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ほうけいらん

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ほうけいらん
戦争せんそうほうけいらん
年月日ねんがっぴ548ねん8がつ - 552ねん3がつ
場所ばしょ長江ながえしも流域りゅういき一帯いったい
結果けっか南朝なんちょうはり勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ほうけい (かん) 南朝なんちょうはり
指導しどうしゃ指揮しきかん
ほうけい
そうせん
にんやく
ほうかん
しょうはん
しょう
ひつじただし
じょぶんもり
おうそうべん
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい

ほうけいらん(こうけいのらん)は、中国ちゅうごく南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょうりょうにてほうけいこした反乱はんらん

概要がいよう

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ほうけいあずまたかし権臣けんしんこう有力ゆうりょく武臣ぶしんのひとりであり、こう歓の死後しごひがしから離反りはんして南朝なんちょうはりった。しかしほどなくはりたけみかどひがしむすんだため、孤立こりつおそれたほうけい548ねん反乱はんらんこし、はりたてやすし包囲ほういした。翌年よくねんたてやすし陥落かんらくさせ、たけみかど横死おうしさせた。簡文みかどあきらおうしょうとう相次あいついで擁立ようりつし、ついにはみずか皇帝こうてい即位そくいして、国号こくごうかんとした。ほうけい長江ながえしも流域りゅういき平定へいていし、ちゅう流域りゅういき勢力せいりょくった湘東おうしょう対決たいけつしたが、552ねんしょう繹の派遣はけんしたおうそうべんちん霸先らにやぶれて、逃亡とうぼうちゅう部下ぶか殺害さつがいされた。ほうけいによってその反乱はんらん終息しゅうそくしたが、江南こうなん社会しゃかいだい混乱こんらんにおとしいれた傷跡きずあとふかく、以後いご南朝なんちょう衰退すいたい決定けっていづけた。

経緯けいい

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以下いか特記とっきないかぎり、本節ほんぶし記述きじゅつは『はりしょまき56こうけいでんおよび『みなみまき80賊臣ぞくしんでんる。

ほうけいはり

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ほうけいふところついたち出身しゅっしん軍人ぐんじんであり、わかくしてこう歓と友情ゆうじょうむすんだ。はじめしかしゅさかえつかえ、しかしゅ滅亡めつぼうするとこう歓につかえて、その征戦せいせんしたがった。こう歓がこうせいみかど擁立ようりつしてあずまたかし建国けんこくすると、ほうけいはそのもとつかさみなみ道行みちゆきだいとなり、10まん大軍たいぐんひきいるまでになり、あずまたかし河南かなん地方ちほう軍事ぐんじ専断せんだんした。

こう歓のやまいおもくなると、「ほうけい狡猾こうかつ計略けいりゃくおおく、反覆はんぷく察知さっちしにくいので、わたし死後しごはおまえが任用にんようすることはできないだろう」と、こうきよし遺言ゆいごんした。ほうけいはこのことをって、わざわいおよぶのをおそれた。547ねんあずまたかしたけじょう5ねんはりふときよし元年がんねん)1がつ丙午ひのえうまこう歓がすすむ死去しきょした[1]からしほうけいは潁城にってひがしから離反りはんした。ひがしの潁州刺史しし司馬しばくもほうけい呼応こおうした。ほうけいひがししゅう刺史ししこう元成もとなりじょうしゅう刺史ししひそか広州こうしゅう刺史しし暴顕らをさそってらえた。あずまたかしかんしゅ渾元りゅうゆたからを派遣はけんしてほうけいたせたので、ほうけい西にしたかし使つかいして救援きゅうえんもとめた。西にしたかしけい王思おうしせい派遣はけんした。王思おうしせいらが潁川にはいったが、ほうけいしゅうしてしまった[2]。2月、ほうけいおうえら献策けんさくれて、くだりだいろうちゅうちょうかずはり派遣はけんして帰順きじゅんした。はりたけみかどほうけい河南かなんおうふうじ、大将軍だいしょうぐん使つかいぶしみやこただし河南かなん南北なんぼくしょ軍事ぐんじだいくだりだいにんじた。

あずまたかしこうきよし大将軍だいしょうぐん慕容紹宗派遣はけんしてほうけいちょうしゃ包囲ほういさせた。ほうけい西にしたかし救援きゅうえん要請ようせいし、西にしたかし五城ごじょうおうもとけいらを派遣はけんしてほうけい救援きゅうえんさせると、慕容紹宗は撤退てったいした。ほうけいがまたはりつかさしゅう刺史ししひつじからすひとし援兵えんぺい要請ようせいし、ひつじからすじんちょうの鄧鴻にへいあたえてなんじすいかわせると、もとけいぐん夜間やかん逃走とうそうした。ほうけいかかひさごこうじょう刺史しし派遣はけんもとめると、はりたけみかどひつじからすじんしゅう刺史ししとしてかけひさごうつり鎮させ、西陽にしびぐん太守たいしゅひつじおもえけんいんしゅう刺史ししとしてこうじょう駐屯ちゅうとんさせた。

12月、ほうけいひがしの譙城を包囲ほういしてとせず、転進てんしんしてしろちち攻撃こうげきして陥落かんらくさせた。ほうけいこうだいひだりすすむおうえらひだりみんろうちゅうおうそくたてやすし朝廷ちょうてい派遣はけんして、げん子弟していぬしてて、きたたすけるようもとめた。たけみかど太子たいし舎人とねりもとさだを咸陽おうとし、長江ながえわたらせると、みかどしょうさせた。

ほうけい増長ぞうちょう

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こうきよしふたたび慕容紹宗を派遣はけんしてほうけい攻撃こうげきさせ、ほうけい撤退てったいしてうずはいった。ほうけいはなおもすうせんひきうますうまんにん兵士へいしや1まんりょうあまりのくるま保有ほゆうして、うずきたひがしぐん対峙たいじしていた。しかしほうけいぐん糧食りょうしょくき、兵士へいしたちはみな北方ほっぽう出身しゅっしんしゃであったためにみなみわたりのぞまず、ほうけい部将ぶしょうの暴顕らはおのおの部下ぶかひきいて慕容紹宗にった。ほうけいぐん統制とうせいうしなってり、ほうけい腹心ふくしんすうとともに硤石から淮水をわたり、敗残はいざんへい収容しゅうようして800にんあつめ、寿ことぶきはるんだ。かんしゅうの韋黯がほうけいれた。ほうけいみずかたけみかど降格こうかくもうたが、たけみかどゆるさず、本官ほんかんのまましゅうまきとした。

ほうけい寿ことぶきはるって、しろ住民じゅうみんをすべてぐんとして召募しょうぼし、交易こうえきぜい田租でんそめ、子女しじょ将兵しょうへいたちに配分はいぶんした。軍人ぐんじん上着うわぎつくるために朝廷ちょうていにしき1まんひき請求せいきゅうすると、りょうぐんしゅ議論ぎろんにより、にしきしょ賞与しょうよあたりじょう軍服ぐんぷくつくらせるわけにいかないとされ、わりにあおぬの給与きゅうよされることとなった。ほうけいぬのると、これをすべ使つかって上着うわぎ下着したぎつくらせたことから、かれは青色あおいろとうとぶようになった。また寿ことぶきはるつくられる兵器へいき精度せいどわるいことから、ひがし冶の鍛冶たんやこうおくるようもとめ、さらには工場こうじょう建設けんせつまで要求ようきゅうして、たけみかど命令めいれいによりこれらはあたえられた。ほうけいうず敗戦はいせん以後いごおおくのもの要求ようきゅうしたが、朝廷ちょうてい寛大かんだいさをしめすために、要求ようきゅう拒絶きょぜつしなかった。

せんだってはりしゅう刺史ししさだこうしょうふちあきら大軍たいぐんひきいてきたし、あずまたかしの彭城を包囲ほういしたが、やぶれてあずまたかしらえられた。このためたけみかどあずまたかし修好しゅうこう使者ししゃおくり、以前いぜん良好りょうこう関係かんけい復活ふっかつさせようとした。548ねんふとしきよし2ねん)2がつたけみかどあずまたかし講和こうわした。ほうけいはこれをいておどろき、たけみかど再考さいこうもとめたが、たけみかどはききいれなかった。ほうけいはりあずまたかし和平わへい成立せいりつにより、両国りょうこくのあいだでほうけいしょうふちあかり身柄みがら交換こうかんされるのをおそれて、反乱はんらん決意けついした[3]以後いごほうけい上表じょうひょうおもいのままにおこない、言葉ことばづかいは不遜ふそんなものとなった。鄱陽おうしょうはんごうこえ駐屯ちゅうとんしており、つかさしゅう刺史ししひつじからすじんとともにほうけい反乱はんらんたくらんでいると奏上そうじょうしようとしたが、りょうぐんしゅ异がにぎりつぶして奏聞そうもんさせなかった。たけみかどほうけい賞賜しょうしくわえて、ますます増長ぞうちょうさせることとなった。ほうけいは臨賀おうしょう正徳まさのり朝廷ちょうていうらんでいることをって、これと密約みつやくむすんだ。

反乱はんらん開始かいし

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8がつほうけいはついにへいはっして反乱はんらんこし、馬頭めず木柵もくさくめて、太守たいしゅりゅうかみしげるや戍主の曹璆らをらえた。たけみかど郢州刺史ししの鄱陽おうしょうはん南道みなみどうとくとし、きたじょしゅう刺史ししふうやまこうしょうせいひょう北道ほくどうとくとし、つかさしゅう刺史ししやなぎなかあや西道さいどうとくとし、つうちょくつねさむらい裴之だか東道とうどうとくとして、ともにほうけいつべく、れきから渡河とかさせた。さらに開府かいふどうさん丹陽たんよういんの邵陵おうしょうふしたせて、しょぐんそうとくさせた。

10月、ほうけいはそのなかぐんおうあらわとうと寿ことぶき春城しゅんじょうにとどめてまもらせ、ぐんしてごうこえかわせるふりをし、実際じっさいには譙州を襲撃しゅうげきした。じょぼうただし紹先が開城かいじょうしてほうけいったため、譙州刺史しし豊城とよきこうしょうやすしほうけいらえられた。たけみかどがこのことをくと、太子たいし家令かれいおうただし水軍すいぐんひきいさせて長江ながえ巡回じゅんかい警備けいびさせた。ほうけい進攻しんこうしてくると、れきぐん太守たいしゅそうてつおとうとそうひとしめいじてほうけい陣営じんえい夜襲やしゅうさせたがやぶれ、そうひとし戦没せんぼつし、そうてつもまたほうけいった。

しょう正徳しょうとくせんだって大船おおぶねすうじゅうそう長江ちょうこう派遣はけんし、おぎせるとしょうして、ほうけいへいわたらせる準備じゅんびをしていた。ほうけい京口きょうぐち到着とうちゃくして、長江ながえわたるにあたり、おうただし襲撃しゅうげき警戒けいかいしていた。まもなくおうただしがゆえなく撤退てったいしたとのらせがとどいたが、ほうけいはなおもしんじず、ひそかに偵察ていさつ派遣はけんした。ほうけい偵察ていさつしゃに「おうただしがもし撤退てったいしたのであれば、江東こうとうえだってしるしとすべし」といいふくめておいた。偵察ていさつしゃったとおりの返事へんじをしたので、ほうけいは「わがことはうまくいきそうだ」とだいよろこびした。さいせきからうますうひゃくひきへいせんにん長江ながえわたると、たてやすし朝廷ちょうてい不意ふいいた。ほうけいへいけてしゅうと孰をおそい、淮南ワイナンぐん太守たいしゅ文成ふみなりこうしょうやすしらえ、慈湖にたっした。たけみかどいのちによりあげしゅう刺史ししせんじょうおうしょう大器たいきみやこただし城内きうちしょ軍事ぐんじとなり、かん尚書しょうしょひつじただし軍師ぐんし将軍しょうぐんとしてこれを補佐ほさした。南浦みなみうらこうしょうひがしじょうまもり、西豊にしゆたかこうしょうだいはる石頭いしあたまじょうまもり、けいくるまちょうしゃ禧がしろ下城げじょうまもった。

ほうけい朱雀すざくこうたっすると、しょう正徳しょうとくさき丹陽たんようぐん駐屯ちゅうとんしており、部下ぶかひきいてほうけい合流ごうりゅうした。ときにたてやすし県令けんれい庾信が1000にんあまりのへいひきいてこうきた駐屯ちゅうとんしていた。庾信はほうけいへい朱雀すざくこうにやってきたとるや、うわきょう撤去てっきょめいじたものの、ふねいちせきのぞはじめたところで、ぐんてて南塘なんとうした。ほうけいゆうぐん朱雀すざくこううわきょう復旧ふっきゅうさせてほうけい本隊ほんたいわたさせた。皇太子こうたいししょうつな乗馬じょうばおうただしさづけて、精兵せいびょう3000をはいし、庾信を救援きゅうえんさせようとした。おうただしりょうぐんにいたって、反乱はんらんぐん遭遇そうぐうすると、たたかまえ逃亡とうぼうした。ほうけい勝利しょうりじょうじて城下じょうかせまった。西豊にしゆたかこうしょうだいはる石頭いしあたまじょうてて逃走とうそうし、ほうけいはそのどうの于子えつ派遣はけんして石頭いしあたまじょう占拠せんきょさせた。しゃ禧もまたしろ下城げじょう放棄ほうきして逃亡とうぼうした。ほうけいはこのためあらゆる方向ほうこうからたてやすしじょう攻撃こうげきできるようになり、たいまつのだい司馬しばもんひがしはなもん西にしはなもんいた。城内きうち兵士へいしたちはもんろう破壊はかいし、みずをかけてどうにかめた。反乱はんらんぐんひがしわきもんやぶってひらこうとすると、ひつじただしもんおうぎ穿うがって、すうにん刺殺さしころしたため、反乱はんらんぐん撤退てったいした。また反乱はんらんぐん東宮とうぐう城壁じょうへきのぼって、城内きうちゆみかけた。これに対処たいしょするため、皇太子こうたいししょうつなひとつのって夜間やかん東宮とうぐうかせると、東宮とうぐうだい殿どの灰燼かいじんした。さらにほうけい城西じょうさいうまうまやりんかんたいてらいた。翌日よくじつほうけいうさぎうますうひゃくつくらせてしろめようとしたが、しろうえからいしたれ、できあがったところからみな破壊はかいされた。

たてやすし包囲ほうい

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ほうけいたてやすしとすことができず、損耗そんこうおおくなったため、攻撃こうげき中止ちゅうしし、ちょうかこえきずいて内外ないがい遮断しゃだんし、ちゅうりょうぐんしゅ异・太子たいしみぎまもるりつりくけんしょうきょうじょせいきょくかんしゅうせきめずらしらの処刑しょけい要求ようきゅうかかげた。いっぽうたてやすし籠城ろうじょうした官軍かんぐんしろがい矢文やぶみかけさせ、その矢文やぶみには「ほうけいくびることができたものには、ほうけい官位かんいさづけ、わせてぜに1おくまんぬのきぬおのおのまんひきおんならく2あたえる」とあった。

11月、ほうけいしょう正徳しょうとくみかど擁立ようりつし、賢堂かしこどう即位そくいさせた。年号ねんごう正平しょうへいあらためた。ほうけいみずか相国しょうこくてんばしら将軍しょうぐんとなり、しょう正徳しょうとくむすめつまむかえた。

ほうけいはさらにひがしじょう攻撃こうげきし、ひゃくしゃくろうしゃもうけて、しろのひめがきをげてとすと、ひがしじょう陥落かんらくした。ほうけいはそのどうあきらりゃくすうせんにんひきいさせ、長刀ちょうとうって城門じょうもんはさんで配置はいちさせた。ひがし城内じょうのうち文武ぶんぶものたちがことごとくてられて裸身らしんしろされると、反乱はんらんへいたちはかわるがわるこれをころした。死者ししゃは2000にんあまりにおよび、南浦みなみうらこうしょう推はこの殺害さつがいされた。ほうけいしょう正徳しょうとくしょうどうあきらりゃくひがしじょうまもらせた。

ほうけいたてやすしじょう東西とうざい城内きうち見下みおろせる土山つちやまきずいた。城内きうちもまた対抗たいこうして、王公おうこう以下いかがみな背負せおい、ふたつのやまきずいた。当初とうしょほうけいたてやすし平定へいてい容易よういなものとしんじて、民衆みんしゅう財産ざいさんうばわなかった。しかしたてやすし攻囲こうい長引ながびき、官軍かんぐん援軍えんぐん集結しゅうけつおそれるようになると、兵士へいしたちにほしいままに略奪りゃくだつさせるようになり、また子女しじょ妻妾さいしょう軍営ぐんえいれるようになった。土山つちやまきずくにあたって、ほうけい賤をわず民衆みんしゅう動員どういんし、殴打おうだむちちをくわえて昼夜ちゅうややすまずはたらかせた。ほうけいどうの范桃ぼうがひそかに使者ししゃ派遣はけんして官軍かんぐんへの投降とうこうねがたが、ことれて殺害さつがいされた。

ここにいたって、邵陵おうしょう綸が西豊にしゆたかこうしょうだいはるしんぬり将軍しょうぐん永安えいあんこうしょうかくちょう武将ぶしょうぐんみなみやすさとこうしょう駿しゅんぜん譙州刺史ししちょうはくちょうたけしゅう刺史しししょうろうあきら歩兵ほへいこうじょういんおもえごうらをひきい、3まん軍勢ぐんぜい京口きょうぐちから出立しゅったつし、直進ちょくしんしてかねやまった。ほうけいは1まんにんあまりを分遣ぶんけんしてしょう綸をはばもうとしたが、しょう綸はこれを撃破げきはして、1000にんあまりを斬首ざんしゅした。ほうけいふたたくつがえ舟山ふなやまきた布陣ふじんした。しょう綸もまたじんをならべてったが、ほうけいすすまず、りょうぐんにらみいの態勢たいせいとなった。日暮ひぐれになって、ほうけいぐんかえそうとしたところ、みなみやすこうしょう駿しゅんすうじゅうひきいていどんできたため、ほうけいぐんかえしてたたかい、しょう駿しゅん退却たいきゃくさせた。このときちょうはくちょうじん玄武げんぶきたにあったが、しょう駿しゅんきゅうてもおもむかず、ぐんひきいてさき逃走とうそうしたため、しょう綸のぐん総崩そうくずれとなった。しょう綸は京口きょうぐちのがれた。反乱はんらんぐん輜重しちょう兵器へいき鹵獲ろかくし、すうひゃくにん斬首ざんしゅし、せんにんあまりをりにした。ほうけい西豊にしゆたかこうしょうだいはるしょう綸の司馬しばそうおかめぐみたちちょくごう将軍しょうぐんえびすやく広陵こうりょうけんれいの霍儁らをらえ、たてやすし城下じょうかおくらせると、脅迫きょうはくして「すでに邵陵おうらえられた」と口々くちぐちわせた。霍儁はひとり「おうはささやかな敗戦はいせんをなさったが、すでにぜんぐん京口きょうぐち帰還きかんしている。城中じょうちゅうはただ堅守けんしゅしていれば、援軍えんぐんはまもなくやってくる」とった。反乱はんらんへいかたなで霍儁を殴打おうだしたが、霍儁の言葉ことば顔色かおいろももとのとおりであったため、ほうけいかんじてかれをゆるした。

この、鄱陽世子せいししょうと裴之だかこうなぎさにいたり、蔡洲に陣営じんえいった。ほうけいぐんけて南岸なんがん駐屯ちゅうとんさせた。

12月、ほうけいろう・橦車・登城とじょうしゃとう堞車・かいどうしゃしゃといったおさむしろつくり、城壁じょうへきまえならべた。しゃしろ東南とうなんすみだいろうくと、反乱はんらんぐん火勢かせいじょうじてしろめようとしたが、城壁じょうへきうえからもはなたれておさむしろくされたため、反乱はんらんぐん撤退てったいした。また土山つちやまきずいてしろせまろうとしたが、城内きうちから地下道ちかどうつくられて土山つちやまとしたため、これまた失敗しっぱいした。ざいかん将軍しょうぐんそう嶷が反乱はんらんぐんり、かれが一計いっけいあんじて、玄武げんぶみずいてたいじょうそそいだ。さらに南岸なんがんみんきょてらくされた。

つかさしゅう刺史ししやなぎなかあや衡州刺史しし韋粲南陵なんりょうぐん太守たいしゅひねぶんてっせんもう将軍しょうぐんたかし欽らが、たてやすし救援きゅうえんのためにやってきた。鄱陽世子せいししょう嗣や裴之だかもまた長江ちょうこうわたった。やなぎなかれい朱雀すざくこうみなみ陣営じんえいき、裴之だかみなみえん陣営じんえいき、韋粲はあお塘に陣営じんえいき、ちんぶんてったかし欽は丹陽たんようぐん駐屯ちゅうとんし、鄱陽世子せいししょう嗣はしょうこうみなみ陣営じんえいき、いずれもはた淮河のえんしがらみつくった。がたになってほうけいがこのことにづくと、ぜんれいてらもんろうのぼって見回みまわし、韋粲の陣営じんえいるいがまだ完全かんぜんでないのをつけると、さきんじてへいわたらせてこれを攻撃こうげきした。韋粲は抗戦こうせんしたがやぶれ、ほうけいは韋粲のくびって城下じょうかせつけてまわった。やなぎなかれいは韋粲の敗北はいぼくくと、よろいけるあいだもなく、すうじゅうとともにけつけ、反乱はんらんぐん抗戦こうせんして、すうひゃくにん斬首ざんしゅし、はた淮河にげてんだものは1000にんあまりにおよんだ。やなぎなかれい深入ふかいりして、うまどろにはまり、重傷じゅうしょうった。

邵陵おうしょう綸と臨成こうしょう大連たいれんらが東道とうどうから南岸なんがん集結しゅうけつした。荊州刺史ししの湘東おうしょう繹が世子せいししょうかたとう司馬しば曄やてんもんぐん太守たいしゅの樊文こうたてやすし救援きゅうえんのために派遣はけんし、長江ながえくだると湘子がんまえ陣営じんえいいた。高州たかす刺史しし遷仕やぜんつかさしゅう刺史ししひつじからすじんもまたへいひきいて相次あいついで到着とうちゃくした。鄱陽世子せいししょう嗣・永安えいあんこうしょうかくひつじからすひとし遷仕・樊文こうへいひきいてはた淮河をわたり、反乱はんらんぐんひがし城前しろまえしがらみ攻撃こうげきして、これをやぶった。しょう嗣らはあおけいすいひがし陣営じんえいむすんだ。ほうけいどうそうせん南平なべらおうやしき派遣はけんして駐屯ちゅうとんさせ、みずえん西にししがらみててはばませた。

ほうけいぐん糧食りょうしょくきて、えにくるしんだ。東城とうじょうには食糧しょくりょう備蓄びちくしてあったが、そこまでのみち諸侯しょこう援軍えんぐん遮断しゃだんされていた。いっぽうのたてやすし城内きうちこめ40万斛ばんこく備蓄びちくはあったものの、さかなしおたきぎ不足ふそくしていた。そこで尚書しょうしょしょう建物たてものこわしてたきぎとし、っていたうま屠殺とさつしてくした。反乱はんらんぐん水源すいげんどくれたために、れむくみのやまい流行りゅうこうし、城中じょうちゅう病死びょうししゃ過半かはんかぞえた。城内じょうない防戦ぼうせん指揮しきっていたひつじただしがこのつき病没びょうぼつした。

いつわりのやく

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549ねんふとしきよし3ねん)1がつほうけい年初ねんしょから講和こうわねがていたが、たけみかど許可きょかりないでいた。しかし皇太子こうたいししょうつなの諫めをけて、たけみかどはこれをききいれることとした。ほうけいこうみぎ4しゅう割譲かつじょうと、あわせてせんじょうおうしょう大器たいき身柄みがら人質ひとじちとして要求ようきゅうし、その包囲ほういいて長江ちょうこうきたわた条件じょうけん提示ていじした。さらにほうけいはそのどうの于子えつひだりすすむおうえらたてやすし入城にゅうじょうさせて交換こうかん人質ひとじちとすることをゆるした。はりなかりょうぐんでんせんじょうおうしょう大器たいき皇太子こうたいしの嫡嗣であることからこれを拒否きょひし、わりに石城せきじょうこうしょうだい款をおくるようねがた。この条件じょうけん両者りょうしゃ合意ごういした。2月おのれ西にしはなもんそとだんもうけて、はり尚書しょうしょぼくしゃおうかつけんさむらいちゅう上甲うえこうきょうこうしょう韶およびけんつねさむらいしょう瑳が、ほうけいがわの于子えつおうえららとだんのぼってやくちかった。はりひだりまもる将軍しょうぐん柳津やないづ西にしはな門下もんかると、ほうけいがそのしがらみもんて、柳津やないづ距離きょりって相対あいたいし、犠牲ぎせいうしをすすった。

みなみ兗州刺史ししみなみ康嗣やすつぐおうしょうかいぜんあおしゅう刺史ししの湘潭こうしょう退すさ西にしあきらこう世子せいししょう彧のひきいるへい3まんが邛州に到着とうちゃくした。ほうけいはこのぐんしろ下城げじょうからきた展開てんかいして、長江ちょうこうへのみちつことをおそれて、はた淮河の南岸なんがんうつるようもとめた。たけみかどほうけい要求ようきゅうんでしょうかいらをこう潭苑に進軍しんぐんさせた。いっぽうこうけいげん左右さゆうにしながら、やく条件じょうけんまもらず、たてやすし包囲ほういこうとしなかった。

たてやすし陥落かんらくたけみかど

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3月1にちあさ城内きうちほうけい盟約めいやくちがえたとして、烽火ほうかげてつづみさわがし、ひつじからすひとしやなぎ敬礼けいれい・鄱陽世子せいししょう嗣らがひがしじょうきた進軍しんぐんした。かれらがしがらみるいてないうちに、ほうけい部将ぶしょうそうせん襲撃しゅうげきけ、官軍かんぐんやぶれ、はた淮河にとされた死者ししゃすうせんにんおよんだ。られた首級しゅきゅう城下じょうかおくられてせしめにされた。

ほうけいふたたび于子えつ派遣はけんして、講和こうわねがた。ちゅうすすむ沈浚ほうけいのもとに派遣はけんされてやってくると、ほうけい意志いしのないことをつよめた。ほうけい激怒げきどして、即座そくざいし闕のまえでせきめていたみずながみ、昼夜ちゅうややすまず四方しほうからしろてたので、3がつちょうしげるたてやすしはついに陥落かんらくした。

ほうけい入城にゅうじょうするとたけみかど会見かいけんしたが、たけみかど態度たいど堂々どうどうとしていたのにたいして、ほうけい萎縮いしゅくしてどもってしまった。たけみかどが「かつて長江ながえわたりしとき、いくにんありや」とたずねると、ほうけいは「せんにん」とこたえた。たけみかどがまた「たいじょうかこみしとき、いくにんありや」とたずねると、ほうけいは「じゅうまん」とこたえた。たけみかどが「いまいくにんありや」とたずねると、ほうけいは「率土そっとのうちわがゆうにあらざるはなし」とこたえた。

ほうけい城内じょうないじょう輿こし服飾ふくしょく趣味しゅみ文物ぶんぶつ、さらに後宮こうきゅうの嬪妾たちをことごとく略奪りゃくだつした。王侯おうこうちょうたちを収監しゅうかんして永福えいふくしょうおくり、たけみかど皇太子こうたいしさむらいまもる解任かいにんした。おうえらには武徳たけのり殿どのまもらせ、于子えつには太極たいきょく東堂とうどう駐屯ちゅうとんさせた。たけみかどみことのりといつわって天下てんか大赦たいしゃし、みずからはさむらいちゅう使つかいぶしだい丞相じょうしょう河南かなんおうのまま、だいとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじろく尚書しょうしょごととなった。城中じょうちゅう遺体いたいだらけで埋葬まいそうひまもないほどであった。ほうけい葬儀そうぎんでいない遺体いたいや、にかけでまだいきえていないものあつめてすべかせたため、その臭気しゅうきじゅうすうさとおよんだ。尚書しょうしょがいへいろうあわびせいやまいおもく、反乱はんらんぐんされてかれると、火中かちゅう輾転てんてんとしてひさしくしていきえた。たてやすし救援きゅうえんあつまっていたしょぐんはそれぞれ撤退てったいしていった。ほうけいしょう正徳しょうとく降格こうかくさせてさむらいちゅうだい司馬しばとし、はり百官ひゃっかんをみなそのしょく復帰ふっきさせた。

ほうけいただし紹先に広陵こうりょう襲撃しゅうげきさせると、みなみ兗州刺史ししみなみ康嗣やすつぐおうしょうかい広陵こうりょうじょうをもって降伏ごうぶくした。ほうけいただし紹先をみなみ兗州刺史ししとした。

かつてきた兗州刺史ししていじょうこうしょうと湘潭こうしょう退すさ、およびぜん潼州刺史ししかくおおとりがともにおこりへいして、たてやすし救援きゅうえんおもむこうとしていた。たてやすし陥落かんらくするにおよんで、かくおおとりは淮陰をもってほうけい帰順きじゅんしようとはかった。しょう祗らはこれをめることができず、ふたりはそろってあずまたかし亡命ぼうめいした。ほうけいしょうろうあきらきた兗州刺史ししとしたが、州民しゅうみんへいはっしてこれをはばんだ。ほうけいひさしこうおかえいちょくごう将軍しょうぐんひつじうみへいあたえてしょうろうあきら援軍えんぐんかわせたが、ひつじうみおかえいり、そのぐんひきいてあずまたかしったので、あずまたかしが淮陰を占拠せんきょした。

ほうけいどうの于子えつちょう大黒だいこくへいひきいさせくれぐんはいらせると、くれぐん太守たいしゅ袁君ただしがこれをむかえて降伏ごうぶくした。于子えつらはくれぐんおおくの物資ぶっし徴発ちょうはつし、子女しじょ略奪りゃくだつし、人民じんみんをいじめいたので、くれぐん人々ひとびと憤激ふんげきして、おのおのがしろしがらみてて抵抗ていこうした。

このつきほうけい西にししゅうじょう移駐いちゅうした。どうにんやくみなみ道行みちゆきだいとし、しゅうと孰に派遣はけんして駐屯ちゅうとんさせた。

5月へいたつたけみかど文徳ふみのり殿どの死去しきょした。たけみかどたてやすし陥落かんらく以来いらい食事しょくじ制限せいげんされており、いきどおのうちにやまいにかかって死去しきょしたものである。

簡文みかど時代じだい

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ほうけいたけみかど秘密ひみつにしてはっせず、あきらよう殿どの通夜つやをおこなわせた。じゅう数日すうじつして、あずさみや天子てんしかん)を太極たいきょくまえ殿どののぼらせ、皇太子こうたいししょうつなむかえて皇帝こうてい即位そくいさせた。これが簡文みかどである。

ほうけいどうらいあきらへいひきいさせせんじょうぐん攻撃こうげきさせたが、せんじょうぐんうちの楊華があきらさそしてこれをらせた。ほうけい部将ぶしょう賢明たてあき派遣はけんして楊華をたせると、楊華はせんじょうぐんとともに降伏ごうぶくした。ほうけいどうそうせんらに東征とうせいさせ、銭塘ぜんどもたっしたが、新城しんじょう戍主の戴僧逷が新城しんじょうけんってこれをはばんだ。

このつきほうけいちゅうぐんほうかん派遣はけんしてくれぐんはいらせ、于子えつちょう大黒だいこく収監しゅうかんしてたてやすし連行れんこうさせると、ふたりを処刑しょけいした。

ときにひがしあげしゅう刺史ししの臨成こうしょう大連たいれんしゅうじょうかい稽)にり、おきぐん太守たいしゅちょうぐんじょうり、南陵なんりょうぐんより長江ながえ上流じょうりゅう地方ちほう刺史しし太守たいしゅたちがおのおのまもっていた。このためほうけい命令めいれいおよ範囲はんいは、くれぐん以西いせいおよび南陵なんりょうぐん以北いほくのみであった。

6がつほうけいどうかくもとけん尚書しょうしょぼくしゃ北道ほくどうゆきだい江北こうほくしょ軍事ぐんじとし、しんしん駐屯ちゅうとんさせた。

ぐんじんりく緝・戴文きょらが1まんにんあまりでおこりへいし、ほうけい太守たいしゅたん于を殺害さつがいして、ぜん淮南ワイナンぐん太守たいしゅ文成ふみなりこうしょうやすしおもし、ほうけいをはばもうとした。そうせんがこれを攻撃こうげきすると、りく緝らはしろ放棄ほうきして逃走とうそうした。

いたりほうけいしょう正徳しょうとく永福えいふくしょう殺害さつがいした。もと西にししんおうふうじ、もとけいりゅうひねとめおうふうじるなど、げん子弟していおうふうじられるものじゅうすうにんおよんだ。やなぎ敬礼けいれい使つかいぶしだいとくとし、だい丞相じょうしょうぞくさせ、軍事ぐんじ参与さんよさせた。

ほうけいちゅうぐんほうかんかんぎょうだいりゅうかみしげるらのぐん派遣はけんして東征とうせいさせ、おきぐんやぶった。くれおきぐん太守たいしゅちょう父子ふしらえてたてやすしおくらせると、ほうけいちょう嵊らを殺害さつがいした。

ほうけいそうせんつかさとし、にんやくりょうぐん将軍しょうぐんとし、しかしゅはくしかどおり・彭儁・ただし紹先・ちょうひとし・于慶・魯伯・紇奚きん安和あわれいまもるりゅうらをみな開府かいふどうさんつかさとした。

このつき、鄱陽嗣王しょうはんへいひきいて柵口ませぐち宿営しゅくえいし、しゅう刺史ししひろおうしょうだいしんがこれをむかえるために西上にしがみした。ほうけいしゅうと孰に出撃しゅつげきすると、しょうはん部将ぶしょうの裴之悌やなつほうたけしせいほうけいった。

7がつ広州こうしゅう刺史ししげん景仲かげなかほうけいにつこうとしたため、西にしこうただしまもるちん霸先おこりへいしてこれを攻撃こうげきした。げん景仲かげなか自殺じさつし、ちん霸先はていしゅう刺史しししょう刺史ししむかえた[4]

11月、ほうけいそうせん銭塘ぜんども攻撃こうげきさせ、戴僧逷をくだした。ほうけい銭塘ぜんどもを臨江ぐんとし、とみとみはるぐんとした。さらにおうえらもとをそろってどうさんつかさとした。

12月、ほうけいそうせんちょうはくちょうりゅうかみしげるらを派遣はけんしてかい稽に進攻しんこうさせた。ひがしあげしゅう刺史ししの臨成こうしょう大連たいれんしろてて敗走はいそうしたため、りゅうかみしげるわせてこれをらえた。ほうけいは裴之悌を使つかいぶしひら西にし将軍しょうぐんごうしゅう刺史ししとし、なつほうたけしせい使つかいぶしひらきた将軍しょうぐんみなみしゅう刺史ししとした。

このつき百済くだら使者ししゃがやってきたが、たてやすししろ邑が廃墟はいきょとなっているのをて、はしもんそと号泣ごうきゅうした。ほうけいがこのことをくと激怒げきどして、使者ししゃ身柄みがらしょう荘厳寺しょうごんじおくって拘禁こうきんし、出入でいりをゆるさなかった。

550ねん大宝たいほう元年がんねん)1がつぜんこう都県とけんれいあきら広陵こうりょうおこりへいし、ほうけいみなみ兗州刺史ししただし紹先をり、ぜん太子たいし舎人とねりしょう勔をして刺史ししとした。あきらあずまたかしむすんでその援助えんじょ期待きたいし、遠近えんきんげきばして、ほうけいとうとはかった。ほうけいはそののうちにほうかんらをひきいて京口きょうぐちから出撃しゅつげきし、水陸すいりくよりあきら攻撃こうげきした。

2がつほうけい広陵こうりょうじょうとした[4]ほうけいあきらくるまきにし、広陵こうりょう城中じょうちゅうものたちを老若ろうにゃくわずみな斬殺ざんさつした。ほうけいほうかんかんみなみ兗州ごととした。ほうけいは簡文みかどせまって西にししゅうじょうにそのうつさせた[4]

このつきほうけいそうせん京口きょうぐち召還しょうかんした。

4がつほうけいもとおもえけん東道とうどうぎょうだいとし、銭塘ぜんども駐屯ちゅうとんさせた。ほうかんみなみ兗州刺史ししとした。

文成ふみなりこうしょうやすしくれぐん西郷さいごうおこりへいし、10日とおかほどのあいだに1まんへいあつめて西上にしがみした。ほうけいひさしこうはじめほうさかえがこれを撃破げきはし、しょうやすしり、その首級しゅきゅうほうけいつたえた。

5月、鄱陽嗣王しょうはん死去しきょした[4]

6がつぜんつかさしゅう刺史ししひつじからすじん尚書しょうしょしょうから西にししゅうじょう逃亡とうぼうした[4]

7がつほうけい部将ぶしょうにんやくあきらりゃくすすむ熙郡攻撃こうげきし、鄱陽世子せいししょう嗣を殺害さつがいした。ほうけいおうえら中書ちゅうしょかんとした。にんやくぐんすすめてしゅう襲撃しゅうげきし、しゅう刺史ししひろおうしょうだいしんがこれにった。しょう繹はしゅう失陥しっかんいて、まもるぐん将軍しょうぐんじょぶんもり派遣はけんしてたけあきらひがしくださせ、にんやくをはばませた。

8がつ、湘東おうしょう繹がりょうぐん将軍しょうぐんおうそうべんへいあたえて郢州にせまらせた[4]ほうけいみずか相国しょうこくすすめ、泰山たいざんぐんなど20ぐんみずからをふうじてかんおうとなり、けんくつ上殿かみどの入朝にゅうちょう趨・さんはい特権とっけんた。邵陵おうしょう綸が郢州を放棄ほうきして逃亡とうぼうした[4]

ほうけいやなぎ敬礼けいれいまもるぐん将軍しょうぐんとし、きょう詢義を相国しょうこくひだりちょうとし、じょひろしひだり司馬しばとし、りくやくみぎちょうとし、沈衆をみぎ司馬しばとした。

このつきほうけい水軍すいぐんひきいて皖口に遡上そじょうした。

10月、武林たけばやしこうしょうはかこう莫門でぞく殺害さつがいされた。しょうはかつねに簡文みかど寝室しんしつ出入でいりしており、ほうけいいちとう制御せいぎょけなかったために排除はいじょされたものである。

ほうけいみずからに宇宙うちゅう大将軍だいしょうぐんとくろくごうしょ軍事ぐんじかんした。みことのりぶん呈示ていじされた簡文みかどは「将軍しょうぐん宇宙うちゅうごうなんてあるのか」と驚愕きょうがくしたとつたわる。

きたひとし将軍しょうぐんからしじゅつ陽平ようへい包囲ほういしたため、ほうけいくだりだいかくもとけん援軍えんぐんおもむくと、からしじゅつ撤退てったいした。

じょぶんもりいそはいったため、にんやく水軍すいぐんひきいてむかたたかった。じょぶんもりにんやくやぶり、大挙たいきょこう進軍しんぐんした。

ときにほうけいは皖口に駐屯ちゅうとんしており、たてやすし手薄てうすであったことから、みなみやすしおうしょうかいきた兗州司馬しばなり欽らがたてやすし襲撃しゅうげきしようとしていた。けんやすこうしょう賁がその計画けいかくってほうけい報告ほうこくすると、ほうけいしょうかいとそのおとうとの祁陽こうしょうどおりやなぎ敬礼けいれいなる欽らを収監しゅうかんさせ、そろって殺害さつがいさせた。

11月、にんやく西陽にしびぐん進軍しんぐんし、へいけてひとしあきらぐん攻撃こうげきした。にんやくは衡陽おうしょうけんじらえてたてやすしおくり、しょうけんじ殺害さつがいされた[4]

12月、ほうけいは簡文みかどみことのりいつわってしょう賁を竟陵おうふうじ、みなみやすし陰謀いんぼうあばいた褒美ほうびとした。

このつきちょうぴょうかい稽郡のわかよこしまさん義軍ぎぐんこし、うえおそれけんやぶった。ほうけいかい稽郡太守たいしゅの蔡台らくがこれをとうとしたが、制圧せいあつできなかった。ちょうぴょうしょ曁や永興りょうごなどのしょけんとし、ほうけいどう遷・ちょうはくちょうしゃこたえじんらを東方とうほう派遣はけんしてちょうぴょうたせた。

551ねん大宝たいほう2ねん)1がつちょうぴょうべつしょう派遣はけんして銭塘ぜんどもとみはる攻撃こうげきした。遷が進軍しんぐんしてこれとたたかってやぶった。

ほうけいおうかつふとしとし、そうせんふとしとし、もとふとしでんとし、かくもとけんふとしじょうとし、ちょうじんつかさとし、にんやくつかさそらとし、于慶を太子たいしふとしとし、ときれいまもる太子たいしふとしとし、紇奚きん太子たいしふとしでんとし、おうえら尚書しょうしょひだりぼくしゃとし、さくちょう尚書しょうしょみぎぼくしゃとした。

きた兗州刺史しししょう邕があずまたかしろうとはかって、ことれてほうけい殺害さつがいされた。

このつき、湘東おうしょう繹がともえしゅう刺史ししおう珣らにへいひきいてたけあきらひがしくださせ、じょぶんもりたすけさせた。にんやくしょう繹麾兵力へいりょくえていることから、ほうけいきゅうげさせた。

3月、ほうけいみずかへい2まんひきいて西にしじょうし、にんやく救援きゅうえんした。

4がつほうけい西陽にしび宿営しゅくえいした。じょぶんもり水軍すいぐんひきいてむかたたかい、ほうけいぐんおおいにやぶった。ほうけいは郢州のへいすくないのをって、そうせんけい300をあたえて郢州を襲撃しゅうげきさせた。郢州刺史しししょうかたもろ行事ぎょうじあわびいずみらえ、たけあきら軍人ぐんじん家族かぞくたちをことごとく拘束こうそくした。じょぶんもりらがこのことをくと、こうりょうかえった。ほうけい勝利しょうりじょうじて西上にしがみした。

閏月じゅんげつりょうぐんおうそうべんともえりょう宿営しゅくえいしており、ほうけい西上にしがみ遭遇そうぐうすると、しろけんかべってこれをはばんだ。ほうけいちょうかこえもうけて、土山つちやまきずき、昼夜ちゅうやかたず攻撃こうげきさせたが、とせなかった。ほうけいぐんちゅう疫病えきびょう発生はっせいし、死傷ししょうしゃ過半かはんかぞえた。

5月、湘東おうしょう繹はひらきた将軍しょうぐんえびすそうゆうへい2000にんあたえてともえりょう救援きゅうえんさせた。ほうけいはこれをくと、にんやく精兵せいびょうすうせんあたえてえびすそうゆうむかたせた。

6がつえびすそうゆう居士こじりくほうとともにあかてい退しりぞいてこれをち、にんやく会戦かいせんして勝利しょうりし、にんやくりにした。ほうけい敗戦はいせんくと、夜間やかん逃走とうそうした。ちょうかずを郢州刺史ししとし、そうせんときれいまもるらをめて郢州をまもらせ、ちょうじんや閻洪けいに魯山じょうまもらせた。おうそうべんへいひきいてひがしくだし、かんこう宿営しゅくえいし、魯山じょうおよび郢州じょう攻撃こうげきして、いずれも陥落かんらくさせた。

7がつほうけいたてやすし帰還きかんした。おうそうべんぐんが湓城に宿営しゅくえいし、ほうけいくだりしゅうごとの范希さかえしろてて逃走とうそうした[4]

8がつ丙午ひのえうますすむ熙郡のおうそうていちょうおこりへいしてぐんじょうおそい、ほうけいすすむしゅう刺史ししなつほうたけしせいどうにんのべ逃走とうそうした。つちのえうまほうけいまもるじょうきょうの彭儁やひさしこうおうそうたかへいあたえていれ殿どのさせ、簡文みかど廃位はいいしてすすむ安王やすおう降格こうかくさせ、永福えいふくしょう幽閉ゆうへいした。皇太子こうたいししょう大器たいきひろおうしょうだいしん西陽にしびおうしょうだいひとしたけやすしおうしょうだいたてひらおうしょうだいたまよし安王やすおうしょうだいおよびひろおう諸子しょし20にん殺害さつがいした[4]

あきらおう擁立ようりつほうけいしょうみかど

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このほうけいあきらおうしょうとうむかえて皇帝こうてい即位そくいさせた。太極たいきょくまえ殿どののぼり、天下てんか大赦たいしゃし、天正てんしょう元年がんねん改元かいげんした。ほうけい使者ししゃ派遣はけんして南海なんかいおうしょうだいくれぐんで、みなみぐんおうしょう大連たいれんしゅうと孰で、あんりくおうしょうだいはるかい稽で、新興しんこうおうしょうだいそう京口きょうぐち殺害さつがいさせた[4]

ほうけいりゅうかみしげるつかさそらとし、じょひろしたいらみなみ将軍しょうぐんとし、はたあきらこれおう曄・賢明たてあきじょひさしじょちんこくそうちょうたからいんおもえあいをあわせてどうさんつかさとした。

ほうけいあい太子たいししょう大器たいきかくもとけんたまわったが、かくもとけんは「どうして皇太子こうたいしひとわらわくだることがあろうか」とって、おうとしなかった。

10がつみずのえとらよるほうけいまもるじょうの彭儁やおうおさむ纂にさけたせて簡文みかど献上けんじょうし、簡文みかど泥酔でいすいして寝入ねいったところを大量たいりょう土嚢どのうんであつさせた。

このつきほうけいつかさそら東道とうどうぎょうだいりゅうかみしげるどういんおもえあいりゅうかえりよしおう曄、くも麾将ぐんくわいぬいおうもと頵らが東陽とうようって湘東おうしょう繹に帰順きじゅんした。しょう繹はそのままもと頵とべつしょううらないちょうめぐみろう建徳けんとく江口えぐちらせた。いんおもえあいほうけいしんやすぐん太守たいしゅもと拘束こうそくして、そのへいうばった。

ちょうぴょうえいよしみぐん攻撃こうげきし、えいよしみぐん太守たいしゅはたとおちょうぴょうった。

11月、ほうけいちょうはくちょう東道とうどうぎょうだいとし、銭塘ぜんども駐屯ちゅうとんさせた。どう遷やしゃこたえじんらに東方とうほうりゅうかみしげる攻撃こうげきさせた。かくもとけんたいじょうきたぎょうだいのままみなみ兗州刺史ししとした。

ほうけいみずかきゅうすずれいくわえ、丞相じょうしょう以下いか百官ひゃっかんいた。みなみ兗州刺史ししほうかんによりしろ麞が献上けんじょうされ、たてやすしでは白鼠しろねずみられて献上けんじょうされるなど、瑞祥ずいしょう演出えんしゅつされた。ほうけい祖父そふ大将軍だいしょうぐんを、亡父ぼうふ丞相じょうしょうくらい追贈ついぞうされた。みずから冕官をくわえ、天子てんし旌旗せいきて、うまくるま舞楽ぶがくなど皇帝こうてい礼式れいしきととのえた。

ほうけいしょうとうみことのりにより帝位ていい自分じぶんゆずらせた。禅譲ぜんじょう儀式ぎしき旧制きゅうせいにのっとっておこなったものの、ほうけいはゆえなくけんとし、ウサギまえ横切よこぎってはせ、白虹はくこうつらぬくなど、不吉ふきつなことがつづいた。ほうけい太極たいきょくまえ殿どののぼり、天下てんか大赦たいしゃし、ふとはじめ元年がんねん改元かいげんした。しょうとうを淮陰おうふうじて、かんしょう幽閉ゆうへいした。りょうただしかんりつとし、ひだりみん尚書しょうしょあらためて殿中でんちゅう尚書しょうしょとし、へい尚書しょうしょななへい尚書しょうしょとし、ただし殿どのぬしそちちょくとした。ひだりぼくしゃおうえらが(儒教じゅきょうそくして)皇帝こうてい祖先そせんびょうとしてななびょうてるべきと進言しんげんしたところ、ほうけいは「先祖せんぞのことはおぼえていないが、ちちならしるべだ」とこたえたため、人々ひとびとはみなひそかにこれをわらった。

12月、しゃこたえじんけいらが建徳けんとくにいたり、もと頵やうらないしがらみ攻撃こうげきしてやぶった。もと頵とうらないらえてほうけいのもとにおくった。ほうけいもと頵らの手足てあしとすと、にちってからふたりはんだ。

ほうけい敗亡はいぼう

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ほうけいともえりょう敗戦はいせん以来いらい西方せいほうでは敗北はいぼくつづきであった。混乱こんらんじょうじてきたひとしぐん南進なんしんし、湘東おうしょう繹の東征とうせいぐんはさちになることをほうけいおそれた、そこで552ねんふとしはじめ2ねん)1がつかくもとけん歩兵ほへいひきいてしょう峴におもむかせ、ほうかん水軍すいぐんひきいて濡須にかわせ、きたひとしたいして兵力へいりょく示威じいした。ほうかんごうこえたっし、しろとした。かくもとけんこうかんは湘東おうしょう繹のぐん接近せっきんしているといて、ごうこえ民衆みんしゅう住居じゅうきょかせ、ぐん撤退てったいして、ほうかんしゅうと孰をたもち、かくもとけん広陵こうりょうかえった。

ひがし南方なんぽうではしゃこたえじんりゅうかみしげる攻撃こうげきし、りゅうかみしげるべつしょうおうはなうららどおりくだし、りゅういんおもえごうらを敗走はいそうさせるなど、ほうけいがわ優勢ゆうせいがまだ目立めだっていた。

おうそうべんぐんかぶらみずうみにやってくると、ほうけいがわかぶらみずうみ城主じょうしゅ日没にちぼつ逃走とうそうした。ほうけいふみ安和あわそうちょうたからにへい2000をひきいさせて、しゅうと孰をまもほうかんたすけさせた。安和あわらは遷らをってたてやすしもどった。3月、ほうけいしゅうと孰にき、るいしがらみ巡視じゅんしした。ほうけいほうかんせんいましめたため、ほうかんいつけをまもっていたじゅうすう日間にちかんおうそうべん足止あしどめできたものの、てきをあなどって出撃しゅつげきすると、ほうかん大敗たいはいきっした。

おうそうべん進軍しんぐんしてちょうこうしゅう宿営しゅくえいすると、ほうけいあきらりゃく石頭いしあたまじょうまもらせ、紇奚きんに捍国じょうまもらせ、民衆みんしゅうぐん家族かぞくたちをだい城内じょうないれた。おうそうべんほうけいがわみずしがらみくと、はた淮河にはいり、さちれいてらなぎさたっした。ほうけいおどろいて、はた淮河のえん石頭いしあたまじょうから朱雀すざくこうたっするしがらみてさせた。おうそうべんしょしょう石頭いしあたまじょう西にし陣営じんえいつらねてしがらみて、落星墩にまでおよんだ。ほうけいみずかこうかん・于慶・安和やすかずおうそうとうとらをひきいて、石頭いしあたまじょう東北とうほくしがらみててまもった。おうえらさくちょうりょりゃくたいじょうまもらせ、そうちょうたかのべ祚寺をまもらせた。おうそうべんちちはかあばいて、かんこわ遺骨いこつかせた。おうそうべんらは陣営じんえい石頭いしあたまじょうきたすすめ、ほうけいじんならべてたたかいをいどんだ。おうそうべん大軍たいぐんひきいて猛攻もうこうくわえ、ほうけいぐん撃破げきはした。ほうかん安和やすかずおうそうとうとはおのおのしがらみ放棄ほうきして逃亡とうぼうし、あきらりゃくと紇奚きん降伏ごうぶくした。

ほうけいおうえらの諫めもかず、たてやすし宮殿きゅうでん放棄ほうきしてひがし逃走とうそうした。どう遷や范希さかえら100したがえるのみであった。おうえらたいじょうてて逃走とうそうし、ほうかんらは広陵こうりょうのがれた。

おうそうべん部将ぶしょうほうほうけいわせた。ほうけいすすむりょうぐん到着とうちゃくすると、太守たいしゅじょひさしひがし拉致らちしてくれぐんのがれた。ほうけいよしみきょうすすんで宿営しゅくえいすると、ちょうはくちょう銭塘ぜんどもってほうけいをはばんだ。ほうけいくれぐんかえし、松江まつえたっした。ほう瑱のぐんがやってくると、ほうけいへいたちはたたか準備じゅんびもせず、みなはたげて降伏ごうぶくした。ほうけいめることができず、そのまま腹心ふくしんすうじゅうにんとともにふねはしらせ、推墮ふたりのみずとし、滬瀆からうみはいった。つぼまめしゅうにいたって、ほうけいぜん太子たいし舎人とねりひつじひつじただし三男さんなん)に殺害さつがいされた。ほうけい遺体いたいおうそうべんのもとにおくられ、くび切断せつだんされた。ほうけい首級しゅきゅうこうりょうおくられ、くびよりしたからだたてやすしにさらされた。ほうけいうらみを人々ひとびとあらそってそのにくけずり、なますにしていつくしてしまった。のこったほねかれてはいにされ、さけわされてまれた。こうりょうおくられたほうけい首級しゅきゅうは、しょう繹のいのちによりにさらされ、そのつめてうるしにされ、武庫むこおくられた。

評価ひょうか

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川勝かわかつ義雄よしおは、ほうけいたてやすし攻略こうりゃくを「成功せいこう」させた理由りゆうについて、だいいちに「かれが首都しゅとおよびその周辺しゅうへん失業しつぎょうしゃぐん扇動せんどうすることができたこと」、だいに「りょう帝国ていこく軍隊ぐんたいそのものが内部ないぶ分裂ぶんれつひんしていたこと」、だいさんに「官吏かんり貴族きぞくなど、緊急きんきゅう事態じたい対処たいしょして、ひとうえ指揮しきすべき立場たちばのものがおどろくほど柔弱にゅうじゃくになっていたこと」をげている[5]

もり三樹三郎みきさぶろうは、「ほうけい奇襲きしゅう作戦さくせん渡江とのえ作戦さくせん成功せいこうしたのは、ひとえに臨賀おう手引てびきによったとわねばならない。最大さいだいてきはほかならぬ宮廷きゅうていうちひそんでいたのである」[6]といい、「はり滅亡めつぼうは、文弱ぶんじゃくによるというよりも、じつひとなかったところに根本こんぽん原因げんいんがあった」[7]いている。

会田あいだ大輔だいすけは、「どうやらほうけいは、官制かんせい北朝ほくちょうとくあずまたかし)、儀礼ぎれい南朝なんちょうというキメラのような体制たいせい構築こうちくはかったようである」[8]ひょうした。

吉川よしかわ忠夫ただおは「ほうけいらん疾風しっぷうのごとくけてったとき、江南こうなん貴族きぞく社会しゃかい荒廃こうはいからたちなお気力きりょくうしなってしまったかのようである」[9]ひょうした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ きたひとししょまき2 かみ武紀たけのり
  2. ^ しょまき12 こうせい
  3. ^ はりしょまき42 でん岐伝
  4. ^ a b c d e f g h i j k はりしょまき4 簡文みかど
  5. ^ 川勝かわかつ義雄よしおすすむ南北なんぼくあさ』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 2003ねん)pp.281-283。もとはんは『中国ちゅうごく歴史れきし3 すすむ南北なんぼくあさ講談社こうだんしゃ、1974ねん
  6. ^ もり三樹三郎みきさぶろう仏教ぶっきょう王朝おうちょう悲劇ひげき はりたけみかど』(法蔵館ほうぞうかん文庫ぶんこ 2021ねん)p.179。
  7. ^ はりたけみかど』p.182。
  8. ^ 会田あいだ大輔だいすけ南北なんぼくあさ時代じだい えびすじゅうろくこくからずい統一とういつまで』(中公新書ちゅうこうしんしょ 2021ねん)p.198。
  9. ^ 吉川よしかわ忠夫ただおほうけいらん始末しまつ 南朝なんちょう貴族きぞく社会しゃかい命運めいうん』(中公新書ちゅうこうしんしょ 1974ねん)p.84。新版しんぱん志学しがくしゃ、2019ねん