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マラッカ海峡かいきょう

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マラッカ海峡かいきょう近辺きんぺん地図ちず
マラッカ海峡かいきょうスンダ海峡すんだかいきょう付近ふきん地勢ちせい主要しゅよう航路こうろ

マラッカ海峡かいきょう(マラッカかいきょう、英語えいご: Strait of Malaccaマレー: Selat Melaka)は、マレまれ半島はんとうスマトラ島すまとらとうインドネシア)をへだてる海峡かいきょう南東なんとうはし接続せつぞくしているシンガポール海峡かいきょうとあわせて太平洋たいへいようインド洋いんどようむす海上かいじょう交通こうつううえ要衝ようしょうとなっている[1]。2005ねんにおける年間ねんかん通過つうか船舶せんぱくすうは9まんせきえており[2]タンカーコンテナせんなどの経済けいざいてき重要じゅうよう物資ぶっしはこ大型おおがた貨物かもつせん海峡かいきょうっている。そのことからオイルロードばれることもある。経済けいざいてき戦略せんりゃくてきにみて、世界せかいシーレーンなかでもスエズ運河うんがパナマ運河うんがホルムズ海峡かいきょうにならび重要じゅうよう航路こうろひとつである。

地理ちり地誌ちし

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全長ぜんちょうやく900キロメートルはばは65キロメートルないし70キロメートル(北西ほくせいがわ海峡かいきょう入口いりくち付近ふきんではやく250キロメートルにひろがる)ほどの北西ほくせい方向ほうこうから南東なんとう方向ほうこうへとつながる細長ほそなが海峡かいきょうであり、スンダ陸棚りくだなうえにあるために平均へいきん水深すいしんやく25メートルあさく、岩礁がんしょうちいさなしま浅瀬あさせおお[3]。このため、大型おおがた船舶せんぱくこうはばがわずかすうキロメートルの箇所かしょもある。

世界せかいもっと船舶せんぱく航行こうこうおお海域かいいきひとつであり[4]太平洋たいへいよう付属ふぞくうみである南シナ海みなみしなかいインド洋いんどよう一部いちぶであるアンダマンかい最短さいたん距離きょりむす主要しゅよう航路こうろとなっている。通過つうかする貨物かもつもっとおおいのは、中東ちゅうとうさん石油せきゆおよび石油せきゆ製品せいひんである[4]。しかし、シンガポール付近ふきんのフィリップ水路すいろ(Phillip Channel) ははばが2.8キロメートルと非常ひじょうせまく、水深すいしんも23メートルしかないため、世界せかい航路こうろのなかでも有数ゆうすうボトルネックとなっている。この海峡かいきょう通過つうかできるふね最大さいだいのサイズはマラッカマックス (Malaccamax) とばれており、大型おおがたタンカーの巨大きょだい制限せいげんする要因よういんひとつとなっている[注釈ちゅうしゃく 1]

スマトラ島すまとらとう都市としタンジュン・バライ1930年代ねんだい航空こうくう写真しゃしん

ケッペンの気候きこう区分くぶんでは、海域かいいきりょうきしのほぼ全域ぜんいき熱帯ねったい雨林うりん気候きこう (Af) にぞくする。海流かいりゅう年間ねんかんとおして南東なんとうから北西ほくせいかってながれる[3]通常つうじょうなみおだやかであるが、北東ほくとう季節風きせつふう発達はったつするぶしには海流かいりゅう速度そくど[6]。マラッカ海峡かいきょうながすおもな河川かせんにはスマトラ島すまとらとうカンパルがわインドネシアばん英語えいごばんアサハンがわがある。

沿岸えんがんこくは、インドネシア共和きょうわこくマレーシアおよびシンガポール共和きょうわこくであり、タイ王国おうこく沿岸えんがんこくふくめる場合ばあいもある。海運かいうん業界ぎょうかいでは、この海峡かいきょう付近ふきんを「海峡かいきょう」と一括いっかつして呼称こしょうすることがあり、おも貿易ぼうえきこうマレまれ半島はんとうがわペナンジョージタウンペナンしゅう)、ムラカ英名えいめいマラッカ、ムラカしゅう)、ポートクラン旧名きゅうめいポートスウェッテナム、セランゴールしゅう)、シンガポール、スマトラ島すまとらとうがわドゥマイリアウしゅう)などがあり、現代げんだいにおける最大さいだい港湾こうわん都市としはシンガポールである[3]

ペナンとうのリゾートエリア

海峡かいきょうりょうきしでは、天然てんねんゴム栽培さいばいがさかんであり、世界せかいてき産地さんちとなっている[1]海峡かいきょうのぞマレまれ半島はんとうがわ主要しゅよう都市としとして、上述じょうじゅつしょ都市としのほかにペラしゅうタイピンなどがあり、インドネシアがわにはスマトラ島すまとらとう最大さいだい都市としメダンきたスマトラしゅう)のほか、アチェしゅうランサきたスマトラしゅうタンジュン・バライなどのしょ都市としがある。また、マラッカ海峡かいきょうのぞむタイのプーケットとう、マレーシアのペナンとう世界せかいてきリゾートとしてられる。

範囲はんい

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

国際こくさい水路すいろ機関きかん (IHO) が『大洋たいよううみ境界きょうかい だい3はん』においてさだめるマラッカ海峡かいきょう範囲はんい以下いかとおりである[7]

西端せいたん
スマトラ島すまとらとう北端ほくたんの Pedropunt (北緯ほくい540ふん 東経とうけい9526ふん / 北緯ほくい5.667 東経とうけい95.433 / 5.667; 95.433 (Pedropunt)) とタイプーケットとう南端なんたんの Lem Voalan (北緯ほくい745ふん 東経とうけい9818ふん / 北緯ほくい7.750 東経とうけい98.300 / 7.750; 98.300 (Lem Voalan)) をむすせん
ひがしはし
マレまれ半島はんとう南端なんたんの Tanjong Piai (北緯ほくい116ふん 東経とうけい10331ふん / 北緯ほくい1.267 東経とうけい103.517 / 1.267; 103.517 (Tanjong Piai)) から The Brothers (北緯ほくい111ふん5びょう 東経とうけい10321ふん0びょう / 北緯ほくい1.18472 東経とうけい103.35000 / 1.18472; 103.35000 (The Brothers)) をとおり Klein Karimoen (北緯ほくい110ふん0びょう 東経とうけい10323ふん5びょう / 北緯ほくい1.16667 東経とうけい103.38472 / 1.16667; 103.38472 (Klein Karimoen)) をむすせん
北端ほくたん
マレまれ半島はんとう南岸なんがん
南端なんたん
スマトラ島すまとらとう北東ほくとうがんから、Tanjong Kedabu (北緯ほくい106ふん 東経とうけい10258ふん / 北緯ほくい1.100 東経とうけい102.967 / 1.100; 102.967 (Tanjong Kedabu)) をとおり Klein Karimoen をむすせん

歴史れきし

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西暦せいれき166ねんの「大秦たいしんおうあんあつし使者ししゃ[注釈ちゅうしゃく 2]4世紀せいきすえから5世紀せいき初頭しょとうにかけてのあずますすむ中国ちゅうごく南北なんぼくあさ時代じだい)のほうあらわ7世紀せいき後半こうはんよしきよし14世紀せいきイブン・バットゥータ15世紀せいきあきらていかずだい遠征えんせいなど、いずれもこの海峡かいきょう利用りようした。また、13世紀せいきすえの『東方とうほう見聞けんぶんろく』の著者ちょしゃマルコ・ポーロもこの海峡かいきょう利用りようし、風待かざまちのためスマトラ北端ほくたんのペルラクに5かげつあいだ滞在たいざいしている[8]

シュリービジャヤ王国おうこくとマジャパヒト王国おうこく

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ジャワのボロブドゥール遺跡いせきシャイレーンドラあさ)にきざまれた当時とうじ帆船はんせんレリーフ浮彫うきぼり彫刻ちょうこく

ユーラシア大陸たいりく東西とうざいをむすぶ「インド洋いんどようネットワーク」は、当初とうしょマレまれ半島はんとうクラ地峡ちきょう横断おうだんするルートが主流しゅりゅうであったため、東南とうなんアジアの物産ぶっさん扶南チャンパ王国おうこく最大さいだい集散しゅうさんとしたが、その7世紀せいきから8世紀せいきにかけてムスリム商人しょうにん来航らいこうするようになると、マラッカ海峡かいきょう経由けいゆするルートにわった。西にしアジアふね広州こうしゅう泉州せんしゅうなど中国ちゅうごく南部なんぶおとずれ、これらの港町みなとちょうにはアラブじんペルシャじん居留きょりゅうがあったという。

こうして、マラッカ海峡かいきょう太平洋たいへいようインド洋いんどようむす海上かいじょう交通こうつう要路ようろとなり、海峡かいきょう沿岸えんがんおこった国家こっかのなかには海峡かいきょう両側りょうがわ領域りょういき支配しはいすることによって貿易ぼうえきつうじて富強ふきょうをはかる勢力せいりょくも、歴史れきしじょうなんあらわれた。7世紀せいきスマトラ島すまとらとう南部なんぶおこったみなと国家こっか[注釈ちゅうしゃく 3]シュリーヴィジャヤ王国おうこくもそのひとつである。とうきよしは、インドへの留学りゅうがくまえに5かげつ留学りゅうがくえてインドからの帰途きとには10ねんものあいだシュリーヴィジャヤに滞留たいりゅうし、サンスクリット仏典ぶってん筆写ひっしゃかんやくおこなった[10]帰国きこくかれあらわした『南海なんかいよせ内法うちのりでん中国語ちゅうごくごばん』には、シュリーヴィジャヤには1,000にんあまりのふつそうがいて、仏教ぶっきょうがくのレベルもインドのそれにおとらないとしるしている[10]よしきよし復路ふくろ、クダ(マレーシア・クダしゅう)からシュリーヴィジャヤの首都しゅとはいったが、首都しゅと現在げんざいパレンバン(インドネシア・みなみスマトラしゅう)のあたりにあった[10]

シュリーヴィジャヤは、一時いちじジャワ島じゃわとう本拠ほんきょとするシャイレーンドラあさ勢力せいりょくにおされて衰退すいたいしたが、政争せいそうやぶれて亡命ぼうめいしたシャイレーンドラ王家おうけのパーラプトラをおうとしてむかえ、勢力せいりょくかえした[11]

とうおとろえると、陸上りくじょうの「オアシスのみち」「草原そうげんみち」の通行つうこうけっして安全あんぜんなものとはいえなくなったが、そのことはぎゃくに「うみみち」への依存いぞん飛躍ひやくてき増大ぞうだいさせることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛りゅうせい拍車はくしゃをかけることとなった。だいじゅうこくそう建国けんこくいた10世紀せいき前半ぜんはんから中葉ちゅうようにかけては、イブン・ファキーフアブー・ザイドwikidata[12][13]などがアラビアしるした地理ちりしょ旅行りょこうにはシュリーヴィジャヤの繁栄はんえいしるされ、そこでは「ザーパクインドネシアばん英語えいごばん」と呼称こしょうされている[11]

また、そうだいには中国人ちゅうごくじんもさかんに南海なんかい貿易ぼうえき進出しんしゅつするようになり、しゅうみねがいだいこたえ』やちょうなんじしょしげるこころざし』などのすぐれた書籍しょせきあらわれた。これらによれば、ひがしジャワ島じゃわとう西にしアラビア半島はんとうみなみインドなどの各地かくちから来航らいこうする船舶せんぱくでこの海峡かいきょう利用りようしないふねはなく、もし、入港にゅうこうしないで通過つうかしようとする商船しょうせんがあれば、シュリーヴィジャヤの王国おうこく水軍すいぐんして攻撃こうげきくわえたこと、またパレンバンのみなとには鉄鎖てっさがあり、海賊かいぞく来航らいこうにはくさりじ、商船しょうせん来航らいこうにはこれをひらいてむかえたことなどをしるしている[11]

シュリーヴィジャヤは、10世紀せいきから11世紀せいきにかけてジャワに本拠ほんきょクディリ王国おうこくやインド南部なんぶチョーラあさ攻撃こうげきけたが、これは、王国おうこくがマラッカ海峡かいきょう貿易ぼうえき独占どくせんし、それによるとみ集積しゅうせきしていたためであった。14世紀せいきには、ジャワ島じゃわとう本拠ほんきょくヒンドゥーきょうこくマジャパヒト王国おうこくからの征服せいふくけている。マジャパヒト王国おうこくは14世紀せいきガジャ・マダあらわれて、一時いちじマレまれ半島はんとうからスマトラ・ジャワの両島りょうしま、さらにカリマンタンとう南岸なんがん支配しはいする広大こうだい海洋かいよう帝国ていこく建設けんせつした。

その一方いっぽうで、13世紀せいき以降いこうスマトラ島すまとらとう北部ほくぶマレまれ半島はんとう住民じゅうみんのムスリム進行しんこうしている[8]。13世紀せいきまつ当地とうち滞留たいりゅうしたマルコ・ポーロは、きたスマトラの人々ひとびとがさかんにイスラームきょう改宗かいしゅうしていることを『東方とうほう見聞けんぶんろく』のなかにのこしている[8]。アラブじん来航らいこうやイスラームきょう伝来でんらいからすう世紀せいき経過けいかした13世紀せいきという時期じきにムスリム急速きゅうそく進展しんてんした理由りゆうとして、インドでの目覚めざましいイスラーム進展しんてんがみられたのがやはり13世紀せいきであり、インド文化ぶんか影響えいきょうけやすい東南とうなんアジアへはインドけいのムスリム商人しょうにんがもたらしたとかんがえられること、また、この時代じだいにさかんだったのはイスラームのなかでも布教ふきょう熱心ねっしんだった神秘しんぴ主義しゅぎ教団きょうだんスーフィーだったことなどがげられる[8]

そして、14世紀せいきまつから15世紀せいき初頭しょとうにかけてムスリム政権せいけんとしてマレまれ半島はんとう北西ほくせいマラッカ王国おうこく成立せいりつし、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトのりょう勢力せいりょくおさえてマラッカ海峡かいきょうりょうきし支配しはいし、海洋かいよう国家こっかきずいたのである[14]

帆船はんせん時代じだい東西とうざい交易こうえきとマラッカ海峡かいきょう

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そうだいジャンクせん

帆船はんせん時代じだいにあっては、古代こだいエジプト古代こだいローマアラビアアフリカトルコペルシャ、インドなど、海峡かいきょう西方せいほう諸国しょこくからの物資ぶっしはこんできた貿易ぼうえきせんは、現在げんざいのマレーシア西海岸にしかいがんのクダのみなとムラカ(マラッカ)を利用りようした。古代こだいにあっては、夏季かき6がつ-11月)にモンスーン貿易ぼうえきふう)にって西にしからの貿易ぼうえきせんがクダなどにき、冬季とうき12月-3がつ)に反対はんたい方向ほうこうかぜもちいて帰航きこうするというケースが一般いっぱんてきであった。

6世紀せいきごろ著名ちょめい港湾こうわんとして繁栄はんえいしていたクダには、はしけ人足ひとあしゾウ税関ぜいかんなどが整備せいびされており、ここにいた荷物にもつ一旦いったん陸揚りくあげされて、マレまれ半島はんとう東海岸ひがしかいがんクランタンしゅう周辺しゅうへんまで陸上りくじょう輸送ゆそうされ、中国ちゅうごくなどの東方とうほう輸出ゆしゅつする場合ばあいはさらにクランタンなどのみなとから荷物にもつしていた。

取引とりひきされる各地かくち特産とくさんぶつとしては、

などがあり、マラッカ海峡かいきょうは、中国ちゅうごく起源きげんとして南シナ海みなみしなかい東シナ海ひがししなかいもちいられたジャンクせんインド洋いんどよう一帯いったいひろもちいられた1ほんマストのダウせんとがともに海域かいいきであった[15]

12世紀せいきから13世紀せいきにかけて、東南とうなんアジアでは中国ちゅうごくとインド・西にしアジアあいだ中継ちゅうけい貿易ぼうえきのためのみなと発達はったつする。これは、モンスーン(季節風きせつふう)の関係かんけいで、インド洋いんどよう海域かいいきひがしアジア地域ちいきとのあいだ往復おうふくするには2ねん歳月さいげつ必要ひつようとしたが、東南とうなんアジアのみなととのあいだ往復おうふくするだけであれば、その半分はんぶん以下いか時間じかんしかからなかったからである。

マラッカ王国おうこく繁栄はんえいとヨーロッパじん進出しんしゅつ

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復元ふくげんされたマラッカ王宮おうきゅう
ムラカ(マラッカ)のポルトガルじん要塞ようさいサンティアゴ要塞ようさいあと

15世紀せいきにおける海峡かいきょう最大さいだい貿易ぼうえきこうはムラカ(マラッカ)であり、中継ちゅうけい貿易ぼうえき繁栄はんえいしたみなと国家こっかマラッカ王国おうこくしゅ要港ようこうとしてにぎわった[3]。ムラカのみなとつとむ長官ちょうかんは4にんおり、だいいち長官ちょうかんはインド西海岸にしかいがんグジャラートしゅうだい長官ちょうかんみなみインド、ベンガルしゅうおよびビルマ(ミャンマー)、だいさん長官ちょうかん東南とうなんアジアの島嶼とうしょだいよん長官ちょうかん中国ちゅうごくあきら)、琉球りゅうきゅう王国おうこく、チャンパーをそれぞれ担当たんとう地域ちいきとした。ムラカは、商人しょうにん船員せんいん通訳つうやく港湾こうわん労働ろうどうしゃひと物流ぶつりゅう管理かんりする吏員りいん船乗ふなのりや商人しょうにん相手あいてをする遊女ゆうじょなどでにぎわった[15]

16世紀せいき初頭しょとうポルトガルじんトメ・ピレスポルトガルばん英語えいごばんの『東方とうほう諸国しょこくポルトガルばん』によれば、ムラカのみなとには、カイロメッカアデンのムスリム、アビシニアじんエチオピアじん)、キルワマリンディなどアフリカ大陸たいりく東岸とうがんひとびと、ペルシャ湾ぺるしゃわん沿岸えんがんホルムズひと、ペルシャじん、ルームじんギリシャじん)などを列挙れっきょしたうえで、「62のくにからの商人しょうにんあつまり、84もの言葉ことばはなされている」としるしている[15]。こうした繁栄はんえいったポルトガルじん1511ねん、16せき軍艦ぐんかんでこのまち攻撃こうげき占領せんりょうしてポルトガル海上かいじょう帝国ていこく主要しゅよう拠点きょてんのひとつとした。1498ねんヴァスコ・ダ・ガマインド航路こうろを「発見はっけん」してから15ねんらずのことであった[16]

「マラッカいにしえ」(1726ねん

その、マラッカ海峡かいきょうりょうきしは、ポルトガルスマトラ島すまとらとう北端ほくたんアチェ王国おうこくマレまれ半島はんとう南部なんぶリアウ諸島しょとう基盤きばんジョホール王国おうこくさんしゃ合従連衡がっしょうれんこうかえしてマラッカ海峡かいきょう交易こうえき独占どくせんしようとし(「三角さんかく戦争せんそう」)、17世紀せいき前半ぜんはんにはアチェ王国おうこく優位ゆういってアチェ全盛ぜんせい時代じだいきずいたが、最終さいしゅうてきには、新規しんき参入さんにゅうしゃであったオランダとマラッカ王国おうこく末裔まつえいであったジョホール王国おうこくとが連合れんごうし、1641ねんにポルトガル勢力せいりょく駆逐くちくし、ムラカはオランダの占領せんりょうするところとなった[17]。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易ぼうえきこうとしては衰退すいたいし、17世紀せいき後半こうはんには海上かいじょうみん統制とうせいし。オランダ・アチェとも良好りょうこう関係かんけい構築こうちくしたジョホール王国おうこくジャンビ王国おうこく抗争こうそうしながらも全盛期ぜんせいきをむかえ、東西とうざい交易こうえき中継ちゅうけいとして繁栄はんえいした。

海峡かいきょう地帯ちたいにはマレーじんはじめスマトラ内陸ないりくミナンカバウじんスラウェシとう南部なんぶブギスじんなど東南とうなんアジア各地かくちしょ民族みんぞく中国人ちゅうごくじんインドじんアラビアじんペルシアじんヨーロッパじん日本人にっぽんじんなどすうおおくの人種じんしゅ民族みんぞくんだ[3][注釈ちゅうしゃく 4]。ムラカはその、19世紀せいき初頭しょとうナポレオン戦争せんそうさいにはイギリスによって占領せんりょうされた。ムラカはいったんオランダに返還へんかんされたが、1824ねん、イギリスはオランダとのあいだにえいらん協約きょうやくむすんで、マレまれ半島はんとうがわをイギリスの勢力せいりょくけんスマトラ島すまとらとうがわをオランダの勢力せいりょくけんとした。

1869ねんスエズ運河うんが開通かいつうは、それまでスマトラ島すまとらとうジャワ島じゃわとうあいだスンダ海峡すんだかいきょう利用りようしていた船舶せんぱくも、そのおおくがマラッカ海峡かいきょう利用りようするようになり、いっそう重要じゅうようせいした[3]。また、とくマレまれ半島はんとうがわ鉱業こうぎょう農業のうぎょうにおけるだい規模きぼ開発かいはつうながし、ペナン、シンガポールのりょうみなと発展はってんがもたらされた[4]

その一方いっぽうで、オランダひがしインド政庁せいちょう1871ねんスマトラ条約じょうやくオランダばん英語えいごばんによってイギリスの干渉かんしょう排除はいじょし、1873ねん海峡かいきょう安全あんぜん確保かくほ名目めいもくにアチェ王国おうこく保護ほごりょう企図きとして王国おうこくへの侵攻しんこう開始かいしした[19]。これがアチェ戦争せんそうであるが、アチェの人々ひとびと頑強がんきょう抵抗ていこうにより、オランダぐんがスマトラ全土ぜんど制圧せいあつしたのは1912ねんたなければならなかった。これにより現在げんざいのインドネシア全域ぜんいきがオランダの植民しょくみんとなった[19]。いっぽう、現在げんざいのマレーシアに相当そうとうするえいりょうマレー連合れんごうしゅう成立せいりつしたのは1896ねんのことである。

だい世界せかい大戦たいせんときにイギリスぐん日本にっぽんぐん放逐ほうちくされ、終戦しゅうせんいたるまで日本にっぽんぐん占領せんりょうにおかれた。終戦しゅうせんにイギリスやオランダの国力こくりょく低下ていかしたことをけ、インドネシアはオランダりょう、マレー連合れんごうしゅうマラヤ連合れんごう(のちマレーシア連邦れんぽう現在げんざいのマレーシア)としてイギリスりょうからそれぞれ独立どくりつした[注釈ちゅうしゃく 5]海峡かいきょう沿岸えんがんこく領海りょうかいは3海里かいりから12海里かいり拡大かくだいされ、かつて公海こうかいとして自由じゆう航行こうこう英語えいごばん中国語ちゅうごくごばんきょうされてきた海峡かいきょう現在げんざい領海りょうかいされている[3]

マラッカ海峡かいきょうは、1994ねん発効はっこうした国連こくれん海洋かいようほう条約じょうやくにおける「国際こくさい海峡かいきょう」に該当がいとうするとされており[20][注釈ちゅうしゃく 6]外国がいこく艦船かんせん航空機こうくうきは、国際こくさいほううえめと沿岸えんがんこく法令ほうれいにしたがうことを条件じょうけんとして、海峡かいきょう通過つうかのための通航つうこうけんみとめられ、沿岸えんがん諸国しょこく現在げんざい航路こうろたいおよび分離ぶんり通航つうこうたい設定せっていし、通航つうこう船舶せんぱくにその遵守じゅんしゅもとめている[3]

航行こうこう障害しょうがい安全あんぜん

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ながせまなマラッカ海峡かいきょうなかでもワン・ファザムうずたかセブアノばんwikidata[注釈ちゅうしゃく 7]からシンガポール海峡かいきょうまでのやく400キロメートルはとくせまうえ浅瀬あさせおおく、大型おおがたせんとく航行こうこう困難こんなんをともなう[6]海賊かいぞく多発たはつ地域ちいきとしてもられ、気象きしょう変化へんかいちじるしいことから突然とつぜんおそスコール視界しかいさまたげることもおお[6]。また、くびれた地勢ちせいしめすマラッカ海峡かいきょうでは、潮汐ちょうせきによりつよ潮流ちょうりゅう発生はっせいし、さらに、このつよ潮流ちょうりゅうが「サンドウェーブ」とばれる波紋はもんじょう砂州さす形成けいせいするため、水深すいしん頻繁ひんぱん変化へんかする危険きけんがある[6]南シナ海みなみしなかいいきおおくみられる北東ほくとう季節風きせつふう発達はったつするぶしには、ひがし方向ほうこうからのつよ海流かいりゅうくわわり、この海峡かいきょう航行こうこう安全あんぜん保持ほじつづけることはかならずしも容易よういなことではない[6]

海賊かいぞく沈没ちんぼつせん森林しんりん火災かさい

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やま火事かじとそれによってひろがるもや範囲はんい(2005ねん

近代きんだい以降いこう、マラッカ海峡かいきょうひがしアジア中東ちゅうとうヨーロッパなどを各国かっこく船舶せんぱくにとって死活しかつてき重要じゅうよう航路こうろとなっているが、近年きんねん海峡かいきょう利用りようする商船しょうせんたいする海賊かいぞく行為こうい横行おうこうしている。1994ねんに25けんだった船舶せんぱく襲撃しゅうげきは、2000ねんには220けん激増げきぞうし、2003ねんには150けん以上いじょう、2005ねんでも世界せかい全体ぜんたいやく37パーセントにあたる102けん海賊かいぞく事件じけん発生はっせいした[2]

2005ねん平成へいせい17ねん3月14にち現地げんち日本にっぽんせきタグボート「韋駄てん」が襲撃しゅうげきされ、日本人にっぽんじん船長せんちょう機関きかんちょう、フィリピンじん船員せんいん3めいり、拉致らち事件じけん発生はっせいした(どう3月21にち解放かいほう[2]。また、1999ねん平成へいせい11ねん)にも同様どうよう日本にっぽんふね海賊かいぞくおそわれるという事件じけんこっている。

ふねたいする危険きけん海賊かいぞくだけでなく、浅瀬あさせなどでの難破なんぱもある。海峡かいきょうないには1880年代ねんだい以来いらい難破なんぱしてしずんだふねすくなくとも34せきあるとみられており、航路こうろ障害しょうがいとなっている[21]

また、スマトラ島すまとらとうでは生活せいかつにおける失火しっか焼畑やきばた農業のうぎょう原因げんいんとして森林しんりん火災かさい毎年まいとしのように発生はっせいし、のぼけむりヘイズばれマラッカ海峡かいきょうえてマレーシアにまでたっしている。けむりながれてくると、海上かいじょうはわずか200メートルほどさきしかえなくなり、ふね速度そくどとして運航うんこうせざるをない状況じょうきょうにある。

座礁ざしょう事故じこ防止ぼうしさく海賊かいぞく対策たいさく

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1960年代ねんだい以降いこう中東ちゅうとう-ひがしアジアあいだ大型おおがたタンカーの航行こうこうりょう増大ぞうだいした[注釈ちゅうしゃく 8]。しかし、とう海域かいいき航行こうこう支援しえん設備せつび不足ふそくし、海図かいず整備せいび不十分ふじゅうぶんだったため、しばしば座礁ざしょう事故じこ発生はっせいした。そのため、沿岸えんがん各国かっこく日本にっぽん協力きょうりょくして、1960年代ねんだい後半こうはんより航行こうこう支援しえん設備せつび海図かいず整備せいびおこなっており、この協力きょうりょく関係かんけい現在げんざい継続けいぞくちゅうである。また、座礁ざしょう事故じこ防止ぼうしのため、マラッカ海峡かいきょうでは船底ふなそこ海底かいていのあいだを一定いってい距離きょりたもUKC方式ほうしき (Under Keeping Clearance) が採用さいようされている[3]

2005ねん12月、日本にっぽんとインドネシア、マレーシア、シンガポールの国際こくさい協力きょうりょくにより、マラッカ海峡かいきょうとシンガポール海峡かいきょう電子でんし海図かいず完成かんせいした[2]2006ねんには、日本にっぽんはインドネシアにたい政府せいふ開発かいはつ援助えんじょ一環いっかんとしてえん借款しゃっかんおこない、海難かいなん事故じこ海賊かいぞく対策たいさくのため沿岸えんがん無線むせんきょくを33きょく船舶せんぱく自動じどう識別しきべつ装置そうちそなえた無線むせんきょくを4きょく設置せっちした[2]同年どうねんには無償むしょう資金しきん協力きょうりょくとして19おく2100まんえん供与きょうよし、巡視じゅんしせん3てい供与きょうよしてインドネシアの巡視じゅんしせんてい建造けんぞう計画けいかく支援しえんした[2]。なお、現在げんざい日本にっぽん財団ざいだん中心ちゅうしんとなり、利用りようしゃ安全あんぜん確保かくほのための費用ひよう負担ふたん分担ぶんたんするための基金ききん設立せつりつ提案ていあんしている。

海賊かいぞく対策たいさくとして、マレーシア・インドネシア・シンガポールなど沿岸えんがん諸国しょこく海軍かいぐん警備けいび強化きょうかしているほか、日本にっぽんからも海上保安庁かいじょうほあんちょう巡視じゅんしせん海賊かいぞく哨戒しょうかいたっている。また、技術ぎじゅつ人材じんざい育成いくせいめんでも日本にっぽん東南とうなんアジア諸国しょこくたい国際こくさい協力きょうりょくおこなっている[2]2007ねん平成へいせい19ねん)には、高速こうそくせんもちいる海賊かいぞく対策たいさくとして、日本にっぽん政府せいふはインドネシアにたいし、政府せいふ開発かいはつ援助えんじょ (ODA) により巡視じゅんしてい3せき日本にっぽん国内こくない新造しんぞうし、無償むしょう供与きょうよした。操舵そうだしつとう防弾ぼうだん構造こうぞうであり武器ぶき輸出ゆしゅつさん原則げんそく抵触ていしょくするおそれがあることから、運用うんようたいテロたい海賊かいぞく限定げんていし、日本にっぽん政府せいふ同意どういなく第三国だいさんごくわたさないひとし条件じょうけんすことで武器ぶき輸出ゆしゅつさん原則げんそく例外れいがいとした供与きょうよであった[23]

さらに、海賊かいぞくなど海上かいじょう犯罪はんざい要因よういんとして沿岸えんがん地域ちいき深刻しんこく貧困ひんこんかんがえられるとして、日本にっぽん政府せいふはかつてロンボク海峡かいきょう付近ふきんためいけダムなどの灌漑かんがいシステムの構築こうちくやこれらの維持いじ管理かんりする農業のうぎょう技術ぎじゅつしゃ育成いくせいなどをおこなって一定いってい成果せいかをあげており、マラッカ海峡かいきょうにおいてもその経験けいけんまえ、地域ちいき農村のうそん開発かいはつする支援しえんをおこなっている[2]

沿岸えんがん開発かいはつとその計画けいかく

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工業こうぎょう開発かいはつ

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上述じょうじゅつしたように、マラッカ海峡かいきょう通過つうかする貨物かもつもっとおおいのが中東ちゅうとうさん石油せきゆであり、さき日本にっぽん中国ちゅうごくなどのひがしアジアがおおい。その航路こうろじょうにあるシンガポールは一大いちだい石油せきゆ精製せいせい基地きちとして発展はってんし、1980年代ねんだいには日系にっけい企業きぎょう石油せきゆ化学かがく工場こうじょう建設けんせつされ、そのみなみのインドネシアのバタムとうでも石油せきゆ工業こうぎょう開発かいはつ進展しんてんした[4]

さまざまなボトルネック解消かいしょうさく

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上述じょうじゅつのようにマラッカ海峡かいきょう水深すいしんあささからくる危険きけんせい回避かいひのため、日本にっぽんマラッカ海峡かいきょう協議きょうぎかい[24]1971ねん昭和しょうわ46ねん)に浅瀬あさせ浚渫しゅんせつ提案ていあんしたことがあったが、当時とうじ冷戦れいせんしただったこともあり、ソビエト連邦れんぽうぐん艦船かんせん出入でいりしやすくなるという軍事ぐんじじょうリスク指摘してきされたほか、浚渫しゅんせつによって漁業ぎょぎょう打撃だげきけるおそれがあるとして沿岸えんがん諸国しょこく反対はんたいしたことにより実現じつげんしていない[25]

一方いっぽうタイ領内りょうないクラ地峡ちきょう運河うんがつくるという、マラッカ海峡かいきょう通航つうこう緩和かんわする一方いっぽう重要じゅうようせい低下ていかさせるおそれのある計画けいかくむかしからいく沙汰ざたされている[26]。これが実現じつげんすればアフリカ・中東ちゅうとうから太平洋たいへいようへの航路こうろやく600マイル(やく960キロメートル)ほど短縮たんしゅくされる。これは、時間じかんにすれば1にちないし2日間にちかん時間じかん短縮たんしゅくになり、燃料ねんりょう節約せつやくもできることとなる[26]。しかし、この運河うんが建設けんせつによりタイ南部なんぶ陸地りくち分断ぶんだんされ、ムスリムがおお分離ぶんり主義しゅぎうごきもあるパタニ地方ちほうがタイ本土ほんどからはなされてしまうこと、タイちゅう南部なんぶうしおしゅうけい福建ふっけんけい華僑かきょう人口じんこうおおく、かれらがシンガポールの地位ちい低下ていかよろこばないことなど複雑ふくざつ要因よういんがからみっており、タイ国内こくないにも慎重しんちょうろんがある[26]2004ねんワシントン・タイムズは、中国ちゅうごくがタイにたいして運河うんが建設けんせつ分担ぶんたんするようもうたことをほうじたが、タイの財政難ざいせいなん周辺しゅうへん環境かんきょうあたえる影響えいきょうおおきさも指摘してきされ、クラ地峡ちきょう運河うんが計画けいかくすすんでいない[27]。また、クラ地峡ちきょう横断おうだんするパイプライン建設けんせつし、りょうはしちょう大型おおがたタンカーのためのみなと建設けんせつするあんもあり、タイだけでなくミャンマー同様どうよう提案ていあんをしている[27]。これにより、中東ちゅうとうから東南とうなんアジアへの原油げんゆ運送うんそうコストを1バレルあたり0.5ドル圧縮あっしゅくすることができるという試算しさんもある[27]

マラッカ海峡かいきょうわりに、スンダ海峡すんだかいきょうスマトラ島すまとらとうジャワ島じゃわとうあいだ)やロンボク海峡かいきょうバリ島ばりとうロンボクとうあいだ)などインドネシア領内りょうない海峡かいきょうとおってインド洋いんどようから太平洋たいへいようがわ航路こうろもあるが、スンダ海峡すんだかいきょう水深すいしんあさ大型おおがたせん航行こうこうには使つかえず、ロンボク海峡かいきょう水深すいしん十分じゅうぶんにあるものの、マラッカ海峡かいきょうより650キロメートルもの遠回とおまわりになる、小島こじま岩礁がんしょうおおいなどの難点なんてんがある[27]

2013ねん中国ちゅうごくは、ミャンマー西部せいぶチャウピュこうから雲南うんなんしょういたるパイプラインを完成かんせい。マラッカ海峡かいきょうずに中東ちゅうとうから原油げんゆ天然てんねんガスを移送いそうする手段しゅだんひとつをととのえた[28]

マラッカ海峡かいきょう大橋おおはし建設けんせつ構想こうそう

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2009ねん平成へいせい21ねん10月9にち日本経済新聞にほんけいざいしんぶん中国ちゅうごく援助えんじょによるムラカ(マラッカ)しゅうスマトラ島すまとらとう地図ちずじょうではリアウしゅうドゥマイ)をむすはし建設けんせつ構想こうそう現地げんちあきらかにされたとほうじた[29]中国ちゅうごく輸出入ゆしゅつにゅう銀行ぎんこう中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん建設けんせつの85パーセントを融資ゆうしするとしているが、マレーシア政府せいふによる建設けんせつ許可きょかりておらず、公表こうひょうされた企業きぎょう知名度ちめいどひくいち民間みんかん企業きぎょうぎないとして、計画けいかく存在そんざいほうじながらも、なおうたがわしいてんもあることがしめされた[29]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ タンカーの巨大きょだいは、一方いっぽうでマラッカ海峡かいきょう経由けいゆけてスマトラ島すまとらとうジャワ島じゃわとう南側みなみがわとお航路こうろ新設しんせつまねいた。これにより、マラッカ海峡かいきょう混雑こんざつ多少たしょうなりとも緩和かんわされることが期待きたいされる[5]
  2. ^ ローマ皇帝こうてい16だいマルクス・アウレリウス・アントニヌス161ねん-180ねん)またはその先代せんだい皇帝こうていアントニヌス・ピウス138ねん-161ねん)とかんがえられる。
  3. ^ 陸上りくじょう交通こうつう困難こんなんさがあるため、海上かいじょう交通こうつう要所ようしょみなと形成けいせいされ、そのなかでも外部がいぶ文明ぶんめいとのつながりのつよみなと中心ちゅうしんとなって海域かいいき支配しはいする国家こっかみなと国家こっかである。当初とうしょ和田わだ久徳ひさのりがマラッカ王国おうこく念頭ねんとういて構想こうそうした概念がいねんであったが、交易こうえき中心ちゅうしん国家こっか全般ぜんぱんすようになった。シュリーヴィジャヤ王国おうこく、マラッカ王国おうこくのほか、アユタヤ王朝おうちょう、アチェ王国おうこくバンテン王国おうこく、ジョホール王国おうこくマカッサル王国おうこくインドネシアばん英語えいごばんなどを[9]
  4. ^ マレまれ半島はんとう最古さいこモスクもムラカ(マラッカ)にある[18]
  5. ^ シンガポールがマラヤ連邦れんぽうから分離ぶんり独立どくりつしたのは1965ねんのことである。
  6. ^ 国連こくれん海洋かいようほう条約じょうやく(「海洋かいようほうかんする国際こくさい連合れんごう条約じょうやく」)では、「国際こくさい海峡かいきょう」とはどう条約じょうやくだい37じょうで「公海こうかいまたは排他はいたてき経済けいざい水域すいいき一部分いちぶぶん公海こうかいまたは排他はいたてき経済けいざい水域すいいきほか部分ぶぶんとのあいだにおける国際こくさい航行こうこう使用しようされている海峡かいきょう」と定義ていぎされている。
  7. ^ ワン・ファザムうずたか灯台とうだい英語えいごばん参照さんしょう
  8. ^ 1966ねん昭和しょうわ41ねん)に石川島播磨重工業いしかわじまはりまじゅうこうぎょう横浜よこはま造船ぞうせんしょ神奈川かながわけん横浜よこはま)で建造けんぞうされた出光丸いでみつまるは、20まん重量じゅうりょうトンをえた世界せかい最初さいしょのタンカーとしてられたが、その就航しゅうこうルートがマラッカ海峡かいきょうであった[22]

参照さんしょう

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  1. ^ a b 最新さいしん地理ちりしょう辞典じてん』(1997) p.370
  2. ^ a b c d e f g h 『ODA白書はくしょ 2006年版ねんばん』「だいIだい2しょうだい6せつ うみ安全あんぜん確保かくほへのアジア沿岸えんがん諸国しょこくへの支援しえん-マラッカ海峡かいきょう安全あんぜん航行こうこうへの施策しさく-」”. 外務省がいむしょう. 2012ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i 大矢おおや中村なかむら (2004)
  4. ^ a b c d 太田おおた (1988) pp.179-180
  5. ^ 太田おおた (1988) p.180
  6. ^ a b c d e ふね生活せいかつ
  7. ^ Limits of Oceans and Seas, 3rd edition” (PDF). International Hydrographic Organization (1953ねん). 2011ねん10がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d えいつもる (1977) pp.87-88
  9. ^ 鈴木すずき (1998)
  10. ^ a b c えいつもる (1977) pp.43-44
  11. ^ a b c えいつもる (1977) pp.47-50
  12. ^ アブー・ザイド・アッシーラーフィー』 - コトバンク
  13. ^ アブー・ザイド』 - コトバンク
  14. ^ えいつもる (1977) pp.89-93
  15. ^ a b c 尾本おもと (2000)
  16. ^ ひろしまつ (2004) pp.23-24
  17. ^ ひろしまつ (2004) pp.31-32
  18. ^ 大矢おおや中村なかむら (2004)
  19. ^ a b 鈴木すずき (2004)
  20. ^ 日本にっぽん海難かいなん防止ぼうし協会きょうかい (2004ねん). “だいVIIあきら 国連こくれん海洋かいようほう条約じょうやくもとづく国際こくさい海峡かいきょう制度せいど”. マラッカ・シンガポール海峡かいきょう情勢じょうせい 2004. 日本にっぽん財団ざいだん. 2017ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  21. ^ 34 wrecks in sealane threaten passing ships (the star online)
  22. ^ しげるざい (2004)
  23. ^ 世界せかい艦船かんせん』2008ねん1がつごう p.50
  24. ^ マラッカ海峡かいきょう協議きょうぎかい | マラッカ・シンガポール海峡かいきょうでのふね安全あんぜん確保かくほ事故じこ防止ぼうしつとめています。
  25. ^ 武石たけいし礼司れいじ『アジアにおけるエネルギー協力きょうりょく日本にっぽん課題かだい (PDF)
  26. ^ a b c 中国ちゅうごくがタイで「クラ地峡ちきょう運河うんが建設けんせつ? 実現じつげん可能かのうせいはあるのか”. THE PAGE (2015ねん6がつ23にち). 2020ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  27. ^ a b c d 日本にっぽんのライフライン・タンカーシーレーン:マラッカ海峡かいきょう安全あんぜん航行こうこう施策しさく”. 日本にっぽん貿易ぼうえき将来しょうらいぞう国際こくさい貿易ぼうえき資源しげん市場いちば研究けんきゅう:たけうえ研究けんきゅうしつたけうえ幸之助こうのすけ (2010ねん12月26にち). 2020ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  28. ^ 中国ちゅうごく・ミャンマーのパイプライン完成かんせい、マラッカ海峡かいきょう迂回うかい. サーチナ (サーチナ). (2013ねん6がつ5にち). https://web.archive.org/web/20150707134403/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0605&f=national_0605_022.shtml 2014ねん7がつ26にち閲覧えつらん 
  29. ^ a b 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2009ねん10がつ9にち、6めん中国ちゅうごく・アジア)『マレーシア、鉄道てつどう石油せきゆ整備せいび / 大型おおがた開発かいはつ計画けいかくに「中国ちゅうごくしょく」 / 「影響えいきょうりょく」への警戒けいかいかんも』

参考さんこう文献ぶんけん

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  • えいつもるあきら東南とうなんアジアの歴史れきし講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、1977ねん7がつISBN 4-06-115857-0 
  • 太田おおたいさむ「マラッカ海峡かいきょう」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい27(マク-ムン)』平凡社へいぼんしゃ、1988ねん4がつISBN 4-58-202700-8 
  • 二宮にのみや書店しょてん へん「マラッカ海峡かいきょう」『最新さいしん地理ちりしょう辞典じてん さんていばん二宮にのみや書店しょてん、1997ねん1がつISBN 4-8176-0149-3 
  • 鈴木すずきひさしこれ東南とうなんアジアのみなと国家こっか」『岩波いわなみ講座こうざ世界せかい歴史れきし13 ひがしアジア・東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい―16-18世紀せいき岩波書店いわなみしょてん、1998ねん8がつISBN 4000108336 
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  • 小学館しょうがくかん へん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ小学しょうがくかん〈スーパーニッポニカProfessional Winばん〉、2004ねん2がつISBN 4099067459 
    • 大矢おおや雅彦まさひこ中村なかむらこう ちょ「マラッカ海峡かいきょう」、小学館しょうがくかん へん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ小学しょうがくかん〈スーパーニッポニカProfessional Winばん〉、2004ねん 
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    • しげるざい寅男とらお ちょ出光丸いでみつまる」、小学館しょうがくかん へん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ小学しょうがくかん〈スーパーニッポニカProfessional Winばん〉、2004ねん 
  • ひろしまつ雅士まさし東南とうなんアジアのみなと世界せかい-地域ちいき社会しゃかい形成けいせい世界せかい秩序ちつじょ-』岩波書店いわなみしょてん世界せかい歴史れきし叢書そうしょ〉、2004ねん5がつISBN 4-00-026851-1 
  • 海人あましゃ へん世界せかい艦船かんせん海人あましゃ月刊げっかんほん(2008ねん1がつごう)〉、2007ねん11月。ASIN B000YGNG0Q 

外部がいぶリンク

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