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ギリシャじん

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ギリシャじん
ギリシャの旗
Ἕλληνες
そう人口じんこう
14,000,000–17,000,000にん [1]
居住きょじゅう地域ちいき
ギリシャの旗 ギリシャ11,305,180a[2][3]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ1,390,439[4]–3,000,000b[5]
キプロスの旗 キプロス650,000a[6]
イギリスの旗 イギリス400,000
ドイツの旗 ドイツ395,000g[7]
オーストラリアの旗 オーストラリア378,300[8]
トルコの旗 トルコ300,000[9][10][11][12]
カナダの旗 カナダ252,960[13]
アルバニアの旗 アルバニア200,000[14]
ロシアの旗 ロシア97,827[15][16]
ウクライナの旗 ウクライナ91,548[17]
チリの旗 チリ90,000–120,000
イタリアの旗 イタリア90,000d[18][19]
南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ55,000[20]
ブラジルの旗 ブラジル50,000e[21]
フランスの旗 フランス35,000[22]
アルゼンチンの旗 アルゼンチン30,000[23]
ペルーの旗 ペルー16,000[24]
ベルギーの旗 ベルギー15,742[25]
ジョージア (国)の旗 ジョージア15,166[26]
スウェーデンの旗 スウェーデン12,000–15,000[27]
カザフスタンの旗 カザフスタン13,000[28]
スイスの旗 スイス11,000[29]
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン9,500[30]
ルーマニアの旗 ルーマニア6,500[31]
アルメニアの旗 アルメニア6,000[32]
メキシコの旗 メキシコ5,000–20,000
オーストリアの旗 オーストリア4,000[33]
ハンガリーの旗 ハンガリー3,916[34]
ブルガリアの旗 ブルガリア3,408[35]
ポーランドの旗 ポーランド3,400[36]
言語げんご
ギリシャ
宗教しゅうきょう
ギリシャ正教せいきょう

ギリシャじん(ギリシャじん、ギリシアἝλληνες [ˈelines]現代げんだいギリシア, Hellēnes[héllɛːnes]古代こだいギリシア)は、バルカン半島ばるかんはんとう周辺しゅうへんおよびキプロス出自しゅつじち、ギリシャ母語ぼごとする民族みんぞくである。国民こくみんとしてのギリシャじんギリシャ共和きょうわこく国籍こくせきゆうするもの)にはアルーマニアじんアルバニアじんトルコけい国外こくがいからの移住いじゅうしゃふくまれる。

古代こだい

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古代こだいギリシャ時代じだいにおけるギリシャじんはギリシャはなし、とく自由じゆうみんであるものをいう。ギリシャ本土ほんどだけでなく、しょうアジアヨーロッパ各地かくちにギリシャから移住いじゅうしたものによって建設けんせつされた植民しょくみん住民じゅうみんふくむ。かれ自身じしんヘレネスヘレーン一族いちぞく)としょうし、他者たしゃバルバロイ意味いみのわからない言葉ことばはなもの)とんで区別くべつした。マケドニアひともギリシャはなし、ヘラクレス血筋ちすじであるとされたので一部いちぶはんマケドニア勢力せいりょくのぞけばヘレネスとしてひろ認知にんちされていた。

のちに、マケドニア王国おうこくアレクサンドロス大王だいおう帝国ていこく建設けんせつなどをて、ひろ中央ちゅうおうアジアから地中海ちちゅうかい世界せかい各地かくちにまでひろがったギリシャ常用じょうようするものをもすようにてんじた。ギリシャじん意味いみする英語えいごの Greek 、フランス語ふらんすごの Grec などの西欧せいおうしょ言語げんごにおける呼称こしょう日本語にほんごの「ギリシャ(ひと)」は、イタリア半島はんとう南部なんぶ移住いじゅうした人々ひとびと古代こだいローマひとがその土地とちであるグラエキア (Graecia) からグラエキ (Graeci) とんだことに由来ゆらいする。

ちゅう近世きんせい

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中世ちゅうせい近世きんせいにおけるギリシャじんは、おもひがしマ帝国まていこく(ビザンツ帝国ていこく・ビザンティン帝国ていこく)やオスマン帝国ていこく統治とうちで、ギリシャ地域ちいきしょうアジア、ゲ海げかい島々しまじまひろ居住きょじゅうしており、ギリシャ母語ぼごとし、正教会せいきょうかいキリスト教きりすときょう信奉しんぽうした人々ひとびとのことである。

血統けっとうてきには古代こだいからの連続れんぞくせいがあったと通常つうじょうかんがえられているが、6世紀せいき後半こうはんのスラヴじん南下なんかによって混血こんけつすすめられたとかんがえられていた。古代こだいより人口じんこう希薄きはくだったペロポネソス半島はんとうのほぼ全域ぜんいきをスラブじん占領せんりょうしたが、ニケフォロス1せい時代じだいからギリシャ政策せいさくはじまり、200ねんほどかけてギリシャじんになった。オスマン帝国ていこくないにはスラヴじんのほかにもアルメニアじんイタリアじんクルドじんなども居住きょじゅうしていた。これらギリシャじんなか東方とうほう正教せいきょう信仰しんこうするものぜんそう主教しゅきょう管轄かんかつかれてギリシャ文化ぶんか影響えいきょうけ、ギリシャじんになったものすくなくなかった。

ひがしマ帝国まていこく時代じだい

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ひがしマ帝国まていこく時代じだいのギリシャじんは、キリスト教徒きりすときょうとしょ民族みんぞくからはもっぱら「ギリシャじん」とばれた。しかし、ギリシャじん自身じしんは、マ帝国まていこく市民しみんとしての自意識じいしきち、ロマイオイ(ギリシア: Ρωμαίοι ローマじん 中世ちゅうせい現代げんだいギリシアではロメイ)と自称じしょうしており、「ヘレネス(エリネス)」は古代こだい異教徒いきょうと、あるいは地方ちほう都市とし農村のうそん住民じゅうみんのことをさしていた。212ねんアントニヌスみことのりれいによってローマ民権みんけんマ帝国まていこくないぜん自由じゆうじんあたえられていたからである[37]古代こだいローマ時代じだいのことを「父祖ふそ時代じだい」とび、古代こだいギリシャじん子孫しそんであることよりも、古代こだいマ帝国まていこく市民しみん末裔まつえいであることをほこりにしていたのである。たとえば、10世紀せいきひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス7せいは、その著書ちょしょテマ起源きげんについて』のなかで、ヘラクレイオスあさ時代じだい(610-711)に帝国ていこく公用こうようラテン語らてんごからギリシャあらためられたことを「ちちたちの、ローマじん言葉ことばてた」と表現ひょうげんしている[38]

その一方いっぽうで、ひがしマ帝国まていこく知識ちしきじん階層かいそうにおいてはホメロス暗唱あんしょうできるのが常識じょうしきとされ、中等ちゅうとう教育きょういくでは古典こてんギリシャ文法ぶんぽうおしえられるなど[39]されたように、古代こだいギリシャ古典こてん文化ぶんか尊重そんちょうされていた。

とくに、ひがしマ帝国まていこく末期まっきパレオロゴス王朝おうちょうには、ギリシャ古典こてん文化ぶんかおおいに見直みなおされて復興ふっこうたす(パレオロゴスあさルネサンス)が、この時期じきのギリシャ古典こてん文化ぶんかにつけたひがしマ帝国まていこくのギリシャじん一部いちぶは、ヴェネツィア共和きょうわこくによるペロポネソス半島はんとうキプロスとうクレタとうなどの支配しはい1453ねんコンスタンティノープルの陥落かんらく影響えいきょう次第しだいイタリアなど西にしヨーロッパわたることもおおくなり、ルネサンス古典こてん復興ふっこうおおいに貢献こうけんしたとわれる。西にしヨーロッパにわたったギリシャじんなかでは、画家がかエル・グレコ有名ゆうめいである。

また、「1821ねんのギリシャ独立どくりつによって、ギリシャじんやく2000ねんぶりに独立どくりつ回復かいふくした」というような表現ひょうげんをされることもおおいが、おそらく古代こだいギリシャからずっとギリシャじん政治せいじてき主権しゅけん時代じだいがなかったとめつけるためにまれる、不正確ふせいかく表現ひょうげんであるといわなくてはならない。実際じっさいは、オスマン帝国ていこくからの支配しはいからかぞえれば、正確せいかくには368ねんぶりの独立どくりつである。ちゅうにちギリシャ大使館たいしかんのサイトでも、ひがしローマ時代じだいをギリシャじん歴史れきし一部いちぶとしてあつかっている。

さらに一部いちぶ教科書きょうかしょには、ひがしマ帝国まていこくにおける「皇帝こうてい教皇きょうこう主義しゅぎ」の説明せつめいとして、ひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノープルそう主教しゅきょうどう一人物いちじんぶつであるかのごとき表現ひょうげん散見さんけんされるが、両者りょうしゃははっきりと別人べつじんであり、ひがしマ帝国まていこく時代じだいにはそう主教しゅきょう皇帝こうてい摂政せっしょう相談役そうだんやくであったり、さらには両者りょうしゃのあいだにはなん反目はんもく軋轢あつれきしょうじたことさえあった。

オスマン帝国ていこく時代じだい

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現在使われていない歴史的な旗?オスマン帝国ていこく時代じだいロマとギリシャけいじんはた(1453–1793)

ギリシャじん本来ほんらい居住きょじゅうにおいてはひがしマ帝国まていこく消滅しょうめつも、オスマン帝国ていこく領内りょうない人頭じんとうぜいおさめる庇護ひごみんズィンミー)として正教会せいきょうかい信仰しんこう維持いじすることをみとめられ、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうとするせい教徒きょうと自治体じちたいミッレト)を形成けいせいした。ブルガリアじんセルビアじんなどのバルカン半島ばるかんはんとうせい教徒きょうとしょ民族みんぞくまでをふくむオスマン帝国ていこくせい教徒きょうと社会しゃかいなかで、帝都ていとイスタンブール中心ちゅうしん帝国ていこく中央ちゅうおうむギリシャじんたちは優位ゆういち、通訳つうやくかん地方ちほう長官ちょうかんとしてたか地位ちいものあらわれた。

この時代じだいつうじてかれらのアイデンティティのみなもとは、正教せいきょう信仰しんこうであった。ひがしマ帝国まていこく時代じだいにはローマじんという意識いしき古代こだい以来いらいのギリシャ文化ぶんか尊重そんちょうするギリシャじん意識いしきする伝統でんとう両立りょうりつしていたが、オスマン帝国ていこく支配しはいでは古代こだいギリシャ文化ぶんか知識ちしきものおおくが前述ぜんじゅつのように亡命ぼうめいしてしまい、古代こだい記憶きおくうしなわれてしまったのである。

きん現代げんだい

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近代きんだいギリシャ国家こっかとギリシャじん

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1822ねんギリシャ王国おうこくがオスマン帝国ていこくから独立どくりつし、やく360ねんぶりにギリシャじん自分じぶんたちの国家こっかった(しかし、厳密げんみつには1800ねんにギリシャじん国家こっかであるイオニア七島ななしま連邦れんぽうこく成立せいりつしている)。

だいいち世界せかい大戦たいせんにオスマン帝国ていこく敗北はいぼくし、その領土りょうど西洋せいよう列強れっきょう分割ぶんかつされたことは、ギリシャ王国おうこくにとってはしょうアジアにひろがるギリシャじん居住きょじゅう地帯ちたいりょうくわえる最大さいだい好機こうきをもたらした。1919ねんギリシャぐんしょうアジアに上陸じょうりくし、列強れっきょう同意どういて、スミルナ(イズミル)を中心ちゅうしんとするしょうアジア西南せいなんゲ海げかい沿岸えんがん一帯いったい占領せんりょういた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラてられたトルコ革命かくめい政権せいけんはげしい抵抗ていこうけ、激戦げきせんすえ1922ねん、ギリシャぐんはイズミルから撤退てったいしてアンカラ政府せいふトルコ共和きょうわこく政府せいふ)と休戦きゅうせんした。このとき、トルコとギリシャのあいだでは住民じゅうみん交換こうかん協定きょうていむすばれ、トルコりょうから90まんにん以上いじょうのギリシャじんがギリシャへの移住いじゅう余儀よぎなくされたが、じつはトルコじんとギリシャじん区別くべつはかなり困難こんなんで、宗教しゅうきょうだけを基準きじゅんとせざるをなかった。そのため、トルコ母語ぼごとする正教会せいきょうかい信者しんじゃカラマンリカラマンルともばれた)もギリシャじんとされ、ぎゃくにスラヴけいやギリシャけいとうムスリムやテッサロニキ地方ちほうんでいたイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうしたユダヤじんのほとんどはまとめてトルコじんとして住民じゅうみん交換こうかん対象たいしょうとなった。このため、かつてはしょうアジアの各地かくち数多かずおおんでいたギリシャじんも、現在げんざいはイスタンブールにわずかにのこるのみである。

なお、トルコのしょうアジア黒海こっかい沿岸えんがんにもトレビゾンド帝国ていこくとうギリシャけい国家こっか存在そんざいしていた経緯けいいから、オスマン帝国ていこく支配しはいポントスじんとうギリシャけい住民じゅうみんのコミュニティが脈々みゃくみゃく存在そんざいしていた。そのだいいち世界せかい大戦たいせん混乱こんらんやトルコとのギリシャあいだ住民じゅうみん交換こうかん協定きょうていにより、黒海こっかい沿岸えんがん居住きょじゅうするギリシャけい住民じゅうみんおおくが、ギリシャ本国ほんごくグルジアひとしきゅうソ連それんりょう出国しゅっこくしていったとされる。現在げんざいもわずかではあるが、グルジアとの国境こっきょう付近ふきんには、少数しょうすう民族みんぞく混在こんざいするかたち少数しょうすうのギリシャけい住民じゅうみん居住きょじゅうしているといわれている。

ギリシャけいキプロスじん

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こうして、ギリシャの領土りょうど縮小しゅくしょうしたもののほぼギリシャじん居住きょじゅう地域ちいき一致いっちするようになったが、例外れいがいとしてオスマン帝国ていこく崩壊ほうかい以前いぜんイギリス植民しょくみんとなっていたキプロスとうのこされた。

キプロスをギリシャに併合へいごうしようとする要求ようきゅうはこのしま数多かずおおトルコじんたちとの軋轢あつれき一方いっぽう、ギリシャ併合へいごうもとめる過激かげきのイギリス当局とうきょくたいするテロ頻発ひんぱつさせた。こうしてイギリス、ギリシャ、トルコによって妥協だきょうあん検討けんとうされ、1960ねんにキプロスとうキプロス共和きょうわこくとしてどのくににもぞくさない独立どくりつこくになった。

しかし、独立どくりつもキプロスでは独立どくりつのトルコけいキプロスじんとギリシャ併合へいごう賛成さんせいのギリシャけいキプロスじん反目はんもくつづいた。1973ねんにギリシャけい大統領だいとうりょうマカリオスがギリシャ軍政ぐんせい政権せいけん支援しえんけてこったギリシャ併合へいごう賛成さんせい組織そしきによるクーデターをきっかけとして、トルコぐん本格ほんかくてきにキプロスに介入かいにゅうしキプロスとう北部ほくぶ占領せんりょう、トルコけい住民じゅうみんによるきたキプロス・トルコ共和きょうわこく建国けんこくさせた。これにより、従来じゅうらいからのキプロス共和きょうわこく政府せいふ統治とうちする領域りょういき全島ぜんとうの3ぶんの2に縮小しゅくしょうし、統治とうちする人々ひとびとのほとんどがギリシャけい住民じゅうみんとなったが、キプロス、ギリシャと国際こくさい社会しゃかいはキプロスのさい統合とうごうもとめ、トルコの対応たいおう非難ひなんしている。

アルバニアのギリシャじん

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かつてはひがしマ帝国まていこくりょうだった現在げんざいアルバニア南部なんぶにもギリシャけい住民じゅうみんおおんでおり、ギリシャ使用しようされている。

そののギリシャじん

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アメリカオーストラリア移民いみんしたギリシャじんおおく、その活躍かつやくは、政治せいじ経済けいざい多方面たほうめんにわたるひろがりをせている。とくにアメリカでは、マイケル・デュカキスのようにアメリカ大統領だいとうりょう選挙せんきょ候補者こうほしゃとなるものもいた。

以上いじょうてきたように、現代げんだいにおいてはギリシャけい人々ひとびとはギリシャ共和きょうわこくのみならずイスタンブールやキプロス、アルバニアまでふくめてひろがっており、ギリシャじんというかたりはギリシャ国籍こくせきゆうするものという意味いみと、ひろくギリシャけい人々ひとびと場合ばあいじゅう意味いみゆうしている状況じょうきょうにある。


脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Immigration and Asylum: From 1900 to the Present. Books.google.co.uk. https://books.google.com/?id=2c6ifbjx2wMC&pg=PA273&lpg=PA273&dq=greek+diaspora+million#v=onepage&q=greek%20diaspora%20million&f=false 2014ねん3がつ1にち閲覧えつらん 
  2. ^ www.eurfedling.org The main ethnic groups were Greeks 93.76%, Albanians 4.32%, Bulgarians 0.39%, Romanians 0.23%, Ukrainians 0.18%, Pakistani 0.14%, Russians 0.12%, Georgians 0.12%, Indians 0.09% and others 0.65%.
  3. ^ Information from the 2001 Census: The Census recorded 762.191 persons normally resident in Greece and without Greek citizenship, constituting around 7% of total population. Of these, 48.560 are EU or EFTA nationals; there are also 17.426 Cypriots with privileged status”. Aei.pitt.edu. 2014ねん3がつ1にち閲覧えつらん
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  15. ^ Демоскоп Weekly - Приложение. Справочник статистических показателей”. Demoscope.ru. 2014ねん3がつ1にち閲覧えつらん
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  18. ^ Grecia Salentina official site (in Italian).”. www.greciasalentina.org.org. February 2011閲覧えつらん。 “La popolazione complessiva dell’Unione è di 54278 residenti così distribuiti (Dati Istat al 31° dicembre 2005. Comune Popolazione Calimera 7351 Carpignano Salentino 3868 Castrignano dei Greci 4164 Corigliano d'Otranto 5762 Cutrofiano 9250 Martano 9588 Martignano 1784 Melpignano 2234 Soleto 5551 Sternatia 2583 Zollino 2143 Totale 54278”
  19. ^ Bellinello, Pier Francesco (1998). Minoranze etniche e linguistiche. Bios. p. 53. ISBN 9788877401212. https://books.google.co.jp/books?id=mHdJAAAAMAAJ&q=Greco+14.000+unit%C3%A0&redir_esc=y&hl=ja#search_anchor. "ISBN 88-7740-121-4" "Le attuali colonie Greche calabresi; La Grecìa calabrese si inscrive nel massiccio aspromontano e si concentra nell'ampia e frastagliata valle dell'Amendolea e nelle balze più a oriente, dove sorgono le fiumare dette di S. Pasquale, di Palizzi e Sidèroni e che costituiscono la Bovesia vera e propria. Compresa nei territori di cinque comuni (Bova Superiore, Bova Marina, Roccaforte del Greco, Roghudi, Condofuri), la Grecia si estende per circa 233 kmq. La popolazione anagrafica complessiva è di circa 14.000 unità." 
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関連かんれん項目こうもく

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