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ウマル・イブン・ハッターブ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウマル・イブン・ハッターブعمر بن الخطابʿUmar ibn al-Khattāb592ねん? - 644ねん11月3にち)は、初期しょきイスラーム共同きょうどうたいウンマ)の指導しどうしゃのひとりで、だい2だい正統せいとうカリフ634ねん - 644ねん)。

発音はつおん表記ひょうき

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アラビアでの実際じっさい発音はつおん:ウマル・ブヌ・ル=ハッターブ

かちきの場合ばあい発音はつおん:ウマル・イブン・アル=ハッターブ

日本にっぽんではアラブ人名じんめい定冠詞ていかんしアルを除去じょきょしてカタカナ表記ひょうきする慣習かんしゅうがあるため、本来ほんらいのウマル・イブン・アル=ハッターブではなくウマル・イブン・ハッターブとかれていることが一般いっぱんてきである。

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アラビア半島はんとう西部せいぶ都市としマッカ(メッカ)にアラブじんクライシュぞくぞくするアディー出身しゅっしんで、わかころ武勇ぶゆうすぐれた勇士ゆうしとしてられていた。610ねんごろ、クライシュぞくとお親族しんぞくであるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフイスラームきょうひらくと、ウマルはクライシュぞく伝統でんとうてき信仰しんこうまも立場たちばからその布教ふきょう活動かつどう迫害はくがいするがわまわった。つたえられるところによれば、血気けっきさかんな若者わかものであったウマルはあるいかりにまかせてムハンマドをころそうとかけたが、そのみちすがら自身じしんいもうといもうと婿むこがイスラームに改宗かいしゅうしたとき、激怒げきどしてさきえ、いもうといえんで散々さんざん二人ふたりちすえた。しかし、ウマルはあにまえいもうととなえたクルアーン(コーラン)の章句しょうくしんうごかされて改悛かいしゅんし、いもうとゆるしてみずからもイスラームに帰依きえした。ウマルがムスリム(イスラーム教徒きょうと)となると、クライシュぞく人々ひとびとはウマルの武勇ぶゆうこわれてムハンマドにたいする迫害はくがいよわめ、またマッカで人望じんぼうのあるウマル一家いっか支援しえんはマッカにおいて最初さいしょ布教ふきょう活動かつどうおこなっていたムハンマドにとっておおいにたすけとなったといわれている。

622ねんにムハンマドらムスリムがマッカを脱出だっしゅつし、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住いじゅうするヒジュラせい遷)を実行じっこうしたのちは、マディーナで樹立じゅりつされたイスラーム共同きょうどうたい有力ゆうりょくしゃのひとりとなり、イスラーム共同きょうどうたいとマッカのクライシュぞくあいだおこなわれたすべてのたたかいに参加さんかした。また、おっと先立さきだたれていたウマルのむすめハフサはムハンマドの4番目ばんめつまとなっており、ムハンマドの盟友めいゆうとしてウマルは重要じゅうよう立場たちばにあったことがうかがえる。

ムハンマドのから

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632ねんにムハンマドが死去しきょすると、マディーナではマッカ以来いらい古参こさんのムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降いこう新参しんざんのムスリム(アンサール)のあいだ後継こうけい指導しどうしゃ地位ちいめぐ反目はんもく表面ひょうめんしたが、ウマルは即座そくざにムハンマドのふるくからの友人ゆうじんでムハージルーンのさい有力ゆうりょくしゃであったアブー・バクル後継こうけい指導しどうしゃ推戴すいたいして反目はんもく収拾しゅうしゅうし、マッカのクライシュぞく出身しゅっしん有力ゆうりょくしゃが「かみ使徒しと代理人だいりにん」を意味いみするハリーファ(カリフ)の地位ちいびてイスラーム共同きょうどうたい指導しどうする慣行かんこうのきっかけをつくった。アブー・バクルが2ねん634ねん死去しきょするとその後継こうけいしゃ指名しめいされ、だい2代目だいめのカリフとなる。

2代目だいめカリフとして

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ウマルは当初とうしょかみ使徒しと代理人だいりにん代理人だいりにん」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー خليفة خليفة رسول اللّهkhalīfa khalīfa Rasūl Allāh )を名乗なの一方いっぽう後世こうせいカリフの一般いっぱんてき称号しょうごうとして定着ていちゃくする「信徒しんとたちの指揮しきかん」(アミール・アル=ムウミニーン امير المؤمنينamīr al-mu'minīn )の名乗なのりを採用さいようした。また、ヒジュラのあったとし紀元きげん1ねんとする現在げんざいイスラームれきのヒジュラ紀元きげんさだめ、クルアーンとムハンマドの言行げんこうもとづいたほう解釈かいしゃく整備せいびして、時代じだいにイスラームほうシャリーア)にまとめられるほう制度せいど準備じゅんびした 。伝承でんしょうによると、「信徒しんと指揮しきかん」という称号しょうごうは、かれ治世ちせい時代じだいきょうとものひとりがたまたまくちにした言葉ことばをウマルが非常ひじょうこのましい名称めいしょうおもい、採用さいようしたとつたえられる。かれをこのようにんだ最初さいしょ人物じんぶつ預言よげんしゃムハンマドの従兄弟いとこのアブドゥッラー・ブンジャフシュとも、アブー・バクルとおなじタイム重鎮じゅうちんムギーラ・イブン・シュウバとも、アムル・イブン・アル=アースともわれている。

ウマル時代じだいのイスラーム共同きょうどうたい最大さいだい領域りょういき(644ねん、ウマルぼつ

政治せいじめんでは、アブー・バクルの時代じだい達成たっせいされたアラビア半島はんとうのアラブの統一とういつ背景はいけいに、シリアイラクエジプトなど多方面たほうめん遠征えんせいぐんおくしてアラブのだい征服せいふく指導しどうした。当時とうじこの地方ちほうではひがしのサーサーンあさ西にしひがしマ帝国まていこくとがはげしく対立たいりつしていたが、長期ちょうきにわたるたたかいによって両国りょうこくともに疲弊ひへいしており、イスラム帝国ていこくはそのすきをついて急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいしつつあった。すでにアブー・バクルまつの633ねんにはメソポタミア地方ちほうへいし、フィラズのたたかいにおいてサーサーンあさ痛撃つうげきあたえていた。このような情勢じょうせい、イスラームぐんは635ねん9がつにはひがしローマりょうだったダマスカス占領せんりょうし、さらに636ねん8がつ20日はつかにはひがしローマの援軍えんぐんハーリド・イブン・アル=ワリード指揮しきもとヤルムークのたたか撃破げきはし、シリアでひがしローマとサーサーンあさ連合れんごうぐんをもやぶり、シリアを制覇せいはした 。636ねん11月にはカーディシーヤのたたかによってふたたびサーサーンあさ撃破げきはし、637ねん7がつにはサーサーンあさ首都しゅとクテシフォン占領せんりょう639ねんにはアムル・イブン・アル=アースめいじてひがしローマりょうエジプト侵攻しんこうし、642ねんにはアレキサンドリア陥落かんらくさせてエジプトを完全かんぜん自国じこくりょうとした[1]642ねんにはイランすすんだムスリムぐんニハーヴァンドのたたか勝利しょうりし、ヤズデギルド3せいひきいるサーサーンあさ壊滅かいめつ状態じょうたいんだ。644ねんにはキレナイカまで進撃しんげきし、ここをイスラームりょうとしている。

征服せいふくした土地とちでは、アラブじんムスリム優越ゆうえつのもとでムスリムを支配しはいするためにかれらからハラージュ地租ちそ)・ジズヤ改宗かいしゅうしゃせられるぜい)を徴収ちょうしゅうする制度せいど考案こうあんされ、かく征服せいふくにはアーミル徴税ちょうぜいかん)が派遣はけんされる一方いっぽう軍事ぐんじてきおさえとしてアミール総督そうとく)を指揮しきかんとするアラブじん駐留ちゅうりゅうする軍営ぐんえい都市としミスル)を建設けんせつされた。ウマルの時期じき建設けんせつされたミスルとしては、イラク南部なんぶバスラ(638ねん)やクーファ(639ねん)、エジプトのフスタートげんカイロ南部なんぶ642ねん)などがある。ウマルはミスルをつうじてめぐらされた軍事ぐんじ徴税ちょうぜい機構きこうかすための財政ざいせい文書ぶんしょ行政ぎょうせい機構きこうとしてディーワーン行政ぎょうせい官庁かんちょう)をき、ここをつうじて徴税ちょうぜい機構きこうからあつめられたぜいアター俸給ほうきゅう)としてイスラーム共同きょうどうたい有力ゆうりょくしゃやアラブの戦士せんしたちに支給しきゅうする中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか体制たいせいきずき、歴史れきしによって「アラブ帝国ていこく」とばれている、アラブじん主体しゅたいイスラーム国家こっか初期しょき国家こっか体制たいせい確立かくりつした。

638ねんには首都しゅとのマディーナをはなれてみずからシリアにおもむき、前線ぜんせん征服せいふく指揮しきをとった。おなねん、ウマルはムスリムによって征服せいふくされたエルサレムはいり、エルサレムがイスラム共同きょうどうたい支配しはいはいったことを宣言せんげんするとともに、キリスト教きりすときょうエルサレムそう主教しゅきょうソフロニオス会談かいだんして、聖地せいちにおけるキリスト教徒きりすときょうと庇護ひごみんズィンミー)とし、彼等かれらがイスラームの絶対ぜったいてき優越ゆうえつ屈服くっぷくジズヤ支払しはらかぎりにいて一定いってい程度ていど権利けんり保障ほしょうすることを約束やくそくした。(ウマル憲章けんしょう)また、このときにユダヤ教徒きょうとにも庇護ひごみん地位ちいあたえられ、このときからエルサレムにおいてイスラム教いすらむきょう、キリストきょうユダヤきょうの3つの宗教しゅうきょう共存きょうぞんするようになった[2] 。このとき、エルサレムの神殿しんでんおかったウマルは、かつて生前せいぜんのムハンマドが一夜いちやにしてマッカからエルサレムにたびし、エルサレムからてんへとのぼ奇跡きせき体験たいけんしたとき、ムハンマドが昇天しょうてん出発しゅっぱつてんとしたせいなるいわ発見はっけんし、そのかたわらで礼拝れいはいおこなって、エルサレムにおいてムスリムが神殿しんでんおか礼拝れいはいする慣行かんこうをつくったとされる。この伝承でんしょうしたがい、ウマイヤあさ時代じだいにこのいわおおうようにきずかれたいわのドームは、通称つうしょうウマル・モスクとばれる。またウマルはソフロニオスからかみへのいのりをともにするようさそわれたが、ムスリムとして先例せんれいのこことこのまずそれをことわったとされている。

ジハード、

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マディーナの預言よげんしゃのモスクにあるウマルのはか

644ねん11月、ウマルはマディーナのモスク礼拝れいはいをしている最中さいちゅうに、個人こじんてきうらみをもったユダヤじんないしペルシアじん奴隷どれいによって刺殺しさつされた。この奴隷どれいはウマルの奴隷どれいではなく、きょうとものひとりでウマルによってバスラクーファ長官ちょうかんとなっていたアル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷どれいグラーム)のアブー・ルウルウであった。殺害さつがい動機どうきはウマルがハラージュぜいさだめたときかれ主人しゅじんにも課税かぜいされたためこれをうらんだからであったという。ウマルはこのとき6ケ所かしょされる重傷じゅうしょうい、3にち非業ひごうげた。ウマルはマディーナにある預言よげんしゃのモスクほうむられた。

伝承でんしょうによると、アブー・ルウルウはかれ自身じしんそのさえられて報復ほうふくとして殺害さつがいされているが、このときかれはモスクないってきた人々ひとびとをさらに11にんしており、うち9めい死亡しぼうするというだい惨事さんじとなった。ウマルはされたのち直前ちょくぜん後継こうけいのカリフをえらぶための、ウスマーンアリー、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・イブン・アル=アッワーム、アブドゥッ=ラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビーワッカースの6にんからなる有力ゆうりょくしゃ会議かいぎ(シューラー)のメンバーを後継こうけい候補こうほとして指名しめいし、さらにアンサールのアブー・タルハ・ザイド・イブン・サフルにめいじてのアンサールから50にんおとこえらんで、かれらの6にんからいちにんえらぶようにもめいじた。このような経過けいかすえウマルののち互選ごせんによってウスマーン・イブン・アッファーンだい3だいカリフに選出せんしゅつされた。

スンナ、シーア評価ひょうか

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スンナでは、ウマルは理想りそうてき政治せいじおこなった指導しどうしゃとして非常ひじょう尊敬そんけいされている。もともと迫害はくがいがわ有力ゆうりょくしゃであったウマルの改宗かいしゅうは、ヒジュラまえ初期しょきのイスラーム共同きょうどうたいにとっておおきな転機てんきとなったので、ウマルはムスリムからは「ファールーク」 al-Fārūq الفاروق‎ (「真偽しんぎかつもの」)とばれる。しかし、ムハンマドのむすめ婿むこでありだい4だいカリフであるアリーのみが正統せいとうなムハンマドの後継こうけいしゃであると主張しゅちょうするシーアにおいては、アブー・バクルとともにアリーが継承けいしょうすべき指導しどうしゃ地位ちい簒奪さんだつしたとみなされ、呪詛じゅそ対象たいしょうとなることもある[注釈ちゅうしゃく 1]。なお、ウマルはカリフとしてウマル1せいばれることもあるが、これはウマイヤあさだい8だいカリフ、ウマル・イブン・アブドゥルアズィーズ(ウマル2せい)と区別くべつするためである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これについて、スンナのハディースしゅうである『真正しんせいしゅう』(ブハーリー編纂へんさん)の「預言よげんしゃきょう友達ともだち美点びてんしょ」の7しょう4せつにおいて、イブン・ウマルからのつてとして「預言よげんしゃ時代じだいもっとすぐれたきょうともはアブー・バクル、つぎはウマル、つぎはウスマーンであり、そのについては区別くべつてしない。」というものがあり、スンナのカリフ継承けいしょうじゅん正当せいとうなものであったと主張しゅちょうしている

出典しゅってん

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  1. ^ 佐藤さとうつぎだかへん新版しんぱん世界せかい各国かっこく8 西にしアジアI』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2002ねん3がつ p.144-145
  2. ^ 小杉こすぎやすし興亡こうぼう世界せかい6 イスラーム帝国ていこくのジハード』(講談社こうだんしゃ、2006ねん11月17にちだい1さつ)p.158-159
先代せんだい
アブー・バクル
正統せいとうカリフ
634ねん - 644ねん
次代じだい
ウスマーン