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公望きんもち

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公望きんもち

公望きんもち(こう こうぼう、咸淳5ねん8がつ15にち1269ねん9月12にち) - いたりただし14ねん10月25にち1354ねん11月10にち))は、もとすえ水墨すいぼくいえ倪瓚おうこうむならび「もとすえよん大家たいか」としょうされ、そのなかでも、もっともひろ画風がふうをもち、後代こうだいあたえた影響えいきょう一番いちばんおおきいとわれる[1]。あるいはただし其昌ちんつぎ王思おうしつとむ楊龍とも・倪瓚・おう時敏ときとしなつくもかなえあななおにんなどとあわせて「かねりょうきゅう」ともばれた。

略歴りゃくれき

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みなみそうの咸淳5ねん(1269ねん)、蘇州そしゅうつねじゅくけんまれる。両親りょうしん早世そうせいしたため、温州うんしゅうえいよしみけん養子ようしされ、十分じゅうぶん教育きょういくそだつ。

公望きんもち才能さいのうはあったが、もとだい大夫たいふ登竜門とうりゅうもんであった科挙かきょ不定期ふていきにしか実施じっしされず、おこなわれたとしてもきゅうみなみそう領域りょういき住人じゅうにん(いわゆる「みなみじん」)にはいちじるしく不利ふりであったためながらくかんけず、40さいぎてはじめて蘇州そしゅうぞくとなるも、ほどなく公望きんもち自身じしん無関係むかんけい徴税ちょうぜい不正ふせい事件じけん連座れんざして失職しっしょくし、官界かんかいでの前途ぜんとたれた。

その公望きんもち官途かんとこうとせずうらな戯曲ぎきょく道士どうしなどの遍歴へんれきかさねるが、このあいだちょうはじめ知遇ちぐう絵画かいがこころざし、50さいぎて本格ほんかくてき画家がか活動かつどうはいり「きゅうみねゆき霽図」などをおくした。

79さいころ杭州こうしゅうとみけん移住いじゅう、このえがかれた「とみはる山居さんきょ」は水墨すいぼく代表だいひょうてき傑作けっさくとしてられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 発行はっこうじん児山こやま敬一けいいち人物じんぶつ学習がくしゅう辞典じてんかん オハ~サト』昭和しょうわ61ねん、312ぺーじ