅう]

かん銖銭

[96]

当時とうじ貨幣かへい単位たんいぜにかねである。ぜにはそのままぜにいちまいのことで、きむかね1きんのことであり、大体だいたい1まんぜに相当そうとうする。

敦煌とんこうかんきょのべかんなか文書ぶんしょからある程度ていど当時とうじ物価ぶっか推測すいそくできる。それによれば、

  • きぬいちひき(27.65m)=450-477ぜに
  • アワ1せき(30kgほど)=105-130
  • キビ=150
  • 大麦おおむぎ=110
  • むぎ=120
  • にく1きん(258.24g)=4-7

とある[120]。しかし時期じきがずれた文書ぶんしょではアワ1せきが3000ぜにになっているものもあり、当時とうじ相場そうば変動へんどうがかなりはげしかったことがかる。また地域ちいきはげしかったとおもわれる。

戦国せんごく時代じだいにおいては各国かっこくがバラバラに貨幣かへい発行はっこうしていたが、始皇帝しこうていはこれを銅銭どうせん半両銭はんりょうぜにやく8g)に統一とういつし、国家こっかだけがこれを鋳造ちゅうぞうできるとした。かんでもこれをいだが、高祖こうそ民間みんかんでの貨幣かへい鋳造ちゅうぞうみとめたため、実際じっさいにははんりょうどう使つかわずに半両銭はんりょうぜにとして流通りゅうつうする悪銭あくせんえた。

その貨幣かへい鋳造ちゅうぞう禁止きんし許可きょかかえされ、政府せいふ貨幣かへいわたし防止ぼうしこころみてさん銖・はち銖などのぜに発行はっこうするがわたしまなかった。そしてたけみかど紀元前きげんぜん113ねん上林うえばやしさんかんという部署ぶしょあらたな銖銭やく3.5g)を独占どくせんてき鋳造ちゅうぞうさせることにした。この銖銭は偽造ぎぞうむずかしく、これ以後いごわたし大幅おおはばり、銖銭以外いがいぜにすべ回収かいしゅうされ、銖銭に鋳造ちゅうぞうされた。銖銭はその流通りゅうつうつづけ、こうかんすすむ南北なんぼくあさ時代じだいにおいてもがれ、とうひらけもと通宝つうほうつくられる621ねんまでつづいた。 こうかんからさんこく、さらにはえびすじゅうろくこく時代じだいはいると、銖銭は粗製そせい乱造らんぞうすすみ、政権せいけんによって製造せいぞうされるサイズはまちまちで統一とういつ規格きかくくずはじめ、貨幣かへい経済けいざい衰退すいたいかうが、それはまたはなしであろう。

税制ぜいせい[編集へんしゅう]

[96]

ぜい徴収ちょうしゅう人頭じんとうぜい土地とちぜい財産ざいさんぜいしょうぜい・畜税・労働ろうどうぜい(徭役)・兵役へいえきこうりん漁業ぎょぎょうたいするぜいなどがある。

人頭じんとうぜいには、かぞえ15さいから60さいまでの男女だんじょ年間ねんかん120ぜに=1さんおさめるさんかぞえ3さいから14さいまでの男女だんじょき20ぜにおさめる口銭こうせんがあり、たけみかど時代じだいに3ぜに上乗うわのせされ、あきらみかど時代じだいにそれぞれかぞえ56さいまでとかぞえ7さいからに変更へんこうされた。また、にんさん免除めんじょされ、かぞえ15さいから30さい未婚みこんおんなは5さんを、奴婢ぬひには2さんされた。

財産ざいさんぜいさん緡とばれ、初期しょきせき登録とうろくされた専業せんぎょう商家しょうかのみにせれ、たけみかど以降いこう商業しょうぎょう手工業しゅこうぎょう鉱業こうぎょういとなものされた。あきないをおこなはあらゆる財産ざいさん土地とち奴婢ぬひふくむ)2000せんにつき年間ねんかん1さんおさめ、手工業しゅこうぎょう鉱業こうぎょういとな財産ざいさん4000ぜに年間ねんかん1さんおさめた。また、たけみかど時代じだいさんしゃさんせんばれるくるまふねたいする課税かぜいおこなわれ、官吏かんりでないものは1しゃ・1せんにつき1さんあきないにたずさわるものは2さんされた。これらの増税ぞうぜい一定いってい以上いじょう資産しさん保有ほゆうする専業せんぎょう兼業けんぎょうかかわらないすべてのあきないにかかわるみん対象たいしょうであり、#豪族ごうぞくべるそもそもしょう政策せいさく一環いっかんでもある。さん緡令には罰則ばっそくがあり、家長かちょう報告ほうこくしなかった場合ばあい売上うりあげ利益りえき没収ぼっしゅうのうえ労働ろうどう1ねん財産ざいさんいつわって報告ほうこくしたもの財産ざいさん没収ぼっしゅううえ国境こっきょう警備けいび5ねんというきびしいものである。

たいするぜいりつ規定きていされ、かんはつ収穫しゅうかくだかの15ぶんの1をおさめるとされていたが、かん実態じったい把握はあく放棄ほうきして次第しだい耕田こうだ面積めんせきたりの定額ていがくぜいとなり、穀類こくるいいねまぐさよう干草ほしくさわらなど品目ひんもくごとに納税のうぜいりょう設定せっていされた。ぶんみかど時代じだいには廃止はいしされ、けいみかど時代じだいに1/30の税率ぜいりつ復活ふっかつした。

労働ろうどうぜいばれ、かぞえ15さいから60さいまでの男女だんじょが、かんはつは6ヶ月かげつに1がつぶんみかど以降いこうは12ヶ月かげつに1がつ割合わりあいで、在地ざいちこおりけんでの就労しゅうろう義務付ぎむづけられた。つき300ぜに納付のうふにより免除めんじょされさらんだ。

兵役へいえきは、かぞえ17さいから60さいあきらみかど以降いこうかぞえ23さいから55さい)の男性だんせい年間ねんかん1がつ兵役へいえきされ、1ねん訓練くんれん期間きかんのぞくととし11カ月かげつ生涯しょうがい通算つうさん3ねんあるいは2ねんぶん兵役へいえき存在そんざいした。1年間ねんかん(11カ月かげつ)の訓練くんれんのち在官ざいかん予備よびやく)とり、年間ねんかん11カ月かげつ衛士えじ都城みやこのじょうでの衛兵えいへい勤務きんむ)をつとめ、代行だいこう相場そうばつき2000ぜにで践更とばれた。また、かぞえ15さいから60さい男女だんじょには、年間ねんかん3にち(生涯しょうがいで132にち、99にち)のいぬへい(辺境へんきょう防備ぼうび)もしくは3にちにつき300ぜにされ、辺境へんきょう防備ぼうび従事じゅうじしゃには給与きゅうよとして1にち6ぜにあるいは8ぜに支給しきゅうされ、いぬそつ給与きゅうよ支払しはらわれ複数ふくすうねんわたってつとめる職業しょくぎょう軍人ぐんじんかたちをとった。

しょうぜいうらない租律に規定きていがあり、商品しょうひん売上うりあげ手工業しゅこうぎょうひん販売はんばい高利貸こうりかし上限じょうげん利率りりつ月利げつり3%程度ていどか)などの利益りえき課税かぜいされ、登録とうろく業者ぎょうしゃ毎月まいつきごとに、未登録みとうろくものはその徴収ちょうしゅうされた。くわしい税率ぜいりつわかっていないが、最小さいしょう2%~最大さいだい10%のあいだにあるとされる。

穀物こくもつまぐさ以外いがい果物くだもの野菜やさい染料せんりょう繊維せんいぎょう林業りんぎょう牧畜ぼくちくぎょう養殖ようしょく漁業ぎょぎょうてつのぞ鉱業こうぎょう冶金やきん牧畜ぼくちくぎょうなどの、以外いがいからの生産せいさんぶつたいしてはおそらく1/10のぜいされていたとされる。

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

[96]

なりみかどかれたのうしょ氾勝これしょ』には当時とうじ生産せいさんされていた農産物のうさんぶつとして、キビムギイネヒエダイズカラムシアサウリヒサゴイモクワなどをげている[121]

戦国せんごく時代じだい鉄製てつせい農具のうぐうしこう普及ふきゅう二毛作にもうさくにより、生産せいさんりょく向上こうじょうしたとおもわれる。前漢ぜんかんだい開発かいはつすすんだ北部ほくぶ稲作いなさく地域ちいき人口じんこう集中しゅうちゅうしていたため、淮河以南いなんおお稲作いなさく地域ちいきでは中期ちゅうきごろまで技術ぎじゅつ発展はってん途上とじょうで、苗床なえどこつくられず二毛作にもうさくおこなわれていない。

漢書かんしょしょく貨志はたけみかど末期まっきちょう考案こうあん代田しろたほうという耕田こうだ・閑休全面ぜんめんこうおこりする農法のうほうしるしている。具体ぐたいてき内容ないよう記述きじゅつ曖昧あいまい解釈かいしゃく議論ぎろんがあるが、2とうのウシと3にん人間にんげんによりおこなわれるものとされる。しかし民間みんかんでウシとうものすくなくあまりこのまれなかった。そこでウシを使つかわない方法ほうほう考案こうあんされたという[122]。また『氾勝これしょ』にはほうという農法のうほうしるされている。

牧畜ぼくちくは、農民のうみんあいだでもブタニワトリイヌなどの飼育しいく一般いっぱんてきおこなわれており、家畜かちく小屋こや併設へいせつされていた遺跡いせき多数たすう発掘はっくつされている。ウマウシ生産せいさんは、これとはべつ官有かんゆうだい規模きぼ牧場ぼくじょう豪族ごうぞく牧場ぼくじょうおこなわれ、とく遠征えんせい相次あいついだたけみかどにはウマの生産せいさん奨励しょうれいされたため、うまさん財産ざいさんきずものおおかった。

手工業しゅこうぎょう[編集へんしゅう]

[96][123]

戦国せんごく時代じだいからはたかんにかけては冶金やきんぎょう窯業ようぎょう手工業しゅこうぎょう発展はってん時期じきでもある。

手工業しゅこうぎょうまかなわれたのはにち用品ようひん服飾ふくしょくひん装飾そうしょくひん酒類しゅるいなどのほか一般いっぱんみんではつくない特別とくべつ道具どうぐたとえばどう製品せいひん陶磁器とうじき鉄製てつせい農具のうぐなど)や奢侈しゃしひんなどである。

王侯おうこう使用しようする高度こうど技術ぎじゅつひんおも官営かんえい工場こうじょうであるひさしかたこうこうしつ東園ひがしぞのたくみしつなどがつくり、しょうだいつかさみのり管轄かんかつした。ひさしかたではかん使用しようするための武器ぶき装飾そうしょくひん銅器どうきなどがつくられ、こうこうしつではより実用じつようてき武器ぶき漆器しっき鉄器てっきなどがつくられた。東園ひがしぞのたくみでは貴人きじん埋葬まいそう使つかうためのかん明器めいき埋葬まいそうしゃ死後しご使つかうためにかれる実物じつぶつした土器どき)などがつくられ、しつでは儀礼ぎれいよう織物おりものつくられた。まただいつかさみのりでは農民のうみん支給しきゅうする鉄製てつせい農具のうぐつくられた。

民営みんえい工業こうぎょうとしておおきなモノは、製塩せいえんしょだい規模きぼ高炉こうろ鉄器てっき銅銭どうせんもちいるだい規模きぼ鉱山こうざんなどが存在そんざいした。それ以外いがいにもさけ絹織物きぬおりものなどが手工業しゅこうぎょうとして成立せいりつしていた。

専売せんばいせい[編集へんしゅう]

[96][123]

たけみかど紀元前きげんぜん119ねんはじまったしおてつ専売せんばいせい国家こっか財政ざいせい重要じゅうよう位置いちめ、たけみかど末期まっきにはすで不可欠ふかけつとなっていた。しおてつ製造せいぞうされた産物さんぶつすべ国家こっかり、とくだい規模きぼ製鉄せいてつしょ国家こっかにより運営うんえいされ、密造みつぞう厳罰げんばつしょせられた。しお製造せいぞう管理かんりする官吏かんりしおかんび、てつほうてつかんぶ。しかし密造みつぞうおこなものおおく、それらは官製かんせいのものにくら安価あんかであった。

たけみかど死後しごに「民衆みんしゅう利益りえきあらそうのは儒の倫理りんりはんする」として専売せんばいせい廃止はいしはなわれ、のちに『しおてつろん』という書物しょもつまとめられた。

そのの11だいもとみかどになると儒教じゅきょう信奉しんぽうしゃであるもとみかど意向いこうにより、一時期いちじき廃止はいしされた。しかし財政ざいせい逼迫ひっぱくし、すぐにもどされた。

農村のうそん都市とし[編集へんしゅう]

[96][124]

当時とうじ農民のうみんの1家族かぞく平均へいきんてき人数にんずうは5にん一家いっか所有しょゆうする農地のうち)は大体だいたい100うね耕作こうさくは50~70うね年間ねんかん125~210せき前後ぜんこう(3.5tから5.9t)ほどの収穫しゅうかくがあった。ないもの戸主こしゅ筆頭ひっとうとして戸籍こせき登録とうろくされ、これをもと課税かぜい徴兵ちょうへいおこなわれた。

次男じなん三男さんなんがいた場合ばあいには分家ぶんけした、分家ぶんけ場合ばあいわたし有田ありたではなく官給かんきゅうでん支給しきゅうされて耕作こうさくするか、かん権勢けんせいした小作こさくとなり、所有しょゆうでん1人ひとりぐのが基本きほんであった。

おおむね100まとまってさと(100とはかならずしもかぎらない)となり、そのさとがいくつかあつまった集落しゅうらくおおきさや重要じゅうようによってうえからけんさとちんばれるようになる[# 11]

かん以前いぜん戦国せんごく時代じだいにおいては集落しゅうらく基本きほんてきしん石器せっき時代じだいから春秋しゅんじゅう時代じだいまでの都市とし国家こっかながれをくむ城塞じょうさい都市としであり、これをぶ。邑は元々もともとせいおなじくする氏族しぞくいちまとまりになって生活せいかつする共同きょうどうたい異姓いせいもの排除はいじょされていたが、かんだいにはすで戦国せんごく時代じだい人口じんこう流動りゅうどうることでそのよう区別くべつうしなわれていた。集落しゅうらく周辺しゅうへんはんちくきずかれた城壁じょうへきかこい、さら内部ないぶさとごとに土塀どべい(閭)で区切くぎられていた。閭にはひともん(閭門)がもうけられており、夜間やかんに閭門をけることはきんじられていた。農民のうみんあさになると城門じょうもんけて集落しゅうらくそとて、耕作こうさく従事じゅうじし、にちれるとまたもんけて集落しゅうらくなかもどってくるというサイクルをかえす。まずしいもの城壁じょうへきそといえかまえ、よりとおくにあるまで生活せいかつをしていた。

集落しゅうらく中心ちゅうしんにはしゃ(しゃ)があり、祭礼さいれいおこなわれた。有力ゆうりょくしゃ父老ふろうばれ、まとやくとなる。父老ふろうなかからけんさんろうさとさんろうえらばれ、それぞれけんさとまとやくとなった。またおおきな集落しゅうらく中心ちゅうしんにはがあり、交易こうえきおこなわれ、集落しゅうらくものあつまるとなった。自然しぜん発生はっせいてきなものだったが、しんだい以降いこう官吏かんりにより管理かんりされた。そのため罪人ざいにん処刑しょけいおこなわれる。

首都しゅと長安ながやす[編集へんしゅう]

[125]

かん長安ながやすしろ現在げんざい西安しーあんから北西ほくせいに5kmほどはなれた渭水南岸なんがんにあり、渭水の対岸たいがんにははた咸陽しろがあった。高祖こうそはじめはしゅうであった洛陽らくようかまえるつもりであったが、婁敬ちょうりょう進言しんげんにより長安ながやすとし、そのしょうなにによって広壮こうそう宮殿きゅうでんつくられた。1956ねんより遺跡いせき発掘はっくつすすめられている。

かん長安ながやすとう長安ながやすとはちがい、方形ほうけいではなくいびつかたちをしていた。それぞれ城壁じょうへきひがしは5940m・西にしは4550m・みなみは6250m・きたは5950mある。東西とうざい南北なんぼくに3つずつのけい12のもんがあり、これも夜間やかんにはじられる。おも建築けんちくぶつとして、

  1. 長楽ながらみや
    • ひがし南部なんぶにあり、これはもとはた咸陽の離宮りきゅうであった。高祖こうそはここにんだが、その皇后こうごう住居じゅうきょとなった。
  2. 未央みおみや
    • 西南せいなんにあり、しょうなににより建造けんぞうされ、めぐみみかど以後いご皇帝こうてい住居じゅうきょとなった。
  3. 北宮きたみや
    • そのとお北部ほくぶにあり、はいされた皇后こうごうなどがんだ。
  4. かつらみや
    • これも北部ほくぶにあり、たけみかどときつくられた。

また丞相じょうしょうなどのさんおおやけきゅうきょうがあったが具体ぐたいてき位置いち不明ふめい北西ほくせいにはひがし西市さいちがあった。

長安ながやす城内きうち人口じんこう戸籍こせきによれば24まん6200にんである。

爵制[編集へんしゅう]

[126]

かんじゅうとうせいしんのものをいでおり、最低さいていいちおおやけから最高さいこうじゅう列侯れっこう[# 12]までの全部ぜんぶで20段階だんかいあり、列侯れっこううえ諸侯しょこうおうがあり、さらにそのうえ皇帝こうていがある。

爵位しゃくいっているものはそれとえに減刑げんけい特権とっけんがあり、これをもとめて金銭きんせんによる売買ばいばいおこなわれた。

  1. おおやけ
  2. うえづくり
  3. かんざし
  4. さら
  5. 大夫たいふ
  6. かん大夫たいふ
  7. おおやけ大夫たいふ
  8. おおやけじょう
  9. 大夫たいふ
  10. ひだり庶長
  11. みぎ庶長
  12. ひだりさら
  13. ちゅうさら
  14. みぎさら
  15. しょううえづくり
  16. 大上おおがみづくり
  17. しゃ庶長
  18. だい庶長
  19. 関内かんないこう
  20. 列侯れっこう

かんだいにおいては皇帝こうてい即位そくい皇太子こうたいし元服げんぷくなどの慶事けいじさいして一般いっぱんみんたいしても一律いちりつ爵位しゃくい授与じゅよおこなわれており、前漢ぜんかんこうかんわせて200をえた回数かいすうおこなわれていて、年齢ねんれいたかくなればそれだけ爵位しゃくいたかくなる。かんおこなった爵位しゃくい授与じゅよ当時とうじ崩壊ほうかいしつつあった「秩序ちつじょ」、年長ねんちょうのものがえらいという秩序ちつじょを「(年齢ねんれいおうじてたかくなる)爵位しゃくい秩序ちつじょ」によってさい構成こうせいする目的もくてきがあったとされる。

ななおおやけ大夫たいふまでは民衆みんしゅうでもることが出来でききゅうからうえ官吏かんりでなければることはできない。

豪族ごうぞく[編集へんしゅう]

[96][124]

一般いっぱん農民のうみんいえは5にん程度ていどであったが、豪族ごうぞくは2かいて・3かいての豪邸ごうていすう世代せだい家族かぞく同居どうきょした。また、所有しょゆうする土地とち小作こさくじん奴婢ぬひ使役しえきして耕作こうさくさせた。小作こさくじん収穫しゅうかくの1/2程度ていど地主じぬしおさめた。豪族ごうぞくさと父老ふろうとなる場合ばあいおおかった。郷里きょうり選挙せんきょ一族いちぞくもの官吏かんりになれば、さら影響えいきょうりょくった。

戦国せんごく時代じだいから商業しょうぎょう発達はったつしたことによる貨幣かへい経済けいざい進展しんてんもとになった。あきないに従事じゅうじする勢力せいりょくおさえるため前漢ぜんかんでは度々たびたびそもそもしょう政策せいさくっており、#税制ぜいせいべた税制ぜいせいじょうでの差別さべつ#身分みぶんせいける差別さべつ政策せいさくおこなったが、あまり効果こうかはなかった。鼂錯はそもそもしょう政策せいさく一環いっかんとして穀物こくもつぜいおさめたもの爵位しゃくいあたえると政策せいさく提案ていあんした。農民のうみんたち収入しゅうにゅう穀物こくもつであり、徴税ちょうぜい一斉いっせい農民のうみん穀物こくもつることで商人しょうにんたたかれていたのである。このさくにより商人しょうにん積極せっきょくてき穀物こくもつもとめて、農民のうみん金銭きんせんおおはいり、窮迫きゅうはくぼうくことを意図いとした。最高さいこうで18高位こういまでることができ、この政策せいさく効果こうかげた。

そもそもしょう政策せいさく特筆とくひつすべきはたけみかどひとし輸・平準へいじゅんほうである。これらの政策せいさくたけみかどした経済けいざいてき手腕しゅわんるったくわひろひつじ実施じっししたものである。ひとし輸法は全国ぜんこく物価ぶっか調査ちょうさしてやす地方ちほう高額こうがく物資ぶっし穀物こくもつい、たかところはらうことで国家こっか収入しゅうにゅうとも物価ぶっか地域ちいき格差かくさならすものである。平準へいじゅんほうやす時期じき高額こうがく物資ぶっし穀物こくもつんで国庫こっこんでおき、それが高騰こうとうしたときして国家こっか収入しゅうにゅうとも物価ぶっか安定あんていはかるものである。この政策せいさく物価ぶっか安定あんていともに、商人しょうにん物資ぶっし輸送ゆそう取引とりひき介在かいざいすることによって利益りえきあたえることをふせ目的もくてきがある。この政策せいさく効果こうかげた。

たけみかどそもそもしょう政策せいさく銖銭の発行はっこう増税ぞうぜいによる耕作こうさく放棄ほうき進行しんこう土地とち併呑へいどんともな豪族ごうぞく奴婢ぬひ小作こさくじんかこみ、周辺しゅうへん郷里きょうりとの関係かんけいふかめて共同きょうどうたい形成けいせいしていく。

遊侠ゆうきょう[編集へんしゅう]

[127]

遊侠ゆうきょうは、つみおかした逃亡とうぼうしゃ正業せいぎょうかないもの生活せいかつ破綻はたんした没落ぼつらくしゃなどが、無頼ぶらいなどおおやけそと位置いちするようになった存在そんざい。それをりまとめたものが『史記しき』『漢書かんしょ』の遊侠ゆうきょう列伝れつでんおさめられているしゅげきはじめといった人物じんぶつであり、その勢力せいりょく豪族ごうぞくどころか中央ちゅうおう政府せいふすら無視むしないものになっていた。

たとえばすわえななこくらんさい政府せいふがわそう大将たいしょうであったしゅうおっとげきはじめたいして「もう諸侯しょこうたちが貴方あなた味方みかたにつけているとおもったが、そうではなかった。これでひがしには心配しんぱいするものがいない。」とべている。くに二分にぶんする大乱たいらんにおいて影響えいきょうりょく発揮はっき出来できたということである。

遊侠ゆうきょう任侠にんきょう精神せいしん前漢ぜんかんのある時期じきまでは遊侠ゆうきょうまらず、おおくの人間にんげん関係かんけい敷衍ふえんされており、皇帝こうてい豪族ごうぞく母体ぼたいとする官吏かんり関係かんけい任侠にんきょう精神せいしんもとづくめんがあるとべている。『史記しき』『漢書かんしょ』にある「遊侠ゆうきょう列伝れつでん」と『こう漢書かんしょ』にある「方術ほうじゅつ列伝れつでん」「逸民いつみん列伝れつでん」はそれぞれ前漢ぜんかんこうかん時代じだい精神せいしんちがいを如実にょじつしめしているとえる。

身分みぶん制度せいど[編集へんしゅう]

[96]

律令りつりょう差別さべつされたのは奴婢ぬひ罪人ざいにんであり、一般いっぱんみんは庶人ないし良人りょうじん良民りょうみん)とばれる。

やつおとこ奴隷どれい・婢はおんな奴隷どれいのことで、つみおかしてかん奴隷どれいとなったもの借金しゃっきん飢餓きがによりったもの該当がいとうする。わたし奴婢ぬひおもがこさき豪族ごうぞくであり、豪族ごうぞく所有しょゆうする耕作こうさく手工業しゅこうぎょうたずさわった。政府せいふ管理かんりされるかん奴婢ぬひもあり、つみおかしたものつみおかした官吏かんりとその家族かぞく戦争せんそう捕虜ほりょなどが供給きょうきゅうげんで、国有こくゆうかん)の耕作こうさく土木どぼく工事こうじなどに使役しえきされた。

奴婢ぬひ罪人ざいにんとはべつに庶人階級かいきゅうなか蔑視べっしされていたのが商人しょうにん職人しょくにんといった職業しょくぎょうである。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

史書ししょ(『こう漢書かんしょ』)によれば、こうかんだい西暦せいれき105ねん蔡倫樹皮じゅひやアサのぼろからかみつくり、かずみかど献上けんじょうしたとしるしているため、従前じゅうぜんかみ発明はつめいしゃは蔡倫とされていた。しかし、前漢ぜんかんだい遺跡いせきからかみ原型げんけいとされるものが多数たすうつかっている。世界せかい最古さいこかみ中国ちゅうごく甘粛かんせいしょううまなだ(ほうばたん)から出土しゅつどしたものとかんがえられ、前漢ぜんかん時代じだい地図ちずかれている。年代ねんだいてきには紀元前きげんぜん150ねんころのものと推定すいていされている。

思想しそう[編集へんしゅう]

かんだい思想しそうおおまかにえば、前漢ぜんかん初期しょきには権勢けんせい中心ちゅうしんとするろう思想しそうはた以来いらいけいめい思想しそう流行りゅうこう時代じだいとも支配しはいそうにも儒教じゅきょうひろまり、おう莽から光武みつたけみかど時代じだいにかけて儒教じゅきょう国家こっかぶべき体制たいせい出来上できあがったとえる。

儒教じゅきょう[編集へんしゅう]

[96][128][129]

あるものは当時とうじ書体しょたいである隷書れいしょたいかれており、べつのものは隷書れいしょたい以前いぜん書体しょたいかれていた。このことから前者ぜんしゃこんぶん後者こうしゃ古文こぶんという。内容ないよう基本きほんてきおなじであるが、微妙びみょう差異さいがあり、どちらがよりまさしく聖人せいじんおしえをつたえているかが論争ろんそうになった。さら当時とうじ経学けいがく経書けいしょひとつを専門せんもんてきまなぶものであり、そのためどの経書けいしょまなぶかでこれも学派がくは様々さまざまかれることになった。いちれいげれば『尚書しょうしょ』(『しょけい』)においてはふくしょうかべんで焚書ふんしょなんのがれたという『こんぶん尚書しょうしょ』とけいみかど時代じだい孔子こうし旧宅きゅうたくかべなかから発見はっけんされたという『古文こぶん尚書しょうしょ』がある。

このうち、『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』をまなおおやけひつじ学派がくは立場たちばから儒教じゅきょうあたらしい地平ちへいひらいたといえるのがただしなかである。ただしなか舒はたけみかどたいして天人てんにん相関そうかんせつわざわい異説いせつとなえ、儒教じゅきょう教義きょうぎ皇帝こうてい支配しはいというかん支配しはい形態けいたい正当せいとうけるように再編さいへんした。ただしなか舒はたけみかどたいして儒家じゅか官僚かんりょうとして登用とうようすること・五経ごきょう博士はかせ設置せっちなどを建言けんげんした[# 13]

五経ごきょう博士はかせとは五経ごきょうである『』・『しょ』・『れい』・『えき』・『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』それぞれをせんもんまな博士はかせのことで、のちせんみかどとき増員ぞういんされてじゅうとなっている。

テキストがばらばらなのは不便ふべんであるためなりみかどりゅうむかいりゅう親子おやこにより、テキストの整理せいりおこなわれて一本いっぽんされた。現在げんざいつたわる経書けいしょはこのとき整理せいりされたものにもとづくものがおおい。

またりゅうむかいりゅう親子おやこ古文こぶんであり、この時代じだいあたらしく発見はっけんされた古文こぶんである『春秋しゅんじゅうひだりでん』・『しゅうあや』がはやされるようになる。のち、『しゅうあや』はおう莽の政権せいけん樹立じゅりつさい論理ろんりてき根拠こんきょとして使つかわれ、『ひだりでん』はすすむ以降いこう三伝さんでんなか中心ちゅうしんてき位置いちめることになる。

また前漢ぜんかん末期まっきにはぬきしょ流行りゅうこうせることになる。これにかんしては#神秘しんぴ思想しそう後述こうじゅつ

神秘しんぴ思想しそう[編集へんしゅう]

[130]

たとえばたけみかど傾倒けいとうした神仙しんせん思想しそう当時とうじ流行りゅうこうしたみこなど。そして神秘しんぴ思想しそうなかでも高度こうど理論りろんされ、後世こうせいにもつよ影響えいきょうあたえたものとして陰陽いんようぎょうせつ天人てんにん相関そうかんせつわざわい異説いせつがある。

陰陽いんようぎょうせつはこのすべての事象じしょうきんすいぎょう分類ぶんるいされ(たとえば方角ほうがくひがしみなみ中央ちゅうおうきむ西にしみずきたとなる。)、それが循環じゅんかんすることでこのっているというかんがえである。天人てんにん相関そうかんせつわざわい異説いせつ万物ばんぶつ総覧そうらんしゃたるてん人間にんげん連関れんかんしあっておりもし人間にんげんあやまったおこないをした場合ばあいたとえばとき皇帝こうてい暴政ぼうせいおこなうと、てんはこれにたいして天災てんさいこすというかんがえである。

ぎょうもとづいてかんはどれにてはまるかが前漢ぜんかんつうじてなんはなわれており、紀元前きげんぜん104ねん一旦いったんかんとく王朝おうちょうであるとされた。はたみずとく王朝おうちょうであるとされており、そのはたかつした[# 14]のでとくとされたのである。しかしかんとく王朝おうちょうであるとの主張しゅちょうあいみかどりゅうむかいりゅう歆親によってなされた。りゅう歆によればしゅう木徳きとくであり、そこからまれたかんとくであるとする[# 15]。これがおう莽によって是認ぜにんされ、以後いごかんとく王朝おうちょうとされた。こうかんまつきたはばらんかんから禅譲ぜんじょうけたたかし最初さいしょ元号げんごうはつであることは黄色おうしょくとくつぎとく[# 16]いろだからである。

天人てんにん相関そうかんせつわざわい異説いせつただしなか舒がとなえたものであり、この時代じだい儒教じゅきょう多分たぶんにこういった神秘しんぴ思想しそうふくむものであった。ただしなか以降いこうになるとこの神秘しんぴせいさらつよくなり、未来みらいまでもこれにより予言よげんできるとされた。これを讖緯という。

讖とは自然しぜん現象げんしょうなんらかのメッセージをのこすことであり、たとえばあきらみかど時代じだいっぱの虫食むしくあと文字もじになっており「公孫こうそんびょうやめりつ」とめたという。これはのちせんみかどやまいやめせんみかどいみな)が皇帝こうていになることをしめしていたとされた。ぬきとは経書けいしょたいしてのぬきしょのことである。聖人せいじんおしえをきした経書けいしょであるが、経書けいしょはその大綱たいこうしめしたものであり、現実げんじつ事柄ことがらいてはぬきしょしるされているとされた。けいはたていと・ぬきはよこいとのことで、たていととよこいとがそろってはじめてぬの出来上できあがるようにぬきしょがあってこそ聖人せいじんおしえが理解りかいできるとされた。しかしその実態じったいかんだいひとによる偽作ぎさくであるとかんがえられる。なおこの讖緯のことをしるした書物しょもつすべてをひっくるめてぬきしょ場合ばあいもある。

前漢ぜんかんまつにはこのぬきしょだい流行りゅうこうし、ぬきしょまなばないものは学界がっかい相手あいてにされないような状態じょうたいになった。この状況じょうきょう最大限さいだいげん利用りようしたのがおう莽である。たとえばあるもの井戸いどをさらったところ、そのなかからいしてきてそこには「あんかんこう莽にぐ、皇帝こうていれ。」とかれていたとおう莽に報告ほうこくされ、これをけてかり皇帝こうていとなった。もちろんこのいし自体じたいおう莽の仕込しこんだことであるとおもわれる。前述ぜんじゅつしたかんとく王朝おうちょうとしたこともおう莽が自身じしんしゅん子孫しそんであると吹聴ふいちょうしていたことにつながっている[# 17]

道家みちや[編集へんしゅう]

[96][128][129]

みかどろう老子ろうしのことで、道家みちや分派ぶんぱひとつである。信奉しんぽうしゃとしてがるのは、高祖こうそ功臣こうしん一人ひとり曹参である。曹参はひとし丞相じょうしょうつとめていたさいに、ぶたこうなる人物じんぶつがこのろうみち体得たいとくしていたので、その言葉ことばいてひとしおさめたという。その、曹参はしょうなにあとけて中央ちゅうおう丞相じょうしょうとなったが、しょうなん方針ほうしん遵守じゅんしゅし、くにおさめた。

これ以外いがいにもけいみかどはは竇太きさきろうみち信奉しんぽうしていたとい、当時とうじ支配しはい階層かいそうあいだろう主流しゅりゅうであったことがかる。『史記しき』「らくあつし列伝れつでん」には曹参にいたるまでのろうみちがくみつるしるされており、河上かわかみ丈人たけとという人物じんぶつがそのはじめにある。この人物じんぶつ何者なにもの実在じつざい人物じんぶつかどうかも不明ふめいである。

仏教ぶっきょう[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょう中国ちゅうごく伝来でんらいいてはもと寿ことぶき元年がんねん紀元前きげんぜん2ねん)につきつうじて『浮屠ふときょう』が伝来でんらいしたというのが諸説しょせつなかでももっとはやいものの1つとなっている[# 18]が、前漢ぜんかんだいには社会しゃかいへの影響えいきょうりょくはほとんどかった。ただし、意匠いしょう装飾そうしょくとしての仏像ぶつぞうが、早期そうきより伝来でんらいしていたことしめ遺物いぶつこうかん以降いこうにもられ、東西とうざい交流こうりゅう結果けっか仏教ぶっきょう片鱗へんりん前漢ぜんかんだいより中国ちゅうごく伝来でんらいしていた可能かのうせい想定そうていされている[131]

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

歴史れきし[編集へんしゅう]

[96]

歴史れきし分野ぶんやげるべきはなにっても司馬しばの『史記しき』である。じゅうよんだいいちであり、後世こうせい歴史れきしあたえた影響えいきょうおおきい。『史記しき』は司馬しば遷の個人こじん著作ちょさくとしてかれたものであるから、史書ししょちが自由じゆう司馬しば遷の思想しそうあらわれており、文学ぶんがく作品さくひんとしてもたか評価ひょうかがある。

史記しき以外いがいではりくすわえかん春秋しゅんじゅう』、りゅうむかい戦国せんごくさく』『しんじょ』『せつえん』などがげられる。

漢詩かんし[編集へんしゅう]

[96][132][133]

前漢ぜんかんだいには漢詩かんしたとえばもりはじめ李白りはくのような)はまだ確立かくりつした存在そんざいではなく、そのもととなる2つのながれが存在そんざいしていた。

1つは『詩経しきょう』を源流げんりゅうとする歌謡かようながれである。歌謡かようという言葉ことばしめすように『詩経しきょう』におさめられている元々もともと音楽おんがく舞踏ぶとうとも演奏えんそうされるものであった。このながれをけて、たけみかどらく(がくふ)という部署ぶしょつくり、のべねんをその主管しゅかんとし、民間みんかん歌謡かようおよび西域せいいきからもたらされた音楽おんがく収集しゅうしゅうし、あたらしい音楽おんがくながれをつくした。このようなものをらくたい(がふたい)と[# 19]らくはその種類しゅるいによって7・8種類しゅるい楽器がっき使つかう。管楽器かんがっきでは大型おおがたしょうzh:竽)・しょうふえしょう弦楽器げんがっきでは大型おおがたきんzh:瑟)・きん箜篌くごハープ楽器がっきzh:箜篌くご)・琵琶びわなどである。らくたいおおきな特徴とくちょう五言ごごんであること、またくらべて表現ひょうげんうえでは質素しっそであり、民間みんかん歌謡かよう淵源えんげんとしていることから民衆みんしゅう素朴そぼく感情かんじょうていることなどである。これの代表だいひょうとしてはのべねんの「うた」がげられる。

もう1つは『すわえ』を源流げんりゅうとするながれである。戦国せんごくから前漢ぜんかん初期しょきにはすわえふう七言しちごんである「すわえごえうた」とばれるさかんにうたわれた。たとえば高祖こうその「大風おおかぜうた」、項羽こううの「垓下のうた」などである。それがたけみかど司馬しばしょういた大成たいせいされ、成立せいりつする。特徴とくちょうとしてはまず『すわえ』をいで七言しちごんであること、そしてある事柄ことがらいて描写びょうしゃ描写びょうしゃかさうつくしい言葉ことば対句ついくくされたあるしゅ過剰かじょうなまでの表現ひょうげんである。司馬しばしょう如以がいとしては賈誼たけみかどげられる。司馬しばしょう如の代表だいひょうさくとして「上林うえばやし」がげられる。

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

前漢ぜんかんすでに2せんねんまえのことであり、そのあいだ幾多いくた戦乱せんらんき、かんだい美術びじゅつひん地上ちじょう世界せかいにはほとんどのこらなかった。現在げんざいのこかんだい美術びじゅつひんはほとんどが地下ちか世界せかい墳墓ふんぼなかかまあとなどなかまっていたものである。このようなものを中古ちゅうこという。

墳墓ふんぼ[編集へんしゅう]

ひだり: 陝西せんせいしょう咸陽西にしかん軍人ぐんじんはかから出土しゅつどした騎兵きへい陶磁器とうじき
みぎ: 西にしもしくはひがしかんなまりくらがある青銅せいどうぞう

[96][135][136]  

かんだい墳墓ふんぼからは副葬品ふくそうひん食器しょっき家具かぐなどが大量たいりょうてくる。王侯おうこう墳墓ふんぼなどは実物じつぶつそのものをれる場合ばあいもあったが、それであると費用ひよう莫大ばくだいになってしまうため、実際じっさいのものをした土器どきわりにれた。これを明器めいきという。明器めいき非常ひじょう趣向しゅこうみ、食器しょっき家具かぐ家屋かおくにわとりいぬなどの動物どうぶつまわりの世話せわをするための奴隷どれいさらには楽師がくし芸人げいにんといったものまであり、当時とうじ生活せいかつ様子ようす物語ものがたってくれる。もちろん本物ほんもの青銅器せいどうき陶磁器とうじき漆器しっき大量たいりょう出土しゅつどしている。そのほかの副葬品ふくそうひんとしてたけ木簡もっかんるいつかることがあり、かんだい貴重きちょういち史料しりょうとなっている。

かんだい出土しゅつどぶつとして特筆とくひつすべきもののひとつにうま王堆漢おうたいかんつかった、保存ほぞん状態じょうたい良好りょうこう女性じょせい遺体いたいがある。彼女かのじょちょうすなこく丞相じょうしょうつとめたあおつまで、発見はっけんには頭髪とうはつ皮膚ひふもきちんとのこっていた。しかも皮膚ひふには弾力だんりょくのこされており、ゆびすともともどった。

もうひとつはりゅうまさるはかまんしろかんはかなどで発見はっけんされているきむ縷玉ころもである。たまいたすうせんまいかねいとげ、これをもって遺体いたいぶたっている。地位ちいによってぎん縷・どう縷の3段階だんかいがあり、絹糸けんしいと縷もある。たまには腐敗ふはいから死体したいまも効果こうかがあるとしんじられていた。『西京にしぎょう雑記ざっき』にはこのかね縷玉ころもいてかれていたのだが、莫大ばくだい費用ひようがかかるかね縷玉ころも実際じっさいつかるまでは誇張こちょうであるとおもわれていた[# 20]

絵画かいが[編集へんしゅう]

[135][136]

墳墓ふんぼかべには壁画へきがえがかれていることがおおく、神話しんわ歴史れきし故事こじ戦争せんそうあるいは被葬ひそうしゃ人生じんせいなどその題材だいざい多岐たきにわたる。またかべ装飾そうしょく彫刻ちょうこくほどこしている場合ばあいおおいが、立体りったいせいはほとんどなく、これは彫刻ちょうこくというよりも絵画かいがるいるべきものである。このようなものを画像がぞうせきぶ。宮殿きゅうでん装飾そうしょくなどには非常ひじょうだい規模きぼ彫刻ちょうこくほどこされたとの記録きろくがあるが、現存げんそんしていない。

壁画へきが以外いがい特筆とくひつすべきはうま王堆漢おうたいかんより発見はっけんされた『彩絵さえ帛画』である。上部じょうぶ天上てんじょう世界せかいでありみぎ太陽たいようなかにちがらすつきなかヒキガエル羿つま嫦娥じょうが変化へんかした姿すがた)がいる。太陽たいようつきあいだにはおんながいる。中央ちゅうおう現世げんせいであり被葬ひそうしゃあおつま次女じじょれている。下部かぶ地底ちてい世界せかいであり大地だいちささえるきょじんかめなどがえがかれている。

陶磁器とうじき[編集へんしゅう]

[137]

かんだい陶磁器とうじきひろく釉薬がもちいられるようになり、陶磁器とうじき歴史れきしにおいて契機けいきとなった時期じきである。

戦国せんごくでははい釉が主流しゅりゅうなまりもあったが、出土しゅつどれいすくない。それがかんだいになると急速きゅうそく普及ふきゅうし、みどり釉(酸化さんかどう)がさかんに使つかわれ(ギャラリーのさけみどり釉)さんそく様式ようしきとも流行りゅうこうし、そのに褐釉(酸化さんかてつ)や釉・青磁せいじひろつくられた。みどり釉と褐釉はてい温度おんど(800ほど)でかれ、みどり釉陶のおも用途ようととうつぼばれる遊戯ゆうぎよう祭器さいきであった。釉陶はしゅとして酒樽さかだるもちいられた、青磁せいじ高温こうおん(1300ほど)でかれ、おもびん保存ほぞん容器ようきなどに使つかわれた。その醤油じょうゆあぶらなどの調味ちょうみりょう保存ほぞん水瓶みずがめさじさらなど様々さまざま食器しょっきさけ坏に陶磁器とうじきもちいられた。

上流じょうりゅうそう日常にちじょうてき食器しょっきとして青磁せいじ釉陶を、祭祀さいしようみどり釉陶などを使つかい、下流かりゅうそうはい釉の陶器とうきおも使つかっていたようである。

服飾ふくしょく[編集へんしゅう]

[138]

湖南こなんしょうちょうすなうま王堆漢おうたいかんより出土しゅつどされたきぬはたちょうすな王国おうこく高官こうかんあお侯爵こうしゃくつまからしおいかんけられていた。[134]

かんふくZH:中國ちゅうごく服飾ふくしょくなども参照さんしょう

かんだいにおいてしゅうだいよりつづふかころも男性だんせいはあまりなくなった。ふかころもとは十二単じゅうにひとえのようにほうというころもなんまいかさねてるものである。しかし活動かつどうてきかん帝国ていこくにはこれは似合にあわず、かさせずにほうが1まい下着したぎが1まいというのが一般いっぱんてきになった。

身分みぶんたか男性だんせいは「ちょうほう」とばれるひざくらいまである上着うわぎと「褲」というはかまと「ぜん」という下着したぎ上下じょうげつながっている)をる。ちょうほうはすそのかたちきょくすそちょくすそかれる。もときょくすそ正式せいしき礼服れいふくであり、ちょくすそ公式こうしきではてはいけなかった。しかし次第しだいきょくすそすたれていき、ちょくすそ主流しゅりゅうとなった。ぜんそとにいるときは下着したぎであるが、いえにいるときはぜんのみでごすこともあったらしい。また、『れい』には、「ぜんを絅(麻布まふつくった上着うわぎ)とし」としるされ、うえ羽織はおころもだと解釈かいしゃくされている。全体ぜんたいてきぬのおお使つかっており、ゆったりとあまりきつくはけないようにつくられている。そして大事だいじなのがかんむりである。かんむりには非常ひじょうこまかい形式けいしきがあり、そのかたちによって役職やくしょく地位ちいなどがかるようにくらいたかものの冕冠、宦官かんがんちょうかんむり武官ぶかんたけかんむり裁判官さいばんかんほうかんむり文官ぶんかんはりかんむり区別くべつされている。あしくものは、祭祀さいしさいく「舃」・出仕しゅっしするさいく「くつ」・いえく「屨」・外出がいしゅつさいく「屐」がある。舃やくつなど大事だいじなものはきぬ、屨はかずらあさまれた。屐はつくられており、が2まいある下駄げたのようなかたちをしている。また佩綬(こしげるかざひも)がおもんじられ、たま真珠しんじゅかざられた。恋愛れんあい告白こくはくには佩綬をおくることがよくおこなわれていたようである。

労働ろうどうしゃたちは労働ろうどうしやすいようにみじかほうながい褲をて、労働ろうどうときにはあしのすそをうえげる。大夫たいふかんむりであるが、庶民しょみん男性だんせい頭巾ずきんこうむる(大夫たいふ私生活しせいかつでは頭巾ずきんこうむる)。くつかず素足すあし基本きほんである。

一方いっぽう女性じょせい前代ぜんだいからわらずふかころも一般いっぱんてきであった。上下じょうげいち体型たいけいの袿衣・ぜんころもこしまでのながさの「襦」・スカートである「裙」をわせる場合ばあいとがある。髪形かみがたには非常ひじょう趣向しゅこうらされ、そのかみかざりも鼈甲べっこうたまかねなどを使つかわれたうつくしいものであった。

ギャラリー[編集へんしゅう]

コモンズのかんだい美術びじゅつのカテゴリも参照さんしょう

国際こくさい関係かんけい[編集へんしゅう]

[96][139] 高祖こうそ時代じだい南越なんごしこくまもる朝鮮ちょうせん君主くんしゅをそれぞれ皇帝こうていぞくするおうとしてさつふうした。これがいわゆるさつふう体制たいせいはじまりとされている。皇帝こうてい直接ちょくせつつかえる臣下しんかうちしんぶのにたいして、南越なんごし朝鮮ちょうせん君主くんしゅたちをそとしんび、そのくにそとはんぶ。

たけみかど時代じだい初期しょきかん国際こくさい関係かんけい

北方ほっぽう[編集へんしゅう]

すわえかん戦争せんそう匈奴きょうどではおかせひたすらたんち、ひがしえびす滅亡めつぼうさせ、つき西にしいやり、がらすまごなどを支配しはいいてきたアジアとなえた。さらかんおうしんふうじられていただい[よう曖昧あいまい回避かいひ]大軍たいぐんって侵入しんにゅうした。かんおうしん匈奴きょうど寝返ねがえったため、高祖こうそみずかおやせいするがおかせひたぶるさくはまり、平城ひらじろにて7日間にちかんにわたって包囲ほういされ、いのちからがら帰還きかんした。

このときむすばれた盟約めいやくが「かん匈奴きょうど兄弟きょうだい[# 24]となる」「かん公主こうしゅ匈奴きょうど閼氏皇后こうごう)とする」「かんから毎年まいとしおくもの匈奴きょうどおくる。」と匈奴きょうどがわ有利ゆうりなものであった。

そのりょきさき時代じだいおかせとみからりょきさきたいして無礼ぶれい親書しんしょおくられたさい匈奴きょうど攻撃こうげき計画けいかくされたが、沙汰止さたやみとなった。ぶんみかど時代じだいにはろううえたんぐんしんたんらによりなん侵攻しんこうがあり、そのたびに和平わへいむすなおされた。

たけみかどは、ちょう西方せいほうへの派遣はけんおこなうなど匈奴きょうど攻撃こうげき準備じゅんびととのえ、紀元前きげんぜん134ねんうま[# 25]土豪どごう聶壱というものかんがえた策謀さくぼう採用さいようし、たい匈奴きょうど戦争せんそう開始かいしした。聶壱のさくぐんしんたん于にたいしていつわりの手紙てがみおくり、ぐんしんおびしてつものである。この作戦さくせん察知さっちされて失敗しっぱいわり、聶壱は誅殺ちゅうさつされた。これ以後いご紀元前きげんぜん119ねんまでけい8かい遠征えんせいおこなわれる。

1かい紀元前きげんぜん129ねん)から6かい紀元前きげんぜん123ねん)までの主役しゅやくとなったのがまもるあおである。だい1かい遠征えんせいにおいてまもるあおひろなど4にん将軍しょうぐんがそれぞれ1まんひきいてかく方面ほうめんから匈奴きょうどんだが将軍しょうぐんすべやぶれ、まもるあおのみが匈奴きょうど首級しゅきゅうすうひゃくた。これを皮切かわきりにだい3かい紀元前きげんぜん127ねん)ではオルドスをふたたうばい、だい4かい紀元前きげんぜん124ねん)では匈奴きょうどみぎけんおう匈奴きょうど右翼うよく西側にしがわちょう)を敗走はいそうさせ、大将軍だいしょうぐんのぼった。

7かい紀元前きげんぜん121ねん)の遠征えんせいまもるあおおい霍去びょう主役しゅやくになった。だい7かいでははるなつかい遠征えんせいおこない、匈奴きょうどの渾邪おうすうまん捕虜ほりょともかん投降とうこうした。さらつづだい8かい紀元前きげんぜん119ねん)ではまもるあおややはすたんぐん大破たいはし、霍去びょう匈奴きょうどおう兵士へいしすうまん捕虜ほりょとするだい戦果せんかげ、2人ふたりどもだい司馬しばとされた。

この結果けっか匈奴きょうど本拠ほんきょゴビ砂漠ごびさばくきたへとうつさざるをなくなり、かんしん領土りょうど武威ぶいさけいずみ敦煌とんこうちょうわき河西かさいよんぐん設置せっちした。以後いご匈奴きょうどじゅうねんちか姿すがたあらわさなかったが、かん西域せいいき勢力せいりょくばすとふたた匈奴きょうどかん敵対てきたいする。

たけみかど紀元前きげんぜん103ねんからふたた軍事ぐんじ行動こうどう再開さいかい紀元前きげんぜん90ねんいたるまでひろ将軍しょうぐんしゅとしてすう遠征えんせいおこなわれ、ちいさな戦果せんかおおくの損失そんしつまねいた。りょう奮戦ふんせんしながらつみとされ、司馬しば宮刑きゅうけいしょされた。最終さいしゅうてきひろ匈奴きょうど降伏ごうぶくし、たけみかどは「だいみことのり」をして遠征えんせいにより民衆みんしゅうくるしんだことをみずか批判ひはんした。

一連いちれん戦争せんそうによりかん匈奴きょうどども疲弊ひへいしたが、せんみかどいた西域せいいき諸国しょこくかん服属ふくぞく西域せいいきみやこまもる設置せっちされた。

紀元前きげんぜん58ねん匈奴きょうどではよびかんよこしまたんつが、よびかんよこしまあに自立じりつして郅支たんとなり、東西とうざい分裂ぶんれつした。よびかんよこしま紀元前きげんぜん51ねんみずかかん入朝にゅうちょうし、せんみかどよびかんよこしまに「匈奴きょうどたん于璽」をさづけてよびかんよこしまかんそとしんとする。さらもとみかど紀元前きげんぜん36ねんにはがらすまご攻撃こうげきした郅支たん于をめ、ってくび長安ながやすさらした。以後いご前漢ぜんかんわりまで北方ほっぽう安定あんていした時期じきむかえた。

西域せいいき[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん2世紀せいきころ前漢ぜんかん周辺しゅうへん

紀元前きげんぜん139ねんたけみかどちょうソグド地方ちほう大月おおつきおく匈奴きょうど挟撃きょうげきさくくがれられなかった。帰還きかんしたちょう騫により、西域せいいき情勢じょうせいつたえられた。

ちょう騫以だいあてフェルガナ)・大月おおつき安息あんそくパルティア)などの西域せいいき諸国しょこくとの交易こうえきはじまり、西方せいほうからブドウザクロウマゴヤシなどが輸入ゆにゅうされて、かんからは絹織物きぬおりもの輸出ゆしゅつされた。交易こうえきにはいわゆるシルクロード利用りようされた。

たけみかど西域せいいき諸国しょこくなかでも匈奴きょうどぞくしていたろうらんしゅうと服属ふくぞくさせるために紀元前きげんぜん108ねん遠征えんせいぐんし、そのも2かいわたってしゅうと遠征えんせいしている。まただいあてあせあせながすとわれ、駿馬しゅんめとされる)をるためにひろ将軍しょうぐん遠征えんせいさせ、苦戦くせんすえだいあて服属ふくぞくさせた。

西域せいいきみやこまもる創設そうせつするころには、ほぼ西域せいいき平定へいてい事業じぎょう完成かんせいした。その前漢ぜんかん最後さいごまで安定あんていつづくが、おう民族みんぞく侮蔑ぶべつする政策せいさくのため西域せいいきかん支配しはいからはなれた。

ベトナム・南西なんせい[編集へんしゅう]

始皇帝しこうていベトナム遠征えんせいぐんおくってここを直轄ちょっかつりょうとしたが、はた滅亡めつぼうにはこの漢人かんどちょう自立じりつして南越なんごしこくてた。劉邦りゅうほう時代じだいには南越なんごしおうさつふうして懐柔かいじゅうした。

たけみかど紀元前きげんぜん111ねん南越なんごし内紛ないふんじょうじて遠征えんせいぐんおくり、南越なんごしほろぼして直轄ちょっかつりょうとした。これ以降いこう10世紀せいきちょう成立せいりつまでのなが期間きかん、ベトナムは中国ちゅうごく支配しはいにおかれることになる。

南西なんせいには夜郎自大やろうじだい言葉ことば有名ゆうめいよるろうしゅうしょう)や(てん、はさんずいにしん雲南うんなんしょう)などをはじめとした群小ぐんしょうこく多数たすうあり、この民族みんぞくかん官吏かんりころされたことを契機けいきとしてこの地方ちほう民族みんぞく解体かいたいして直轄ちょっかつ支配しはいいた。しかしよるろうと滇にはおうごうあたえてそとはんとした。

朝鮮ちょうせん[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん1世紀せいきころ前漢ぜんかんかんよんぐん位置いち

朝鮮ちょうせんかんしては前述ぜんじゅつしたとおりにまもる朝鮮ちょうせんほろぼして、紀元前きげんぜん108ねん朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶかんよんぐんいた。

かんよんぐん高句麗こうくり興起こうきするにつれて保持ほじすることがむずかしくなり、げんうさぎぐん高句麗こうくりほろぼされたのを最後さいごに400年間ねんかんおよ中国ちゅうごくによる朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ直轄ちょっかつ支配しはいわる。朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶにはこの時代じだいは100こくちかくの部族ぶぞく国家こっかがあり、さんかんうまかんたつかんわきまえかん)といわれる部族ぶぞく国家こっか連合れんごう存在そんざいしていた。

日本にっぽん列島れっとうにもすうひゃく部族ぶぞく国家こっかがあり、前代ぜんだいつづいて中国ちゅうごくとの交流こうりゅうにより様々さまざま技術ぎじゅつ文化ぶんか日本にっぽんにもたらされた。

前漢ぜんかん皇帝こうてい[編集へんしゅう]

系図けいず
びょうごう 諡号しごう 姓名せいめい 在位ざいい
1 ふとし 皇帝こうてい 劉邦りゅうほう ぜん206 - ぜん195ねん
2 めぐみみかど りゅうみつる ぜん195 - ぜん188ねん
3 しょうみかど りゅうぼう ぜん188 - ぜん184ねん
4 りゅうひろし ぜん184 - ぜん180ねん
5 ふとしむね ぶんみかど りゅうひさし ぜん180 - ぜん157ねん
6 けいみかど りゅうあきら ぜん157 - ぜん141ねん
7 むね たけみかど りゅうとおる ぜん141 - ぜん87ねん
8 あきらみかど りゅうどるりょう ぜん87 - ぜん74ねん
9 りゅう ぜん74ねん
10 ちゅうむね せんみかど りゅう ぜん74 - ぜん48ねん
11 こうはじめ もとみかど りゅう ぜん48 - ぜん33ねん
12 すべむね なりみかど りゅう ぜん33 - ぜん7ねん
13 あいみかど りゅう ぜん7 - ぜん1ねん
14 ひらみかど りゅう ぜん1 - こう5ねん
(15) りゅう こう5 - こう8ねん
  • 高祖こうそ本来ほんらいびょうごう諡号しごうは「ふとしだか皇帝こうてい」であるが、通常つうじょうは「高祖こうそ」とばれる。またこうかんふくめ、大半たいはん皇帝こうてい諡号しごうあたまに「こう」がく(れいぶんみかど諡号しごうは「孝文たかふみ皇帝こうてい」)が、日本にっぽんではほとんどの場合ばあい省略しょうりゃくしてばれる。
  • だい3だいしょうみかどいみなつたわっていない。「きょう」とするのは誤写ごしゃ由来ゆらいする可能かのうせい指摘してきされている。
  • りゅう嬰は実際じっさいには即位そくいしておらず、皇太子こうたいしのままおう禅譲ぜんじょうした。
  • だい9だいりゅう即位そくい期間きかんが27にちみじかいため、みぎ系図けいずのように歴代れきだい皇帝こうていかぞえられないこともある。

前漢ぜんかん元号げんごう[編集へんしゅう]

  1. たてはじめ紀元前きげんぜん140ねん-紀元前きげんぜん135ねん
  2. もとひかり紀元前きげんぜん134ねん-紀元前きげんぜん129ねん
  3. もとついたち紀元前きげんぜん128ねん-紀元前きげんぜん123ねん
  4. もとかり紀元前きげんぜん122ねん-紀元前きげんぜん117ねん
  5. もとかなえ紀元前きげんぜん116ねん-紀元前きげんぜん111ねん
  6. もとふう紀元前きげんぜん110ねん-紀元前きげんぜん105ねん
  7. 太初たいしょ紀元前きげんぜん104ねん-紀元前きげんぜん101ねん
  8. 天漢てんかん紀元前きげんぜん100ねん-紀元前きげんぜん97ねん
  9. ふとはじめ紀元前きげんぜん96ねん-紀元前きげんぜん93ねん
  10. せい紀元前きげんぜん92ねん-紀元前きげんぜん89ねん
  11. こうもと紀元前きげんぜん88ねん-紀元前きげんぜん87ねん
  12. はじめもと紀元前きげんぜん86ねん-紀元前きげんぜん81ねん
  13. もとおおとり紀元前きげんぜん80ねん-紀元前きげんぜん75ねん
  14. もとたいら紀元前きげんぜん74ねん
  15. もとはじめ紀元前きげんぜん73ねん-紀元前きげんぜん70ねん
  16. ぶし紀元前きげんぜん69ねん-紀元前きげんぜん66ねん
  17. 元康もとやす紀元前きげんぜん65ねん-紀元前きげんぜん62ねん
  18. かみ紀元前きげんぜん61ねん-紀元前きげんぜん58ねん
  19. おおとり紀元前きげんぜん57ねん-紀元前きげんぜん54ねん
  20. 甘露かんろ紀元前きげんぜん53ねん-紀元前きげんぜん50ねん
  21. りゅう紀元前きげんぜん49ねん
  22. はつもと紀元前きげんぜん48ねん-紀元前きげんぜん44ねん
  23. 永光ながみつ紀元前きげんぜん43ねん-紀元前きげんぜん39ねん
  24. たてあきら紀元前きげんぜん38ねん-紀元前きげんぜん34ねん
  25. 竟寧紀元前きげんぜん33ねん
  26. たてはじめ紀元前きげんぜん32ねん-紀元前きげんぜん29ねん
  27. かわひらた紀元前きげんぜん28ねん-紀元前きげんぜん25ねん
  28. ついたち紀元前きげんぜん24ねん-紀元前きげんぜん21ねん
  29. おおとりよしみ紀元前きげんぜん20ねん-紀元前きげんぜん17ねん
  30. えいはじめ紀元前きげんぜん16ねん-紀元前きげんぜん13ねん
  31. もとのべ紀元前きげんぜん12ねん-紀元前きげんぜん9ねん
  32. 綏和紀元前きげんぜん8ねん-紀元前きげんぜん7ねん
  33. けんひらた紀元前きげんぜん6ねん-紀元前きげんぜん3ねん
  34. もと寿ことぶき紀元前きげんぜん2ねん-紀元前きげんぜん1ねん
  35. 元始げんし1ねん-5ねん
  36. 6ねん-8ねん
  37. はつはじめ8ねん

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

とし 皇帝こうてい 元号げんごう 国内こくない 国外こくがい
紀元前きげんぜん210ねん 始皇帝しこうてい 始皇帝しこうてい さんじゅうななねん 始皇帝しこうてい崩御ほうぎょせい皇帝こうてい即位そくい
ぜん209ねん せい皇帝こうてい せい皇帝こうてい 元年がんねん ちんまさるひろらん勃発ぼっぱつちんまさるひろらん勃発ぼっぱつ劉邦りゅうほう故郷こきょうの沛で反乱はんらんぐん参加さんか
ぜん207ねん はたおう さんねん 劉邦りゅうほうしん咸陽攻略こうりゃくはた滅亡めつぼう
ぜん206ねん 高祖こうそ 高祖こうそ 元年がんねん 劉邦りゅうほう項羽こううよりかんちゅうふうぜられ、かんおうとなる。劉邦りゅうほうせきなか攻略こうりゃく
ぜん205ねん ねん 項羽こううみかど殺害さつがい
ぜん202ねん ねん 垓下のたたか項羽こうう戦死せんし劉邦りゅうほう皇帝こうてい即位そくい高祖こうそ)。
ぜん201ねん ろくねん   [匈奴きょうど]高祖こうそおやせいぐん匈奴きょうどおかせひたすらたんぐん大敗たいはい
ぜん196ねん じゅういちねん 彭越えいぬの功臣こうしん粛清しゅくせいされる。 [ベトナム]ちょう南越なんごしおうふうじる。
[朝鮮ちょうせん]まもるみつるまもる朝鮮ちょうせんてる。
ぜん195ねん じゅうねん 高祖こうそ崩御ほうぎょめぐみみかど即位そくいりょきさき体制たいせいはじまる
ぜん188ねん めぐみみかど めぐみみかど ななねん めぐみみかど崩御ほうぎょ
ぜん180ねん しょうみかどひろし しょうみかどひろし よんねん りょきさき死去しきょしゅう勃らによりりょ氏族しぞく誅。ぶんみかど即位そくい
ぜん174ねん ぶんみかど ぶんみかどまえ ろくねん   [匈奴きょうど]おかせとみ死去しきょろううえたんつ。
ぜん168ねん じゅうねん 田租でんそげんじ、さら翌年よくねんより全廃ぜんぱい
ぜん160ねん ぶんみかど さんねん   [匈奴きょうど]ろうじょう死去しきょぐんしんたんつ。
ぜん157ねん ろくねん ぶんみかど崩御ほうぎょけいみかど即位そくい
ぜん156ねん けいみかど けいみかどまえ 元年がんねん 田租でんそ復活ふっかつさせ、収穫しゅうかくの1/30とする。  
ぜん154ねん さんねん すわえななこくらん勃発ぼっぱつ
ぜん141ねん けいみかど さんねん けいみかど崩御ほうぎょたけみかど即位そくい
ぜん140ねん たけみかど たてはじめ 元年がんねん ちょう西域せいいき出発しゅっぱつ
ぜん137ねん さんねん   [ベトナム]ちょう佗が死去しきょまごちょうえびすあとぐ。
ぜん136ねん ねん 五経ごきょう博士はかせ
ぜん133ねん もとひかり ねん うま邑のやくたい匈奴きょうど戦争せんそうはじまり
ぜん129ねん ろくねん だいいちかいたい匈奴きょうど遠征えんせい
ぜん128ねん もとついたち 元年がんねん だいかいたい匈奴きょうど遠征えんせい
ぜん127ねん ねん だいさんかいたい匈奴きょうど遠征えんせいまもるあお活躍かつやくによりオルドスをうば
ぜん126ねん さんねん ちょう騫の帰還きかん [匈奴きょうど]ぐんしん死去しきょ後継こうけいめぐって内紛ないふんがおき、ややはすたんつ。
ぜん124ねん ねん だいよんかいたい匈奴きょうど遠征えんせいまもるあお大将軍だいしょうぐんとなる
ぜん123ねん ろくねん だいろくかいたい匈奴きょうど遠征えんせいまもるあお霍去びょう出撃しゅつげきいたけにわる
ぜん121ねん もとかり ねん だいななかいたい匈奴きょうど遠征えんせい。霍去びょう匈奴きょうどの渾邪おうくだす。
ぜん119ねん よんねん だいはちかいたい匈奴きょうど遠征えんせいしおてつ専売せんばいせい開始かいし銖銭制定せいてい [匈奴きょうど]本拠ほんきょきたうつす。
ぜん115ねん もとかなえ ねん ひとし輸法施行しこう
ぜん114ねん さんねん   [匈奴きょうど]ややはす死去しきょ
ぜん113ねん よんねん 銖銭の製造せいぞう国家こっか独占どくせんとなる。
ぜん112ねん ねん 南越なんごし出兵しゅっぺい
ぜん111ねん ろくねん   [ベトナム]南越なんごし滅亡めつぼうかんぐんかれる。
ぜん110ねん もとふう 元年がんねん たけみかどふうぜんおこなう。平準へいじゅんほう施行しこう ひがしえつこく(閩越)滅亡めつぼう
[雲南うんなん]よるろうかんそとはんとなる。
ぜん108ねん さんねん   [朝鮮ちょうせん]まもる朝鮮ちょうせん滅亡めつぼう
らくなみぐん以下いか朝鮮ちょうせんよんぐんかれる。
ぜん106ねん ねん 刺史しし設置せっち
ぜん104ねん 太初たいしょ 元年がんねん ひろ将軍しょうぐんだいあて出兵しゅっぺい失敗しっぱいわる。
ぜん102ねん さんねん ふたたび、だいあてめてあせ帰還きかんする。
ぜん99ねん 天漢てんかん ねん ひろ将軍しょうぐんとして匈奴きょうど攻撃こうげきする。りょう降伏ごうぶく司馬しば宮刑きゅうけいける。
ぜん96ねん-ぜん90ねんごろ 史記しき』の完成かんせい
ぜん91ねん せい ねん みこ蠱のわざわいもど太子たいし死去しきょ
ぜん90ねん さんねん ひろ匈奴きょうど降伏ごうぶく
ぜん87ねん こうもと ねん たけみかど崩御ほうぎょあきらみかど即位そくい
ぜん81ねん あきらみかど はじめもと ろくねん しおてつ会議かいぎ開催かいさいされる。
ぜん80ねん もとおおとり 元年がんねん 上官じょうかんくわひろひつじ誅殺ちゅうさつされ、霍光専権せんけん時代じだいはじまる。
ぜん74ねん もとたいら 元年がんねん あきらみかど崩御ほうぎょあきら邑王即位そくい廃位はいいて、せんみかど即位そくい
ぜん73ねん せんみかど もとはじめ 元年がんねん  
ぜん68ねん ぶし ねん 霍光、死去しきょ
ぜん66ねん よんねん 霍氏、ぞく誅されせんみかど親政しんせいはじまる。
ぜん60ねん かみ ねん 西域せいいきみやこまもる設置せっち
ぜん51ねん 甘露かんろ さんねん いしみぞかく会議かいぎ開催かいさいされる。 [匈奴きょうど]よびかんよこしまたんかん入朝にゅうちょう
ぜん49ねん りゅう 元年がんねん せんみかど崩御ほうぎょもとみかど即位そくい
ぜん48ねん もとみかど はつもと 元年がんねん  
ぜん40ねん 永光ながみつ よんねん ぐんこくびょう廃止はいし
ぜん33ねん 竟寧 元年がんねん もとみかど崩御ほうぎょなりみかど即位そくい
ぜん32ねん なりみかど たてはじめ 元年がんねん 郊祀せいはじめる
ぜん8ねん 綏和 元年がんねん おうだい司馬しばになる。
ぜん7ねん ねん なりみかど崩御ほうぎょあいみかど即位そくい
ぜん6ねん あいみかど けんひらた 元年がんねん おう莽、下野げやする。
ぜん1ねん もと寿ことぶき ねん あいみかど崩御ほうぎょひらみかど即位そくいおう莽、ふたただい司馬しばとなる。
こう1ねん ひらみかど 元始げんし 元年がんねん おう莽、あんかんこうとなり、政権せいけんる。
こう5ねん ねん ひらみかど崩御ほうぎょおう莽、孺子じゅし皇太子こうたいしとし、みずかかり皇帝こうていとなる。
こう8ねん 孺子じゅし はつはじめ 元年がんねん おう莽、皇帝こうていとなる。前漢ぜんかん滅亡めつぼう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

学術がくじゅつしょ[編集へんしゅう]

  • 池田いけだあつし敦煌とんこう文書ぶんしょ世界せかい名著めいちょ刊行かんこうかい、2003ねんISBN 4839003181 
  • 板野いたの長八ちょうはち儒教じゅきょう成立せいりつ研究けんきゅう岩波書店いわなみしょてん、1995ねん7がつ20日はつかISBN 978-4000029490 
  • 井波いなみ律子りつこ中国ちゅうごく重要じゅうよう人物じんぶつ101』(新装しんそう新書しんしょかん〈ハンドブック・シリーズ〉、2005ねんISBN 978-4403250866 
  • 宇都宮うつのみや清吉せいきちかんだい社会しゃかい経済けいざい研究けんきゅう弘文こうぶんどう書房しょぼう、1955ねん 
  • 宇野うの直人なおと漢詩かんし歴史れきし : 古代こだい歌謡かようから清末きよすえ革命かくめいまで』東方とうほう書店しょてん、2005ねん12月1にちISBN 978-4497205117 
  • エーリク・チュルヒャー ちょ田中たなか純男すみお やく仏教ぶっきょう中国ちゅうごく伝来でんらい』せりか書房しょぼう、1995ねんISBN 978-4796701884 
  • 大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかんかんだい美術びじゅつ平凡社へいぼんしゃ、1975ねん 
  • 太田おおた幸男ゆきお; 鶴間つるま和幸かずゆき; たいらぜい隆郎たかお; 西にしこう清高きよたか; 竹内たけうち康浩やすひろ中国ちゅうごく1 : 先史せんしこうかん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2003ねん9がつ1にちISBN 978-4634461505 
  • 大庭おおばおさむはたかん帝国ていこく威容いよう講談社こうだんしゃ図説ずせつ中国ちゅうごく歴史れきし2〉、1977ねん 
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  • 五井ごい直弘なおひろかんだい豪族ごうぞく社会しゃかい国家こっか名著めいちょ刊行かんこうかい歴史れきしがく叢書そうしょ〉、2001ねん5がつ1にちISBN 978-4839003135 
  • 小杉こすぎ一雄かずお中国ちゅうごく美術びじゅつ : 日本にっぽん美術びじゅつ源流げんりゅう南雲なぐもどう、1986ねんISBN 978-4523261193 
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  • 武内たけうち義雄よしお中国ちゅうごく思想しそう』(しん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ全書ぜんしょセレクション〉、2005ねんISBN 4000218727 
  • 鶴間つるま和幸かずゆき『ファーストエンペラーの遺産いさん : はたかん帝国ていこく講談社こうだんしゃ中国ちゅうごく歴史れきし3〉、2020ねんISBN 978-4065215678 
  • 永田ながた英正ひでまさかんたけみかど清水しみず書院しょいんひと思想しそう189〉、2012ねん8がつ10日とおかISBN 978-4389411893 
  • 西嶋にしじまじょうせい中国ちゅうごく古代こだい帝国ていこく形成けいせい構造こうぞう : じゅうとう爵制の研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1961ねん 
  • 西嶋にしじまじょうせい中国ちゅうごく経済けいざい研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1966ねん 
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  • 福井ふくいしげるみやびかんだい儒教じゅきょう史的してき研究けんきゅう : 儒教じゅきょう官學かんがくをめぐる定説ていせつさい檢討けんとう汲古書院しょいん、2006ねん5がつ1にちISBN 978-4762925597 
  • マイケル・サリバン しる新藤しんどう武弘たけひろ やく中国ちゅうごく美術びじゅつ新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう選書せんしょ〉、1973ねん 
  • 増淵ますぶち龍夫たつお中国ちゅうごく古代こだい社会しゃかい国家こっか』(しん岩波書店いわなみしょてん、1996ねん10がつ25にちISBN 978-4000013789 
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  • 矢部やべ良明よしあき中国ちゅうごく陶磁とうじはちせんねん : 乱世らんせい峻厳しゅんげん泰平たいへい優美ゆうび平凡社へいぼんしゃ、1992ねんISBN 978-4582278071 
  • こうなみ隆司たかしはたかん帝国ていこく研究けんきゅう未來社みらいしゃ、1978ねん 
  • りゅうちょ伊藤いとうすすむ太郎たろう やくはたかん : 雄偉ゆういなる文明ぶんめいそうもとしゃ図説ずせつ中国ちゅうごく文明ぶんめい4〉、2005ねん9がつ1にちISBN 978-4422202556 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 史記しき』「平準へいじゅんしょ
  2. ^ 史記しき』「高祖こうそ功臣こうしんこうしゃ年表ねんぴょう
  3. ^ げん山西さんせいしょうついたちしゅう
  4. ^ あきらみかど皇后こうごうとなっていた上官じょうかん桀の孫娘まごむすめ上官じょうかん皇后こうごう)をのぞ
  5. ^ こうけい』にたいするぬきしょぬきしょについては「神秘しんぴ思想しそう」のふし参照さんしょう
  6. ^ 漢書かんしょ』「百官ひゃっかんひょうかおいにしえちゅう
  7. ^ じゅうとする場合ばあいおおい。
  8. ^ 陝西せんせいしょうたからにわとりおおとりしょう
  9. ^ 山西さんせいしょうまんさかえけん北方ほっぽう
  10. ^ りゅうふとしおおやけ高祖こうそぶんみかどけいみかどたけみかどあきらみかどせんみかどもど太子たいし・悼皇考こうこうもど太子たいしせんみかどちち
  11. ^ さとちんさと関係かんけいいては論争ろんそうがある。本文ほんぶんかんがえは宮崎みやざきじょう1957。それ以外いがいにもせつがあるがここではしるさない。
  12. ^ もとてっこうであったが、りゅうとおるたけみかど)を避諱して列侯れっこうとなった。てっれつ)とは皇帝こうていとのあいだなにはさまないとの意味いみである。
  13. ^ 1970ねんだいまではこれにより儒教じゅきょう国教こっきょうされたとしていたが、現在げんざい日本にっぽん学界がっかいではそれは否定ひていされ、儒教じゅきょう国教こっきょう時期じきすくなくとももとみかどるというのが定説ていせつである。具体ぐたいてき国教こっきょう時期じきについてはもとみかど福井ふくいしげるみやび1967)、おう莽期(西嶋にしじま1970)、こうかん光武みつたけみかど板野いたの長八ちょうはち)など
  14. ^ かつすいみずながれを出来でき堤防ていぼうめるようにみずつ。
  15. ^ せいやすとまれる
  16. ^ 生土いきどえたのちにははい出来できる。
  17. ^ かんとくとするとさかのぼってとくとなる。
  18. ^ しょ』「しゃくろうこころざし
  19. ^ 後代こうだいにこのらくからだ真似まねつくった漢詩かんしぐんがあり、これと区別くべつする場合ばあいには古楽こがく
  20. ^ なおギャラリーの写真しゃしん南越なんごしおうはかから発見はっけんされたいとちりばめだまころも
  21. ^ 河北かほくしょうまんしろかんはかより出土しゅつど河北かほくしょう博物館はくぶつかん所蔵しょぞうたかさ48cm・おもさ15.78kg
  22. ^ じょしゅう西にしかんすわえおう陵墓りょうぼより出土しゅつど
  23. ^ たけほこら画像がぞうせき左石ひだりいししつだいよんせき拓本たくほん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうこうかん
  24. ^ どちらがあにでどちらがおとうとかは不明ふめい
  25. ^ げん山西さんせいしょうついたちしゅう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
はた
前漢ぜんかん
紀元前きげんぜん206ねん - 8ねん
次代じだい
しん