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イスラーム建築けんちく

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

イスラーム建築けんちく(イスラームけんちく、英語えいご: Islamic architecture, アラビア: عمارة إسلامية‎)は、草創そうそうから現代げんだいいたるまでに、イスラーム人々ひとびとによってされた建築けんちくである。イスラム建築けんちくともばれる。たいへん多様たよう建築けんちくであり、建築けんちく材料ざいりょう建築けんちく技術ぎじゅつ多岐たきにわたるが、一定いってい統合とうごうてき原理げんりち、また、古代こだい建築けんちく特徴とくちょう西洋せいよう建築けんちくよりも色濃いろこいでいる。

イスラーム文化ぶんか領域りょういきないにおいては、モスクミナレットミフラーブムカルナスなどの施設しせつ採用さいようされたため、建築けんちくデザイン構成こうせい地域ちいきせいえておおきな影響えいきょうけた。また、イスラームでは偶像ぐうぞう崇拝すうはい禁止きんしされていたため幾何きかがく模様もよう文字もじ装飾そうしょく発展はってんし、うつくしいアラベスクカリグラフィーがイスラーム建築けんちくいろどっている。

ここでは、イスラーム建築けんちくをいくつかの地域ちいきけ、その変遷へんせん歴史れきし展開てんかいしたうえで、構成こうせい要素ようそ展開てんかいする。現代げんだいイスラーム建築けんちくについても、簡単かんたんれる。

概説がいせつ

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イスラーム建築けんちくとは、7世紀せいきから18世紀せいき、ないしは19世紀せいきまでの期間きかんに、イスラーム文化ぶんかけん形成けいせいされた建築けんちくしている。現代げんだいのイスラーム世界せかい建築けんちくは、現代げんだい建築けんちくとしてこの言説げんせつではれられないこともある。ほぼ1200ねんわた時間じかんと、世界せかい半分はんぶんってもよいほどの地域ちいきめており、その意匠いしょうはイスラームを信奉しんぽうする民族みんぞくおなじほど多様たようせいつとっても過言かごんではない。ただし、イスラームは宗教しゅうきょうであると同時どうじ社会しゃかい構造こうぞうであるとってもよく、このため、イスラーム建築けんちくには地域ちいきせいえた、共通きょうつうした特質とくしつみとめられる。

イスラーム建築けんちくは、カロリングあさ滅亡めつぼうのち古代こだい断絶だんぜつしたヨーロッパ諸国しょこく建築けんちくくらべ、古代こだい建築けんちくしょ形態けいたいをよくぎ、今日きょういたるまで維持いじしてきた。このため、イスラーム建築けんちく形態けいたいは、おおまかに、南西なんせいアナトリア半島はんとうから北部ほくぶシリアパレスチナエジプトリビア沿岸えんがんからきたアフリカ西部せいぶまでのかつてのマ帝国まていこくおよびひがしマ帝国まていこく(ビザンツ帝国ていこく)の支配しはい地域ちいきと、メソポタミアアフガニスタンパキスタンなどのサーサーンあさペルシャ帝国ていこく支配しはい地域ちいきけることができる。

アッバースあさ滅亡めつぼうのち勃興ぼっこうし、あるいは衰退すいたいしていったイスラム諸国しょこくは、特定とくてい宗教しゅうきょう施設しせつ社会しゃかい施設しせつ導入どうにゅうつづけた。これについては、すくなくともウマイヤあさ成立せいりつからアッバースあさ滅亡めつぼうするまでのあいだは、ローマしき社会しゃかい制度せいど建築けんちく施設しせつ各地かくち建設けんせつつづけたローマ建築けんちく状況じょうきょうはよくている。実際じっさいに、礼拝れいはいモスク、ミナレットミフラーブムカルナスなどの施設しせつはイスラーム建築けんちくもっと目立めだ共通きょうつうせいとなっている。

イスラーム建築けんちく歴史れきしについては、便宜べんぎてきつぎのように区分くぶんすることができる。つまり、「ぜん古典こてん」あるいは「形成けいせい」、「古典こてん」、「ポスト古典こてん」である。「形成けいせい」は、イスラームがまれるまえ建築けんちく積極せっきょくてき導入どうにゅうし、同化どうかしていった時期じきで、ウマイヤあさ、アッバースあさ初期しょきファーティマあさこうウマイヤあさ、そしてサーマーンあさガズナあさ初期しょきセルジュークあさ建築けんちくがこれにあたる。「古典こてん」は、ムカルナスととんがあたまアーチ普及ふきゅうしていった時期じきで、建築けんちく技法ぎほう建築けんちく形態けいたいは、くに民族みんぞくかべえて自由じゆう交錯こうさくした。「ポスト古典こてん」は、イスラーム建築けんちくの(現代げんだいイスラーム建築けんちくのぞく)最後さいご改変かいへんで、オスマン帝国ていこくサファヴィーあさ、そしてムガルあさ建築けんちくのことである。これらの巨大きょだい勢力せいりょく建築けんちくは、地理ちりてき隣接りんせつしているにもかかわらず相互そうごまった影響えいきょうおよぼさなかった。

歴史れきし

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形成けいせい建築けんちく

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マディーナの預言よげんしゃのモスク

モスクをはじめとするイスラーム建築けんちくは、その起源きげんふく中東ちゅうとう一帯いったい建築けんちく文化ぶんか系譜けいふつらなっている。

イスラームに先行せんこうしてアラビア半島はんとう周辺しゅうへんでは、神殿しんでんシナゴーグなどの宗教しゅうきょう施設しせつにおいて、すできよししょ中庭なかにわ中庭なかにわれつばしらという建築けんちく要素ようそ存在そんざいし、時代じだい建設けんせつされるモスク建築けんちくもこの伝統でんとうつらなるものとことができる。たとえば、さきイスラーム時代じだい紀元前きげんぜん2世紀せいきのものとおもわれるみなみアラビアで発掘はっくつされたフッカ神殿しんでんには、きよししょとそれに後続こうぞくする中庭なかにわプランをゆうし、その中庭なかにわには八角はっかくばしらによるれつばしらめぐらされ、中庭なかにわには水盤すいばんかれていた。また、みなみシリアのドゥラ・エウロポスのシナゴーグ遺跡いせきには、すでにトーラー安置あんちしたとおもわれるせいがんみぎわき説教せっきょうだんかれたきよししょち、それに後続こうぞくしてれつばしらめぐらせた中庭なかにわをもっていた。せいがんみぎわきはいされた説教せっきょうだんれつばしらつきの中庭なかにわ水盤すいばんという構造こうぞうは、現在げんざいいたるモスク建築けんちく要素ようそ共通きょうつうする。

イスラーム建築けんちく端緒たんしょは、622ねんヒジュラのちにマディーナに礼拝れいはいしょとして建設けんせつされた預言よげんしゃムハンマド邸宅ていたくはじまる。記録きろくによると、預言よげんしゃいえ日干ひぼしレンガ(アドベ)でつくられ、1へんが100ディラーウ(dhirā')すなわちやく50メートル、面積めんせきやく2,500平方へいほうメートルのひろ中庭なかにわと、それにせっする南北なんぼくに1れつずつの柱廊ちゅうろうめぐらした部屋へやからり、かべたかさは2.5メートルほどであったという。中庭なかにわめんするはしられつにはシュロおおって屋根やねをつけた。ムハンマドはここを信者しんじゃ開放かいほうして集団しゅうだん礼拝れいはい信者しんじゃからの陳情ちんじょういたとつたえられる。当初とうしょエルサレムキブラであったため北側きたがわ壁面へきめんにして普段ふだんムハンマドが礼拝れいはいするみぎわきに3だん木製もくせい高座こうざ(のちのミンバル)がかれ、ここでムハンマドは説教せっきょうおこなっていたが、マッカ征服せいふくはキブラはマッカにさだめられたため、南側みなみがわ柱廊ちゅうろう増設ぞうせつされミンバルも移動いどうした。これが現在げんざい預言よげんしゃのモスクであり、そのすべてのモスクの起源きげん雛形ひながたとなった[1]。ただし、アッバースあさ歴史れきしイブン・サアドによるムハンマドの伝記でんきによれば、ムハンマド自身じしん信者しんじゃ財産ざいさん無駄むだにするということで、建物たてもの建設けんせつきんじたとつたえている。豪華ごうか建築けんちくぶつ建立こんりゅう偶像ぐうぞう禁止きんしするという預言よげんしゃおしえにしたがい、ムハンマドの存命ぞんめいちゅうかれ後継こうけいしゃである正統せいとうカリフ時代じだいには、イスラーム建築けんちくはほとんど発展はってんのぞめない状況じょうきょうにあった。しかし、ウマイヤあさ時代じだいになると、イスラームは芸術げいじゅつたいする関心かんしんしめすようになり、これにともなって建築けんちく発達はったつする。ウマイヤあさからアッバースあさ時代じだいにかけて、イスラーム建築けんちく古代こだい建築けんちく吸収きゅうしゅうし、イスラーム特有とくゆう建築けんちく形態けいたい模索もさくすることになるのである。

預言よげんしゃムハンマドと正統せいとうカリフの時代じだい

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ムハンマドがキブラカアバ神殿しんでんさだめたのは624ねんのことであったが、マッカとカアバ神殿しんでんクライシュぞくから奪還だっかんされ、イスラームの聖地せいちとなったのは630ねんであった。この場所ばしょはイスラーム以前いぜんから聖地せいちとして巡礼じゅんれいしゃあつめていたが、ムハンマドが偶像ぐうぞう崇拝すうはい禁止きんししたため、カアバ神殿しんでんない偶像ぐうぞうすべ破壊はかいされた。カアバ神殿しんでんはイスラーム最初さいしょ建築けんちくぶつであるが、既存きそん建築けんちくぶつ修繕しゅうぜんしたもので、イスラーム独自どくじ建築けんちくべるものではない。


7世紀せいきなかに、ムスリム軍隊ぐんたいは、ペルシャシリアエジプトマグレブ(そして8世紀せいきにはイベリア半島はんとうへも)に領土りょうど拡大かくだいし、各地かくち信仰しんこう拠点きょてんとなるモスクを整備せいびした。638ねん、サアド・ブン・アビー=ワッカースはクーファまち建設けんせつし、ここに会衆かいしゅうモスクを建設けんせつした。周囲しゅういほりによっていちへんやく104mの正方形せいほうけい区切くぎり、キブラにかって木造もくぞう屋根やねけたれつばしらつだけの、たいへん簡素かんそなものである。しかし、この単純たんじゅん建物たてもの最初さいしょのイスラーム建築けんちくで、635ねんころ建設けんせつされたバスラの会衆かいしゅうモスクはあしかこわれただけであった。

宗教しゅうきょう施設しせつ比較ひかくすると、世俗せぞく建築けんちくはより強固きょうこ建築けんちくであった。635ねん、バスラに政庁せいちょう(ダール・アル・イマーラ)が建設けんせつされ、638ねんには、クーファにも政庁せいちょう建設けんせつされるが、ぞく侵入しんにゅうしたことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁せいちょうをより堅牢けんろうなものにえるようめいじている。また、644ねんから656ねんあいだに、ムアーウィアによってダマスカス政庁せいちょう建設けんせつされている。しかし、やはり建築けんちくぶつにはなんらの装飾そうしょくおこなわれなかったようで、ひがしマ帝国まていこく使節しせつはこの政庁せいちょうひょうして、うえとりしたはネズミのべている。

ウマイヤあさによるイスラーム建築けんちく発達はったつ

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それまでの正統せいとうカリフの時代じだいくらべると、ウマイヤあさはイスラームに芸術げいじゅつをもたらすことになるが、その着想ちゃくそうサーサーンあさ装飾そうしょくやシンボルの影響えいきょうがたいへんつよく、すくなくとも芸術げいじゅつ分野ぶんやにおいては、ウマイヤあさはサーサーンあさ後継こうけいしゃであった。ひがしマ帝国まていこく影響えいきょうがあまりみとめられないのは、コンスタンティノポリスを攻略こうりゃくできなかったことがおおきいとかんがえられる。建築けんちくについては、やはりサーサーンあさのペルシャ様式ようしき影響えいきょういものの、ダマスカスにあったこともあって、ローマ建築けんちく古代こだいエジプトビザンティン建築けんちく影響えいきょうみとめることができる。

エルサレムの「いわのドーム」
ダマスカスのウマイヤ・モスク
ベルリン、ペルガモン博物館はくぶつかんにあるムシャッタ宮殿きゅうでん正面しょうめん一部いちぶ

ウマイヤあさによる初期しょきのイスラーム建築けんちく傑作けっさくは、7世紀せいきまつ完成かんせいしたエルサレムいわのドームと、8世紀せいき初頭しょとう完成かんせいしたダマスカスウマイヤド・モスクである。アル=アクサー・モスクも、現存げんそんする建物たてものワリード1せいによって建設けんせつされたものが中核ちゅうかくとなっているが、アッバースあさ時代じだいだい増築ぞうちくされ、さらに時代じだいになっても度重たびかさなる変更へんこうされた。現存げんそんする部分ぶぶんでは、東側ひがしがわ廊下ろうか一部いちぶがワリード1せい時代じだいのものとかんがえられている。ワリード1せいは、706ねんにモスクにミフラーブを設置せっちすることをめるなど、ウマイヤあさ建築けんちくおおきな足跡あしあとのこしたカリフで、建物たてもの建設けんせつさいしてはエジプトのコプト教徒きょうと工匠こうしょう雇用こようし、イスラーム建築けんちく発展はってん寄与きよした。

いわのドームは、ウマイヤあさ全盛期ぜんせいきをきずきあげただい5だいカリフであるアブドゥルマリクによるもので、八角はっかくがた台座だいざうえに、室内しつないひかりむドラムとばれる円筒えんとうじょう部分ぶぶんもうけ、そのうえ金色きんいろかがやくドームをもうけた。台座だいざにあたる部分ぶぶんは、カアバとちがってはち角形かくがたで、内陣ないじんせいなるいわがある)をしゅう歩廊ほろうかこむが、この形式けいしき初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくにおけるマルティリウム(記念きねん礼拝れいはいどう)のいくつか[ちゅう 1]類似るいじしている。

しばしばおおきなダメージをけ、大幅おおはば改修かいしゅうされてしまったために、当時とうじ姿すがたをほとんどめていないが、ダマスカスのだいモスク(ウマイヤド・モスク)はいまなおイスラームの重要じゅうよう建築けんちくぶつとして存在そんざいしている。ワリード1せいによって、706ねん建設けんせつされたウマイヤド・モスクの中央ちゅうおうもうけられたそでろう北側きたがわ正面しょうめんは、コンスタンティノポリスにあった皇帝こうてい宮殿きゅうでんのハルケもんや、スプリトディオクレティアヌス邸宅ていたくイタリアラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどうモザイクえがかれたひがしゴート王国おうこくテオドリックおう宮殿きゅうでんなどとの共通きょうつうせい指摘してきされ、比較ひかくされている[2]。ラヴェンナのテオドリックの王宮おうきゅうおなじく、ダマスカスのだいモスクもモザイクがちりばめられており、中庭なかにわ廊下ろうかはカーテンで仕切しきられていたようである。

ワリード1せいによって建設けんせつされたとわれるアンジャル世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされている都市とし遺跡いせきで、近隣きんりんいしじょうから、714ねん刻印こくいんはいった外壁がいへき仕上しあざい発見はっけんされている。370m×310mにもおよぶこの都市とし建設けんせつしたのはエジプトの職人しょくにん集団しゅうだんで、れつばしらによって装飾そうしょくされたカルドとデクマヌスの交差こうさインスラによって形成けいせいされるグリットじょう都市とし形態けいたいは、ルザファ、ティムガッドなどのローマ都市としそのものである。ただし、宮殿きゅうでんとされる建物たてものはバイトによって構成こうせいされるイスラーム特有とくゆう形式けいしきで、公私こうしふたつの謁見えっけん広間ひろまっている。

イスラーム初期しょき建築けんちく装飾そうしょくは、現在げんざい、その一部いちぶベルリンペルガモン博物館はくぶつかん保存ほぞんされている未完みかん都市としムシャッタ宮殿きゅうでんることができる。りの唐草からくさ模様もようがびっしりとほどこされた壁面へきめんは、ジグザグのモールディングによって三角形さんかっけいえんられており、地中海ちちゅうかい芸術げいじゅつとサーサーンあさ初期しょき芸術げいじゅつ相互そうご影響えいきょうをみることができる。しかし、このような装飾そうしょくはオスマンちょうとムガルあさのぞけば、以後いごのイスラーム建築けんちくではまったられない。

アッバースあさ初期しょきイスラーム建築けんちく

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サーサーンあさ君臨くんりんしていた現在げんざいイランイラクをその勢力せいりょくにおいたアッバースあさは、サーサーンあさ以来いらいのペルシア建築けんちく伝統でんとういだ。アッバースあさ時代じだいには、ウマイヤあさ由来ゆらい陸屋根ろくやねおおくの円柱えんちゅうささえるはしらしつ形式けいしきのモスクが各地かくち建設けんせつされはじめたが、宮殿きゅうでん採用さいようされたよん分割ぶんかつ中庭なかにわとドームにつうじるイーワーンはペルシアの職人しょくにんによって建設けんせつされたもので、おそらくペルシア建築けんちく由来ゆらいするものとかんがえられている。

762ねんに、アッバースあさだい2だいカリフのマンスールによって建設けんせつ開始かいしされたバグダードは、現在げんざいのこ痕跡こんせきはまったくないが、同心円どうしんえんじょうじゅう城壁じょうへきよっつのもんをもった直径ちょっけい 2.3kmの円形えんけい都市としであった。ニネヴェハトラハッラーンアルダシール1せいによってひらかれたサーサーンあさ都市としフィールーザーバードなども、円形えんけいほりかべかこまれ、等間隔とうかんかくよっつのもん配置はいちされた構成こうせいであったが、このような円形えんけい都市とし中央ちゅうおうアジアではかなりふるくから存在そんざいしていた。つまり、バグダートは古代こだい中央ちゅうおうアジアの宇宙うちゅうかんからみちびかれた構造こうぞう受継うけついだ都市としで、占星術せんせいじゅつてき天命てんめい思想しそう模範もはんとする、アッバースあさ初期しょき統治とうちイデオロギー具体ぐたいてき表出ひょうしゅつかんがえられている[3]。マンスールによるバグダードのアイデアは、もとゾロアスター教徒きょうとであった宮廷きゅうてい占星術せんせいじゅつナウバフトと、ペルシアけいおもわれるバスラ出身しゅっしんユダヤ教徒きょうとマーシャーアッラーフ宮廷きゅうてい占星術せんせいじゅつたちの入念にゅうねんなプランによるとされるが、仏教徒ぶっきょうとからイスラームに改宗かいしゅうした腹心ふくしんのハリード・ブン・バルマクの関与かんよ指摘してきされている。

カリフ・マンスールのおいにあたるイーサー・ブン・ムーサーによって764ねんころ778ねんころ建設けんせつされたとおもわれるウハイディル宮殿きゅうでんは、城壁じょうへきかこまれた砂漠さばくなかにある宮殿きゅうでん遺跡いせきであるが、かつては灌漑かんがい設備せつびそなえた農地のうちかこまれていた。東西とうざい169メートル・南北なんぼく179メートルにおよ広大こうだい矩形くけい外壁がいへきゆうし、さらに東西とうざい82メートル・南北なんぼく112メートルにおようち城壁じょうへきによって宮殿きゅうでん建物たてものぐんかこわれていた。東西とうざい南北なんぼくよっつの城門じょうもんった外城とじょうかべは、やく10メートル間隔かんかく半円はんえんがたゆうし、城壁じょうへき上部じょうぶには狭間はざま(やざま)とアーチによってささえられためぐ警路が内部ないぶふくまれており、城壁じょうへきふくめて建物たてもの全体ぜんたいレンガつくりではなくモルタルによってかためられた石積いしつみという大変たいへん強固きょうこ構造こうぞうである。これらじゅう城壁じょうへきによって宮殿きゅうでん城塞じょうさいされていた。現在げんざいでも内城うちじろかべ内部ないぶ宮殿きゅうでん主要しゅよう部分ぶぶん原形げんけいたもっている[4]中央ちゅうおうにイーワーンをとおし、その両側りょうがわ居室きょしつ配置はいちするウハイディルの構成こうせいは、歴史れきしマスウーディーによると、ペルシアの戦闘せんとう陣形じんけいあらわしたもので、だい10代カリフ・ムタワッキルによってはじめて採用さいようされた。バグダートにあった大宮おおみや殿どのもウハイディルとおな構成こうせいであったとかんがえられるが、これが事実じじつであるとすれば、細部さいぶ装飾そうしょく建築けんちく構造こうぞう平面へいめん計画けいかくのすべてはサーサーンあさ由来ゆらいしており、アッバースあさ権力けんりょくしゃたちがサーサーンあさ儀礼ぎれい権力けんりょくもちいて、王権おうけん不動ふどうせい確立かくりつ配慮はいりょしたことがうかがえる。このような宮殿きゅうでん建築けんちくは、だい8だいカリフ・ムウタスィム在位ざいい833ねん - 842ねん)によって建設けんせつされたサーマッラーのカスル・アル=ジッスとジャウサク・アル=ハルカニーにることができる。

ムウタスィムはマムルーク保護ほごするため、836ねんにバグダードのきたやく100kmに位置いちするサーマッラーにうつした。この都市としは、ティグリスがわ東岸とうがん位置いちするちょうあたり35kmの長方形ちょうほうけい都市としで、かべなどの都市とし防衛ぼうえいする機能きのうなにっていなかった。ムタワッキルのムウタッズのんだサーマッラーのバルクワーラー宮殿きゅうでんには、「シュレークシュニット」とばれる曲線きょくせん構成こうせいされたアッバースあさ特有とくゆうスタッコ装飾そうしょくのこっている。これはエジプトからトランスオクシアナの広範囲こうはんいられる中央ちゅうおうアジアに起源きげん装飾そうしょくで、その抽象ちゅうしょうせいイスラーム美術びじゅつつうじる。サーマッラーのだいモスクは848ねんころ建設けんせつ開始かいしされ、852ねんけんじどうしきおこなわれた。現在げんざい焼成しょうせい煉瓦れんがによって建設けんせつされたクテシフォンとほとんどおな形状けいじょう周壁しゅうへきと、マルウィヤ・ミナレットばれる螺旋らせんがたのミナレットのみがのこる。しかし、周壁しゅうへき内部ないぶおおきさは240m×156mにたっし、平面へいめん規模きぼえば現在げんざいでも、イスラームでもっとおおきなモスクである。内部ないぶ構造こうぞううしなわれているが、煉瓦れんがづくり角柱かくちゅう転用てんようざい円柱えんちゅうけたはしら陸屋根ろくやねささえる、ウマイヤあさ由来ゆらいはしらしつ形式けいしきのモスクであった。サーマッラーでは、ホルサバードやバビロンの建築けんちく形態けいたい、サーサーンあさ伝統でんとうてき装飾そうしょくれられており、イスラームが独特どくとく建築けんちく獲得かくとくするじょうで、様々さまざま素地そじ包含ほうがんしていったことがわかる。

サーマーンあさとガズナあさ建築けんちく

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ブハライスマーイール・サーマーニーびょう

875ねんマー・ワラー・アンナフル全域ぜんいき支配しはいしたサーマーンあさは、首都しゅとブハラにおき、その宮廷きゅうてい10世紀せいき中期ちゅうきまで近世きんせいペルシア文芸ぶんげい復興ふっこう中心ちゅうしんであった。ガズナあさはサーマーンあさから977ねん事実じじつじょう独立どくりつたし、現在げんざいアフガニスタンガズナ拠点きょてんとしてきたインド方面ほうめんさかんに遠征えんせいし、最盛さいせいにはホラーサーンからガンジスがわ流域りゅういきまでの広大こうだい領土りょうど支配しはいした。いずれの王朝おうちょうも、ゾロアスターきょう建築けんちく由来ゆらいするとられる開放かいほうされたパビリオン形式けいしき霊廟れいびょうと、イーワーンをそなえたモスクを形成けいせいするなど、イスラーム建築けんちくにおいて主要しゅよう役割やくわりになったとおもわれるが、セルジュークあさ以前いぜんのイラン建築けんちくはほとんどのこっておらず、確実かくじつなことはえない。

ガズナのマスウード3せいのミナレット

建築けんちくぶつくらべると、霊廟れいびょう建築けんちくはある程度ていど残存ざんそんれいがある。ブハラに現存げんそんするサーマーンあさだい2だい君主くんしゅイスマーイール・サーマーニー霊廟れいびょうはその傑作けっさくで、900ねんころ建設けんせつ開始かいしされた。四方しほうすべてがとびらのない解放かいほうされたパビリオン形式けいしきで、煉瓦れんが模様もようみと彫刻ちょうこくほどこされたテラコッタをわせることによって、うつくしい外観がいかんとなっている。本来ほんらいイスラームでは、はかうつくしくかざることが禁止きんしされていたため、このような解放かいほうてきなつくりにして、このきんからのがれる意図いとがあったのではないかとのせつがある。ティームのアラブ・アター霊廟れいびょうは、977ねん碑文ひぶんち、イスマーイールびょうとほぼおなじモティーフの装飾そうしょくによってかざられている。9世紀せいきごろからイスラームの支配しはい地域ちいきでは、各地かくちつてきょう従事じゅうじしたアラブ入植にゅうしょく時代じだい宗教しゅうきょう指導しどうしゃたち(イスラームだいいち世代せだいであるサハーバ預言よげんしゃムハンマド縁者えんじゃたちもふくまれる)などを聖者せいじゃ(ワーリーなど)として崇敬すうけいし、その墳墓ふんぼ参詣さんけいする習慣しゅうかん広範こうはんられるようになった。場合ばあいによっては墳墓ふんぼ堂宇どううもうけてはかびょうとして建設けんせつするれいえ、これら中央ちゅうおうアジアのはかびょう建築けんちく出現しゅつげんもこのような時代じだいてき変化へんか背景はいけいとしている。あさいイーワーンの背後はいごにドームを形式けいしきで、その建設けんせつされるモスク形式けいしきのはしりというべき建築けんちくとなっている。

ガズナあさ建築けんちくぶつは、そのゴールあさ侵略しんりゃく、そしてモンゴル帝国ていこく破壊はかいなどによって、今日きょうのこるものはたいへんすくない。くわえて近年きんねんのアフガニスタン紛争ふんそうのためにガズナあさ、ゴールあさ根拠地こんきょちとなったアフガニスタンは発掘はっくつ内戦ないせん以前いぜん調査ちょうさ途中とちゅうのままの遺跡いせき多数たすうあり、ガズナあさ関連かんれん遺跡いせき現在げんざいつづ戦闘せんとうのため破壊はかい危機きき調査ちょうさ不能ふのう状態じょうたいさらされている場合ばあいおおい。ガズナあさだい13だい君主くんしゅスルターン・マスウード3せいが、1100ねんころ首都しゅとガズナてたミナレットは、はちてんほし断面だんめん形状けいじょうで、かつては上部じょうぶ円筒えんとうじょう構造こうぞうぶつがあった。彫刻ちょうこくほどこされたテラコッタと、幾何きかがく模様もよう煉瓦れんがによって装飾そうしょくする技法ぎほうもちいているが[5]建築けんちくぶつ付随ふずいしておらず、記念きねんとうとして建設けんせつされたものと推測すいそくされる。このような独立どくりつしたミナレットは、カラハンあさ、ゴールあさなどでも模倣もほうされた。アフガニスタン南西なんせいヘルマンドしゅう州都しゅうとラシュカル・ガーフen:Lashkar Gah)の北部ほくぶにあるラシュカリ・バーザールとばれる場所ばしょ広大こうだい宮殿きゅうでんふく合体がったい遺跡いせきがあるが、これもマフム−ド3せい時代じだい建設けんせつされたものである[6]。ヘルマンドがわ東岸とうがんかわべりにてられた東西とうざいやく120m、南北なんぼくやく200mの敷地しきちち、これに東西とうざい60m、南北なんぼく70mほどの矩形くけい中庭なかにわゆうす。この中庭なかにわ対照たいしょうじく線上せんじょう四面しめんにイーワーンがもうけられた、よんイーワーン形式けいしき後述こうじゅつ)であることも特徴とくちょうである。

きたアフリカの地方ちほう政権せいけん

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ケルアンのだいモスク平面へいめん
スースの「リバート」
イブン・トゥールーンのモスク

ナイルがわ沿いの軍事ぐんじ都市としフスタート拠点きょてんに、イスラームははや段階だんかいエジプト以西いせいきたアフリカ支配しはいにおいた。この当時とうじのイスラーム建築けんちく特徴とくちょうをよくのこしているのは、663ねん664ねん建設けんせつされた都市としケルアンと、821ねん建設けんせつされた城塞じょうさい都市としスースである。

ケルアンのだいモスクは、ヤジード・ブン・ハティームによって774ねん建設けんせつされたきたアフリカ現存げんそん最古さいこのイスラーム建築けんちくであるが、836ねんにジヤーダト・アッラー1せいによって改築かいちくされたのち荒廃こうはい時代じだいむかえ、さらにハフスあさによってだい改修かいしゅうされた。それでも、ヤジード時代じだい部分ぶぶんとジヤーダトによる内部ないぶ構成こうせいはよくのこっている。その平面へいめん基本きほんてきはしらしきであるが、ミフラーブのあるドームのもとで、ややひろろう丁字ていじがた直交ちょっこうするため、丁字ていじがたモスクばれており、この形式けいしきはそのきたアフリカのモスクの典型てんけいてきなものとなった。

スースの「リバート」は、ジハードすすめるイスラーム戦士せんしとりでとして建設けんせつされたものだが、元来がんらい4世紀せいきひがしマ帝国まていこくによって建設けんせつされた教会堂きょうかいどうがあった。切石きりいしによって構築こうちくされた城壁じょうへきやく34.5m四方しほう正方形せいほうけいで、四隅よすみかくあたり中央ちゅうおうには性格せいかくつボルジュがあり、外部がいぶ堅牢けんろう防衛ぼうえい拠点きょてんとしての性格せいかくせる。南東なんとうのボルジュはたかつくられており、本来ほんらい近隣きんりんへの発火はっか信号しんごうようだったとのせつもあるが、今日きょうではミナレットの役割やくわりたしている。また、城壁じょうへき内部ないぶは、東西とうざい17m、南北なんぼく14mの中庭なかにわかこ回廊かいろうとなっており、みなみにはモスクがもうけられていた[7]。スースのリバートは、イフリーキーヤがイスラームにとって辺境へんきょうではなくなり、その軍事ぐんじてき役割やくわり喪失そうしつしつつある時代じだいのものである。

9世紀せいきになると、アッバースあさ衰退すいたいとともに、きたアフリカ、イラン、中央ちゅうおうアジアはその支配しはいいきから離散りさんしていったが、建前たてまえじょうとはいえ、アッバースあさのカリフはムハンマドの代行だいこうしゃとして存在そんざいしていた。このため、各地かくち設立せつりつした地方ちほう政権せいけんとく東方とうほう地域ちいきでは、建築けんちくぶつ構造こうぞうたいとして煉瓦れんがもちい、ふと構造こうぞうばしら(ピア)によって屋根やねささえるサーマッラーのモスク形式けいしき採用さいようした。アッバースあさから独立どくりつしたトゥールーンあさ建築けんちくであるカイロのイブン・トゥールーンのモスクは、厳格げんかく静謐せいひつ内部ないぶ空間くうかん形成けいせいする洗練せんれんされた建物たてものだが、平面へいめんはサーマッラーのだいモスクとまったおな構成こうせいである[8]

ただし、地方ちほう政権せいけんのすべてがアッバースあさ建築けんちく盲目的もうもくてき追従ついしょうしたわけではなく、ムラービトあさムワッヒドあさ成立せいりつする以前いぜんきたアフリカでは、キブラにかって直交ちょっこうする柱廊ちゅうろうからるウマイヤあさ初期しょきのモスク形式けいしき、あるいはケルアンのだいモスクのような丁字ていじがた平面へいめんのモスク形式けいしき採用さいようされた。また、ベルベルじんによって創始そうしされるズィールあさは、935ねん創建そうけんされたアシールの宮殿きゅうでんにおいて、ウマイヤあさやアッバースあさとはまった系統けいとうことなる建築けんちく形態けいたい獲得かくとくする。この宮殿きゅうでんのバイト、および長方形ちょうほうけいまえしつそなえた十字じゅうじがた玉座ぎょくざあいだは、そのきたアフリカからイベリア半島はんとう宮殿きゅうでん建築けんちくにおいてひろ模倣もほうされた。また、ズィールあさ1014ねん分裂ぶんれつし、独立どくりつしたハンマードあさ拠点きょてんカルアさだめ、1152ねんにムワッヒドあさ破壊はかいされるまで都市とし建設けんせつ活動かつどうつづけた。この都市としのカスル・アッ・サラームの遺構いこうにおいて、石膏せっこうせいムカルナスが発見はっけんされており、これはエジプトをのぞ西方せいほう地域ちいきではもっとはやれいとなっている。このムカルナスの制作せいさく年代ねんだい特定とくていできないが、11世紀せいきまつ推定すいていされており、11世紀せいき中期ちゅうきはじめて使用しようされたムカルナスが、はやくもその世紀せいきわりには、もっと西にし地方ちほうにまで拡散かくさんしていったようである。

イベリア半島はんとうのちウマイヤあさ

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コルドバのメスキータ「円柱えんちゅうもり
ミフラーブ上部じょうぶのリブ・ヴォールト

イスラームが711ねん征服せいふくをはじめてからはん世紀せいき以上いじょうあいだイベリア半島はんとう混乱こんらんきわみにあり、この時期じき建設けんせつされたイスラームのモニュメントは皆無かいむである。ようやく786ねんになって、アブド・アッラフマーン1せいが11ろう礼拝れいはいホールを建設けんせつする。この礼拝れいはいどうが、コルドバメスキータ基本きほん部分ぶぶんである。メリダのローマ水道橋すいどうばしから着想ちゃくそうされたとおもわれるじゅうのアーチは、やはり末期まっきローマ建築けんちく特徴とくちょうてきいし煉瓦れんが交互こうごわせたものであった。アブド・アッラフマーン2せい時代じだいになると、イベリア半島はんとうはようやく安定あんていするようになり、コルドバが勢力せいりょくからの脅威きょういにさらされることはなくなった。848ねんに、メスキータはキブラの方向ほうこう拡張かくちょうされ、さらに951ねんには、アブド・アッラフマーン3せいによってサフン(中庭なかにわ)がひろげられ、その周囲しゅうい角柱かくちゅう円柱えんちゅう交互こうごならべたリワーク(回廊かいろう)、そしてミナレットが建設けんせつされた。962ねんに、ハカム2せいおこなった増築ぞうちくは、みなみに12スパンぶん礼拝れいはいホールが追加ついかされたもので、増築ぞうちく中央ちゅうおうくちにリブをつドームが追加ついかされた。キブラがわかべには宮殿きゅうでんにつながる通路つうろになっており、カリフの威厳いげん際立きわだたせるスペース、マクスーラにつうじるが、その上部じょうぶはガラス・モザイクの精緻せいち装飾そうしょくかざられた交差こうさリブをつドームとなっている[9]。このヴォールトは、ひがしマ帝国まていこく首都しゅとコンスタンティノポリスの職人しょくにんによるモザイク装飾そうしょくで、ビザンティン美術びじゅつ作例さくれいとしてもたいへん重要じゅうようである。

こうウマイヤあさは、地方ちほう政権せいけんことなり、リブ・ヴォールトとスタッコのぞいて、アッバースあさ建築けんちく美術びじゅつれることはせず、ウマイヤあさから継承けいしょうされた建築けんちく独自どくじ建築けんちく美学びがく投影とうえいしていった。造形ぞうけいはローマ建築けんちく影響えいきょうつよく、事実じじつこうウマイヤあさひがしマ帝国まていこく親密しんみつ関係かんけいたもっていた。こののちウマイヤあさ建築けんちくこそ、イベリア半島はんとうマリーンあさナスルあさ精妙せいみょうなムーア建築けんちく素地そじとなったのである。

ペルシャとトルキスタンの古典こてんイスラーム建築けんちく

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セルジュークあさ初期しょき古典こてん建築けんちく

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セルジュークあさは、ガズナあさからホラーサーンをうばった11世紀せいき前期ぜんきから急速きゅうそくにその勢力せいりょく拡大かくだいし、1071ねんにはひがしマ帝国まていこくマラズギルトのたたかやぶり、カラハンあさファーティマあさ駆逐くちくして広大こうだい領土りょうど獲得かくとくすることに成功せいこうした。この王朝おうちょうはペルシャの伝統でんとう保持ほじし、すぐれた文化ぶんかつちかっていたが、家督かとくおおくの後継こうけいしゃぐという習慣しゅうかんっていたため抗争こうそう相次あいつぎ、分裂ぶんれつ状態じょうたいおちいったうえ、中央ちゅうおうアジア政権せいけん13世紀せいきモンゴル帝国ていこく14世紀せいきティムールあさ侵略しんりゃくによって長期間ちょうきかんにわたって存続そんぞくすることができなかった。しかしながら、セルジュークあさすぐれた建築けんちくしており、現存げんそんするものがおおいとはえないものの、イスラーム建築けんちくにおいて多大ただい功績こうせきのこしたことがられる。

エスファハーンのだいモスク中庭なかにわ西にしイーワーン ムカルナスがえる
ライイのトゥグリル霊廟れいびょう
ブハラの「カルヤーン・ミナレット」とモスク

エスファハーンは、1051ねんにセルジュークあさ占拠せんきょされ、アルプ・アルスラーンによって帝国ていこく首都しゅととなった。きゅう市街しがいだいモスク(Masjid-i Jum'a 金曜きんようモスク)は、9世紀せいきすえから10世紀せいきにかけて、典型てんけいてきなウマイヤあさ由来ゆらいはしらしきモスクとして建設けんせつされていたが、セルジュークあさ時代じだいにいくつかの重要じゅうよう改造かいぞうおこなわれている。そのひとつが、王朝おうちょう末期まっきの12世紀せいき改修かいしゅうった、のちにモスクやマドラサの建築けんちく形式けいしきとして一般いっぱんてきとなるよんイーワーン形式けいしき構築こうちくである。これは中庭なかにわ中心ちゅうしんとして四方しほうにイーワーンを十字形じゅうじがたはいするものであった。中庭なかにわはさんでイーワーンが対面たいめんするイーワーン形式けいしきや、中庭なかにわはさんで四方しほうにイーワーンをはいする形式けいしきは、サーサーンちょうや12世紀せいき初頭しょとうにガズナあさマフムード3せい建設けんせつしたラシュカリ・バーザールの宮殿きゅうでんふく合体がったいられるが、現在げんざいのこよんイーワーン形式けいしきは、エスファハーン周辺しゅうへん誕生たんじょうしたとかんがえられる[10]。この形態けいたい後世こうせいへの影響えいきょうはなはおおきく、その、ムスタンスィリーヤ学院がくいん1234ねん竣工しゅんこう)、ウルグ・ベク・マドラサ、イマーム・モスク、マムルークあさのバイバルス2せいびょう(1306ねん)、スルタン・ハサン・マドラサ(1363ねん)など、イスラームけんのあらゆる地域ちいき伝播でんぱし、かつ、現在げんざいまでのほぼ1000ねんわたって建設けんせつされつづけている。

マドラサはガズナあさによってつくられたらしいが、宗教しゅうきょう施設しせつ要素ようそとして確立かくりつしたのはセルジューク建築けんちくであるとかんがえられる。最初さいしょのマドラサは、1046ねん以前いぜん建設けんせつされたトゥグリル・ベグによるニーシャープールのマドラサであるが、現在げんざいでは、宰相さいしょうニザームルムルク創設そうせつし、ニーシャープールのほか、バグダード、エスファハーンなどに設置せっちされたニザーミーヤ学院がくいんが、ハルギルドとライイにのみのこる。ともに完全かんぜん廃墟はいきょとなっており、上部じょうぶ構造こうぞうについてはあまりよくかっていないが、よんイーワーン形式けいしきのものである可能かのうせいたかい。イスラームの教義きょうぎおしえ、国家こっか役人やくにん養成ようせいするマドラサは、ルーム・セルジュークあさザンギーあさ、およびアイユーブあさなどのセルジュークあさけいしょ政権せいけんによってがれ、ザンギーあさヌールッディーンによるヌーリーヤ学院がくいんやアッバースあさだい36だいカリフ・ムスタンスィルがバグダードに創設そうせつしたムスタンスィリーヤ学院がくいんなど、アナトリアやシリア、エジプトに次々つぎつぎ建設けんせつされることになる。

セルジュークあさはかびょう建築けんちくについては、いくつかの注目ちゅうもくすべき作品さくひん、アルバクのグンバト・イ・アリー(1056ねん)、ハッラガーンのそうとう(1068ねんと1093ねん)、およびトゥグリル霊廟れいびょう(1139ねん?)、そしてマラーガのグンバト・イ・カブートがのこっている。ハッラガーンにおける外部がいぶ装飾そうしょく手法しゅほうは、サーマーンあさのイスマーイール霊廟れいびょうおなじく煉瓦れんがみによるものだが、より繊細せんさい洗練せんれんされており、サーマーンあさ以来いらい伝統でんとうをセルジュークあさがよく保持ほじしていたことがうかがえる。トゥグリル霊廟れいびょうは、ゴルガーンしゅうにあるズィヤールあさのグンバト・イ・カーブース(1006ねん)のデザインを継承けいしょうしているが、三角さんかくじょうフランジ上部じょうぶ構造こうぞうコーニス接続せつぞくする部分ぶぶんにムカルナスを配置はいちしており、グンバト・イ・アリーとおな措置そちおこなっている。

セルジュークあさ建築けんちくではないが、西方せいほうセルジューク建築けんちく先細さきぼそりの円筒えんとうがたミナレットの形態けいたい影響えいきょうけたものとして、1117ねん完成かんせいしたブハラげんウズベキスタン)のカルヤーン・ミナレットがある。これはカラハンあさのアルスラーンによって建立こんりゅうされたもので、煉瓦れんがつくされた様々さまざま模様もよう横縞よこじま形成けいせいする装飾そうしょくとなっている[11]。ずんぐりとした容姿ようしトルキスタン建築けんちく伝統でんとう融合ゆうごうしたものとなっている。

イルハンあさしろひつじあさ古典こてん建築けんちく

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タブリーズのマスジェデ・カブート(ブルー・モスク)

13世紀せいきになると、モンゴル帝国ていこくによる侵攻しんこうによって中央ちゅうおうアジアで急速きゅうそく領土りょうど拡大かくだいしていたホラズム・シャーあさ事実じじつじょう滅亡めつぼうし、サマルカンド、ブハラをはじめとするこの地域ちいきしょ都市としはモンゴルとの戦闘せんとう降伏ごうぶく処置しょち城塞じょうさい城壁じょうへき破壊はかいされた。しかし、マー・ワラー・アンナフルを中心ちゅうしんとする中央ちゅうおうアジアはモンゴル皇帝こうてい直轄ちょっかつりょうとなり、ビシュバリクやブハラは中央ちゅうおうアジアにらばるモンゴル諸王しょおうさい邑を管理かんりする拠点きょてんとして機能きのうつづけたが、モンゴルぐん攻撃こうげきされ、そのにその管理かんりからはずれたヘラートやメルヴなどのしょ都市とし荒廃こうはいされるままにかれ、都市とし機能きのう完全かんぜん停滞ていたいする。ホラズム・シャーあさジャラールッディーン討伐とうばつのため派遣はけんされたモンゴルのイラン方面ほうめんぐん進出しんしゅつにより1230年代ねんだいから60年代ねんだいにかけてアムダリヤがわ以西いせい地域ちいき徐々じょじょにモンゴル帝国ていこく支配しはいまれてった。このように、1220ねんからはん世紀せいきあいだ、イラン・中央ちゅうおうアジアにおけるイスラーム建築けんちく活動かつどうもなかば凍結とうけつ状態じょうたいにあった。1260ねんにはモンゴルの西方せいほう遠征えんせいぐん指揮しきしていたフレグが、アーザルバーイジャーン地方ちほう州都しゅうとタブリーズ即位そくいフレグ・ウルス)し、『あつまり』によればフレグは建築けんちくぶつ造営ぞうえい非常ひじょう熱心ねっしんであったとつたえており、タブリーズ周辺しゅうへんでさまざまな施設しせつ建設けんせつがはじまった[ちゅう 2]。しかしながら、かれはイスラーム教徒きょうとではなく、またフレグをはじめイルハンあさ君主くんしゅ領内りょうない宗教しゅうきょう政策せいさく初期しょきにはネストリウスそう主教しゅきょう監督かんとくさせてかったため、イスラームの待遇たいぐうかんばしいものではなかった。

1295ねんに、フレグの曾孫そうそんガザン・ハン即位そくい、イスラームに改宗かいしゅうし、経済けいざいてき活況かっきょうにともなって、マドラサ、びょうなどの各種かくしゅ巨大きょだい宗教しゅうきょう寄進きしん施設しせつ建設けんせつ相次あいついだ。かれ建設けんせつした建物たてものは、現在げんざいではほとんど消滅しょうめつした[ちゅう 3]が、次代じだいオルジェイトゥ時代じだい建設けんせつされたものはいくつかのこっている。近年きんねん研究けんきゅうで、1220ねんのモンゴル侵入しんにゅうからアブー・サイードがぼっする1335ねんまでにイランでてられた建築けんちくぶつは92れいほどとわれているが、1295ねんのガザンのイスラーム改宗かいしゅう以降いこうてられたものは40ねんで65れいにのぼるとう。これらははかびょうはかびょうきのマドラサがおおく、はかびょうだけでも20れい以上いじょう確認かくにんされる。イスファハーンきゅう市街しがい金曜きんようモスクや後述こうじゅつのナタンズ、アルダビール、ヤズドなどイルハンあさ治下ちか州都しゅうとになったような比較的ひかくてきおおきな都市としのモスクやマドラサなども、この時期じき新築しんちくないし改築かいちくされた。

スルターニーヤのオルジェイトゥびょう

1306ねん首都しゅととなるべく建設けんせつされたスルターニーヤは、壮麗そうれい建築けんちくぶつによってかざられたすばらしい都市としになるはずだったが、現在げんざいでは中央ちゅうおうアジア最大さいだいはかびょう建築けんちくで、オルジェイトゥ自身じしんはかであるオルジェイトゥびょうのみがのこ[12]1313ねんけんじどうされたこの八角はっかくがた霊廟れいびょうは、7mにたっする分厚ぶあつかべによって構築こうちくされ、ムカルナスのコーニスのうえはちほんのミナレットにかこまれたドームをいただく。

ナタンズのアブドゥル・マサド霊廟れいびょう様々さまざま施設しせつ混成こんせいしたふくあい建築けんちくぶつで、中心ちゅうしんとなるモスクはセルジュークあささかのぼる。1307ねん建設けんせつされたはかびょう十字じゅうじがた平面へいめん建物たてもので、スクィンチによってささえられたドームははち方向ほうこう開口かいこうち、ムカルナスが太陽たいようひかり拡散かくさんする。デルヴィシュ教団きょうだん宿泊しゅくはく施設しせつである「ハーンカー」は、1316ねん1317ねん建設けんせつされ、ドームはあおい釉薬タイルにより装飾そうしょくされる。

1310ねんころ、エスファハーンのだいモスクにしょう礼拝れいはいどうくわえられた。切石きりいし構造こうぞうによる交差こうさヴォールトで形成けいせいされた広間ひろまは、パルティア王国おうこくおよびサーサーンあさにおいてることのできるシリア特有とくゆう空間くうかんであるが、14世紀せいき以降いこう急速きゅうそく普及ふきゅうし、やがてティムール建築けんちくがれた。このように、ガザンからオルジェイトゥ、アブー・サイード時代じだいに、中央ちゅうおうアジアのイスラーム建築けんちく技術ぎじゅつてき革新かくしんこそなかったものの、たいへん洗練せんれんされ、やがてティムール帝国ていこくによる完成かんせいされた建築けんちく創造そうぞうすることになる。

14世紀せいきのコバルト釉による縁取へりとりをほどこしたラスターいろどり釉タイル
14世紀せいき初頭しょとうのカーシャーンさんのミフラーブようタイル

14世紀せいきにおける建築けんちくじょう革新かくしんとしては、従来じゅうらいのラスターいろどり釉タイルのほかに、紺地こんじ金彩きんさいほどこした「ラジュヴァルディーナ」(「ラピスラズリ調しらべの」)あや釉タイルや青色あおいろタイルなどが、モスクやびょう、マドラサの壁面へきめんをふんだんにかざるようになったことがげられる。従来じゅうらい、イラン・中央ちゅうおうアジアのモスクなどの宗教しゅうきょう建築けんちくアドベ煉瓦れんが建造けんぞうされ、外壁がいへきめん煉瓦れんがかさねて凹凸おうとつ利用りようして幾何きかがくてき陰影いんえいをつけたり、あるいは表面ひょうめん漆喰しっくいかためて、ほどこしたスタッコといった技法ぎほうかざられていた。これらの装飾そうしょく繊細せんさい装飾そうしょく可能かのう技巧ぎこうてきすぐれてはいたが全体ぜんたい色彩しきさいてきにはモノクロームであった。このたね彩色さいしきタイルをもちいた建築けんちくは、13世紀せいきてられたコンヤやスィヴァスなどのアナトリア地方ちほうしょ都市としのマドラサでいくつかられるが、イルハンあさ時代じだい後期こうきから青色あおいろをはじめとする彩色さいしきタイルによる装飾そうしょく普及ふきゅうすると、建物たてもの外装がいそうはカラフルなものとなり、彩色さいしきタイルの多用たよう以降いこうのこの地域ちいき建築けんちく様式ようしき主流しゅりゅうとなってく。とくにコバルト顔料がんりょうもちいた良質りょうしつ青色あおいろタイルは中部ちゅうぶイランのカーシャーンつくられ、14世紀せいきはいると各地かくちでも生産せいさんされるようになるが、このたね青色あおいろのタイルをペルシアで「カーシャーンせい」を意味いみする「カーシー」でばれ珍重ちんちょうされた。これら青色あおいろタイルの技術ぎじゅつ進展しんてんすると、あおあかみどりしろなどの様々さまざまいろのタイルが製作せいさくされ、数種類すうしゅるいにカットされたタイルを使つかって複雑ふくざつ紋様もんようし、前述ぜんじゅつのガーザーニーヤやスルターニーヤなどの建築けんちくぐん表面ひょうめんおおった[13]

イルハンあさ建築けんちくは、技術ぎじゅつてきにはセルジュークあさ建築けんちくえるものはなにもないが、内部ないぶ装飾そうしょくふくめ、装飾そうしょく・プロポーションはたいへん洗練せんれんされている。この造形ぞうけいりょくはそのままティムールあさがれ、サファヴィーあさ建築けんちく匹敵ひってきする、たいへんたか完成かんせい建築けんちく結実けつじつするのである。

ティムールあさによる中央ちゅうおうアジアの建築けんちく後述こうじゅつするが、ティムールが病没びょうぼつしたのちのアナトリア、アゼルバイジャン方面ほうめんは、ティムール帝国ていこく支配しはいからだっした。その、かつてのフレグ・ウルスの首都しゅとであったタブリーズ占領せんりょうしたのが、しろひつじあさウズン・ハサンであった。ウズン・ハサンのによって、タブリーズに1465ねん建設けんせつされたマスジェデ・カブートは1778ねん地震じしんによって、イーワーンしか現存げんそんしていないものの、かつては、青色あおいろのタイルでいろどられたモスクであり、従来じゅうらいのペルシャ建築けんちく伝統でんとういでいる。

ティムール建築けんちく

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チンギス・ハーンどう一族いちぞく出身しゅっしんティムールは、サマルカンド拠点きょてんにトランスオクシアナを征服せいふくし、1398ねんにはトゥグルクあさ首都しゅとデリー占拠せんきょ1402ねんにはアナトリアのオスマン帝国ていこくやぶって広大こうだい領地りょうち手中しゅちゅうおさめた。さらにかれは、各地かくち職人しょくにんたちをサマルカンドにせ、帝国ていこくのために様々さまざま建築けんちくぶつ建設けんせつにあたらせた。招集しょうしゅうされた職人しょくにん出身しゅっしんは、とおバクダードダマスカスモスクワデリーアンカラおよんだ。最終さいしゅうてきにはセルジュークあさおなじく分裂ぶんれつこうそうかえして衰退すいたいするものの、ティムールあさ王族おうぞくたちは芸術げいじゅつたいしてしみないパトロネージを発揮はっきし、その結果けっか、セルジュークあさ、イルハンあさ建築けんちく継承けいしょうしたティムール建築けんちくは、トランスオクシアナにおけるイスラーム建築けんちく完成かんせいいき到達とうたつさせ、サファヴィーあさ、ムガルあさ建築けんちく絶大ぜつだい影響えいきょうりょくあたえるにいたった。

トルキスタンの「ホージャ・アフマド・ヤサヴィーびょう

アナトリアのデルヴィシュ教団きょうだんによる神秘しんぴ主義しゅぎ基礎きそきずいたスーフィー、アフマド・ヤサヴィーは、1166ねんにヤシ(げんカザフスタントルキスタン)で死去しきょした。現在げんざいのこかれ霊廟れいびょうホージャ・アフマド・ヤサヴィーびょうは、ティムールによって1394ねんあるいは1395ねんから1397ねん整備せいびされたものが基本きほんとなっているが、当時とうじ未完みかんのまま工事こうじ終了しゅうりょうしたらしい。はかしつ上部じょうぶたかいドームと、はかしつ北西ほくせいもうけられたくちは、時代じだい増築ぞうちくされたものである。霊廟れいびょう様々さまざま機能きのうふくあい建築けんちくぶつとして設計せっけいされることはめずらしくないが、このアフマド・ヤサヴィーびょう通常つうじょう霊廟れいびょう建築けんちくとはことなり、はかしつまえにミフラーブのない巨大きょだいなドームしつもうけられ、建物たてものしゅたる機能きのうはあたかも集会しゅうかいホールのようである。ドームとはかしつ関係かんけいは、イルハンあさのオルジェイトゥびょうちかいが、中央ちゅうおう広間ひろまかこむように様々さまざま機能きのうったしょしつ配置はいちされる構成こうせいは、アナトリアのマドラサに類似るいじする。しょしつ複雑ふくざつ形状けいじょうをしているものの、ドームを中心ちゅうしん升目ますめじょう配置はいちされており、建築けんちくがこの建物たてもの左右さゆう対称たいしょう構成こうせいしようとしたことがかる。

サマルカンドの「グーリ・アミール」(ティムール一族いちぞくびょう

サマルカンドにあるティムール一族いちぞくびょうグーリ・アミールは、ティムールがまごのムハンマド・スルタンのために建設けんせつしたもので、のちにティムール自身じしんもこの霊廟れいびょう埋葬まいそうされ、以後いごその子孫しそんもこのびょうごうそうされた。エスファハーンの建築けんちくムハンマド・ブン・マフムードによって1404ねん完成かんせいしたこの霊廟れいびょうは、初期しょきティムール建築けんちく代表だいひょうするものである。八角はっかくがた構造こうぞう体内たいないに、正方形せいほうけい十字形じゅうじがたわせた空間くうかんおさまり、地階ちかいには同形どうけい玄室げんしつもうけられた。その上部じょうぶには、スクィンチによって支持しじされたうちからそとからじゅうドームをいただく。そとからは、巨大きょだい碑文ひぶんかれたたかいドラムの上部じょうぶにムカルナスのコーニスがまわされ、そのうえあおいリブじょうドームが構成こうせいとなっている。うちからドームもとんがあたまがたで、ともに垂直すいちょくせいたかいプロポーションである。このドームはティムールのいのちによってつくなおされているため、かれ個人こじんてき趣味しゅみはかることができよう。本来ほんらい霊廟れいびょう平面へいめんせん対称たいしょうで、コンパクトにまとまった完結かんけつしたものであったが、1434ねんウルグ・ベクによっておこなわれたマドラサの増築ぞうちくによって、今日きょうではそれが曖昧あいまいなものとなっている。

サマルカンドの「ウルグ・ベク・マドラサ」
左側ひだりがわのイーワーンのある建物たてもの

だい4だいカリフであるウルグ・ベクは学問がくもん奨励しょうれいし、1417ねんにサマルカンドにマドラサの建設けんせつめいじた。サマルカンドのマドラサは左右さゆう対称たいしょう構成こうせいされた平面へいめんつ。レギスターンにめんする正面しょうめんファサードには、計画けいかくでは4つのミナレット(現在げんざいは2ほんのみ)にかこまれたおおきなイーワーンがあり、ここをけると33m四方しほう中庭なかにわいたる。周囲しゅうい学生がくせい個室こしつかこ中庭なかにわは、完全かんぜんよんイーワーン形式けいしきで、3ぽう外部がいぶへの出入でいぐちであるが、正面しょうめんファサードの反対はんたいがわはモスクへのくちとなっている。建物たてもの四隅よすみには、正方形せいほうけい十字形じゅうじがたわせた平面へいめんはかしつがあり、現在げんざいうしなわれているが、たかいドラムをつドームをいただいていた。

ヘラートの「ガウハル・シャッドのムサッラーとマドラサ」

ガウハル・シャッドによって創建そうけんされたヘラートのマドラサは、サマルカンドとおなじく1417ねん起工きこうされた、だい規模きぼふくあい建築けんちくぶつだったとおもわれるが、現在げんざいではミナレットとキブラかべ沿ってもうけられたはかしつのひとつのみがのこる。このはかしつはグーリ・アミールとおな構成こうせいだが、ドーム下部かぶのドラムはひくおさえられ、四方しほうによりふかとんがあたまヴォールトがけられている。内部ないぶ空間くうかんはさらに洗練せんれんされたもので、スクィンチにはちいさなあさいムカルナスが無数むすうほどこされ、これがかべたいながれるたきのような構成こうせいにしている。ムサッラーは、1ほんのミナレットをのぞいてこわされてしまったが、ここにのこ複雑ふくざつ装飾そうしょく色彩しきさいは、ティムールあさ装飾そうしょく技術ぎじゅつたかさを物語ものがたるものである。

ギヤース・アッ・ディーンによって1444ねん1445ねん完成かんせいしたハルギルドのギヤーシーヤ・マドラサは、やや荒廃こうはいしているが、完全かんぜんせん対称たいしょう構成こうせいうつくしい建築けんちくぶつである。サマルカンドのマドラサとおなじく学生がくせい個室こしつよんイーワーン形式けいしき中庭なかにわかこむが、正面しょうめんイーワーンには、左右さゆうにダルガーとばれるまえしつもうけられている。集会しゅうかいよう部屋へやであるダルスハーネには、八角はっかくがたドラムとドームがっているが、うちからのドームは交差こうさリブ・アーチとなっており、のちにスクィンチ・ネットとばれるサファヴィーあさ、ムガルあさ主要しゅようなモティーフの原型げんけいることができる。

イベリア半島はんとうきたアフリカの古典こてんイスラーム建築けんちく

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ムラービトあさとムワッヒドあさ建築けんちく

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ユースフ・イブン・ターシュフィ−ンひきいるムラービトゥーンは、1062ねんマラケシュ建設けんせつしたのちアルジェ、そしてイベリア半島はんとう南部なんぶ支配しはいにおいた。ムラービトあさ建築けんちくはイベリア半島はんとうのちウマイヤあさ建築けんちくおおきな影響えいきょうけているが、ムカルナスについては独自どくじの、そして高度こうど発展はってんげた。

クッバ・バルディーイーン

トレムセンおよびアルジェのだいモスクは、ムラービトあさ初期しょきの11世紀せいき中期ちゅうき建築けんちくで、内部ないぶ構成こうせいは、どちらも長方形ちょうほうけいのサフンをかこむ、やや丁字ていじがた影響えいきょうけたはしらしつ形式けいしきのモスクである。1136ねんにトレムセンのモスクに完成かんせいしたドームじょうのランターンは、ムラービトあさによる建築けんちく装飾そうしょく傑作けっさくで、12ほん交差こうさしたリブじょうヴォールトのあいだに、ムカルナスのほどこされたしょうアーチとかしりのトレーサリーがはめまれている。ムラービトあさ建築けんちく装飾そうしょくはたいへん緻密ちみつで、その技術ぎじゅつたかさについては、1120ねん完成かんせいしたマラケシュのクッバ・バルディーイーンにおいてもみとめることができる。このドームは、もともときよめのいずみおおうドームとして建設けんせつされたらしい長方形ちょうほうけいのパヴィリオンで、うちからドームは頂点ちょうてんにメスキータのミフラーブ上部じょうぶのドームとおな形状けいじょうのドームをつが、これをささえるスクィンチはながれるようなあさいムカルナス装飾そうしょくと、かしりによって装飾そうしょくされている。北西ほくせいアフリカのムカルナス装飾そうしょくは11世紀せいきまつにはじめてあらわれたとかんがえられているが、この時期じき、ムカルナスはムラービトあさによって突如とつじょとして高度こうど発展はってんした建築けんちく装飾そうしょくとして表現ひょうげんされる。

フェズのカラウィーイーン・モスクは、857ねん裕福ゆうふくそう私的してき礼拝れいはいどうとして建設けんせつされたが、933ねんにファーティマあさによって金曜きんようモスクに改装かいそうされ、さらに1143ねんにアリー・ベン・ユースフによって増築ぞうちくされた。ムラービトあさによる部分ぶぶんは、おもにミフラーブにつうじるろうのムカルナス・ヴォールトで、そのいくつかには、とくにランブルキン・アーチ(くだりアーチ)とばれるものの最初さいしょ形態けいたいしめしている。やはりムラービトあさのムカルナスのあつかいはたいへん素晴すばらしく、かれらの装飾そうしょく技術ぎじゅつはそのままムワッヒドあさがれた。

クトゥービヤ・モスク
ハサン・モスク

12世紀せいきにムラービトあさ衰退すいたいすると、1141ねんマラケシュ占拠せんきょ首都しゅととしたムワッヒドあさが、北西ほくせいアフリカとイベリア半島はんとうあらたなる支配しはいしゃとなった。かれらはムラービトあさ建築けんちくをすべて吸収きゅうしゅうし、より洗練せんれんされ建築けんちくぶつ創出そうしゅつした。

首都しゅとマラケシュのクトゥービヤ・モスクはとセビリヤのだいモスクは、アルジェのだいモスクとおなじく長方形ちょうほうけいのサフンをつやや丁字ていじがたはしらしつ形式けいしきのモスクである。1162ねんごろ建設けんせつされたクトゥービヤ・モスクのキブラかべ沿ったろうには、カラウィーイーン・モスクでられたランブルキン・アーチがより洗練せんれんされたかたちで使用しようされている。キブラかべ平行へいこうなそのろう多弁たべんがたアーチがもちいられているが、ぎゃくにキブラかべ垂直すいちょく方向ほうこうろうには馬蹄ばていがたアーチがけられた。ミナレットは、とう内部ないぶはす沿って外部がいぶ装飾そうしょく位置いち決定けっていされているため、全体ぜんたい非対称ひたいしょうとなっているが、このような処理しょりはムワッヒドあさのミナレットではこのとうのみにられる。1172ねん起工きこうしたセビリヤのだいモスクについては、ミナレット[ちゅう 4]中庭なかにわのぞいて15世紀せいきこわされたため、今日きょうではその断片だんぺんしかにできないが、中庭なかにわ東側ひがしがわ出入でいぐちには、スペイン現存げんそん最古さいこのムカルナス・ヴォールトがのこる。

ムワッヒドあさ建築けんちくは、マラケシュのほか、ラバトにおいてもかなり保存ほぞん状態じょうたいのこっている。ヤークブ・アル・マンスールがここを首都しゅとさだめようとかんがえたためで、カスバ・ウダイアにはうつくしい装飾そうしょくほどこされたもんのこる。ハサン・モスクは、完成かんせいしていればサーマッラーのモスクに規模きぼ巨大きょだいモスクになるはずであったが、1199ねん未完みかんのまま放棄ほうきされた丁字ていじがたはしらしつ形式けいしきのモスクである。あまりに巨大きょだいであるため、長方形ちょうほうけい中庭なかにわをミフラーブから前方ぜんぽう左右さゆう配置はいちしている。現在げんざいのこるミナレットは、施行しこう途中とちゅうのままだが、さんれん交差こうさアーチのモティーフは以後いごのムワッヒドあさ、マリーンあさでももちいられた。

マリーンあさ古典こてんイスラーム建築けんちくとナスルあさのムーア建築けんちく

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ベルベルじんによって創立そうりつしたマリーンあさは、1250ねんにフェスを征服せいふく。これを首都しゅととして1269ねんにマラケシュを陥落かんらくさせ、ムワッヒドあさほろぼした。当時とうじ、アンダルシアがキリストきょうによって奪還だっかんされ、そこで活動かつどうしていた芸術げいじゅつたちがマリーンあさ領内りょうない退避たいひしていたため、マリーンあさかれらを使つかってさかんな建築けんちく活動かつどうおこなうことができた。

ターザのだいモスクはムワッヒドあさによって建設けんせつされたが、1294ねんにマリーンあさによってミフラーブ上部じょうぶにドームがくわえられた。ムカルナスによって装飾そうしょくされたスクィンチのうえに、交差こうさリブが横断おうだんするトレムセンのモスクとおなじタイプのドームであるが、装飾そうしょくはより洗練せんれんされている。マリーンあさ実際じっさいにトレムセンを征服せいふくしたのは1303ねんで、かれらは既存きそん市街地しがいち外側そとがわあらたな都市とし形成けいせいした。この起工きこうされたマンスーラのだいモスクは、ラバトのハサン・モスクを着想ちゃくそうとしており、ハサン・モスクとおなじく未完みかんわった。ほぼ正方形せいほうけい礼拝れいはいホールと、ムラービトあさとムワッヒドあさとはことなる正方形せいほうけい中庭なかにわつが、ミナレットはムワッヒドあさのデザインを踏襲とうしゅうしたものである。

アルハンブラ宮殿きゅうでんのライオンの中庭なかにわ

イベリア半島はんとうおよびマグレブにおけるムーア建築けんちく頂点ちょうてんにして、イベリア半島はんとうのイスラームの最後さいご作品さくひんアルハンブラ宮殿きゅうでんである。これはまた、ナスルあさ唯一ゆいいつ現存げんそん遺構いこうでもある。13世紀せいきナスルあさ首都しゅととなったグラナダのアルハンブラ宮殿きゅうでんは、かべとうかこまれた東西とうざい720m、南北なんぼく220mの区域くいきなかに、宮殿きゅうでん官僚かんりょうみやしん住宅じゅうたく、モスク、店舗てんぽ浴場よくじょうなどの公共こうきょう建築けんちくからなるふくあい建築けんちくぶつである。邸宅ていたくは、1060ねんにタイファあさ宰相さいしょうによって建設けんせつされており、獅子しし噴水ふんすいとその周囲しゅういが、その当時とうじからのこっている部分ぶぶんである。14世紀せいき宮殿きゅうでんひがし拡張かくちょうされ、複数ふくすう中庭なかにわつようにいたった。アルハンブラ宮殿きゅうでんは、天井てんじょうのき木造もくぞうであり、かべモザイクタイルかざられると同時どうじに、かべ上部じょうぶは、ムカルナスとばれる漆喰しっくいみつ彫刻ちょうこくほどこされた。この地域ちいき歴史れきしのイスラームの宮殿きゅうでん建築けんちくがほとんど喪失そうしつされていることを考慮こうりょすると、この建築けんちくぶつ現存げんそんしていることは、ほとんど奇跡きせきである。

レコンキスタ完了かんりょうしたあとでさえも、イスラーム建築けんちくがイベリア半島はんとうのこした影響えいきょうおおきなものであった。これは、精密せいみつ建築けんちく装飾そうしょく作成さくせいすることのできる職人しょくにんを、イスラム諸国しょこくだけでなく、キリスト教きりすときょうくにやとうことが可能かのうだったからである。これは、セビリャのアル・カサル(王宮おうきゅう)や世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされている アラゴンの建築けんちくテルエルサラゴサ点在てんざいする)など、13世紀せいきから14世紀せいきのムデハル建築けんちくればあきらかである。しかしながら、イスラームの建築けんちく構成こうせいとその理念りねんうしなわれてしまうと、これらの装飾そうしょく技法ぎほう錯乱さくらんし、15世紀せいきにはその芸術げいじゅつてき活力かつりょくおとろえていった。北西ほくせいアフリカでも状況じょうきょうはほとんどおなじで、以後いご、この地域ちいき建築けんちくがイスラーム建築けんちく寄与きよすることはなかった。

エジプトにおけるイスラーム建築けんちく

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ファーティマ建築けんちく

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ハーキムのモスク
カイロ市街しがい城門じょうもん

10世紀せいきはいるとアッバースあさ権威けんいいちじるしく衰退すいたいし、3カリフが鼎立ていりつする時代じだいとなる。現在げんざいカイロ建設けんせつしたファーティマあさは、トゥールーンあさつちかってきた建築けんちく手法しゅほうもちいることで、世界せかい最古さいこ大学だいがくであるアズハル大学だいがくとそのモスクをつくげた。また、だい6だいカリフであるハーキム建造けんぞうによるアル・ハーキム・モスクは、ファーティマ建築けんちく傑作けっさくであり、ここで、ファーティマあさのカリフの宗教しゅうきょうてき政治せいじてき役割やくわり強調きょうちょうする式典しきてんおこなわれた。このアル・ハーキム・モスクは、モハンマド・ブルハルッディーンのによって、修繕しゅうぜんされている。また、ファーティマ建築けんちく代表だいひょうさくとしてアル・ハーキム・モスクと同様どうようげられるのが、カイロ市街しがい城門じょうもんである。

マムルーク建築けんちく

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バイバルスのモスク
スルタン・ハサンのモスク
アレッポのグレート・モスク

マムルークあさ1250ねん - 1517ねん)の時代じだいは、カイロを中心ちゅうしんおおくのイスラーム建築けんちく花開はなひらいた時代じだいであった。ムスリム信仰しんこうふかさは、宗教しゅうきょう建築けんちく数多かずおお反映はんえいされた。信仰しんこうふかさによって、人々ひとびと建築けんちくおよ美術びじゅつかんしては寛容かんようパトロンとなっていったのである。パトロンの形態けいたいは、イスラーム寄進きしん制度せいどであるワクフにもとづいておこなわれた。マムルークあさ統治とうちエジプトは、貿易ぼうえき農業のうぎょう栄華えいがきわめ、首都しゅとカイロは、近東きんとう世界せかいではもっと裕福ゆうふく都市としひとつとなると同時どうじに、芸術げいじゅつ文化ぶんか活動かつどう中心ちゅうしんとなった。イブン・ハルドゥーン言葉ことばりれば、当時とうじのカイロは、「宇宙うちゅう中心ちゅうしん世界せかいにわ」となる。マムルーク建築けんちくは、絵画かいが明暗めいあんほうもちいると同時どうじに、建物たてものにもひかり効果こうか利用りようした。

マムルークあさは、キプチャク高原こうげん出身しゅっしんマムルークがスルタンとして君臨くんりんしたバフリー・マムルークあさ(1250ねん - 1382ねん時代じだいとブルジー・マムルークあさ時代じだいけられる。だが、バフリー・マムルークあさ時代じだいに、マムルーク美術びじゅつ大枠おおわくさだまった。マムルーク美術びじゅつは、とりわけ、ガラス製品せいひん象眼ぞうがんした金属きんぞく加工かこう木工もっこう製品せいひん織物おりものといったものが代表だいひょうとしてげられるが、マムルークあさ時代じだいのガラス製品せいひんは、ヴェネツィアン・グラスおおいに影響えいきょうあたえたように、この時代じだい芸術げいじゅつ作品さくひんは、地中海ちちゅうかい世界せかい、ヨーロッパにおおきな影響えいきょうあたえた。

バイバルスとその後継こうけいしゃであるカラーウーンen:Qalawun)は、マドラサ、霊廟れいびょう、ミナレット、病院びょういんなどの建築けんちくにおいて、パトロンの役割やくわりたした。その代表だいひょうれいがカイロに現存げんそんするカラーウーン時代じだいふくあい建築けんちくである。カラーウーン時代じだいふくあい建築けんちくはカイロにのこるイスラーム建築けんちくなかでも異色いしょくはなつ。馬蹄ばていがたアーチ、二心ふたごころとんがあたまアーチ、大理石だいりせき円柱えんちゅうコリントしき柱頭ちゅうとうなどの細部さいぶまるまどれんアーチのわせ、こうまどそうさんろう構成こうせいしゅうろう建築けんちくともなはか建築けんちくなどがそのれいである[14]。ハサン・モスクのふく合体がったい建設けんせつはじまったのは、1356ねんである。

ブルジーあさのスルタンもまた、前代ぜんだいのバフリーあさ時代じだいおなじように、ワクフをもちいて、宗教しゅうきょう保護ほごした。ブルジーあさ時代じだい建設けんせつされたもののなかで、初期しょきでは、バルクーク(1382ねん - 1399ねん)、ファラージュ(1399ねん - 1412ねん)などのふくあい建築けんちくがある。

イランヨーロッパあいだ織物おりもの交易こうえきひがし地中海ちちゅうかい世界せかい復活ふっかつすると経済けいざい復興ふっこういちじるしいものとなった。また、商業しょうぎょう活性かっせいによって、メッカマディーナへの巡礼じゅんれいハッジ)が、活発かっぱつになった。アル・カーディー・ハーンの倉庫そうこのような巨大きょだい貯蔵ちょぞう施設しせつ貿易ぼうえきのために建設けんせつされた。また、アレッポダマスカスにも公共こうきょう建築けんちく建設けんせつなみせた。

15世紀せいき後半こうはんには、アル=マリク・アル=アシュラフ・サイフッディーン・カーイト・バイ(Qaitbay)(1468ねん - 1496ねん)のワクフによって、マッカとマディーナの復興ふっこうおこなわれた。商業しょうぎょう施設しせつ宗教しゅうきょう施設しせつ橋梁きょうりょうなどがおおくの主要しゅよう都市とし建設けんせつされると同時どうじに、カアイト・ベイのによるカイロ共同きょうどう墓地ぼち建設けんせつおこなわれた。カーイト・バイ以後いごも、断続だんぞくてきふくあい建築けんちく建設けんせつおこなわれつづけたが、1517ねん、オスマン帝国ていこくによりマムルークあさ滅亡めつぼうすると、マムルーク建築けんちくは、オスマン建築けんちく影響えいきょうのこかたち浸透しんとうしていった。

ポスト古典こてん建築けんちく

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サファヴィー建築けんちく

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エスファハーンの「イマーム広場ひろば

トルキスタン様式ようしき影響えいきょうけ、「エスファハーンは、世界せかい半分はんぶん」とまで繁栄はんえいしたのが、サファヴィーあさである。エスファハーンられるあお主体しゅたいとしたいろあざやかにかがやタイル装飾そうしょくは、17世紀せいきイラン美術びじゅつ真骨頂しんこっちょうである[15]

エスファハーンのタイルの系譜けいふは、1つは、アルハンブラ宮殿きゅうでんなどにももちいられているモザイク・タイルであり、アルハンブラ宮殿きゅうでんなどが、直線ちょくせんてき幾何きかがく紋様もんよう組紐くみひも紋様もんよう採用さいようしたのにたいし、イランでは、植物しょくぶつ曲線きょくせんてき紋様もんよう採用さいようされた。もう1つが、絵付えつけタイルであり、20cmかく正方形せいほうけいであり、それらを集成しゅうせいして模様もようえがくスタイルであった。

くわえて、エスファハーンには、10世紀せいきのシリアの建築けんちくにはられなかったアーケード建築けんちく建設けんせつされた。同様どうようのアーケードは、イスタンブールにもられる。ここに、イランのイスラーム建築けんちくは、ある程度ていど成熟せいじゅくることとなった。

イラン中央ちゅうおうアジア東西とうざいトルキスタン)の建築けんちくぶつは、一部いちぶ木材もくざい使つかわれたり外壁がいへき陶器とうきとうのタイルでおおわれているものの、伝統でんとうてき基礎きそ部分ぶぶんから建物たてもの全体ぜんたいどろ煉瓦れんがアドベ)で構築こうちくされているため、地震じしん風化ふうかたいしては脆弱ぜいじゃくである。また、シリア、アナトリア、イランなどのかく地域ちいき都市とし造山つくりやまたいのなかにあるため、戦争せんそう以外いがいでも地震じしんなどによって都市とし全体ぜんたい壊滅かいめつしたという記録きろくおおい。たとえば、ニーシャープールはセルジュークあさトゥグリル・ベクによって最初さいしょ首都しゅとさだめられ繁栄はんえいしたことでも有名ゆうめいだが、イスラーム帝国ていこく征服せいふくされてからモンゴル帝国ていこく侵攻しんこうまでいくかの戦乱せんらんくわえ、地震じしんによってたびたび市街地しがいち全体ぜんたい崩壊ほうかいしその都度つど住民じゅうみんほとんどが死滅しめつするほどだったと当時とうじ記録きろくつたえられている[16]おなじくイルハンあさ首都しゅととなったタブリーズ歴代れきだいハーンたちによって多数たすう巨大きょだい建築けんちく施設しせつ創建そうけんされたが、そのほとんどがサファヴィーあさ時代じだいまでに地震じしんによって崩壊ほうかいし、つづくろひつじあさしろひつじあさオスマンちょうといった勢力せいりょく境域きょういき紛争ふんそうなどによって放棄ほうきされ、近年きんねんのイランの都市とし整備せいび計画けいかくによってそれらの跡地あとち瓦礫がれきごと撤去てっきょされ消滅しょうめつしてしまっている[17]。これらの地域ちいき都市とし規模きぼ地震じしん被害ひがいとしては、近年きんねんでは2003ねんケルマーンしゅう周辺しゅうへんおそった地震じしん壊滅かいめつてき被害ひがいけた世界せかい遺産いさんアルゲ・バムがある。

オスマン建築けんちく

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イズニクの「イェシル・モスク」

オスマン帝国ていこくでは、宮殿きゅうでん、モスク、モスクを中心ちゅうしんとしたマドラサ、病院びょういん救済きゅうさい施設しせつ融合ゆうごうしたふくあい施設しせつであるキュッリイェ、住宅じゅうたくなどで活発かっぱつ建築けんちく活動かつどうおこなわれた。オスマン建築けんちく特筆とくひつすべきはその独自どくじせいで、初期しょき形成けいせいのぞけば、衰退すいたいにのみ西にしヨーロッパ建築けんちく装飾そうしょく影響えいきょうけたにすぎない。

オスマン帝国ていこくがアナトリアに勃興ぼっこうしたのは13世紀せいきすえであるが、国勢こくせい安定あんていしていなかった初期しょき建築けんちく独自どくじせいはあまりられず、ルーム・セルジュークあさ建築けんちくとペルシャ建築けんちく混成こんせいしたものであった。1333ねんイズニク建設けんせつされたハジュ・オズベキ・ジャミィは、ドームを扇形せんけいのスクインチ[18]ささえるセルジュークあさのシングル・ドーム形式けいしき採用さいようしている。また、だい3だい皇帝こうていムラト1せい時代じだい宰相さいしょうつとめた、おなじくイズニクにあるチャンダルル・カラ・ハリルの建設けんせつしたイェシル・モスクは、ペルシャ建築けんちくから着想ちゃくそうたものである。

イスタンブールの「アヤソフィア
エディルネの「セリミェ・モスク」

しかし、1453ねんにビザンツ帝国ていこくほろぼし、その領土りょうど一気いっき拡張かくちょうして莫大ばくだいとみるようになると、オスマン建築けんちく独自どくじ建築けんちく確立かくりつしていった。その代表だいひょうてき建築けんちくぶつ皇帝こうていによって建設けんせつされた王立おうりつ金曜きんようモスクである。最初さいしょのモスクはシングル・ドーム形式けいしき単純たんじゅん拡張かくちょうしたものにすぎなかったが、オスマン帝国ていこく史上しじょう最高さいこう建築けんちくミマール・スィナン1489ねん - 1588ねん)によって、王立おうりつ金曜きんようモスクは決定的けっていてき転換てんかんむかえた。

スィナンは代表だいひょうさくのひとつであるスレイマニエ・モスク設計せっけいにあたって、ビザンツ帝国ていこく最高さいこう格式かくしきほこったアヤソフィア構成こうせい参考さんこうにした。東方とうほう正教せいきょう教会堂きょうかいどうであったこの建物たてものは、ビザンツ帝国ていこくほろぼしただい7だい君主くんしゅメフメト2せい在位ざいい1451ねん - 1481ねん)の指示しじによって、だい聖堂せいどう接続せつぞくするそう主教しゅきょうかん内部ないぶ十字架じゅうじか撤去てっきょされていたが、ミフラーブと四隅よすみのミナレットが追加ついかされ、アヤソフィア・ジャーミイとしてもっとかくたかいモスクとして再生さいせいしていた。スィナンは、このモスクの改修かいしゅうたずさわった経験けいけんもあったため、スレイマニエ・モスクでは、アヤソフィアとおなじように中央ちゅうおうにドームをせ、前後ぜんごはんドームをゆうするだい空間くうかん構築こうちくした[19]。このように、スィナンのモスクはアヤソフィアから着想ちゃくそうたものがおおいが、かれ自身じしん傑作けっさくぶセリミェ・モスクは、構造こうぞうてきにはアヤソフィアとはまったくことなる独創どくそうてきなものである。直径ちょっけい31mもの巨大きょだいなドームは、フライング・バットレスによって補強ほきょうされた軽快けいかい構造こうぞうたいうえり、内部ないぶ空間くうかんあかるくきのあるものにしている。スィナンによって建設けんせつされたスレイマニエやセリミェの壮麗そうれいさは、ブルー・モスクなど、その王立おうりつ金曜きんようモスクにがれた。

トプカプ宮殿きゅうでんないの「バグダッド・キョシュク」
サフランボルきゅう市街しがい

15世紀せいき建設けんせつされて以来いらいトプカプ宮殿きゅうでんぞう改築かいちくかえしながらオスマン帝国ていこく政庁せいちょうとして機能きのうしてきた。この宮殿きゅうでんは、オスマン建築けんちくほか施設しせつや、イスラム諸国しょこく宮殿きゅうでん建築けんちくくらべると幾何きかがくてき対称たいしょうせいける。だい2中庭なかにわ政庁せいちょうだい3中庭なかにわ玉座ぎょくざあいだだい3中庭なかにわ謁見えっけんかんにおける玉座ぎょくざ位置いちられるように、じくせん建物たてものすみ部分ぶぶん意識いしきしている。トプカプ宮殿きゅうでんのこのような非対称ひたいしょうせいは、つまりこの宮殿きゅうでん公共こうきょうのための建物たてものではなく、私的してき住宅じゅうたくふく合体がったいであることを意味いみしている。自然しぜん地形ちけいをそのまま利用りようし、非対称ひたいしょう空間くうかんこのむのは、起伏きふくしょうアジア風土ふうどトルコ民族みんぞく民族みんぞくせい由来ゆらいするようである[20]

実際じっさいに、オスマン建築けんちくでは住宅じゅうたく建築けんちく無視むしすることは出来できない。17世紀せいき以降いこう宮殿きゅうでん貴族きぞく邸宅ていたくでは、キオスク語源ごげんとなるキョシュクが建設けんせつされつづけたが、19世紀せいきいたるまで、材質ざいしつ装飾そうしょく調度ちょうどひん豪華ごうかさの程度ていどはあるものの、平面へいめんてきには皇帝こうてい貴族きぞく庶民しょみんあいだには基本きほんてき差異さいはなかった。宮殿きゅうでんであっても内部ないぶ空間くうかんおおきさは人間にんげんてき尺度しゃくどつくられ、けっして壮大そうだいなものではない。また、特定とくていされた目的もくてきのための部屋へやつくるという意識いしきはほとんどなかった。居住きょじゅう空間くうかんとしての柔軟じゅうなんせいもとめられているのは、それが本質ほんしつてき住宅じゅうたくであることをしめしている。庶民しょみん住宅じゅうたくは、黒海こっかいちか隊商たいしょう都市としとして発展はってんし、その町並まちなみが世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされているサフランボル住宅じゅうたくぐん参考さんこうとなる。サフランボルには、現在げんざいでもおよそ100ねんから200 ねんまえ建設けんせつされた住宅じゅうたくのこっている。かつては一族郎党いちぞくろうとう一軒家いっけんやらし、なつふゆじゅうけがおこなわれていたものの、部屋へや用途ようと柔軟じゅうなんであった。このほか、このまちには13世紀せいき建設けんせつされたモスクや浴場よくじょうのこ[21]

ムガル建築けんちく

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デリーの「クトゥブ・ミナール」
デリーの「フマーユーンびょう
アーグラの「ラール・キラー」(レッド・フォート)
アーグラの「タージ・マハル」
ハイダラーバードの「チャール・ミナール」

インドにイスラームが流入りゅうにゅうしたのは、10世紀せいきごろのこととおもわれる。アッバースあさ衰退すいたいしていく過程かていで、ガズナちょうインダスがわ流域りゅういき進出しんしゅつ開始かいしした。そのゴールあさ支配しはい展開てんかいされた。したがって、初期しょきのインドにおけるイスラーム建築けんちくは、トルキスタン建築けんちく影響えいきょうけた。その典型てんけいれいが、現在げんざいデリーのこクトゥブ・ミナールである。アフガニスタンてられたジャームのミナレットおおきな影響えいきょうけるかたちで、奴隷どれい王朝おうちょう創始そうししゃであるクトゥブッディーン・アイバクによって、1202ねんにミナレットは建立こんりゅうされた。あか砂岩さがんしろ大理石だいりせき素材そざいとしててられたこのとうしたには、かつて、ヒンドゥー支配しはいしゃ宮殿きゅうでん寺院じいん存在そんざいし、寺院じいんから転用てんようされた石材せきざいで、モスクが構築こうちくされた。うらかえせば、クトゥブ・ミナールと隣接りんせつしててられたモスクは、あついアーチかべのぞき、ヒンドゥー建築けんちくをそのまま転用てんようしたものである[22]

インドのイスラームは、奴隷どれい王朝おうちょうはじまるデリー・スルターンあさ(デリー・サルタナット、1206ねん - 1526ねん)のやく300年間ねんかん進展しんてんした。トゥグルクあさ1320ねん - 1413ねん)の臣下しんか独立どくりつしたバフマニーあさ1347ねん - 1527ねん)の時代じだいには、イスラームは、デカン高原こうげんにまで拡大かくだいした。デカン高原こうげん中央ちゅうおう都市としビーダルには、インドではめずらしいペルシャ建築けんちくやトルキスタン建築けんちく影響えいきょうけたガーワーン学院がくいん建築けんちくされた。ガーワーン学院がくいんは、建物たてもの表面ひょうめんいろあざやかなタイルで装飾そうしょくされた。中庭なかにわかこかたちで3かいてのしょう部屋へや配置はいちされたが、ペルシャなどでは、1かいあるいは2かいてのしょう部屋へやしか建築けんちくされなかったことの相違そういがある。3かいてを可能かのうにしたのは、ガーワーン学院がくいんにおける建築けんちく素材そざいは、いしモルタルもちいたてんで、ペルシャの煉瓦れんがによる建築けんちくというてんちがいが見受みうけることが可能かのうである[23]

デカン高原こうげん大都市だいとしハイダラーバードには、1591ねんに、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーによって建設けんせつされたチャール・ミナールが建設けんせつされた。ゴールコンダ王国おうこく全盛期ぜんせいききずいたムハンマドのによって建設けんせつされたチャール・ミナールは、1かい四面しめんおおきなアーチをひらき、2かいをモスクにしたが、四隅よすみに4ほんのミナレットがっているというてんで、のち登場とうじょうするタージ・マハルとはことなる。ミナレットの意義いぎ礼拝れいはいびかけるという元来がんらい意味いみからまちのメルクマールの1つになった好例こうれいである[24]

そのきたインド統一とういつしたのがムガル帝国ていこくである。ムガル帝国ていこくは、インド建築けんちくとトルキスタン建築けんちく融合ゆうごうさせるかたちで、インド独自どくじのイスラーム建築けんちくつくげていった。フマーユーンびょうられるように、はか建築けんちく分野ぶんやでもインドにおけるイスラーム建築けんちく発展はってん過程かていることが出来できる。

そのフマーユーンびょう影響えいきょうけたムガル建築けんちく最高さいこう傑作けっさくの1つがタージ・マハルである。だい5だい皇帝こうていシャー・ジャハーンが、14番目ばんめ子供こどもむときにくなったあいムムターズ・マハルのために建築けんちくしたタージ・マハルは、完全かんぜんせん対称たいしょうかたちをとっているところに特徴とくちょうがある。竣工しゅんこうに20ねん以上いじょうついやしたそうしろ大理石だいりせきによって建築けんちくされた。しかし、そのしろ大理石だいりせきのみならず、碧玉へきぎょく翡翠かわせみトルコせきラピスラズリサファイアカーネリアンなどの宝石ほうせき鉱石こうせき象嵌ぞうがんとしてまれたため、ムガル帝国ていこく国庫こっこ破産はさん寸前すんぜん状態じょうたいにまでおちいった。

中国ちゅうごくにおけるイスラーム建築けんちく

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西安しーあんの「だい清真きよざねてら
北京ぺきんの「うしがい清真きよざねてら
カシュガルの「エイティガールモスク
トルファンの「モスク」

中国ちゅうごく最初さいしょのモスクが建設けんせつされたのは、7世紀せいきとうだい西にしやすである。現存げんそん建物たてものは、あきらだいてられた西安しーあんだい清真きよざねてらは、伝統でんとうてきなイスラーム建築けんちく模写もしゃしていないてん特徴とくちょうがある。そのわり、伝統でんとうてき中国ちゅうごく建築けんちく模倣もほうしている。中国ちゅうごくにおけるイスラーム建築けんちくは、トルキスタンなどの西部せいぶでは、地理ちりてき近接きんせつしているトルキスタン建築けんちく影響えいきょうけている一方いっぽうで、中国ちゅうごく中心ちゅうしんは、その影響えいきょうけておらず、ぎゃくに、道教どうきょう儒教じゅきょう仏教ぶっきょう寺院じいん建築けんちく様式ようしき影響えいきょうもっとけている。具体ぐたいてきには、中国ちゅうごく都市としにおけるよんごういんばれる中庭なかにわ住宅じゅうたく伝統でんとうもちいる。よんごういん手法しゅほうにより、中国ちゅうごくのイスラーム建築けんちくは、中庭なかにわをいくつも通過つうかすることで、礼拝れいはいしょ西安しーあんだい清真きよざねてらであれば、一番いちばんひがし中庭なかにわから5つの中庭なかにわとおることによって)にたどりくようになっている[25]

中国ちゅうごくにおけるイスラーム建築けんちくもっと強調きょうちょうされているのは、対称たいしょうせいである。対象たいしょうせいが、壮大そうだいさを暗示あんじしている。このことは、すべてのモスクにてはまる。唯一ゆいいつ例外れいがいは、庭園ていえんである。出来できるだけ対称たいしょうにならないように建築けんちくされている。中国ちゅうごく巻物まきものえがかれている絵画かいがのように、庭園ていえん構成こうせい要素ようそ基本きほんてき原則げんそくは、ながれを重視じゅうしすることである。

中国ちゅうごくにおけるイスラーム建築けんちくは、あかあるいは灰色はいいろ煉瓦れんが建築けんちくされてはいるが、もっと重要じゅうようなのは、木製もくせい構造こうぞうだということである。木製もくせいにすることで、地震じしんたいしてのたいせい煉瓦れんが建築けんちくよりも確保かくほすることが出来できるようになったが、火災かさいかんしては脆弱ぜいじゃくになった。典型てんけいてき中国ちゅうごくのモスクの屋根やねは、曲線きょくせんっている。すなわち、切妻きりづま屋根やね分類ぶんるいされ、ヨーロッパ建築けんちく円柱えんちゅう様式ようしき比較ひかくされる。

周辺しゅうへん世界せかいにおけるイスラーム建築けんちく

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サハラ地帯ちたいにおけるイスラーム建築けんちく

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ジェンネ
トンブクトゥ

きたアフリカでのイスラーム浸透しんとうは、カイロのアズハル大学だいがくのように有名ゆうめいなイスラーム建築けんちくんだ。また、きたアフリカからサハラ交易こうえきによって、イスラームがサハラ地帯ちたいひろがることとなった。サハラ南部なんぶにおけるイスラーム建築けんちく発展はってんは、ガーナ王国おうこく時代じだいはじまりである。11世紀せいきのガーナ王国おうこく時代じだいに、ムラービトあさとのあいだで、岩塩がんえんきむ交易こうえき推進すいしんされ、13世紀せいきマリ王国おうこく時代じだいには、王権おうけん自体じたいがイスラームした。そのも、在地ざいちのイスラーム王国おうこく存亡そんぼうかえした[26]

13世紀せいき成立せいりつしたマリ王国おうこく首都しゅととして建設けんせつされたトンブクトゥは、サハラ交易こうえきにおける商都しょうと役割やくわりたしたのみならず、サハラ地帯ちたい宗教しゅうきょうセンターもねた。そのなかで、1324ねん、アンダルシア出身しゅっしん建築けんちくであるアブー・イシャク・アッサーヘリーによって、だいモスクが建設けんせつされた。イスラーム建築けんちく主流しゅりゅうがサーマッラー以東いとう煉瓦れんが、サーマッラー以西いせいいしであるが、トンブクトゥやジェンネ現存げんそんするイスラーム建築けんちく建築けんちく材料ざいりょう日乾ひぼし煉瓦れんがどろぬりである。ミフラーブやミナレットというイスラーム建築けんちく根幹こんかん部分ぶぶんには、イスラーム建築けんちく伝統でんとうである日乾ひぼし煉瓦れんが使用しようしているが、アフリカ伝統でんとうてき工法こうほうであるどろ樹皮じゅひいた自然しぜんいしをそれ以外いがいのもとに使用しようすることで、地域ちいきとはっきりと区別くべつしうる建築けんちく様式ようしき誕生たんじょうした[27]

スワヒリ文化ぶんかけん

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キルワのモスク
ザンジバルの「ストーン・タウン」

サハラ交易こうえきによって、イスラームがサハラ地帯ちたいひろがったのにたいして、現在げんざいスワヒリ文化ぶんかけんふくまれるケニアタンザニアなどに点在てんざいするインド洋いんどようめんしたイスラーム都市としぐん建設けんせつされたのは、インド洋いんどよう交易こうえきによって、イスラームがアラビア半島はんとうペルシャからつたわったことがおおきい。スワヒリ形成けいせいされたのもイスラーム商人しょうにん現地げんち商人しょうにん交易こうえきをするなかで、現地げんち商人しょうにんみずからの語彙ごいアラビア語彙ごいくわえていったからである[28]

12世紀せいき王権おうけん確立かくりつしたスルタンのによって、キルワでモスクの建設けんせつ開始かいしされた。現在げんざいでは遺構いこうとなっているキルワのモスクは建材けんざいとして、はじめは木材もくざい使つかわれたが、のちいし使用しようされるようになった。くわえて、珊瑚さんご建材けんざいとして使用しようしたてん特色とくしょくがある。珊瑚さんごうみなかればやわらかいが、うみからりく建材けんざいになるほどかたくなるという特質とくしつがある。また、地域ちいきのイスラーム建築けんちく装飾そうしょくにタイルを使用しようしているが、キルワにおいては、その代用だいようというかたちで、陶器とうきまれている[29]

東南とうなんアジア世界せかいのイスラーム建築けんちく

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東南とうなんアジア世界せかいもまた、ムスリムおお地域ちいきである。インドネシアマレーシアブルネイフィリピンミンダナオ島みんだなおとうタイのマレーシア国境こっきょう付近ふきん南部なんぶもろしゅうすうおおくのムスリムが居住きょじゅうする。東南とうなんアジアのイスラームもスワヒリ文化ぶんかけん同様どうようにムスリム商人しょうにん香料こうりょうもとめて、この海域かいいき進出しんしゅつ開始かいしし、その過程かていで、浸透しんとうしたことが背景はいけいにある。

イスラームが浸透しんとうする以前いぜんのマレー世界せかいは、仏教ぶっきょう文化ぶんか、ヒンドゥー文化ぶんか反映はんえいした地域ちいきである。そのことは、現在げんざいバリ島ばりとうでも確認かくにんすることが可能かのうである。

また、19世紀せいきクアラルンプール建設けんせつされたマスジッド・ジャメ(masijid jamek)は、イスラム世界せかい中心ちゅうしん建築けんちく様式ようしき様々さまざまかたち採用さいようしている。あかしろしま模様もようは、コルドバのメスキータ、正面しょうめんのアーチは、スペインきたアフリカ、ムガル建築けんちくおお見受みうけることが出来でき多弁たべんオジー・アーチ(花弁はなびらがた、しかも曲線きょくせん反転はんてんしている)である。クアラルンプールの金曜きんようモスクがこのような南国なんごく情緒じょうちょただよわせる建築けんちく様式ようしきとなったのは、イギリスじん建築けんちくハボックによる設計せっけいである。ハボックの設計せっけいは、近代きんだいオリエンタリズム思想しそうという西洋せいようひとによるイスラームへのフィルターの反映はんえいでもあった。そして、マスジェデ・ネガラがひとつの雛形ひながたとなって、マレーシアやインドネシアでは、国籍こくせきのイスラーム建築けんちく数多かずおお建設けんせつされた[30]

現代げんだいのイスラーム建築けんちく

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イスラマバードの「ファイサル・モスク」

モダニズム建築けんちく影響えいきょうは、1300ねんちか伝統でんとうつイスラーム建築けんちくにもおおきな影響えいきょうあたえた。20世紀せいき前半ぜんはんには、西欧せいおう植民しょくみんであったきたアフリカ、中東ちゅうとう中央ちゅうおうアジア、インド、東南とうなんアジアは独立どくりつ達成たっせいしていたが、西欧せいおう標榜ひょうぼうしていたトルコ、イランにもその影響えいきょうひろがった。20世紀せいき前半ぜんはんにおけるこれらの地域ちいき建築けんちくは、えき市庁舎しちょうしゃ銀行ぎんこう博物館はくぶつかん大学だいがく病院びょういんといった近代きんだいてきシステムで運営うんえいされる建造けんぞうぶつがモダン建築けんちく影響えいきょうけて、建設けんせつされた。しかし、宗教しゅうきょう建造けんぞうぶつは、伝統でんとうてき様式ようしきしたがっていた。

宗教しゅうきょう建造けんぞうぶつが、モダニズム建築けんちく影響えいきょう随時ずいじ建設けんせつされたのは、これらの地域ちいき独立どくりつ達成たっせいし、だい規模きぼ国立こくりつモスクを建設けんせつするようになったからである。とはいえ、コンクリートなどのあたらしく登場とうじょうした建築けんちく素材そざいもちいながらも、それぞれの伝統でんとう様式ようしきとモダン建築けんちく融合ゆうごうした建築けんちくおお見受みうけることが可能かのうである。

たとえば、カサブランカのハサン2せいモスクは、ムーア建築けんちく影響えいきょう色濃いろこのこ建築けんちく様式ようしきであるし、イスラマバードキング・ファイサル・モスクは、四隅よすみつミナレットはオスマン建築けんちく影響えいきょう色濃いろこのこす。

また、1983ねんに、アーガー・ハーン4せい創設そうせつしたアーガー・ハーンしょう受賞じゅしょうしたヴィソコしろいモスク(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)は、鉄筋てっきんコンクリート建設けんせつされたが、従来じゅうらいのこの地方ちほうでの建築けんちく様式ようしき踏襲とうしゅうしながらも、礼拝れいはいしつとされた立体りったい仕組しくまれた4つのあかりのまどなら外観がいかんしろ壁面へきめんいろどくろアラビア文字もじは、動乱どうらん対立たいりつつづくこの地域ちいきにおいて、宗教しゅうきょうせい脱却だっきゃくした印象いんしょうあたえたモスクである[31]

構成こうせい要素ようそ

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ブハラの「サーマーンびょう

ドーム」のことをアラビアでクッバ قبّة qubba、ペルシアではグンバド、ゴンバド گنبد gunbad/gonbad とうが、ドーム建築けんちくがイスラームに固有こゆうのものであるかといえばかならずしもそうではなく、ほかの地域ちいき建築けんちく様式ようしき由来ゆらいしているとしるしたほうが正確せいかくである。具体ぐたいてきえば、イスラーム建築けんちくおおきな影響えいきょうあたえたのは、古代こだいローマの建築けんちくたとえば、パンテオン神殿しんでん)やビザンティン建築けんちく傑作けっさくであるアヤソフィア(オスマン帝国ていこく以後いご、4ほんのミナレットが追加ついかされたが、建築けんちく自体じたいは、ひがしマ帝国まていこく時代じだいである)などの初期しょきキリスト教きりすときょう世界せかい建築けんちく様式ようしきやサーサーンあさ建築けんちく様式ようしき影響えいきょうけている[32]

ドームは、はか建築けんちくやモスクにもちいられた。イスラーム建築けんちくにおいて、ドームが利用りようされるようになったのは、エルサレムのいわのドームをそのはじまりとする。いわのドーム建築けんちく動機どうきは、預言よげんしゃムハンマドの昇天しょうてん出発しゅっぱつてんとなるその記念きねんてきいわおおってムスリムの記念きねんのこそうというところにあったとつたえられている[33]はか建築けんちく重要じゅうようになったのにはムスリムの死生しせいかん背景はいけいにあり、はかかれらにとって、最後さいご審判しんぱんまでの待機たいきしょであったからである[34]

はか建築けんちくとドームの関係かんけい強固きょうこである。とくにペルシアゴンバドうと、おおくの場合ばあいはかびょうそのものをす。また、それぞれの地域ちいきしょくゆたかなドームが各地かくち建設けんせつされるようになった。10世紀せいき建設けんせつされたブハラサーマーンびょう(Samanid mausoleum)をはじめとする四角しかく部屋へやにドームをいただ建築けんちく方法ほうほうもっと世界中せかいじゅう普及ふきゅうしたかたちであり、西にしはマグレブ、ひがし中国ちゅうごく、インドまでひろがった。この建築けんちく方法ほうほうキャノピー・トゥーム天蓋てんがい)と[35]最大さいだい規模きぼのキャノピー・トゥームは、カルナータカしゅう都市としビジャープルにあるゴール・グンバズであり、一辺いっぺんが45mにおよ[35]

また、はか建築けんちく建設けんせつされるにあたって、イスラームにおける聖者せいじゃ崇拝すうはいスーフィズム)との関連かんれんせい排除はいじょすることはできない。カザフスタンのホジャ・アフメッド・ヤサウィびょうのように、びょうのドームよりもおおきい集会しゅうかいしつだいドームをいただくようになる[36]

イーワーン

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タージ・マハルのイーワーン
エスファハーンの金曜きんようモスクのイーワーン。12世紀せいき初頭しょとう建設けんせつ(ミナレットは15世紀せいき追加ついか

イーワーンは、サーサーンあさ建築けんちく伝統でんとう由来ゆらいしているてんでは、ドームと同様どうようである。部屋へやよんへんのうちいちへん戸外こがいときにはドームしつなどよりおおきな空間くうかんかってひらき、また、正面しょうめんにはだいアーチがもうけられることがおおい。しかも、普通ふつう部屋へやよりもおおきく、天井てんじょうたか開放かいほうてき空間くうかんとなる場合ばあいもある。

はしらのない大空おおぞらあいだとしてのイーワーンは、紀元きげん前後ぜんこうオリエント建築けんちく誕生たんじょうしたが、イスラーム建築けんちく採用さいようされるようになったのは、12世紀せいきのペルシャ世界せかいはじまりとされる。だいドームとセットになることで、モスク建築けんちくれられるとともに、このイーワーンとドームをわせたかたちが、だいモスク建築けんちくのスタンダードとなり、13世紀せいきには、エジプト、アナトリア、インドでも採用さいようされた[37]

アーチとアーケード

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コルドバのメスキータ(交差こうさアーチのいちれい

イスラーム建築けんちく登場とうじょう以前いぜんからアーチ建築けんちく活発かっぱつおこなわれた。具体ぐたいてきには、古代こだいローマ建築けんちく石造せきぞう半円はんえんアーチ、古代こだいペルシャ建築けんちく煉瓦れんがづくり放物線ほうぶつせんアーチなどであるが、ユダヤきょうキリスト教きりすときょうにおいて、アーチはひじりせい意味いみした。

イスラーム建築けんちくにおいてはアーチのかたち種類しゅるい増加ぞうかすると同時どうじに、使つかかた多岐たきにわたるようになった。基本きほんてきにモスクのミフラーブは、アーチのかたちをとるのが一般いっぱんてきである。イスラーム建築けんちく使つかわれるアーチは以下いかとおりである。

馬蹄ばていアーチは、うまのようなかたちったかたちでシリアが最古さいこれいであるが、マグレブ、アンダルシアでこのまれて使つかわれてきた。とんがあたまアーチは、円弧えんこをつないで、いただきとがったてんとなる。えん中心ちゅうしんかずによって、二心ふたごころさんしんよんしんアーチとなるが、イスラームはよんしんアーチが主流しゅりゅうである。オジー(反転はんてん)アーチは、アーチの上部じょうぶかたむきがぎゃくになって反転はんてんするかたちをとり、16世紀せいき以降いこうのインド・イスラーム建築けんちくおおられる形態けいたいである。多弁たべんアーチは、複数ふくすう円弧えんこ曲線きょくせん花弁はなびらじょうにつないだアーチで装飾そうしょくせいつよい。スペイン、きたアフリカでこのまれ、近世きんせいのインドでとく発展はってんした。交差こうさアーチは、アーチを交差こうささせて文様もんようえが[38]

また、アーケード建築けんちくとは、これらのアーチをつないで建設けんせつされたものである。

庭園ていえん

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ラホールのシャーラマール庭園ていえん

クルアーンでは庭園ていえん楽園らくえんのアナロジーとしてもちいている。そのため、クルアーンの記述きじゅつはイスラーム建築けんちくにおいて多大ただい影響えいきょうあたえた。そのため、イスラーム建築けんちくには、様々さまざま庭園ていえん建設けんせつされた。

数多かずおおくあるイスラーム建築けんちくなか著名ちょめい庭園ていえんは、世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされているグラナダのアルハンブラ宮殿きゅうでん、エスファハーンのおうのモスクとその広場ひろばや、ラホールシャーラマール庭園ていえん、アーグラのタージ・マハルなどが代表だいひょうである。また、庭園ていえんには、イスラーム建築けんちく住宅じゅうたく中庭なかにわ住宅じゅうたくであることがおおいことからわかるとおり、それぞれに特色とくしょくがあるが共通きょうつうてんとしてげられるのが、中庭なかにわである場合ばあいには、ほぼ矩形くけい中心ちゅうしんじく設定せっていされ、周囲しゅういれつ柱廊ちゅうろうこのんで使つかわれることである。

はかとうとミナレット

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ラバトのマンスール・モスク(かくとう

ミナレットは、もともと、屋根やねうえおこなわれた礼拝れいはいさい参加さんかびかけであるアザーンをおこな機能きのうった。素材そざい地域ちいきによりことなるが、おおくは煉瓦れんがいしでできており、建築けんちく様式ようしき装飾そうしょく本数ほんすう地域ちいきによって様々さまざまである。また、イランのミナレット(たとえば、エスファハーンのおうのモスクなど)はタイルであざやかな装飾そうしょくほどこされている場合ばあいおおい。

9世紀せいきのサーマッラーのだいモスクは、現存げんそんするかたちとすれば、3れいしかない螺旋らせんがたである。9世紀せいきにスペインからイランにかけて流行りゅうこうしたかくとうラバトのマンスール・モスクなど)、10世紀せいき以降いこう中央ちゅうおうアジアからペルシャ世界せかい流行りゅうこうしたえんとう(ブハラのカリヤン・モスクなど)、いちたいえんとうドゥ・ミナールヤズドの「金曜きんようモスク」など)、インドで流行りゅうこうしたドゥ・ミナールの変形へんけいであるとうがた、カイロのアズハル・モスクに代表だいひょうされる分節ぶんせつがた、1ほんから6ほんのミナレットを建築けんちくする近世きんせいオスマン建築けんちく鉛筆えんぴつがた分類ぶんるいすることが可能かのうである。

イラン北東ほくとうゴンバデ・カーヴースの「カーブースびょう(ゴンバデ・カーブース)」

また、ミナレットを検証けんしょうするじょうで、はか建築けんちくとの関係かんけいについても検証けんしょうする必要ひつようがある。きりじょう屋根やねいただはかとう最古さいこれいは、11世紀せいき初頭しょとうのイランのカスピ海かすぴかいひがし南岸なんがん地方ちほう・ゴルガーン地方ちほうゴレスターンしゅう、ゴンバデ・カーヴース)にあるゴンバディ・カーブースびょうである。ズィヤールあさ君主くんしゅカーブース・ブン・ワシュムギール在位ざいい:978ねん - 1012ねん)が存命ぞんめいちゅう建設けんせつめいじたこのびょうは、従来じゅうらいはか建築けんちくがドーム屋根やねいただかたち主流しゅりゅうだったのにたいして、異色いしょくはなったが、その背景はいけいには、ミナレットの円筒えんとう模倣もほうした可能かのうせい否定ひていできないまでも、ゾロアスターきょう影響えいきょう考慮こうりょれる必要ひつようがあり、死後しご宮殿きゅうでん意図いとしたものであった[39]

そのはかとう建築けんちくは、セルジュークちょうに、カスピ海かすぴかい南岸なんがん地域ちいき中心ちゅうしん建設けんせつされていったが、はかとうきりじょう屋根やねは、ダブル・ドームじゅうからドーム)への移行いこうがねとなった。ダブル・ドームとは、外側そとがわきりじょう屋根やね内側うちがわ丸天井まるてんじょうあいだには空隙くうげきまれ、構造こうぞうてき分離ぶんりしたドームの建築けんちく方法ほうほうである。はか建築けんちくはトルコ民族みんぞく西進せいしんとともに、アナトリア方面ほうめん伝播でんぱしていったが、かならずしもはかとうはイスラーム建築けんちく主流しゅりゅうになることはなく、11世紀せいき初頭しょとうから15世紀せいきまつまでの中世ちゅうせいアナトリア・ペルシャ・中央ちゅうおうアジアに限定げんていされた。また、15世紀せいきには、イランとアナトリアの一部いちぶにしかのこらず、15世紀せいき以降いこう一部いちぶ聖者せいじゃびょう建設けんせつにのみ限定げんていされた[40]

ミフラーブ

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アヤソフィアのミフラーブ

ミフラーブとは、マッカ礼拝れいはいサラー)の方角ほうがく決定けっていしたとき[41]に、ムスリムがマッカの方角ほうがくがどちらであるかをるために、モスクにもうけられたものである。そのため、マッカのマスジド・ハラームのぞき、すべてのモスクにそなけられている。そのおおくは、アーチがたをしていて、普通ふつうは、モスクの最奥さいおうかべけ、あるいはまれるかたちでもけられていて、モスクのかくとなる装置そうちである。

ミフラーブのアーチがた由来ゆらいは、ユダヤきょうキリスト教きりすときょうといった既存きそん一神教いっしんきょう伝統でんとうにあった至高しこう場所ばしょしめすアーチのかたち使用しようされたせつ有力ゆうりょくとされているが、その語源ごげんは、はっきりしていない。また、ミフラーブが方角ほうがくしめ役割やくわりたした以上いじょうおおきな意味いみたされていた。儀式ぎしきとの関連かんれん、カリフけん象徴しょうちょう建築けんちくとしてもちいられ、次第しだいにアーチのかたちがイスラーム建築けんちく表象ひょうしょうとなっていく、という進化しんかることが可能かのうである[42]

また、ミフラーブは、モスク建築けんちくのみならず、はか建築けんちくなかでも見出みいだすことが可能かのうである。たとえば、デリーのフマーユーンびょうは、かし細工ざいく西にしかべにアーチのかたちひかりなかかびるように建築けんちくされているが、そのさきには、フマーユーンびょう西門にしもんがあり、そのさきには、マッカがある[43]

ムカルナス

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エスファハーンの「おうのモスク」より。ムカルナスが外面がいめん使つかわれているいちれい

英語えいご鍾乳石しょうにゅうせき意味いみするスタラクタイト、あるいははち天井てんじょう意味いみするハニカム・ヴォールトのことをムカルナス(Muqarnasمقرنس)とぶ。ドームやミナレットがイスラーム以前いぜん建築けんちく様式ようしきいできた歴史れきしつのにたいし、ムカルナスは、イスラーム建築けんちくなかまれ愛好あいこうされてきた。この技法ぎほうは、鍾乳石しょうにゅうせきじょうはちじょうちいさな曲面きょくめん集合しゅうごうさせて、全体ぜんたいとして凹曲めんつく建築けんちくてき装置そうちである。

ムカルナスという語彙ごい自体じたいアラビアペルシャトルコ共通きょうつう単語たんごである。1183ねんイブン・ジュバイル旅行りょこうにカルナシという言葉ことばもちいられて、んだ仕事しごと意味いみすると同時どうじに、ムカルナス・ドームをあらわしていたのが最古さいこれいであり、中世ちゅうせいアラビア"Q-R-N-S"配列はいれつだいさん意味いみである「がけ」から派生はせいした言葉ことばというふし有力ゆうりょくである[44]。ムカルナスは、装飾そうしょくてき役割やくわりたすものとして自然しぜん発生はっせいし、10世紀せいきには、東方とうほうイスラーム世界せかい構造こうぞうてき役割やくわり起源きげんとするものと融合ゆうごうするかたち誕生たんじょうした。その結果けっか、ムカルナス自体じたいは、中世ちゅうせいおそくとも12世紀せいき初頭しょとうにはペルシャを中心ちゅうしん活用かつようされてきたことがわかっている。そして、ペルシャや中央ちゅうおうアジアといったペルシャ文化ぶんかけんのみならず、12世紀せいきなかばには、ダマスカス、フェスまで伝播でんぱしたことがわかっている。

イスラーム建築けんちくにおいて、ムカルナスが積極せっきょくてきもちいられたのは、ハニカム・ヴォールトの言葉ことばあるとおり、天井てんじょうであった。また、ドーム移行いこうもムカルナスの頻出ひんしゅつする場所ばしょであるし(たとえば、サーマーンびょう)、イーワーンのような天井てんじょうにもムカルナスは積極せっきょくてきもちいられた。

アラベスク(幾何きかがくせいのある装飾そうしょく)とカリグラフィー

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アラベスク

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アラベスクは、イスラーム美術びじゅつ基本きほん要素ようそであり、モスクやムスリムの住宅じゅうたくかべ装飾そうしょくする装置そうちとしてもちいられた。その紋様もんようは、コンパス定規じょうぎによって考案こうあんされた。イスラームの図学ずがく基本きほんは、いわゆる直交ちょっこう座標ざひょう極座標きょくざひょうかんがかた利用りようした。直交ちょっこう座標ざひょう典型てんけいれいは、タージ・マハルなどのよんふん庭園ていえんである。また、直交ちょっこう座標ざひょうのみならず、60まじわる3つの平行へいこうせんぐん(これでろくすすきぼし正三角形せいさんかっけい正六角形せいろっかっけい描画びょうが可能かのうとなる)、45まじわる4つの平行へいこうせんぐん(これではちすすきぼし菱形ひしがたせいはち角形かくがた描画びょうが可能かのうとなる)、30まじわる6つの平行へいこうせんぐん(これでじゅうすすきぼしせいじゅう角形かくがた描画びょうが可能かのうとなる)、36まじわる5つの平行へいこうせんぐん(これですすきぼしじゅうすすきぼし正五角形せいごかっけいせいじゅう角形かくがた描画びょうが可能かのうとなる)などの直交ちょっこう座標ざひょう以外いがい直線ちょくせんによって描画びょうがができるほし重要じゅうようされた。くわえて、ドームの紋様もんようは、ドームの中心ちゅうしんきょくとした極座標きょくざひょう使用しようするれいおおい。それらを反復はんぷくすることで、アラベスクは描画びょうがすることが可能かのうとなる[45]

カリグラフィー

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メクネスの「マドラサ」より
アルハンブラの「カリグラフィー」

カリグラフィーは、イスラーム美術びじゅつ特徴とくちょうであるアラベスクと同様どうように、イスラーム建築けんちくかべ天井てんじょういろどる。イスラーム世界せかい現代げんだい芸術げいじゅつは、カリグラフィーの遺産いさんもとづいて、みずからの作品さくひんもちいている。

ムスリムによって、カリグラフィーは、視覚しかくてき最上さいじょう芸術げいじゅつ表現ひょうげんであるとひょうされるのは、イスラーム美術びじゅつがイスラームという宗教しゅうきょうアラビアあいだ密接みっせつ関係かんけいがあるからである。クルアーンがアラビア、とりわけ、アラビアアルファベット発展はってんもっと寄与きよしているわけであるが、クルアーンから引用いんようされる言辞げんじ文節ぶんせつは、いまもなお、カリグラフィーにとって、重要じゅうよう資源しげんである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 4世紀せいきローマ建設けんせつされたサンタ・コンスタンツァ聖堂せいどうエルサレムせい墳墓ふんぼ教会堂きょうかいどうのロトンダの部分ぶぶん
  2. ^ 有名ゆうめいものではナスィールッディーン・トゥースィー建設けんせつめいじたマラーゲ天文台てんもんだいがある。
  3. ^ 代表だいひょうてきなものでは、ガザンのかんしたタブリーズのガーザーニーヤや、おなじくラシードゥッディーンのラシードなどはかびょう中心ちゅうしんとする都市とし規模きぼ巨大きょだい寄進きしんふくあい施設しせつがある。
  4. ^ 通称つうしょう「ヒラルダのとう」とばれているものである。ルネサンス追加ついか工事こうじおこなわれたため、当初とうしょ外観がいかんのこっていない。

出典しゅってん

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  1. ^ アンリ・スチールランちょ神谷かみや武夫たけおやく『イスラムの建築けんちく文化ぶんか』 (はら書房しょぼう)pp.23-24.
  2. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.46ほか。これらの類似るいじせいはよくられているが、当初とうしょのファサードは1069ねん火災かさいによりちた。のち再建さいけんされるものの、1893ねん火災かさいによってふたた消失しょうしつしたため、今日きょう正面しょうめんはオリジナルとはことなる。いずれの正面しょうめん形式けいしきも、シリア発祥はっしょうとするものである。
  3. ^ アンリ・スチールランちょ神谷かみや武夫たけおやく『イスラムの建築けんちく文化ぶんか』 (はら書房しょぼう)pp.58-59、ディミトリ・グタスちょ山本やまもと啓二けいじやく 『ギリシア思想しそうとアラビア文化ぶんか 初期しょきアッバースあさ翻訳ほんやく運動うんどう』 (勁草書房しょぼう)pp.33-68
  4. ^ アンリ・スチールランちょ神谷かみや武夫たけおやく『イスラムの建築けんちく文化ぶんか』 (はら書房しょぼう)pp.56-57, pp.59-62.
  5. ^ J. Espositoへん坂井さかい定雄さだお監修かんしゅう小田切おだぎり勝子かつこやく 『イスラームの歴史れきし 1 しん文明ぶんめい淵源えんげん』 p.303
  6. ^ Archnet Dizital Library : Lashkari Bazar
  7. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.93-94
  8. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.159。現在げんざいのミナレットは1296ねん再建さいけんされたもので、本来ほんらいはサーマッラーとおなじく螺旋らせんじょうであった。
  9. ^ J. Espositoへん坂井さかい定雄さだお監修かんしゅう小田切おだぎり勝子かつこやく 『イスラームの歴史れきし 1 しん文明ぶんめい淵源えんげん』p. 334
  10. ^ アンリ・スチールランちょ神谷かみや武夫たけおやく『イスラムの建築けんちく文化ぶんか』 (はら書房しょぼう)pp.83-99
  11. ^ J. Espositoへん坂井さかい定雄さだお監修かんしゅう小田切おだぎり勝子かつこやく 『イスラームの歴史れきし 1 しん文明ぶんめい淵源えんげん』 (共同通信社きょうどうつうしんしゃ)p.322
  12. ^ 本田ほんだみのるしんじ「スルターニーヤの建設けんせつ」『モンゴル時代じだい研究けんきゅう東京とうきょう東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい 1991ねん. pp.343-356(初出しょしゅつ「スルターニーヤ建都けんとこう」『東方とうほう学会がっかい創立そうりつよんじゅう周年しゅうねん記念きねん東方とうほうがく論叢ろんそう』1987ねん)、羽田はたただし「「まき都市とし」と「はかびょう都市とし」—東方とうほうイスラム世界せかいにおける遊牧ゆうぼく政権せいけん都市とし建設けんせつ— 」『東洋とうよう研究けんきゅう』49-1,pp.1-29,1990.6
  13. ^ 羽田はたただし『モスクがかたるイスラム -建築けんちく政治せいじ権力けんりょく-』中公新書ちゅうこうしんしょ1177、1994ねん、154-169ぺーじ
  14. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.104
  15. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.175
  16. ^ 文部省もんぶしょう科学かがく研究けんきゅう重点じゅうてん領域りょういき研究けんきゅう「イスラムの都市としせい総括そうかつはんへん『「イラン・地震じしん都市としせいかんがえる」 : イスラムの都市としせい公開こうかいセミナー』東京とうきょう : 東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1991.1
  17. ^ 羽田はたただし「「まき都市とし」と「はかびょう都市とし」—東方とうほうイスラム世界せかいにおける遊牧ゆうぼく政権せいけん都市とし建設けんせつ—」 『東洋とうよう研究けんきゅう』49-1,pp.1-29,1990.6
  18. ^ 立方体りっぽうたい内接ないせつする半球はんきゅうがたせるとき、四隅よすみ部分ぶぶんに45方向ほうこうにアーチや筋交すじかはりれた処理しょりす。(中略ちゅうりゃくひがしのドームの系統けいとうささえた技法ぎほうである。」深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』p.49
  19. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.134
  20. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.129-130
  21. ^ http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/614.pdf
  22. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』p.97
  23. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.211-216
  24. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.97-98
  25. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.248-251
  26. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.235-236
  27. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.238-240
  28. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』p.236
  29. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.243-244
  30. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.254-257
  31. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.137-144
  32. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.47-48
  33. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』p.63
  34. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.64-65。ただし、イスラーム初期しょきは、遺体いたい埋葬まいそうした地上ちじょう記念きねんてき建築けんちくぶつ建立こんりゅうするのはくないことだといわれたため、いわのドーム以降いこうで、つぎはか建築けんちくは、9世紀せいきのサーマッラーにあるアッバースあさだい11だいカリフムンタスィルはか、クッバト・アッ=スライビーヤ(スライビーヤびょう)をたなければならない。
  35. ^ a b 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』p.67
  36. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』p.68
  37. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.55-57
  38. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく』pp.56-57
  39. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.82-84
  40. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.84-85
  41. ^ 井筒いづつ俊彦としひこやく『コーラン』(うえ)p.37
  42. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.108-119
  43. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.122-124
  44. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくのみかた』pp.134-135
  45. ^ 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』pp.153-158

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 羽田はたただしモスクかたるイスラム 建築けんちく政治せいじ権力けんりょく』(中公新書ちゅうこうしんしょ 1994ねん
  • ジョン・D・ホーグちょ 山田やまだ幸正ゆきまさやく『イスラム建築けんちく 図説ずせつ世界せかい建築けんちく6』(ほんともしゃ 2001ねん) 
  • アンリ・スチールランちょ神谷かみや武夫たけおやく『イスラムの建築けんちく文化ぶんかはら書房しょぼう
  • 栗田くりたいさむちょ『イスラム・スペイン建築けんちくへのたび』(朝日あさひ選書せんしょ 1985ねん) 
  • ジョン・エスポジト(J. Esposito)へん坂井さかい定雄さだお監修かんしゅう小田切おだぎりまさるやく 『イスラームの歴史れきし 1 しん文明ぶんめい淵源えんげん共同通信社きょうどうつうしんしゃ ISBN 4-7641-0551-9
  • 世界せかい遺産いさんアカデミー監修かんしゅう世界せかい遺産いさんがく検定けんてい 2 ヨーロッパの世界せかい遺産いさん+世界せかい危機きき遺産いさん講談社こうだんしゃ、2006ねん ISBN 4-06-213250-8
  • 世界せかい遺産いさんアカデミー監修かんしゅう世界せかい遺産いさんがく検定けんてい 3 南北なんぼくアメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアの世界せかい遺産いさん講談社こうだんしゃ、2006ねん ISBN 4-06-213250-8
  • こんおおやけさん 『イスラームとユダヤの世界せかい遺産いさん Best99』 角川書店かどかわしょてん、2006ねん ISBN 4-04-853979-5
  • ディミトリ・グタスちょ山本やまもと啓二けいじやく 『ギリシア思想しそうとアラビア文化ぶんか 初期しょきアッバースあさ翻訳ほんやく運動うんどう』 勁草書房しょぼう
  • 本田ほんだみのるしんじ「スルターニーヤの建設けんせつ」『モンゴル時代じだい研究けんきゅう東京とうきょう東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、1991ねん. pp.343-356(初出しょしゅつ「スルターニーヤ建都けんとこう」『東方とうほう学会がっかい創立そうりつよんじゅう周年しゅうねん記念きねん東方とうほうがく論叢ろんそう』1987ねん
  • 羽田はたただし「「まき都市とし」と「はかびょう都市とし」—東方とうほうイスラム世界せかいにおける遊牧ゆうぼく政権せいけん都市とし建設けんせつ—」 『東洋とうよう研究けんきゅう』49-1、1990ねん
  • 文部省もんぶしょう科学かがく研究けんきゅう重点じゅうてん領域りょういき研究けんきゅう「イスラムの都市としせい総括そうかつはんへん『「イラン・地震じしん都市としせいかんがえる」 : イスラムの都市としせい公開こうかいセミナー』東京とうきょう : 東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1991ねん
  • 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2003ねん ISBN 4-490-20498-1
  • 深見ふかみ奈緒子なおこ世界せかいのイスラーム建築けんちく講談社こうだんしゃ<講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ>1779、2005ねん ISBN 4-06-149779-0

関連かんれん項目こうもく

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イスラーム建築けんちくおよびイスラーム建築けんちくもとづいて建設けんせつされた都市としおおくがユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。以下いかに、くにべつ例示れいじする。

外部がいぶリンク

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以下いかは、英語えいごばんをそのまま、採用さいようしている。

ムカルナスの説明せつめい

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