マヌエル1せいコムネノス

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マヌエル1せいコムネノス“メガス”
Μανουήλ Αあるふぁ' Κομνηνός o Μέγας
(Manūēl I Komnēnos o Megas)
ひがしローマ皇帝こうてい
マヌエル1せいコムネノスのフレスコ
在位ざいい 1143ねん4がつ8にち - 1180ねん9月24にち

ぜん マヌエル・コムネノス
出生しゅっしょう 1118ねん11月28にち
ひがしマ帝国まていこくコンスタンティノポリス
死去しきょ (1180-09-24) 1180ねん9月24にち(61さいぼつ
ひがしマ帝国まていこく、コンスタンティノポリス
配偶はいぐうしゃ ベルタ・フォン・ズルツバッハ
マリー・ダンティオケ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
王朝おうちょう コムネノス王朝おうちょう
父親ちちおや ヨハネス2せいコムネノス
母親ははおや ピロシュカ(ギリシアめい:エイレーネー)
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マヌエル1せいコムネノス“メガス”ギリシアΜανουήλ Αあるふぁ' Κομνηνός o Μέγας (Manūēl I Komnēnos o Megas)1118ねん11月28にち - 1180ねん9月24にち)は、ひがしマ帝国まていこくコムネノス王朝おうちょうだい3だい皇帝こうてい在位ざいい1143ねん - 1180ねん)。どう王朝おうちょうだい2だい皇帝こうていヨハネス2せいコムネノスハンガリーおうラースロー1せい王女おうじょエイレーネー(イレーネー)の

“メガス”は「偉大いだいなる」という意味いみ渾名あだなかれつかえたもの非常ひじょう忠誠ちゅうせいしんいだき、秘書ひしょ配下はいか将兵しょうへい賞賛しょうさんされたことに由来ゆらいする。中世ちゅうせいギリシアでは「マヌイル1せいコムニノス」。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

十字軍じゅうじぐんへの対応たいおう[編集へんしゅう]

マヌエルはよんなんであったが、長兄ちょうけいアレクシオス英語えいごばん次兄じけいアンドロニコス英語えいごばん1142ねん相次あいついで早世そうせいし、1143ねんちち狩猟しゅりょう事故じこ急死きゅうしした結果けっか遺言ゆいごん皇位こうい継承けいしょうしゃとしてえらばれた。首都しゅとコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)で留守るすあずかっていたさんあにイサキオス英語えいごばん拘束こうそくして機先きせんせいし、戴冠たいかんしきおこな即位そくいした(そのイサキオスを解放かいほうして和解わかい[1][2][3]

1146ねん即位そくいまえちちドイツおうコンラート3せいとのあいだめられた約束やくそくで、コンラート3せい義妹ぎまいベルタ・フォン・ズルツバッハ結婚けっこんした。これはシチリアおうルッジェーロ2せい拡張かくちょう政策せいさく対抗たいこうするためだった[4][5]

よく1147ねん十字軍じゅうじぐん国家こっかエデッサはくこく陥落かんらくをきっかけにだい2かい十字軍じゅうじぐん結成けっせい、コンラート3せいフランスおうルイ7せい参加さんかした十字軍じゅうじぐんがコンスタンティノープルへ到来とうらいした。マヌエル1せいは9月にさき到着とうちゃくした義兄ぎけいコンラート3せい指揮しきのドイツぐん歓迎かんげいしたが、イスラム教いすらむきょうくにルーム・セルジュークあさスルタンマスウード1せいと12年間ねんかん休戦きゅうせん条約じょうやく締結ていけつしたばかりだったため、内心ないしん十字軍じゅうじぐん駐屯ちゅうとんこころよおもっていなかった。このため十字軍じゅうじぐんへの対応たいおう一貫いっかんせず、会議かいぎ行軍こうぐん困難こんなんさを理由りゆうにイスラム教徒きょうとムスリム)との戦闘せんとうめるよう義兄ぎけい進言しんげんしたがことわられ、圧力あつりょくをかけてドイツぐんしょうアジアかわせる一方いっぽうとどけることは出来できなかったが物資ぶっし供給きょうきゅう約束やくそくしたり、ドイツぐん案内あんないじんけて一定いってい配慮はいりょはしている。しかし案内あんないじん突然とつぜん失踪しっそう直後ちょくごにルーム・セルジュークあさのムスリムぐん襲撃しゅうげきでドイツぐん大敗たいはいドリュラエウムのたたか英語えいごばん)したためドイツじん不信ふしんいかりをった[6][7][8][9][10]

10月にからやってたルイ7せい王妃おうひアリエノール・ダキテーヌらフランスぐん盛大せいだい儀式ぎしき宴会えんかいでもてなしたが、コンスタンティノープルは十字軍じゅうじぐん兵士へいし民衆みんしゅう衝突しょうとつ不穏ふおんになり、ドイツぐん敗報はいほうつたわるとフランスじんやルイ7せいからも不信ふしんかんいだかれた。フランスぐん首都しゅとのちにしてしょうアジアを海岸かいがん沿いに東進とうしん事前じぜんにルイ7せい物資ぶっし供給きょうきゅう約束やくそくしたが、このとき物資ぶっしとどかず、アンティオキア公国こうこく海路かいろわたるための輸送ゆそうせんちいさなふねしかおくらなかった。1148ねん1がつ6にちひがしマ帝国まていこく休戦きゅうせんちゅうのルーム・セルジュークあさぐん帝国ていこくないにいたフランスぐん襲撃しゅうげきした戦闘せんとうカドムスさんたたか英語えいごばん)とアンティオキア到着とうちゃくて、十字軍じゅうじぐんは7がつダマスカス包囲ほういせん敢行かんこうしたが失敗しっぱい十字軍じゅうじぐん成果せいかいまま解散かいさんした。マヌエル1せい十字軍じゅうじぐんへの協力きょうりょくてき対応たいおう休戦きゅうせんちゅうのムスリムぐん十字軍じゅうじぐん攻撃こうげきした出来事できごとから、歴史れきしたちからかれがムスリムと内通ないつうしていたとうたがわれているが、真相しんそうあきらかでない[注釈ちゅうしゃく 1][7][13][14][15][16]

十字軍じゅうじぐん解散かいさんしたがマヌエル1せいとコンラート3せい友好ゆうこう関係かんけい継続けいぞく十字軍じゅうじぐんどう時期じきの1147ねんなつにシチリアぐんケルキラとうコルフ島こるふとう)を占領せんりょうティーヴァ(テーベ)・コリントス(コリント)など帝国ていこく西部せいぶギリシャ沿岸えんがん地域ちいき略奪りゃくだつしたことに対抗たいこうよく1148ねんふゆにコンラート3せい攻守こうしゅ同盟どうめい(テッサロニキ条約じょうやく)を締結ていけつした。マヌエル1せいイタリア遠征えんせいにコンラート3せい軍事ぐんじ支援しえん征服せいふくもマヌエル1せいゆずるという内容ないようで、条約じょうやく保証ほしょうとしてマヌエル1せいめいテオドラ・コムネナをコンラート3せい異父いふおとうとオーストリア辺境へんきょうはくハインリヒ2せいとつがせた。ドイツの支援しえん獲得かくとくしたマヌエル1せい1149ねんにケルキラとうヴェネツィア共和きょうわこく艦隊かんたい援助えんじょ奪回だっかい、イタリア遠征えんせい実行じっこううごした。たいするルッジェーロ2せいもコンラート3せい対立たいりつするヴェルフヴェルフ6せいとのむすきを強化きょうかした[7][16][17][18]

イタリア遠征えんせい[編集へんしゅう]

1149ねんから1150ねんにかけてったセルビア・ハンガリー遠征えんせい成功せいこう、1150ねんにエデッサはくジョスラン2せい捕虜ほりょになると、はくベアトリスと取引とりひきしてエデッサの残存ざんそん部分ぶぶん買収ばいしゅうにも成功せいこうしたが、この領土りょうどよく1151ねんアレッポアタベク領主りょうしゅヌールッディーンとルーム・セルジュークあさのマスウード1せい挟撃きょうげきうばわれた。1152ねんにコンラート3せい死亡しぼういだおいフリードリヒ1せいひがしマ帝国まていこく協力きょうりょくせずイタリア遠征えんせい暗礁あんしょうげた。1154ねんにはマヌエル1せい周辺しゅうへんでもトラブルがこり、従弟じゅうていのアンドロニコス・コムネノス(アンドロニコス1せいコムネノス)がマヌエル1せいおい次兄じけい長男ちょうなんヨハネス・ドゥーカス・コムネノス英語えいごばん対立たいりつ、アンドロニコスがヨハネスを寵愛ちょうあいするマヌエル1せい暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんこしたためマヌエル1せいはアンドロニコスを首都しゅとろう投獄とうごくした(アンドロニコスは1164ねん脱走だっそう[注釈ちゅうしゃく 2][20][21][22][23]

同年どうねんにルッジェーロ2せい死亡しぼういだ息子むすこのシチリアおうグリエルモ1せい政治せいじかえりみなかったため、イタリアが不穏ふおん状態じょうたいになったことをかんると、よく1155ねんローマ神聖しんせいローマ皇帝こうてい戴冠たいかんしきげたフリードリヒ1せいした使節しせつ派遣はけんしてテッサロニキ条約じょうやく更新こうしんもとめ、皇帝こうていのイタリア遠征えんせい財政ざいせい支援しえんすることも提案ていあんしたが、かみきよしマ帝国まていこく(ドイツ)諸侯しょこう反対はんたいでどちらも実現じつげんしなかった。やむをず、シチリア王家おうけ反発はんぱつしていたノルマンじん諸侯しょこう皇帝こうていわる同盟どうめい相手あいてとしてみ、グリエルモ1せい従兄弟いとこのロリテッロはくロベルト3せい英語えいごばんもとカプアこうロベルト2せい英語えいごばん反乱はんらん諸侯しょこうとの共同きょうどう戦線せんせんでイタリア遠征えんせい実行じっこうすることになった(ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう)。目的もくてきはギリシャ略奪りゃくだつ報復ほうふくとしてみなみイタリアへ略奪りゃくだつ遠征えんせい仕掛しかけるつもりだったという[24][25][26]

8がつからはじまった遠征えんせい緒戦しょせんバーリとしたことでひがしマ帝国まていこくぐんいきおいづき、周辺しゅうへん都市とし奪取だっしゅして反撃はんげきしたシチリアぐんにも勝利しょうりローマ教皇きょうこうハドリアヌス4せい帝国ていこく反乱はんらん諸侯しょこう参戦さんせんしたことでいきおいはした。グリエルモ1せい重病じゅうびょうおちいっていたこと、シチリアの首都しゅとパレルモでも反乱はんらんこったことも有利ゆうりになり、ひがしマ帝国まていこく首脳しゅのう遠征えんせい目的もくてき略奪りゃくだつからみなみイタリア征服せいふく援軍えんぐん派遣はけん、それにともな反乱はんらん諸侯しょこう格下かくした態度たいどったため帝国ていこくぐん諸侯しょこうとのあいだ軋轢あつれきしょうじたが、1156ねんはるまでにプッリャしゅうだい部分ぶぶん支配しはいおさめた[27][28]

ところが、グリエルモ1せい病気びょうきから快復かいふくすると状況じょうきょう一転いってんする。ブリンディジ包囲ほういちゅうだった帝国ていこくぐんにパレルモの反乱はんらん鎮圧ちんあつしたグリエルモ1せいみずかぐんひきいて接近せっきんすると、帝国ていこくぐん内部ないぶ分裂ぶんれつして弱体じゃくたいしたのである。ブリンディジの守備しゅびたいとシチリアぐんはさちにされる危機ききしょうじた帝国ていこくぐん動揺どうようはしり、ロリテッロはく帝国ていこくぐんから離脱りだつ傭兵ようへい部隊ぶたい賃金ちんぎん未払みはらいを口実こうじつじんはらい、帝国ていこくぐんから西欧せいおう部隊ぶたいがシチリアぐん寝返ねがえるなど、部隊ぶたい次々つぎつぎ離脱りだつした帝国ていこくぐんはシチリアぐん退路たいろたれ、5月28にちたたかいで2人ふたり司令しれいかんらえられる惨敗ざんぱいきっした。みなみイタリアはシチリアぐん奪還だっかんされ、カプアこうらえられパレルモへ投獄とうごく教皇きょうこうはシチリアと和睦わぼくしてロリテッロはく逃亡とうぼう、イタリア遠征えんせい失敗しっぱいした[26][28][29]

よく1157ねんめい長兄ちょうけいむすめ)マリアのおっとアレクシオス・アクスーク英語えいごばんをイタリアへ派遣はけんして戦力せんりょくなおしをはかり、反乱はんらん諸侯しょこう再起さいきさせた。戦略せんりゃく有利ゆうり講和こうわ条件じょうけん獲得かくとくすることをねらい、表向おもてむきシチリアと敵対てきたいしつつも水面すいめん和睦わぼく交渉こうしょうはない、1158ねん3がつ教皇きょうこう仲介ちゅうかいでシチリアと和睦わぼくした。条件じょうけんはマヌエル1せいがグリエルモ1せい王位おうい承認しょうにん、グリエルモ1せい捕虜ほりょ解放かいほうしマヌエル1せい軍事ぐんじ支援しえんおこなうことがめられ、フリードリヒ1せい対抗たいこうする軍事ぐんじ同盟どうめい出来上できあがった(マヌエル1せい支援しえんうしなった反乱はんらん諸侯しょこうはフリードリヒ1せいした亡命ぼうめい[30]

キリキア・シリア遠征えんせい外交がいこう[編集へんしゅう]

シチリアとの和睦わぼくからあいだもない1158ねんあきみずかぐんひきいてキリキアシリア遠征えんせいした。ひがしマ帝国まていこくふうしんだったアルメニアじんのキリキア領主りょうしゅトロス2せいが1152ねん反乱はんらんこしてキリキア平野ひらの占領せんりょう、アンティオキアこうルノー・ド・シャティヨン帝国ていこくりょうキプロスとう略奪りゃくだつ虐殺ぎゃくさつしたため、彼等かれら制裁せいさいくだ必要ひつようがあったからだった。また、アンティオキアを帝国ていこく宗主そうしゅけんいて従属じゅうぞくさせることも視野しやれていた[31][32]

セレウケイア(現在げんざいトルコメルスィンけんシリフケ)へはいるとそこからキリキア平野ひらの突入とつにゅうきゅう侵攻しんこうおどろいたトロス2せい山間さんかん逃亡とうぼう帝国ていこくぐんはキリキア平野ひらの奪還だっかんした。モプスエスティア英語えいごばん陣営じんえいいたマヌエル1せいはここで十字軍じゅうじぐん国家こっかやムスリム国家こっか使節しせつむかれるなか帝国ていこくぐんやヌールッディーンに領土りょうど圧迫あっぱくされ孤立こりつしたルノーが皇帝こうてい慈悲じひにすがるべく出頭しゅっとうれた皇帝こうていはルノーに所領しょりょう安堵あんどえに忠誠ちゅうせい軍事ぐんじ奉仕ほうしちかわせ、エルサレムおうボードゥアン3せいめいテオドラ・コムネナ英語えいごばんおっと)の仲介ちゅうかい出頭しゅっとうしたトロス2せいにも同様どうよう処分しょぶんくだし、遠征えんせい所期しょき目的もくてき達成たっせいした。ボードゥアン3せいとの同盟どうめい関係かんけい確認かくにんしたうえで、1159ねん4がつ復活ふっかつさいをモプスエスティアでいわい、ルノーやボードゥアン3せい諸侯しょこうれた軍勢ぐんぜいひきいてアンティオキアへ入城にゅうじょうまち上級じょうきゅう支配しはいけん皇帝こうていにあることを内外ないがいしめした。エルサレム王国おうこくとの同盟どうめい継続けいぞく、ボードゥアン3せいおとうとアモーリー1せいはマヌエル1せいだいめいマリア・コムネナ英語えいごばん(ヨハネス・ドゥーカス・コムネノスのむすめ)をむかえ、1169ねん皇帝こうてい共同きょうどうファーティマあさエジプト遠征えんせい計画けいかく実現じつげんせず)、1171ねんにコンスタンティノープルを訪問ほうもんして皇帝こうていとの関係かんけいふかめた[33][34]

1160年代ねんだい外交がいこう諸国しょこくとの友好ゆうこう同盟どうめい関係かんけい構築こうちく奔走ほんそう1161ねんにルーム・セルジュークあさのスルタン・クルチ・アルスラーン2せい(マスウード1せい)がコンスタンティノープルを訪問ほうもんしたとき異教徒いきょうときら周囲しゅうい反対はんたいり、パレードで歓迎かんげいしながら豪華ごうか装飾そうしょくひんかざて、かね糸目いとめをつけないおくものなどで帝国ていこく威光いこうせつけ、軍事ぐんじ援助えんじょおよび皇帝こうてい同意どうい第三者だいさんしゃとの協定きょうてい締結ていけつ禁止きんしなど約束やくそくける一方いっぽう、スルタンとのかくちがいを周囲しゅういしめした。イタリアにも介入かいにゅうし、1163ねん教皇きょうこうアレクサンデル3せいもとめにおうじてフリードリヒ1せい対抗たいこうする同盟どうめい結成けっせい尽力じんりょく1166ねんにシチリアおうグリエルモ1せいくなりいだ息子むすこグリエルモ2せいむすめマリアとの結婚けっこん提案ていあん教皇きょうこうには自分じぶん唯一ゆいいつ皇帝こうていみとめる見返みかえりに東西とうざい教会きょうかい統一とういつもうれたが、グリエルモ2せいにも教皇きょうこうにもれられなかった(1172ねん再度さいどグリエルモ2せいとマリアの結婚けっこんばなしがったが白紙はくしになった)[35][36][37][38]

ヴェネツィアとの戦争せんそう[編集へんしゅう]

1171ねん3月12にち、マヌエル1せい帝国ていこく領内りょうないのヴェネツィアじん勢力せいりょく一斉いっせい逮捕たいほ財産ざいさん没収ぼっしゅう命令めいれい官憲かんけんでヴェネツィアじん首都しゅとで1まんにん帝国ていこく全体ぜんたいで2まんにん逮捕たいほされたとわれる。逮捕たいほ命令めいれいされた理由りゆうはヴェネツィアと交易こうえき対立たいりつ、イタリアでの外交がいこう方針ほうしん転換てんかんでフリードリヒ1せいとの和睦わぼく構想こうそうしてヴェネツィアとることを画策かくさくダルマチアめぐるヴェネツィアとの対立たいりつげられるが、どれも決定的けっていてきとはえない。どう時代じだいじん歴史れきしヨハネス・キンナモスはヴェネツィアじんがマヌエル1せい祖父そふアレクシオス1せいからさづけられた特権とっけん船着場ふなつきば居留きょりゅう提供ていきょう免税めんぜい特権とっけんなど)をりかざし、首都しゅと治安ちあんみだしてマヌエル1せいいかりをったことが原因げんいんだとする見解けんかいべているが、もう1人ひとり歴史れきしニケタス・コニアテスは1149ねんにヴェネツィアじん皇帝こうてい侮辱ぶじょくしたはなしきし、1171ねん皇帝こうてい長年ながねんいだつづけたうらみの意趣いしゅがえしを決行けっこうしたと主張しゅちょうしている。いずれにせよ、ひがしマ帝国まていこくとヴェネツィアの関係かんけいはこの事件じけん悪化あっか、ヴェネツィアが報復ほうふく仕掛しか戦争せんそうになった(ヴェネツィア・ひがしローマ戦争せんそう[注釈ちゅうしゃく 3][16][41]

ヴェネツィアは事件じけん内容ないようると憤慨ふんがいして報復ほうふくのため艦隊かんたい建造けんぞう突貫とっかん工事こうじすすめ、ヴェネツィアのドージェ元首げんしゅ)・ヴィターレ・ミキエル2せいひきいる艦隊かんたいは9月に出航しゅっこうした。たいするマヌエル1せいはヴェネツィア艦隊かんたい消耗しょうもうせんさそ戦略せんりゃくり、ヴェネツィア艦隊かんたいゲ海げかい島々しまじま駐屯ちゅうとんしていたひがしローマぐん抵抗ていこう上陸じょうりく拠点きょてん奪取だっしゅ出来でき疲弊ひへいかろうじて確保かくほしたキオスとう疫病えきびょう流行りゅうこうして兵士へいし次々つぎつぎうしな戦力せんりょく低下ていか、1172ねん復活ふっかつさいごしたのちにミキエル2せい撤退てったい決断けつだんした。そのすきねらったひがしマ帝国まていこく艦隊かんたい撤退てったいするヴェネツィア艦隊かんたい追撃ついげきして3ぶんの1以下いからすほどの勝利しょうりかざった。皇帝こうてい戦後せんごアンコーナ進出しんしゅつしてイタリア外交がいこう積極せっきょくてき介入かいにゅうする一方いっぽう同年どうねん聖地せいち巡礼じゅんれいかうザクセンおおやけけんバイエルンおおやけハインリヒ3せい獅子ししこう、フリードリヒ1せい従弟じゅうてい)の歓迎かんげいもしている[42][43]

しょうアジア方面ほうめん敗北はいぼく[編集へんしゅう]

しかし、西にしはヴェネツィアとの戦争せんそう一段落いちだんらくしたが、ひがしはルーム・セルジュークあさとの関係かんけい険悪けんあくになった。両国りょうこく国境こっきょう地帯ちたいみ、ひがしマ帝国まていこく略奪りゃくだつはたらテュルクけい遊牧ゆうぼく民族みんぞくトゥルクマーン存在そんざいがあったとはいえ、1161ねんのクルチ・アルスラーン2せい訪問ほうもんられるように、両国りょうこく潜在せんざいてき対立たいりつかかえつつも友好ゆうこう関係かんけい維持いじつづけていた。また、クルチ・アルスラーン2せいひがしマ帝国まていこくとの戦争せんそうよりも一族いちぞくダニシュメンドあさなど周辺しゅうへんのムスリムこく掃討そうとう優先ゆうせんしたという事情じじょうもあり、しばしば両国りょうこくから政争せいそうやぶれた王族おうぞく貴族きぞく亡命ぼうめいする現象げんしょうこっても戦争せんそう発展はってんすることはかった。それが1164ねん一変いっぺん、クルチ・アルスラーン2せい兄弟きょうだいのシャーハンシャーやダニシュメンドあさのドゥール・ヌーンを追放ついほうしてその領土りょうどうばり、亡命ぼうめいした彼等かれら要請ようせいでマヌエル1せい1175ねんにルーム・セルジュークあさ首都しゅとコンヤ(イコニウム)へ遠征えんせいする準備じゅんびはじめ、前線ぜんせん基地きちとしてドリュラエウム英語えいごばん(ドリュライオン)とスブライオンの要塞ようさい再建さいけん1176ねんはる出兵しゅっぺいする計画けいかくてて軍備ぐんびととのえていった[44]

同盟どうめい相手あいてハンガリーじんセルビアじん到着とうちゃくおくれ、当初とうしょ予定よていからずれた1176ねんなつひがしローマぐん遠征えんせい開始かいしした(セルジューク・ひがしローマ戦争せんそう)。だがおさむじょう兵器へいき戦闘せんとういんなどをかかえたせいでぐんうごきはおそく、しょうアジアではてきのゲリラと焦土しょうど作戦さくせん飢餓きがくるしみ疲弊ひへいはじめた。それでも行軍こうぐんつづけたが、9月17にち途中とちゅう隘路あいろでルーム・セルジュークぐん伏兵ふくへいおそわれ惨敗ざんぱいしてしまった(ミュリオケファロンのたたか[26][45][46]皇帝こうていてき包囲ほういから脱出だっしゅつ困難こんなん撤退てったいいられたが、ルーム・セルジュークぐんにもおおきな被害ひがいたため、てきがわからされた和睦わぼく承諾しょうだくして戦場せんじょうからなにとか帰還きかんした。戦後せんごマヌエル1せいはこのたたかいをマラズギルトのたたかたとりかかった災難さいなんなげきつつも、和睦わぼく条件じょうけんしたがいスブライオンをやぶ却する一方いっぽうでドリュラエウムはやぶ却せず、おこったクルチ・アルスラーン2せい派遣はけんした報復ほうふくぐん撃退げきたいする意地いじせ、両国りょうこく交戦こうせんかえすうちに戦争せんそう状態じょうたいから国境こっきょう紛争ふんそう状態じょうたい沈静ちんせいしていった[47]

晩年ばんねんのマヌエル1せいにとって気掛きがかりなのは息子むすこアレクシオス2せいコムネノス幼少ようしょうのため、1171ねんきょうみかどにしたり、たい神聖しんせいマ帝国まていこく同盟どうめいのため1180ねんはじめにだい2かい十字軍じゅうじぐん出会であったフランスおうルイ7せいむすめアニェスとアレクシオスを結婚けっこんさせたり(同時どうじむすめマリアもモンフェッラートほうラニエリ英語えいごばん結婚けっこん)、7がつ間際まぎわにアンドロニコスと和解わかいして息子むすこ皇位こうい継承けいしょう確実かくじつにした矢先やさき、9月24にちに61さい死去しきょした。しかし単独たんどく皇帝こうていとしてのちいだアレクシオス2せい反乱はんらんこしたアンドロニコスに実権じっけんうばわれ1183ねん暗殺あんさつ帝位ていいうばったアンドロニコス1せい恐怖きょうふ政治せいじかたきとなり、1185ねん反乱はんらんこした首都しゅと住民じゅうみん殺害さつがい彼等かれら擁立ようりつされたイサキオス2せいアンゲロス即位そくい、コムネノス王朝おうちょう終焉しゅうえんあらたにアンゲロス王朝おうちょう誕生たんじょうした[48][49][50]

政策せいさく[編集へんしゅう]

外交がいこう戦略せんりゃく[編集へんしゅう]

ひがしマ帝国まていこく軍隊ぐんたい民族みんぞく様々さまざま社会しゃかいてき地位ちいことなる人種じんしゅからなるあつめだった。統率とうそつ困難こんなん戦闘せんとうりょく心許こころもとない雑多ざった軍勢ぐんぜいだったが、マヌエル1せいはこうした事情じじょう理解りかいしたうえ戦略せんりゃくてていた。それはたたかわずしてつことで、戦争せんそう外交がいこう駆使くしして他人たにんたたかわせ、みずかながさないわりにかね提供ていきょうしまない、なるべく長期ちょうきせんけて適当てきとう段階だんかい講和こうわむことがこの時代じだいひがしマ帝国まていこくにおける軍事ぐんじ特徴とくちょうだった。マヌエル1せい領土りょうど拡大かくだいよりもいかに権威けんい周辺しゅうへんこくおよぼすかに精力せいりょくかたむけ、西欧せいおうから導入どうにゅうされた封建ほうけん制度せいど皇帝こうてい主君しゅくんとして従属じゅうぞくした君主くんしゅ保護ほご恩恵おんけい供与きょうよを、君主くんしゅ臣下しんかとして皇帝こうていへの忠誠ちゅうせい軍事ぐんじ奉仕ほうし約束やくそく)を周辺しゅうへんむすけることに尽力じんりょくした。各国かっこく微妙びみょうなパワーバランスに左右さゆうされ、薄氷はくひょうむような外交がいこう虚実きょじつみだれたきで皇帝こうてい混成こんせいぐん統率とうそつし、諸国しょこくうえ君臨くんりんする栄光えいこうにしたが、それはちいさな衝撃しょうげき瓦解がかいするもろ権威けんいだった[51]

1155ねんから1157ねんのイタリア遠征えんせいはまさにたたかわずして戦略せんりゃく実行じっこうされ、かねのばらきでかく都市とし降伏ごうぶくさせ、なるべく被害ひがいおさえる方針ほうしんすすめた。これにより短期間たんきかんでプッリャしゅうだい部分ぶぶんれた反面はんめん、シチリアぐん接近せっきんすると都市としはおろか同盟どうめいした反乱はんらん諸侯しょこう傭兵ようへいたちが降伏ごうぶく逃亡とうぼうするつながりのもろさもあらわになった。緒戦しょせん勝利しょうり方針ほうしん略奪りゃくだつ遠征えんせいから征服せいふく遠征えんせいえたことも敗因はいいんで、他人たにんたたかわせる方針ほうしんてて援軍えんぐん派遣はけんしたのち諸侯しょこうとの軋轢あつれきしょう崩壊ほうかいへといたった。根津ねづゆかり喜夫よしおはイタリア遠征えんせい失敗しっぱい皇帝こうてい首尾しゅび一貫いっかんしない方針ほうしんもとめ、帝国ていこく軍事ぐんじ行動こうどう失敗しっぱいするのはおのれ実力じつりょくえててき征服せいふく目指めざしたときではないかとしている[52]

1159ねんのアンティオキア入城にゅうじょうったアレッポ遠征えんせいでも直接ちょくせつたたかわず、ヌールッディーンと交渉こうしょうして人質ひとじち解放かいほう軍事ぐんじ援助えんじょ約束やくそくさせただけにわった。これはヌールッディーンの圧力あつりょくくるしんだ十字軍じゅうじぐん国家こっかひがしマ帝国まていこく宗主そうしゅあお現状げんじょう維持いじ重視じゅうししたためで、もしヌールッディーンを討伐とうばつした場合ばあい、その圧迫あっぱくから解放かいほうされた十字軍じゅうじぐん国家こっかからそむかれることがマヌエル1せいにはかっていたからだった。くわえて、ヌールッディーンをルーム・セルジュークあさへの牽制けんせいとしててるねらいもあったので、皇帝こうてい本気ほんきでアレッポ遠征えんせいをするつもりはなく、自分じぶん名誉めいよ権利けんり尊重そんちょうされるかぎりにおいてのしょ勢力せいりょく現状げんじょう維持いじ基本きほん方針ほうしんとしていた[注釈ちゅうしゃく 4][54]

以上いじょうのようにイタリア遠征えんせい失敗しっぱいしたがキリキア・シリア遠征えんせいとハンガリー遠征えんせい成功せいこうおさめてエルサレムやアンティオキア、ハンガリーに宗主そうしゅけんみとめさせたものの、前述ぜんじゅつしたようにそれは所詮しょせん諸国しょこくのパワーバランスのうえもろ支配しはいでしかなかった。マ帝国まていこく栄光えいこう再現さいげんしようと目指めざしつつも国力こくりょく低下ていかしていたことを自覚じかくしたマヌエル1せいが、直接ちょくせつ支配しはいではなくひがしローマ皇帝こうてい頂点ちょうてん周辺しゅうへん諸国しょこく間接かんせつ支配しはいつなゆるやかな支配しはい体制たいせい模索もさくした結果けっかであり、皇帝こうてい外交がいこうなど細心さいしん注意ちゅういはらったすえ構築こうちくされた、ひがしマ帝国まていこく中心ちゅうしんとする国際こくさい秩序ちつじょ虚構きょこう世界せかい帝国ていこくだった[26][55]

根津ねづは1171ねんのヴェネツィアとの戦争せんそうと1176ねんのミュリオケファロンのたたかいはひがしマ帝国まていこくにとって失敗しっぱいとらえ、根拠こんきょとしてたたかわずして戦略せんりゃく放棄ほうきしてみずか前面ぜんめんたために、ヴェネツィアが神聖しんせいマ帝国まていこく・シチリア・セルビアなど周辺しゅうへん諸国しょこくむすひがしマ帝国まていこく孤立こりつまねいたこと、ルーム・セルジュークあさもミュリオケファロンの戦後せんご神聖しんせいマ帝国まていこく提携ていけいして孤立こりつふかまったことを指摘してき敗戦はいせんひがしマ帝国まていこく威信いしん失墜しっついしたため、マヌエル1せい外交がいこう失敗しっぱいしたこともくわえている。1176ねんにフリードリヒ1せいはマヌエル1せい同盟どうめいしていた教皇きょうこうロンバルディア同盟どうめいとの戦闘せんとうレニャーノのたたか)でやぶれたが、よく1177ねん教皇きょうこう一転いってんしてフリードリヒ1せい和睦わぼくヴェネツィア条約じょうやく)してひがしマ帝国まていこく一層いっそう孤立こりつ1178ねんにフリードリヒ1せいからおくられた手紙てがみでマヌエル1せいは「ギリシャじんおう」と侮蔑ぶべつてき称号しょうごうばれたうえ、フリードリヒ1せいから自分じぶん宗主そうしゅけん教皇きょうこう至上しじょうけんれるよう要求ようきゅうされるまでに立場たちば転落てんらくしたことをしめしている[注釈ちゅうしゃく 5][57][58]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

ミュリオケファロンのたたかいがこるまえひがしマ帝国まていこくとルーム・セルジュークあさ対立たいりつ友好ゆうこう混在こんざいする複雑ふくざつ関係かんけいで、それぞれの王侯おうこう貴族きぞく政争せいそうやぶれて亡命ぼうめいする場合ばあいおおかった。このなか改宗かいしゅうしゃふくまれ、マヌエル1せい治世ちせいはじまるまえ1139ねん従兄じゅうけいでアンドロニコスのあにヨハネスがルーム・セルジュークあさ亡命ぼうめいしてキリスト教きりすときょうからイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅう、マヌエル1せい死後しご出来事できごととしてクルチ・アルスラーン2せい末子まっしカイホスロー1せいがスルタンを廃位はいいされ亡命ぼうめいしたさいイスラム教いすらむきょうからキリストきょう改宗かいしゅうした(ただしスルタンに復位ふくいして帰国きこくするとイスラム教いすらむきょうもどる)[44]

こうした事情じじょうと、外国がいこくじんれる方針ほうしん宗教しゅうきょうにも適用てきようするねらいから、マヌエル1せいはムスリムがキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうするハードルをひくくして、トルコじんひがしマ帝国まていこく同化どうかさせようとおもった。1180ねん改宗かいしゅうしゃ教会きょうかいれる儀式ぎしき変更へんこうくわえ、教理きょうり問答もんどうしゅうからムハンマドかみ否認ひにんさせる条項じょうこう削除さくじょ提案ていあん教会きょうかいからもう反発はんぱつけても強引ごういん条項じょうこう削除さくじょ成立せいりつさせたのである。同化どうかという打算ださんはあったが、宗教しゅうきょう問題もんだい意欲いよくてきなあまり恣意しいてき処断しょだんする皇帝こうてい手法しゅほう聖職せいしょくしゃなやみであり、ニケタス・コニアテスは神学しんがく論争ろんそう熱心ねっしん皇帝こうてい態度たいどきつつ、政治せいじてき配慮はいりょのためなら教義きょうぎ解釈かいしゃく変更へんこうする皇帝こうてい行動こうどう批判ひはんめてしるしている[59][60]

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

コムネノス王朝おうちょう皇帝こうていたちはコンスタンティノープルだい宮殿きゅうでんにほとんどむことはなく、郊外こうがい北西ほくせいかつコンスタンティノープルの城壁じょうへき北端ほくたんにあるブラケルナエ宮殿きゅうでん移住いじゅうした。建築けんちく熱心ねっしんだったマヌエル1せいはブラケルナエ宮殿きゅうでん周囲しゅうい城壁じょうへききず要塞ようさいとしての機能きのう強化きょうかする一方いっぽうで、宮殿きゅうでんふえ改築かいちくして玉座ぎょくざいた大広間おおひろま柱廊ちゅうろうくわえ、ゆか大理石だいりせき壁面へきめん自身じしん戦勝せんしょうえがいたモザイクくした。ベツレヘム近郊きんこうせいエリヤ修道院しゅうどういん修復しゅうふく資金しきん提供ていきょうした[61][62][63]

モザイク壁画へきが外交がいこうパフォーマンスにかされ、1172ねんにセルビアでひがしマ帝国まていこく反抗はんこうしたステファン・ネマニャらえられコンスタンティノープルへ連行れんこうされたさいかれがマヌエル1せいやぶれたたたかいをえがいた壁画へきがせつけられたという。勝者しょうしゃ敗者はいしゃをはっきり内外ないがいしめすこの演出えんしゅつ壁画へきがだけでなく儀式ぎしきにももちいられ、ルノーの降伏ごうぶく儀式ぎしき、アンティオキア入城にゅうじょう式典しきてん、1161ねんのクルチ・アルスラーン2せい首都しゅと訪問ほうもん歓迎かんげいパレードなど、皇帝こうてい自己じこ権威けんい諸国しょこくとの関係かんけいえるかたちしめした数々かずかず儀式ぎしき間接かんせつ支配しはい利用りようした[55][64]

外国がいこくじんれと一門いちもん強化きょうか[編集へんしゅう]

祖父そふアレクシオス1せいだいからコムネノス王朝おうちょうは、地方ちほう有力ゆうりょくしゃ軍事ぐんじりょく提供ていきょうえに徴税ちょうぜいけん土地とちあたえること(プロノイアせい)で、姻戚いんせき関係かんけいむすんでコムネノス一門いちもんんだ彼等かれら協力きょうりょくのもとに帝国ていこく防備ぼうび磐石ばんじゃくなものにしようとしていた。だがマヌエル1せいだいになると、それが地方ちほう有力ゆうりょくしゃ権力けんりょく強化きょうかと、それにともな皇帝こうてい権力けんりょく弱体じゃくたいにつながってしまっていた。さらに、マヌエル1せい自身じしん大量たいりょうにプロノイアを下賜かししたため、この傾向けいこうつよまる一方いっぽうであった[注釈ちゅうしゃく 6]のちに、イサキオス・ドゥーカス・コムネノス(コムネノスあさ皇族こうぞく)やテオドロス・マンカファース帝国ていこく有力ゆうりょく貴族きぞく)らが帝国ていこくから独立どくりつしてしまったのは、これに起因きいんするとわれている。

マヌエル1せい宮廷きゅうてい西欧せいおう騎士きしどう風習ふうしゅうみ、臣下しんかにもおおくの西欧せいおうじんやとれ、兵士へいし外交がいこうかん登用とうようした。また軍制ぐんせい改革かいかく西欧せいおう装備そうび騎馬きば突撃とつげき導入どうにゅう軍事ぐんじりょく強化きょうか西欧せいおう貴族きぞく尚武しょうぶ気風きふう血統けっとう高貴こうきさをコムネノス一門いちもんれることで、一門いちもん確固かっこたる支配しはい階級かいきゅうにしようとはかった。ただし、プラトンアリストテレスなど古代こだい哲学てつがくしたしんでいた彼等かれら本質ほんしつてき文化ぶんかじんであり、戦争せんそうまりった西欧せいおう貴族きぞくになりれなかった[16][67][68]

皇帝こうていのコムネノス一門いちもんへの権力けんりょく分散ぶんさんは、帝国ていこく建前たてまえである皇帝こうてい専制せんせい矛盾むじゅんしょうじた。皇族こうぞくたちは皇帝こうてい家政かせい組織そしきじゅんじた独自どくじ宮廷きゅうてい武装ぶそう集団しゅうだんつ「しょう皇帝こうてい」ともうべき地位ちいほこりをいだき、皇帝こうていまえ粗暴そぼういをしでかす皇族こうぞくあらわれるなか皇帝こうてい彼等かれら第一人者だいいちにんしゃという様相ようそうていした。このよう状況じょうきょう皇帝こうてい疑似ぎじだい家族かぞく家父かふちょうとして一門いちもん統率とうそつする役割やくわりったが、それは皇帝こうてい資質ししつ依存いぞんする体制たいせいであり、皇帝こうていがリーダーシップをれない、あるいは一門いちもん結束けっそくらぐと体制たいせいおおきくかたむあやうい状態じょうたいだった[注釈ちゅうしゃく 7][26][70]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

非常ひじょう魅力みりょくてきたか褐色かっしょくうつくしい顔立かおだち、ふか教養きょうよう武芸ぶげいにもけた人物じんぶつだった。科学かがく文学ぶんがく神学しんがく占星術せんせいじゅつ医学いがくなどに熱中ねっちゅう狩猟しゅりょう得意とくい軍人ぐんじんとしての資質ししつたかく、つねぐん先頭せんとう将兵しょうへい苦楽くらくともにした。好色こうしょくめいとの近親きんしん相姦そうかん男子だんしもうけながら近親きんしんこん規制きせい強化きょうか法令ほうれい発布はっぷ天衣無縫てんいむほう豪放磊落ごうほうらいらくえる一方いっぽう猜疑心さいぎしんつよ小心しょうしん神経質しんけいしつ部分ぶぶんあわ複雑ふくざつ性格せいかくだった。1176ねんのミュリオケファロンの敗戦はいせん健康けんこうすぐれず気分きぶんがふさぎみがちになったとされ、1180ねん3がつから病気びょうき悪化あっか、5月に喧騒けんそう離宮りきゅう療養りょうよう生活せいかつおくったが、体調たいちょう回復かいふくせず9がつ崩御ほうぎょした[71][72][73]

歴史れきしヨハネス・キンナモスとニケタス・コニアテスはそれぞれの記述きじゅつでマヌエル1せい人物じんぶつぞうあらわしているが、前者ぜんしゃはマヌエル1せい高潔こうけつ寛大かんだい人物じんぶつ後者こうしゃぎゃく小心者しょうしんものとしてえがいている。2人ふたり表現ひょうげんちがいは立場たちばちがいによるものとされ、キンナモスはマヌエル1せい公的こうてきプロパガンダに影響えいきょう論調ろんちょう終始しゅうし賛美さんびである反面はんめん、キンナモスより1世代せだいのコニアテスはだい4かい十字軍じゅうじぐんによるひがしマ帝国まていこく破滅はめつ原因げんいんをマヌエル1せいもとめたため、間接かんせつてきながら論調ろんちょう批判ひはんてきだったという。根津ねづ両者りょうしゃのこうした記述きじゅつみとめつつ、内容ないよう矛盾むじゅんせずたがいに補完ほかん関係かんけいだと主張しゅちょう、マヌエル1せいかかわった1154ねん暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん両者りょうしゃ資料しりょうつなわせてさい構成こうせいすると、たがいの論旨ろんしおおきな破綻はたんいことが証拠しょうこだとしている[74]

両者りょうしゃ一致いっちするマヌエル1せい特徴とくちょうは、好色こうしょく派手はでき・目立めだちたがり・こうず・熱血漢ねっけつかんという反面はんめん陰険いんけん執念深しゅうねんぶかいちめんもあったというてんである。従弟じゅうていのアンドロニコス1せいコムネノスもおな性格せいかくで、2人ふたり当初とうしょなか親友しんゆうだったが、マヌエル1せいおいのヨハネスを寵愛ちょうあいすると一転いってんして憎悪ぞうおうようになった[75]

家族かぞく[編集へんしゅう]

最初さいしょ皇后こうごうでズルツバッハはくベレンガル2せいむすめベルタ・フォン・ズルツバッハ(エイレーネー)とのあいだに、2じょまれた。

ベルタが1159ねん病没びょうぼつすると、後添のちぞいえにアンティオキアおおやけレーモン・ド・ポワティエむすめマリー・ダンティオケ(マリア、アリエノール・ダキテーヌ従妹じゅうまいにあたる)をむかえ、1なんまれた。

マヌエル1せいにはすうおおくの愛妾あいしょう庶子しょしがいた。庶子しょし1人ひとりアレクシオスは、アンドロニコス1せいコムネノスの庶子しょしエイレーネーをつまとした。

正式せいしき称号しょうごう[編集へんしゅう]

古代こだいマ帝国まていこく後継こうけいしゃであることをつよ意識いしきし、その復興ふっこうこころざしていたマヌエル1せいユスティニアヌス1せい以来いらい久方ひさかたぶりに古代こだいローマふう征服せいふく称号しょうごう名乗なのったひがしローマ皇帝こうていである。しかし、征服せいふくした民族みんぞくとしてげられているのは元々もともとひがしマ帝国まていこくりょうであったバルカン半島ばるかんはんとうしょうアジアの民族みんぞくほとんどである。

マヌエル、キリストにおけるかみしんじあつ皇帝こうてい、ポルフュロゲネトス[注釈ちゅうしゃく 8]ローマじんアウトクラトールラテン語らてんごインペラートル相当そうとう)、もっとも敬虔けいけんな、永遠えいえん尊厳そんげんなるアウグストスイサウリアじんドイツばんハンガリーばんオランダばん、キリキアじんアルメニアじん、ダルマティアじん、ハンガリーじん、ボスニアじんクロアティアじん、ラジじん、イベリアじんブルガリアじん、セルビアじん、ジキアじんハザールじんゴートじん征服せいふくしゃ偉大いだいなるコンスタンティヌス栄冠えいかんかみさだめたる相続そうぞくじんかれすべての権利けんり聖霊せいれいによりぎししゃ[79]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ マヌエル1せい十字軍じゅうじぐん協力きょうりょく消極しょうきょくてき理由りゆうは、十字軍じゅうじぐん国家こっかとの関係かんけい破綻はたんおそれたからともされ、かつてちちがアンティオキアこうレーモン(アリエノールの叔父おじ)を臣従しんじゅうさせたため、十字軍じゅうじぐん戦闘せんとうがアンティオキアとエデッサの残存ざんそん部分ぶぶんたいする自身じしん宗主そうしゅけんおびやかすことを危惧きぐしていたと推測すいそくされている。マヌエル1せい十字軍じゅうじぐん国家こっか関係かんけい十字軍じゅうじぐん方針ほうしんにも影響えいきょうあたえたとされ、ルイ7せいがアンティオキアを救援きゅうえんしなかった理由りゆうはレーモンとアリエノールの不倫ふりんうたがったというせつほかに、救援きゅうえんしたところひがしマ帝国まていこく権利けんり要求ようきゅうすることがえていたため、徒労とろう行軍こうぐんきらったからという[11][12]
  2. ^ マヌエル1せい同年代どうねんだいのアンドロニコスは少年しょうねん時代じだいからの親友しんゆうだったが、マヌエル1せい軍事ぐんじ演習えんしゅう事故じこ隻眼せきがんになったヨハネスに同情どうじょう寵愛ちょうあいしたことで不仲ふなかになった。アンドロニコスがヨハネスの姉妹しまいエウドキアを愛人あいじんにしたことでヨハネスのいかりをい、したがえめいたるエウドキアとの近親きんしん関係かんけい非難ひなんされると反論はんろんしてマヌエル1せいみずからのめいあねエウドキアのむすめ)テオドラを愛人あいじんにして男子だんしまでいることを痛烈つうれつ皮肉ひにくったことで一層いっそうヨハネスとの対立たいりつふかまった。1154ねんにヨハネスにころされかけたアンドロニコスはかれ背後はいごにいるマヌエル1せい殺意さついいだき、2暗殺あんさつはかったが失敗しっぱい、ヨハネスからえずアンドロニコスの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうまれたマヌエル1せいはアンドロニコスを投獄とうごくしたが、1164ねんろう脱走だっそうしたアンドロニコスは各国かっこくわたある亡命ぼうめい生活せいかつおくることになる[19]
  3. ^ マヌエル1せいがヴェネツィアへ敵意てきいけた理由りゆうは、1149ねんのケルキラとう包囲ほういちゅう協力きょうりょくしていたヴェネツィア兵士へいしたち皇帝こうてい侮辱ぶじょくした出来事できごとにあるとされる。まちでの喧嘩けんかがきっかけでヴェネツィアぐん帝国ていこくぐん戦闘せんとう発生はっせい帝国ていこくぐん最高さいこう司令しれいかんヨハネス・アクスーク(アレクシオス・アクスークのちち)が直属ちょくぞく精鋭せいえい軍団ぐんだん出動しゅつどうさせヴェネツィアぐん粉砕ふんさいして戦闘せんとう強引ごういんわらせたが、いかりがおさまらないヴェネツィアの兵士へいしたち皇帝こうていふねうばると、エチオピアじんふねせて皇帝こうてい衣装いしょうみかどかんむりけさせたうえで、皇帝こうてい歓呼かんこするわるふざけで浅黒あさぐろはだ皇帝こうてい揶揄やゆしたという。皇帝こうてい包囲ほうい成功せいこうのため侮辱ぶじょくえてヴェネツィア兵士へいしたち無礼ぶれい不問ふもんかえしたが、この出来事できごとながあいだつづけ、1171ねん命令めいれいいたったとされる[39][40]
  4. ^ 現状げんじょう維持いじはキリキア・シリア遠征えんせい戦後せんご処理しょりにもあらわれており、キリキア平野ひらの直接ちょくせつ支配しはい以外いがい遠征えんせいまえわらず、アンティオキアもルノーが領主りょうしゅのままだった。マヌエル1せいにとってはルノーを追放ついほうしてアンティオキアがエルサレム王国おうこく占領せんりょうされるほう危険きけんで、現状げんじょう維持いじ都合つごうかったからである。分割ぶんかつ統治とうちしてひがしマ帝国まていこく十字軍じゅうじぐん国家こっかなど諸国しょこく上位じょうい優勢ゆうせい状況じょうきょうつくすことが皇帝こうてい目標もくひょうだった[53]
  5. ^ 1171ねんのヴェネツィアとの関係かんけい悪化あっかはヴェネツィアによるシチリア・かみきよしマ帝国まていこくとの提携ていけいひがしマ帝国まていこく孤立こりつまねき、1176ねんのルーム・セルジュークあさたいするミュリオケファロンの敗北はいぼくはマヌエル1せい対外たいがい進出しんしゅつ失敗しっぱいとされる。過大かだい軍事ぐんじ外交がいこう宮廷きゅうてい財政ざいせい破綻はたん、それまで東方とうほう大国たいこく維持いじしてきたひがしマ帝国まていこく国力こくりょくはマヌエル1せいによって使つかたされたと做され、急速きゅうそく衰退すいたいした帝国ていこく1204ねんだい4かい十字軍じゅうじぐんによる帝国ていこく一時いちじ滅亡めつぼうという結果けっかまねいたと解釈かいしゃくされている。これにたいし、ドイツの歴史れきしR・J・リーリエはミュリオケファロンの敗北はいぼく皇帝こうていぐんけてルーム・セルジュークあさ反撃はんげきしていること、エジプト遠征えんせいなど莫大ばくだい出費しゅっぴつづいたこと、マヌエル1せい没後ぼつごの1185ねんにも皇帝こうてい宮殿きゅうでん黄金おうごん12ケンティナリア(金貨きんか8まん6400まいぶん)、ぎん30ケンティナリアなど所蔵しょぞうされていたてんげて、ミュリオケファロンの敗北はいぼく帝国ていこく崩壊ほうかい契機けいきではなかったと反論はんろんしている。根津ねづはリーリエのせつみとめたうえで1171ねんと1176ねん出来事できごと失敗しっぱいろんじ、前述ぜんじゅつ外交がいこうてき失敗しっぱい説明せつめいしている[56]
  6. ^ アレクシオス1せいはクーデターで即位そくいした経緯けいいから基盤きばんよわく、有力ゆうりょくしゃ支持しじけに姻戚いんせき関係かんけい構築こうちくおよび爵位しゃくい創設そうせつ濫発らんぱつとプロノイアせいによる権限けんげん譲渡じょうと頻繁ひんぱんった。ふくみかど称号しょうごうカエサルのギリシアやく爵位しゃくいカイサルをはじめ、皇帝こうてい称号しょうごうである「尊厳そんげんしゃ」をしめアウグストゥスのギリシアやく爵位しゃくいセバストス英語えいごばん」と、そこから派生はせいした「プロートセバストス英語えいごばん」「セバストクラトル」「パンヒュペルセバストス英語えいごばん」というあらたな爵位しゃくい親族しんぞく姻族いんぞく支持しじしゃたちにばらき、財政難ざいせいなんのため爵位しゃくい付随ふずいしていた年金ねんきんわりにプロノイアせい土地とちとその徴税ちょうぜいけん行政ぎょうせいけんあたえたのである。こうした政策せいさく有力ゆうりょく家門かもんをコムネノス中心ちゅうしんだい家族かぞくてき秩序ちつじょにまとめげることが目的もくてきで、皇帝こうてい家父かふちょうてき地位ちいめて主導しゅどうけん確保かくほした。マヌエル1せい治世ちせいでもコムネノス一門いちもん内部ないぶでの結婚けっこんかえされ、外国がいこくじん王侯おうこう貴族きぞく帰化きか外国がいこくじん結婚けっこん一門いちもんむかれる場合ばあいられた。結果けっか、コムネノス一門いちもん対抗たいこう勢力せいりょくそとには存在そんざいしなかった反面はんめんうちには利権りけん分与ぶんよされたことで皇帝こうていかたならべるほど勢力せいりょくった親族しんぞく皇帝こうてい脅威きょういとなった[26][65][66]
  7. ^ 1145ねんころひらかれた宴会えんかい周囲しゅういがマヌエル1せいたたえるなか、ヨハネス2せい重臣じゅうしんヨハネス・アクスークがかれとマヌエル1せい比較ひかくして後者こうしゃおとしめ、マヌエル1せいさんけいでかつての皇帝こうてい候補こうほだったイサキオスが同調どうちょうしたことに皇帝こうてい従弟じゅうていアンドロニコスがいかりイサキオスを罵倒ばとう逆上ぎゃくじょうしたイサキオスがけんでアンドロニコスにりかかり、マヌエル1せいかばって手首てくびきず事件じけんこった。イサキオスはばちとしてすう日間にちかん皇帝こうていまえからがらされただけでんだ[69]
  8. ^ 緋色ひいろ産室さんしつまれ」。皇帝こうてい嫡出ちゃくしゅつであることをしめす。コンスタンティノス7せい"ポルフュロゲネトス"記事きじ参照さんしょう[77][78]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 39-40.
  2. ^ ジョナサン・ハリス & 井上いのうえひろしいち 2018, p. 252.
  3. ^ 中谷なかたにいさお 2020, p. 245.
  4. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 31.
  5. ^ せら原義げんぎせい 2012, p. 389.
  6. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 72.
  7. ^ a b c せら原義げんぎせい 2012, p. 391.
  8. ^ アンドリュー・ジョティシュキー & 森田もりた安一やすいち 2013, p. 139.
  9. ^ ロドニー・スターク & 櫻井さくらい康人やすひと 2016, p. 271-273.
  10. ^ 中谷なかたにいさお 2020, p. 245-246.
  11. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 62.
  12. ^ アンドリュー・ジョティシュキー & 森田もりた安一やすいち 2013, p. 123,139-140.
  13. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 64-75.
  14. ^ エリザベス・ハラム & 川成かわなりよう 2006, p. 212-220.
  15. ^ ロドニー・スターク & 櫻井さくらい康人やすひと 2016, p. 273-275.
  16. ^ a b c d 中谷なかたにいさお 2020, p. 246.
  17. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 192.
  18. ^ ロドニー・スターク & 櫻井さくらい康人やすひと 2016, p. 275.
  19. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 42-48.
  20. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 191,193.
  21. ^ アンドリュー・ジョティシュキー & 森田もりた安一やすいち 2013, p. 145.
  22. ^ ロドニー・スターク & 櫻井さくらい康人やすひと 2016, p. 276-277.
  23. ^ 中谷なかたにいさお 2020, p. 246-247.
  24. ^ 山辺やまべ規子のりこ 1996, p. 187-188.
  25. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 193-194.
  26. ^ a b c d e f 中谷なかたにいさお 2020, p. 247.
  27. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 194-196.
  28. ^ a b 山辺やまべ規子のりこ 1996, p. 188.
  29. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 196-198.
  30. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 32,198-199.
  31. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 203-204.
  32. ^ アンドリュー・ジョティシュキー & 森田もりた安一やすいち 2013, p. 146.
  33. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 77-80,204-208,222.
  34. ^ アンドリュー・ジョティシュキー & 森田もりた安一やすいち 2013, p. 146-149.
  35. ^ 山辺やまべ規子のりこ 1996, p. 200.
  36. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 72-77,262.
  37. ^ せら原義げんぎせい 2012, p. 416,419.
  38. ^ ジョナサン・ハリス & 井上いのうえひろしいち 2018, p. 267-268.
  39. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 223-225.
  40. ^ ジョナサン・ハリス & 井上いのうえひろしいち 2018, p. 266-267.
  41. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 95-97,216-228.
  42. ^ 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 228-231.
  43. ^ せら原義げんぎせい 2012, p. 422.
  44. ^ a b 根津ねづ由喜ゆきおっと 1999, p. 231-241.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]