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あきら

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あきら
大明だいめい
元 (王朝)
夏 (元末)
梁王国
胡朝
1368ねん - 1644ねん 後金
南明
順 (王朝)
明の国章
印璽いんじ
明の位置
1415ねん領域りょういき
公用こうよう 官話かんわ
首都しゅと 南京なんきん1368ねん - 1421ねん
北京ぺきん1421ねん - 1644ねん
皇帝こうてい
1368ねん - 1398ねん ふとし ひろしたけみかど
1402ねん - 1424ねんふとしそう 永楽えいらくみかど
1627ねん - 1644ねんおもえそう たかしただしみかど
丞相じょうしょう
内閣ないかくだい学士がくし
1368ねん - 1371ねんよしちょう
1644ねん - 1644ねんとく
面積めんせき
1422ねん9,970,000km²
1450ねん6,500,000km²
人口じんこう
1393ねん60,545,812[1]ひと
1491ねん53,281,198[2]ひと
1578ねん60,692,856[3]ひと
変遷へんせん
もとからあかり 1368ねん
やすしなんへん1402ねん
ていかずだい航海こうかい1405ねん - 1430ねん
土木どぼくへん1449ねん
ぶんろくやく慶長けいちょうやく1592ねん1598ねん
サルフのたたか1619ねん
なりらんにより滅亡めつぼう1644ねん
通貨つうかたからほうあなぜにぎん
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
タイ王国の旗 タイ
ミャンマーの旗 ミャンマー
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
ロシアの旗 ロシア
 ベトナム
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
ラオスの旗 ラオス
インドの旗 インド
ネパールの旗 ネパール
1662ねんまで南明なんめいとして存続そんぞく
あきら
中国ちゅうごく 明朝みょうちょう
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音Míng cháo
ウェードしきMing2 ch'ao2
IPA[mǐŋ tʂʰɑ̌ʊ]
ちゅう音符おんぷごうㄇㄧㄥˊㄔㄠˊ
マ字まじMín záu
粤語
イェール粤拼Mìhng chìuh
粤拼Ming4 ciu4
閩南
台湾たいわんマ字まじBîng tiâu
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

あきら(みん)は、中国ちゅうごく王朝おうちょうである。1368ねんから1644ねんまで存在そんざいし、明朝みょうちょうあるいは大明だいめいともごうした。しゅもとあきらもときたって建国けんこくし、なりぐんによる滅亡めつぼうのちには、きよしなり政権せいけんじゅん)とあかり再建さいけん目指めざ南明なんめい政権せいけん制圧せいあつして中国ちゅうごく大陸たいりく支配しはいした。

歴史れきし

しゅもとあきら建国けんこく

しゅもとあきら
永楽えいらくみかど
ちょうきょただし

モンゴル帝国ていこく(Yeke Mongγがんまol Ulus)から分裂ぶんれつしたのちカアン継承けいしょうモンゴル平原へいげん中国ちゅうごく大陸たいりく支配しはいした元朝がんちょう(Dai-ön Yeke Mongγがんまol Ulus)は、14世紀せいきはいると複数ふくすう皇后こうごうんだ男子だんし漢人かんど文官ぶんかんとしてうしたてとなり、帝位ていい相続そうぞくあらそいがこり統治とうち能力のうりょく低下ていかした。さらに疫災が相次あいついだため、白蓮びゃくれん教徒きょうと1351ねんべにはばらんこすと反乱はんらんまたたひろがった。べにはばぐん一方いっぽう将領しょうりょうであった貧農ひんのう出身しゅっしんしゅもとあきらふとしひろしたけみかど)は南京なんきん根拠こんきょ長江ながえ流域りゅういき統一とういつ成功せいこうし、1368ねんあかり建国けんこくした。ひろしたけみかど建国けんこくするとただちにきたはじめ、もと皇帝こうていめぐみむねだい放棄ほうきしてきたのがれ、万里ばんり長城ちょうじょう以南いなん中国ちゅうごくあかり統一とういつされる。江南こうなんから誕生たんじょうした王朝おうちょう中国ちゅうごく統一とういつした。

ひろしたけみかど中華ちゅうか統一とういつ達成たっせいすると外征がいせいおさえ、農村のうそん検地けんち人口じんこう調査ちょうさすすめてさとかぶとせいまもるしょせいき、内政ないせい安定あんていちからそそいだ。一方いっぽうひろしたけみかど建国けんこく功臣こうしん粛清しゅくせいし、宰相さいしょうにあたる中書ちゅうしょれい廃止はいししてろく皇帝こうてい直属ちょくぞくさせる皇帝こうてい独裁どくさい体制たいせいきずいた(詳細しょうさいえびすあいごく参照さんしょう)。

1398ねんひろしたけみかどくずれじてすめらぎふとしまごけんぶんみかど即位そくいすると、けんぶんみかど叔父おじたる各地かくち親王しんのう帝室ていしつ安定あんていのために排除はいじょされるようになった。北平きたひら中心ちゅうしん北方ほっぽう防備ぼうびになっていたひろしたけみかどよんなんであるつばめおうしゅ棣はめられ、つい反乱はんらんこした。1402ねんつばめおうしゅ棣は首都しゅと南京なんきん占領せんりょうしてけんぶんみかどから帝位ていい簒奪さんだつみずか皇帝こうてい即位そくいした(やすしなんへん)。これが永楽えいらくみかどである。永楽えいらくみかど即位そくいにより、政治せいじ中心ちゅうしんふたた北平きたひらあらた北京ぺきんへとうつった(ただしその南京なんきん南京なんきんろくき、ふくてきあつかいをしていた)。

属領ぞくりょう拡大かくだい朝貢ちょうこうこく増加ぞうか

永楽えいらくみかどは、北京ぺきん遷都せんとひろしたけみかど慎重しんちょうさくあらためてさかんに勢力せいりょくひろげた。きた退しりぞいた元朝がんちょう残党ざんとう北元きたもとあかりではこれを韃靼だったんんだ)は1388ねんトゴン・テムル・ハーンのおうみつる断絶だんぜつしていたが、永楽えいらくみかど遠征えんせいにより制圧せいあつした。まんしゅうでは服属ふくぞくさせたおんなしんぞく名目めいもくてき役職やくしょくあた羈縻まもるとし、1411ねん永楽えいらく9ねん黒龍江こくりゅうこう流域りゅういきやつみやこつかさ設置せっち管轄かんかつした。南方なんぽうでは大越おおこし(ダイベト・ベトナム北部ほくぶ)をひねあさえびすあさ内乱ないらんじょうじて征服せいふくした(だいよんきたぞく)。

さらに海外かいがい東南とうなんアジアインド洋いんどようにまで威信いしんひろげるべく宦官かんがんていかずひきいられただい艦隊かんたい派遣はけんし、一部いちぶメッカアフリカ東海岸ひがしかいがんまでたっするだい遠征えんせい結果けっか多数たすう国々くにぐにあかりとの朝貢ちょうこう関係かんけいむすばせた。

永楽えいらくみかど死後しご、モンゴルへの遠征えんせい東南とうなんアジアへの艦隊かんたい派遣はけん中止ちゅうしされ、おんなしんぞく管轄かんかつしたやつ1435ねんせんとく10ねん)に廃止はいし大越おおこし(ダイベト)では征服せいふくからわずか20ねんはじむあさ独立どくりつした。しかし永楽えいらくみかどひろし熙帝まごせんとくみかどだいあかり国力こくりょく充実じゅうじつし、最盛さいせい評価ひょうかされる(じんせん)。

きたとりこみなみやまと内乱ないらん危機きき

一方いっぽうこのころ、モンゴル高原こうげんでは西にしモンゴルのオイラトちからをつけ、モンゴルを制圧せいあつしたオイラト族長ぞくちょうエセン・ハーンあかり侵攻しんこうしてきた。1449ねんえいむね側近そっきん宦官かんがんおうすすめでオイラトにおやせいおこなったが、みずか捕虜ほりょとなる大敗たいはいきっした(土木どぼくへん)。捕虜ほりょになったえいむねわりすめらぎおとうとしゅ祁鈺が即位そくいした(けいたいみかど)。

エセン・ハーンは内紛ないふんころされ危機ききまぬかれたが、のち帰還きかんしてだつもんへん復位ふくいしたえいむね以来いらい歴代れきだい皇帝こうていむらさき禁城きんじょうからることをこのまず、また政治せいじかえりみない皇帝こうていおおく、国勢こくせいはしだいに低調ていちょうとなった。また、どう時期じき1448ねん小作こさくじん鄧茂なな地主じぬしへのふゆ牲や小作こさくじん負担ふたんによる小作こさくりょう運搬うんぱん免除めんじょもとめて反乱はんらんこし、鎮圧ちんあつには成功せいこうしたものの最終さいしゅうてき叛徒はんとすうじゅうまんにんふくがっている。

弘治こうじみかど施策しさくによりあかり国勢こくせい一時いちじてきなおすものの、正徳しょうとくみかどになるとふたた国政こくせいみだれた。これに反発はんぱつするかのように、皇族こうぞくやすしおうらん)や農民のうみん匪賊ひぞく反乱はんらん相次あいついでこるようになる。また、やまと中国人ちゅうごくじんみつ貿易ぼうえき商人しょうにんむすびついて活動かつどうはじめ、沿岸えんがんおびやかすようになった(後期こうきやまと寇)。さらにモンゴルではクビライ子孫しそんとされるダヤン・ハーン即位そくいし、オイラト対抗たいこうしてモンゴルのさい統一とういつげた。オルドス地方ちほう分封ぶんぽうされたダヤン・ハーンのまごアルタン・ハーンは16世紀せいきちゅうごろに頻繁ひんぱん中国ちゅうごく侵入しんにゅうし、1550ねんには北京ぺきん攻囲こういする(かのえいぬへん)などあかりなやませた。この時代じだいやまと寇とモンゴルを併称へいしょうして「きたとりこみなみやまと」とぶ。

あかり衰亡すいぼう

1572ねん、わずか10さいまんれきみかど即位そくいした。はじめの10年間ねんかん内閣ないかくだい学士がくしちょうきょただし政権せいけんり、国政こくせいなおしがはかられたが、ちょうきょせい死後しご親政しんせいはじまるとみかど政治せいじ放棄ほうきした。在位ざいいは48ねんおよぶが、途中とちゅう哱拝のらん文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき楊応りゅうらんなどで出費しゅっぴがかさみ財政ざいせい破綻はたんした。このような時局じきょくうれえた人士じんしすずひがしりん書院しょいん結集けっしゅうひがしりんとうという政治せいじ集団しゅうだんつくられた。以後いごひがしりんとうはんひがしりんとう政争せいそうこる。まんれきみかど死後しごやすしあきらみかど即位そくいまもなく急死きゅうしし、天啓てんけいみかど寵臣ちょうしん宦官かんがんちゅうけん国政こくせいゆだねるなど、政情せいじょう混乱こんらんつづいた。ちゅうけんによってひがしりん書院しょいん閉鎖へいさされ、ひがしりんとう人士じんし投獄とうごく殺害さつがいされた。対外たいがいてきにも弱体じゃくたいにより、それまで離間りかんさくをとってきたおんなしんヌルハチ(ふとし)による統一とういつゆる1616ねん後金あときんこく(amaga aisin gurun)が建国けんこくされた。あかりは1619ねんサルフのたたか後金あときんぐん敗北はいぼく。1636ねんにはだいもと皇帝こうてい(ハーン)を継承けいしょうしていたリンダン・ハーン遺児いじエジェイ後金あときんり、大元おおもと皇帝こうていつたわるたませい誥之たから」を献上けんじょうしたことで元朝がんちょう継承けいしょうし、まんしゅう・モンゴル・漢人かんど推戴すいたい皇帝こうてい即位そくいしたホンタイジふとしむね)によりおんなしんまんしゅう(manju)と民族みんぞくめいあらたきよし(daicing gurun)が成立せいりつした。

天啓てんけいみかどの7ねん治世ちせいのちたかしただしみかど即位そくいしたときにはすであかり末期まっきてき症状しょうじょうをきたしていた。さらに即位そくいまもなく飢饉ききんこり、反乱はんらん相次あいつぎ、さらにきよしぐん侵攻しんこうはげしさをした。名将めいしょう袁崇煥きよしぐんふせいでいたものの、ホンタイジの策略さくりゃくはまったたかしただしみかどが袁崇煥をうたが惨殺ざんさつしてからはしんぐんおさえられなくなり、さらながれぞくから台頭たいとうしたなり西安しーあんってだいじゅんしょうし、北京ぺきんせまった。1644ねんなりぐん包囲ほういまえたかしただしみかど自殺じさつし、あかり滅亡めつぼうした。

同年どうねんきよしなりぐんやぶって北京ぺきん占領せんりょうし、中国ちゅうごく支配しはい宣言せんげんすると、中国ちゅうごく南部なんぶにいたあかり皇族こうぞく官僚かんりょう南明なんめいきよし抵抗ていこうしたが、雲南うんなんからビルマんだえいれきみかど最後さいごほろぼされた(あきらしん交替こうたい)。福建ふっけんでもてい成功せいこう台湾たいわん拠点きょてん抵抗ていこうしたが、てい政権せいけんのちきよし降伏ごうぶくしている。あかり遺臣いしんとしては、このビルマ(コーカンぞく)、台湾たいわんのほか、こう南朝なんちょうベトナムに亡命ぼうめいし、メコンデルタへの植民しょくみんとして活用かつようされたものなどがある。南明なんめい日本にっぽん江戸えど幕府ばくふなん援軍えんぐん派遣はけん物資ぶっし援助えんじょ要請ようせいしている。徳川とくがわ御三家ごさんけ薩摩さつまはん出兵しゅっぺいたいしてであったとの記録きろくがある。日本にっぽんがわきよしへの手前てまえ公式こうしき援助えんじょおこなうことが出来できないためてい交易こうえき利権りけん長崎ながさき貿易ぼうえき)を黙認もくにんすることによって間接かんせつてき援助えんじょした。

1580ねんあかりこく領域りょういき羈縻地域ちいきがらす斯蔵チベット)・やつおんなしん)をのぞく。

1724ねんあかりだいおうしゅつねてこまごしゅきよし雍正みかどより一等いっとうのべおんこう爵位しゃくいさづけられ、以後いごはその子孫しそんあかり祭祀さいしがれた。

政治せいじ

ひろしたけみかど永楽えいらくみかど初期しょき二人ふたり皇帝こうてい独裁どくさいてき政治せいじおこなったため、それ以降いこうあかり政治せいじ同様どうようとなった。皇帝こうてい不興ふきょうえば高位こういしんでも即座そくざたまわることがあった。あかり官吏かんりつね誅殺ちゅうさつにおびえ、あさ家族かぞく水杯みずさかずきをし、覚悟かくごして出仕しゅっしし、ゆうかえってふたた家族かぞく出会であえたことによろこんだという。このためあかり官吏かんりおおくの場合ばあいことなかれ主義しゅぎはしり、あかり政治せいじ皇帝こうてい出来でき不出来ふできすべてがかかることになった。あかりでは名君めいくん治世ちせいみじかく(ひとしむねひろし熙帝は1ねんせんむねせんとくみかどは10ねんこうむね弘治こうじみかどは18ねん)、一方いっぽうむねよしみやすしみかどは45ねんかみはじめまんれきみかど在位ざいい48ねんというように暗君あんくん治世ちせいながかった。また官僚かんりょうの俸禄はひくく、忠誠ちゅうせいしん低下ていか汚職おしょくによる腐敗ふはいまねいた。顧炎たけしはそのような状況じょうきょうを「うすろくがい」とんだ。

明代あきよ後期こうきより富裕ふゆう大夫たいふそう地方ちほう指導しどうしゃとしての地位ちい確立かくりつし、ごうしんあたらしい身分みぶんそう形成けいせいする。かれらは基本きほんてき官僚かんりょうであり、官僚かんりょうとしての地位ちいとそのあいだげた財産ざいさん地方ちほう指導しどうしゃとして政府せいふ地方ちほうかん命令めいれいするほどの権力けんりょくった。しかしから以前いぜん貴族きぞくとはちがい、ごうしん血縁けつえんによって財産ざいさん保持ほじしているわけではなく、一族いちぞくなか科挙かきょ合格ごうかくするものがない場合ばあい没落ぼつらくすることになるため、「いちだいかぎりの貴族きぞく」という表現ひょうげんもある。のちのしんだいではごうしんそう地方ちほうつよ基盤きばんをもとにからし革命かくめい活躍かつやくすることになる。

官制かんせい税制ぜいせい兵制へいせい

魚鱗ぎょりんさつ

あかりはつ官制かんせいはほぼもとせい踏襲とうしゅうであるが、1380ねんえびすおもんみいさおごくをきっかけに皇帝こうてい独裁どくさい体制たいせい確立かくりつはかった。ひろしたけみかど宰相さいしょうである中書ちゅうしょしょう廃止はいししたが、実際じっさい皇帝こうてい一人ひとりすべての政務せいむにあたるのは不可能ふかのうであり、補佐ほさやくとしてつくられた内閣ないかくだい学士がくし事実じじつじょう宰相さいしょうしょくとなる。

内閣ないかくした行政ぎょうせい機関きかんであるろくがある(詳細しょうさいろく参照さんしょう)。また官僚かんりょう監察かんさつ機関きかんであるだいあらためて察院とし、軍事ぐんじ最高さいこう機関きかんである枢密院すうみついんあらためてだいとくとし、さらとくなかまえひだりみぎ分割ぶんかつしてぐんとくとした。

しかし、ひろしたけみかど猜疑心さいぎしんおさまらず、皇帝こうてい直属ちょくぞく特務とくむ機関きかんであるにしきころもまもるつくる。さらに永楽えいらくみかど時代じだい宦官かんがん特務とくむ機関きかんひがししょう創設そうせつした。のちにひがししょうたいして西にししょうつくられるが、こちらはすぐに廃止はいしされる。これらの特務とくむ機関きかん存在そんざいあかり官界かんかいくらくした。また、明代あきよ官僚かんりょう給与きゅうよひくく、歴代れきだいでももっと不遇ふぐうともわれる。給与きゅうよ抑制よくせい賄賂わいろ横行おうこうまねき、官界かんかい腐敗ふはい原因げんいんとなった。

地方ちほう制度せいどもとだいくだり中書ちゅうしょしょうつよすぎる権限けんげんきらって廃止はいしし、それにわり権限けんげん大幅おおはば縮小しゅくしょうした民政みんせい財政ざいせい担当たんとううけたまわ宣布せんぷせい使(しょうせんふせいしし)、裁判さいばん監察かんさつ担当たんとうひさげけい按察使軍事ぐんじ担当たんとう指揮しき使みっつをいた。ぬのせい使全国ぜんこくに13あり、これとはべつ皇帝こうてい直属ちょくぞくであるちょく隷がある。ちょく隷(河北かほくしょう)、みなみただし隷(江蘇ちぁんすーしょう安徽あんきしょう)、山東さんとう山西さんせい河南かなん陝西せんせい甘粛かんせいしょうふくむ)、四川しせんみずうみひろ湖北こほくしょう湖南こなんしょう)、浙江せっこう江西えにし福建ふっけん広東かんとん広西ひろせ雲南うんなんぬのせい使したがあり、そのしたしゅうがある。しゅうしたけんがおかれる場合ばあいもある。

ひろしたけみかど全国ぜんこく調査ちょうさして賦役ふえきさつ戸籍こせきちょう)・魚鱗ぎょりんさつ中国語ちゅうごくごばん土地とち台帳だいちょう)をつくり、それをもとにりょう税法ぜいほうによりぜい徴収ちょうしゅうされたが、以前いぜん貨幣かへいぬのわってべいむぎなどの穀物こくもつによる現物げんぶつ主義しゅぎ納税のうぜいおこなわれた。ほかにも雑税ざつぜいとしてきぬ徴収ちょうしゅうされることがあった。官吏かんり給与きゅうよ歳入さいにゅう大半たいはんめる穀物こくもつによっていたが、じゅうのう主義しゅぎによる穀物こくもつ生産せいさん回復かいふくにともなって穀物こくもつ価格かかく低落ていらく傾向けいこうおちいり、貨幣かへいぎんれるために換金かんきんなければならない官吏かんり地主じぬし生計せいけい圧迫あっぱくした。このためあらかじめ貨幣かへいぎんぜい徴収ちょうしゅうするようにもとめる意見いけんたかまり、穀物こくもつ価格かかく低下ていかのリスクを農民のうみんけることにつながった。正統せいとう元年がんねん1436ねん)には官吏かんり俸禄のぎん支払しはらいとこれと表裏一体ひょうりいったいであったぎんおさめせい導入どうにゅうおこなわれた。

また、地方ちほうおさめるためにさとかぶとせいが、兵制へいせいとしてまもるしょせいかれた。さとかぶとせい裕福ゆうふく1と10くみにしてさとび、さとを10でかぶとんで基本きほん単位たんいとしてさとたいして徴税ちょうぜい労役ろうえき義務ぎむ制度せいどである。また兵士へいしいえけていてぐんとし、そこから定常ていじょうてき兵士へいし供給きょうきゅうさせるのがまもるしょせいである。

まもるしょせい政府せいふからぐんたいして土地とち下賜かしし、その土地とちからの収入しゅうにゅうによる自足じそく自給じきゅう建前たてまえとしていた。しかし正統せいとう年間ねんかんごろからぐんなか窮迫きゅうはくするものえて逃亡とうぼう増大ぞうだいし、宦官かんがん地方ちほうぐんかんによる土地とち私物しぶつえた。ぐん生活せいかつ破綻はたんし、これにたいする中央ちゅうおうからの食料しょくりょう供給きょうきゅうおおきな財政ざいせい負担ふたんとなった。また、その食料しょくりょうぐんかんたちは私物しぶつし、たとえばへいすう実数じっすうよりも過大かだい報告ほうこくすることで差額さがくふところれた。あかりまつにはまもるしょせい無力むりょくし、国防こくぼう各地かくちぐんかんやとわれていた私兵しへい役目やくめにあたることとなる。

さとかぶとせいとしくだるごとにされる労役ろうえきぜい事務じむ作業さぎょう項目こうもく複雑ふくざつし、負担ふたん過重かじゅう不公平ふこうへい度合どあいがはげしくなった。これにたいして一条いちじょうむちほうおこなわれ、複雑ふくざつぜい体系たいけい簡便かんべんしてぎんおさめ一本いっぽんにまとめた。

科挙かきょ

科挙かきょ様子ようす

ひろしたけみかどあかりてるとすぐに科挙かきょおこない、大々的だいだいてき人材じんざい募集ぼしゅうした。その一時期いちじき停止ていしされたが、永楽えいらくみかど以降いこうあかりわるまで継続けいぞくされている。

明代あきよでは科挙かきょ受験じゅけんするには、国立こくりつ学校がっこう所属しょぞくする必要ひつようがあった。かれらはなまいんばれる。ひろしたけみかど首都しゅと国子くにこかん国立こくりつ学校がっこう設立せつりつし、地方ちほうにもそれぞれしゅうけんごとに学校がっこう設立せつりつした。しかしこれらの学校がっこうは、のちにはたん科挙かきょ資格しかくるために在籍ざいせきする場所ばしょとなった。これとはべつ民間みんかんにはしゃがくばれる私立しりつ学校がっこう存在そんざいし、農民のうみん子弟していき・計算けいさんなどをおしえていた。

なまいんになるにさいしての試験しけんがあり、そのだいいち地方ちほう試験しけんであるさとためしがある。さとためし合格ごうかくしたものきょじんばれ、だい中央ちゅうおうでの試験しけんであるかいためしけて合格ごうかくすると進士しんしばれ、れて官僚かんりょうになる資格しかくる。さらに殿しんがりためし皇帝こうていまえでの試験しけんがあるが、これはちることはない試験しけんである。

志望しぼうしゃなまいんだけで50まんともわれ、それにたいして合格ごうかくするのは毎回まいかい3~400にんであり、なん受験じゅけんしているあいだ年取としと白髪はくはつになってしまったものもいた[ちゅう 1]

おう

ひろしたけみかどおおくの功臣こうしん粛清しゅくせいする一方いっぽうで、子供こどもたち各地かくちに「親王しんのう」(たんに「おう」とも)として封建ほうけんし、おう(おうふ)を設置せっちさせて現地げんちおさめさせ、政治せいじてき基盤きばんかためようとした。これには(1)親王しんのうみずかへいひきいて国防こくぼう先頭せんとうつ。(2)皇族こうぞく繁栄はんえいさせてまんいち皇統こうとう断絶だんぜつ回避かいひする。(3)皇族こうぞく維持いじにかかる費用ひよう地方ちほう負担ふたんさせる。(4)儒教じゅきょうてき封建ほうけん体制たいせい再建さいけん確立かくりつさせる。といった目的もくてきがあったとされる。

だが、皇太子こうたいしであるしゅしるべちちよりさきくなり、その息子むすこひろしたけみかどまご世代せだいにあたるけんぶんみかど即位そくいすると、これらの叔父おじ皇位こういおびやかすことをおそれてつぶしをはかった。だが、ぎゃくにこうした叔父おじ1人ひとりであった永楽えいらくみかどによってほろぼされることになった。永楽えいらくみかどは「親王しんのう」の軍事ぐんじ権限けんげん削減さくげんはかったものの、ちちひろしたけみかど同様どうよう子供こどもたち封建ほうけんすることには積極せっきょくてきであった。さらにせんとくみかど時代じだいかんおうしゅだか反乱はんらんこしたのを軍事ぐんじりょく全面ぜんめんてき剥奪はくだつった。また、自己じこ開墾かいこん以外いがい土地とち私有しゆうきんじてろくまい支給しきゅうへとえ、自由じゆう外出がいしゅつ任官にんかんまでもきんじたため、親王しんのうぐんおう事実じじつじょう居城きょじょう蟄居ちっきょ状態じょうたいかれるようになった。

その親王しんのうぐんおう親王しんのう諸子しょし)の増加ぞうかによってあかり財政ざいせい悪化あっかした。そこで皇族こうぞくのために「すめらぎそう」とばれる荘田しょうだ設置せっちして経費けいひおぎなわせ、すめらぎそう一部いちぶ皇帝こうていからの下賜かしされた特例とくれいとして皇族こうぞく私有しゆう荘田しょうだにすることをゆるした。だが、親王しんのうぐんおうすめらぎそう一種いっしゅ地主じぬしして農民のうみんから租税そぜい土地とち収奪しゅうだつおこない、そこで収益しゅうえき元手もとでにさらに高利貸こうりがしなどの商業しょうぎょう活動かつどう土地とち集積しゅうせきすすめたり、ごうしんなどからのとうけんじ寄進きしん)をけたりしてすめらぎそうへと編入へんにゅうした。このため、かんおうたちによってうばわれて財政ざいせい収入しゅうにゅう減少げんしょうするという事態じたいしょうじたため、1470ねんにはすめらぎそう税率ぜいりつさだめて実際じっさい管理かんり地方ちほうかんおこなわせることをさだめた。しかし、皇帝こうていみずからがおうたち特例とくれいみとめることがしばしばであり、解決かいけつにならなかった。とくまんれきみかど実弟じっていである潞王しゅ翊鏐三男さんなんぶくおうしゅつねまことなどはまんれきみかど寵愛ちょうあい背景はいけいすう万頃ばんけいおよだい地主じぬしして農民のうみんたいしてさらなる収奪しゅうだつおこなったものの、皇帝こうてい不興ふきょうって粛清しゅくせいされることをおそれた官僚かんりょうたちは対策たいさくたなかった。こうした状況じょうきょう人々ひとびとつよ不満ふまんいだかせ、あきらまつ農民のうみん反乱はんらん標的ひょうてきおうぐんおうがあげられることになった。

経済けいざい

もとまつからの騒乱そうらんにより中国ちゅうごく荒廃こうはいし、とく華北かほくいちめん荒野あらのひろがるほどの状態じょうたいであった。一方いっぽう江南こうなん地帯ちたい荒廃こうはいはそれほどでもなく、つよ経済けいざいりょくゆうしていた。農民のうみん出身しゅっしんひろしたけみかど江南こうなんつよちからつことを警戒けいかいして、じゅうのうそもそもしょう政策せいさくっていた。農本主義のうほんしゅぎてき朱子学しゅしがく振興しんこうもその一環いっかんであり、商人しょうにん出身しゅっしんしゃ科挙かきょ受験じゅけんきびしく制限せいげんされた。しかしそれでも江南こうなん経済けいざいりょく成長せいちょうつづけ、あかり全体ぜんたい経済けいざい中心ちゅうしんとして活躍かつやくする。

農業のうぎょう

農民のうみん出身しゅっしんであったしゅもとあきら農業のうぎょうとくべいむぎなどの穀物こくもつ生産せいさん重視じゅうしする政策せいさくった。とく重要じゅうようしたのは、あかり創業そうぎょうとした江南こうなんゆたかな農業のうぎょう資源しげんである。そう時代じだいには「みずうみじゅくすれば天下てんかる」とばれていたのが、明代あきよにはそのいち地域ちいきであった蘇州そしゅう松江まつえのみで「まつじゅくすれば天下てんかる」としょうされるようになった。しゅもとあきらちょうまこと支配しはい地域ちいきであったこの地域ちいきさき占領せんりょうして農地のうちくに直轄ちょっかつとした。さらに中期ちゅうきごろからは長江ながえちゅう流域りゅういきみずうみひろ現在げんざい湖北こほくしょう湖南こなんしょう)の農地のうち開発かいはつ急激きゅうげきすすみ、末期まっきには「みずうみこうじゅくすれば天下てんかる」とばれた。

貨幣かへい政策せいさく

大明だいめい通行つうこうたから

もと発行はっこうされていた紙幣しへい交鈔)にならってあかりでもたから[ちゅう 2]紙幣しへい発行はっこうした。これは完全かんぜん不換紙幣ふかんしへいであるが、もとまつには紙幣しへいのシステムは崩壊ほうかいしており、以前いぜんのように銅銭どうせん発行はっこうする余裕よゆうもなかったために建国けんこく当初とうしょ実物じつぶつ経済けいざい依存いぞんつよくなり、ひろしたけみかど農本主義のうほんしゅぎ政策せいさく背景はいけいになったという指摘してきもある。

この紙幣しへい価値かちたもつための政策せいさくおこなわれておらず、価値かちがりつづけ、それにわって外国がいこくメキシコ日本にっぽん)から大量たいりょう流入りゅうにゅうしたぎん通貨つうかとして使つかわれるようになった。これにたいして政府せいふなん使用しよう禁止きんしれいしたものの効果こうかはなく、一条いちじょうむちほう採用さいようによって事実じじつじょうぎん通貨つうかとなった。また、永楽えいらく通宝つうほうなどの銅銭どうせん発行はっこうされたが、ひろしたけみかど銅銭どうせん流通りゅうつう禁止きんししたこともあって利用りよう低調ていちょうで、たから鈔やぎんされて海外かいがいへの輸出ゆしゅつ専用せんようまわされることがおおくなった。だが、どう生産せいさんとぼしくなると、銅銭どうせん生産せいさんもごくまれにしかおこなわれなくなった。しかしこのことにより、ぎんひがしアジアにおける国際こくさい通貨つうかとなり、ひがしアジア交易こうえきもう形成けいせい貢献こうけんしている。

財政ざいせい悪化あっかにともなうぜい増徴ぞうちょうは、かんやそれにつながった有力ゆうりょくしゃへのぎん集中しゅうちゅうをもたらし、一部いちぶものだい多数たすうたざるもの格差かくさひろげる要因よういんとなった。沿岸えんがん有力ゆうりょくしゃ辺境へんきょうまも軍人ぐんじんたちうみきん政策せいさく有無うむにかかわらず積極せっきょくてき交易こうえきおこなってとみたくわえ、わたしぐん保有ほゆうしてさらなる高位こういものあらわれた。前者ぜんしゃ代表だいひょうていしばりゅうであり、後者こうしゃ代表だいひょうしげるはりさんかつらである。そして、たざるもの代表だいひょうしゃなりえる。これらの融和ゆうわさくおこなわなかったゆえになりくれさんかつらあかりほろぼされた。

専売せんばいせい

あかり歴代れきだい王朝おうちょうおなじくしお専売せんばいせいおこなった。あかり場合ばあい専売せんばいせい軍政ぐんせい関連かんれんしていた。まず駐屯ちゅうとん食料しょくりょう食料しょくりょう納入のうにゅうした商人しょうにん手形てがたり、その手形てがたしおえることの出来でき塩引しおびき交換こうかんし、しおえてそれを販売はんばいするとうものである。これはひらきちゅうほうばれ、明代あきよつうじておこなわれている。ぎん通貨つうかとなったのちは、食料しょくりょう納入のうにゅうぎん納入のうにゅうわっている。

地域ちいきごとにしょう商人しょうにん集団しゅうだん)があり、そのなかでも明代あきよには山西さんせい商人しょうにん徽州商人しょうにんふたつがきそっていた。明代あきよ後期こうきからはしお交通こうつうをおさえた徽州商人しょうにん発展はってんした。

手工業しゅこうぎょう

明代あきよ手工業しゅこうぎょう活性かっせいでもあった。江南こうなん中心ちゅうしんとした地方ちほうではきぬ織物おりもの綿織物めんおりもの生産せいさん増加ぞうかし、それにともなって農村のうそんでのカイコ綿花めんか生産せいさんたかまり、おおきな市場いちばつくっていた。また農民のうみんたち副業ふくぎょうとしての手工業しゅこうぎょうさかんにおこなわれており、重要じゅうよう収入しゅうにゅうげんとなっていた。

政府せいふ手工業しゅこうぎょう従事じゅうじする人々ひとびと農民のうみんとはべつたくみうグループに分類ぶんるいし、一般いっぱん労役ろうえきわりに官営かんえい工場こうじょうでの手工業しゅこうぎょう従事じゅうじさせて政府せいふほっするぶん製品せいひん供給きょうきゅうさせていた。これをたくみやくせいうが、この制度せいどたくみたいする過重かじゅう負担ふたんみ、逃亡とうぼうするものえたためたくみやくわりにぎん納付のうふさせてこの収入しゅうにゅう必要ひつようとするぶんもとめることにわった。

また、こうした副業ふくぎょう従事じゅうじしている農民のうみんには貧困ひんこんそうおおく、高利貸こうりがしからりた資金しきん蚕種さんしゅくわなどの必要ひつよう物資ぶっしいそろえてかいこそだて、まゆからいとれるころ高利貸こうりがしからの催促さいそくによって生糸きいと一旦いったんったのちあらためて高利貸こうりがしから資金しきんりていと購入こうにゅうして織物おりものるというかえしによってっており、商業しょうぎょう資本しほん蓄積ちくせきのぞめても工業こうぎょうへの発達はったつ可能かのうせいひくいものであった。

文化ぶんか

おう陽明ようめい

ひろしたけみかどにより文人ぶんじんたいしてのだい弾圧だんあつおこなわれ、あかりはつ知識ちしきそう打撃だげきこうむった。しかし同時どうじにその国子くにこかんをはじめとしゅうけんいたるまで全国ぜんこく国立こくりつ学校がっこう設立せつりつする政策せいさくきた万里ばんり長城ちょうじょうからみなみ広東かんとんいたるまで全国ぜんこくさとためし実施じっしして科挙かきょによる人材じんざい登用とうよう機会きかいひろげる政策せいさく文化ぶんか全国ぜんこくをもたらす意味いみゆうしていた。永楽えいらくみかどいのちにより『四書ししょ大全たいぜん』『五経ごきょう大全たいぜん』『せい大全たいぜん』がせんされ、全国ぜんこく学校がっこう科挙かきょ教科書きょうかしょとして配布はいふされたてん同様どうようである。三田村みたむらやすしすけはこれを国民こくみん文化ぶんか成立せいりつであるとしてひょうしている。一般いっぱん民衆みんしゅうあいだ文化ぶんかひろまったゆえんはそれである。それまでの文人ぶんじん官僚かんりょうだった図式ずしきくずれておおくの大衆たいしゅう文化ぶんかまれている。しかしその一方いっぽうでそれまで高尚こうしょうとされていた漢詩かんし歴史れきし分野ぶんやではあまりるべきものがい。

思想しそう

ひろしたけみかどりゅうはじめ朱子学しゅしがくしゃ重用じゅうようし、永楽えいらくみかど教科書きょうかしょ政策せいさくもあって、朱子学しゅしがく国定こくてい学問がくもんとしての地位ちい保持ほじしていた。しかし、朱子しゅし以降いこう朱子学しゅしがくにはあまり思想しそうてき進展しんてんられないとの指摘してきがある。これについて国定こくていになり、思想しそう固定こていされたせいだとも朱子しゅしによる学問がくもん体系たいけいがあまりにも完璧かんぺきなものであったためにそれ以後いご朱子しゅし到底とうていおよばない学者がくしゃにとっては進展しんてんいのだともう。

しかし、明代あきよ思想しそうにおいてもっと特筆とくひつすべきはなんとってもおう陽明ようめいによる陽明学ようめいがく中国ちゅうごくではおうまなぶばれる。陽明学ようめいがく日本にっぽんにおいてけられたである)の成立せいりつである。陽明学ようめいがくではこころそく知行ちぎょう合一ごういつ良知りょうちとなえ、明代あきよとおして思想しそうてき発展はってんげる。明代あきよ後期こうき陽明学ようめいがくてき土壌どじょうなかさんきょう一致いっちせつ隆盛りゅうせいし、中国ちゅうごく思想しそうかいはかつてのような進展しんてんせる。

幾何きか原本げんぽん』の挿絵さしえ、マテオ・リッチとじょひかりけい
ひつじさる輿こし万国ばんこくぜん

その一方いっぽうで、1582ねんイエズスかいいんマテオ・リッチらによってキリストきょうカトリックがもたらされる。あかり政府せいふ高官こうかんなかには、キリストきょう興味きょうみしめしたもの多数たすう存在そんざいしたが、それはマテオ・リッチの布教ふきょう態度たいどうところがおおきい。明人あきとでは、代表だいひょうてきキリスト教きりすときょう信者しんじゃとしてじょひかりけいげることができる。また、マテオ・リッチはひつじさる輿こし万国ばんこくぜん中国ちゅうごく中心ちゅうしんとした世界せかい地図ちず)を作成さくせいした。

文学ぶんがく

あかりはつには文辞ぶんじ運動うんどうこる。そう批判ひはんしてかんだいぶんとうだい漢詩かんしがもてはやされるようになり、『唐詩とうしせん』が刊行かんこうされている。しかしこの時代じだい詩文しぶんはどうかとうとおおくがたんなる懐古かいこ趣味しゅみてき模倣もほうしたかんがある。

そのなかぶん分野ぶんや特筆とくひつするべきがたくわれである。陽明学ようめいがく左派さは思想しそうもとにそれまでの朱子学しゅしがくてき文観もんかんっくりかえした過激かげき文章ぶんしょう次々つぎつぎ発表はっぴょうして、あきら政府せいふ危険きけんされて捕縛ほばくされ、最後さいご獄死ごくしした人物じんぶつである。かれ思想しそう後世こうせい影響えいきょうあたえてよん運動うんどういて開放かいほう思想しそうとして評価ひょうかされた。

その一方いっぽう民間みんかんにおける小説しょうせつ分野ぶんやでは『金瓶かなかめうめ』など数々かずかず名作めいさく誕生たんじょうした。『三国志さんごくし演義えんぎ』・『みず滸伝』・『西遊せいゆう』はこの時期じき完成かんせいしたとされる。また戯曲ぎきょく分野ぶんや発展はってんし、「牡丹ぼたんていかえたましい(ぼたんていかんこんき)」などの名作めいさくつくられている。

また永楽えいらくみかどいのちにより百科ひゃっか事典じてん永楽えいらく大典たいてん』が編纂へんさんされて、古今ここん書物しょもつなかから重要じゅうようおもわれる文章ぶんしょうされて収録しゅうろくされた。

美術びじゅつ

林屋はやしやもと末明ほのかはつおうこうむ台北たいぺい国立こくりつみや博物はくぶついん

もと末期まっき戦乱せんらんれるほか地方ちほうくらべて江南こうなん蘇州そしゅうちょうまこと政権せいけんした繁栄はんえい謳歌おうかしていた。ここでは毎日まいにちのように文学ぶんがくサロンにおいて漢詩かんし大会たいかいひらかれたり、著名ちょめいじんたちうできそっていた。このなかでも公望きんもち倪瓚おうこうむの4にんすぐれた画家がかを「もとすえよん大家たいか」とんでいる。

このながれをいだのがばれる文人ぶんじん民間みんかん画壇がだんによる絵画かいが)の流派りゅうはである。この代表だいひょうとしては沈周ぶんしるしあきらがいる。

陶磁器とうじき分野ぶんや明代あきよおおきく隆盛りゅうせいし、もとからいだ染付そめつけあたらしい赤絵あかえ技法ぎほう開発かいはつされ、けいとくかまからは大量たいりょう製品せいひんされ、国内こくないだけは海外かいがいにも輸出ゆしゅつされた。とくまんこよみの『まんれき赤絵あかえ』は名品めいひんちゅう名品めいひんとされ、現在げんざいでも好事家こうずか垂涎すいぜんまととなっている。ただしこの時期じきには陶磁器とうじき技術ぎじゅつであって美術びじゅつではないとなされていたようである。

永楽えいらくみかどにはきよでも皇宮こうぐうとして使つかわれるむらさき禁城きんじょう完成かんせいし、現在げんざいみや博物はくぶついんとして使つかわれており、北京ぺきん瀋陽しんようあきら清王せいおうちょう皇宮こうぐうとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

科学かがく技術ぎじゅつ

あきら末清すえきよはつになると、経世けいせい致用のがくとしての考証こうしょうがくさかんになるなど、実学じつがくへの関心かんしんたかまりおおくの実用じつようしょかれている。前述ぜんじゅつしたじょひかりけいはマテオ・リッチと協力きょうりょくし、農学のうがくしょである『農政のうせい全書ぜんしょ』や、古代こだいギリシアのユークリッド幾何きかがく訳書やくしょとして『幾何きか原本げんぽん』などの編著へんちょ活躍かつやくした。また、アダム・シャール協力きょうりょくし、西洋せいよう暦法れきほうグレゴリウスれき)をれた『たかしただしれきしょ』をまとめるじょうでもたすけとなった。(ただし完成かんせいにはじょひかりけい死去しきょ)。その薬学やくがくしゃめずらしによる1871種類しゅるい薬草やくそう漢方薬かんぽうやくあつめた『本草ほんぞう綱目こうもく』、地方ちほうかんそうおうぼしによる工芸こうげい技術ぎじゅつほん天工てんこうひらきぶつ』などが発表はっぴょうされた。

国際こくさい関係かんけい

あかり周辺しゅうへん諸国しょこく

もとだいきずかれた空前くうぜん交易こうえきもう一部いちぶいで、あかりはついても交易こうえき非常ひじょうさかんであった。

海上かいじょう交易こうえきやまと

りくシルクロードうみみち(いわゆるうみのシルクロード)がもとだい交易こうえきルートであったが、あかり北西ほくせいモンゴルによっておさえられており、このルートを使用しよう不可能ふかのうであった。海路かいろについては1372ねんひろしたけみかどによりうみ禁令きんれいされ、民間みんかん交易こうえききんじられ、政府せいふ交易こうえきである朝貢ちょうこう貿易ぼうえきだけが交易こうえきめられた。このうみ禁令きんれい交易こうえき生活せいかつてていた人々ひとびとはげしい反発はんぱつまねき、みつ貿易ぼうえき横行おうこうすることになる。

やまと寇の進路しんろ

またこの時期じき前期ぜんきやまと寇の最盛さいせいでもあり、その被害ひがいおおきなものであった。この時代じだいやまと寇は正真正銘しょうしんしょうめい海賊かいぞく米穀べいこく奴隷どれい略奪りゃくだつおこなっていた。これにたいしてひろしたけみかど日本にっぽん鎮圧ちんあつ要請ようせいする。最初さいしょ南朝なんちょうなつけ親王しんのう要請ようせいしたが、国書こくしょ無礼ぶれいだというので使者ししゃられるという事件じけんきた。その日本にっぽん政権せいけん分裂ぶんれつしている実情じつじょうったひろしたけみかどは、あらためて北朝ほくちょうがわである室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが義満よしみつたいして使者ししゃおくり、義満よしみつ勘合かんごう貿易ぼうえきおこなうことを条件じょうけんに、義満よしみつ日本にっぽん国王こくおうさつふうしてやまと寇の取締とりしまりを要請ようせいした。

その永楽えいらくみかど帝位ていい奪取だっしゅした1403ねんにも義満よしみつ使者ししゃおくり、勘合かんごう貿易ぼうえき継続けいぞく莫大ばくだい利益りえきげ、義満よしみつによるまりによってやまと勢力せいりょく衰退すいたいし、あかり海上かいじょう平穏へいおんもどした。なお、勘合かんごう貿易ぼうえき基本きほん朝貢ちょうこう貿易ぼうえきだった。

永楽えいらくみかどひろしたけみかどおなじく、うみ禁令きんれい継続けいぞくしたが、その一方いっぽうていかず南海なんかいだい航海こうかい派遣はけんして、南海なんかい諸国しょこくとの朝貢ちょうこう貿易ぼうえきはじめている。その勘合かんごう貿易ぼうえき相手あいて室町むろまち幕府ばくふから大内おおうち変更へんこうされた。その皇帝こうていなんとなくうみ禁令きんれい更新こうしんおこない、きびしく統制とうせいしたが、それでもみつ貿易ぼうえきまず、15世紀せいき後半こうはんからはだい商人しょうにん現地げんち地方ちほうかんごうしんそうむすびついてみつ貿易ぼうえき黙認もくにんさせていた。しかしみつ貿易ぼうえき海賊かいぞく転換てんかんすることをおそれて、あらたに着任ちゃくにんした浙江せっこうめぐなで長官ちょうかん)のしゅ(しゅがん)はみつ貿易ぼうえききびしくまった。しかし、地方ちほうかんごうしんそうはげしい反発はんぱつけてしゅ紈は失脚しっきゃくいこまれた。

その一方いっぽうまずしい沿岸えんがん民衆みんしゅうたち交易こうえき活路かつろもとめた。弱小じゃくしょう商人しょうにんたちには人脈じんみゃく賄賂わいろおくかねもなく、みつ貿易ぼうえきむずかしいので海賊かいぞくになるものえた。これが後期こうきやまと寇である。後期こうきやまと寇はほとんどが日本人にっぽんじんよそおった中国人ちゅうごくじんであり、日本人にっぽんじん割合わりあいは1~2わりほどであったらしい。後期こうきやまと寇のなかでも、これらのものたちをまとめて一大いちだい勢力せいりょくをきずきあげたのが、おうただしである。おうただし困窮こんきゅうした沿岸えんがん民衆みんしゅう世論せろんあつめて、あきらたいして交易こうえき自由じゆうもとめ、それが不可能ふかのうだとかると五島列島ごとうれっとう根拠地こんきょちとして中国ちゅうごく沿岸えんがん散々さんざんらしまわった。

おうただしのち政府せいふ策略さくりゃくによってらえられ処刑しょけいされるが、それでも交易こうえきもとめるやまと寇はたず、沿岸えんがんへの攻撃こうげきなんおこなった。1563ねん福建ふっけんおそったが、このふく総督そうとく戚継こう活躍かつやくにより、壊滅かいめつてき打撃だげきこうむった。この政府せいふ福建ふっけんつきこう中国ちゅうごく商船しょうせん海外かいがい渡航とこう許認可きょにんかおこな海防かいぼうかん設置せっちして、うみ禁令きんれい廃止はいしやまと寇もこれにより活動かつどう収束しゅうそく海上かいじょう平穏へいおんもどった。

また1517ねんには広州こうしゅうポルトガル使節しせつトメ・ピレス来航らいこうし、北京ぺきん上京じょうきょうして朝貢ちょうこうもとめたが、ポルトガルにくにうばわれたマラッカ使節しせつうったえにより投獄とうごくされた。朝貢ちょうこう拒絶きょぜつされたポルトガルはやすしなみ沖合おきあいしまみつ貿易ぼうえきおこなったりしたが、1557ねんにはマカオ永続えいぞくてき居留きょりゅうけん獲得かくとくした。明朝みんちょう依然いぜんとしてたいにち貿易ぼうえき禁止きんししていたため、マカオのポルトガルじんにちちゅう貿易ぼうえき仲介ちゅうかいでも活躍かつやくした。この時代じだいには中国ちゅうごく日本にっぽん朝鮮ちょうせん南海なんかいわた交易こうえきもう成立せいりつし、ぎん共通きょうつう通貨つうかとしてさまざまな人種じんしゅ商人しょうにんたちが活躍かつやくした。

北方ほっぽう

あかりにとって最大さいだい脅威きょういはモンゴル勢力せいりょくであり、北元きたもととオイラトにたいしての攻撃こうげき防御ぼうぎょかえしていた。

ひろしたけみかどはモンゴル勢力せいりょくたいしては防御ぼうぎょ姿勢しせいのぞみ、南京なんきんしていたのもきたからとおざかりたいと意味いみがあったからである。しかし永楽えいらくみかどはモンゴルにたいしての積極せっきょく政策せいさくのぞんで北京ぺきん遷都せんとし、モンゴルにたいして5遠征えんせいおこなっている。永楽えいらくみかど以後いご基本きほんてきにモンゴルにたいして利益りえきあたえることなだめる方向ほうこううごいた。

その利益りえきとは朝貢ちょうこうのことで、あかりとモンゴルとではあかり産物さんぶつうま交換こうかんする馬市うまいち(ばし)とばれる形態けいたいおこなっていた。うま永楽えいらくみかど軍事ぐんじりょく拡大かくだいには必要ひつようものであったが、平和へいわさくてんじたのちではさほど必要ひつようではなかったが、あくまで平和へいわ代金だいきんとしてっていた。モンゴルからやってくる使者ししゃいちにんごとにあかりから報奨ほうしょうきんあたえること慣習かんしゅうとなっていた(モンゴルだけではなく、朝貢ちょうこうすべてそういう慣習かんしゅうがある)。

オイラトのエセンは使節しせつ人数にんずうやし、またやくにたないうま交易こうえきなかふくめるなどして交易こうえき利益りえき増大ぞうだいはかった。またモンゴルのダヤンとそのまごアルタンは馬市うまいち回数かいすうをもっとやすようにもとめた。このような要求ようきゅうあかりにとって基本きほんてき不利益ふりえきなので、拒否きょひしようとしたが、そのときにはモンゴル・オイラトたちあかり領内りょうない侵攻しんこうして、武力ぶりょくもちいて自分じぶんたち要求ようきゅうとおした。土木どぼくへんかのえいぬへんはこうったこともとづいており、あかりほろぼそうとかんがえていたわけではない。

そののモンゴル勢力せいりょく内部ないぶ抗争こうそうにより勢力せいりょく減退げんたいさせ、それにわって台頭たいとうしてきたのが満州まんしゅうおんなしんである。永楽えいらくみかど満州まんしゅうたいしても遠征えんせいぐんおくり、この支配しはい一方いっぽうおなじくおんな支配しはい画策かくさくしていた朝鮮ちょうせん圧力あつりょくくわえてその北進ほくしんきんじた。そのせんとくみかどにこの放棄ほうきして間接かんせつ支配しはいえた。その方法ほうほうおんなしんぞくのそれぞれの部族ぶぞくちょういちにん一人ひとりたいして朝貢ちょうこう権利けんりみとめる文書ぶんしょ発行はっこうすることで、たがいのあいだ文書ぶんしょうばいを目的もくてきとした対立たいりつ醸成じょうせいし、こうそうこさせること一致いっち団結だんけつしてあかり反抗はんこうすることをふうじるとうものである。この対策たいさくはうまくいき、おんなしんあいだでのこうそうきわめてはげしいものとなった。しかしまんれき年間ねんかん遼東りゃおとん司令しれいかんしげるはり不手際ふてぎわによりヌルハチ台頭たいとう見逃みのがし、おんなしん統一とういつされた。これ以降いこうあきらおんなあらた満州まんしゅうぞくによる強力きょうりょく攻撃こうげきけることになる。

西方せいほう南方なんぽう

あかり成立せいりつしたころ西方せいほうではティムール各地かくち征服せいふくしてだい帝国ていこくティムールあさをきずきあげていた。ティムールは晩年ばんねんになり、中国ちゅうごく遠征えんせいこころみるが途上とじょう病死びょうしし、これ以降いこうのティムールあさ分裂ぶんれつして弱体じゃくたいし、あきら西方せいほうたいしては脅威きょういかんじずにすんだ。

みなみのベトナムにたいしても永楽えいらくみかど遠征えんせいぐんおくり、一時いちじ直轄ちょっかつとしたが、永楽えいらくみかど死後しご反抗はんこうつよくなったので放棄ほうきしてはじむあさった。

あかり皇帝こうてい

系図けいず
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

ベトナムの歴史れきし
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
文郎ふみおこく
甌雒
南越なんごし
だいいちきたぞく
前漢ぜんかん統治とうち
しるし姉妹しまい
だいきたぞく
こうかん六朝りくちょう統治とうち
ぜんちょう
だいさんきたぞく
ずいとうみなみかん統治とうち
ちょう
ひのとあさ
ぜんはじむあさ
ちょう みなみ
すすむ

ひねあさ
えびすあさ
だいよんきたぞく
あきら統治とうち
こうひねあさ
こうはじむあさ前期ぜんき
莫朝
こうはじむあさ
後期こうき
南北なんぼくあさ
莫朝
南北なんぼくあさ
こうはじむあさ後期こうき
阮氏政権せいけん てい政権せいけん
西山にしやまちょう
阮朝
フランスりょう
インドシナ
ベトナム帝国ていこく
コーチシナ共和きょうわこく ベトナム
民主みんしゅ共和きょうわこく
ベトナムこく
ベトナム
共和きょうわこく
みなみベトナム
共和きょうわこく
ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

歴代れきだい皇帝こうてい[ちゅう 3]

  1. ふとしひろしたけみかどしゅもとあきら 在位ざいい1368ねん - 1398ねん
  2. めぐみむねけんぶんみかどしゅまこと在位ざいい1398ねん - 1402ねんひろしたけみかど皇太子こうたいししゅしるべ
  3. なりふとしむね永楽えいらくみかどしゅ在位ざいい1402ねん - 1424ねんひろしたけみかどけんぶんみかど叔父おじ
  4. じんむねひろし熙帝しゅだかおき 在位ざいい1424ねん - 1425ねん永楽えいらくみかど
  5. せんむねせんとくみかどしゅ瞻基 在位ざいい1425ねん - 1435ねんひろし熙帝の
  6. えいむね正統せいとうみかどしゅ祁鎮 在位ざいい1435ねん - 1449ねんせんとくみかど
  7. だいむねけいたいみかどしゅ祁鈺 在位ざいい1449ねん - 1457ねんせんとくみかど正統せいとうみかどおとうと
  8. えいそうたかしじゅんみかどしゅ祁鎮 在位ざいい1457ねん - 1464ねんだいろくだい正統せいとうみかど重祚じゅうそ[ちゅう 4]
  9. けんむねなりみかど朱見あけみふか 在位ざいい1464ねん - 1487ねん正統せいとうみかど
  10. こうむね弘治こうじみかどしゅゆう在位ざいい1487ねん - 1505ねんなりみかど
  11. たけはじめ正徳しょうとくみかどしゅあつし在位ざいい1505ねん - 1521ねん弘治こうじみかど
  12. むねよしみやすしみかどしゅあつし在位ざいい1521ねん - 1566ねんなりみかどまご正徳しょうとくみかど従兄弟いとこ
  13. きよしむねりゅうけいみかどしゅ在位ざいい1566ねん - 1572ねんよしみやすしみかど
  14. かみはじめまんれきみかどしゅ翊鈞 在位ざいい1572ねん - 1620ねんりゅうけいみかど
  15. ひかりむねやすしあきらみかどしゅつねらく 在位ざいい1620ねん8がつ - 9がつまんれきみかど
  16. 熹宗天啓てんけいみかどしゅゆかりこう 在位ざいい1620ねん - 1627ねんやすしあきらみかど
  17. あつしむねたかしただしみかどしゅゆかりけん 在位ざいい1627ねん - 1644ねんやすしあきらみかど天啓てんけいみかどおとうと

あかり元号げんごう

あかりはじめて一世一元いっせいいちげんせい施行しこうし、かつ越年えつねん改元かいげんせい実施じっししたので、元号げんごうかく皇帝こうていにつきひとつずつである(即位そくいしたえいむね例外れいがい)。そして、皇帝こうてい崩御ほうぎょすると、在位ざいいちゅう元号げんごうあしに「みかど」をけて追号ついごうされた。たとえば、なり在位ざいい1402ねん7がつ - 1424ねん7がつ)は、在位ざいいちゅう元号げんごうが「永楽えいらく」(1403ねん1がつ - 1424ねん12月)なので、「永楽えいらくみかど」とぶ。

  1. ひろしたけ1368ねん - 1398ねん
  2. たてあや1399ねん - 1402ねん
  3. 永楽えいらく1403ねん - 1424ねん
  4. ひろし1425ねん
  5. せんとく1426ねん - 1435ねん
  6. 正統せいとう1436ねん - 1449ねん
  7. けいやすし1450ねん - 1457ねん1がつ
  8. てんじゅん1457ねん - 1464ねん[ちゅう 5]
  9. なり1465ねん - 1487ねん
  10. 弘治こうじ1488ねん - 1505ねん
  11. 正徳まさのり1506ねん - 1521ねん
  12. よしみやすし1522ねん - 1566ねん
  13. りゅうけい1567ねん - 1572ねん
  14. まんれき1573ねん - 1620ねん7がつ
  15. やすしあきら1620ねん8がつ - 12月)
  16. 天啓てんけい1621ねん - 1627ねん
  17. たかしただし1628ねん - 1644ねん

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 試験しけんつづけることの出来できもの富裕ふゆうそうであり、一族いちぞく期待きたい背負せおっているがゆえにあきらめることが出来できなかった。
  2. ^ 大明だいめい通行つうこうたから鈔」はこれまで発行はっこうされた紙幣しへい一番いちばんおおきい:独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん 国立こくりつ印刷いんさつきょく - さつ切手きって博物館はくぶつかん 解説かいせつ - 大明だいめい通行つうこうたから鈔(だいみんつうこうほうしょう)。
  3. ^ ひろしたけみかど以後いご皇帝こうていぎょうせつしたがい、名前なまえに「きんすい」(れいこうおき→瞻もと→祁ふか)の部首ぶしゅ漢字かんじを、おやからまごへと継承けいしょうしている。
  4. ^ 土木どぼくへん捕虜ほりょになりすめらぎおとうとけいたいみかど即位そくいしたが、のち帰還きかんしてクーデターで復位ふくいした(だつもんへん)。
  5. ^ えいむね正統せいとうみかど)の復位ふくい

出典しゅってん

  1. ^ あかりまきなななな ひろしじゅうろくねん天下てんかいちせんろくじゅうまんせんはちひゃくななじゅうくちろくせんじゅうよんまんせんはちひゃくじゅう
  2. ^ あかりまきなななな 弘治こうじよんねんきゅうひゃくじゅういちまんさんせんよんひゃくよんじゅうろくくちせんさんひゃくじゅうはちまんいちせんいちひゃくじゅうはち
  3. ^ あかりまきなななな まんれきろくねんいちせんろくじゅうまんいちせんよんひゃくさんじゅうろくくちろくせんろくじゅうきゅうまんせんはちひゃくじゅうろく

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク

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もと
あきら
1368ねん - 1644ねん
次代じだい
じゅん
きよし