アチェ戦争 せんそう (インドネシア語 ご : Perang Aceh)は、1873年 ねん から1904年 ねん にかけて、スマトラ島 すまとらとう 北部 ほくぶ のアチェ王国 おうこく (アチェ・ダルサラーム王国 おうこく )とオランダ王国 おうこく の間 あいだ で行 おこな われた戦争 せんそう 。インドネシア ではオランダ戦争 せんそう 、異教徒 いきょうと 戦争 せんそう とも呼 よ ばれる。1873年 ねん 初頭 しょとう にアチェとアメリカの代表 だいひょう がシンガポールで会談 かいだん したことを発端 ほったん とし[8] 、アチェ最後 さいご のスルターン であるムハンマド・ダウド・シャー が1903年 ねん に降伏 ごうぶく して翌 よく 1904年 ねん にアチェがオランダに併合 へいごう されたことで戦争 せんそう は終結 しゅうけつ したとみなされているが、その後 ご も1914年 ねん まで大 だい 規模 きぼ な抵抗 ていこう が続 つづ き[1] 、散発 さんぱつ 的 てき な反乱 はんらん は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き まで続 つづ いた。
アチェ王国 おうこく は16世紀 せいき 以来 いらい オスマン帝国 ていこく の保護 ほご 国 こく の地位 ちい にあり(オスマン帝国 ていこく のアチェ遠征 えんせい )、また1824年 ねん の英 えい 蘭 らん 条約 じょうやく で独立 どくりつ を保障 ほしょう されたことで、19世紀 せいき の半 なか ばまでは確固 かっこ とした独自 どくじ の勢力 せいりょく を保 たも っていた。1820年代 ねんだい には、アチェは全 ぜん 世界 せかい の胡椒 こしょう の半分 はんぶん を供給 きょうきゅう しており、そこから得 え られる政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく を持 も って各地 かくち のラージャ を支配 しはい していた[9] 。アラーウッディーン・イブラーヒーム・マンスール・シャー の時代 じだい (1838年 ねん - 1870年 ねん )、イギリスやフランス、それにアメリカが東南 とうなん アジアの胡椒 こしょう をめぐる外交 がいこう 闘争 とうそう を激化 げきか させつつあったのを受 う けて、アチェ王国 おうこく はラージャたちへの統制 とうせい を強化 きょうか するとともに、その領域 りょういき を東南 とうなん 方 かた へ拡大 かくだい していった[9] 。しかしスマトラ島 すまとらとう 南東 なんとう 部 ぶ ではオランダが北西 ほくせい へ勢力 せいりょく を拡大 かくだい しつつあり、両者 りょうしゃ の激突 げきとつ は避 さ けられなくなった[9] 。
1869年 ねん にスエズ運河 うんが が開通 かいつう し、ヨーロッパから東南 とうなん アジア への航路 こうろ が短縮 たんしゅく されたことで状況 じょうきょう が変化 へんか した。イギリスは1871年 ねん にオランダと条約 じょうやく を結 むす びなおし、オランダが東南 とうなん アジアでの海賊 かいぞく 取 と り締 し まりを担 にな うことを条件 じょうけん にスマトラ島 すまとらとう への領土 りょうど 主張 しゅちょう を取 と り下 さ げた[3] 。これにより、オランダはスマトラ島 すまとらとう 内 ない で自由 じゆう に拡張 かくちょう を進 すす めることができるようになった。なおこの見返 みかえ りとして、イギリスはアフリカ・ギニア のオランダ領 りょう 黄金 おうごん 海岸 かいがん を獲得 かくとく し、またシアク におけるオランダと同等 どうとう の経済 けいざい 特権 とっけん を守 まも った[7] 。アチェは黒 くろ 胡椒 こしょう や石油 せきゆ などの天然 てんねん 資源 しげん が豊富 ほうふ で、これを望 のぞ むオランダは現地 げんち の独立 どくりつ 勢力 せいりょく の一掃 いっそう をも目論 もくろ むようになった。またイギリスだけでなくフランスも東南 とうなん アジアへの野心 やしん を抱 だ いており、オランダにとってスマトラ島 すまとらとう 統一 とういつ は競争 きょうそう を勝 か ち抜 ぬ くためにも必要 ひつよう であった[10] 。
長期 ちょうき にわたった戦争 せんそう の間 あいだ に、オランダは何 なん 度 ど も戦略 せんりゃく を転換 てんかん した。1873年 ねん の侵攻 しんこう 時 じ には早期 そうき 決戦 けっせん を図 はか ったが失敗 しっぱい した。その後 ご は海上 かいじょう 封鎖 ふうさ 、懐柔 かいじゅう 策 さく 、要塞 ようさい 線 せん の集中 しゅうちゅう 攻略 こうりゃく 、受動 じゅどう 的 てき な封 ふう じ込 こ め作戦 さくせん などさまざまな手段 しゅだん を用 もち いたが、思 おも うような結果 けっか が出 で なかった。対 たい アチェ戦争 せんそう に毎年 まいとし 1500万 まん ギルダー から2000万 まん ギルダーもの戦費 せんぴ をつぎ込 こ みながら失敗 しっぱい を続 つづ けた植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は破産 はさん 寸前 すんぜん に追 お い込 こ まれた[11] 。
第 だい 一 いち 次 じ 攻勢 こうせい の失敗 しっぱい と各国 かっこく の反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
1873年 ねん 、シンガポールでアチェ王国 おうこく とアメリカの現地 げんち 駐在 ちゅうざい 所 しょ の代表 だいひょう が、二 に 国 こく 間 あいだ 条約 じょうやく 締結 ていけつ に向 む けて会談 かいだん した[7] 。これを1871年 ねん の英 えい 蘭 らん 条約 じょうやく 違反 いはん とみなしたオランダは、この機会 きかい にアチェを軍事 ぐんじ 的 てき に併合 へいごう しようと画策 かくさく した[1] 。1873年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、ヨハン・ハーマン・ルドルフ・ケーラー 少将 しょうしょう 率 ひき いるオランダ軍 ぐん がアチェ領 りょう に侵攻 しんこう し、首都 しゅと のバンダアチェ を砲撃 ほうげき するとともに、4月 がつ 中 ちゅう に海岸 かいがん 線 せん のほとんどを制圧 せいあつ した[7] 。アチェのスルターン の宮殿 きゅうでん を破壊 はかい すれば全 ぜん アチェがすみやかに併合 へいごう できるだろうというのがオランダの意図 いと であった。この危機 きき に際 さい してアラーウッディーン・マフムード・シャー2世 せい はシンガポールに遣 や 使 つかい し、イタリア とイギリスからの援助 えんじょ を取 と り付 つ けた。またこうした事態 じたい に備 そな え、アチェ軍 ぐん は急速 きゅうそく に近代 きんだい 化 か され、その規模 きぼ も大幅 おおはば に拡張 かくちょう されていた。なお、その規模 きぼ については1万 まん 人 にん から10万 まん 人 にん まで諸説 しょせつ ある[7] 。アチェの軍事 ぐんじ 力 りょく を過小 かしょう 評価 ひょうか していたオランダ軍 ぐん は各地 かくち で反撃 はんげき にあい、ある戦闘 せんとう で戦死 せんし した80人 にん のオランダ兵 へい の中 なか にはケーラーも含 ふく まれていた[7] 。この敗北 はいぼく は、オランダ軍 ぐん の士気 しき と名声 めいせい を大 おお きく損 そこ なった[3] 。
陸軍 りくぐん の撤退 てったい を強 し いられたオランダは、今度 こんど はアチェの海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を開始 かいし した。マフムードは独立 どくりつ を守 まも るために西洋 せいよう 列強 れっきょう やオスマン帝国 ていこく の支援 しえん を受 う けようとしたが、うまくいかなかった。アメリカはアチェに同情 どうじょう 的 てき だったが、中立 ちゅうりつ 維持 いじ にとどまった。オスマン帝国 ていこく も衰退 すいたい 著 いちじる しく、さらに中東 ちゅうとう で相次 あいつ ぐ反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に忙殺 ぼうさつ されていたため、アチェ救援 きゅうえん にはまったく無気力 むきりょく であった。イギリスはオランダとの関係 かんけい を重視 じゅうし して介入 かいにゅう 要請 ようせい を拒否 きょひ し、フランスに至 いた っては返答 へんとう すらしなかった[4] 。
第 だい 二 に 次 じ 攻勢 こうせい [ 編集 へんしゅう ]
1874年 ねん のアチェ征服 せいふく 後 ご 、放棄 ほうき されるオスマン・アチェの大砲 たいほう 。イラストレイテド・ロンドン・ニュースより
1873年 ねん 11月、ヤン・ファン・スヴィーテン (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる1万 まん 3000人 にん のオランダ軍 ぐん が第 だい 二 に 次 じ 攻勢 こうせい を開始 かいし した[8] 。この戦争 せんそう では、コレラ により両 りょう 軍 ぐん に数 すう 千 せん 人 にん の戦病死 せんびょうし 者 もの が出 で た[4] 。1874年 ねん 1月 がつ までに、マフムードらはバンダアチェを放棄 ほうき せざるを得 え なくなり、奥地 おくち へと撤退 てったい しつつ抵抗 ていこう を続 つづ けた。アチェ王国 おうこく の首都 しゅと とダラム(スルターンの宮殿 きゅうでん )を占領 せんりょう したオランダ軍 ぐん は、これで戦争 せんそう はオランダの勝利 しょうり に終 お わったと信 しん じ切 き っていた。オランダはアチェのスルターン制 せい の廃止 はいし と、オランダ領 りょう 東 ひがし インドへの併合 へいごう を宣言 せんげん した[4] 。
1874年 ねん にマフムードはコレラで死去 しきょ したが、アチェ人 じん はその甥 おい で幼少 ようしょう のトゥンク・ムハンマド・ダウドをムハンマド・ダウド・シャー として擁立 ようりつ した。彼 かれ とその支持 しじ 者 しゃ は数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたりゲリラ戦 せん を展開 てんかい し、アチェ側 がわ ・オランダ側 がわ 双方 そうほう が多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ した[4] 。1880年 ねん ごろ、まだバンダアチェ周辺 しゅうへん しか支配 しはい が確立 かくりつ できていなかった[3] オランダは再 ふたた び方針 ほうしん 転換 てんかん して、すでに支配 しはい が確立 かくりつ している地域 ちいき と海岸 かいがん 線 せん の統治 とうち に注力 ちゅうりょく するようになった。海上 かいじょう 封鎖 ふうさ 策 さく も功 こう を奏 そう しはじめ、海岸 かいがん 地域 ちいき のウレーバラン (領主 りょうしゅ )たちは次々 つぎつぎ とオランダの宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めさせられていった。しかし一方 いっぽう で、このウレーバランたちは封鎖 ふうさ が解 と けて収入 しゅうにゅう が回復 かいふく したのち、その資金 しきん でアチェの抵抗 ていこう 勢力 せいりょく を支援 しえん していた。
オランダ植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は、アチェ併合 へいごう のために数 すう 千 せん 人 にん の戦死 せんし 者 しゃ を出 だ し、莫大 ばくだい な戦費 せんぴ を費 つい やした。1880年 ねん 10月 がつ 13日 にち 、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は戦争 せんそう の終結 しゅうけつ を宣言 せんげん し、文民 ぶんみん 政府 せいふ を設置 せっち したが、それでも抵抗 ていこう 勢力 せいりょく との戦闘 せんとう は事実 じじつ 上 じょう 続 つづ いており、アチェ支配 しはい のための浪費 ろうひ が続 つづ く状況 じょうきょう は変 か わらなかった。オランダはアチェ人 じん の懐柔 かいじゅう も試 こころ み、大 だい モスク(現 げん バイテゥラマン大 だい モスク )を再建 さいけん し、イスラム教徒 きょうと との和解 わかい を演出 えんしゅつ した[3] 。
戦争 せんそう の再開 さいかい と「聖戦 せいせん 」[ 編集 へんしゅう ]
1883年 ねん 、イギリス船 せん Nisero 号 ごう がアチェで座礁 ざしょう した。この地域 ちいき は未 いま だオランダの支配 しはい があまり及 およ んでおらず、地元 じもと のスルターンはイギリスとオランダの双方 そうほう に船員 せんいん の身代金 みのしろきん を要求 ようきゅう した。イギリスの圧力 あつりょく を受 う けたオランダは、イギリス人 じん 救出 きゅうしゅつ のために対応 たいおう せざるを得 え なくなった。まず地元 じもと のゲリラ指導 しどう 者 しゃ だったトゥク・ウマール に支援 しえん を求 もと めたが断 ことわ られ、逆 ぎゃく にオランダ兵 へい を殺害 さつがい されたので、オランダはイギリスと合同 ごうどう してこの地域 ちいき に侵攻 しんこう した。結局 けっきょく スルターンは人質 ひとじち を解放 かいほう し、代 か わりに莫大 ばくだい な身代金 みのしろきん を受 う け取 と った[12] 。
オランダ戦争 せんそう 相 しょう アウグスト・ウィレム・フィリップ・ヴェイツェル はアチェ戦争 せんそう の再開 さいかい を宣言 せんげん したが、以前 いぜん と同様 どうよう にオランダの戦果 せんか は限定 げんてい 的 てき だった。軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ で劣 おと るアチェ軍 ぐん はゲリラ戦 せん を展開 てんかい し、罠 わな や奇襲 きしゅう を駆使 くし してオランダ軍 ぐん を悩 なや ませた。報復 ほうふく としてオランダ軍 ぐん は陥 おとしい れた村 むら 々を一掃 いっそう し、多 おお くの捕虜 ほりょ や一般人 いっぱんじん を殺害 さつがい した[13] 。1884年 ねん 、オランダ軍 ぐん はバンダアチェ周辺 しゅうへん の要塞 ようさい 線 せん 範囲 はんい 内 ない に撤退 てったい した[3] 。またオランダはアチェの首長 しゅちょう たちの取 と り込 こ みにも躍起 やっき になった。トゥク・ウマールは1883年 ねん に金 きむ 、アヘン、武器 ぶき などで買収 ばいしゅう され、大 だい 指揮 しき 官 かん (panglima prang besar )の称号 しょうごう を与 あた えられた。
トゥク・ウマールは自 みずか らを「英雄 えいゆう ヨハン」(Teuku Djohan Pahlawan )と名乗 なの った。さらに彼 かれ は1894年 ねん 1月 がつ 1日 にち に私 わたし 軍 ぐん 創設 そうせつ のための支援 しえん まで受 う けた。しかし2年 ねん 後 ご の1896年 ねん 、トゥク・ウマールはアチェ平定 へいてい に使 つか うはずだった新 しん 部隊 ぶたい でオランダ軍 ぐん を襲 おそ い、膨大 ぼうだい な物資 ぶっし と資金 しきん を奪 うば って逃走 とうそう した。これはオランダ史 し 上 じょう 「トゥク・ウマールの反逆 はんぎゃく 」(Het verraad van Teukoe Oemar)として知 し られる大 だい 事件 じけん であった。1880年代 ねんだい 半 なか ばから、アチェ軍 ぐん の指導 しどう 権 けん はトゥンク・チ・ディ・ティロ らイスラム教 いすらむきょう の宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ (ウラマー ) が握 にぎ るようになった。彼 かれ らは説教 せっきょう や文書 ぶんしょ で、対 たい オランダ戦争 せんそう は「聖戦 せいせん 」であると宣伝 せんでん した。アチェの戦士 せんし たちは、自 みずか らは異教徒 いきょうと の侵略 しんりゃく 者 しゃ と戦 たたか う殉教者 じゅんきょうしゃ であると捉 とら えた[1] 。この時点 じてん でアチェ戦争 せんそう は、西洋 せいよう の帝国 ていこく 主義 しゅぎ に抗 あらが う世界中 せかいじゅう のムスリム抵抗 ていこう 運動 うんどう の象徴 しょうちょう となった[2] 。
1892年 ねん から1893年 ねん にかけて、オランダが様々 さまざま な対策 たいさく を仕掛 しか けてきたが、アチェは独立 どくりつ を保 たも つことができた。植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん のヨハネス・ベネディクトゥス・ファン・ヒューツ 少佐 しょうさ は、ライデン大学 だいがく のイスラーム研究 けんきゅう の大家 たいか クリスティアン・スヌック・フルフローニェ の援けを得 え てアチェに関 かん する数々 かずかず の論説 ろんせつ を著 あらわ した。フルフローニェは数々 かずかず のアチェの有力 ゆうりょく 者 しゃ と接触 せっしょく し、ハッジ 巡礼 じゅんれい 者 しゃ についての情報 じょうほう を得 え てオランダ政府 せいふ に流 なが す諜報 ちょうほう 活動 かつどう に携 たずさ わっていた[2] 。彼 かれ の活動 かつどう は、長年 ながねん にわたり秘 ひ されていた。彼 かれ はアチェ社会 しゃかい を分析 ぶんせき して、スルターンの役割 やくわり はそこまで大 おお きくないと述 の べ、むしろ世襲 せしゅう の首長 しゅちょう ・領主 りょうしゅ であるウレーバランに注意 ちゅうい を払 はら うべきだと主張 しゅちょう した。フルフローニェは、ウレーバランはオランダの傘下 さんか に入 はい っても地方 ちほう の統治 とうち 者 しゃ として信頼 しんらい できるが、宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ であるウラマーは信用 しんよう も共闘 きょうとう もできないので滅 ほろ ぼすべきであると主張 しゅちょう した。フルフローニェは、分割 ぶんかつ 統治 とうち の原理 げんり にのっとりアチェの貴族 きぞく と宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ の間 あいだ の溝 みぞ を深 ふか めさせるようオランダ政府 せいふ に促 うなが していたり[2] 、友人 ゆうじん でバタヴィアのアラブ人 じん 大 だい ムフティーでもあるハビブ・ウスマーン・ビン・ヤフヤー に働 はたら きかけ、オランダ側 がわ に有利 ゆうり なファトワー を出 だ させている。
また、1894年 ねん に宗務 しゅうむ 官 かん (penghulu )のハサン・ムスタファ が出 だ したファトワも、オランダ側 がわ に有利 ゆうり に働 はたら いた。これは、ムスリムにオランダ植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ の統治 とうち を受 う け入 い れるよう諭 さと すものであった[14] 。19世紀 せいき のインドのイスラム思想家 しそうか サイイド・アフマド・ハーンは、「ジハード (聖戦 せいせん )」という言葉 ことば は明 あき らかな宗教 しゅうきょう 的 てき 抑圧 よくあつ への抵抗 ていこう 運動 うんどう であるとして、アチェの対 たい オランダ戦争 せんそう についてジハードを取 と り下 さ げることを提唱 ていしょう している[1] 。
抵抗 ていこう の鎮圧 ちんあつ [ 編集 へんしゅう ]
アチェ戦争 せんそう 中 ちゅう 、パトロールの合間 あいま に休憩 きゅうけい するオランダ兵 へい (H. M. Neebの写真 しゃしん )
1904年 ねん 6月 がつ 14日 にち 、Koeto Reh村 むら の砦 とりで が制圧 せいあつ された際 さい の写真 しゃしん 。多数 たすう の非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん を含 ふく め数 すう 百 ひゃく 人 にん のアラス人 じん が殺害 さつがい された(H. M. Neebの写真 しゃしん )
1898年 ねん 、ファン・ヒューツはアチェの長官 ちょうかん に任 にん じられ、後 のち に首相 しゅしょう となるヘンドリクス・コレイン (英語 えいご 版 ばん ) 中尉 ちゅうい とともに、アチェのほぼ全域 ぜんいき の征服 せいふく を完了 かんりょう した[2] 。彼 かれ らはフルフローニェの言 げん に従 したが って、協力 きょうりょく 的 てき なウレーバランと手 て を組 く み、農村 のうそん を拠点 きょてん とする抵抗 ていこう 勢力 せいりょく を孤立 こりつ させていった。そのうえでオランダ軍 ぐん は、軽 けい 装備 そうび のオランダ植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん 保安 ほあん 隊 たい (英語 えいご 版 ばん ) による焦土 しょうど 作戦 さくせん という対 たい 反乱 はんらん 作戦 さくせん へと方針 ほうしん 転換 てんかん した[1] 。ゴトフリート・コンラート・エルンスト・ファン・ダーレン (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ はいくつもの村 むら を消滅 しょうめつ させ、少 すく なくとも2900人 にん のアチェ人 じん を殺害 さつがい した。そのうち1150人 にん ほどは女性 じょせい や子供 こども であった。この作戦 さくせん におけるオランダ側 がわ の死者 ししゃ は26人 にん だった。ファン・ヒューツやフルフローニェの非難 ひなん にもかかわらず、ファン・ダーレンは昇進 しょうしん し、後 のち に1905年 ねん から1908年 ねん にかけてアチェの長官 ちょうかん となった。
1903年 ねん 、ムハンマド・ダウド・シャー ら多 おお くのアチェ側 がわ の主要 しゅよう 人物 じんぶつ がオランダに降伏 ごうぶく するか捕縛 ほばく された[1] 。1904年 ねん までにアチェはほぼオランダの支配 しはい 下 か に入 はい り、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ と連携 れんけい する現地 げんち 政府 せいふ が置 お かれた。オランダ側 がわ は宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう を説 と き、アチェ人 じん に武器 ぶき と闘争 とうそう を捨 す てるよう説得 せっとく した[1] 。しかしながら、この時期 じき に至 いた ってもオランダ軍 ぐん の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい が散発 さんぱつ 的 てき に発生 はっせい していた。1904年 ねん には、ガヨ (英語 えいご 版 ばん ) アラス 地方 ちほう 遠征 えんせい 中 ちゅう にKoeto Reh村 むら で発生 はっせい した虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん の様子 ようす を映 うつ した写真 しゃしん が現存 げんそん しており、オランダ軍 ぐん による市民 しみん の大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ がたびたび発生 はっせい していたことを示 しめ している[15] 。戦争 せんそう を通 つう じて、アチェ側 がわ の死者 ししゃ は5万 まん 人 にん から6万 まん 人 にん 、傷病 しょうびょう 者 しゃ は100万 まん 人 にん に上 のぼ ったと推定 すいてい されている[2] 。また従来 じゅうらい のアチェ社会 しゃかい はほとんど崩壊 ほうかい し、1万 まん 人 にん の難民 なんみん が海 うみ を挟 はさ んだイギリス領 りょう マラヤ に逃 のが れた[2] 。
ファン・ヒューツ総督 そうとく (中央 ちゅうおう )と部下 ぶか たち。Christiaan Benjamin Nieuwenhuisの写真 しゃしん
オランダ本国 ほんごく では、ファン・ヒューツは「アチェの調停 ちょうてい 者 しゃ 」と呼 よ ばれ英雄 えいゆう となった。彼 かれ は1904年 ねん に全 ぜん オランダ領 りょう 東 ひがし インドの総督 そうとく に昇進 しょうしん した。アムステルダムには彼 かれ の記念 きねん 碑 ひ が残 のこ っているが、後 のち に彼 かれ の時代 じだい の暴力 ぼうりょく 的 てき な治世 ちせい とその遺産 いさん に抗議 こうぎ するため、彼 かれ の肖像 しょうぞう と名前 なまえ は取 と り除 のぞ かれている。アチェの既得 きとく 権 けん 層 そう は、国際 こくさい 規範 きはん を受 う け入 い れない君主 くんしゅ の抑圧 よくあつ から大衆 たいしゅう を解放 かいほう するという体 からだ をとることで、この大乱 たいらん を経 へ てもその特権 とっけん を維持 いじ した[16] 。アチェ戦争 せんそう の最終 さいしゅう 勝利 しょうり に勢 いきお いづいたオランダは、1901年 ねん から1910年 ねん にかけて、バリ島 ばりとう 、モルッカ諸島 しょとう 、ボルネオ島 とう 、スラウェシ島 とう の独立 どくりつ 勢力 せいりょく を次々 つぎつぎ と併呑 へいどん していった[16] 。
ガヨを拠点 きょてん として続 つづ いていた一大 いちだい 抵抗 ていこう 運動 うんどう は、1914年 ねん までには鎮 しず められた[17] 。とはいえ、アチェの奥地 おくち にある高地 こうち には十分 じゅうぶん な支配 しはい がいきわたらず、ウラマーを中心 ちゅうしん としたゲリラの反乱 はんらん が1942年 ねん まで散発 さんぱつ 的 てき に起 お きた[1] 。しかし勝利 しょうり が見 み えない戦 たたか いの中 なか で、ウラマーたちも次第 しだい に抵抗 ていこう を諦 あきら めていった。
ムスリムのアチェ人 じん は、侵略 しんりゃく 者 しゃ に対 たい して聖戦 せいせん (ペラン・サビル)を行 おこな った。例 れい としてアメリカ人 じん ジョゼフ・ピーボディ のフレンドシップ号 ごう 事件 じけん (1830年 ねん )、オランダのスマトラ島 すまとらとう 西岸 せいがん 遠征 えんせい (1831年 ねん )、アメリカの第 だい 一 いち 次 じ ・第 だい 二 に 次 じ スマトラ遠征 えんせい (1832年 ねん 、1838年 ねん )[18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] 、そしてアチェ戦争 せんそう が挙 あ げられるが、この中 なか でアチェ人 じん は個人 こじん 的 てき なジハード の実践 じっせん として度々 どど 自殺 じさつ 攻撃 こうげき を行 おこな っている。彼 かれ らは、銃 じゅう を持 も ったオランダ軍 ぐん に対 たい し剣 けん を振 ふ り回 まわ しながら突撃 とつげき したのである[25] 。オランダ人 じん はこれをアチェ・モールト(直訳 ちょくやく すると「アチェの殺人 さつじん 」の意 い 、Atjèh-moord ,[26] [27] Acehmord , Aceh mord , Aceh-mord ) と呼 よ んだ。インドネシアでは、オランダ語 ご のアチェ・モールトを訳 やく したAceh gila という語 かたり がつかわれている[28] 。
アチェ人 じん の文学 ぶんがく 作品 さくひん ヒヤカット ・ペラン・サビル(Hikayat Perang Sabil, w:ace:Hikayat Prang Sabi , w:id:Hikayat Prang Sabi [29] , Hikayat perang sabi[30] )が、オランダ人 じん に対 たい する自殺 じさつ 攻撃 こうげき を正当 せいとう 化 か する根拠 こんきょ を与 あた えた[31] [32] [33] 。ヒヤカット・ペラン・サビルの原文 げんぶん はジャウィ文字 もじ で執筆 しっぴつ され、後 のち にラテン文字 もじ に翻訳 ほんやく され、イブラーヒーム・アルフィアンによる注釈 ちゅうしゃく 付 つ きでジャカルタ で出版 しゅっぱん された[34] 。ペラン・サビルはアチェの言葉 ことば でジハードや聖戦 せいせん を意味 いみ し、この書物 しょもつ は各地 かくち でのウラマーの対 たい オランダ抵抗 ていこう 運動 うんどう を支援 しえん した。[35] アラビア語 ご 文献 ぶんけん から聖戦 せいせん 士 し の行 い ける死後 しご の楽園 らくえん の概念 がいねん や、オランダの行 おこな った残虐 ざんぎゃく 行為 こうい が詳説 しょうせつ されていた。この書物 しょもつ はウラマーの秘密 ひみつ 結社 けっしゃ 間 あいだ に流布 るふ し、戦士 せんし たちには自殺 じさつ 攻撃 こうげき で殉教者 じゅんきょうしゃ となる希望 きぼう を与 あた えた[36] 。またサイフ・ムハンマド・イサのSabil: Prahara di Bumi Rencong のようなフィクション作品 さくひん もアチェの対 たい オランダ戦争 せんそう に関連 かんれん している[37] 。Mualimbunsu Syam Muhammadは、インドネシアにおけるイスラームの聖戦 せいせん について『ヌサンタラにおける聖戦 せいせん の動機 どうき 』(Motivasi perang sabil di Nusantara: kajian kitab Ramalan Joyoboyo, Dalailul-Khairat, dan Hikayat Perang Sabil )を著 あらわ した[38] 。ヒヤカット・ペラン・サビルでは、子供 こども や女性 じょせい による対 たい オランダ自殺 じさつ 攻撃 こうげき も推奨 すいしょう していた[31] 。ヒヤカット・ペラン・サビルは19世紀 せいき マレー文学 ぶんがく の一 ひと つと考 かんが えられている[39] 。1917年 ねん 9月 がつ 27日 にち には、オランダに占領 せんりょう された地域 ちいき の戦士 せんし の家 いえ の跡 あと でオランダ警察 けいさつ がヒヤカット・ペラン・サビルを没収 ぼっしゅう している[40] [41] [42] 。
アチェ戦争 せんそう 中 ちゅう 、各地 かくち のウレーバランなどの貴族 きぞく はオランダを支援 しえん し、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ の間接 かんせつ 統治 とうち の手足 てあし となった[43] 。大 だい 規模 きぼ な戦争 せんそう は終結 しゅうけつ したものの、日本 にっぽん が蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん でオランダ領 りょう 東 ひがし インドを占領 せんりょう する1942年 ねん までオランダに対 たい する抵抗 ていこう 運動 うんどう が散発 さんぱつ した。 20世紀 せいき 前半 ぜんはん を通 つう じてオランダ人 じん 市民 しみん は、ヒヤカット・ペラン・サビルなどに触発 しょくはつ されたアチェの愛国 あいこく 者 しゃ たちの自殺 じさつ 攻撃 こうげき に脅 おびや かされ続 つづ けた[44] 。こうしたアチェ・モールトに対抗 たいこう するため、オランダ政府 せいふ は各地 かくち にかなりの数 かず の治安 ちあん 部隊 ぶたい を設置 せっち し続 つづ けざるを得 え なかった[17] 。アチェは豊富 ほうふ な石油 せきゆ 資源 しげん が眠 ねむ る地 ち であり、スタンダード・オイル やロイヤル・ダッチ・シェル といった石油 せきゆ 会社 かいしゃ が20世紀 せいき 前半 ぜんはん に進出 しんしゅつ して、油田 ゆでん や石油 せきゆ 精製 せいせい 設備 せつび を置 お いた[45] 。
オランダに併合 へいごう されたのち、1年 ねん に24日 にち の道路 どうろ 工事 こうじ を強 し いられる賦役 ふえき 制度 せいど に組 く み込 こ まれたこともアチェ人 じん の不満 ふまん を蓄積 ちくせき する一因 いちいん となった[17] 。1920年代 ねんだい 半 なか ばまでに、アチェ人 じん は大 だい 規模 きぼ なゲリラ戦 せん を再開 さいかい した。太平洋戦争 たいへいようせんそう で日本 にっぽん がアチェを占領 せんりょう した際 さい 、当初 とうしょ アチェのナショナリストたちは日本 にっぽん を解放 かいほう 者 しゃ として歓迎 かんげい したが、その期待 きたい が裏切 うらぎ られたことが分 わ かるにつれて、ウラマーたちは抵抗 ていこう 運動 うんどう を継続 けいぞく し始 はじ めた。
太平洋戦争 たいへいようせんそう でアチェに侵攻 しんこう した日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい しても、アチェ・モールト(自殺 じさつ 攻撃 こうげき )が行 おこな われた[46] 。アチェのウラマーはオランダと日本 にっぽん の双方 そうほう に対 たい して抵抗 ていこう し、1942年 ねん 2月 がつ には前者 ぜんしゃ に対 たい して、11月には後者 こうしゃ に対 たい して反乱 はんらん を起 お こしている。この時 とき の反乱 はんらん を率 ひき いた組織 そしき は、全 ぜん アチェ宗教 しゅうきょう 学者 がくしゃ 協会 きょうかい (PUSA)であった。日本 にっぽん 軍 ぐん は18人 にん の死者 ししゃ を出 だ したが、アチェ人 じん も100人 にん から120人 にん が殺害 さつがい された[47] 。バーユで発生 はっせい した反乱 はんらん は[48] Tjot Plieng村 むら の宗教 しゅうきょう 学校 がっこう を中心 ちゅうしん に広 ひろ がった[49] [50] [51] [52] 。11月10日 にち にBuloh Gampong Teungahで、13日 にち にTjot Pliengでトンクゥ・アブドゥル・ジャリル率 ひき いるアチェ人 じん が抜刀 ばっとう 突撃 とつげき をかけてきたのに対 たい し、日本 にっぽん 軍 ぐん は迫撃 はくげき 砲 ほう と機関 きかん 銃 じゅう で応戦 おうせん した[53] [54] [55] [56] [57] [58] 。1945年 ねん 5月 がつ にはアチェの反乱 はんらん が再発 さいはつ している[59] 。
1945年 ねん 8月 がつ に日本 にっぽん が降伏 ごうぶく した後 のち のインドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう 中 なか 、かつてオランダと結託 けったく した貴族 きぞく 階級 かいきゅう は報復 ほうふく 対象 たいしょう として攻撃 こうげき され、アチェはスカルノ 率 ひき いる共和 きょうわ 国 こく 軍 ぐん の牙城 がじょう となった[43] 。オランダは1947年 ねん から1948年 ねん にかけて警察 けいさつ 行動 こうどう と呼 よ ばれる攻勢 こうせい をかけたが、アチェには手出 てだ しができなかった[48] 。
1949年 ねん にオランダから主権 しゅけん の移譲 いじょう を受 う け、インドネシアは独立 どくりつ を達成 たっせい した。しかしジャカルタのジャワ人 じん に偏重 へんちょう した新 しん 政府 せいふ に不満 ふまん を抱 だ いたアチェ人 じん は、今度 こんど は自治 じち 権 けん を求 もと めてインドネシア政府 せいふ に対 たい する闘争 とうそう を始 はじ めた[60] 。北 きた スマトラ のバタック人 じん キリスト教徒 きりすときょうと もジャワ第 だい 一 いち 主義 しゅぎ に不満 ふまん を持 も っていた。統一 とういつ 政府 せいふ はアチェに経済 けいざい 的 てき ・政治 せいじ 的 てき な恩恵 おんけい を与 あた えず、ムスリムが求 もと めたシャーリア の導入 どうにゅう にも失敗 しっぱい した[48] [61] 。こうした不満 ふまん を背景 はいけい に、1953年 ねん にダウド・ブルエ がアチェ・イスラム共和 きょうわ 国 こく を建設 けんせつ した[48] 。この組織 そしき 自体 じたい はインドネシア軍 ぐん によって鎮圧 ちんあつ されたが、抵抗 ていこう は1959年 ねん まで続 つづ き、アチェの自治 じち 権 けん を勝 か ち取 と った[62] 。しかしその後 ご も、アチェ人 じん をはじめとするスマトラ人 じん たちは、政府 せいふ や軍 ぐん の要職 ようしょく をジャワ人 じん が独占 どくせん していることに強 つよ い不満 ふまん を示 しめ していた[61] 。1976年 ねん に成立 せいりつ した自由 じゆう アチェ運動 うんどう は30年 ねん 近 ちか くに及 およ ぶ武力 ぶりょく 闘争 とうそう を展開 てんかい したが、2004年 ねん のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん ・津波 つなみ により大 おお きな被害 ひがい を受 う け、2005年 ねん のヘルシンキ和平 わへい 合意 ごうい でインドネシア政府 せいふ と和解 わかい した。
バンダアチェのアチェ津波 つなみ 博物館 はくぶつかん に隣接 りんせつ するカークホフ・ポーカット墓地 ぼち には、アチェ戦争 せんそう による2200人 にん のオランダ軍 ぐん の死者 ししゃ が埋葬 まいそう されている。その中 なか にはオランダ人 じん 兵士 へいし のほか、アンボンやマナド、ジャワ島 じゃわとう 出身 しゅっしん の兵士 へいし 、また数 すう 人 にん の将軍 しょうぐん も含 ふく まれている。この墓地 ぼち は、オランダ国外 こくがい のオランダ軍 ぐん 墓地 ぼち としては最大 さいだい 規模 きぼ である[63] 。
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