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韋粲

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つばら(い さん、たてたけし2ねん495ねん)- ふときよし3ねん1がつ1にち549ねん2がつ13にち))は、南朝なんちょうはり官僚かんりょう軍人ぐんじんちょう蒨、あるいはちょう倩。ほんぬききょうちょうぐんもりりょうけん

経歴けいれき

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きたじょしゅう刺史しし韋放としてまれた。成長せいちょうすると学問がくもんこのみ、身長しんちょうは8しゃくあり、容貌ようぼう雄偉ゆういであった。すすむ安王やすおうしょうつなしたくも麾行さんぐん初任しょにんとした。まもなく法曹ほうそうさんぐん代行だいこうした。そとへいさんぐんてんじ、ちゅうへいさんぐんねた。ときに庾仲ようちょうりつらがしょうつなつかえていたため、韋粲はかれらと忘年ぼうねんの交をむすんだ。

しょうつな雍州刺史ししとしてじょう赴任ふにんすると、韋粲はこれに随行ずいこうして、ちゅうへいさんぐんねたまましつさんぐんをつとめた。しょうつな皇太子こうたいしとしてつと、韋粲は歩兵ほへいこうじょうてんじ、東宮とうぐうりょうじきとして入朝にゅうちょうした。ちょうどちち死去しきょしたため、しょくしてふくした。ほどなく招遠将軍しょうぐんとして起用きようされ、ふたた東宮とうぐうりょうひたとなった。けると、永昌えいしょうけんこう爵位しゃくいぎ、東宮とうぐうりょうじきのまま湘東おうしょうした安西あんざいはかさんぐんとなり、ふたたしょうつなした太子たいしぼく太子たいしひだりまもるりつ歴任れきにんした。

ちゅう大同だいどう2ねん547ねん)、つうちょくつねさむらいてんじたが、拝受はいじゅしないうちにぶしみやこただし衡州しょ軍事ぐんじやすどお将軍しょうぐん・衡州刺史ししあらためてにんじられた。同年どうねんふとし清元きよもとねん)、衡州に赴任ふにんしてまもなく韋粲は解職かいしょくねがた。

ふときよ2ねん548ねん)、つねさむらいとしてされた。韋粲はたてやすしかえ途中とちゅういおりりょうにいたとき、ほうけい反乱はんらんこしたことをき、部下ぶかあつめて5000のへいて、たてやすし救援きゅうえんかった。あきら到達とうたつすると、反乱はんらんぐん横江よこえ進出しんしゅつしたとのらせがはいった。韋粲はうちりゅうたかし協議きょうぎしたが、りゅうたかしたけみかど命令めいれいとうと消極しょうきょくてきであった。このため韋粲は酒杯しゅはいっていかり、反乱はんらんぐん長江ながえわたって宮城みやぎせまっているのにぐずぐずしているわけにはいかないと、うまして出発しゅっぱつしようとした。たまたましゅう刺史ししとうこうしょうだいしん使者ししゃが韋粲のところにやってきたため、韋粲はしょうだいしんのところにけつけた。韋粲はしょうだいしん湓城移転いてんするようもとめ、自分じぶんへんしょうをつけてもらうようたのんだ。しょうだいしんはこれに賛同さんどうし、ちゅうへいやなぎ昕にへい2000にんあたえて韋粲にしたがわせた。韋粲は家族かぞくしゅうめて、かる軍船ぐんせん長江ながえくだった。みなみしゅうたっすると、韋粲のそとおとうとつかさしゅう刺史ししやなぎなかあやがまたへい1まんにんあまりをひきいて横江よこえ到着とうちゃくしており、韋粲は食糧しょくりょう武器ぶきをかれにおくり、私財しざいさんじて兵士へいしたちの褒美ほうびとした。

せんだって鄱陽おうしょうはん西にししゅう刺史しし裴之だかしょう嗣に江北こうほくへいひきいさせてごうこえからたてやすしかわせた。裴之だからのぐんちょうこうしゅう駐屯ちゅうとんすると、上流じょうりゅうしょぐんがやってくるのをった。裴之だかふね派遣はけんしてやなぎなかれい長江ちょうこうわたらせ、裴之だからとやなぎなかれいらは合流ごうりゅうしておうゆうえん進軍しんぐんした。韋粲はやなぎなかれいだいとくしたが、裴之だかはそのしたにつくことをきらい、連日れんじつ議論ぎろんしてもまらなかった。韋粲が私情しじょうはいして団結だんけつするよう人々ひとびと叱咤しったすると、裴之だか妥協だきょうし、しょしょう議論ぎろんさだまって、やなぎなかれいはようやく進軍しんぐんすることができた。

同年どうねん12がつやなぎなかれいらのぐんしんちん宿営しゅくえいすると、反乱はんらんぐん中興寺ちゅうこうじ布陣ふじんして、りょうぐん対峙たいじし、ばんにいたっておのおの帰営きえいした。このよるやなぎなかれいは韋粲の陣営じんえいはいって、翌朝よくあさたたかいにおけるしょしょう配置はいちめ、韋粲にはあお塘を守備しゅびするようもとめた。あお塘は石頭いしあたま中路なかじたり、しがらみるいがまだっておらず、てき攻撃こうげき集中しゅうちゅうすることを韋粲は心配しんぱいした。やなぎなかれい大事だいじまかせられるひとがほかにいないと、韋粲にあお塘をまかせ、ちょくごう将軍しょうぐんりゅう叔胤をつけて韋粲をたすけさせることとした。韋粲のへい水陸すいりくりょうすすむしたが、夜霧よぎりまよい、あお塘にいたときには夜半やはんぎて、るいしがらみがたになってもつながっていなかった。ほうけいぜんれいてらもんかくのぼって、韋粲の陣営じんえいがまだととのっていないのをのぞると、精鋭せいえい派遣はけんして攻撃こうげきをかけさせた。韋粲のぐんそいをつとめるおうちょうしげるしがらみってつようすすめたが、韋粲はしたがわず、ぐんぬしていいつ迎撃げいげきさせ、りゅう叔胤に水軍すいぐんひきいさせてそのめをめいじた。りゅう叔胤はおそれてすすもうとせず、ていいつ孤立こりつしてやぶれた。反乱はんらんぐん勝利しょうりじょうじて韋粲の陣営じんえいはいりこんだので、側近そっきんたちは韋粲を避難ひなんさせようとしたが、韋粲はうごかず、子弟してい叱咤しったして奮戦ふんせんし、戦死せんしした。享年きょうねんは54。

韋粲のの韋尼と、韋粲のおとうとの韋助・韋警・韋構の3にん、および従弟じゅうていの韋昂はみな戦死せんしし、親族しんぞく姻戚いんせき死者ししゃすうひゃくにんおよんだ。ほうけい反乱はんらんぐんは韋粲の首級しゅきゅうたてやすし城下じょうかかかげて、城内きうちしめした。皇太子こうたいししょうつなはこれをいてなみだながし、たけみかどいのちにより韋粲にはまもるぐん将軍しょうぐんくらい追贈ついぞうされた。しょう繹がほうけいらん平定へいていすると、韋粲にはちゅうさだついおくりなされた。

子女しじょ

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  • 韋臧(長男ちょうなんきみ尚書しょうしょさん公郎きみお太子たいし洗馬せば東宮とうぐうりょうじき歴任れきにんした。ほうけいたてやすし攻撃こうげきすると、韋臧はへいひきいて西にしはなもん駐屯ちゅうとんした。たてやすし陥落かんらくすると、しゅうのがれた。しょうったが、部下ぶか殺害さつがいされた)
  • 韋尼

伝記でんき資料しりょう

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