甌雒

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甌雒
Âu Lạc
文郎国 ぜん257ねん - ぜん207ねん 南越国
首都しゅと にし
おう
ぜん257ねん - ぜん207ねん 安陽あんようおう
変遷へんせん
建国けんこく ぜん257ねん
滅亡めつぼうぜん207ねん[1]
現在げんざい ベトナム
ベトナムの歴史れきし
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
文郎ふみおこく
甌雒
南越なんごし
だいいちきたぞく
前漢ぜんかん統治とうち
しるし姉妹しまい
だいきたぞく
こうかん六朝りくちょう統治とうち
ぜんちょう
だいさんきたぞく
ずいとうみなみかん統治とうち
ちょう
ひのとあさ
ぜんはじむあさ
ちょう みなみ
すすむ

ひねあさ
えびすあさ
だいよんきたぞく
あきら統治とうち
こうひねあさ
こうはじむあさ前期ぜんき
莫朝
こうはじむあさ
後期こうき
南北なんぼくあさ
莫朝
南北なんぼくあさ
こうはじむあさ後期こうき
阮氏政権せいけん てい政権せいけん
西山にしやまちょう
阮朝
フランスりょう
インドシナ
ベトナム帝国ていこく
コーチシナ共和きょうわこく ベトナム
民主みんしゅ共和きょうわこく
ベトナムこく
ベトナム
共和きょうわこく
みなみベトナム
共和きょうわこく
ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

甌雒(おうらく[2]ベトナムÂu Lạc / 甌雒)は、ベトナムうえ国家こっか

名称めいしょう[編集へんしゅう]

漢字かんじ表記ひょうきは、甌雒のほかに「甌貉」[3][4]、「甌駱」[5]などが、日本語にほんごカナ表記ひょうきは「オーラック」[6]、「アウラク」[6]、「アウラック」[3]、「オゥラク」[4]などがある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

もとはしょく王子おうじで、しょく最後さいごおうであったあし覇王はおう中国語ちゅうごくごばんとされる[7][8][9]しょくが、中国ちゅうごく四川しせんからベトナム北部ほくぶ到達とうたつ[10]山岳さんがく甌越英語えいごばん地域ちいき現在げんざいのベトナムさい北部ほくぶおよび中国ちゅうごく南部なんぶ一部いちぶ)とこれより南部なんぶ雒越現在げんざいのベトナム北部ほくぶにあるべにかわデルタ)を統合とうごうして建国けんこくした[11]しょく泮は甌雒の唯一ゆいいつ君主くんしゅであり、安陽あんようおう統治とうちした。

成立せいりつから滅亡めつぼうまで[編集へんしゅう]

成立せいりつ[編集へんしゅう]

文郎ふみおこく末期まっき、18代目だいめゆうおう酒食しゅしょくにふけって軍備ぐんびおろかにし、はた侵攻しんこうふせぐことができなかった。4年間ねんかん戦争せんそうのち文郎ふみおこくしんぐん北部ほくぶれたが、その地域ちいき文郎ふみおじん共存きょうぞんしていた西にし甌ははた抵抗ていこうし、また駱越も支配しはいれずに森林しんりんのがれた[12]かれらはすぐれた人物じんぶつしょく指導しどうしゃとし、6年間ねんかん抗戦こうせんすえしんぐんこうじょうほふ中国語ちゅうごくごばんやぶり、しんぐん撤退てったいさせた。西にし甌と駱越の指導しどうしゃとなったしょく泮はゆうおう譲位じょういせまり、紀元前きげんぜん257ねん西にしこし統合とうごうして甌駱を建国けんこくした。おな時期じき文郎ふみおこくきたとなりにあったみなみ崗国も併合へいごうしている。

以降いこうしょく泮は安陽あんようおう統治とうちおこない、ふうけい(フォンケー、現代げんだいハノイ中心ちゅうしんから16kmきた[13][14][15])にかれた。現在げんざい地名ちめいでいえばハノイ北部ほくぶドンアインけんコーロアしゃであり、デルタに形成けいせいされたこの地域ちいきは、当時とうじ国内こくないではもっと人口じんこうおお地域ちいきだった。また隣接りんせつするホアンがわ小規模しょうきぼ河川かせんであるもののソンコイかわとその支流しりゅうのカウがわつな海上かいじょう交通こうつう重要じゅうよう地点ちてんでもあった。甌雒の行政ぎょうせい機構きこうは雒侯を中心ちゅうしんにいくつかにかれ、それぞれかばただし(ボーチン)とばれる知事ちじ配置はいちされていた。しかし甌雒成立せいりつ経緯けいいから安陽あんようおう権限けんげんつよく、とく統治とうち初期しょきどうせい農耕のうこう製造せいぞう改良かいりょうすすんで農業のうぎょう生産せいさんせい増大ぞうだいし、建築けんちく冶金やきん発達はったつしたことからこの時代じだい以降いこうてつ製品せいひんおお発掘はっくつされている[6]

にしじょう[編集へんしゅう]

はた退しりぞけたことで建国けんこくした甌雒だが、はたさい侵攻しんこう時間じかん問題もんだいとされていた[16]。そのため安陽あんようおうふうけいにしじょうとしてられる城塞じょうさい建築けんちくする。3じゅうるい水堀みずほりからり、外郭がいかくしゅうちょうは8km、ちゅうくるわしゅうちょうは6.6kmある。内郭ないかくは、ぜんしゅう1.6km、たかさ5〜10mにおよぶ。ホアンがわとカーぬまんできずかれ、そのかたち巻貝まきがいていたことからにしタニシしろばれ、そのまま地域ちいき語源ごげんとなった[17]。また城内じょうないにはどうせい武具ぶぐ兵士へいしたくわえられ、いしゆみおおあつめられていた。河川かせんめんしたカーぬま水軍すいぐん訓練くんれん場所ばしょとして利用りようされ、軍船ぐんせん常時じょうじ駐留ちゅうりゅうした。

これらのそなえにたいし、はたはむしろ衰退すいたいきざしをせていたが、そのために独立どくりつせいたかめた諸侯しょこう割拠かっきょする時代じだいまねく。将軍しょうぐんちょう広東かんとん広西ひろせさんぐんはたからまかせられていたが、紀元前きげんぜん207ねんはた滅亡めつぼうすると独立どくりつしてばんとする南越なんごしこく建国けんこくした。甌雒は南越なんごしからの侵攻しんこうけるが、そなえが十分じゅうぶんであったため撃退げきたいし、ちょう佗は講和こうわむすんで撤退てったいした[18]。しかし南越なんごし侵略しんりゃくあきらめてはおらず、ちょう佗の計略けいりゃくにより安陽あんようおうしょしょうなか次第しだい疎遠そえんとなり、また婚姻こんいん外交がいこうにより甌雒との緊張きんちょう関係かんけい緩和かんわしていった。

滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん179ねん、甌雒で内乱ないらんしょうじる。カオ・ロー中国語ちゅうごくごばん、ノイ・ハウら甌雒のしょしょうはそのために安陽あんようおうもとり、南越なんごしぐん再度さいど甌雒へと侵攻しんこうした。安陽あんようおうぐんはことごとくやぶれ、また南越なんごしたいする警戒けいかいゆるんでいたことからたちまちのうちに制圧せいあつされ、同年どうねん南越なんごし併合へいごうされた[18]

かねかめ[編集へんしゅう]

甌雒の興亡こうぼうにまつわる伝説でんせつとして、以下いかのような「かねかめ」にかかわる伝説でんせつ存在そんざいする[19]

安陽あんようおうにしさだめてしろきずこうとしたが、なんいどんでもくずれてしまい途方とほうれていた。そこにあるときかねかめおとずれて建設けんせつ助言じょげんをもたらした。そのとおりに安陽あんようおうふたたきずいたところ、強固きょうこ城壁じょうへき完成かんせいした。またかねかめさづけたみずからのつめすぐれたいしゆみとなり、侵攻しんこうしてきた南越なんごしこく退しりぞけた。やぶれたちょう佗は一転いってんして講和こうわむすび、なかはじめ中国語ちゅうごくごばん安陽あんようおうむすめこびたま中国語ちゅうごくごばん婚姻こんいんすすめた。結果けっか二人ふたりなかむつまじい夫婦ふうふとなったがそれはちょう佗の計略けいりゃくであり、警戒けいかいゆるんだある、ついにそのいしゆみぬすみだすことに成功せいこうする。そのおこないから講和こうわ決裂けつれつし、ふたた戦争せんそうはじまるが安陽あんようおうやぶれ、からむすめらをれてびようとする。だが、その時点じてんでもこびたまなかはじめあいしており、めぐりあうことをねがって目印めじるしみちとしてしまう。しかしそれはおうるところとなり、安陽あんようおういかりのあまりむすめころす。やがて目印めじるしってきたなかはじめがようやく辿たどくものの、そのときにはこびたまはすでにいきえており、ちひしがれたなかはじめ井戸いどげてってんでしまった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ チャン・チョン・キム, p. 245
  2. ^ 東南とうなんアジアの歴史れきしひともの文化ぶんか交流こうりゅう』47ぺーじ
  3. ^ a b 新田にった栄治えいじ先史せんし時代じだい」『東南とうなんアジア I 大陸たいりく』、37ぺーじ 
  4. ^ a b 小倉おぐら, pp. 21–22
  5. ^ 史記しきまきいちひゃくいちじゅうさん 南越なんごし列伝れつでんだいじゅうさん
  6. ^ a b c ファン 2008, p. 64
  7. ^ Đại Việt sử ký toàn thư:
    せいしょくいみな泮。ともえしょくじん也。

    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:钦定えつどおり鉴纲/ぜん编/まきいち
  8. ^ Khâm định Việt sử Thông giám cương mục:
    きゅうおうせいしょくいみな泮,ともえしょくじん也。

    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ゆめけい筆談ひつだん/まき25
  9. ^ Taylor, Keith Weller (1983). The Birth of the Vietnam. University of California Press. p. 19. ISBN 978-0-520-07417-0. https://books.google.co.jp/books?id=rCl_02LnNVIC&pg=PA19#v=onepage&q&f=false 
  10. ^ はじむ蝸藤 (2020ねん5がつ7にち). かんあずかえびす:「中國人ちゅうごくじんはややめ遊牧ゆうぼく民族みんぞく成立せいりつ?”. せきかぎ評論ひょうろんもう. オリジナルの2020ねん6がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200615092443/https://www.thenewslens.com/article/134488 
  11. ^ Keith Weller Taylor -The Birth of Vietnam Page 20 1991 " however, his unusual cleverness enabled him to retain his father's throne. As Nam Cuong grew in strength, Van-lang became weak; subsequently, Thuc Phan conquered Van-lang and founded the kingdom of Au Lac. That the Thuc family was .....
  12. ^ ファン 2008, p. 63
  13. ^ Understanding Vietnam - Page 7 Neil L. Jamieson - 1995 The Dragon Lord of the Lac served as protector of the kingdom under the Hung kings, as the Golden Turtle spirit guarded the realm of Au Lac. As these potent leaders and other major cultural heroes joined the spirit world after death, they too ...
  14. ^ Philip Quang Phan, Vietnamese-American engineers: An examination of the leadership ... - Page 26 University of Phoenix - 2009 "The first written records of Vietnamese in leadership date back to 258 BC, with Thục Phán as King An Dương Vương of the kingdom Âu Lạc (Nguyễn, 1999). Throughout history, Asians in leadership positions was related to the following ..."
  15. ^ Patricia M. Pelley - Postcolonial Vietnam: New Histories of the National Past - Page 213 2002 "To bring Hanoi's singular status into sharper focus, Nguyễn Lương Bích discusses the previous capitals, beginning with Phong Châu, the capital of the prehistoric Hùng kings, and Cổ Loa, the capital of An Dương Vương."
  16. ^ ファン 2008, p. 67
  17. ^ ファン 2008, p. 66
  18. ^ a b ファン 2008, p. 68
  19. ^ ファン 2008, p. 69

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]