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タウヒード - Wikipedia コンテンツにスキップ

タウヒード

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

タウヒードアラビア: توحيد‎、ラテン文字もじTawḥīd/Tawheed/Tauheedトルコ: Tevhid)とは、イスラームにおける一神教いっしんきょう概念がいねんである。イスラームにおいて、タウヒードはいち原理げんり意味いみすると同時どうじに、世界せかいかん存在そんざいろん、すなわち価値かちかん根本こんぽんである。

また、タウヒードろんにおいては、かみ唯一ゆいいつせいという言葉ことばで、和訳わやくされろんじられることもおおいが、かみ唯一ゆいいつせいという言葉ことばは、アラビアにおいて(ラテン文字もじ表記ひょうきをすると)waḥḥdat-Allah という明確めいかく表現ひょうげんがあるので、正確せいかく訳出やくしゅつとはいえないてん留意りゅういする必要ひつようがある[1]。したがって、この記事きじにおいては、かみ唯一ゆいいつせい起点きてんとしたうえで、そこで活用かつようされた〈いち原理げんり〉にのっとりながら、現実げんじつ解釈かいしゃくのための基本きほん原則げんそく提示ていじする内容ないよう描出びょうしゅつすることとなる。 タウヒードの反対はんたい概念がいねんは、シルクshirk多元たげんせい)である。

語源ごげん

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タウヒードという言葉ことばは、アラビア動詞どうしワハダ (waḥada) のだい2がたであり、〈いちす〉、〈いちす〉を意味いみするワッハダ (waḥḥada) という動詞どうしから派生はせいしたどう名詞めいしである。その原義げんぎは、〈いち〉、〈帰一きいつ〉を意味いみする[2]

定義ていぎ

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イスラームにおける唯一ゆいいつかみアッラー)の存在そんざい絶対ぜったいであるとし、キリスト教きりすときょう世界せかい信奉しんぽうされている三位一体さんみいったいせつ否定ひていする[注釈ちゅうしゃく 1]

クルアーンでの言及げんきゅう

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クルアーン(アル・クルアーン)において、タウヒードは随所ずいしょ言及げんきゅうされている。また、「アッラーのほかにかみく、ムハンマドはアッラーの使徒しとなり」という文節ぶんせつは、サラートとしてられる1にち5かい礼拝れいはいにおいて引用いんようされる。

シルク(多元たげんせい)の概念がいねん

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タウヒードの反意語はんいごは、シルクである。アラビアでは、分割ぶんかつ分離ぶんり意味いみする。

ムスリムの視点してん

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スンナ、シーアともに一致いっちしているのは、イスラームにおけるさい重要じゅうよう概念がいねんであるタウヒードがこの絶対ぜったい完全かんぜんなる創造そうぞうしゃれるということで展開てんかいされているということである。ムスリムは、「アッラーのほかにかみく、ムハンマドはアッラーの使徒しとなり」という信仰しんこう告白こくはくシャハーダ)をおおやけとなえることによってムスリムとなり、かつ、みずからの信仰しんこうえず、さい確認かくにんすることとなる。

スンナ視点してん

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スンナ人々ひとびとは、タウヒードをイスラームの教条きょうじょう(Aqidah)の7つの重要じゅうよう側面そくめんのひとつであるとなしている。

アシュアリー著名ちょめい学者がくしゃ一人ひとりである Fakhrud-Din Ibn Asakir は、みずからの著書ちょしょで、スンナ信条しんじょう記述きじゅつしている。

  • アッラーは人々ひとびとみちびき、唯一ゆいいつかみである。
  • アッラーはすべての世界せかい天界てんかい地上ちじょうかい)をつくりたもうた。
  • すべての創造そうぞうぶつは、アッラーのちからにより服従ふくじゅうされている。
  • アッラーは、人生じんせいする。睡魔すいまにとらわれることはい。
  • アッラーは、人間にんげん予見よけんできないことについてっているただ、ひとつの存在そんざいであり、全知全能ぜんちぜんのうである。
  • アッラーのおこなうことはすべかれ意志いしもとづく。
  • アッラーは報酬ほうしゅうのぞまず、つみおそれない。
  • アッラーは、創造そうぞうまえから存在そんざいした。過去かこ未来みらいというものをもたず、また、前後ぜんご左右さゆう上下じょうげといった概念がいねんにはそぐわない。というのも、アッラーはぜんだからである。
  • アッラーが、宇宙うちゅう森羅万象しんらばんしょう創造そうぞうし、時間じかん存在そんざいのぞんだ。アッラーは、時間じかん制限せいげんされるということはく、場所ばしょ明示めいじされる存在そんざいではない。

かみ不可視ふかしせい

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スンナのムスリムは、かみることはできないとしんじている。かりかみ姿すがたることができるのであれば、みずからの生涯しょうがいわりを意味いみする死後しごおとずれる最後さいご審判しんぱんのみであるとしんじている。

クルアーンの記述きじゅつ

その審判しんぱん)にはあかるくかがやかおまたかお、(さもうれしげに)あるじあお — だい75しょうだい22から23せつ[4]
いや、いや、あの審判しんぱん〕には、おもかおはいされまいぞ — だい83しょうだい15せつ[5]

ハディースの記述きじゅつ。アブー・フライラは、人々ひとびととムハンマドの対話たいわ以下いかのように記述きじゅつしている。

人々ひとびと)「われわれは、復活ふっかつかみることができるでしょうか?」
預言よげんしゃ)「あなたがたは、満月まんげつときに、つきることができないことでなに問題もんだいがありますか?」
人々ひとびと)「いいえ、そういうことはございませんが」
預言よげんしゃ)「それでは、くも何一なにひといときに、太陽たいようることができないことで、なに問題もんだいがありますか?」
人々ひとびと)「預言よげんしゃよ、それも問題もんだいはございません」
預言よげんしゃ)「ほんとうに、あなたかたかみようとすることは(あなたかた太陽たいようつきるような)ことですよ」

クルアーンとタウヒード

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スンナ人々ひとびとは、クルアーンは創造そうぞうされたものではなく、この視点してんは、十分じゅうぶんにタウヒードの概念がいねん互換ごかん可能かのうなものである。ハンバル学派がくはは、以下いか視点してん提示ていじする。

クルアーンにかれている言葉ことばおと永遠えいえんであり、それがゆえに、その物語ものがたり創造そうぞうされたものはい。そればかりではなく、羊皮紙ようひし写本しゃほん装丁そうていされた文書ぶんしょおなしつ共有きょうゆうしているのである

アブー・ハニーファは、以下いかのようにべる。

告白こくはくする。クルアーンはかみ言葉ことばであり、つくられたものではなく、かみ直感ちょっかん啓示けいじは、かれ本質ほんしつである。一方いっぽうで、インクやかみといったものはわれわれ人間にんげんつくしたものである

スンナ(サラフィー)の視点してん

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タウヒードは、3つの側面そくめんっている。

  • かみ唯一ゆいいつせいTawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「かみは、創造そうぞうしゃであり、創始そうししゃであり、設計せっけいしゃであり、すべてをやしなってくださるものであり、安寧あんねいあたえてくださるものであるという唯一ゆいいつかみであることをしんじる」ことである。

この信仰しんこうは、ヨーロッパにおけるカルヴァンや1600年代ねんだいニューイングランド移住いじゅうしたピューリタン信仰しんこうそうつうじるものがある。この信仰しんこうもとづくと、人々ひとびとは、かみ全面ぜんめんてき依存いぞんしている存在そんざいだとかんがえることになる。

タウヒードのこういった側面そくめんは、クルアーンに散見さんけんされる。以下いかは、そのいちれいである。

地上ちじょうを匍いまわ動物どうぶつにしても、全部ぜんぶアッラーのやしなたまうところ。何処どこみ、何処どこひそむかということまでご存知ぞんち。ことごとく明白めいはくけいてん万物ばんぶつ運命うんめい記載きさいしたてん書物しょもつ)に記録きろくされておる — だい11しょうだい6せつ[6]
アッラーこそは万物ばんぶつ創造そうぞうぬし。あらゆるものを世話せわたまう。てんすべてのかぎたまう。アッラーのおちょうをありがたいともおもわぬどもは、いまにかならそんをする — だい39しょうだい63せつ[7]
  • 唯一ゆいいつかみへの帰依きえTawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、かみ以外いがいのものはけっして、崇拝すうはい対象たいしょうとしてはならないということである。

タウヒードのこういった側面そくめんは、クルアーンに散見さんけんされる。以下いかは、そのいちれい(クルアーンだい59しょうだい22せつからだい24せつ[8])である。

「これぞこれ唯一ゆいいつ無二むにかみ、アッラー。える世界せかいも、えぬ世界せかいをもともに知悉ちしつたまう。おなさふかい、慈悲じひふかかみ
「これぞこれ唯一ゆいいつ無二むにかみ至高しこうおうせいなるかみかぎりなき平安へいあんかみ誠実せいじつ守護しゅごしゃ万物ばんぶつ保護ほごしゃ偉大いだいで、その権力けんりょくかぎりなく、尊厳そんげんこのうえもなきおかた。ああ勿体無もったいない、おそおおい、人々ひとびとがともにならべる(邪神じゃしんども)とは比較ひかくにならぬたかみにいますかみにおわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇ばんゆう創造そうぞうし、創始そうしし、形成けいせいするおかた。あらゆる最高さいこう美名びめい一身いっしんに、あつたまう。てんにあるもの、にあるもの、すべごえたからかに賛美さんびたてまつる。ああかぎりなく偉大いだいかぎりなくかしこかみよ」
  • 偶像ぐうぞう崇拝すうはい完全かんぜん否定ひていTawheed-al-Asma-Sifaat)とは、かみ不可視ふかしせいとイスラーム以前いぜんカアバすうおおくのかみ神像しんぞうとしてまつられていたことからその信仰しんこう否定ひていするかんがえである。

タウヒードのこういった側面そくめんは、クルアーンに散見さんけんされる。以下いかは、そのいちれいである。

みなさん、自分じぶんきざんだ偶像ぐうぞうおがんでなんとなさる — だい37しょうだい95せつ、 p.41
ってやるがよい、「てんをすべおさめるものはだれか。」ってやるがよい、「アッラーだ」と。ってやるがよい、「それなのに、おまえたち、(アッラー)をいて、の(偶像ぐうぞう)どもをかみあおぐことにしたのか。自分じぶん自身じしんたいしてすらくすることもわるくすることもできないようなものどもを — だい13しょうだい16せつ[9]

ムスリムの人々ひとびとサラフィー[10])にとって、以下いかのような行動こうどうは、シルクとなされるのである。

  • スーフィー信仰しんこう - 早期そうきのムスリムやスーフィーとばれる聖者せいじゃ墓所はかしょ巡礼じゅんれいおこなったりすること。
  • からのがれるための礼拝れいはい

クルアーンを逐語ちくごてき解釈かいしゃくするのであれば、イブン・タイミーヤくように、かみは、からだかく部分ぶぶんたず、しかし、クルアーンやハディースに記述きじゅつがある「」、「」、「かお」といった属性ぞくせいっている。しかし、それぞれは、人間にんげんっているような形状けいじょうをしてはいない。そして、サラフィーは、かみ天上てんじょうかいんでいるとしんじているのである。

シーア視点してん

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シーアにおいても、タウヒードは絶対ぜったいなものである。

かみ属性ぞくせい

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シーアは、かみることができるとはしんじていない。また、アッラーはどんなかたちであれ、からだっているというかんがえも拒否きょひしている。

クルアーンのいくらかの一節いっせつでは、アッラーのからだについての記述きじゅつ見受みうけられる。たとえば、「アッラーとべてかみおがんではならぬ。もともとほかにかみい。すべてのものほろり、ただ(ほろびぬは)その尊顔そんがん(アッラー自身じしんということ)のみ。一切いっさい摂理せつりはそのにあり、おまえたちもいずれはおそばもどされていく[11]」という一節いっせつである(だい28しょうだい88せつ)。シーア解釈かいしゃくは、「アッラーをのぞいて」というかたちになる。シーア論議ろんぎでは、このふし文字通もじどお解釈かいしゃくしてはならないのである。

また、シーアあいだ議論ぎろんになるてんは、かみは、っているというクルアーンの随所ずいしょ記述きじゅつがあるてんである。そのことは、かみちから、あるいは慈悲じひ意味いみするとかれらは解釈かいしゃくしている。たとえば、「アッラーのくさりしばられている(だい5しょうだい64せつ[12]」という文章ぶんしょうはじまる一節いっせつである。しかし、シーア人々ひとびとはこの文章ぶんしょうつづく「アッラーのひろがっている」という文章ぶんしょう引用いんようすることで、このふし寓話ぐうわせいく。

かみ属性ぞくせいのリスト

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かみは、以下いかのような積極せっきょくてき属性ぞくせいつとしんじられている。

  1. カディーム(Qadím) - アッラーは永遠えいえんである。はじまり、そしてわりはい。
  2. カディール(Qadir) - アッラーは、全能ぜんのうである。アッラーのちからは、すべてのものにおよぼす。
  3. アリーム('Alim) - アッラーは全知ぜんちである。すべてのことをっている。
  4. ハイ(Hai) - アッラーはきている。それも永遠えいえんに。
  5. ムリド(Muríd) - アッラーは、すべての事象じしょうたいして慎重しんちょうである。混乱こんらんすることはい。
  6. ムドゥリク(Mudrik) - アッラーはすべてをれてくる。すべてを見聞けんぶんする。あらゆる場所ばしょ存在そんざいしている。ただし、みみとおして、見聞けんぶんしているわけではない。
  7. ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界せかい創造そうぞうぬしである。アッラーは、言葉ことばつくった。
  8. サディーク(Sadiq) - アッラーは真実しんじつである。

また、消極しょうきょくてき属性ぞくせいつ。

  1. シャリク(Sharík) - アッラーはつまたない。
  2. ムラカブ(Murakab) - アッラーはつくられたものではなく、物質ぶっしつてきなものでもない。
  3. マカン(Makán) - アッラーは、どんな場所ばしょからだ制限せいげんされない。
  4. フルル(Hulúl) - アッラーはからだたない。
  5. マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化へんかしない。
  6. マリ(Marí) - アッラーはることができない。なぜならば、からだたないからである。
  7. イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立どくりつした存在そんざいである。アッラーは、えていない。というのもアッラーは、どんなものもっていないからである。
  8. シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限せいげんけない。

クルアーンとタウヒード

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シーア人々ひとびとは、かみが「かみ永遠えいえんでない行動こうどうひとつ」としてクルアーンをつく人々ひとびとおくったものと認識にんしきしているので、したがって、シーア信仰しんこうは、スンナとは対照たいしょうをなし、クルアーンは、創造そうぞうぶつであるということになる。シーア人々ひとびとは、ムハンマドの「かみ存在そんざいした(そのときには時間じかん概念がいねんがあった)、したがって、かみのそばにはなにもない」というハディースを引用いんようする。

たとえ、そうであったとしても、シーア人々ひとびとは、クルアーンは完全かんぜんなものであるとしんじているのである。

ムスリムによるそれぞれのタウヒードろんへの批判ひはん

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スンナへの批判ひはん

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シーア人々ひとびとは、スンナ信仰しんこうは、真実しんじつからの逸脱いつだつなしている。しかしながら、シーア人々ひとびとは、スンナの人々ひとびと多神教たしんきょうとはろんじていないてん誤解ごかいしてはならない。

属性ぞくせいろんへの批判ひはん

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シーア人々ひとびと批判ひはんは、スンナ人々ひとびとが、胴体どうたいかおゆびあしといったからだ一部分いちぶぶんっているという記述きじゅつがなされたハディースを真正しんせいのハディースとなしているからである。

「クルアーンはつくられたものではない」という理論りろんへの批判ひはん

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スンナ人々ひとびとが、クルアーンはかみ言葉ことばひとによってつくられたものではないとしんじている一方いっぽうで、シーア視点してんでは、クルアーンはいいかえればシルクのあらわれであると主張しゅちょうする。

シーアへの批判ひはん

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アリーの神格しんかくへの批判ひはん

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シーア視点してんが、アリー神格しんかくすることでタウヒードを否定ひていしているのではないかというかんがえもある。たしかに、シーアいち分派ぶんぱであるアラウィーのアリーがかみ化身けしんであるという信仰しんこうもある。

タワッスル

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サラフィーは、シーアおよびスンナ人々ひとびと様々さまざま方法ほうほうでタウヒードを否定ひていしていると主張しゅちょうする。たとえば、アラビアでタワッスルとばれるアリーへの崇敬すうけいねんとなえるいのりをおこなうシーア伝統でんとうてきなスンナ人々ひとびとは、かみろんしゃであるという主張しゅちょうである。

スンナ(サラフィー)への批判ひはん

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とくに、シーア人々ひとびとが、サラフィーをイスラームのおおくの部分ぶぶん放棄ほうきしたと告発こくはつしている。たとえば、シーア人々ひとびとは、マウリドという言葉ことば盛大せいだい祝祭しゅくさいもちいている。シーア人々ひとびとは、サラフィーがムハンマドが過度かど神格しんかくされることをおそれるだけでなく、ムハンマドとの紐帯ちゅうたいをもっていたいと人々ひとびとねがっていることをうばっていると批判ひはんする。

サラフィーは、ムハンマドが自分じぶん誕生たんじょういわったことはなく、同様どうように、サハーバも、ムハンマドの誕生たんじょういわったことはないと主張しゅちょうしている。そして、預言よげんしゃ誕生たんじょういわうことを禁止きんしビドア)にすべきだと結論けつろんけている。

現実げんじつ解釈かいしゃくにおける3つの原則げんそく

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ただ、タウヒードをろんじるうえ重要じゅうようなのは、かみ唯一ゆいいつせいというイスラーム世界せかいろんじられた「アッラー」の属性ぞくせいろんじることではなく、アッラーが唯一ゆいいつであることを前提ぜんていとしたうえで、現実げんじつにどのように解釈かいしゃくをするかということである。タウヒードは、イスラーム世界せかい様々さまざま法理ほうりろん神学しんがく哲学てつがく政治せいじがく経済けいざいがくなどの基礎きそとなる。

ここでは、タウヒードの等位とういせい差異さいせい関係かんけいせいの3つの性格せいかくろんじる。

等位とういせい

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ユダヤきょうとの比較ひかく

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ユダヤきょう場合ばあいかみ啓示けいじヘブライじん限定げんていされる(選民せんみん思想しそう)。黒田くろだは、スピノザ聖書せいしょ解釈かいしゃくによる『神学しんがく政治せいじろん』の足取あしどりをもちいることによって、イスラームとの差異さい以下いか文章ぶんしょう結論けつろんけた。

「イスラームのタウヒードろん提示ていじしている万象ばんしょう等位とういせい原則げんそくは、創造そうぞうしゃ造物ぞうぶつとの関係かんけいを〈いち〉し、両者りょうしゃあいだへだたりを等距離とうきょりくことによって、差別さべつ規制きせいはずし、現実げんじつ世界せかい解釈かいしゃく水平すいへいてき展望てんぼうあたえている。万物ばんぶつ同等どうとう存在そんざい価値かちをもつというこの世界せかいかんは、特権とっけんてき地位ちい享受きょうじゅするものたちによる専断せんだん産出さんしゅつする、存在そんざい世界せかいについての縦割たてわりの構造こうぞうはばむのである[13]

キリストきょうとの比較ひかく

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ユダヤきょうがヘブライじんかみ啓示けいじ限定げんていしたのにたいし、キリスト教きりすときょうは、民族みんぞくという境界きょうかいえて普遍ふへんした宗教しゅうきょうであるといってよい。しかしながら、ユダヤきょう選民せんみん思想しそう克服こくふくしたキリスト教きりすときょうもまた、三位一体さんみいったいせつにおいて、イスラム教いすらむきょうからみればおおきな問題もんだい内包ないほうすることとなる[14]

キリスト教きりすときょう正統せいとう教義きょうぎにおいてイエス・キリストは「しんかみでありしんひとである」とされる。イスラム教いすらむきょうからみると、これはナザレのイエスという人間にんげん特権とっけんし、例外れいがいてきかみとして位置いちづけていると批判ひはんされる。このことは、イスラム教いすらむきょうからみて、すべての造物ぞうぶつ平等びょうどうであるという論理ろんり結果けっかてき破綻はたんさせる可能かのうせいをはらむ[14]

イスラームのタウヒードろんがキリストきょうたいする批判ひはんのまなざしは、ユダヤきょう選民せんみん思想しそうとはことなり、「精神せいしんてきものと物質ぶっしつてきなものとの乖離かいり、ならびに前者ぜんしゃ後者こうしゃうえ位置いちさせる世界せかいかんである。このような差別さべつてき世界せかいかんなに由来ゆらいするのであるかは、やや複雑ふくざつ問題もんだいである。しかし存在そんざいかい縦割たてわりに序列じょれつし、物質ぶっしつてき要素ようそ世俗せぞく世界せかい事柄ことがら放置ほうちして、もっぱら精神せいしんてき事柄ことがら関心かんしん集中しゅうちゅうさせるキリスト教きりすときょう基本きほんてき傾向けいこうは、すでに常識じょうしきとなっている[15]」という、精神せいしん物質ぶっしつ二元論にげんろんてきかんがかた批判ひはんになる。

存在そんざいろんとしての平等びょうどう

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イスラームのタウヒードが保障ほしょうしている内容ないようは、それぞれが保有ほゆうする属性ぞくせいにいかなる差別さべつをももうけないこととなる。

イスラームにおいて、かみ基本きほんてき創造そうぞうえたのち造物ぞうぶつ世界せかい管理かんり運営うんえい責任せきにんつものとして、かみ創造そうぞうされた人間にんげんかみからの委託いたくけたとく。したがって、万物ばんぶつかみまえひとしく平等びょうどうであるという等位とういせいって説明せつめいした場合ばあい、イスラームの文脈ぶんみゃくにおいての平等びょうどうという概念がいねんが、「精神せいしんてき鍛錬たんれん、あるいは道徳どうとくてき要請ようせいによってもとめられる結果けっかといった、個人こじんがわ自覚じかくもとづく知的ちてき精神せいしんてき追求ついきゅう成果せいかとしてられるのではなく、よりふかく、普遍ふへんてき存在そんざいろんてき基礎きそっているとてん[16]」に集約しゅうやくされるわけである。

差異さいせい

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かみ創造そうぞうにあたって、無駄むだ努力どりょく重複じゅうふくけられた。したがってかれつくした造物ぞうぶつは、すべてが差異さいてきである[17]」という理論りろん出発しゅっぱつてんに、タウヒードをめぐる議論ぎろんにおいては、クルアーンのいたるところで散見さんけんされる重要じゅうようせいについてかた必要ひつようがある。

カラーム神学しんがく原子げんしろん

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イスラーム思想しそう概観がいかんをはじめに記述きじゅつしておくならば、イスラームの特性とくせい十分じゅうぶん考慮こうりょしたカラーム神学しんがくしんプラトン色彩しきさいつよギリシャけい哲学てつがくという2つのながれが存在そんざいする。詳細しょうさいは、イスラーム哲学てつがく参照さんしょうのこと。

カラーム神学しんがく特徴とくちょうとは、議論ぎろん百出ひゃくしゅつであった神学しんがくしゃ意見いけん収斂しゅうれん結果けっかとして、「万物ばんぶつ差異さいせい」をげられる。この主張しゅちょうしたがうならば、「万物ばんぶつは、分割ぶんかつ不可能ふかのう部分ぶぶん、つまり最小さいしょう単位たんいである原子げんしからっている。ところで、この原子げんしかならふたつの要素ようそ、つまり実体じったいと偶性から構成こうせいされている。実体じったいはそれ独自どくじでは現実げんじつ存在そんざいせず、それが具体ぐたいてき存在そんざいとなるさいにはひとつ、ないしは複数ふくすうの偶性をともなう。ところでそのさいとく注目ちゅうもくすべきてんは、ひとつの実体じったいがそれぞれかならことなった偶性をとり、けっしておなじものをとることがいという[18]独自どくじ原子げんしろん展開てんかいした。

この議論ぎろんは、一々いちいち個体こたい固有こゆうせいつぶりながらも、それを構成こうせいする最小さいしょう部分ぶぶんである原子げんしに、差異さいせい存在そんざいする根源こんげんもとめるというイスラーム世界せかいにおける伝統でんとうてきな「差異さいせい」においての解釈かいしゃくろんであった。

存在そんざい優位ゆういせいろん

[編集へんしゅう]

カラーム神学しんがくとは、べつ角度かくどで、差異さいせいろんじたのが、17世紀せいきのイランの哲学てつがくしゃであるモッラー・サドラーである。

かれ理論りろん大前提だいぜんていは、「眼前がんぜん存在そんざいするそれの固体こたい宿やどしている秘密ひみつにうたれ、それとうこと」にあった。著作ちょさく存在そんざい認識にんしきみち』において、事物じぶつ存在そんざいしていることはいかなる定義ていぎなしで瞬時しゅんじ了解りょうかいされるがそれを規定きていすることの困難こんなんさを記述きじゅつしている。

モッラー・サドラーは、この疑問ぎもん出発しゅっぱつてんに、どうちょにおいて、存在そんざいかんしては完全かんぜん定義ていぎはありえようがく、存在そんざいとまったく同等どうとう概念がいねんいがゆえに、説明せつめいてき定義ていぎすることができないと論証ろんしょうした。かれ世界せかい認識にんしき、この本質ほんしつ存在そんざいかの対比たいひにおいて、存在そんざい先行せんこうさせた〈存在そんざい優位ゆういせいろんでの意図いと具体ぐたいてき存在そんざいするそれぞれの最適さいてき個体こたい一義いちぎせいであった[19]

差異さいせい政治せいじてき側面そくめん

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イスラームの政治せいじせいろんじるにあたって基本きほんてき重要じゅうようなのは、ハリーファ代理だいりけん)の概念がいねんである。ただ、西洋せいよう世界せかい王権おうけん神授しんじゅせつ厳格げんかく峻別しゅんべつする必要ひつようがある。西洋せいよう世界せかい王権おうけん神授しんじゅせつが、国王こくおうかみ代理人だいりにんとして、政治せいじたるという言説げんせつであるのにたいして、イスラーム世界せかい代理だいりけん概念がいねんは、タウヒードを出発しゅっぱつてんとするために、ある特定とくてい少数しょうすう人間にんげん代理だいりけん付与ふよされているわけではないということである。

カリフという言葉ことばは、預言よげんしゃムハンマドあとウンマ指導しどうしゃ最高さいこう権威けんいしゃ称号しょうごうであり、そのハリーファの原義げんぎは「代理人だいりにん」で、西暦せいれき632ねんにムハンマドの死後しごのウンマの指導しどうしゃとしてアブー・バクル選出せんしゅつされ、「かみ使徒しと代理人だいりにん」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)をしょうしたことにはじまることからあきらかであるとおり、あくまでも、創造そうぞうしゃであるアッラーがその主権しゅけん行使こうし人間にんげん委託いたくしていることがこのかたりのはじまりである。

パキスタンのイスラーム活動かつどうであるマウドゥーディー著書ちょしょThe Islamic Way of Life”において、「タウヒードのしょ原理げんりみとめたうえ代理だいり義務ぎむよろこんでたそうとする共同きょうどうたい全体ぜんたいに、カリフの権威けんいあたえられるということである……こうした共同きょうどうたい社会しゃかいは、カリフの権威けんい全体ぜんたいたいして責任せきにんっている。共同きょうどうたい一人ひとりいちにん神聖しんせいなカリフの権威けんいっている[20]」とべ、それゆえに、人間にんげんは、かみ現世げんせいにおける代理人だいりにん地位ちい獲得かくとくし、造物ぞうぶつなかから必要ひつようなものを所有しょゆうすることがゆるされ、同様どうように、政治せいじ分野ぶんやにおいてもかみ主権しゅけん行使こうしすることがゆるされたのである。

差異さいせい経済けいざいてき側面そくめん

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イスラーム世界せかいにおいて、すべてのものが差異さいてきであるという論理ろんり基本きほんとなるのであれば、その経済けいざいてき側面そくめんは、このひとつとして等価とうかのものは存在そんざいしないということになる。したがって、イスラーム世界せかいしょう取引とりひきは、伝統でんとうてき定価ていかもとづく取引とりひきではなく、交渉こうしょうによる取引とりひき基本きほんとなる。

イスラームが仏教ぶっきょうキリスト教きりすときょうちがって根本こんぽんてきことなるてんは、もともと、イスラームというシステムのなかしょう取引とりひきがシステムとしてまれている宗教しゅうきょうだということであり、貨幣かへい経済けいざいとはってもれない関係かんけいつのであるが、貨幣かへい蓄積ちくせき手段しゅだんとなりうるがゆえに、あらゆるものを商品しょうひんしたうえで、等価とうかせい原則げんそく屈服くっぷくさせてしまおうとするのである。この論理ろんりもとづいていくのであれば、現在げんざい経済けいざいシステムは、確実かくじつなんらかの抑制よくせいもとめられるわけである。

したがって、リバー利子りし)や退蔵たいぞう禁止きんし投資とうしはよくても投機とうき禁止きんしがイスラームでは明確めいかく意識いしきされるのである[21]。その意識いしき具現ぐげんされたのが、イスラム銀行ぎんこうということになる。

関係かんけいせい

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エスファハーンおうのモスクより。

だい3の原則げんそくである関係かんけいせいについて、つまり万物ばんぶつたがいに関連かんれんしあっていて、1つとしてほかとかかわりをたぬものはないという原則げんそくである。黒田くろだは、比喩ひゆてきにイスラーム世界せかいのマスジド(礼拝れいはいしょ)やそのほか各種かくしゅ公共こうきょう建築けんちく壁面へきめんかざるアラベスク模様もよう(アラベスク模様もようについては、アラベスク参照さんしょうすること)をもちいて、イスラーム世界せかい関係かんけいせい説明せつめいする。

アラベスク模様もよう思想しそうせい

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アラベスク模様もよう思想しそうせいとはすなわち、それぞれの単位たんい複数ふくすう構成こうせい要素ようそから成立せいりつして、その単位たんい形状けいじょうによって、しょ部分ぶぶんとのかかわりかたことなってくるが、全体ぜんたい図柄ずがらなかでは、一々いちいち部分ぶぶんたがいに主張しゅちょうし、設計せっけいしゃ意図いとしたがうことはない。一方いっぽうで、ひとつの図像ずぞうえがすことが最終さいしゅう目的もくてきであるが、他方たほうではなんらかの存在そんざいしゃのイメージをえがくことではなく、その背後はいごにある関係かんけいせいそのものの配置はいちみょう表現ひょうげんすることに関心かんしんいだ[22]

それを具現ぐげんしたアラベスク模様もようがエスファハーンのおうのモスクやアルハンブラ宮殿きゅうでん見出みいだすことが可能かのうである。

人間にんげん関係かんけい男女だんじょ関係かんけい親子おやこ関係かんけい

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個人こじんだいいち関係かんけいてき単位たんいは、夫婦ふうふ関係かんけいであることから、クルアーンでも記述きじゅつがあるが、肝要かんようなのは、男女だんじょ関係かんけい相補そうほせいである。

つまたちはなんじらの着物きものなんじらは彼女かのじょらの着物きものだい2しょうだい187せつ[23]
かみはまず一人ひとり人間にんげんつくり、それに配偶はいぐうしゃあたえた」

というクルアーンの記述きじゅつあきらかになるとおり、男女だんじょがそれぞれ差異さいてきであり、相補そうほてきであるというてん、また、かみによる人間にんげん創造そうぞう記述きじゅつはあくまでも中立ちゅうりつてきであるということになる。おっとであること、つまであることの特質とくしつゆずらない協調きょうちょう関係かんけいは、おや兄弟きょうだい姉妹しまい子供こどもたちへのかかわりかたにつながっていく[24]

クルアーンの記述きじゅつ

アッラーをいて何者なにものおがんではならぬぞ。両親りょうしんにはやさしくせよ、それから親戚しんせき縁者えんじゃにも、おやなしにも、まずしい人々ひとびとにも。あらゆる人々ひとびと善意ぜんい言葉ことばをかけ、礼拝れいはいかさずまもり、そして喜捨きしゃしみなくせよ — だい2しょうだい83せつ[25]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ クルアーン「食卓しょくたくあきらだい73せつ 『「アッラーはさん)のひとつである。」とものは、本当ほんとう不信心ふしんじんしゃである。ただ―のかみそとかみはないのである。もしかれらがその言葉ことばめないなら、かれら不信心ふしんじんしゃには、かならいたましい懲罰ちょうばつくだるであろう。』[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 黒田くろだ壽郎としお『イスラームの構造こうぞう タウヒード・シャリーア・ウンマ』書肆しょししんすい、2004ねん、p.68
  2. ^ p.67
  3. ^ せいクルアーン 食卓しょくたく (アル・マーイダ)”. www.krn.org. 日本にっぽんムスリム情報じょうほう事務所じむしょ. 2022ねん6がつ15にち閲覧えつらん
  4. ^ 井筒いづつ俊彦としひこやく『コーラン(した)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、1958ねん、p.245
  5. ^ 井筒いづつやく『コーラン(した)』p.268
  6. ^ 井筒いづつやく『コーラン(なか)』p.8
  7. ^ 井筒いづつやく『コーラン(した)』p.65
  8. ^ pp.188-189
  9. ^ 井筒いづつやく『コーラン(なか)』p.41
  10. ^ サラフィー(سلفي) とは、19世紀せいきまれたイスラームにおけるオーソドックス・ファンダメンタリズムの運動うんどう、またその主義しゅぎのことをす。詳細しょうさいen:Salafism参照さんしょうのこと。
  11. ^ p.254
  12. ^ 井筒いづつやく『コーラン(うえ)』p.158
  13. ^ 黒田くろだ p.76
  14. ^ a b 黒田くろだ p.76-80
  15. ^ 黒田くろだ p.79
  16. ^ 黒田くろだ p.82
  17. ^ 黒田くろだ p.83
  18. ^ 黒田くろだ p.85
  19. ^ 黒田くろだ pp.87-89
  20. ^ Esposito/ Voll『イスラームと民主みんしゅ主義しゅぎ宮原みやはら大和やまとどもやく成文せいぶんどう、2000ねん
  21. ^ 黒田くろだ pp.97-100
  22. ^ 黒田くろだ pp.105-106
  23. ^ 井筒いづつやく『コーラン(うえ)』 p.45
  24. ^ 黒田くろだ pp.111-116
  25. ^ 井筒いづつやく『コーラン(うえ)』 p.24