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アチェ戦争せんそう

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アチェ戦争せんそう

サマランガのたたかい (1878ねん)
とき1873ねん–1904ねん
場所ばしょスマトラ島すまとらとう, インドネシア
結果けっか オランダの勝利しょうり
領土りょうど
変化へんか
アチェのオランダりょうひがしインドへの併合へいごう
衝突しょうとつした勢力せいりょく

オランダ王国の旗 オランダ王国おうこく

アチェ王国おうこく
アチェ宗教しゅうきょう指導しどうしゃウラマー[1][2]
指揮しきかん

ヨハン・ハーマン・ルドルフ・ケーラー 
ヤン・ファン・スヴィーテン
Johannes Ludovicius Jakobus Hubertus Pel 
カレル・ファン・デル・ハイデン戦傷せんしょう
Henry Demmeni (DOW)
ジャン・ジェイコブ・カレル・デ・ムーラン 
ヨハネス・ベネディクトゥス・ファン・ヒューツ (1898–1904)[1]
ヨハネス・コルネリス・ファン・デル・ウィック (1904–05)[1]
ゴトフリート・コンラート・エルンスト・ファン・ダーレン (1905–08)[1]
H・N・A・スヴァート (1908–13)[1]

ジョージ・フレデリック・ウィレム・ボレル

アラーウッディーン・マフムード・シャー (1873ねん-1874ねん[3]
アラーウッディーン・マフムード・ダウド・シャー2せい (1874ねん–1903ねん)[4]
トゥンク・ラージャ・ケウマラ[1]
トゥンク・マフムード[1]
Teuku Panglima Polem Muda Perkasa[3]
トゥク・ウマール [5]

チュ・ニャ・ディン[6]
戦力せんりょく
3,000にん (だいいち遠征えんせい)[3]
13,000にん (だい遠征えんせい)[3]
オランダへい12,000にん (1903ねん)[2]
インドネシアへい23,000にん[2]
1まんにん-10まんにん[7]
被害ひがいしゃすう
戦死せんし 37,000にん(コレラによる病死びょうしふくむ)[2] 戦死せんし 6まんにん-7まんにん(コレラによる病死びょうしふくむ)[2]
難民なんみん 1まんにん[2]

アチェ戦争せんそう(インドネシア: Perang Aceh)は、1873ねんから1904ねんにかけて、スマトラ島すまとらとう北部ほくぶアチェ王国おうこく(アチェ・ダルサラーム王国おうこく)とオランダ王国おうこくあいだおこなわれた戦争せんそうインドネシアではオランダ戦争せんそう異教徒いきょうと戦争せんそうともばれる。1873ねん初頭しょとうにアチェとアメリカの代表だいひょうがシンガポールで会談かいだんしたことを発端ほったんとし[8]、アチェ最後さいごスルターンであるムハンマド・ダウド・シャーが1903ねん降伏ごうぶくしてよく1904ねんにアチェがオランダに併合へいごうされたことで戦争せんそう終結しゅうけつしたとみなされているが、そのも1914ねんまでだい規模きぼ抵抗ていこうつづ[1]散発さんぱつてき反乱はんらんだい世界せかい大戦たいせんまでつづいた。

背景はいけい[編集へんしゅう]

アチェ王国おうこく16世紀せいき以来いらいオスマン帝国ていこく保護ほごこく地位ちいにあり(オスマン帝国ていこくのアチェ遠征えんせい)、また1824ねんえいらん条約じょうやく独立どくりつ保障ほしょうされたことで、19世紀せいきなかばまでは確固かっことした独自どくじ勢力せいりょくたもっていた。1820年代ねんだいには、アチェはぜん世界せかい胡椒こしょう半分はんぶん供給きょうきゅうしており、そこからられる政治せいじてき経済けいざいてき影響えいきょうりょくって各地かくちラージャ支配しはいしていた[9]アラーウッディーン・イブラーヒーム・マンスール・シャー時代じだい(1838ねん - 1870ねん)、イギリスやフランス、それにアメリカが東南とうなんアジアの胡椒こしょうをめぐる外交がいこう闘争とうそう激化げきかさせつつあったのをけて、アチェ王国おうこくはラージャたちへの統制とうせい強化きょうかするとともに、その領域りょういき東南とうなんかた拡大かくだいしていった[9]。しかしスマトラ島すまとらとう南東なんとうではオランダが北西ほくせい勢力せいりょく拡大かくだいしつつあり、両者りょうしゃ激突げきとつけられなくなった[9]

1869ねんスエズ運河うんが開通かいつうし、ヨーロッパから東南とうなんアジアへの航路こうろ短縮たんしゅくされたことで状況じょうきょう変化へんかした。イギリスは1871ねんにオランダと条約じょうやくむすびなおし、オランダが東南とうなんアジアでの海賊かいぞくまりをになうことを条件じょうけんスマトラ島すまとらとうへの領土りょうど主張しゅちょうげた[3]。これにより、オランダはスマトラ島すまとらとうない自由じゆう拡張かくちょうすすめることができるようになった。なおこの見返みかえりとして、イギリスはアフリカ・ギニアオランダりょう黄金おうごん海岸かいがん獲得かくとくし、またシアクにおけるオランダと同等どうとう経済けいざい特権とっけんまもった[7]。アチェはくろ胡椒こしょう石油せきゆなどの天然てんねん資源しげん豊富ほうふで、これをのぞむオランダは現地げんち独立どくりつ勢力せいりょく一掃いっそうをも目論もくろむようになった。またイギリスだけでなくフランスも東南とうなんアジアへの野心やしんいており、オランダにとってスマトラ島すまとらとう統一とういつ競争きょうそうくためにも必要ひつようであった[10]

経過けいか[編集へんしゅう]

戦略せんりゃく[編集へんしゅう]

長期ちょうきにわたった戦争せんそうあいだに、オランダはなん戦略せんりゃく転換てんかんした。1873ねん侵攻しんこうには早期そうき決戦けっせんはかったが失敗しっぱいした。その海上かいじょう封鎖ふうさ懐柔かいじゅうさく要塞ようさいせん集中しゅうちゅう攻略こうりゃく受動じゅどうてきふう作戦さくせんなどさまざまな手段しゅだんもちいたが、おもうような結果けっかなかった。たいアチェ戦争せんそう毎年まいとし1500まんギルダーから2000まんギルダーもの戦費せんぴをつぎみながら失敗しっぱいつづけた植民しょくみん政府せいふ破産はさん寸前すんぜんまれた[11]

だいいち攻勢こうせい失敗しっぱい各国かっこく反応はんのう[編集へんしゅう]

1873ねん、シンガポールでアチェ王国おうこくとアメリカの現地げんち駐在ちゅうざいしょ代表だいひょうが、こくあいだ条約じょうやく締結ていけつけて会談かいだんした[7]。これを1871ねんえいらん条約じょうやく違反いはんとみなしたオランダは、この機会きかいにアチェを軍事ぐんじてき併合へいごうしようと画策かくさくした[1]。1873ねん3がつ26にちヨハン・ハーマン・ルドルフ・ケーラー少将しょうしょうひきいるオランダぐんがアチェりょう侵攻しんこうし、首都しゅとバンダアチェ砲撃ほうげきするとともに、4がつちゅう海岸かいがんせんのほとんどを制圧せいあつした[7]。アチェのスルターン宮殿きゅうでん破壊はかいすればぜんアチェがすみやかに併合へいごうできるだろうというのがオランダの意図いとであった。この危機ききさいしてアラーウッディーン・マフムード・シャー2せいはシンガポールに使つかいし、イタリアとイギリスからの援助えんじょけた。またこうした事態じたいそなえ、アチェぐん急速きゅうそく近代きんだいされ、その規模きぼ大幅おおはば拡張かくちょうされていた。なお、その規模きぼについては1まんにんから10まんにんまで諸説しょせつある[7]。アチェの軍事ぐんじりょく過小かしょう評価ひょうかしていたオランダぐん各地かくち反撃はんげきにあい、ある戦闘せんとう戦死せんしした80にんのオランダへいなかにはケーラーもふくまれていた[7]。この敗北はいぼくは、オランダぐん士気しき名声めいせいおおきくそこなった[3]

陸軍りくぐん撤退てったいいられたオランダは、今度こんどはアチェの海上かいじょう封鎖ふうさ開始かいしした。マフムードは独立どくりつまもるために西洋せいよう列強れっきょうやオスマン帝国ていこく支援しえんけようとしたが、うまくいかなかった。アメリカはアチェに同情どうじょうてきだったが、中立ちゅうりつ維持いじにとどまった。オスマン帝国ていこく衰退すいたいいちじるしく、さらに中東ちゅうとう相次あいつ反乱はんらん鎮圧ちんあつ忙殺ぼうさつされていたため、アチェ救援きゅうえんにはまったく無気力むきりょくであった。イギリスはオランダとの関係かんけい重視じゅうしして介入かいにゅう要請ようせい拒否きょひし、フランスにいたっては返答へんとうすらしなかった[4]

だい攻勢こうせい[編集へんしゅう]

1874ねんのアチェ征服せいふく放棄ほうきされるオスマン・アチェの大砲たいほう。イラストレイテド・ロンドン・ニュースより

1873ねん11月、ヤン・ファン・スヴィーテン英語えいごばんひきいる1まん3000にんのオランダぐんだい攻勢こうせい開始かいしした[8]。この戦争せんそうでは、コレラによりりょうぐんすうせんにん戦病死せんびょうしもの[4]。1874ねん1がつまでに、マフムードらはバンダアチェを放棄ほうきせざるをなくなり、奥地おくちへと撤退てったいしつつ抵抗ていこうつづけた。アチェ王国おうこく首都しゅととダラム(スルターンの宮殿きゅうでん)を占領せんりょうしたオランダぐんは、これで戦争せんそうはオランダの勝利しょうりわったとしんっていた。オランダはアチェのスルターンせい廃止はいしと、オランダりょうひがしインドへの併合へいごう宣言せんげんした[4]

1874ねんにマフムードはコレラで死去しきょしたが、アチェじんはそのおい幼少ようしょうのトゥンク・ムハンマド・ダウドをムハンマド・ダウド・シャーとして擁立ようりつした。かれとその支持しじしゃすうじゅうねんにわたりゲリラせん展開てんかいし、アチェがわ・オランダがわ双方そうほうおおくの犠牲ぎせいしゃした[4]。1880ねんごろ、まだバンダアチェ周辺しゅうへんしか支配しはい確立かくりつできていなかった[3]オランダはふたた方針ほうしん転換てんかんして、すでに支配しはい確立かくりつしている地域ちいき海岸かいがんせん統治とうち注力ちゅうりょくするようになった。海上かいじょう封鎖ふうささくこうそうしはじめ、海岸かいがん地域ちいきウレーバラン領主りょうしゅ)たちは次々つぎつぎとオランダの宗主そうしゅけんみとめさせられていった。しかし一方いっぽうで、このウレーバランたちは封鎖ふうさけて収入しゅうにゅう回復かいふくしたのち、その資金しきんでアチェの抵抗ていこう勢力せいりょく支援しえんしていた。

オランダ植民しょくみん政府せいふは、アチェ併合へいごうのためにすうせんにん戦死せんししゃし、莫大ばくだい戦費せんぴついやした。1880ねん10がつ13にち植民しょくみん政府せいふ戦争せんそう終結しゅうけつ宣言せんげんし、文民ぶんみん政府せいふ設置せっちしたが、それでも抵抗ていこう勢力せいりょくとの戦闘せんとう事実じじつじょうつづいており、アチェ支配しはいのための浪費ろうひつづ状況じょうきょうわらなかった。オランダはアチェじん懐柔かいじゅうこころみ、だいモスク(げんバイテゥラマンだいモスク)を再建さいけんし、イスラム教徒きょうととの和解わかい演出えんしゅつした[3]

戦争せんそう再開さいかいと「聖戦せいせん[編集へんしゅう]

1883ねん、イギリスせんNiseroごうがアチェで座礁ざしょうした。この地域ちいきいまだオランダの支配しはいがあまりおよんでおらず、地元じもとのスルターンはイギリスとオランダの双方そうほう船員せんいん身代金みのしろきん要求ようきゅうした。イギリスの圧力あつりょくけたオランダは、イギリスじん救出きゅうしゅつのために対応たいおうせざるをなくなった。まず地元じもとのゲリラ指導しどうしゃだったトゥク・ウマール支援しえんもとめたがことわられ、ぎゃくにオランダへい殺害さつがいされたので、オランダはイギリスと合同ごうどうしてこの地域ちいき侵攻しんこうした。結局けっきょくスルターンは人質ひとじち解放かいほうし、わりに莫大ばくだい身代金みのしろきんった[12]

オランダ戦争せんそうしょうアウグスト・ウィレム・フィリップ・ヴェイツェルはアチェ戦争せんそう再開さいかい宣言せんげんしたが、以前いぜん同様どうようにオランダの戦果せんか限定げんていてきだった。軍事ぐんじ技術ぎじゅつおとるアチェぐんはゲリラせん展開てんかいし、わな奇襲きしゅう駆使くししてオランダぐんなやませた。報復ほうふくとしてオランダぐんおとしいれたむら々を一掃いっそうし、おおくの捕虜ほりょ一般人いっぱんじん殺害さつがいした[13]。1884ねん、オランダぐんはバンダアチェ周辺しゅうへん要塞ようさいせん範囲はんいない撤退てったいした[3]。またオランダはアチェの首長しゅちょうたちのみにも躍起やっきになった。トゥク・ウマールは1883ねんきむ、アヘン、武器ぶきなどで買収ばいしゅうされ、だい指揮しきかん(panglima prang besar)の称号しょうごうあたえられた。

トゥク・ウマールはみずからを「英雄えいゆうヨハン」(Teuku Djohan Pahlawan)と名乗なのった。さらにかれは1894ねん1がつ1にちわたしぐん創設そうせつのための支援しえんまでけた。しかし2ねんの1896ねん、トゥク・ウマールはアチェ平定へいてい使つかうはずだったしん部隊ぶたいでオランダぐんおそい、膨大ぼうだい物資ぶっし資金しきんうばって逃走とうそうした。これはオランダじょう「トゥク・ウマールの反逆はんぎゃく」(Het verraad van Teukoe Oemar)としてられるだい事件じけんであった。1880年代ねんだいなかばから、アチェぐん指導しどうけんトゥンク・チ・ディ・ティロイスラム教いすらむきょう宗教しゅうきょう指導しどうしゃウラマー) がにぎるようになった。かれらは説教せっきょう文書ぶんしょで、たいオランダ戦争せんそうは「聖戦せいせん」であると宣伝せんでんした。アチェの戦士せんしたちは、みずからは異教徒いきょうと侵略しんりゃくしゃたたか殉教者じゅんきょうしゃであるととらえた[1]。この時点じてんでアチェ戦争せんそうは、西洋せいよう帝国ていこく主義しゅぎあらが世界中せかいじゅうのムスリム抵抗ていこう運動うんどう象徴しょうちょうとなった[2]

1892ねんから1893ねんにかけて、オランダが様々さまざま対策たいさく仕掛しかけてきたが、アチェは独立どくりつたもつことができた。植民しょくみんぐんヨハネス・ベネディクトゥス・ファン・ヒューツ少佐しょうさは、ライデン大学だいがくのイスラーム研究けんきゅう大家たいかクリスティアン・スヌック・フルフローニェの援けをてアチェにかんする数々かずかず論説ろんせつあらわした。フルフローニェは数々かずかずのアチェの有力ゆうりょくしゃ接触せっしょくし、ハッジ巡礼じゅんれいしゃについての情報じょうほうてオランダ政府せいふなが諜報ちょうほう活動かつどうたずさわっていた[2]かれ活動かつどうは、長年ながねんにわたりされていた。かれはアチェ社会しゃかい分析ぶんせきして、スルターンの役割やくわりはそこまでおおきくないとべ、むしろ世襲せしゅう首長しゅちょう領主りょうしゅであるウレーバランに注意ちゅういはらうべきだと主張しゅちょうした。フルフローニェは、ウレーバランはオランダの傘下さんかはいっても地方ちほう統治とうちしゃとして信頼しんらいできるが、宗教しゅうきょう指導しどうしゃであるウラマーは信用しんよう共闘きょうとうもできないのでほろぼすべきであると主張しゅちょうした。フルフローニェは、分割ぶんかつ統治とうち原理げんりにのっとりアチェの貴族きぞく宗教しゅうきょう指導しどうしゃあいだみぞふかめさせるようオランダ政府せいふうながしていたり[2]友人ゆうじんでバタヴィアのアラブじんだいムフティーでもあるハビブ・ウスマーン・ビン・ヤフヤーはたらきかけ、オランダがわ有利ゆうりファトワーさせている。

また、1894ねん宗務しゅうむかんpenghulu)のハサン・ムスタファしたファトワも、オランダがわ有利ゆうりはたらいた。これは、ムスリムにオランダ植民しょくみん政府せいふ統治とうちれるようさとすものであった[14]。19世紀せいきのインドのイスラム思想家しそうかサイイド・アフマド・ハーンは、「ジハード聖戦せいせん)」という言葉ことばあきらかな宗教しゅうきょうてき抑圧よくあつへの抵抗ていこう運動うんどうであるとして、アチェのたいオランダ戦争せんそうについてジハードをげることを提唱ていしょうしている[1]

抵抗ていこう鎮圧ちんあつ[編集へんしゅう]

アチェ戦争せんそうちゅう、パトロールの合間あいま休憩きゅうけいするオランダへい(H. M. Neebの写真しゃしん
1904ねん6がつ14にち、Koeto Rehむらとりで制圧せいあつされたさい写真しゃしん多数たすう戦闘せんとういんふくすうひゃくにんアラスじん殺害さつがいされた(H. M. Neebの写真しゃしん

1898ねん、ファン・ヒューツはアチェの長官ちょうかんにんじられ、のち首相しゅしょうとなるヘンドリクス・コレイン英語えいごばん中尉ちゅういとともに、アチェのほぼ全域ぜんいき征服せいふく完了かんりょうした[2]かれらはフルフローニェのげんしたがって、協力きょうりょくてきなウレーバランとみ、農村のうそん拠点きょてんとする抵抗ていこう勢力せいりょく孤立こりつさせていった。そのうえでオランダぐんは、けい装備そうびオランダ植民しょくみんぐん保安ほあんたい英語えいごばんによる焦土しょうど作戦さくせんというたい反乱はんらん作戦さくせんへと方針ほうしん転換てんかんした[1]ゴトフリート・コンラート・エルンスト・ファン・ダーレン英語えいごばん大佐たいさはいくつものむら消滅しょうめつさせ、すくなくとも2900にんのアチェじん殺害さつがいした。そのうち1150にんほどは女性じょせい子供こどもであった。この作戦さくせんにおけるオランダがわ死者ししゃは26にんだった。ファン・ヒューツやフルフローニェの非難ひなんにもかかわらず、ファン・ダーレンは昇進しょうしんし、のちに1905ねんから1908ねんにかけてアチェの長官ちょうかんとなった。

1903ねんムハンマド・ダウド・シャーおおくのアチェがわ主要しゅよう人物じんぶつがオランダに降伏ごうぶくするか捕縛ほばくされた[1]。1904ねんまでにアチェはほぼオランダの支配しはいはいり、植民しょくみん政府せいふ連携れんけいする現地げんち政府せいふかれた。オランダがわ宗教しゅうきょうてき寛容かんようき、アチェじん武器ぶき闘争とうそうてるよう説得せっとくした[1]。しかしながら、この時期じきいたってもオランダぐん残虐ざんぎゃく行為こうい散発さんぱつてき発生はっせいしていた。1904ねんには、ガヨ英語えいごばんアラス地方ちほう遠征えんせいちゅうにKoeto Rehむら発生はっせいした虐殺ぎゃくさつ事件じけん様子ようすうつした写真しゃしん現存げんそんしており、オランダぐんによる市民しみん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつがたびたび発生はっせいしていたことをしめしている[15]戦争せんそうつうじて、アチェがわ死者ししゃは5まんにんから6まんにん傷病しょうびょうしゃは100まんにんのぼったと推定すいていされている[2]。また従来じゅうらいのアチェ社会しゃかいはほとんど崩壊ほうかいし、1まんにん難民なんみんうみはさんだイギリスりょうマラヤのがれた[2]

ファン・ヒューツ総督そうとく中央ちゅうおう)と部下ぶかたち。Christiaan Benjamin Nieuwenhuisの写真しゃしん

オランダ本国ほんごくでは、ファン・ヒューツは「アチェの調停ちょうていしゃ」とばれ英雄えいゆうとなった。かれは1904ねんぜんオランダりょうひがしインドの総督そうとく昇進しょうしんした。アムステルダムにはかれ記念きねんのこっているが、のちかれ時代じだい暴力ぼうりょくてき治世ちせいとその遺産いさん抗議こうぎするため、かれ肖像しょうぞう名前なまえのぞかれている。アチェの既得きとくけんそうは、国際こくさい規範きはんれない君主くんしゅ抑圧よくあつから大衆たいしゅう解放かいほうするというからだをとることで、この大乱たいらんてもその特権とっけん維持いじした[16]。アチェ戦争せんそう最終さいしゅう勝利しょうりいきおいづいたオランダは、1901ねんから1910ねんにかけて、バリ島ばりとう、モルッカ諸島しょとう、ボルネオとう、スラウェシとう独立どくりつ勢力せいりょく次々つぎつぎ併呑へいどんしていった[16]

ガヨを拠点きょてんとしてつづいていた一大いちだい抵抗ていこう運動うんどうは、1914ねんまでにはしずめられた[17]。とはいえ、アチェの奥地おくちにある高地こうちには十分じゅうぶん支配しはいがいきわたらず、ウラマーを中心ちゅうしんとしたゲリラの反乱はんらんが1942ねんまで散発さんぱつてききた[1]。しかし勝利しょうりえないたたかいのなかで、ウラマーたちも次第しだい抵抗ていこうあきらめていった。

自殺じさつ攻撃こうげき[編集へんしゅう]

ムスリムのアチェじんは、侵略しんりゃくしゃたいして聖戦せいせん(ペラン・サビル)をおこなった。れいとしてアメリカじんジョゼフ・ピーボディフレンドシップごう事件じけん(1830ねん)、オランダのスマトラ島すまとらとう西岸せいがん遠征えんせい(1831ねん)、アメリカのだいいちだいスマトラ遠征えんせい(1832ねん、1838ねん[18][19][20][21][22][23][24]、そしてアチェ戦争せんそうげられるが、このなかでアチェじん個人こじんてきジハード実践じっせんとして度々どど自殺じさつ攻撃こうげきおこなっている。かれらは、じゅうったオランダぐんたいけんまわしながら突撃とつげきしたのである[25]。オランダじんはこれをアチェ・モールト(直訳ちょくやくすると「アチェの殺人さつじん」のAtjèh-moord,[26][27] Acehmord, Aceh mord, Aceh-mord) とんだ。インドネシアでは、オランダのアチェ・モールトをやくしたAceh gilaというかたりがつかわれている[28]

アチェじん文学ぶんがく作品さくひんヒヤカット・ペラン・サビル(Hikayat Perang Sabil, w:ace:Hikayat Prang Sabi, w:id:Hikayat Prang Sabi[29], Hikayat perang sabi[30])が、オランダじんたいする自殺じさつ攻撃こうげき正当せいとうする根拠こんきょあたえた[31][32][33]。ヒヤカット・ペラン・サビルの原文げんぶんジャウィ文字もじ執筆しっぴつされ、のちにラテン文字もじ翻訳ほんやくされ、イブラーヒーム・アルフィアンによる注釈ちゅうしゃくきでジャカルタ出版しゅっぱんされた[34]。ペラン・サビルはアチェの言葉ことばでジハードや聖戦せいせん意味いみし、この書物しょもつ各地かくちでのウラマーのたいオランダ抵抗ていこう運動うんどう支援しえんした。[35] アラビア文献ぶんけんから聖戦せいせんける死後しご楽園らくえん概念がいねんや、オランダのおこなった残虐ざんぎゃく行為こうい詳説しょうせつされていた。この書物しょもつはウラマーの秘密ひみつ結社けっしゃあいだ流布るふし、戦士せんしたちには自殺じさつ攻撃こうげき殉教者じゅんきょうしゃとなる希望きぼうあたえた[36]。またサイフ・ムハンマド・イサのSabil: Prahara di Bumi Rencongのようなフィクション作品さくひんもアチェのたいオランダ戦争せんそう関連かんれんしている[37]。Mualimbunsu Syam Muhammadは、インドネシアにおけるイスラームの聖戦せいせんについて『ヌサンタラにおける聖戦せいせん動機どうき』(Motivasi perang sabil di Nusantara: kajian kitab Ramalan Joyoboyo, Dalailul-Khairat, dan Hikayat Perang Sabil)をあらわした[38]。ヒヤカット・ペラン・サビルでは、子供こども女性じょせいによるたいオランダ自殺じさつ攻撃こうげき推奨すいしょうしていた[31]。ヒヤカット・ペラン・サビルは19世紀せいきマレー文学ぶんがくひとつとかんがえられている[39]。1917ねん9がつ27にちには、オランダに占領せんりょうされた地域ちいき戦士せんしいえあとでオランダ警察けいさつがヒヤカット・ペラン・サビルを没収ぼっしゅうしている[40][41][42]

その[編集へんしゅう]

アチェ戦争せんそうちゅう各地かくちのウレーバランなどの貴族きぞくはオランダを支援しえんし、植民しょくみん政府せいふ間接かんせつ統治とうち手足てあしとなった[43]だい規模きぼ戦争せんそう終結しゅうけつしたものの、日本にっぽんらんしるし作戦さくせんでオランダりょうひがしインドを占領せんりょうする1942ねんまでオランダにたいする抵抗ていこう運動うんどう散発さんぱつした。 20世紀せいき前半ぜんはんつうじてオランダじん市民しみんは、ヒヤカット・ペラン・サビルなどに触発しょくはつされたアチェの愛国あいこくしゃたちの自殺じさつ攻撃こうげきおびやかされつづけた[44]。こうしたアチェ・モールトに対抗たいこうするため、オランダ政府せいふ各地かくちにかなりのかず治安ちあん部隊ぶたい設置せっちつづけざるをなかった[17]。アチェは豊富ほうふ石油せきゆ資源しげんねむであり、スタンダード・オイルロイヤル・ダッチ・シェルといった石油せきゆ会社かいしゃが20世紀せいき前半ぜんはん進出しんしゅつして、油田ゆでん石油せきゆ精製せいせい設備せつびいた[45]

オランダに併合へいごうされたのち、1ねんに24にち道路どうろ工事こうじいられる賦役ふえき制度せいどまれたこともアチェじん不満ふまん蓄積ちくせきする一因いちいんとなった[17]。1920年代ねんだいなかばまでに、アチェじんだい規模きぼなゲリラせん再開さいかいした。太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽんがアチェを占領せんりょうしたさい当初とうしょアチェのナショナリストたちは日本にっぽん解放かいほうしゃとして歓迎かんげいしたが、その期待きたい裏切うらぎられたことがかるにつれて、ウラマーたちは抵抗ていこう運動うんどう継続けいぞくはじめた。

太平洋戦争たいへいようせんそうアチェに侵攻しんこうした日本にっぽんぐんたいしても、アチェ・モールト(自殺じさつ攻撃こうげき)がおこなわれた[46]。アチェのウラマーはオランダと日本にっぽん双方そうほうたいして抵抗ていこうし、1942ねん2がつには前者ぜんしゃたいして、11月には後者こうしゃたいして反乱はんらんこしている。このとき反乱はんらんひきいた組織そしきは、ぜんアチェ宗教しゅうきょう学者がくしゃ協会きょうかい(PUSA)であった。日本にっぽんぐんは18にん死者ししゃしたが、アチェじんも100にんから120にん殺害さつがいされた[47]。バーユで発生はっせいした反乱はんらん[48]Tjot Pliengむら宗教しゅうきょう学校がっこう中心ちゅうしんひろがった[49][50][51][52]。11月10にちにBuloh Gampong Teungahで、13にちにTjot Pliengでトンクゥ・アブドゥル・ジャリルひきいるアチェじん抜刀ばっとう突撃とつげきをかけてきたのにたいし、日本にっぽんぐん迫撃はくげきほう機関きかんじゅう応戦おうせんした[53][54][55][56][57][58]。1945ねん5がつにはアチェの反乱はんらん再発さいはつしている[59]

1945ねん8がつ日本にっぽん降伏ごうぶくしたのちインドネシア独立どくりつ戦争せんそうなか、かつてオランダと結託けったくした貴族きぞく階級かいきゅう報復ほうふく対象たいしょうとして攻撃こうげきされ、アチェはスカルノひきいる共和きょうわこくぐん牙城がじょうとなった[43]。オランダは1947ねんから1948ねんにかけて警察けいさつ行動こうどうばれる攻勢こうせいをかけたが、アチェには手出てだしができなかった[48]

1949ねんにオランダから主権しゅけん移譲いじょうけ、インドネシアは独立どくりつ達成たっせいした。しかしジャカルタのジャワじん偏重へんちょうしたしん政府せいふ不満ふまんいたアチェじんは、今度こんど自治じちけんもとめてインドネシア政府せいふたいする闘争とうそうはじめた[60]きたスマトラバタックじんキリスト教徒きりすときょうともジャワだいいち主義しゅぎ不満ふまんっていた。統一とういつ政府せいふはアチェに経済けいざいてき政治せいじてき恩恵おんけいあたえず、ムスリムがもとめたシャーリア導入どうにゅうにも失敗しっぱいした[48][61]。こうした不満ふまん背景はいけいに、1953ねんダウド・ブルエアチェ・イスラム共和きょうわこく建設けんせつした[48]。この組織そしき自体じたいはインドネシアぐんによって鎮圧ちんあつされたが、抵抗ていこうは1959ねんまでつづき、アチェの自治じちけんった[62]。しかしそのも、アチェじんをはじめとするスマトラじんたちは、政府せいふぐん要職ようしょくをジャワじん独占どくせんしていることにつよ不満ふまんしめしていた[61]。1976ねん成立せいりつした自由じゆうアチェ運動うんどうは30ねんちかくにおよ武力ぶりょく闘争とうそう展開てんかいしたが、2004ねんスマトラ島すまとらとうおき地震じしん津波つなみによりおおきな被害ひがいけ、2005ねんヘルシンキ和平わへい合意ごういでインドネシア政府せいふ和解わかいした。

バンダアチェのアチェ津波つなみ博物館はくぶつかん隣接りんせつするカークホフ・ポーカット墓地ぼちには、アチェ戦争せんそうによる2200にんのオランダぐん死者ししゃ埋葬まいそうされている。そのなかにはオランダじん兵士へいしのほか、アンボンやマナド、ジャワ島じゃわとう出身しゅっしん兵士へいし、またすうにん将軍しょうぐんふくまれている。この墓地ぼちは、オランダ国外こくがいのオランダぐん墓地ぼちとしては最大さいだい規模きぼである[63]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]