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ジハード (جهاد jihād )は、アラビア語 ご の語根 ごこん جهد(J-H-D、努力 どりょく する)から派生 はせい した動詞 どうし جاهد(ジャーハダ、自己 じこ 犠牲 ぎせい して戦 たたか う)の動 どう 名詞 めいし で、「違 ちが うベクトルの力 ちから の拮抗 きっこう 」を意味 いみ するが、一般 いっぱん 的 てき にイスラームの文脈 ぶんみゃく では「宗教 しゅうきょう のために努力 どりょく する、戦 たたか う」ことを意味 いみ する[1] 。「大 だい ジハード」と「小 しょう ジハード」がある。
「大 だい ジハード」(内 うち へのジハード)は個人 こじん の信仰 しんこう を深 ふか める内面 ないめん 的 てき 努力 どりょく を指 さ す一方 いっぽう 、「小 しょう ジハード」(外 そと へのジハード)は異教徒 いきょうと に対 たい しての戦 たたか いを指 さ すため、一般 いっぱん 的 てき に「ジハード」というと後者 こうしゃ を指 さ す[2] 。イスラム法学 ほうがく 上 うえ の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒 いきょうと との戦闘 せんとう 」と定義 ていぎ される[1] 。しばしば「聖戦 せいせん 」と和訳 わやく されるが、ジハードという語 かたり には「聖 きよし 」の意味 いみ はないため、正確 せいかく ではない[1] 。
概要 がいよう
ジハードは、『クルアーン (コーラン)』に散見 さんけん される「神 かみ の道 みち のために奮闘 ふんとう することに務 つと めよ」という句 く のなかの「奮闘 ふんとう する」「努力 どりょく する」に相当 そうとう する動詞 どうし の語根 ごこん jahada (ジャハダ、アラビア語 ご : جهد )を語源 ごげん としており、アラビア語 ご では「ある目標 もくひょう をめざした奮闘 ふんとう 、努力 どりょく 」という意味 いみ である[3] 。この語 かたり には本来 ほんらい 「神聖 しんせい 」ないし「戦争 せんそう 」の意味 いみ は含 ふく まれていない。しかし、『クルアーン』においてはこの言葉 ことば が「異教徒 いきょうと との戦 たたか い」「防衛 ぼうえい 戦 せん 」を指 さ すことにも使 つか われており、このことから異教徒 いきょうと 討伐 とうばつ や非 ひ ムスリムとの戦争 せんそう をあらわす「聖戦 せいせん 」(「外 そと へのジハード」)をも指 さ すようになった。したがって、「聖戦 せいせん 」という訳語 やくご は、ジハード本来 ほんらい の意味 いみ からすれば狭義 きょうぎ の訳語 やくご ということができる[5] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。
奮闘 ふんとう 努力 どりょく の意味 いみ でのジハードは、ムスリムの主要 しゅよう な義務 ぎむ である五 ご 行 ぎょう に次 つ いで「第 だい 六 ろく 番目 ばんめ の行 くだり 」といわれることがある[3] 。ジハードの重要 じゅうよう 性 せい は、イスラーム の聖典 せいてん 『クルアーン』が神 かみ の道 みち において奮闘 ふんとう せよと命 めい じていることと、あるいはまた、預言 よげん 者 しゃ (ムハンマド )と初期 しょき のイスラーム共同 きょうどう 体 たい (ウンマ )のあり方 かた に根 ね ざしている[3] 。
近 きん 現代 げんだい におけるイスラームの反 はん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ ・イスラーム復古 ふっこ 主義 しゅぎ ・イスラーム原理 げんり 主義 しゅぎ においては、イスラーム世界 せかい 防衛 ぼうえい のため、「実際 じっさい に武器 ぶき を持 も って戦 たたか うジハード」が再 ふたた び強調 きょうちょう されている。
『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 』では次 つぎ の解説 かいせつ がある。
「
イスラム法 ほう の理念 りねん では,世界 せかい はイスラムの主権 しゅけん の確立 かくりつ されたダール・アルイスラームでなければならない。まだその主権 しゅけん が確立 かくりつ されていない世界 せかい は,ダール・アルハルブdār al‐ḥarb(戦争 せんそう 世界 せかい )と定義 ていぎ され,そこではイスラムの主権 しゅけん が確立 かくりつ されるまでジハードが必要 ひつよう となる。
」
ウンマ(イスラーム共同 きょうどう 体 たい )の歴史 れきし とジハード
イスラームとならび「世界 せかい 宗教 しゅうきょう 」と称 しょう される仏教 ぶっきょう ・キリスト教 きりすときょう と比較 ひかく した際 さい の、イスラーム教 きょう の極 きょく だった特徴 とくちょう としては、政教 せいきょう 一体 いったい の宗教 しゅうきょう 共同 きょうどう 体 たい の存在 そんざい があげられる[8] 。この宗教 しゅうきょう は、単 たん なる個人 こじん 的 てき ・内面 ないめん 的 てき な信仰 しんこう 体系 たいけい というにとどまらず、むしろひとつの確固 かっこ たる共同 きょうどう 体 たい そのもの、ないし共同 きょうどう 体 たい 的 てき 生活 せいかつ の全体 ぜんたい なのであり、また、それを支 ささ える固有 こゆう の法律 ほうりつ 、政府 せいふ 、社会 しゃかい 制度 せいど を内的 ないてき に規定 きてい しているのである[8] 。そして、預言 よげん 者 しゃ としてムスリムを指導 しどう したムハンマド は、ユダヤ教 きょう やキリスト教 きりすときょう の預言 よげん 者 しゃ や宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ にもまして、「神 かみ の道 みち 」にもとづく理想 りそう の国 くに ウンマ を建設 けんせつ しようという情熱 じょうねつ と意欲 いよく に満 み ちあふれていた[9] 。
「ジャーヒリーヤ時代 じだい 」(無知 むち の時代 じだい 、無明 むみょう の時代 じだい )すなわちイスラーム成立 せいりつ 以前 いぜん のアラビア半島 はんとう では、それぞれの部族 ぶぞく は、血縁 けつえん にもとづく連帯 れんたい 意識 いしき の強弱 きょうじゃく が各 かく 部族 ぶぞく の命運 めいうん を左右 さゆう しており、人間 にんげん の欲望 よくぼう にもとづく闘争 とうそう (キタール)が繰 く り広 ひろ げられていた[5] 。しかし、それはきびしい砂漠 さばく 気候 きこう のなかでは自殺 じさつ 行為 こうい であった。イスラームは、この連帯 れんたい 意識 いしき を血族 けつぞく 意識 いしき を基本 きほん としたものから「アッラーへの絶対 ぜったい 帰依 きえ 」という超 ちょう 血族 けつぞく 意識 いしき を根幹 こんかん としたものへと変革 へんかく させたのであり、その変革 へんかく の試 こころ みが成功 せいこう したために世界 せかい 宗教 しゅうきょう として歴史 れきし の表 おもて 舞台 ぶたい に登場 とうじょう したということができる[5] 。血族 けつぞく 的 てき でない連帯 れんたい 意識 いしき を支 ささ えた「信仰 しんこう 生活 せいかつ 」そのものは、血族 けつぞく 意識 いしき にくらべればきわめて曖昧 あいまい なものであり、それゆえ、唯一 ゆいいつ 神 かみ アッラーから「六 ろく 信 しん 五 ご 行 ぎょう 」というシステムを平等 びょうどう に受 う け、日月 じつげつ や時間 じかん さえも同一 どういつ にして、見 み えるかたちでの連帯 れんたい 意識 いしき ・同胞 どうほう 意識 いしき の醸成 じょうせい を毎日 まいにち はかることとしたのである。ジハードとは、こうして形成 けいせい された宗教 しゅうきょう 共同 きょうどう 体 たい を守 まも ろうとする実践 じっせん 的 てき な営為 えいい なのである[5] 。
イスラーム共同 きょうどう 体 たい の歴史 れきし は、それゆえ、ムハンマドの時代 じだい から現代 げんだい にいたるまで、『クルアーン』のジハードに関 かん する教 おし えをその枠組 わくぐ みとして見 み てゆくことができる[3] 。『クルアーン』第 だい 49章 しょう 「部屋 へや の章 あきら 」15節 せつ [クルアーン 1] には、
本当 ほんとう に信者 しんじゃ とは、一途 いっと にアッラーとその使徒 しと を信 しん じる者 もの たちで、疑 うたが いを持 も つことなく、アッラーの道 みち のために、財産 ざいさん と生命 せいめい とを捧 ささ げて奮闘 ふんとう 努力 どりょく する者 もの である。これらの者 もの こそ真 しん の信者 しんじゃ である。
とあり、「ジハード」とはしたがって、ムスリムのあるべき姿 すがた を述 の べた、イスラームの代表 だいひょう 的 てき な言葉 ことば でもある[5] 。
『クルアーン』におけるジハードの教 おし えは、ムスリムの人 ひと びとの自己 じこ 認識 にんしき 、そして、唯一 ゆいいつ 神 かみ アッラー を敬 うやま う心 しん 、共同 きょうどう 体 たい の動員 どういん ・拡大 かくだい ・防衛 ぼうえい などの諸点 しょてん において、根本 こんぽん 的 てき に重要 じゅうよう なものである[3] 。それは、ひとりの人間 にんげん として善 よ き人生 じんせい を送 おく ることは決 けっ して容易 ようい なことではなく、また、決 けっ して単純 たんじゅん なことでもないという認識 にんしき や思念 しねん に関 かか わってくるからである[3] 。「神 かみ の道 みち 」にかなうような、道徳 どうとく 的 てき で高潔 こうけつ な人 ひと となるためには、自 みずか らの内面 ないめん に潜 ひそ む悪 あく と戦 たたか い、善行 ぜんこう によって社会 しゃかい の改善 かいぜん に資 し するよう、真剣 しんけん に奮闘 ふんとう 努力 どりょく しなければならない[3] 。
それにまた、ジハードは、その人 ひと の置 お かれた環境 かんきょう によっては、不正 ふせい や抑圧 よくあつ に対 たい する戦 たたか いという意味 いみ をもつこととなり、宣教 せんきょう と説得 せっとく によって、また場合 ばあい によっては、必要 ひつよう に応 おう じては武器 ぶき をとり、「聖 せい なる戦 たたか い」を繰 く り広 ひろ げることによって正 ただ しい社会 しゃかい をつくらなければならないという考 かんが えと結 むす びつくのである[3] 。
2つのジハード
ジハードは、六 ろく 信 しん 五 ご 行 ぎょう というムスリムの信仰 しんこう と義務 ぎむ の項目 こうもく には含 ふく まれていないが、『クルアーン』では「奮闘 ふんとう 努力 どりょく 」という非常 ひじょう に幅広 はばひろ い意味 いみ で登場 とうじょう し、したがって、その意味 いみ からも六 ろく 信 しん 五 ご 行 ぎょう を越 こ え、イスラームの信者 しんじゃ として当然 とうぜん 持 も たなければならない基本 きほん 的 てき な心構 こころがま えとして、いっそう重要 じゅうよう な命令 めいれい と考 かんが えられている[5] 。
広 ひろ い意味 いみ でのジハードには、次 つぎ の2種類 しゅるい が存在 そんざい するといわれている[3] 。
個人 こじん の内面 ないめん との戦 たたか い。内 うち へのジハード。非 ひ 暴力 ぼうりょく 的 てき なジハード
外部 がいぶ の不義 ふぎ との戦 たたか い。外 そと へのジハード。暴力 ぼうりょく 的 てき なジハード
この2つについて、ムハンマドが実際 じっさい の戦闘 せんとう から日常 にちじょう 生活 せいかつ に戻 もど ったときに語 かた ったと伝承 でんしょう される言葉 ことば が、その内実 ないじつ をよく説明 せつめい している。その言葉 ことば とは、
私 わたし たちは小 ちい さなジハード(戦争 せんそう )から大 おお きなジハードに戻 もど る。…
というものである[3] 。
「大 おお きなジハード」すなわち「内 うち へのジハード」は、個々人 ここじん のムスリムの心 しん の中 なか にある悪 あく や不 ふ 正義 せいぎ 、欲望 よくぼう 、自我 じが 、利己 りこ 主義 しゅぎ と戦 たたか って、内面 ないめん に正義 まさよし を実現 じつげん させるための行為 こうい のことであり、それだけに、いっそう困難 こんなん で重要 じゅうよう なものとされる[3] 。このことに関 かん して、イスラーム共和 きょうわ 制 せい をとるイラン では、ラマダーン の期間 きかん 、「ラマダーン月 がつ はジハードの月 つき 」などといった標語 ひょうご を掲 かか げることによって、弛緩 しかん しがちなムスリムたちの規律 きりつ を正 ただ し、イスラーム共和 きょうわ 国 こく の理想 りそう を思 おも い起 お こさせるための行為 こうい という意味 いみ で「ジハード」の語 かたり が用 もち いられる[注釈 ちゅうしゃく 2] 。イスラームが五 ご 行 ぎょう のひとつとして1ヶ月 かげつ にわたる断食 だんじき (サウム)を信徒 しんと に命 めい じている理由 りゆう は、人 ひと びとに食欲 しょくよく という本能 ほんのう を抑 おさ える訓練 くんれん をさせることによって、精神 せいしん は肉体 にくたい よりも強固 きょうこ なものであると自覚 じかく させ、同時 どうじ に食 た べものへの感謝 かんしゃ の念 ねん を起 お こさせるためであるといわれている[10] 。
現在 げんざい 、多 おお くの学者 がくしゃ は「内 うち へのジハード」を「大 だい ジハード」(الجهاد الأكبر al-jihād l-akbar ) と呼 よ んでおり、それに対 たい して「外 そと へのジハード」を「小 しょう ジハード」(الجهاد الأصغر al-jihād l-asghar )と呼 よ んでいる[3] 。どちらも、アッラーの命令 めいれい を完遂 かんすい できないような環境 かんきょう がつくられないための「奮闘 ふんとう 努力 どりょく 」という点 てん では共通 きょうつう している[5] 。
もっとも広 ひろ い意味 いみ でのジハードは、すべてのムスリムに課 か される義務 ぎむ を指 さ している[3] 。神 かみ の意志 いし にしたがい、神 かみ の意志 いし を実現 じつげん して倫理 りんり 的 てき な生活 せいかつ を営 いとな むために、説教 せっきょう 、教育 きょういく 、実例 じつれい および文書 ぶんしょ などによってイスラーム共同 きょうどう 体 たい の拡大 かくだい のため、ムスリム一 いち 人 にん ひとりとしても、イスラーム共同 きょうどう 体 たい としても、おこなうべき義務 ぎむ なのである。また、「ジハード」には、イスラーム教 きょう とイスラーム共同 きょうどう 体 たい を外部 がいぶ からの攻撃 こうげき から守 まも る権利 けんり (実際 じっさい には義務 ぎむ )という意味 いみ もある[3] 。20世紀 せいき 後半 こうはん にあっても、1978年 ねん からのソ連 それん のアフガニスタン紛争 ふんそう において、アフガニスタン のムジャーヒディーン (後述 こうじゅつ )が、ソヴィエト連邦 れんぽう の占領 せんりょう に対 たい し、10年 ねん におよぶ長 なが いジハードを戦 たたか ってきた[3] 。
歴史 れきし 的 てき にみれば「大 だい ジハード」は、平和 へいわ 主義 しゅぎ と寛容 かんよう さを旨 むね とするイスラーム神秘 しんぴ 主義 しゅぎ の潮流 ちょうりゅう のなかで特 とく に支持 しじ されてきたものであり、その一方 いっぽう で、支配 しはい 者 しゃ ・権力 けんりょく 者 しゃ は領土 りょうど 拡大 かくだい や侵略 しんりゃく の大義名分 たいぎめいぶん として「外 そと へのジハード」を利用 りよう してきた。現代 げんだい でもしばしば、テロリスト と目 め される過激 かげき な集団 しゅうだん が「外 そと へのジハード」を大義名分 たいぎめいぶん として行動 こうどう し、ムスリムの結集 けっしゅう を呼 よ びかけるために用 もち いている[3] 。
内 うち へのジハード(大 だい ジハード)
「内 うち へのジハード」は、非 ひ イスラーム圏 けん ではあまり注目 ちゅうもく されていないが、イスラーム世界 せかい ではきわめて重要 じゅうよう 視 し されている概念 がいねん である[3] 。これは通常 つうじょう 、神 かみ の道 みち を実現 じつげん するために、各 かく 個人 こじん が自 みずか らの心 しん のなかの堕落 だらく ・怠惰 たいだ ・腐敗 ふはい などの諸悪 しょあく と戦 たたか う克己 こっき の精神 せいしん を意味 いみ しており、強 つよ い意志 いし で自分 じぶん をよりよくしていこうという努力 どりょく である[3] [5] [11] 。また、これらの悪 あく を増長 ぞうちょう させる外来 がいらい 文化 ぶんか の導入 どうにゅう などによる環境 かんきょう 変化 へんか に対 たい する抵抗 ていこう もまた、「内 うち へのジハード」としての戦 たたか いであると見 み なされる[5] 。『クルアーン』には、各所 かくしょ に「努力 どりょく する者 もの には神 かみ が報 むく いてくださる」としか解釈 かいしゃく できない句 く が数多 かずおお く登場 とうじょう する[12] 。ムハンマド自身 じしん は、しばしば同 どう 時代 じだい のユダヤ人 じん をその信仰 しんこう において「形式 けいしき 主義 しゅぎ 者 もの 」と非難 ひなん し、ムスリムに対 たい しても、たとえば「形式 けいしき だけの礼拝 れいはい なら、しない方 ほう がまし」と宣言 せんげん したように、努力 どりょく することそのものを重 おも んじたのである[12] 。
「内 うち へのジハード」は「大 だい ジハード 」と呼 よ ばれ、社会 しゃかい の平和 へいわ 的 てき な運営 うんえい には欠 か くべからざるものとして法学 ほうがく 者 しゃ や為政者 いせいしゃ からも重視 じゅうし される。ジハードを「聖戦 せいせん 」と訳 やく して、単 たん なる戦 たたか いという意味 いみ でこの言葉 ことば を理解 りかい することは誤 あやま りであり、「布教 ふきょう のための戦 たたか い」と理解 りかい することもまた誤 あやま りであって、「戦 たたか い」の意味 いみ を有 ゆう する場合 ばあい でも、あくまでも「防衛 ぼうえい 戦 せん 」を指 さ している[5] 。現代 げんだい においては、多 おお くのイスラーム諸国 しょこく において為政者 いせいしゃ 、法学 ほうがく 者 しゃ 、知識 ちしき 人 じん ともに「内 うち へのジハード」を重視 じゅうし する傾向 けいこう が強 つよ い。
外 そと へのジハード(小 しょう ジハード)
「外 そと へのジハード」は一般 いっぱん に「聖戦 せいせん 」と訳 やく されるジハードであり、イスラーム共同 きょうどう 体外 たいがい 部 ぶ への侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 、あるいはイスラーム共同 きょうどう 体外 たいがい 部 ぶ からイスラーム共同 きょうどう 体 たい を守 まも るための戦 たたか いである。この戦 たたか いが「ジハード」の名 な で称 しょう されるためには、法的 ほうてき 根拠 こんきょ を必要 ひつよう とする[5] 。
「外 そと へのジハード」の古典 こてん 的 てき 定義 ていぎ とその内容 ないよう
イスラーム法 ほう (シャリーア )は、正統 せいとう カリフ時代 じだい のイスラーム共同 きょうどう 体 たい (ウンマ )からアラブ帝国 ていこく (ウマイヤ朝 あさ )、イスラーム帝国 ていこく (アッバース朝 あさ )へと発展 はってん していった8世紀 せいき から10世紀 せいき 頃 ころ にかけて整備 せいび された。シャリーアは、初期 しょき イスラームの拡大 かくだい 戦争 せんそう を支 ささ えたイデオロギー である「外 そと へのジハード」を以下 いか のような観念 かんねん にまとめた。すなわち、
「(外 そと への)ジハードとは、イスラーム世界 せかい を拡大 かくだい あるいは防衛 ぼうえい するための行為 こうい 、戦 たたか い」
というものである。
伝統 でんとう 的 てき なシャリーアの理念 りねん においては、イスラーム共同 きょうどう 体 たい の主権 しゅけん が確立 かくりつ され、シャリーアが施行 しこう される領域 りょういき 、"ダール・アル=イスラーム " دار السلام (「イスラームの家 いえ 」=イスラーム世界 せかい )に全 ぜん 世界 せかい とその人民 じんみん が包摂 ほうせつ されていなければならない。しかし、現実 げんじつ には「イスラームの家 いえ 」の外部 がいぶ には、イスラームの力 ちから がおよばない"ダール・アル=ハルブ " دار الحرب (「戦争 せんそう の家 いえ 」=非 ひ イスラーム世界 せかい )が存在 そんざい する。したがって、「戦争 せんそう の家 いえ 」を「イスラームの家 いえ 」に組 く み入 い れるための努力 どりょく 、すなわちジハードを行 おこな うことがムスリムの義務 ぎむ とされるのである[5] 。
上 うえ の定義 ていぎ から、イスラーム共同 きょうどう 体 たい の支配 しはい に服 ふく さない異教徒 いきょうと の討伐 とうばつ は原則 げんそく として正 ただ しい行為 こうい であり、極端 きょくたん にいえば、イスラーム共同 きょうどう 体 たい は最終 さいしゅう 的 てき には全 ぜん 世界 せかい を征服 せいふく し、異教徒 いきょうと を屈服 くっぷく させなければならないという論理 ろんり さえ導 みちび き出 だ される。この論理 ろんり の根拠 こんきょ としては、『クルアーン』第 だい 2章 しょう 第 だい 193節 せつ にある「騒擾 そうじょう がすっかりなくなる時 とき まで。宗教 しゅうきょう が全 まった くアッラーの(宗教 しゅうきょう )ただ一 いち 条 じょう になる時 とき まで、彼等 かれら (メッカの多神教 たしんきょう 徒 と )を相手 あいて に戦 たたか いぬけ」がある[クルアーン 2] 。
したがって二 ふた つの世界 せかい (家 いえ )の間 あいだ は常 つね に戦争 せんそう 状態 じょうたい にあり、ジハードがムスリムの永続 えいぞく 的 てき 義務 ぎむ である以上 いじょう 、戦争 せんそう 状態 じょうたい がむしろ常態 じょうたい だとの指摘 してき がある。
しかし同時 どうじ に『クルアーン』は、戦争 せんそう が正当 せいとう なジハードたりうるのは異教徒 いきょうと が戦 たたか いを挑 いど んできた場合 ばあい に限 かぎ られることも示 しめ しており、第 だい 2章 しょう 第 だい 190節 せつ には、「あなたがたに戦 たたか いを挑 いど む者 もの があれば、アッラーの道 みち のために戦 たたか え。だが侵略 しんりゃく 的 てき であってはならない。本当 ほんとう にアッラーは、侵略 しんりゃく 者 しゃ を愛 あい さない」[クルアーン 3] とある。加 くわ えて前述 ぜんじゅつ の第 だい 2章 しょう 第 だい 193節 せつ 後半 こうはん 部分 ぶぶん [注釈 ちゅうしゃく 3] に従 したが えば、異教徒 いきょうと から挑 いど まれた戦争 せんそう であっても、相手 あいて がイスラーム共同 きょうどう 体 たい と和平 わへい を結 むす び、「不義 ふぎ の戦争 せんそう 」を停止 ていし しようとしているならば、イスラーム共同 きょうどう 体 たい の側 がわ も害 がい 意 い を捨 す てて和平 わへい に努 つと めなければならない。つまりイスラーム共同 きょうどう 体 たい は、イスラームとの戦 たたか いを望 のぞ まない「戦争 せんそう の家 いえ 」勢力 せいりょく とならば、条約 じょうやく を結 むす び外交 がいこう 関係 かんけい を樹立 じゅりつ することが可能 かのう であると理解 りかい される。これら外交 がいこう 関係 かんけい を取 と り結 むす んだ諸国 しょこく は「和平 わへい の家 いえ 」と呼 よ ばれ、「戦争 せんそう の家 いえ 」とは区別 くべつ される[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
こうしたことから、「戦争 せんそう の家 いえ 」観 かん と好戦 こうせん 的 てき ジハード思想 しそう は古典 こてん 期 き に成立 せいりつ した法学 ほうがく 思想 しそう に過 す ぎず、クルアーンの教 おし えではないとの指摘 してき がある。
もし、ある戦争 せんそう 行為 こうい を「ジハード」として遂行 すいこう することが必要 ひつよう となった場合 ばあい は、カリフ はムフティー と呼 よ ばれる宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ に対 たい し、その戦争 せんそう がジハードとして認 みと められるかどうかを諮問 しもん しなければならない。その結果 けっか 、ムフティーが合法 ごうほう であるとするファトワー を発 はっ することで、統治 とうち 者 しゃ は「ジハード」を宣言 せんげん することができる。
ジハードには、このような法的 ほうてき 根拠 こんきょ が必要 ひつよう であり、その根拠 こんきょ のないものを「ジハード」とは呼 よ べない[5] 。開戦 かいせん が「防衛 ぼうえい 的 てき ジハード」であり、法的 ほうてき 根拠 こんきょ を有 ゆう する場合 ばあい は、全 ぜん ムスリムは、国家 こっか や民族 みんぞく を超 こ えて全 ぜん イスラーム教徒 きょうと が、直接的 ちょくせつてき にであれ間接 かんせつ 的 てき にであれジハードに参加 さんか しなくてはならない。ただし、歴史 れきし 的 てき には当該 とうがい 統治 とうち 者 しゃ の臣民 しんみん 以外 いがい にジハード参加 さんか の強制 きょうせい 力 りょく を及 およ ぼすことは難 むずか しかった。これに対 たい し、イスラーム共同 きょうどう 体 たい 拡大 かくだい のための侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の場合 ばあい 、参戦 さんせん 義務 ぎむ は統治 とうち 者 しゃ の家臣 かしん と臣民 しんみん に限 かぎ られる[16] 。
また、イスラームのジハード思想 しそう では、異教徒 いきょうと を討伐 とうばつ し、その結果 けっか として非 ひ ムスリムを服属 ふくぞく させることは認 みと められていても、征服 せいふく 地 ち の異教徒 いきょうと に対 たい する強制 きょうせい 改宗 かいしゅう は明確 めいかく に否定 ひてい されている。これは、『クルアーン』第 だい 2章 しょう 256節 せつ の「宗教 しゅうきょう に無理強 むりじ いは禁物 きんもつ 」という句 く を根拠 こんきょ にしており、『クルアーン』では、信 しん じるのも信 しん じないのも本人 ほんにん の自由 じゆう であることが強調 きょうちょう されている[17] 。したがって、ジハードは布教 ふきょう のための戦争 せんそう であってはならない[5] 。
さらにいえば、「イスラームの家 いえ 」を拡大 かくだい する行為 こうい とは必 かなら ずしも戦闘 せんとう という手段 しゅだん に限定 げんてい されない。中央 ちゅうおう アジア や東南 とうなん アジア での布教 ふきょう のように平和 へいわ 的 てき な方法 ほうほう によって「イスラームの家 いえ 」が拡大 かくだい された例 れい も少 すく なくない。その担 にな い手 て は、これらの地域 ちいき に赴 おもむ いたムスリム商人 しょうにん やイスラム神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 者 しゃ (スーフィー )の聖人 せいじん たちであった。また、「イスラームの家 いえ 」の支配 しはい 下 か に入 はい った異教徒 いきょうと たちは、イスラームの主権 しゅけん 下 か で一定 いってい 程度 ていど の人権 じんけん を保障 ほしょう された隷属 れいぞく 民 みん 「ズィンミー」たることを強制 きょうせい され[注釈 ちゅうしゃく 5] 、差別 さべつ 待遇 たいぐう を甘受 かんじゅ さぜるを得 え なかったが、信教 しんきょう の自由 じゆう を認 みと められるなど比較的 ひかくてき 寛大 かんだい に扱 あつか われたことも少 すく なくなかった。
また、時 とき には、「戦争 せんそう の家 いえ 」に住 す む異教徒 いきょうと が、「イスラームの家 いえ 」に対 たい して戦争 せんそう を仕掛 しか けてくることも当然 とうぜん ありうる。このような場合 ばあい 、イスラーム共同 きょうどう 体 たい 防衛 ぼうえい のためのジハードがムスリムの義務 ぎむ となる。
防衛 ぼうえい 戦 せん に従事 じゅうじ する者 もの (聖戦 せいせん 士 し )を、ムジャーヒド(単数 たんすう 形 がた )およびムジャーヒディーン (複数 ふくすう 形 がた )という。彼 かれ らに対 たい して、唯一 ゆいいつ 神 かみ アッラーは『クルアーン』を通 つう じて「神 かみ の道 みち に戦 たたか うものは、戦死 せんし しても凱旋 がいせん しても我 われ らがきっと大 おお きな褒美 ほうび を授 さづ けよう」と教 おし え、ジハードで戦死 せんし すれば殉教者 じゅんきょうしゃ として最後 さいご の審判 しんぱん ののち、必 かなら ず天国 てんごく に迎 むか えられると約束 やくそく する。一方 いっぽう で、『クルアーン』は「敵 てき に背 せ を向 む けるものは、たちまち神 かみ の怒 いか りを背負 しょ い込 こ み、その行 ゆ く先 さき はジャハンナム(地獄 じごく )である」と語 かた り、ジハードを怠 おこた ることを厳 きび しく非難 ひなん している[注釈 ちゅうしゃく 6] [注釈 ちゅうしゃく 7] 。
「外 そと へのジハード」とキタール
イスラームでは、世界 せかい 史 し において繰 く り広 ひろ げられてきた普通 ふつう の戦 たたか いを、ジハード(聖戦 せいせん )とは明確 めいかく に区別 くべつ し、それを「キタール (قِتَال qitāl )」と呼称 こしょう している[5] 。キタールとは、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう や領土 りょうど 拡大 かくだい 、戦利 せんり 品 ひん や奴隷 どれい の獲得 かくとく 、資源 しげん 確保 かくほ 、植民 しょくみん 地 ち 確保 かくほ など、人間 にんげん のもつ単純 たんじゅん な欲望 よくぼう にもとづいておこなわれる戦争 せんそう のことであり、また、憎悪 ぞうお から生 う まれる行為 こうい や復讐 ふくしゅう の行為 こうい もキタールであって、いずれも否定 ひてい されるべき行為 こうい とされている[5] 。
キタールは、アラビア語 ご の「カタラ(殺 ころ した)」という言葉 ことば を語源 ごげん としており、「世俗 せぞく 的 てき な欲望 よくぼう にもとづいた戦争 せんそう 」を意味 いみ するのに対 たい し、ジハードが想定 そうてい している戦争 せんそう は、あくまでも、ムスリムから見 み て正当 せいとう な防衛 ぼうえい 戦争 せんそう であり、イスラーム共同 きょうどう 体 たい (ウンマ)の利益 りえき になるものでなければならない。ゆえに、開戦 かいせん に際 さい しては宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ の承認 しょうにん を必要 ひつよう とし、「アッラーの御名 ぎょめい において」という呼 よ びかけのもとにおこなわれるのである[5] 。
しかしながら、後述 こうじゅつ するように、時 とき のムスリム政権 せいけん がキタールをジハードと詐称 さしょう して侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を行 おこな った例 れい は多 おお い。
イスラーム共同 きょうどう 体 たい と「ジハード」
ジハードは、イスラーム共同 きょうどう 体 たい を外 そと からの攻撃 こうげき から守 まも ることだけではなく、内側 うちがわ に生 しょう じる崩壊 ほうかい の要因 よういん を除去 じょきょ するための奮闘 ふんとう 努力 どりょく を含 ふく んでいる[5] 。それを、「生命 せいめい ・財産 ざいさん を捧 ささ げてもおこなうべし」としたところから「戦 たたか い」の言葉 ことば で形容 けいよう されているものと考 かんが えられる[5] 。
そのようにみるならば、ジハード(聖戦 せいせん ・奮闘 ふんとう 努力 どりょく )は、ムスリムにとって最 もっと も重要 じゅうよう で基本 きほん 的 てき な命令 めいれい ということができる[5] 。そのため、ムスリムは外 そと の世界 せかい に対 たい し封鎖 ふうさ 的 てき な環境 かんきょう をつくらざるを得 え なくなる。外 そと からの異 い 文化 ぶんか の導入 どうにゅう や異質 いしつ な世界 せかい との交流 こうりゅう ・接触 せっしょく 、異 こと なる価値 かち 観 かん との対立 たいりつ から「アッラーの道 みち 」を守 まも らなくてはならないからである[5] 。その結果 けっか 、イスラーム世界 せかい が採用 さいよう した方法 ほうほう は、周囲 しゅうい に対 たい し、あたかも大 おお きく高 たか い塀 へい を張 は り巡 めぐ らすようなものであった、ということができる[5] 。イスラーム世界 せかい が今 いま なお中世 ちゅうせい 的 てき な雰囲気 ふんいき を濃厚 のうこう に有 ゆう していると指摘 してき されるのもそのためであるが、しかしだからといって、イスラーム世界 せかい が外界 がいかい に対 たい して完全 かんぜん に閉鎖 へいさ 的 てき であるというわけではない[5] 。ハディースに「知 ち を求 もと めることはすべてのムスリムの義務 ぎむ である」「中国 ちゅうごく までも知 ち を求 もと めよ」とあるように、イスラーム世界 せかい を発展 はってん させるための知識 ちしき の導入 どうにゅう は歓迎 かんげい されており、イスラーム世界 せかい を発展 はってん させることもまた、ジハードの目的 もくてき だからである[5] [19] 。
「外 そと へのジハード」の実際 じっさい
上述 じょうじゅつ したように、「ジハード」は多義 たぎ 的 てき なことばであり、イスラームの歴史 れきし にあってはそれが善用 ぜんよう されることもあれば悪用 あくよう されることもあった[3] 。
歴史 れきし 的 てき にみれば、全 ぜん イスラーム共同 きょうどう 体 たい がジハードの意識 いしき を高 たか め、異教徒 いきょうと との戦 たたか いにあたったのは、初期 しょき イスラームの時代 じだい のビザンツやペルシアへの侵略 しんりゃく 戦争 せんそう であり、ジハード擁護 ようご 論 ろん からした場合 ばあい の、イスラームを広 ひろ めるための聖 せい なる戦 たたか い、である大 だい 征服 せいふく 時代 じだい 、および中世 ちゅうせい ヨーロッパのキリスト教 きりすときょう 世界 せかい が、聖地 せいち イェルサレム 奪回 だっかい を目的 もくてき として7回 かい にわたって中東 ちゅうとう 地域 ちいき に派遣 はけん した十字軍 じゅうじぐん との戦 たたか いの時代 じだい が代表 だいひょう 例 れい なものである。
イスラームの拡大 かくだい しはじめた時期 じき にあっては「アッラーへの道 みち をはずれることなく」、イスラーム教徒 きょうと にとっての異教徒 いきょうと と戦 たたか って死 し ぬことは殉教 じゅんきょう とされ、殉教者 じゅんきょうしゃ には天国 てんごく が約束 やくそく された[11] 。しかし、11世紀 せいき 末 すえ に十字軍 じゅうじぐん がエルサレム王国 おうこく を建国 けんこく し、キリスト教徒 きりすときょうと がパレスチナ を占領 せんりょう したころにはジハードの理想 りそう はついえており、各所 かくしょ より散発 さんぱつ 的 てき に、イスラームの君主 くんしゅ たちの無気力 むきりょく を批判 ひはん する声 こえ があがった[11] 。法学 ほうがく 者 しゃ のアッ=スラミー が聖戦 せいせん を個人 こじん に課 か せられた義務 ぎむ であると主張 しゅちょう して、これを呼 よ びかけたのは、このときであった。この呼 よ びかけに応 こた えたのは当初 とうしょ はザンギー朝 あさ 、その後 ご はムスリムの英雄 えいゆう サラーフッディーン (サラディン)がこれに応 こた えた[11] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の際 さい には、同盟 どうめい 国 こく 側 がわ に立 た ったオスマン帝国 ていこく が「ジハード」宣言 せんげん を発 はっ しているが、しかし、ここではインド のムスリムの対 たい 英 えい 協力 きょうりょく やアラブ人 じん の反乱 はんらん を食 く い止 と めることができなかった。とはいえ、一方 いっぽう では、19世紀 せいき 以降 いこう 、いわばイスラーム世界 せかい の「辺境 へんきょう 」にあたる西 にし アフリカ 、マグリブ 、スーダン 、インドや東南 とうなん アジア の地 ち で「ジハード」が呼 よ びかけられ、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ と帝国 ていこく 主義 しゅぎ に対 たい する抵抗 ていこう が繰 く り広 ひろ げられたのも事実 じじつ である。20世紀 せいき 後半 こうはん には、ユダヤ教 きょう の国 くに イスラエル の拡大 かくだい と戦 たたか うパレスティナ のハマース やソヴィエト連邦 れんぽう の侵攻 しんこう と戦 たたか うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動 うんどう が盛 も り上 あ がるが、これらの根底 こんてい には近代 きんだい ムスリムの抵抗 ていこう 思想 しそう (「防衛 ぼうえい ジハード」の思想 しそう )と同様 どうよう の性格 せいかく を見出 みいだ すことができる。
このように、イスラーム的 てき 伝統 でんとう のなかでジハードが重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしてきたのは事実 じじつ であるが、近年 きんねん では、イスラーム教 きょう の改革 かいかく を推進 すいしん するジハードに参加 さんか することは、真 しん のイスラーム教徒 きょうと のすべてにとって神聖 しんせい な義務 ぎむ だと主張 しゅちょう する人 ひと びともいる[3] 。このような立場 たちば に立 た って現代 げんだい イスラーム社会 しゃかい とその周辺 しゅうへん を見 み わたすと、そこには、腐敗 ふはい した権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき 政権 せいけん が支配 しはい する世界 せかい や、みずからの経済 けいざい 的 てき な成功 せいこう ・繁栄 はんえい のみに関心 かんしん が集中 しゅうちゅう し、欧米 おうべい 社会 しゃかい の文化 ぶんか や価値 かち 観 かん に染 そ まった一 いち 握 にぎ りのエリート だけが脚光 きゃっこう を浴 あ びる世界 せかい が立 た ち現 あらわ れてくる、少 すく なくとも、そのようにとらえるムスリムは少 すく なくない[3] 。そして、欧米 おうべい 諸国 しょこく が、民衆 みんしゅう に対 たい し抑圧 よくあつ 的 てき な態度 たいど をとるイスラームの政権 せいけん を支 ささ え、地域 ちいき の人材 じんざい や天然 てんねん 資源 しげん を搾取 さくしゅ し、イスラーム世界 せかい から文化 ぶんか を奪 うば い、ムスリム自身 じしん が選 えら んだ政権 せいけん の下 した で公正 こうせい な社会 しゃかい に生 い きる権利 けんり を奪 うば っているように映 えい じるのである[3] 。
「汎 ひろし イスラーム主義 しゅぎ 」を唱 とな えて全 ぜん ムスリムの団結 だんけつ を説 と いたアフガーニー
「脱 だつ 宗教 しゅうきょう 主義 しゅぎ 」「イラク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 」「イスラームの復興 ふっこう 」など主張 しゅちょう を二 に 転 てん 三 さん 転 てん させたイラクのサッダーム・フセイン
イスラーム主義 しゅぎ (イスラーム復興 ふっこう 主義 しゅぎ )に立 た つ活動 かつどう 家 か の多 おお くは、ムスリムの力 ちから と繁栄 はんえい をとりもどすには、「正 ただ しいイスラームの教 おし え」に回帰 かいき することが重要 じゅうよう と考 かんが えており、また、国家 こっか や社会 しゃかい のイスラーム化 か を強 つよ めるために政治 せいじ 改革 かいかく ・社会 しゃかい 改革 かいかく が必要 ひつよう だと考 かんが えている[3] 。このようなイスラーム回帰 かいき の思想 しそう は、近代 きんだい においては、ワッハーブ運動 うんどう やアフガーニー の改革 かいかく 運動 うんどう を嚆矢 こうし としており、のちのサウジアラビア 建国 けんこく や汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ の台頭 たいとう の原動力 げんどうりょく となった[20] 。そして、一握 ひとにぎ りではあるが、そのなかの暴力 ぼうりょく 的 てき な方向 ほうこう 性 せい を是認 ぜにん する一部 いちぶ の過激 かげき 派 は は、救世主 きゅうせいしゅ 的 てき な世界 せかい 観 かん と攻撃 こうげき 性 せい を組 く み合 あ わせて国内外 こくないがい のイスラーム教 きょう を解放 かいほう するためのジハードを呼 よ びかけ、「神 かみ の軍隊 ぐんたい 」の創設 そうせつ を主張 しゅちょう し、軍事 ぐんじ 的 てき な動員 どういん をおこなっている[3] [20] 。上述 じょうじゅつ のように、ジハードは、侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を遂行 すいこう してゆくために利用 りよう すべきものでは決 けっ してないが、それでも実際 じっさい には、一部 いちぶ の支配 しはい 者 しゃ や政府 せいふ 、個人 こじん はそのようにジハードを利用 りよう している[3] 。たとえば、1991年 ねん の湾岸 わんがん 戦争 せんそう の際 さい のサッダーム・フセイン 、アフガニスタンのターリバーン 、また、ウサマ・ビンラーディン およびアルカーイダ などがそれに相当 そうとう する[3] 。
なお、古典 こてん 的 てき なシャリーアでは、ムスリムであってもイスラームの教 おし えから逸脱 いつだつ する信条 しんじょう を抱 いだ くようになった者 もの は不信心 ふしんじん 者 しゃ (カーフィル)と呼 よ ばれ、「戦争 せんそう の家 いえ 」に住 す む異教徒 いきょうと 以上 いじょう の悪 あく であり、すみやかにジハードによって打倒 だとう されなくてはならないと規定 きてい している。16世紀 せいき から17世紀 せいき にかけて、互 たが いに近接 きんせつ するスンナ派 は のオスマン帝国 ていこく (トルコ)とシーア派 は のサファヴィー朝 あさ (ペルシャ )が領土 りょうど をめぐって戦争 せんそう するときは、お互 たが いを「不信心 ふしんじん 者 しゃ 」と決 き め付 つ けることによってその戦争 せんそう を「ジハード」と位置付 いちづ け、みずからの立場 たちば を正当 せいとう 化 か しようと図 はか り、1980年 ねん から1988年 ねん までつづいたイラン・イラク戦争 せんそう においてルーホッラー・ホメイニー を擁 よう するイラン・イスラム共和 きょうわ 国 こく が「世俗 せぞく 主義 しゅぎ 」「脱 だつ 宗教 しゅうきょう 主義 しゅぎ 」を標榜 ひょうぼう するバアス党 とう 政権 せいけん のイラク に対 たい して激 はげ しい敵意 てきい と憎悪 ぞうお を示 しめ したのは、このような思想 しそう を背景 はいけい とする。
「外 そと へのジハード」とテロリズム
近年 きんねん には、政治 せいじ 的 てき 動機 どうき による戦争 せんそう やテロリズム を正当 せいとう 化 か する標語 ひょうご として「ジハード」の語 かたり が頻繁 ひんぱん に用 もち いられ、本来 ほんらい ジハードの宣言 せんげん を行 おこな う資格 しかく のない者 もの がジハードを唱 とな える局面 きょくめん が増 ふ えつつある。「脱 だつ 宗教 しゅうきょう 主義 しゅぎ 」から「イラク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 」へと大 おお きく方向 ほうこう 転換 てんかん したイラクのサッダーム・フセイン大統領 だいとうりょう は、1990年 ねん のクウェート 占領 せんりょう に反対 はんたい するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など西側 にしがわ 諸国 しょこく に対抗 たいこう するため「異教徒 いきょうと に対 たい するジハード」を呼号 こごう して1991年 ねん 、湾岸 わんがん 戦争 せんそう へと突入 とつにゅう した。この時点 じてん ではイスラームに「回帰 かいき 」したかにみえるフセインであったが、しかし、湾岸 わんがん 戦争 せんそう 後 ご の国内 こくない でまず起 お こったのがイスラーム教 きょう シーア派 は の人 ひと びとによる暴動 ぼうどう だったのである[21] 。
「ジハード」を標榜 ひょうぼう する政治 せいじ 家 か やテロリスト の言葉 ことば が、ムスリムの人々 ひとびと の心 しん をある程度 ていど は引 ひ きつけていることは事実 じじつ である。これは、アメリカをはじめとする西側 にしがわ 諸国 しょこく がイスラエルに好意 こうい 的 てき で、パレスティナのムスリムを追 お いやり、弾圧 だんあつ していることに対 たい する同情 どうじょう や、アフガニスタンやイラクに対 たい する空爆 くうばく が独裁 どくさい 政権 せいけん や強権 きょうけん 的 てき な政府 せいふ のみならず、ムスリムの民衆 みんしゅう までをも死 し に追 お いやっていることに対 たい する悲憤 ひふん がある。被 ひ 侵略 しんりゃく 者 しゃ ・被 ひ 抑圧 よくあつ 者 しゃ としての怒 いか りを多 おお くのムスリムが共有 きょうゆう しているため「いまこそがイスラーム共同 きょうどう 体 たい を防衛 ぼうえい するためジハードを行 おこな うべきときである」という言葉 ことば に多 おお かれ少 すく なかれ共感 きょうかん をいだくのである。
しかし、インドネシア やタイ 、フィリピン 、スーダンではイスラームの勢力 せいりょく 拡大 かくだい や非 ひ ムスリム弾圧 だんあつ 、その他 た ムスリム社会 しゃかい の一部 いちぶ の権益 けんえき 擁護 ようご 拡大 かくだい のために利用 りよう できる場合 ばあい に「ジハード」という言葉 ことば をテロリズムや武力 ぶりょく 闘争 とうそう の正当 せいとう 化 か に利用 りよう している組織 そしき や政府 せいふ がある。こういった過激 かげき 派 は は、前述 ぜんじゅつ の和平 わへい を奨 すす めるクルアーンの聖 せい 句 く を、イスラームの優越 ゆうえつ に屈服 くっぷく する限 かぎ りに於 お いて和平 わへい を認 みと めるというものだと解釈 かいしゃく する傾向 けいこう にある。そのため非 ひ ムスリムから「ムスリムは都合 つごう 次第 しだい で殺戮 さつりく をジハードとして正当 せいとう 化 か している」と批判 ひはん される口実 こうじつ を与 あた えることにもつながっている。
さらに、エジプト のジハード団 だん のように、シャリーア以外 いがい の法 ほう を施行 しこう する為政者 いせいしゃ はムスリムであろうと「不信心 ふしんじん 者 しゃ 」であり、ジハードによって排除 はいじょ しなければならないとして、要人 ようじん クラスの暗殺 あんさつ やテロリズムをおこなう過激 かげき な組織 そしき もある。
「外 そと へのジハード」と天国 てんごく
上述 じょうじゅつ のとおり、ジハードで戦死 せんし した者 もの は、この世 よ の終 お わりに最後 さいご の審判 しんぱん がなされた結果 けっか 、天国 てんごく にいけるとされている。イスラームにおける「天国 てんごく 」はアラビア語 ご で(جنّة jannah ) と呼 よ ばれ、『クルアーン』ではその様子 ようす が具体 ぐたい 的 てき に綴 つづ られているが、それによれば、緑 みどり なす木々 きぎ に覆 おお われ、果実 かじつ は枝 えだ もたわわに実 みの り、清 きよ らかな川 かわ が数多 かずおお く流 なが れて、快適 かいてき な風 ふう がつねに吹 ふ きわたっている清浄 せいじょう なところであり、天国 てんごく 行 い きを許 ゆる されたものに対 たい しては、現世 げんせい の酒 さけ とは異 こと なり、いくら飲 の んでも酔 よ わない美酒 びしゅ や最上 さいじょう の食 た べものがあたえられるという[22] 。『クルアーン』にはさらに、男性 だんせい は天国 てんごく で複数 ふくすう の処女 しょじょ (フーリー )を侍 はべ らせることができると説 と く[注釈 ちゅうしゃく 8] 。これらは『クルアーン』においては抽象 ちゅうしょう 的 てき 表現 ひょうげん にとどまるが、ハディースではより具体 ぐたい 的 てき に「フーリーは72人 にん おり、望 のぞ むだけ性交 せいこう をできる」「彼女 かのじょ たちは何 なん 回 かい 性交 せいこう におよんでも処女 しょじょ のままである」等 とう と説 と くものも見 み られる[23] 。
この「処女 しょじょ 」の表現 ひょうげん は、比喩 ひゆ 的 てき なものにすぎないという意見 いけん も多 おお く、あるいはまた、実際 じっさい は「処女 しょじょ 」ではなく「白 しろ い果実 かじつ 」という意味 いみ であるという説 せつ もあるが、過激 かげき 派 は 組織 そしき が自爆 じばく テロの人員 じんいん を募集 ぼしゅう する際 さい に、年少 ねんしょう の者 もの などに対 たい し、このような天国 てんごく の描写 びょうしゃ を意図 いと 的 てき に用 もち いている場合 ばあい が少 すく なくないとされ、問題 もんだい となっている[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
世俗 せぞく 的 てき 意味 いみ でのジハード
上述 じょうじゅつ のとおりアラビア語 ご でのジハードは本来 ほんらい 「奮闘 ふんとう する」「努力 どりょく する」という意味 いみ の言葉 ことば であるため、イスラームの文脈 ぶんみゃく を離 はな れた世俗 せぞく 的 てき 意味 いみ でも用 もち いられる。例 れい を挙 あ げると、「経済 けいざい 的 てき 発展 はってん を目指 めざ す努力 どりょく 」「政治 せいじ 的 てき 独立 どくりつ を目指 めざ す闘争 とうそう 」「社会 しゃかい 改革 かいかく への努力 どりょく 」「女性 じょせい 解放 かいほう のための闘争 とうそう 」などにおいてである。
ジハードのイメージ
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "ジハード" – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年 ねん 12月 )
日本 にっぽん や多 おお くのキリスト教 きりすときょう 圏 けん の欧米 おうべい の先進 せんしん 国 こく においては、「ジハード」の語 かたり には異教徒 いきょうと に武力 ぶりょく によって改宗 かいしゅう を迫 せま る行為 こうい (いわゆる「コーランか剣 けん か 」、「右手 みぎて にコーラン、左手 ひだりて に剣 けん 」)のイメージが付 つ きまとう。これは「聖戦 せいせん 」という訳語 やくご からの影響 えいきょう も大 おお きい。しかし、少 すく なくとも正確 せいかく には「コーランか貢 みつ ぎ物 もの か剣 けん か」であり、強制 きょうせい 改宗 かいしゅう を含意 がんい する「コーランか剣 けん か」は反 はん イスラーム主義 しゅぎ によるプロパガンダ の性格 せいかく が強 つよ く、誤解 ごかい をまねく表現 ひょうげん である。『クルアーン』では改宗 かいしゅう の強制 きょうせい は否定 ひてい されており、また、上述 じょうじゅつ したように「ジハード」には「聖戦 せいせん 」以外 いがい の意味 いみ もある。
反 はん イスラーム主義 しゅぎ 者 しゃ は、しばしばムスリムに対 たい し、ムスリムはタリバーンのアフガニスタン におけるバーミヤーン大仏 だいぶつ 爆破 ばくは にみられるように、攻撃 こうげき してもいない仏教徒 ぶっきょうと の信仰 しんこう 対象 たいしょう を勝手 かって に破壊 はかい することをジハードとして正当 せいとう 化 か していながら、自分 じぶん たちのモスク などが攻撃 こうげき を受 う けた場合 ばあい はただちに武力 ぶりょく 闘争 とうそう を開始 かいし し、その闘争 とうそう を他 た 宗教 しゅうきょう からの弾圧 だんあつ に対 たい する抵抗 ていこう 、すなわちジハードとして規定 きてい する傾向 けいこう にあると批判 ひはん する。これは、「ジハード」の語 かたり を二 に 重 じゅう 基準 きじゅん で用 もち いることに対 たい する批判 ひはん である。ただし、一方 いっぽう では、こうした意見 いけん はムスリム全体 ぜんたい とムスリムのなかの一 いち 勢力 せいりょく とを混同 こんどう した結果 けっか であるとの見方 みかた もある。
しかしながら、2001年 ねん のウサマ・ビンラーディンによるアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ や、2003年 ねん のイラク戦争 せんそう におけるサッダーム・フセインによる「ジハード宣言 せんげん 」は、改 あらた めて「イスラームは好戦 こうせん 的 てき 」「ムスリムは過激 かげき で暴力 ぼうりょく 的 てき 」というネガティブイメージを、日本 にっぽん を含 ふく む国際 こくさい 社会 しゃかい に流布 るふ させる原因 げんいん となっている。
トヨタ自動車 とよたじどうしゃ のピックアップトラック が、過激 かげき 派 は 組織 そしき ISIL に利用 りよう されている現状 げんじょう に、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ 系 けい 保守 ほしゅ 報道 ほうどう 機関 きかん 「ザ・ブレイズ」が、パロディ広告 こうこく の謳 うた い文句 もんく (バクロニム )として「Toyota ISIS: We’re good for jihad ! (トヨタ・アイシス :ジハードに相応 ふさわ しい車 くるま だ!)」とブラックジョーク にして、Twitter に投稿 とうこう された[24] 。
また、自 みずか らの宗教 しゅうきょう 的 てき 思想 しそう と相反 あいはん するものに対 たい して殺人 さつじん やテロさえも正当 せいとう 化 か する言葉 ことば であることからキリスト教 きりすときょう における聖 せい 絶 ぜっ やオウム真理教 おうむしんりきょう のポア 、連合赤軍 れんごうせきぐん における総括 そうかつ などと同一 どういつ 視 し するものもいる。
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ 「聖戦 せいせん 」に相当 そうとう する用法 ようほう としては、『クルアーン』第 だい 9章 しょう 第 だい 81節 せつ に「居残 いのこ り組 ぐみ の者 もの どもは、アッラーの使徒 しと が(出征 しゅっせい した)後 ご に残 のこ されて大 だい 喜 よろこ び。もともと、彼 かれ らとしては、己 おのれ が財産 ざいさん と生命 せいめい を擲 なげう ってアッラーの道 みち に闘 たたか うのは嫌 いや だと思 おも っていた」の「闘 たたか う」の部分 ぶぶん にジハードの動詞 どうし 形 がた の三人称 さんにんしょう 複数 ふくすう 活用 かつよう 形 がた “yujāhidū "が用 もち いられている。
^ ムハンマドは「ジハードをし、開放 かいほう せよ。断食 だんじき し、健康 けんこう を得 え よ。旅 たび に出 で て儲 もう けよ」と述 の べている。アラブ・イスラーム学院 がくいん 「ラマダーンQ&A 」
^ 「しかしもし向 む こうが止 と めたなら、(汝 なんじ 等 とう も)害 がい 意 い を捨 す てねばならぬぞ、悪心 あくしん 抜 ぬ き難 がた き者 もの どもだけは別 べつ として」
^ ただし、現実 げんじつ のイスラーム社会 しゃかい では、一回 いっかい の休戦 きゅうせん 協定 きょうてい は10年 ねん 以上 いじょう の効力 こうりょく を有 ゆう さないと考 かんが える法学 ほうがく 者 しゃ が多数 たすう 派 は を占 し め、もし、その地 ち に恒久 こうきゅう 的 てき 和平 わへい を確立 かくりつ していこうとするならば、条約 じょうやく の適宜 てきぎ 更新 こうしん が必要 ひつよう である。
^ 『クルアーン』第 だい 9章 しょう 第 だい 5節 せつ には「だが、(4か月 げつ の)神 かみ 聖月 みづき があけたなら、多神教 たしんきょう 徒 と は見 み つけ次第 しだい 、殺 ころ してしまうが良 よ い。ひっ捉 とら え、追 お い込 こ み、いたるところに伏兵 ふくへい を置 お いて待 ま ち伏 ぶ せよ。しかし、もし彼等 かれら が改悛 かいしゅん し、礼拝 れいはい の務 つと めを果 は たし、喜捨 きしゃ も喜 よろこ んで出 だ すようなら、その時 とき は遁がしてやるがよい」という文言 もんごん 、また第 だい 9章 しょう 29節 せつ に「アッラーも、終末 しゅうまつ の日 ひ をも信 しん じない者 もの たちと戦 たたか え。またアッラーと使徒 しと から、禁 きん じられたことを守 まも らず、啓 けい 典 てん を受 う けていながら真理 しんり の教 おし えを認 みと めない者 もの たちには、かれらが進 すす んで税 ぜい (ジズヤ )を納 おさ め、屈服 くっぷく するまで戦 たたか え」という文言 もんごん があるように、当初 とうしょ 、ムスリムとの戦 たたか いに敗 やぶ れた多神教 たしんきょう の信者 しんじゃ は死 し か、改宗 かいしゅう か、もしくは貢 みつぎ 税 ぜい を求 もと められた。それに対 たい し、「啓 けい 典 てん の民 みん 」は服従 ふくじゅう と納税 のうぜい が強制 きょうせい された。また、「啓 けい 典 てん の民 みん 」はのちに拡大 かくだい 解釈 かいしゃく が行 おこな われ、特 とく にペルシャ や南 みなみ アジアの諸 しょ 地域 ちいき では、ゾロアスター教 きょう やヒンドゥー教 きょう 、仏教 ぶっきょう を奉 ほう じる人 ひと びとまで一神教 いっしんきょう を奉 ほう じる民 みん と同様 どうよう に扱 あつか われるようになった。
^ 『クルアーン』第 だい 8章 しょう 15節 せつ 「信仰 しんこう する者 もの よ、あなたがたが不信 ふしん 者 しゃ の進撃 しんげき に会 あ う時 とき は、決 けっ してかれらに背 せ を向 む けてはならない」、および16節 せつ 、「その日 ひ かれらに背 せ を向 む ける者 もの は、作戦 さくせん 上 じょう または(味方 みかた の)軍 ぐん に合流 ごうりゅう するための外 そと 、必 かなら ずアッラーの怒 いか りを被 こうむ り、その住 す まいは地獄 じごく である。何 なん と悪 わる い帰 かえ り所 しょ であることよ」。
^ ジハードにおける献身 けんしん をたたえ、その忌避 きひ を戒 いまし める『クルアーン』の章句 しょうく は、第 だい 47章 しょう 4節 せつ 「あなたがたが不信心 ふしんじん な者 もの と(戦場 せんじょう で)見 み える時 とき は、(かれらの)首 くび を打 う ち切 き れ。かれらの多 おお くを殺 ころ すまで(戦 たたか い)、(捕虜 ほりょ には)縄 なわ をしっかりかけなさい。その後 ご は戦 たたか いが終 おわ るまで情 なさ けを施 ほどこ して放 はな すか、または身代金 みのしろきん を取 と るなりせよ。もしアッラーが御 ご 望 のぞ みなら、きっと(御 ご 自分 じぶん で)かれらに報復 ほうふく されよう。だがかれは、あなたがたを互 たが いに試 こころ みるために(戦 たたか いを命 めい じられる)。およそアッラーの道 みち のために戦死 せんし した者 もの には、決 けっ してその行 おこな いを虚 むな しいものになされない」、および第 だい 48章 しょう 16節 せつ 「あと居残 いのこ った砂漠 さばく のアラブたちに言 い ってやるがいい。『今 いま にあなたがたは、強大 きょうだい な勇武 ゆうぶ の民 みん に対 たい して(戦 たたか うために)召集 しょうしゅう されよう。あなたがたが戦 たたか い抜 ぬ くのか、またはかれらが服従 ふくじゅう するかのいずれかである。だがこの命令 めいれい に従 したが えば、アッラーは見事 みごと な報奨 ほうしょう をあなたがたに与 あた えよう。だがもし以前 いぜん 背 そむ いたように背 そむ き去 さ るならば、かれは痛 いた ましい懲罰 ちょうばつ であなたがたを処罰 しょばつ されよう』」などもある。
^ 『クルアーン』第 だい 56章 しょう 10節 せつ から24節 せつ 「(信仰 しんこう の)先頭 せんとう に立 た つ者 もの は、(楽園 らくえん においても)先頭 せんとう に立 た ち、これらの者 もの (先頭 せんとう に立 た つ者 もの )は、(アッラーの)側近 そっきん にはべり、至福 しふく の楽園 らくえん の中 なか に(住 す む)。昔 むかし からの者 もの が多数 たすう で、後世 こうせい の者 もの は僅 わず かである。(かれらは錦 にしき の織物 おりもの を)敷 し いた寝床 ねどこ の上 うえ に、向 むか い合 あ ってそれに寄 よ り掛 か かる。永遠 えいえん の(若 わか さを保 たも つ)少年 しょうねん たちがかれらの間 あいだ を巡 めぐ り、(手 て に手 て に)高坏 たかつき や(輝 かがや く)水差 みずさ し、汲立 くみたて の飲物 のみもの 盃 さかずき (を捧 ささ げる)。かれらは、それで後 ご の障 さわ を残 のこ さず、泥酔 でいすい することもない。また果実 かじつ は、かれらの選 えら ぶに任 まか せ、種々 しゅじゅ の鳥 とり の肉 にく は、かれらの好 この みのまま。大 おお きい輝 かがや くまなざしの、美 うつく しい乙女 おとめ は、丁度 ちょうど 秘蔵 ひぞう の真珠 しんじゅ のよう。(これらは)かれらの行 おこな いに対 たい する報奨 ほうしょう である」および56章 しょう 27節 せつ から40節 せつ 「右手 みぎて の仲間 なかま 、右手 みぎて の仲間 なかま とは何 なに であろう。(かれらは)刺 とげ のないスィドラ の木 き 、累々 るいるい と実 みの るタルフ木 き (の中 なか に住 す み)、長 なが く伸 の びる木陰 こかげ の、絶 た え間 ま なく流 なが れる水 みず の間 あいだ で、豊 ゆた かな果物 くだもの が絶 た えることなく、禁 きん じられることもなく(取 と り放題 ほうだい )。高 たか く上 あ げられた(位階 いかい の)臥所 ふしど に(着 つ く)。本当 ほんとう にわれは、かれら(の配偶 はいぐう として乙女 おとめ )を特別 とくべつ に創 つく り、かの女 おんな らを(永遠 えいえん に汚 よご れない)処女 しょじょ にした。愛 いと しい、同 おな じ年配 ねんぱい の者 もの 。(これらは)右手 みぎて の仲間 なかま のためである。昔 むかし の者 もの が大勢 おおぜい いるが、後世 こうせい の者 もの も多 おお い」。先頭 せんとう のものとは最良 さいりょう のムスリム、右手 みぎて の者 もの とは一般 いっぱん のムスリムのことである。
^ 報道 ほうどう によれば、少年 しょうねん を勧誘 かんゆう するに当 あ たり、「殉教 じゅんきょう すれば天国 てんごく で72人 にん の処女 しょじょ とセックスができる」と説 と いていた。[1] 朝日新聞 あさひしんぶん 「14歳 さい が自爆 じばく テロ未遂 みすい 、報酬 ほうしゅう 2400円 えん パレスチナ」
参照 さんしょう
クルアーンの原典 げんてん への参照 さんしょう
^ 第 だい 49章 しょう 15節 せつ “部屋 へや ”. 2017年 ねん 5月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 第 だい 2章 しょう 193節 せつ “雌牛 めうし ”. 2017年 ねん 5月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 第 だい 2章 しょう 190節 せつ “雌牛 めうし ”. 2020年 ねん 9月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
出典 しゅってん
参考 さんこう 文献 ぶんけん
後藤 ごとう 明 あきら ・飯塚 いいづか 正人 まさと 「ジハード」『新 しん イスラム事典 じてん 』平凡社 へいぼんしゃ 、2002年 ねん
鈴木 すずき 董 ただし 『イスラムの家 いえ からバベル ばべる の塔 とう へ オスマン帝国 ていこく における諸 しょ 民族 みんぞく の統合 とうごう と共存 きょうぞん 』リブロポート、1993年 ねん
横田 よこた 貴之 たかゆき 「ジハード」『岩波 いわなみ イスラーム辞典 じてん 』岩波書店 いわなみしょてん 、2002年 ねん
池内 いけうち 恵 めぐみ 『アラブ政治 せいじ の今 いま を読 よ む』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2004年 ねん ISBN 4120034917
三田 みた 了一 りょういち 『日 にち 亜 あ 対訳 たいやく 注解 ちゅうかい 聖 せい クルアーン』
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