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アナトリア半島はんとう

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しょうアジアから転送てんそう
ヨーロッパとアジアをつなぐアナトリア半島はんとうあかかこまれた部分ぶぶん
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アナトリア半島はんとう(アナトリアはんとう、ギリシア: Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolēトルコ: Anadolu)は、アジア大陸たいりくさい西部せいぶ西にしアジア一部いちぶをなす地域ちいきである。現在げんざいトルコ共和きょうわこくのアジア部分ぶぶんをなす。日本語にほんごではアナトリア半島はんとうばれることおおいが、英語えいごけんでは「半島はんとう」をつけない、たんなるアナトリア(アナトール)であり、地形ちけいではなく人文じんぶん地理ちりてき地域ちいきあらわ言葉ことばである。しょうアジアまれ: Μικρά Ασία, Mikra Asia, : Asia Minor)ともい、漢字かんじではしょう亜細亜あじあ表記ひょうきされる。

範囲はんい

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だいいち世界せかい大戦たいせんまえの1911ねん地図ちずしょうアジア (ASIA MINOR) は現在げんざいのトルコ西部せいぶから中部ちゅうぶかれており、東部とうぶにはアルメニア (ARMENIA) とかれている。

きた西にし南西なんせい境界きょうかいうみだが、陸続りくつづきである南東なんとうひがし境界きょうかい曖昧あいまいである。簡便かんべんのためにはトルコ国境こっきょうとされることもおおく、現在げんざいのトルコのひがしアナトリア地方ちほう南東なんとうアナトリア地方ちほうはトルコ東部とうぶ位置いちしている。

しかし、トルコの国境こっきょうせん1921ねんアンカラ条約じょうやく確定かくていしたにすぎず、歴史れきしてき意味いみさない。現在げんざい国境こっきょうひがし地中海ちちゅうかい世界せかいとの関係かんけいうすく、近代きんだいにはトルコじん主要しゅよう民族みんぞくでないトルコ東部とうぶがアナトリアやしょうアジアとして言及げんきゅうされることはすくない。現代げんだいでも、「アナトリア」や「しょうアジア」がトルコ西部せいぶから中部ちゅうぶにかけてかれている地図ちずおおい。

なお、トルコのヨーロッパ地域ちいき沿岸えんがんギリシャりょう島々しまじまキプロスなどの島嶼とうしょふくまない。

地理ちり

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トルコの7地方ちほう

きた黒海こっかい北西ほくせいマルマラうみ西にしゲ海げかい南西なんせい地中海ちちゅうかいめんす。ひがし南東なんとう陸続りくつづきで、ジョージアアルメニアイランイラクシリアせっする。

地勢ちせい高地こうちせいである。平地ひらち海岸かいがん沿いにわずかにあるのみである。河川かせんだい部分ぶぶん黒海こっかい・マルマラかいゲ海げかい地中海ちちゅうかいながれるが、南東なんとうには、ペルシアわんそそチグリスがわユーフラテスがわ上流じょうりゅう支流しりゅうながれ、北東ほくとうには、カスピ海かすぴかいそそクラがわ上流じょうりゅう支流しりゅうながれる。

トルコの行政ぎょうせい区画くかくはアナトリアとヨーロッパをける境界きょうかいになっていない。7つの地方ちほうのうちマルマラ地方ちほうはヨーロッパからアナトリアにかけてひろがり(ヨーロッパ地域ちいき全域ぜんいきふくまれる)、同様どうように、81のけんのうちイスタンブールけんが、また基礎きそ自治体じちたいではイスタンブールがヨーロッパからアナトリアにかけひろがっている。そのため、アナトリアにかんする人口じんこう経済けいざいなどの統計とうけい情報じょうほうることがむずかしい。

民族みんぞくはトルコじんだい多数たすうだが、南東なんとうにはクルドじん[1]、および若干じゃっかんアラブじん北東ほくとうにはアルメニアじんむ。かつては黒海こっかい海岸かいがん地帯ちたいポントス地方ちほうポントスじんばれるギリシャじん古代こだいからんでいたが、だいいち世界せかい大戦たいせん住民じゅうみん交換こうかんでほぼすべてがギリシャ移住いじゅうした。

歴史れきし

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文明ぶんめい発祥はっしょう

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アジアヨーロッパつな戦略せんりゃくてき重要じゅうよう地点ちてん位置いちするため、アナトリア半島はんとう先史せんし時代じだいからいくつかの文明ぶんめい発祥はっしょうとなり、しん石器せっき時代じだい神殿しんでん遺跡いせきわれるギョベクリ・テペや、人類じんるい最古さいこ定住ていじゅう遺跡いせきわれるチャタル・ヒュユクなどの、すうおおくの遺跡いせき発見はっけんされている。

ふるくはたんに「アジア」とばれていたが、アジアはさらに東方とうほう広大こうだいであることがわかり、「しょうアジア」と区別くべつされるようになった。アナトリアの名称めいしょうひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス7せい時代じだいゲ海げかいめんした西岸せいがん地方ちほうぐん管区かんくき、「アナトリコン」(ギリシャしょ)と名付なづけたことに由来ゆらいする。

主要しゅようしょ文明ぶんめい

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  ヒッタイト最大さいだい勢力せいりょく
  どう時代じだいエジプト勢力せいりょく

アナトリア半島はんとう存在そんざいした主要しゅようしょ文明ぶんめいには以下いかげられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 松浦まつうら範子のりこクルド : 翻弄ほんろう歴史れきし現在げんざい」『プライム』だい32ごう明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい平和へいわ研究所けんきゅうじょ、2010ねん10がつ、45-56ぺーじISSN 13404245NAID 400174277332021ねん10がつ1にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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座標ざひょう: 北緯ほくい39 東経とうけい32 / 北緯ほくい39 東経とうけい32 / 39; 32