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この項目 こうもく では、イスラム教 いすらむきょう の概念 がいねん について説明 せつめい しています。この用語 ようご が別名 べつめい であるクルアーンのスーラについては「純正 じゅんせい (クルアーン) 」をご覧 らん ください。
タウヒード (アラビア語 ご : توحيد 、ラテン文字 もじ 化 か :Tawḥīd/Tawheed/Tauheed 、トルコ語 ご : Tevhid )とは、イスラーム における一神教 いっしんきょう の概念 がいねん である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一 いち 化 か の原理 げんり 〉 を意味 いみ すると同時 どうじ に、世界 せかい 観 かん と存在 そんざい 論 ろん 、すなわち価値 かち 観 かん の根本 こんぽん である。
また、タウヒード論 ろん においては、神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい という言葉 ことば で、和訳 わやく され論 ろん じられることも多 おお いが、神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい という言葉 ことば は、アラビア語 ご において(ラテン文字 もじ 表記 ひょうき をすると)waḥḥdat-Allah という明確 めいかく な表現 ひょうげん があるので、正確 せいかく な訳出 やくしゅつ とはいえない点 てん で留意 りゅうい する必要 ひつよう がある[1] 。したがって、この記事 きじ においては、神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい を起点 きてん とした上 うえ で、そこで活用 かつよう された〈一 いち 化 か の原理 げんり 〉に則 のっと りながら、現実 げんじつ 解釈 かいしゃく のための基本 きほん 原則 げんそく を提示 ていじ する内容 ないよう を描出 びょうしゅつ することとなる。
タウヒードの反対 はんたい の概念 がいねん は、シルク (shirk 、多元 たげん 性 せい )である。
タウヒードという言葉 ことば は、アラビア語 ご の動詞 どうし ワハダ (waḥada ) の第 だい 2型 がた であり、〈一 いち に化 か す〉、〈一 いち に帰 き す〉を意味 いみ するワッハダ (waḥḥada ) という動詞 どうし から派生 はせい した動 どう 名詞 めいし である。その原義 げんぎ は、〈一 いち 化 か 〉、〈帰一 きいつ 〉を意味 いみ する[2] 。
イスラームにおける唯一 ゆいいつ 神 かみ (アッラー )の存在 そんざい を絶対 ぜったい であるとし、キリスト教 きりすときょう 世界 せかい で信奉 しんぽう されている三位一体 さんみいったい 説 せつ を否定 ひてい する[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
クルアーン (アル・クルアーン)において、タウヒードは随所 ずいしょ に言及 げんきゅう されている。また、「アッラーのほかに神 かみ は無 な く、ムハンマドはアッラーの使徒 しと なり」という文節 ぶんせつ は、サラート として知 し られる1日 にち 5回 かい の礼拝 れいはい において引用 いんよう される。
タウヒードの反意語 はんいご は、シルクである。アラビア語 ご では、分割 ぶんかつ ・分離 ぶんり を意味 いみ する。
スンナ派 は 、シーア派 は ともに一致 いっち しているのは、イスラームにおける最 さい 重要 じゅうよう な概念 がいねん であるタウヒードがこの絶対 ぜったい で完全 かんぜん なる創造 そうぞう 者 しゃ を受 う け入 い れるということで展開 てんかい されているということである。ムスリムは、「アッラーのほかに神 かみ は無 な く、ムハンマドはアッラーの使徒 しと なり」という信仰 しんこう 告白 こくはく (シャハーダ )を公 おおやけ に唱 とな えることによってムスリムとなり、かつ、自 みずか らの信仰 しんこう を絶 た えず、再 さい 確認 かくにん することとなる。
スンナ派 は の人々 ひとびと は、タウヒードをイスラームの教条 きょうじょう (Aqidah)の7つの重要 じゅうよう な側面 そくめん のひとつであると見 み なしている。
アシュアリー派 は の著名 ちょめい な学者 がくしゃ の一人 ひとり である Fakhrud-Din Ibn Asakir は、自 みずか らの著書 ちょしょ で、スンナ派 は の信条 しんじょう を記述 きじゅつ している。
アッラーは人々 ひとびと を導 みちび き、唯一 ゆいいつ の神 かみ である。
アッラーは全 すべ ての世界 せかい (天界 てんかい 、地上 ちじょう 界 かい )を作 つく りたもうた。
全 すべ ての創造 そうぞう 物 ぶつ は、アッラーの力 ちから により服従 ふくじゅう されている。
アッラーは、人生 じんせい に帰 き する。睡魔 すいま にとらわれることは無 な い。
アッラーは、人間 にんげん が予見 よけん できないことについて知 し っているただ、ひとつの存在 そんざい であり、全知全能 ぜんちぜんのう である。
アッラーの行 おこな うことは全 すべ て彼 かれ の意志 いし に基 もと づく。
アッラーは報酬 ほうしゅう を望 のぞ まず、罪 つみ を恐 おそ れない。
アッラーは、創造 そうぞう の前 まえ から存在 そんざい した。過去 かこ 、未来 みらい というものをもたず、また、前後 ぜんご 左右 さゆう 上下 じょうげ といった概念 がいねん にはそぐわない。というのも、アッラーは全 ぜん だからである。
アッラーが、宇宙 うちゅう の森羅万象 しんらばんしょう を創造 そうぞう し、時間 じかん の存在 そんざい を望 のぞ んだ。アッラーは、時間 じかん に制限 せいげん されるということは無 な く、場所 ばしょ に明示 めいじ される存在 そんざい ではない。
スンナ派 は のムスリムは、神 かみ は見 み ることはできないと信 しん じている。仮 かり に神 かみ の姿 すがた を見 み ることができるのであれば、自 みずか らの生涯 しょうがい の終 お わりを意味 いみ する死後 しご に訪 おとず れる最後 さいご の審判 しんぱん の日 ひ のみであると信 しん じている。
クルアーンの記述 きじゅつ
その
日 ひ (
審判 しんぱん の
日 ひ )には
明 あか るく
輝 かがや く
顔 かお また
顔 かお 、(さも
嬉 うれ しげに)
主 あるじ を
仰 あお ぎ
見 み る
— 第 だい 75章 しょう 第 だい 22から23節 せつ 、[4]
いや、いや、あの
日 ひ 〔
審判 しんぱん の
日 ひ 〕には、
主 おも の
御 ご 顔 かお も
拝 はい されまいぞ
— 第 だい 83章 しょう 第 だい 15節 せつ 、[5]
ハディースの記述 きじゅつ 。アブー・フライラは、人々 ひとびと とムハンマドの対話 たいわ を以下 いか のように記述 きじゅつ している。
(人々 ひとびと )「われわれは、復活 ふっかつ の日 ひ に神 かみ を見 み ることができるでしょうか?」
(預言 よげん 者 しゃ )「あなたがたは、満月 まんげつ の時 とき に、月 つき が見 み ることができないことで何 なに か問題 もんだい がありますか?」
(人々 ひとびと )「いいえ、そういうことはございませんが」
(預言 よげん 者 しゃ )「それでは、雲 くも が何一 なにひと つ無 な いときに、太陽 たいよう を見 み ることができないことで、何 なに か問題 もんだい がありますか?」
(人々 ひとびと )「預言 よげん 者 しゃ よ、それも問題 もんだい はございません」
(預言 よげん 者 しゃ )「ほんとうに、あなた方 かた が神 かみ を見 み ようとすることは(あなた方 かた が太陽 たいよう や月 つき を見 み るような)ことですよ」
スンナ派 は の人々 ひとびと は、クルアーンは創造 そうぞう されたものではなく、この視点 してん は、十分 じゅうぶん にタウヒードの概念 がいねん と互換 ごかん 可能 かのう なものである。ハンバル学派 がくは は、以下 いか の視点 してん を提示 ていじ する。
クルアーンに書 か かれている言葉 ことば や音 おと は永遠 えいえん であり、それがゆえに、その物語 ものがたり は創造 そうぞう されたものは無 な い。そればかりではなく、羊皮紙 ようひし 写本 しゃほん や装丁 そうてい された文書 ぶんしょ は同 おな じ質 しつ を共有 きょうゆう しているのである
アブー・ハニーファ は、以下 いか のように述 の べる。
告白 こくはく する。クルアーンは神 かみ の言葉 ことば であり、作 つく られたものではなく、神 かみ の直感 ちょっかん 、啓示 けいじ は、彼 かれ の本質 ほんしつ である。一方 いっぽう で、インクや紙 かみ といったものはわれわれ人間 にんげん が作 つく り出 だ したものである
タウヒードは、3つの側面 そくめん を持 も っている。
神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい (Tawheed-ar-Ruboobeeyah )とは、「神 かみ は、創造 そうぞう 者 しゃ であり、創始 そうし 者 しゃ であり、設計 せっけい 者 しゃ であり、全 すべ てを養 やしな ってくださるものであり、安寧 あんねい を与 あた えてくださるものであるという唯一 ゆいいつ の神 かみ であることを信 しん じる」ことである。
この信仰 しんこう は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派 は や1600年代 ねんだい にニューイングランド に移住 いじゅう したピューリタン の信仰 しんこう と相 そう 通 つう じるものがある。この信仰 しんこう に基 もと づくと、人々 ひとびと は、神 かみ に全面 ぜんめん 的 てき に依存 いぞん している存在 そんざい だと考 かんが えることになる。
タウヒードのこういった側面 そくめん は、クルアーンに散見 さんけん される。以下 いか は、その一 いち 例 れい である。
地上 ちじょう を匍い
廻 まわ る
動物 どうぶつ にしても、
全部 ぜんぶ アッラーの
養 やしな い
給 たま うところ。
何処 どこ に
棲 す み、
何処 どこ に
潜 ひそ むかということまでご
存知 ぞんち 。ことごとく
明白 めいはく な
啓 けい 典 てん (
万物 ばんぶつ の
運命 うんめい を
記載 きさい した
天 てん の
書物 しょもつ )に
記録 きろく されておる
— 第 だい 11章 しょう 第 だい 6節 せつ 、[6]
アッラーこそは
万物 ばんぶつ の
創造 そうぞう 主 ぬし 。あらゆるものを
世話 せわ し
給 たま う。
天 てん と
地 ち の
全 すべ ての
鍵 かぎ を
持 も ち
給 たま う。アッラーのお
徴 ちょう をありがたいとも
思 おも わぬどもは、いまに
必 かなら ず
損 そん をする
— 第 だい 39章 しょう 第 だい 63節 せつ 、[7]
唯一 ゆいいつ 神 かみ への帰依 きえ (Tawheed-al-Ulooheeyah あるいは、Tawheed-al-Ebaadah ) とは、神 かみ 以外 いがい のものは決 けっ して、崇拝 すうはい の対象 たいしょう としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面 そくめん は、クルアーンに散見 さんけん される。以下 いか は、その一 いち 例 れい (クルアーン第 だい 59章 しょう 第 だい 22節 せつ から第 だい 24節 せつ [8] )である。
「これぞこれ唯一 ゆいいつ 無二 むに の御 ご 神 かみ 、アッラー。目 め に見 み える世界 せかい も、目 め に見 み えぬ世界 せかい をもともに知悉 ちしつ し給 たま う。お情 なさ け深 ふか い、慈悲 じひ 深 ふか い御 ご 神 かみ 」
「これぞこれ唯一 ゆいいつ 無二 むに の御 ご 神 かみ 、至高 しこう の王 おう 、聖 せい なる御 ご 神 かみ 、限 かぎ りなき平安 へいあん の神 かみ 、誠実 せいじつ の守護 しゅご 者 しゃ 、万物 ばんぶつ の保護 ほご 者 しゃ 。偉大 いだい で、その権力 けんりょく 限 かぎ りなく、尊厳 そんげん この上 うえ もなきお方 かた 。ああ勿体無 もったいな い、恐 おそ れ多 おお い、人々 ひとびと がともに並 なら べる(邪神 じゃしん ども)とは比較 ひかく にならぬ高 たか みにいます御 ご 神 かみ におわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇 ばんゆう を創造 そうぞう し、創始 そうし し、形成 けいせい するお方 かた 。あらゆる最高 さいこう の美名 びめい を一身 いっしん に、集 あつ め給 たま う。天 てん にあるもの、地 ち にあるもの、全 すべ て声 ごえ 高 たか らかに賛美 さんび し奉 たてまつ る。ああ限 かぎ りなく偉大 いだい 、限 かぎ りなく賢 かしこ い御 ご 神 かみ よ」
偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい の完全 かんぜん 否定 ひてい (Tawheed-al-Asma-Sifaat )とは、神 かみ の不可視 ふかし 性 せい とイスラーム化 か 以前 いぜん のカアバ で数 すう 多 おお くの神 かみ が神像 しんぞう として祀 まつ られていたことからその信仰 しんこう を否定 ひてい する考 かんが えである。
タウヒードのこういった側面 そくめん は、クルアーンに散見 さんけん される。以下 いか は、その一 いち 例 れい である。
皆 みな さん、自分 じぶん で刻 きざ んだ偶像 ぐうぞう を拝 おが んでなんとなさる — 第 だい 37章 しょう 第 だい 95節 せつ 、 p.41
言 い ってやるがよい、「
天 てん と
地 ち をすべ
治 おさ めるものは
誰 だれ か。」
言 い ってやるがよい、「アッラーだ」と。
言 い ってやるがよい、「それなのに、お
前 まえ たち、(アッラー)を
差 さ し
置 お いて、
他 た の(
偶像 ぐうぞう )どもを
神 かみ と
仰 あお ぐことにしたのか。
自分 じぶん 自身 じしん に
対 たい してすら
良 よ くすることも
悪 わる くすることもできないようなものどもを
— 第 だい 13章 しょう 第 だい 16節 せつ 、[9]
ムスリムの人々 ひとびと (サラフィー [10] )にとって、以下 いか のような行動 こうどう は、シルクと見 み なされるのである。
スーフィー 信仰 しんこう - 早期 そうき のムスリムやスーフィーと呼 よ ばれる聖者 せいじゃ の墓所 はかしょ へ巡礼 じゅんれい を行 おこな ったりすること。
死 し から逃 のが れるための礼拝 れいはい
クルアーンを逐語 ちくご 的 てき に解釈 かいしゃく するのであれば、イブン・タイミーヤ が説 と くように、神 かみ は、体 からだ の各 かく 部分 ぶぶん を持 も たず、しかし、クルアーンやハディースに記述 きじゅつ がある「手 て 」、「目 め 」、「顔 かお 」といった属性 ぞくせい を持 も っている。しかし、それぞれは、人間 にんげん が知 し っているような形状 けいじょう をしてはいない。そして、サラフィーは、神 かみ は天上 てんじょう 界 かい に住 す んでいると信 しん じているのである。
シーア派 は においても、タウヒードは絶対 ぜったい なものである。
シーア派 は は、神 かみ は見 み ることができるとは信 しん じていない。また、アッラーはどんな形 かたち であれ、体 からだ を持 も っているという考 かんが えも拒否 きょひ している。
クルアーンのいくらかの一節 いっせつ では、アッラーの体 からだ についての記述 きじゅつ が見受 みう けられる。例 たと えば、「アッラーと並 な べて他 た の神 かみ を拝 おが んではならぬ。もともとほかに神 かみ は無 な い。全 すべ ての物 もの は滅 ほろ び去 さ り、ただ(滅 ほろ びぬは)その御 ご 尊顔 そんがん (アッラー自身 じしん ということ)のみ。一切 いっさい の摂理 せつり はその御 ご 手 て にあり、お前 まえ たちもいずれはお側 そば に連 つ れ戻 もど されていく[11] 」という一節 いっせつ である(第 だい 28章 しょう 第 だい 88節 せつ )。シーア派 は の解釈 かいしゃく は、「アッラーを除 のぞ いて」という形 かたち になる。シーア派 は の論議 ろんぎ では、この節 ふし は文字通 もじどお り解釈 かいしゃく してはならないのである。
また、シーア派 は の間 あいだ で議論 ぎろん になる点 てん は、神 かみ は、手 て を持 も っているというクルアーンの随所 ずいしょ に記述 きじゅつ がある点 てん である。そのことは、神 かみ の力 ちから 、あるいは慈悲 じひ を意味 いみ すると彼 かれ らは解釈 かいしゃく している。例 たと えば、「アッラーの手 て は鎖 くさり で縛 しば られている(第 だい 5章 しょう 第 だい 64節 せつ )[12] 」という文章 ぶんしょう で始 はじ まる一節 いっせつ である。しかし、シーア派 は の人々 ひとびと はこの文章 ぶんしょう に続 つづ く「アッラーの手 て は拡 ひろ がっている」という文章 ぶんしょう を引用 いんよう することで、この節 ふし の寓話 ぐうわ 性 せい を説 と く。
神 かみ は、以下 いか のような積極 せっきょく 的 てき な属性 ぞくせい を持 も つと信 しん じられている。
カディーム(Qadím ) - アッラーは永遠 えいえん である。始 はじ まり、そして終 お わりは無 な い。
カディール(Qadir ) - アッラーは、全能 ぜんのう である。アッラーの力 ちから は、全 すべ てのものに及 およ ぼす。
アリーム('Alim ) - アッラーは全知 ぜんち である。全 すべ てのことを知 し っている。
ハイ(Hai ) - アッラーは生 い きている。それも永遠 えいえん に。
ムリド(Muríd ) - アッラーは、全 すべ ての事象 じしょう に対 たい して慎重 しんちょう である。混乱 こんらん することは無 な い。
ムドゥリク(Mudrik ) - アッラーは全 すべ てを受 う け入 い れてくる。全 すべ てを見聞 けんぶん する。あらゆる場所 ばしょ に存在 そんざい している。ただし、目 め や耳 みみ を通 とお して、見聞 けんぶん しているわけではない。
ムタカリム(Mutakalim ) - アッラーは世界 せかい の創造 そうぞう 主 ぬし である。アッラーは、言葉 ことば を作 つく った。
サディーク(Sadiq ) - アッラーは真実 しんじつ である。
また、消極 しょうきょく 的 てき な属性 ぞくせい を持 も つ。
シャリク(Sharík ) - アッラーは妻 つま を持 も たない。
ムラカブ(Murakab ) - アッラーは作 つく られたものではなく、物質 ぶっしつ 的 てき なものでもない。
マカン(Makán ) - アッラーは、どんな場所 ばしょ 、体 からだ に制限 せいげん されない。
フルル(Hulúl ) - アッラーは体 からだ を持 も たない。
マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith ) - アッラーは変化 へんか しない。
マリ(Marí ) - アッラーは見 み ることができない。なぜならば、体 からだ を持 も たないからである。
イフティヤジュ(Ihtiyaj ) - アッラーは、独立 どくりつ した存在 そんざい である。アッラーは、飢 う えていない。というのもアッラーは、どんなものも持 も っていないからである。
シファテ・ザイード(Sifate zayed ) - アッラーは、あらゆる制限 せいげん を受 う けない。
シーア派 は の人々 ひとびと は、神 かみ が「神 かみ の永遠 えいえん でない行動 こうどう の一 ひと つ」としてクルアーンを創 つく り人々 ひとびと に贈 おく ったものと認識 にんしき しているので、したがって、シーア派 は の信仰 しんこう は、スンナ派 は とは対照 たいしょう をなし、クルアーンは、創造 そうぞう 物 ぶつ であるということになる。シーア派 は の人々 ひとびと は、ムハンマドの「神 かみ は存在 そんざい した(その時 とき には時間 じかん の概念 がいねん があった)、したがって、神 かみ のそばには何 なに もない」というハディースを引用 いんよう する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派 は の人々 ひとびと は、クルアーンは完全 かんぜん なものであると信 しん じているのである。
ムスリムによるそれぞれのタウヒード論 ろん への批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
シーア派 は の人々 ひとびと は、スンナ派 は の信仰 しんこう は、真実 しんじつ からの逸脱 いつだつ と見 み なしている。しかしながら、シーア派 は の人々 ひとびと は、スンナの人々 ひとびと を多神教 たしんきょう とは論 ろん じていない点 てん で誤解 ごかい してはならない。
シーア派 は の人々 ひとびと の批判 ひはん は、スンナ派 は の人々 ひとびと が、胴体 どうたい 、顔 かお 、手 て 、指 ゆび 、足 あし といった体 からだ の一部分 いちぶぶん を持 も っているという記述 きじゅつ がなされたハディースを真正 しんせい のハディースと見 み なしているからである。
「クルアーンは創 つく られたものではない」という理論 りろん への批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
スンナ派 は の人々 ひとびと が、クルアーンは神 かみ の言葉 ことば で人 ひと の手 て によって創 つく られたものではないと信 しん じている一方 いっぽう で、シーア派 は の視点 してん では、クルアーンはい換 いか えればシルクの表 あらわ れであると主張 しゅちょう する。
シーア派 は の視点 してん が、アリー を神格 しんかく 化 か することでタウヒードを否定 ひてい しているのではないかという考 かんが えもある。確 たし かに、シーア派 は の一 いち 分派 ぶんぱ であるアラウィー派 は のアリーが神 かみ の化身 けしん であるという信仰 しんこう もある。
サラフィーは、シーア派 は 及 およ びスンナ派 は の人々 ひとびと が様々 さまざま な方法 ほうほう でタウヒードを否定 ひてい していると主張 しゅちょう する。例 たと えば、アラビア語 ご でタワッスルと呼 よ ばれるアリーへの崇敬 すうけい の念 ねん を唱 とな える祈 いの りを行 おこな うシーア派 は と伝統 でんとう 的 てき なスンナ派 は の人々 ひとびと は、多 た 神 かみ 論 ろん 者 しゃ であるという主張 しゅちょう である。
特 とく に、シーア派 は の人々 ひとびと が、サラフィーをイスラームの多 おお くの部分 ぶぶん を放棄 ほうき したと告発 こくはつ している。例 たと えば、シーア派 は の人々 ひとびと は、マウリドという言葉 ことば を盛大 せいだい な祝祭 しゅくさい で用 もち いている。シーア派 は の人々 ひとびと は、サラフィーがムハンマドが過度 かど に神格 しんかく 化 か されることを恐 おそ れるだけでなく、ムハンマドとの紐帯 ちゅうたい をもっていたいと人々 ひとびと が願 ねが っていることを奪 うば っていると批判 ひはん する。
サラフィーは、ムハンマドが自分 じぶん の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ ったことはなく、同様 どうよう に、サハーバ も、ムハンマドの誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ ったことはないと主張 しゅちょう している。そして、預言 よげん 者 しゃ の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ うことを禁止 きんし (ビドア )にすべきだと結論 けつろん 付 つ けている。
現実 げんじつ 解釈 かいしゃく における3つの原則 げんそく [ 編集 へんしゅう ]
ただ、タウヒードを論 ろん じる上 うえ で重要 じゅうよう なのは、神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい というイスラーム世界 せかい で論 ろん じられた「アッラー」の属性 ぞくせい を論 ろん じることではなく、アッラーが唯一 ゆいいつ であることを前提 ぜんてい とした上 うえ で、現実 げんじつ にどのように解釈 かいしゃく をするかということである。タウヒードは、イスラーム世界 せかい の様々 さまざま な法理 ほうり 論 ろん 、神学 しんがく 、哲学 てつがく 、政治 せいじ 学 がく 、経済 けいざい 学 がく などの基礎 きそ となる。
ここでは、タウヒードの持 も つ等位 とうい 性 せい ・差異 さい 性 せい ・関係 かんけい 性 せい の3つの性格 せいかく を論 ろん じる。
ユダヤ教 きょう の場合 ばあい の神 かみ の啓示 けいじ の受 う け手 て はヘブライ人 じん に限定 げんてい される(選民 せんみん 思想 しそう )。黒田 くろだ は、スピノザ の聖書 せいしょ 解釈 かいしゃく による『神学 しんがく ・政治 せいじ 論 ろん 』の足取 あしど りを用 もち いることによって、イスラームとの差異 さい を以下 いか の文章 ぶんしょう で結論 けつろん 付 つ けた。
「イスラームのタウヒード論 ろん が提示 ていじ している万象 ばんしょう の等位 とうい 性 せい の原則 げんそく は、創造 そうぞう 者 しゃ と被 ひ 造物 ぞうぶつ との関係 かんけい を〈一 いち 化 か 〉し、両者 りょうしゃ の間 あいだ の隔 へだ たりを等距離 とうきょり に置 お くことによって、差別 さべつ の規制 きせい を外 はず し、現実 げんじつ 世界 せかい の解釈 かいしゃく に水平 すいへい 的 てき な展望 てんぼう を与 あた えている。万物 ばんぶつ が同等 どうとう な存在 そんざい の価値 かち をもつというこの世界 せかい 観 かん は、特権 とっけん 的 てき な地位 ちい を享受 きょうじゅ する者 もの たちによる専断 せんだん が産出 さんしゅつ する、存在 そんざい 世界 せかい についての縦割 たてわ りの構造 こうぞう 化 か を阻 はば むのである[13] 」
ユダヤ教 きょう がヘブライ人 じん に神 かみ の啓示 けいじ の受 う け手 て を限定 げんてい したのに対 たい し、キリスト教 きりすときょう は、民族 みんぞく という境界 きょうかい を越 こ えて普遍 ふへん 化 か した宗教 しゅうきょう であるといってよい。しかしながら、ユダヤ教 きょう の選民 せんみん 思想 しそう を克服 こくふく したキリスト教 きりすときょう もまた、三位一体 さんみいったい 説 せつ において、イスラム教 いすらむきょう からみれば大 おお きな問題 もんだい を内包 ないほう することとなる[14] 。
キリスト教 きりすときょう の正統 せいとう 教義 きょうぎ においてイエス・キリスト は「真 しん の神 かみ であり真 しん の人 ひと である」とされる。イスラム教 いすらむきょう からみると、これはナザレのイエスという人間 にんげん を特権 とっけん 化 か し、例外 れいがい 的 てき に神 かみ の子 こ として位置 いち づけていると批判 ひはん される。このことは、イスラム教 いすらむきょう からみて、全 すべ ての被 ひ 造物 ぞうぶつ が平等 びょうどう であるという論理 ろんり を結果 けっか 的 てき に破綻 はたん させる可能 かのう 性 せい をはらむ[14] 。
イスラームのタウヒード論 ろん がキリスト教 きょう に対 たい する批判 ひはん のまなざしは、ユダヤ教 きょう の選民 せんみん 思想 しそう とは異 こと なり、「精神 せいしん 的 てき ものと物質 ぶっしつ 的 てき なものとの乖離 かいり 、ならびに前者 ぜんしゃ を後者 こうしゃ の上 うえ に位置 いち させる世界 せかい 観 かん である。このような差別 さべつ 的 てき 世界 せかい 観 かん が何 なに に由来 ゆらい するのであるかは、やや複雑 ふくざつ な問題 もんだい である。しかし存在 そんざい 界 かい を縦割 たてわ りに序列 じょれつ 化 か し、物質 ぶっしつ 的 てき な要素 ようそ 、世俗 せぞく の世界 せかい の事柄 ことがら は放置 ほうち して、もっぱら精神 せいしん 的 てき な事柄 ことがら に関心 かんしん を集中 しゅうちゅう させるキリスト教 きりすときょう の基本 きほん 的 てき な傾向 けいこう は、すでに常識 じょうしき となっている[15] 」という、精神 せいしん ・物質 ぶっしつ の二元論 にげんろん 的 てき な考 かんが え方 かた の批判 ひはん になる。
イスラームのタウヒードが保障 ほしょう している内容 ないよう は、それぞれが保有 ほゆう する属性 ぞくせい にいかなる差別 さべつ をも設 もう けないこととなる。
イスラームにおいて、神 かみ が基本 きほん 的 てき な創造 そうぞう を終 お えた後 のち 、被 ひ 造物 ぞうぶつ の世界 せかい の管理 かんり 、運営 うんえい の責任 せきにん を持 も つものとして、神 かみ に創造 そうぞう された人間 にんげん が神 かみ からの委託 いたく を受 う けたと説 と く。したがって、万物 ばんぶつ が神 かみ の前 まえ に等 ひと しく平等 びょうどう であるという等位 とうい 性 せい を持 も って説明 せつめい した場合 ばあい 、イスラームの文脈 ぶんみゃく においての平等 びょうどう という概念 がいねん が、「精神 せいしん 的 てき な鍛錬 たんれん 、あるいは道徳 どうとく 的 てき 要請 ようせい によって求 もと められる結果 けっか といった、個人 こじん の側 がわ の自覚 じかく に基 もと づく知的 ちてき 、精神 せいしん 的 てき 追求 ついきゅう の成果 せいか として得 え られるのではなく、より深 ふか く、普遍 ふへん 的 てき な存在 そんざい 論 ろん 的 てき 基礎 きそ を持 も っていると言 い う点 てん [16] 」に集約 しゅうやく されるわけである。
「神 かみ は創造 そうぞう にあたって、無駄 むだ な努力 どりょく 、重複 じゅうふく を避 さ けられた。したがって彼 かれ の創 つく り出 だ した被 ひ 造物 ぞうぶつ は、全 すべ てが差異 さい 的 てき である[17] 」という理論 りろん を出発 しゅっぱつ 点 てん に、タウヒードをめぐる議論 ぎろん においては、クルアーンのいたるところで散見 さんけん される個 こ の重要 じゅうよう 性 せい について語 かた る必要 ひつよう がある。
イスラーム思想 しそう 史 し の概観 がいかん をはじめに記述 きじゅつ しておくならば、イスラームの特性 とくせい を十分 じゅうぶん に考慮 こうりょ したカラーム の神学 しんがく と新 しん プラトン派 は の色彩 しきさい の強 つよ いギリシャ 系 けい 哲学 てつがく という2つの流 なが れが存在 そんざい する。詳細 しょうさい は、イスラーム哲学 てつがく を参照 さんしょう のこと。
カラーム神学 しんがく の特徴 とくちょう とは、議論 ぎろん 百出 ひゃくしゅつ であった神学 しんがく 者 しゃ の意見 いけん の収斂 しゅうれん の結果 けっか として、「万物 ばんぶつ の差異 さい 性 せい 」を挙 あ げられる。この主張 しゅちょう に従 したが うならば、「万物 ばんぶつ は、分割 ぶんかつ 不可能 ふかのう な部分 ぶぶん 、つまり最小 さいしょう の単位 たんい である原子 げんし から成 な り立 た っている。ところで、この原子 げんし は必 かなら ず二 ふた つの要素 ようそ 、つまり実体 じったい と偶性から構成 こうせい されている。実体 じったい はそれ独自 どくじ では現実 げんじつ に存在 そんざい せず、それが具体 ぐたい 的 てき な存在 そんざい となる際 さい には一 ひと つ、ないしは複数 ふくすう の偶性を伴 ともな う。ところでその際 さい 特 とく に注目 ちゅうもく すべき点 てん は、一 ひと つの実体 じったい がそれぞれ必 かなら ず異 こと なった偶性をとり、決 けっ して同 おな じものをとることが無 な いという[18] 」独自 どくじ の原子 げんし 論 ろん を展開 てんかい した。
この議論 ぎろん は、一々 いちいち の個体 こたい の固有 こゆう 性 せい に目 め を瞑 つぶ りながらも、それを構成 こうせい する最小 さいしょう の部分 ぶぶん である原子 げんし に、差異 さい 性 せい が存在 そんざい する根源 こんげん を求 もと めるというイスラーム世界 せかい における伝統 でんとう 的 てき な「差異 さい 性 せい 」においての解釈 かいしゃく 論 ろん であった。
カラーム神学 しんがく とは、別 べつ の角度 かくど で、差異 さい 性 せい を論 ろん じたのが、17世紀 せいき のイランの哲学 てつがく 者 しゃ であるモッラー・サドラー である。
彼 かれ の理論 りろん の大前提 だいぜんてい は、「眼前 がんぜん に存在 そんざい するそれの固体 こたい が宿 やど している秘密 ひみつ にうたれ、それと向 む き合 あ うこと」にあった。著作 ちょさく 『存在 そんざい 認識 にんしき の道 みち 』において、事物 じぶつ が存在 そんざい していることはいかなる定義 ていぎ なしで瞬時 しゅんじ に了解 りょうかい されるがそれを規定 きてい することの困難 こんなん さを記述 きじゅつ している。
モッラー・サドラーは、この疑問 ぎもん を出発 しゅっぱつ 点 てん に、同 どう 著 ちょ において、存在 そんざい に関 かん しては完全 かんぜん な定義 ていぎ はありえようが無 な く、存在 そんざい とまったく同等 どうとう の概念 がいねん が無 な いがゆえに、説明 せつめい 的 てき に定義 ていぎ することができないと論証 ろんしょう した。彼 かれ の世界 せかい 認識 にんしき 、この本質 ほんしつ か存在 そんざい かの対比 たいひ において、存在 そんざい を先行 せんこう させた〈存在 そんざい の優位 ゆうい 性 せい 〉論 ろん での意図 いと は具体 ぐたい 的 てき に存在 そんざい するそれぞれの最適 さいてき な個体 こたい の一義 いちぎ 性 せい であった[19] 。
イスラームの政治 せいじ 性 せい を論 ろん じるにあたって基本 きほん 的 てき に重要 じゅうよう なのは、ハリーファ (代理 だいり 権 けん )の概念 がいねん である。ただ、西洋 せいよう 世界 せかい の王権 おうけん 神授 しんじゅ 説 せつ と厳格 げんかく に峻別 しゅんべつ する必要 ひつよう がある。西洋 せいよう 世界 せかい の王権 おうけん 神授 しんじゅ 説 せつ が、国王 こくおう が神 かみ の代理人 だいりにん として、政治 せいじ に当 あ たるという言説 げんせつ であるのに対 たい して、イスラーム世界 せかい の代理 だいり 権 けん の概念 がいねん は、タウヒードを出発 しゅっぱつ 点 てん とするために、ある特定 とくてい 少数 しょうすう の人間 にんげん に代理 だいり 権 けん が付与 ふよ されているわけではないということである。
カリフ という言葉 ことば は、預言 よげん 者 しゃ ムハンマド亡 な き後 あと のウンマ の指導 しどう 者 しゃ 、最高 さいこう 権威 けんい 者 しゃ の称号 しょうごう であり、そのハリーファの原義 げんぎ は「代理人 だいりにん 」で、西暦 せいれき 632年 ねん にムハンマドの死後 しご のウンマの指導 しどう 者 しゃ としてアブー・バクル が選出 せんしゅつ され、「神 かみ の使徒 しと の代理人 だいりにん 」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称 しょう したことに始 はじ まることから明 あき らかである通 とお り、あくまでも、創造 そうぞう 者 しゃ であるアッラーがその主権 しゅけん の行使 こうし を人間 にんげん に委託 いたく していることがこの語 かたり のはじまりである。
パキスタン のイスラーム活動 かつどう 家 か であるマウドゥーディー は著書 ちょしょ “The Islamic Way of Life ”において、「タウヒードの諸 しょ 原理 げんり を認 みと めた上 うえ で代理 だいり の義務 ぎむ を喜 よろこ んで果 は たそうとする共同 きょうどう 体 たい 全体 ぜんたい に、カリフの権威 けんい が与 あた えられるということである……こうした共同 きょうどう 体 たい 社会 しゃかい は、カリフの権威 けんい 全体 ぜんたい に対 たい して責任 せきにん を負 お っている。共同 きょうどう 体 たい の一人 ひとり 一 いち 人 にん が神聖 しんせい なカリフの権威 けんい を持 も っている[20] 」と述 の べ、それゆえに、人間 にんげん は、神 かみ の現世 げんせい における代理人 だいりにん の地位 ちい を獲得 かくとく し、被 ひ 造物 ぞうぶつ の中 なか から必要 ひつよう なものを所有 しょゆう することが許 ゆる され、同様 どうよう に、政治 せいじ の分野 ぶんや においても神 かみ の主権 しゅけん を行使 こうし することが許 ゆる されたのである。
差異 さい 性 せい の持 も つ経済 けいざい 的 てき 側面 そくめん [ 編集 へんしゅう ]
イスラーム世界 せかい において、全 すべ てのものが差異 さい 的 てき であるという論理 ろんり が基本 きほん となるのであれば、その経済 けいざい 的 てき 側面 そくめん は、この世 よ に一 ひと つとして等価 とうか のものは存在 そんざい しないということになる。したがって、イスラーム世界 せかい の商 しょう 取引 とりひき は、伝統 でんとう 的 てき に定価 ていか に基 もと づく取引 とりひき ではなく、交渉 こうしょう による取引 とりひき が基本 きほん となる。
イスラームが仏教 ぶっきょう やキリスト教 きりすときょう と違 ちが って根本 こんぽん 的 てき に異 こと なる点 てん は、もともと、イスラームというシステムの中 なか に商 しょう 取引 とりひき がシステムとして組 く み込 こ まれている宗教 しゅうきょう だということであり、貨幣 かへい 経済 けいざい とは切 き っても切 き れない関係 かんけい を持 も つのであるが、貨幣 かへい は蓄積 ちくせき の手段 しゅだん となりうるがゆえに、あらゆるものを商品 しょうひん 化 か した上 うえ で、等価 とうか 性 せい の原則 げんそく に屈服 くっぷく させてしまおうとするのである。この論理 ろんり に基 もと づいていくのであれば、現在 げんざい の経済 けいざい システムは、確実 かくじつ に何 なん らかの抑制 よくせい が求 もと められるわけである。
したがって、リバー (利子 りし )や退蔵 たいぞう の禁止 きんし 、投資 とうし はよくても投機 とうき の禁止 きんし がイスラームでは明確 めいかく に意識 いしき 化 か されるのである[21] 。その意識 いしき が具現 ぐげん 化 か されたのが、イスラム銀行 ぎんこう ということになる。
エスファハーン の王 おう のモスクより。
第 だい 3の原則 げんそく である関係 かんけい 性 せい について、つまり万物 ばんぶつ が互 たが いに関連 かんれん しあっていて、1つとして他 ほか とかかわりを持 も たぬものはないという原則 げんそく である。黒田 くろだ は、比喩 ひゆ 的 てき にイスラーム世界 せかい のマスジド(礼拝 れいはい 所 しょ )やそのほか各種 かくしゅ の公共 こうきょう 建築 けんちく の壁面 へきめん を飾 かざ るアラベスク模様 もよう (アラベスク模様 もよう については、アラベスク を参照 さんしょう すること)を用 もち いて、イスラーム世界 せかい の関係 かんけい 性 せい を説明 せつめい する。
アラベスク模様 もよう の思想 しそう 性 せい とはすなわち、それぞれの単位 たんい が複数 ふくすう の構成 こうせい 要素 ようそ から成立 せいりつ して、その単位 たんい の形状 けいじょう によって、他 た の諸 しょ 部分 ぶぶん との関 かか わり方 かた が異 こと なってくるが、全体 ぜんたい の図柄 ずがら の中 なか では、一々 いちいち の部分 ぶぶん が互 たが いに主張 しゅちょう し、設計 せっけい 者 しゃ の意図 いと に従 したが うことはない。一方 いっぽう で、一 ひと つの図像 ずぞう を描 えが き出 だ すことが最終 さいしゅう 目的 もくてき であるが、他方 たほう では何 なん らかの存在 そんざい 者 しゃ のイメージを描 えが くことではなく、その背後 はいご にある関係 かんけい 性 せい そのものの配置 はいち の妙 みょう を表現 ひょうげん することに関心 かんしん を抱 いだ く[22] 。
それを具現 ぐげん 化 か したアラベスク模様 もよう がエスファハーンの王 おう のモスクやアルハンブラ宮殿 きゅうでん で見出 みいだ すことが可能 かのう である。
人間 にんげん 関係 かんけい と男女 だんじょ の関係 かんけい 、親子 おやこ の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
個人 こじん の第 だい 一 いち の関係 かんけい 的 てき 単位 たんい は、夫婦 ふうふ 関係 かんけい であることから、クルアーンでも記述 きじゅつ があるが、肝要 かんよう なのは、男女 だんじょ の関係 かんけい の相補 そうほ 性 せい である。
「妻 つま たちは汝 なんじ らの着物 きもの 、汝 なんじ らは彼女 かのじょ らの着物 きもの (第 だい 2章 しょう 第 だい 187節 せつ )[23] 」
「神 かみ はまず一人 ひとり の人間 にんげん を創 つく り、それに配偶 はいぐう 者 しゃ を与 あた えた」
というクルアーンの記述 きじゅつ が明 あき らかになるとおり、男女 だんじょ がそれぞれ差異 さい 的 てき であり、相補 そうほ 的 てき であるという点 てん 、また、神 かみ による人間 にんげん の創造 そうぞう の記述 きじゅつ はあくまでも中立 ちゅうりつ 的 てき であるということになる。夫 おっと であること、妻 つま であることの特質 とくしつ を譲 ゆず らない協調 きょうちょう 関係 かんけい は、親 おや 、兄弟 きょうだい 姉妹 しまい 、子供 こども たちへの関 かか わり方 かた につながっていく[24] 。
クルアーンの記述 きじゅつ 。
アッラーを
措 お いて
他 た の
何者 なにもの を
拝 おが んではならぬぞ。
両親 りょうしん には
優 やさ しくせよ、それから
親戚 しんせき 縁者 えんじゃ にも、
親 おや なし
子 こ にも、
貧 まず しい
人々 ひとびと にも。あらゆる
人々 ひとびと に
善意 ぜんい の
言葉 ことば をかけ、
礼拝 れいはい を
欠 か かさず
守 まも り、そして
喜捨 きしゃ を
惜 お しみなく
出 だ せよ
— 第 だい 2章 しょう 第 だい 83節 せつ 、[25]
^ クルアーン「食卓 しょくたく 」章 あきら 第 だい 73節 せつ 『「アッラーは三 さん (位 い )の一 ひと つである。」と言 い う者 もの は、本当 ほんとう に不信心 ふしんじん 者 しゃ である。唯 ただ ―の神 かみ の外 そと に神 かみ はないのである。もしかれらがその言葉 ことば を止 と めないなら、かれら不信心 ふしんじん 者 しゃ には、必 かなら ず痛 いた ましい懲罰 ちょうばつ が下 くだ るであろう。』[3]
^ 黒田 くろだ 壽郎 としお 『イスラームの構造 こうぞう タウヒード・シャリーア・ウンマ』書肆 しょし 心 しん 水 すい 、2004年 ねん 、p.68
^ p.67
^ “聖 せい クルアーン 食卓 しょくたく (アル・マーイダ) ”. www.krn.org . 日本 にっぽん ムスリム情報 じょうほう 事務所 じむしょ . 2022年 ねん 6月 がつ 15日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 井筒 いづつ 俊彦 としひこ 訳 やく 『コーラン(下 した )』岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1958年 ねん 、p.245
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(下 した )』p.268
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(中 なか )』p.8
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(下 した )』p.65
^ pp.188-189
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(中 なか )』p.41
^ サラフィー(سلفي) とは、19世紀 せいき に生 う まれたイスラームにおけるオーソドックス・ファンダメンタリズムの運動 うんどう 、またその主義 しゅぎ のことを指 さ す。詳細 しょうさい はen:Salafism を参照 さんしょう のこと。
^ p.254
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(上 うえ )』p.158
^ 黒田 くろだ p.76
^ a b 黒田 くろだ p.76-80
^ 黒田 くろだ p.79
^ 黒田 くろだ p.82
^ 黒田 くろだ p.83
^ 黒田 くろだ p.85
^ 黒田 くろだ pp.87-89
^ Esposito/ Voll『イスラームと民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 』宮原 みやはら ・大和 やまと 共 ども 訳 やく 、成文 せいぶん 堂 どう 、2000年 ねん
^ 黒田 くろだ pp.97-100
^ 黒田 くろだ pp.105-106
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(上 うえ )』 p.45
^ 黒田 くろだ pp.111-116
^ 井筒 いづつ 訳 やく 『コーラン(上 うえ )』 p.24