マジャパヒト王国おうこく

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マジャパヒト王国おうこく
シンガサリ王国 1293ねん - 1527ねん ドゥマク王国
バリ王国
マジャパヒト王国の国旗 マジャパヒト王国の国章
国旗こっきくにあきら
マジャパヒト王国の位置
マジャパヒト王国おうこく最盛さいせい支配しはい領域りょういき
公用こうよう マレーサンスクリット
首都しゅと マジャパヒト
おう
1293ねん - 1309ねん ウィジャヤ英語えいごばん
1309ねん - 1328ねんジャヤナガラ英語えいごばん
1328ねん - 1350ねんラジャパトニ / トリブワナ
1350ねん - 1389ねんハヤム・ウルク
1466ねん - 1478ねんブラウィジャヤ5せいインドネシアばん(シンバ・ウィクラマワルダナ)
変遷へんせん
建国けんこく 1293ねん
崩壊ほうかい1527ねん

マジャパヒト王国おうこく(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293ねんから1478ねんまで[1]ジャワ島じゃわとうちゅう東部とうぶ中心ちゅうしんさかえたインドネシア最後さいごヒンドゥーきょう王国おうこく最盛さいせいにはインドネシア諸島しょとう全域ぜんいきマレまれ半島はんとうまで勢力せいりょくいたとのせつがあるが一方いっぽうで、実際じっさいにはジャワ島じゃわとうちゅう東部とうぶ支配しはいしたにすぎないとするせつもある。なお、表記ひょうきに「マジャパイト」とくこともある。つづりは"Majapahit"であるが、ジャワでは、hおと発音はつおんしないからである。

成立せいりつ[編集へんしゅう]

シンガサリ=マジャパヒト歴代れきだい君主くんしゅ系図けいず

シンガサリ王国おうこくクルタナガラおうのもとにモンゴル帝国ていこくクビライ使者ししゃ朝貢ちょうこうもとめたが、クルタナガラおう使者ししゃかお刺青しせいれておくかえした。この無礼ぶれいおこったクビライにより1293ねんモンゴルのジャワ遠征えんせいおこなわれた。だがクルタナガラおうクディリ王家おうけ末裔まつえいばれる当地とうち領主りょうしゅジャヤカトワン英語えいごばん反乱はんらんによって前年ぜんねん1292ねんころされていた。クルタナガラおうむすめ婿むこであったウィジャヤ英語えいごばんはジャワ北岸ほくがんトゥバン英語えいごばん上陸じょうりくしたもとぐん同盟どうめいして、ジャヤカトワンがったシンガサリ王国おうこくほろぼし、さらにもとぐんをジャワからして、アルヤ・ウィララジャインドネシアばん協力きょうりょくしてマジャパヒト王国おうこく建国けんこくした。ウィジャヤの即位そくいめいをクルタラジャサ=ジャヤワルダナ(Kertarajasa Jayawardhana)という。王国おうこくジャワ島じゃわとう東部とうぶプランタスがわ流域りゅういきマジャパヒト英語えいごばんかれた。

マジャパヒトと元朝がんちょう関係かんけい当然とうぜん悪化あっかしたが、クビライが死去しきょするとおおきく好転こうてんし、1295ねんから1332ねんあいだに10かい朝貢ちょうこうおこなわれた。

1295ねん、ウィジャヤは、建国けんこく闘争とうそうちゅう約束やくそくまもり、くにふたつに分割ぶんかつし、東部とうぶはアルヤ・ウィララジャがおさめるようになった。東部とうぶ首都しゅと現在げんざいのルマジャン(Lumajang)にあった。

1316ねん、ウィジャヤの息子むすこジャヤナガラ英語えいごばんが、ルマジャンで現職げんしょくのパティ(Patih宰相さいしょう)であったナンビ(Nambi)による反乱はんらん鎮圧ちんあつし、東部とうぶ西部せいぶふたた統一とういつされたとナーガラクルターガマ英語えいごばんの「おうみつる英語えいごばん」にかれている。

1328ねんジャヤナガラ英語えいごばん死去しきょすると後継こうけい男子だんしがいなかったので、クルタナガラおうすえむすめラジャパトニにこうがせたが、ラジャパトニは熱心ねっしん仏教徒ぶっきょうと出家しゅっけしていたので、むすめトリブワナ英語えいごばん摂政せっしょうとして政務せいむらせた(インドネシアの歴史れきし教科書きょうかしょ『インドネシア国史こくし』 (Sejarah Nasional Indonesia) では、トリブワナが王位おういのぼったとする。)。このころ親衛隊しんえいたいちょうから宰相さいしょう抜擢ばってきされたガジャ・マダがマジャパヒト王国おうこく最盛さいせいみちびくことになる。

最盛さいせい[編集へんしゅう]

宰相さいしょうガジャ・マダは1342ねんバリ島ばりとう侵攻しんこうしたのを皮切かわきりに、インドネシア各地かくちたいする遠征えんせいおこない、スマトラ島すまとらとうシュリーヴィジャヤ王国おうこくほろぼして南海なんかい海上かいじょう交易こうえきルートを掌中しょうちゅうおさめた。

最盛さいせい支配しはい領域りょういきマレまれ半島はんとうパタニやトゥマシク(シンガポール)、カリマンタンとうおよび、東西とうざい交通こうつう要衝ようしょうであるマラッカ海峡かいきょうスンダ海峡すんだかいきょう制圧せいあつした。またタイアユタヤ王朝おうちょうカンボジアベトナムとも友好ゆうこう関係かんけいった。

1350ねん、ラジャパトニが死去しきょするとトリブワナの息子むすこハヤム・ウルク英語えいごばんがラージャサナガラとして即位そくいした。

1357ねんブバットのたたか英語えいごばんではスンダ王国おうこく英語えいごばんやぶったが、両国りょうこく関係かんけい険悪けんあくになった。

衰亡すいぼう[編集へんしゅう]

おうみつる英語えいごばん」によると、1376ねんあたらしい王国おうこくgunung baru)が誕生たんじょうした。「あかり」によると、1377ねんジャワ島じゃわとうふたつの王国おうこくから朝貢ちょうこうおこなわれており、西にしおうが勿労つとむひがしおうが勿院ろうもうゆいという名前なまえであったと記録きろくされている。西にし王国おうこくは、Bhra Prabu(「国王こくおう陛下へいか」の、つまりハヤム・ウルク英語えいごばんのこと[2])がおさめていた。一方いっぽうひがし王国おうこくは、ハヤム・ウルクの叔母おばディア・ウィヤット(Dyah Wiyat、ラージャ・デーヴィー)のおっとBhre Wengker(「ウンクル殿下でんか」の、つまりウンクルこうラージャサワルダナのこと[2])がおさめていた。

1377ねんガジャ・マダすでんでいたが、マジャパヒト王国おうこくパレンバンへいおくり、シュリーヴィジャヤ王国おうこく滅亡めつぼうさせた。このとき最後さいご王子おうじパラメスワラ英語えいごばん脱出だっしゅつしてマレまれ半島はんとうのがれ、のちマラッカ王国おうこく建国けんこくする。

1389ねんハヤム・ウルク英語えいごばんんで、ウィクラマワルダナ英語えいごばんあといだ。一方いっぽうひがし王国おうこくでは1398ねんにラージャサワルダナがぬと、ハヤム・ウルクの庶子しょしでラージャサワルダナのむすめインドゥ・デーヴィーの養子ようしとなった[3]ウィラブミがあといだ。

1404ねんから1406ねんにかけて、マジャパヒトの宮廷きゅうていひがし王宮おうきゅう西にし王宮おうきゅうわか内戦ないせんになった(パルグルグ戦争せんそうインドネシアばん)。中国ちゅうごくあきら王朝おうちょう15世紀せいき前半ぜんはんていかず艦隊かんたいを7かいにわたって南海なんかい派遣はけんし、ジャワのマジャパヒト王国おうこくにも来航らいこうし、内戦ないせん巻込まきこまれた。ていかず艦隊かんたい保護ほごマラッカ王国おうこく成立せいりつすると、南海なんかい貿易ぼうえき中心ちゅうしんはマラッカにうつり、マジャパヒト王国おうこくはこの趨勢すうせいめることができなかった。

15世紀せいき以降いこうイスラム教いすらむきょう浸透しんとうして、マラッカ王国おうこくがイスラムしたのをはじめ、マタラム王国おうこくがジャワ北岸ほくがんのトゥバン、グレシク英語えいごばんなどにもイスラム教いすらむきょうこく成立せいりつする。

マジャパヒト王国おうこくでもクルタウィジャヤインドネシアばんが、息子むすこブラウィジャヤ5せいインドネシアばん(シンバ・ウィクラマワルダナ)のチャンパ王国おうこくからムスリムの公主こうしゅむかえ、内政ないせいでもイスラームへの改宗かいしゅう容認ようにんした。

ブラウィジャヤ5せい息子むすこラデン・パタハインドネシアばんドゥマク王国おうこく建国けんこくし、サムドラ・パサイ王国おうこく友好ゆうこう関係かんけいきずき、ワリ・サンガによるイスラム教いすらむきょう布教ふきょうによって急速きゅうそく国力こくりょく増大ぞうだいした。1478ねん、ドゥマク王国おうこくはマジャパヒト王国おうこくのブラウィジャヤ5せい宗主そうしゅけんみとめさせた。

遺跡いせき調査ちょうさその[編集へんしゅう]

  • ジャワ島じゃわとう東部とうぶには、マジャパヒト王国おうこく遺跡いせきつかっているが、発掘はっくつ調査ちょうさ資金しきん人材じんざい不足ふそくすすんでいない。遺跡いせき発掘はっくつへの支援しえんびかけるため、インドネシア政府せいふ日本にっぽん民間みんかん団体だんたい[4]とが当時とうじ技術ぎじゅつ木造もくぞうせん復元ふくげんした。ふね壁画へきがなどをもとに、くぎ使つかわずつくられた帆船はんせんである。2010ねん7がつ4にち日本人にっぽんじん関係かんけいしゃとインドネシアぐん水兵すいへいなど14にんのせた復元ふくげん木造もくぞうせんが、アジア各国かっこくけて出航しゅっこうした[5]
  • マジャパヒト王国おうこく13世紀せいきから16世紀せいきにかけてインドネシアを中心ちゅうしんさかえ、琉球りゅうきゅう王国おうこくとも交易こうえきおこなっていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ アフマッド・スバルジョちょおくげんづくりへんやく『インドネシアの独立どくりつ革命かくめい』19ぺーじおよび171ぺーじによれば、1292ねんから1520ねんまで。
  2. ^ a b 青山あおやま、p. 66
  3. ^ 深見ふかみ、p. 306
  4. ^ 日本にっぽんマジャパヒト協会きょうかい[リンク]
  5. ^ NHKニュース[リンク]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 池端いけはた雪浦ゆきのうらへん東南とうなんアジアII 島嶼とうしょ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  • 大林おおばやし太良たらへん)『民族みんぞく世界せかい6 東南とうなんアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1984ねん
  • 石井いしい米雄よねお桜井さくらいゆかり躬雄 『《ビジュアルばん世界せかい歴史れきし12 東南とうなんアジア世界せかい形成けいせい講談社こうだんしゃ、1985ねん
  • 綾部あやべ恒雄つねお石井いしい米雄よねお(へん)『もっとりたいインドネシア(だい2はん)』 弘文こうぶんどう、1995ねん
  • アフマッド・スバルジョちょおくげんづくりへんやく『インドネシアの独立どくりつ革命かくめい龍渓りゅうけいしょしゃ、1973ねん
  • 青山あおやまとおる 「14世紀せいきまつにおける「ジャワ東西とうざい分割ぶんかつ」のさい解釈かいしゃく」『東南とうなんアジア-歴史れきし文化ぶんか-』 No.21、1992ねん、pp. 65 - 87
  • 深見ふかみ純生すみお やく 「マジャパヒト諸王しょおうでん」 『国際こくさい文化ぶんか論集ろんしゅう』 No.29、pp. 305 - 324

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]