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前 ぜん 李 り 朝 ちょう (ぜんりちょう、ベトナム語 ご : Nhà Tiền Lý )は、6世紀 せいき 中 ちゅう ごろから7世紀 せいき 初頭 しょとう までベトナム 北部 ほくぶ を支配 しはい していた王朝 おうちょう 。5世紀 せいき 前 まえ の前漢 ぜんかん 末期 まっき の王 おう 莽 による政権 せいけん 奪取 だっしゅ に伴 ともな う混乱 こんらん から逃 のが れた中国人 ちゅうごくじん 難民 なんみん を遠祖 えんそ とする地方 ちほう 貴族 きぞく の家柄 いえがら である[1] [2] [3] [4] [5] [6] 建国 けんこく 者 しゃ の李 り 賁 は、国名 こくめい を万 まん 春 はる と称 しょう し、後 のち に野 の 能 のう とも呼 よ ばれた。一般 いっぱん には、11世紀 せいき に登場 とうじょう した李 り 朝 ちょう と区別 くべつ するため前 まえ 李 り 朝 あさ と呼 よ ばれる。交州 [7] を勢力 せいりょく 範囲 はんい として、北 きた は南朝 なんちょう と接 せっ し、南 みなみ はチャンパ と接 せっ して国交 こっこう を結 むす んでいた。541年 ねん に南朝 なんちょう の梁 りょう から独立 どくりつ して独自 どくじ の帝国 ていこく を形成 けいせい したが、絶 た えず梁 はり と争 そう って勢力 せいりょく を削 けず られ、仁 じん 寿 ことぶき 2年 ねん (602年 ねん )末 まつ から3年 ねん (603年 ねん )初頭 しょとう にかけて隋 ずい に滅 ほろ ぼされた。
541年 ねん 12月、李 り 賁 は交州で兵 へい を集 あつ め決起 けっき した。交州刺史 しし の蕭 しょう 諮 はか [8] は広州 こうしゅう へ逃亡 とうぼう した。梁 はり の武 たけ 帝 みかど (蕭 しょう 衍 )は新 しん 州 しゅう [9] 刺史 しし の盧 の 子 こ 雄 ゆう と高州 たかす [10] 刺史 しし の孫 まご 冏に反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ を命 めい じた。542年 ねん 春 はる 、李 り 賁は龍 りゅう 編 へん 県 けん を占領 せんりょう し[7] 、ここを本拠地 ほんきょち とした。この反乱 はんらん 勢力 せいりょく は、もともと梁 はり の管轄 かんかつ 下 か であった交州と徳 とく 州 しゅう [7] を掌握 しょうあく した。
542年 ねん 、南方 なんぽう の疫病 えきびょう に苦 くる しめられた盧 の 子 こ 雄 ゆう と孫 まご 冏は、いったん広州 こうしゅう に戻 もど った。そして広州 こうしゅう 刺史 しし の蕭 しょう 暎[11] と蕭 しょう 諮 はか に、秋 あき に涼 すず しくなってから再 さい 出兵 しゅっぺい する許可 きょか を求 もと めたが拒絶 きょぜつ された。仕方 しかた なく盧 の 子 こ 雄 ゆう と孫 まご 冏は直 ただ ちに再 さい 出兵 しゅっぺい したが、合浦 がつぽ まで至 いた ったところで兵 へい の6・7割 わり が疫病 えきびょう に斃れる有様 ありさま だった。蕭 しょう 諮 はか から報告 ほうこく を受 う けた蕭 しょう 衍は、盧 の 子 こ 雄 ゆう と孫 まご 冏が李 り 賁に内通 ないつう していると疑 うたが い、広州 こうしゅう で彼 かれ らに死 し を賜 たまわ った 。盧 の 子 こ 雄 ゆう の部下 ぶか だった周 しゅう 文 ぶん 育 いく や杜 もり 僧 そう 明 あきら らは、この裁定 さいてい に怒 おこ って反乱 はんらん を起 お こし、広州 こうしゅう の蕭 しょう 暎らを攻 せ めた。これに対 たい し、蕭 しょう 暎の部下 ぶか 陳 ちん 霸先[12] が三 さん 千 せん 人 にん の精鋭 せいえい を率 ひき いて当 あ たって鎮圧 ちんあつ し、捕 と らえた周 しゅう 文 ぶん 育 そだ と杜 もり 僧 そう 明 あかり を自 みずか らの部下 ぶか とした[13] 。543年 ねん 4月 がつ 、南方 なんぽう のチャンパが李 り 賁の支配 しはい 地域 ちいき に侵攻 しんこう したが、李 り 賁の部下 ぶか で徳 とく 州 しゅう にいた范修の軍 ぐん に撃退 げきたい された。544年 ねん 1月 がつ 、李 り 賁は自 みずか ら「南越 なんごし 帝 みかど 」と称 しょう し、元号 げんごう を天徳 てんとく と改 あらた め[14] 、国号 こくごう を「万 まん 春 はる 」とした。ここから彼 かれ は李 り 南 みなみ 帝 みかど とも呼 よ ばれている。この年 とし の冬 ふゆ 、広州 こうしゅう で蕭 しょう 暎が病没 びょうぼつ した。これを受 う けて陳 ひね 霸先が交州司馬 しば および武平 ぶへい 郡 ぐん [15] 太守 たいしゅ に任 にん じられた。
陳 ちん 霸先
545年 ねん 5月 がつ 、陳 ちん 霸先と新 あら たに交州刺史 しし に任 にん じられた楊瞟、定 てい 州 しゅう [7] 刺史 しし 蕭 しょう 勃[16] らが朱 しゅ 䳒県[17] と蘇 そ 瀝江 の河口 かこう [18] において李 り 賁を破 やぶ り、彼 かれ が立 た て籠 こ もった嘉 よしみ 寧 やすし 城 じょう [19] を包囲 ほうい した。546年 ねん 1月 がつ 梁 はり 軍 ぐん が嘉 よしみ 寧 やすし 城 じょう を攻略 こうりゃく したが、李 り 賁は屈 こごめ 獠[20] の洞 ほら 蛮族 ばんぞく の地 ち に逃 に げおおせた。546年 ねん 9月 がつ 、李 り 賁は2万 まん 人 にん の兵 へい を率 ひき いて典 てん 澈湖[21] 一帯 いったい に拠 よ り、軍船 ぐんせん を建造 けんぞう した。陳 ひね 霸先は一軍 いちぐん を指揮 しき して、夜陰 やいん に紛 まぎ れて川 かわ の水 みず を湖 みずうみ に流 なが し込 こ んだうえで攻 せ め込 こ んだ。李 り 賁はたちまち敗 やぶ れ、ふたたび屈 こごめ 獠洞に逃亡 とうぼう した。
548年 ねん に李 り 賁が死去 しきょ した[22] 後 ご 、その兄 あに の李 り 天 たかし 宝 たから は九 きゅう 真 ま 郡 ぐん に逃 のが れて梁 はり への抵抗 ていこう を続 つづ けた。彼 かれ は2万 まん 人 にん の兵 へい を集 あつ めて徳 とく 州 しゅう に侵攻 しんこう し、そこから北上 ほくじょう して愛 あい 州 しゅう を攻 せ めた[7] が、陳 ちん 霸先に撃破 げきは された[23] 。李 り 天 たかし 宝 たから は愛 あい 州 しゅう の上 うえ 游 ゆう に撤退 てったい し[24] 、自 みずか ら「桃郎 とうろう 王 おう 」を称 しょう し、国号 こくごう を「野 の 能 のう 」と改 あらた めた。また李 り 賁の部下 ぶか だった趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく は辺境 へんきょう の沼地 ぬまち に拠 よ り、「趙 ちょう 越 えつ 王 おう 」(もしくは「夜 よる 沢 さわ 王 おう 」)と名乗 なの った。梁 はり で侯 ほう 景 けい の乱 らん が起 お き国 こく が乱 みだ れると、陳 ちん 霸先は軍 ぐん を率 ひき いて北 きた へ帰 かえ り、侯 ほう 景 けい を破 やぶ った。彼 かれ は後 のち に陳 ひね を建国 けんこく することになるが、彼 かれ が南方 なんぽう を離 はな れたことで、交州近辺 きんぺん に南朝 なんちょう の勢力 せいりょく が及 およ ばなくなり、前 ぜん 李 り 朝 ちょう が龍 りゅう 編 へん 県 けん を取 と り戻 もど した。555年 ねん に李 り 天 たかし 宝 たから が病死 びょうし すると、趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく と、李 り 賁の部下 ぶか だった李 り 仏子 ぶっし [25] が遺 のこ 領 りょう を分割 ぶんかつ した。その後 ご 、二人 ふたり は敵対 てきたい 関係 かんけい となり、557年 ねん に李 り 仏子 ぶっし が趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく を破 やぶ った。最終 さいしゅう 的 てき に両者 りょうしゃ は、君臣 くんしん 洲 しゅう [26] を境 さかい として、以北 いほく を李 り 仏子 ぶっし が、以南 いなん を趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく が治 おさ めることで合意 ごうい した。571年 ねん に趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく が没 ぼっ したので、李 り 仏子 ぶっし はその遺 のこ 領 りょう を併呑 へいどん し、全 ぜん 李 り 朝 ちょう を再 さい 統一 とういつ した。彼 かれ は峰 みね 州 しゅう を根拠地 こんきょち とした[27] 。
589年 ねん 、隋 ずい が陳 ひね を滅 ほろ ぼして中国 ちゅうごく を統一 とういつ した。601年 ねん 、文 ぶん 帝 みかど が国内 こくない に仏塔 ぶっとう を建 た てるよう命 めい じ、交州もその対象 たいしょう となった。この時 とき に建造 けんぞう され、後 のち に発掘 はっくつ された銘文 めいぶん 「舎利 しゃり 塔 とう 銘 めい 」には、大 だい 隋 ずい 仁 じん 寿 ことぶき 元年 がんねん (601年 ねん )10月 がつ 15日 にち 、皇帝 こうてい によって交州龍 りゅう 編 へん 県 けん の禅 ぜん 衆 しゅ 寺 てら に舎利 しゃり が奉 たてまつ られ、仏塔 ぶっとう が建 た てられたという内容 ないよう が記 しる されている。このことから、当時 とうじ 全 ぜん 李 り 朝 ちょう を支配 しはい していた李 り 仏子 ぶっし は隋 ずい に従属 じゅうぞく していたものと考 かんが えられる[28] 。
この589年 ねん に、隋 ずい は李 り 仏子 ぶっし に対 たい し、長安 ながやす に出向 でむ いて皇帝 こうてい に拝謁 はいえつ するよう求 もと めた。しかし李 り 仏子 ぶっし はこれに背 そむ き、甥 おい の李 り 大権 たいけん に龍 りゅう 編 へん 城 じょう を、また李 り 普 ひろし 鼎 かなえ に烏 がらす 延 のべ 城 じょう [26] を守 まも らせ、自 みずか らは越 こし 王 おう 古城 こじょう (古 こ 螺 にし 城 じょう )[29] に拠 よ って抵抗 ていこう の構 かま えを見 み せた。602年 ねん 初頭 しょとう 、楊素 の推挙 すいきょ を受 う けた劉 りゅう 方 かた が交州道 どう 行軍 こうぐん 総 そう 管 かん に任 にん じられ、交州に侵攻 しんこう してきた。李 り 仏子 ぶっし は2千 せん 人 にん を率 ひき いて都 みやこ 隆 たかし 嶺 みね で隋 ずい 軍 ぐん を攻撃 こうげき したが撃退 げきたい された。古 こ 螺 にし 城 じょう で隋 ずい 軍 ぐん に包囲 ほうい された李 り 仏子 ぶっし は降伏 ごうぶく して長安 ながやす へ送 おく られ、ここに前 ぜん 李 り 朝 ちょう は滅亡 めつぼう した。
前 ぜん 李 り 朝 ちょう 君主 くんしゅ と年号 ねんごう
称号 しょうごう
封 ふう 号 ごう
姓名 せいめい
年号 ねんごう
在位 ざいい 期間 きかん
前 ぜん 李 り 南 みなみ 帝 みかど
李 り 賁
天徳 てんとく
544年 ねん -548年 ねん
趙 ちょう 越 えつ 王 おう
明道 みょうどう 開基 かいき 聖 ひじり 烈 れつ 神武 じんむ 皇帝 こうてい [30] [31]
趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく
-
548年 ねん -571年 ねん
桃郎 とうろう 王 おう
李 り 天宝 てんぽう
-
548年 ねん -555年 ねん
後 こう 李 り 南 みなみ 帝 みかど
英 えい 烈 れつ 仁孝 にんこう 欽明聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい [30] [32]
李 り 仏子 ぶっし
-
555年 ねん -602年 ねん
^ 帝 みかど 姓 せい 李 り ,諱 いみな 賁,龍 りゅう 興 きょう 太平 たいへい 人 じん 也。其先北 きた 人 じん ,西 にし 漢 かん 末 まつ 苦 く 於征伐 せいばつ 避居土 ど ,七 なな 世 せい 遂 とげ 爲 ため 南 みなみ 人 じん 。
— 大越 おおこし 史記 しき 全書 ぜんしょ 、外 そと 紀 きの 巻 まき 之 の 四 よん
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関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
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^ a b c d e 梁 はり の時代 じだい 、従来 じゅうらい の中国 ちゅうごく の南 みなみ 辺 べ を形成 けいせい していた交州はいくつかの州 しゅう に分割 ぶんかつ された。すなわち交州(州 しゅう 治 ち は龍 りゅう 編 へん 城 じょう 、現在 げんざい のベトナム ・バクニン省 しょう ティエンズー県 けん 、ハノイ市 し の東北 とうほく 方 かた に所在 しょざい )、海沿 うみぞ いの黄 き 州 しゅう (州 しゅう 治 ち は現在 げんざい の広西 ひろせ チワン族 ぞく 自治 じち 区 く 防 ぼう 城 じょう 港 みなと 市 し に所在 しょざい )、従来 じゅうらい の九 きゅう 真 ま 郡 ぐん にあたる愛 あい 州 しゅう (州 しゅう 治 ち は現在 げんざい のタインホア省 しょう に所在 しょざい )、従来 じゅうらい の日南 にちなん 郡 ぐん 九 きゅう 徳 とく 県 けん にあたる徳 とく 州 しゅう (州 しゅう 治 ち は現在 げんざい のハティン省 しょう ドゥクトー県 けん に所在 しょざい )、従来 じゅうらい の鬱 うつ 林 はやし 郡 ぐん にあたる南 みなみ 定 じょう 州 しゅう (州 しゅう 治 ち は現在 げんざい の広西 ひろせ チワン族 ぞく 自治 じち 区 く 玉 たま 林 はやし 市 し に所在 しょざい )、ほかもう一 いち 州 しゅう の計 けい 六 ろく 州 しゅう である。
^ 武林 たけばやし 侯 こう 。鄱陽王 おう 蕭 しょう 恢 の子 こ 。蕭 しょう 恢は梁 はり の武 たけ 帝 みかど 蕭 しょう 衍の弟 おとうと 。すなわち蕭 しょう 諮 はか は武 たけ 帝 みかど の甥 おい にあたる。
^ 州 しゅう 治 ち は現在 げんざい の中国 ちゅうごく の広東 かんとん 省 しょう 新興 しんこう 県 けん にあたる。
^ 州 しゅう 治 ち は現在 げんざい の中国 ちゅうごく の広東 かんとん 省 しょう 陽 ひ 江 え 市 し にあたる。
^ 新 しん 喩 たとえ 侯 こう 。始 はじめ 興 きょう 王 おう 蕭 しょう 憺 の子 こ 。
^ この時 とき 、陳 ちん 霸先は西 にし 江 こう 督 ただし 護 まもる ・高 こう 要 かなめ 郡 ぐん 太守 たいしゅ であった。
^ 『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 』巻 まき 第 だい 158 梁 はり 紀 き 14 大同 だいどう 8年 ねん の条 じょう 。
^ 大徳 だいとく とも。
^ ヴィンフック省 しょう ヴィンイエン 市 し 。
^ 呉 ご 平 たいら 侯 こう 蕭 しょう 景 けい の子 こ 。
^ 現 げん フンイエン省 しょう およびハイズオン省 しょう 。
^ ハノイ市 し に近 ちか い、紅 べに 河 かわ に合流 ごうりゅう する地点 ちてん 。
^ 紅 べに 河 かわ とダ川 がわ の合流 ごうりゅう 地点 ちてん にある越 えつ 池 ち 。
^ ヴィンフック省 しょう 。
^ ヴィンフック省 しょう の沼沢 しょうたく 地帯 ちたい 。
^ 柏 かしわ 楊版資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん . 六 ろく 世紀 せいき ·四 よん ○年代 ねんだい ·五 ご 四 よん 八 はち 年 ねん ·南 みなみ 梁 はり ·太 ふと 清 きよ 二 に 年 ねん ·條 じょう 7 . 臺北 たいぺい : 遠流 おんる 博識 はくしき 網 もう . https://www.ylib.com/search/qus_show.asp?BookNo=B1038 2019年 ねん 1月 がつ 1日 にち (火) か 12:39(UTC±0)閲覧 えつらん . "屈 こごめ 獠洞の蛮族 ばんぞく が越 えつ 帝 みかど の李 り 賁を自称 じしょう する民衆 みんしゅう 反乱 はんらん の首領 しゅりょう を斬 き った。首級 しゅきゅう は首都 しゅと の建 たて 康 やすし に送 おく られた。"
^ 李 り 天 たかし 宝 たから を平定 へいてい した後 のち 、陳 ちん 霸先は西 にし 江 こう 督 ただし 護 まもる ・高 こう 要 かなめ 郡 ぐん 太守 たいしゅ ・都 みやこ 督 ただし 七 なな 郡 ぐん 諸 しょ 軍事 ぐんじ に任 にん じられた。
^ タインホア省 しょう とラオス の国境 こっきょう 地帯 ちたい 。
^ 一節 いっせつ には李 り 天宝 てんぽう の親族 しんぞく とも。
^ a b ハノイ市 し トゥリエム県 けん (現 げん ナムトゥリエム区 く 、バクトゥリエム区 く )一帯 いったい 。
^ 耿慧玲 れい (1991年 ねん ) (Microsoft Wordテキスト). 金石 かねいし 地理 ちり 所 しょ 反映 はんえい 的 てき 越 えつ 南 みなみ 漢 かん 化 か 勢力 せいりょく . 朝陽 あさひ 科技 かぎ 大學 だいがく 通 つう 識教育 きょういく 中心 ちゅうしん . http://www.cyut.edu.tw/~ts/paper/main_paper_word/91_inschool/27.doc UTC時間 じかん 2006年 ねん 1月 がつ 31日 にち 00:13更新 こうしん 閲覧 えつらん . "ハタイ省 しょう のタインオアイ県 けん とクオックオアイ県 けん は、古 ふる くは峰 みね 州 しゅう と称 しょう した。"
^ 王 おう 承 うけたまわ 文 ぶん 『越 こし 南 みなみ 新出 にいで 隋 ずい 朝 あさ 〈舎利 しゃり 塔 とう 銘 めい 〉及相關 そうかん 問題 もんだい 考 こう 釋 しゃく 』,『學術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 』2014年 ねん 第 だい 6期 き (廣東 かんとん 省 しょう 社會 しゃかい 科學 かがく 界 かい 聯合 れんごう 會 かい 《學術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 》雜誌 ざっし 社 しゃ )pp.95-101に収録 しゅうろく 。
^ ハノイ市 し 近郊 きんこう 、ドンアイン県 けん のコーロア社 しゃ にあった。
^ a b 陳 ちん 朝 ちょう 期 き に封 ふう じられた名目 めいもく 的 てき な称号 しょうごう であり、諡号 しごう ではない。
^ 『粤甸幽霊 ゆうれい 集 しゅう 』歴代 れきだい 人君 じんくん 明道 あけみち 開基 かいき 聖 ひじり 烈 れつ 神武 じんむ 皇帝 こうてい より。「陳 ひね 朝 あさ 重 じゅう 興 きょう 元年 がんねん (1285年 ねん )、趙 ちょう 光 ひかり 復 ふく を明道 みょうどう 皇帝 こうてい に封 ふう じた。重 じゅう 興 きょう 四 よん 年 ねん (1288年 ねん )、開基 かいき の二 に 字 じ を加 くわ えた。」
^ 『粤甸幽霊 ゆうれい 集 しゅう 』歴代 れきだい 人君 じんくん 英 えい 烈 れつ 仁孝 にんこう 欽明聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい より。「陳 ちん 朝 ちょう 重 じゅう 興 きょう 元年 がんねん (1285年 ねん )、李 り 仏子 ぶっし を英 えい 烈 れつ 皇帝 こうてい に封 ふう じた。重 じゅう 興 きょう 四 よん 年 ねん (1288年 ねん )、仁孝 にんこう の二 に 字 じ を加 くわ えた。」[要 よう 検証 けんしょう – ノート ]