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ていかず

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ていかず
スマラン三保さんぼうほらにあるていかずぞう
生年月日せいねんがっぴ 1371ねん
出生しゅっしょう もとちゅうけい昆陽こやしゅう
ぼつ年月日ねんがっぴ 1434ねん
死没しぼつ あきら
現職げんしょく 宦官かんがん武将ぶしょう航海こうかいしゃ
称号しょうごう ふとしかん
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ていかず
泉州せんしゅう海外かいがい交通こうつう博物館はくぶつかんていかずぞう
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ ていかず
簡体字かんたいじ 郑和
拼音 Zhèng Hé
和名わみょう表記ひょうき てい わ
発音はつおん転記てんき ヂォン・フー
英語えいごめい Zheng He
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てい かず(てい わ、拼音: Zhèng Hé, 宣光のぶみつ元年がんねん8がつ14にち1371ねん9月23にち) - せんとく9ねん1434ねんごろ)は、あきらだい宦官かんがん武将ぶしょう航海こうかいしゃ

軍功ぐんこうげて永楽えいらくみかど重用じゅうようされ、南海なんかいへのけい7だい航海こうかい指揮しきゆだねられた。その船団せんだん東南とうなんアジアインドセイロンとうからアラビア半島はんとうアフリカにまで航海こうかいし、さいとおでアフリカ東海岸ひがしかいがんマリンディ現在げんざいケニア)まで到達とうたつした。本姓ほんせいうまはつ三保さんぼう三宝さんぽう)で、宦官かんがん最高さいこうであるふとしかんだったことから、中国ちゅうごくでは三保さんぼうたいかんあるいはさんたからふとしかん通称つうしょうられる。

ぜん半生はんせい

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宣光のぶみつ元年がんねん(1371ねん)にちゅうけい昆陽こやしゅう宝山たからやまきょう現在げんざい雲南うんなんしょうこんあきらすすむやすし)でムスリム(イスラム教徒きょうと)の次男じなんとしてまれた[1]せいの「うま」はサイイド預言よげんしゃムハンマド子孫しそん)であることをしめし、滇陽こうであったちちは「米里めいりきん」とされるが「うま哈只中国語ちゅうごくごばんハッジ[ちゅう 1])」としてられていた。ていかずは、チンギス・ハーンの中央ちゅうおうアジア遠征えんせいのときモンゴル帝国ていこく帰順きじゅんし、もと治世ちせい雲南うんなんたいらあきら政事せいじとして雲南うんなん発展はってん尽力じんりょくした色目いろめじんサイイド・アジャッル・シャムスッディーン・ウマル(さいてんあからいまご[2]なりむね治世ちせい中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじつとめたサイイド・アジャッル・バヤン中国語ちゅうごくごばん曾孫そうそんたる。ていかずがムスリムのだしだったことは、のち永楽えいらくみかどていかず航海こうかいちょうとして使つかおうとかんがえた理由りゆうひとつだとかんがえられる。

宦官かんがんていかず

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うまさんまれたとしには、すでかんひろしたけみかどてたあかりのほぼ支配しはいにあり、もとりょう王国おうこく雲南うんなんなどすうしょ勢力せいりょくたもつのみとなっていた。天元てんげん3ねん1381ねん)、うまさんが10さいときあかり雲南うんなん攻略こうりゃくぐんこし、よく天元てんげん4ねん1382ねん)にはり王国おうこく滅亡めつぼうちちころされたうまさんらえられて去勢きょせいされ、ひろしたけ16ねん1383ねんごろつばめおうしゅ棣(永楽えいらくみかど)に12さい宦官かんがんとして献上けんじょうされた[3]

ひろしたけみかど没後ぼつごきたやすしなんへんにおいてうまさん功績こうせきげ、けんぶんみかどから帝位ていい奪取だっしゅしたしゅ棣(永楽えいらくみかど)より宦官かんがん最高さいこうしょくであるふとしかん中国語ちゅうごくごばんにんじられた。さらに永楽えいらく2ねん1404ねん)にはていせい下賜かしされ[4]以後いごていかず名乗なのるようになった。

だい航海こうかい計画けいかく

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ていかず艦隊かんたい進路しんろ

ひがしアフリカとうだい貨幣かへい出土しゅつどしていることから、この時期じきにはすでひがしアフリカまでの航路こうろがあったとかんがえられている。そうだいからもとだいにかけて、中国ちゅうごく商人しょうにんたちは東南とうなんアジア、みなみアジアしょ都市とし活発かっぱつ交易こうえきおこなっていたが、あかりてたひろしたけみかどひろし4ねん(1371ねん)に「うみきんれい」をし、外洋がいようせん建造けんぞう民間みんかん船舶せんぱくによる他国たこくとの通商つうしょうきんじた[5]。このうみ禁令きんれいあかりつうじてまもられ、これは永楽えいらく年間ねんかんにおいても例外れいがいではなかった。一方いっぽう永楽えいらくみかどひろしたけ年間ねんかん消極しょうきょくてき対外たいがい政策せいさく間隙かんげきって、皇帝こうてい奪取だっしゅした悪名あくめいわせのため周辺しゅうへん諸国しょこくへの積極せっきょくてき使節しせつ派遣はけんおこなっており、この一環いっかんとして大船おおぶねだん南海なんかい諸国しょこく派遣はけん朝貢ちょうこう関係かんけい樹立じゅりつ示威じいおこな計画けいかく浮上ふじょうした。

船団せんだん

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ていかず宝船たからぶね模型もけい

ていかず指揮しきした船団せんだんなかで、最大さいだいふね宝船たからぶね(ほうせん)中国語ちゅうごくごばんばれた。『あかり』によればながさ44たけやく137m)、はば18たけやく56m)、8,000t、マスト9ほんであり、ちいさく見積みつもってもながさはやく61.2m、1,170t、マスト6ほんというきょかんともわれる[6][ちゅう 2]出土しゅつどひん現代げんだい検証けんしょうから、全長ぜんちょう50m前後ぜんごというせつもある[7]。またこのほか給水きゅうすいかん食糧しょくりょうかん輸送ゆそうかん艦隊かんたいくわわっていたと推測すいそくされている[8]

艦隊かんたい参加さんか人員じんいんはどの航海こうかいにおいてもほぼ2まん7000にん前後ぜんこうとなっており、正使せいし副使ふくしなどの使節しせつだん中心ちゅうしんとして、航海こうかい操舵そうだしゅ水夫すいふなどの乗組のりくみいん指揮しきかん筆頭ひっとうとした兵員へいいん事務じむかん通訳つうやくなどの実務じつむ官僚かんりょうかんなど様々さまざま職種しょくしゅからなっていた[9]

2006ねん9月に南京なんきん全長ぜんちょう63.25mのていかず宝船たからぶね復元ふくげんされた[10]

だい航海こうかい理由りゆう

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なぜ永楽えいらくみかどがこのだい航海こうかい企図きとしたかには様々さまざませつがある。その代表だいひょうてきなものは以下いかとおりである。

  1. やすしなんへん行方ゆくえ不明ふめいとなったけんぶんみかど南海なんかい逃亡とうぼうした可能かのうせいがあるため、それを捜索そうさくするためとするせつ
  2. 西にしティムールあさ伸長しんちょうおそれた永楽えいらくみかどが、ティムール背後はいご勢力せいりょくむすんで挟撃きょうげきするためというせつ
  3. ひろしたけみかどほろぼしたちょうまこと配下はいかだった水軍すいぐん勢力せいりょく反抗はんこうすることをおそれて、これをまとめて南海なんかい派遣はけんしたというせつ

1のせつはありなくはないが、しゅ目的もくてきだったかには疑問ぎもんがある。2のせつについても、ティムールはだい1航海こうかいとしんでおり、ティムール個人こじん才覚さいかくもとづいたティムールあさはその没後ぼつご急速きゅうそく分裂ぶんれつかっていたうえ、その後継こうけいしゃとなったシャー・ルフらはあかりとの友好ゆうこう路線ろせん選択せんたくしたためこれも理由りゆうとはかんがえづらい[11]。3のせつしゅもとあきらひろしたけみかど)がちょうまことやぶってからながときぎており、さらにちょうまこと残党ざんとう当時とうじあかり国力こくりょくからしてまったく脅威きょういとなる存在そんざいではなかったため、これもかんがえにくい[12]

かんがえられる理由りゆうとしては、簒奪さんだつという手段しゅだん帝位ていいについた永楽えいらくみかど国内こくない白眼しろめ払拭ふっしょくするために、他国たこくからの朝貢ちょうこうおおれる儒教じゅきょうてき聖王せいおう演出えんしゅつすることによってみずからの継承けいしょう正当せいとうしようとしたというせつもある。政治せいじてき理由りゆうよりも、あかり艦隊かんたい南シナ海みなみしなかいインド洋いんどようにおける海上かいじょう覇権はけん樹立じゅりつすることによって諸国しょこく朝貢ちょうこううながすことがしゅ目的もくてきだったとするせつもある。しん中国語ちゅうごくごばんなどの記録きろくても、諸国しょこく物産ぶっさん通商つうしょう事情じじょう関心かんしんせられているのは経済けいざいてき動機どうき立証りっしょうするものとする。しかし、あきらうみきん政策せいさくっており、貿易ぼうえき朝貢ちょうこう貿易ぼうえきかぎっていた。朝貢ちょうこう貿易ぼうえきにおいては中華ちゅうか王朝おうちょうがわ入貢にゅうこうしてきたくにたいして、貢物みつぎものすうばいからすうじゅうばいにあたる下賜かしぶつあたえねばならず、朝貢ちょうこううながすことが経済けいざいてき利益りえきにつながるわけではない。このため、たん経済けいざいめんだけ場合ばあい貿易ぼうえき形態けいたい朝貢ちょうこうである以上いじょうは、あきらにとってはむしろ不利益ふりえきとなる。

なお、上記じょうきせつとはべつに、永楽えいらく年間ねんかんあかり積極せっきょくてき拡張かくちょう政策せいさくっていた。永楽えいらくみかどによるモンゴル高原こうげんへのおやせい中国語ちゅうごくごばんをはじめ、えびすひねあさ大越おおこし簒奪さんだつしててたえびすあさだいおそれみとめず、永楽えいらく5ねん1407ねん)に派兵はへいしてだいおそれほろぼし、やすみなみ支配しはいいたのはそのれいである。また、こうした直接ちょくせつ軍事ぐんじ侵攻しんこうだけでなく、宦官かんがん周辺しゅうへん諸国しょこく派遣はけんして朝貢ちょうこううながすことも積極せっきょくてきおこなわれていた。チベットネパールベンガルといった西南せいなん諸国しょこくにはほうあらわ中国語ちゅうごくごばんかえ派遣はけんされ、とくにベンガルへの派遣はけんにおいては海路かいろられている。いたるひがしチャガタイ・ハンこくやティムールあさけい4派遣はけんされ、西域せいいき諸国しょこくとの折衝せっしょうにあたっていた。きょうシャムへと派遣はけんされ、おんな真人しんじんイシハまたしつ哈)はぐんとともに黒龍江こくりゅうこう地方ちほうへと派遣はけんされてこの広大こうだい地域ちいきあかり支配しはいんだ[13]ていかずだい航海こうかいも、このうごきの一環いっかんとしてとらえることができる。こうした周辺しゅうへん諸国しょこくへの朝貢ちょうこう要請ようせいに、軍事ぐんじ遠征えんせい要素ようそもあるイシハやていかずふくめてすべて宦官かんがんもちいられたことは、永楽えいらくみかど宦官かんがん重用じゅうようしめ好例こうれいともなっている[14]

ていかずだい航海こうかい

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だい1航海こうかい(1405ねん-1407ねん

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永楽えいらく3ねん6月15にち1405ねん7がつ11にち)、34さいていかず永楽えいらくみかどより諸国しょこくへの航海こうかい南海なんかい船団せんだん指揮しきをとることをめいじられ[15]、そのとし年末ねんまつだい1航海こうかいへと出発しゅっぱつした。『あかり』によればその航海こうかいしも西洋せいよう西洋せいようくだ)とばれる[16]船団せんだんは、全長ぜんちょう42たけやく131m)あまり大船おおぶね62せき乗組のりくみいん総数そうすう2まん7800めいあまりからなるだい艦隊かんたいだった[17]

蘇州そしゅうふとしくらしゅうから出発しゅっぱつした船団せんだんふくしゅう長楽ながらけんシュリー・ヴィナーヤ英語えいごばんチャンパ現在げんざいビンディンしょうクイニョン)→スラバヤマジャパヒト王国おうこく現在げんざいひがしジャワしゅう)→パレンバンマラッカアル英語えいごばん現在げんざいきたスマトラしゅう)→サムドラ・パサイ王国おうこく(サマトラ、現在げんざいアチェしゅう北部ほくぶ)→セイロンという航路こうろをたどり、永楽えいらく5ねん1407ねんはじめにコーリコードへと到達とうたつした。

マジャパヒトに滞在たいざいちゅう宮廷きゅうていひがし王宮おうきゅう西にし王宮おうきゅうかれておりていかずたちは内戦ないせんパルグルグ戦争せんそう英語えいごばん)にまれた。ひがし王宮おうきゅう滞在たいざいしていたていかず部下ぶか西にし王宮おうきゅう襲撃しゅうげき死亡しぼうしたため、ていかず抗議こうぎし、西にし王宮おうきゅう賠償金ばいしょうきん支払しはらいを約束やくそくさせた。マラッカ海峡かいきょうちかスマトラ島すまとらとうのパレンバン寄港きこうちゅうには、同地どうちにおける華僑かきょうあいだ勢力せいりょくあらそいにまれた。当時とうじパレンバンにはりょう道明みちあき中国語ちゅうごくごばんおよびその後継こうけいしゃであるほどこせすすむきょう英語えいごばんちんよし中国語ちゅうごくごばんの2有力ゆうりょく華僑かきょう存在そんざいし、こうそうつづけていた。ほどこせすすむきょうていかず協力きょうりょく関係かんけいむすび、ちん牽制けんせいしたが、これにたいちんていかず艦隊かんたい攻撃こうげきしたものの大敗たいはいし、らえられたひね南京なんきんまで連行れんこうされ、審議しんぎうえ斬首ざんしゅされた。一方いっぽうほどこせすすむきょう朝貢ちょうこうやくしてあかりから官位かんいあたえられ、パレンバンはあかり影響えいきょうかれることとなった[18]

この航海こうかいにより、それまであかり交流こうりゅうがなかった東南とうなんアジア諸国しょこく続々ぞくぞくあかりへと朝貢ちょうこうへやってくるようになった。なかでも朝貢ちょうこう積極せっきょくてきだったのがパラメスワラ英語えいごばん治下ちか建国けんこくあいだもないマラッカ王国おうこくであった。マラッカはこののちていかず艦隊かんたいがやってくるたびに朝貢ちょうこうおこない、きたのアユタヤ王朝おうちょう南進なんしんはばんだ[19]。こうしてマラッカはていかず影響えいきょうりょく背景はいけいちからたくわえ、あかりから艦隊かんたい派遣はけんされなくなるころには地域ちいき強国きょうこくとして自立じりつたし、東西とうざい貿易ぼうえき中継ちゅうけいこうとして発展はってんした。

だい2航海こうかい(1407ねん-1409ねん

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永楽えいらく5ねん(1407ねん)9がつ帰国きこく、38さいていかずにすぐにさい出発しゅっぱつ命令めいれいされ、年末ねんまつにはだい2航海こうかいへと出発しゅっぱつした。艦隊かんたいはまずシュリー・ヴィナーヤへ寄港きこうし、インドラ・ヴァルマン6せいむかえをけた。シュリー・ヴィナーヤでいったん艦隊かんたい分割ぶんかつし、本隊ほんたいはマジャパヒト(現在げんざいのスラバヤ)へ直行ちょっこうする一方いっぽう分隊ぶんたいアユタヤ訪問ほうもんしたのちさい集結しゅうけつし、コーリコードおよびコーチいたった。帰路きろ途中とちゅう永楽えいらく7ねん2がつ1にち1409ねん2がつ15にち)、セイロンとうガレ漢文かんぶんタミルペルシアの3カ国かこくかれた石碑せきひてている[20]。そのおな経路けいろとおり、永楽えいらく7ねん(1409ねんなつあかり帰還きかんしている。

だい3航海こうかい(1409ねん-1411ねん

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ていかず帰着きちゃくには次回じかい航海こうかい準備じゅんび完全かんぜんととのっており、同年どうねん9がつにはていかずだい3航海こうかいへと出発しゅっぱつした。今度こんどもほぼおな航路こうろでコーリコードに到達とうたつした。帰路きろのセイロン(ガンポラ王国おうこく英語えいごばん現在げんざいコーッテ)でガンポラ王らおうヴィジャヤバーフ6せい英語えいごばんていかず船団せんだんんであるたから強奪ごうだつしようと攻撃こうげきしてきたためていかず反撃はんげきし(あきら・コーッテ戦争せんそう中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん)、ヴィジャヤバーフ6せいとその家族かぞくとりこにしてあかりへとかえ[21]永楽えいらく9ねん1411ねん)7がつ帰国きこくした。おう権威けんい失墜しっついしたセイロンでは、ガンポラからコーッテ王国おうこくへと政権せいけんうつった。

だい4航海こうかい(1413ねん-1415ねん

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ベンガルから進貢しんこうされたキリン(『瑞応ずいおう麒麟きりん』)
武備ぶびこころざし』におさめられた「ていかず航海こうかい」の1ぺーじ(1628ねん

これまでの3航海こうかい成功せいこうけて、永楽えいらくみかどはコーリコードよりさらに遠方えんぽう船団せんだんおくることを決定けっていした。このため入念にゅうねん準備じゅんび必要ひつようとなり、それまでの航海こうかい帰着きちゃく2カ月かげつから3カ月かげつ程度ていど再度さいど出発しゅっぱつしていたのにたいし、だい4航海こうかい帰着きちゃく1ねんはんおこなわれることとなった。この準備じゅんび期間きかんあいだていかず故郷こきょう昆陽こやもどって祖先そせん祭祀さいしおこなっている。また、その途中とちゅうった西安しーあんにおいてペルシアじん通訳つうやくやとっている[22]。またこの航海こうかい参加さんかしたうま中国語ちゅうごくごばんにより、のちに『瀛涯しょうらん(えいがいしょうらん)』がまれることとなった。

永楽えいらく11ねん1413ねんふゆ出航しゅっこうしたていかず艦隊かんたいはコーリコードへいたるまではそれまでとほぼおな航路こうろり、そこから本隊ほんたいはさらに西にし航海こうかいしてペルシアわんきしホルムズ到着とうちゃくした。ここでていかず外交がいこう通商つうしょうおこなったのちどういち経路けいろをたどって帰路きろにつき、永楽えいらく13ねん1415ねん)7がつ帰国きこくした。一方いっぽうスマトラでかれた分遣ぶんけんたいはさらに西にしへとかってモルディブ到着とうちゃくし、さらにインド洋いんどようをまっすぐ横断おうだんしてアフリカ東岸とうがんモガディシオへと到着とうちゃくした。さらに分隊ぶんたい南進なんしんし、ブラバ、ジューブ(現在げんざいジュバランド)といったスワヒリ都市とし経由けいゆしてスワヒリ文明ぶんめい中心ちゅうしん都市としひとつだったマリンディ現在げんざいケニア)にまで到達とうたつした。ここで分隊ぶんたいきたへとてんじ、ラスールあさ統治とうちにあったアラビア半島はんとう南部なんぶアデンかい、そこからラサ中国語ちゅうごくごばん現在げんざいムカッラー周辺しゅうへん)やドファールといったアラビア半島はんとう南岸なんがん港湾こうわん都市とし経由けいゆしてホルムズに到着とうちゃくし、そこから往路おうろとおってあかりへと帰着きちゃくした。分隊ぶんたい帰着きちゃく本隊ほんたいよりも1ねんおくれ、永楽えいらく14ねん1416ねん)のなつとなった[23]

帰路きろ途中とちゅう、サムドラ・パサイで、反逆はんぎゃくしゃセカンダルに王位おうい簒奪さんだつされていた現地げんちおうザイン・アル=アビディンの要請ようせいけ、ていかずへい使つかってセカンダルをらえてザイン・アル=アビディンに王位おういもどさせた[24]

明代あきよ以前いぜん中国ちゅうごく商人しょうにん活動かつどう範囲はんい西にしげん慣例かんれいてきにインドのマラバール海岸かいがんにある交易こうえきこうクーラム・マライ(コッラム)とされていたが、このだい4航海こうかい以降いこう、ホルムズをおも拠点きょてんとしインド洋いんどよう西にし海域かいいき進出しんしゅつするようになった[25]

だい5航海こうかい(1417ねん-1419ねん

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ていかずはインドからさら西進せいしんし、現在げんざいスリランカからアフリカまで到達とうたつした。

5度目どめ航海こうかいていかず46さい永楽えいらく15ねん1417ねん)のふゆ出発しゅっぱつした。この艦隊かんたいにはだい4航海こうかいとき各国かっこく使節しせつ乗船じょうせんしており、各国かっこくかれらをおくとどけることも任務にんむひとつとなっていた。本隊ほんたい前回ぜんかいどおりの経路けいろとおって、セイロンから前回ぜんかいおなじくホルムズまで到達とうたつし、永楽えいらく17ねん1419ねん)8がつ帰国きこくした。途中とちゅうかれた分隊ぶんたい前回ぜんかい同様どうようモルディブ諸島しょとう経由けいゆしアフリカ東岸とうがんのマリンディまで到着とうちゃくし、アデンなどを経由けいゆして、本隊ほんたいからいちねんおそ永楽えいらく18ねん1420ねんなつ帰国きこくした[26]

このだい5航海こうかいのときに、ホルムズからライオンヒョウ、ブラバからダチョウ、モガディシオからシマウマなどのめずらしい動物どうぶつかえっている[27]とく永楽えいらくみかどよろこばせたのはアデンからおくられたキリンであり、これは君主くんしゅ仁政じんせいおこなうときにあらわれるみずじゅう麒麟きりん」として紹介しょうかいされたからである(麒麟きりん#麒麟きりんとキリン)。

だい6航海こうかい(1421ねん-1422ねん

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6度目どめ航海こうかいは、永楽えいらく19ねん1421ねん)2がつになる。それまでとはことなり、朝貢ちょうこう来訪らいほうしていた各国かっこく使節しせつおくることがしゅ目的もくてきとなっており、このため期間きかんみじかかった。今度こんどもほぼおな航路こうろって、帰国きこく永楽えいらく20ねん1422ねん)8がつだった。ただし、この航海こうかいで50さいていかずがどこまでったかについては論争ろんそうがあり、サムドラ・パサイまでていかずかったことはほぼ確実かくじつとされているものの、そこでていかず本人ほんにんかえしたとのせつ[28]と、従来じゅうらいどおりホルムズまでかったとのせつがある[29]。いずれにせよ、前回ぜんかい同様どうよう分遣ぶんけんたいがスマトラでかれ、モルディブ、アフリカ東岸とうがん、アデンを経由けいゆし、永楽えいらく21ねん1423ねん)にあかりへと帰着きちゃくした[30]。またこのときていかず艦隊かんたい一部いちぶはベンガルをおとずれている[31]

航海こうかい中断ちゅうだん

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永楽えいらく22ねん1424ねん)、ていかずあかりからパレンバンまでのみじか航海こうかいおこなった。パレンバンにおいてはだい1航海こうかいときていかず介入かいにゅうしてほどこせすすむきょうによる体制たいせい確立かくりつしておりあかりとの関係かんけい良好りょうこうだったが、ほどこせすすむきょう死後しごその息子むすこむすめによる後継こうけいしゃあらそいが勃発ぼっぱつし、勝利しょうりしたほどこせずみまご地位ちい継承けいしょうあかりもとめたため、ていかず使者ししゃとなってその世襲せしゅうみとめた[32]

ていかず永楽えいらく22ねん(1424ねん)8がつあかり帰着きちゃくしたが、その前月ぜんげつの7がつ永楽えいらくみかど崩御ほうぎょしており、その後継こうけいしゃとなったひろし熙帝民力みんりょく休養きゅうよう目指めざし、だい規模きぼ外征がいせい中止ちゅうし布告ふこくした。この布告ふこくなかにはだい航海こうかい中止ちゅうしふくまれており、ていかず航海こうかいはいったんここでまることとなった[33]

帰着きちゃくしたていかずは、ふくとなっていた南京なんきん守備しゅびふとかんひろし元年がんねん1425ねん)ににんじられた。同年どうねんひろし熙帝は在位ざいいわずか1ねんくずれじたものの、永楽えいらく年間ねんかん末期まっき北京ぺきんへの遷都せんと中国語ちゅうごくごばん度重たびかさなる軍事ぐんじ遠征えんせいによってあかり財政ざいせい悪化あっかしており、航海こうかい中断ちゅうだんされたままとなっていた。せんとく3ねん1428ねん)にはひろし熙帝のせんとくみかどによって、ていかず南京なんきんにあるだい報恩寺ほうおんじ修復しゅうふくめいじられ、壮大そうだい伽藍がらん建設けんせつした[34]だい報恩寺ほうおんじ南京なんきん奇観きかんとしてながくランドマークとなっていた[35]ものの、太平たいへい天国てんごくらん咸豊6ねん1856ねん)に焼失しょうしつ[36]2015ねん12月16にち再建さいけんされた[37]

だい7航海こうかい(1430ねん-1433ねん

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せんとく年間ねんかん国力こくりょく回復かいふくすすむと、せんとく5ねん1430ねん)にせんとくみかどは7度目どめ航海こうかい計画けいかくし、ていかずにその指揮しきめいじた。9ねんぶりの艦隊かんたい派遣はけんであり、すでていかずは60さい老齢ろうれいだったが、かれわる人材じんざいはいなかった。出発しゅっぱつせんとく6ねん1431ねん)12がつで、ぜん6かいおなじくシュリー・ヴィナーヤ、スラバヤ、パレンバン、マラッカ、サムドラ・パサイと寄港きこうしていき、ここで本隊ほんたい分遣ぶんけんたいかれた。本隊ほんたい前回ぜんかい同様どうようセイロンとコーリコードを経由けいゆし、せんとく7ねん(1432ねん)12月にホルムズに到着とうちゃくし、50日間にちかん滞在たいざいしてから往路おうろぎゃくをたどってせんとく8ねん1433ねん)6がつ帰国きこくした。一方いっぽう分遣ぶんけんたい前回ぜんかい同様どうようモルディブ経由けいゆひがしアフリカ、みなみアラビアのしょみなとめぐ帰国きこくいた。またこのときはコーリコードで本隊ほんたいからさらにうま歓らをふくいちたい分派ぶんぱされ、イスラム教いすらむきょう聖地せいちメッカいたったという。このいちたいはホルムズで本隊ほんたい合流ごうりゅうして帰国きこくした[38]

最期さいご

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だい7航海こうかいから帰国きこくほどなくして、ていかず死去しきょした。おそらくせんとく8ねん(1433ねん)からせんとく9ねん1434ねんごろかんがえられている[39]遺体いたい南京なんきん牛首山うしくびやま中国語ちゅうごくごばんほうむられ、そのはか現在げんざいでも南京なんきんこうやすしていかずはかとしてのこっている。

航海こうかい意義いぎ影響えいきょう

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だい1からだい3航海こうかいかんしては、いくつか変更へんこうされた場合ばあいがあるものの、基本きほんてきにはあかり出航しゅっこうにシュリー・ヴィナーヤ、スラバヤ、パレンバン、マラッカ、サムドラ・パサイ、セイロン、コーリコードといった一定いってい経路けいろ往復おうふくするかたちっている。これは中国ちゅうごく商船しょうせん往来おうらい頻繁ひんぱんであった海域かいいきないであり、この海域かいいき巨大きょだいていかず艦隊かんたい頻繁ひんぱん往来おうらいすることは、うみきん政策せいさくによってあかり影響えいきょうりょく低下ていかしていたこれらの地域ちいきに、あらためてあかり国威こくいしめ国際こくさい秩序ちつじょさい構築こうちくするとともに、わたし貿易ぼうえき抑制よくせいして朝貢ちょうこう貿易ぼうえきさかんにする目的もくてきっていた。だい1航海こうかいさいにこの経路けいろ要衝ようしょうであるパレンバンにおいてちん討伐とうばつほどこせすすむきょう官位かんいあたえたことなどは、これをよくあらわしている。

それにたいして、だい4以降いこうはコーリコードまではほぼおな経路けいろをたどっているが、そこからさらに遠方えんぽうへと艦隊かんたい進出しんしゅつさせている。これはそれまでの中国ちゅうごく商人しょうにん交易こうえき範囲はんい限界げんかいてんであったコーリコードなどのインド西海岸にしかいがんえ、より遠方えんぽうの、イスラム商人しょうにん海域かいいきであるインド洋いんどようやアラビアかいをも朝貢ちょうこう範囲はんいないれようとしたことをしめしている。この航海こうかいでは本隊ほんたいはペルシアのホルムズに到達とうたつし、分遣ぶんけんたいはアラビア半島はんとうやアフリカ東海岸ひがしかいがんにまで到達とうたつしており、膨大ぼうだい地理ちり情報じょうほうあかりにもたらした。ただし中国人ちゅうごくじんにとって馴染なじみのないこの海域かいいき季節風きせつふう貿易ぼうえき紀元前きげんぜんからおこなわれ、イスラム商人しょうにんによる貿易ぼうえきもうすで確立かくりつされており、それ以前いぜん中国ちゅうごくにも断片だんぺんてき情報じょうほうとどいていた。ていかず艦隊かんたい派遣はけんはこの経路けいろはじめて直接的ちょくせつてき参入さんにゅうし、既存きそん貿易ぼうえきもう沿って政治せいじてき影響えいきょうりょくおよぼそうとするこころみだった[40]

また、ていかず航海こうかいはいずれも年末ねんまつあかり本土ほんど出港しゅっこうし、なつごろあかり帰着きちゃくする行程こうていとなっているが、これは南シナ海みなみしなかい季節風きせつふう考慮こうりょしたものであり、当時とうじあかりから東南とうなんアジア方面ほうめんかう商船しょうせんはどのふね同様どうよう行程こうてい航海こうかいおこなっていた[41]

ていかず艦隊かんたいヨーロッパひとによるだい航海こうかい時代じだいとは対照たいしょうてきに、基本きほんてきには平和へいわてき修好しゅうこう通商つうしょう目的もくてきとし、到着とうちゃくした土地とち軍事ぐんじ行動こうどうこすことはすくなかったが、艦隊かんたいには多数たすう兵員へいいん乗船じょうせんしており、泊地はくち攻撃こうげきけたり現地げんち勢力せいりょくあらそいにまれた場合ばあい軍事ぐんじ行動こうどうることもあった。だい1航海こうかいのマジャパヒト王国おうこくにおける内乱ないらんや、おなじくパレンバンにおけるほどこせすすむきょうひねあらそいへの介入かいにゅうだい3航海こうかいのガンポラとの戦争せんそうだい4航海こうかいのサムドラ・パサイの内紛ないふんへの介入かいにゅうなどがそのれいである。

死後しご

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ていかずはか南京なんきんこうやすし牛首山うしくびやま
武備ぶびこころざし』におさめられたていかずのホルムズ海峡かいきょうからコーリコードへの航海こうかい(1430ねん

ていかず翌年よくねんせんとく10ねん1435ねん)にせんとくみかど崩御ほうぎょするとあかりふたた内向ないこうてきになり、国力こくりょく衰退すいたいかって航海こうかいおこなわれなくなった。だい7航海こうかい諸国しょこくから来航らいこうした使節しせつたちは帰国きこくうしなってあかりむなしく3ねんごし、正統せいとう元年がんねん1436ねん)にマジャパヒト使節しせつふね便乗びんじょうして帰国きこくすることとなったが、途中とちゅう遭難そうなんして56めい死者ししゃした。てんじゅん元年がんねん1457ねん)にはてんじゅんみかどによって再度さいど航海こうかい計画けいかくされたが、廷臣ていしん反対はんたいって断念だんねんしている[42]。またなり年間ねんかんにも「ふたただい航海こうかいを」というこえがったが、航海こうかいようする莫大ばくだい費用ひよう儒教じゅきょうてき倫理りんりかんから官僚かんりょう反対はんたいい、沙汰止さたやみとなった。

ていかずだい航海こうかい記録きろくは、だい4航海こうかいだい7航海こうかい同行どうこうしたうま歓の『瀛涯しょうらん』やしんの『ほし槎勝らん中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん』、鞏珍中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんの『西洋せいようばんこくこころざし中国語ちゅうごくごばん』などによって現在げんざいのこされ、この時代じだい東南とうなんアジアをるための非常ひじょう貴重きちょう資料しりょうとなっている。

これらはみんせんのもので、ていかず航海こうかい公式こうしき記録きろくは「ていかず使つかいすいほど」として編纂へんさんされ、宮中きゅうちゅう資料しりょう保管ほかんされた。これは船団せんだん編成へんせい名簿めいぼ航海こうかい日誌にっし会計かいけいなどの記録きろく網羅もうらした膨大ぼうだいなものだったといわれる。しかしすうじゅうねんなりみかど調査ちょうささせたところ、そっくり紛失ふんしつしており、その理由りゆう現在げんざいなぞとなっている。一説いっせつには、航海こうかいようする経費けいひみんくるしめこく衰退すいたいさせることを憂慮ゆうりょしたりゅうだいなつによって、今後こんごだい航海こうかい準備じゅんび資料しりょうとされないようひそかにされて焼却しょうきゃくされたともいう[43]。しかしていかず艦隊かんたい使用しようした海図かいず一部いちぶ民間みんかん流出りゅうしゅつしており、その海図かいず天啓てんけい元年がんねん1621ねん)にかやもとあらわした『武備ぶびこころざし』に収録しゅうろくされ現代げんだいまでつたえられている[44]

上述じょうじゅつしたとおり、だい航海こうかいそのものの経費けいひかぎらず、朝貢ちょうこう貿易ぼうえきにおいてあきら多額たがく出費しゅっぴ必要ひつようとした。永楽えいらく年間ねんかん以後いごあかり財政ざいせい緊縮きんしゅく観点かんてんから朝貢ちょうこう貿易ぼうえき制限せいげん制約せいやくくわえ、結果けっかとして朝貢ちょうこうこく激減げきげんしている。またこれにともなって、インド洋いんどよう交易こうえきにおいてはそれまでのあかりせんわりイスラムの商船しょうせんたい台頭たいとうしてくるようになった[45]

その

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ていかずまつった寺院じいん華僑かきょうおお東南とうなんアジアにいくつか存在そんざいし、なかでもインドネシア中部ちゅうぶジャワしゅうスマランにある寺院じいん三保さんぼうほら英語えいごばん観光かんこう名所めいしょとしてられている[46]。また、スラバヤにはていかず清真きよざねてら中国語ちゅうごくごばんがあり、当時とうじちゅうインドネシア中国ちゅうごく大使たいしであったいつきみん中国語ちゅうごくごばん揮毫きごうおこなっている[47]

ていかず中国ちゅうごく代表だいひょうするうみ英雄えいゆうであるため、艦船かんせん島嶼とうしょなどを中心ちゅうしんにそのけられたものが多数たすう存在そんざいする。1987ねん就役しゅうえきした中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん海軍かいぐん練習れんしゅうかんが「ていかず」と命名めいめいされ、世界せかい各国かっこく親善しんぜん訪問ほうもんしており、日本にっぽんにも2009ねん江田島えたじまくれ寄港きこうした[48]中華民国ちゅうかみんこく海軍かいぐんでも、1994ねん就役しゅうえきした成功せいこうきゅうミサイル・フリゲートの2ばんかんが「ていかず」と命名めいめいされている。また、周辺しゅうへん各国かっこく領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている南沙なんさ諸島しょとう北部ほくぶティザードうずたかは、中国ちゅうごくでは「ていかずぐん礁」とばれている。2008ねんはじまった中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん海軍かいぐんのソマリアおきへの派遣はけんていかず西にしせい以来いらい600ねんぶりの中国ちゅうごく軍艦ぐんかん遠征えんせいとされた[49]

登場とうじょう作品さくひん

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漫画まんが

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ メッカへの巡礼じゅんれいものあたえられる尊称そんしょう由来ゆらいする。
  2. ^ ちなみにヴァスコ・ダ・ガマ船団せんだんは120tきゅうが3せきそう乗組のりくみいんは170めい、コロンブスの船団せんだんは250tきゅうが3せきそう乗組のりくみいんは88めいである。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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ていかず主人公しゅじんこうとした歴史れきし小説しょうせつ

  • 庄野しょうの英二えいじ小説しょうせつうみのシルクロード ていかずだい航海こうかい理論りろんしゃ、1985ねん 
  • 伴野とものあきらだい航海こうかい集英社しゅうえいしゃ、1984ねん4がつ  のち文庫ぶんこ
  • ふとしじゅんていかず 中国ちゅうごくだい航海こうかい時代じだいきずいた伝説でんせつ英雄えいゆう』PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP文庫ぶんこ〉、2007ねん11月。ISBN 978-4-569-66812-3 

関連かんれん項目こうもく

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