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ハンガリー王国おうこく

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ハンガリー王国おうこく
Magyar Királyság
ハンガリー公国 1000ねん - 1918ねん ハンガリー人民共和国 (1918年-1919年)
チェコスロバキア共和国
ルーマニア王国
ユーゴスラビア王国
第一共和国 (オーストリア)
ハンガリーの国旗 ハンガリーの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご:
Kingdom of Mary, the Patroness of Hungary
国歌こっか: さんしょう
ハンガリーの位置
1190ねん
公用こうよう ハンガリーラテン語らてんごドイツ、その
首都しゅと ブダペスト
ポジョニ
ブダ
セーケシュフェヘールヴァール
デブレツェン
エステルゴム
国王こくおう
1000ねん - 1038ねん イシュトヴァーン1せい
アールパードあさ初代しょだい
1308ねん - 1342ねんカーロイ1せい
アンジューあさ初代しょだい
1526ねん - 1564ねんフェルディナーンド1せい
ハプスブルク帝国ていこく成立せいりつ対立たいりつおうとしてヤーノシュ1せい
1740ねん - 1780ねんマリア・テレジア
1848ねん - 1916ねんフェレンツ・ヨージェフ1せい
アウスグライヒにより1867ねんよりハンガリー国王こくおうとして戴冠たいかんオーストリア皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい
1916ねん - 1918ねんカーロイ4せい
(オーストリア皇帝こうていカール1せい
面積めんせき
1918ねん325,111km²
人口じんこう
1711ねん3,000,000にん
1790ねん8,000,000にん
1910ねん18,264,533にん
変遷へんせん
ハンガリー王国おうこく建国けんこく 1000ねん12月25にち
オスマン帝国ていこくのブダ占領せんりょう1541ねん
1848ねん革命かくめい1848ねん
アウスグライヒ1867ねん
トリアノン条約じょうやく1920ねん
通貨つうかフォリント(1325ねん
ターラー
オーストリアフローリン(1754ねん-1867ねん
オーストリア=ハンガリー・グルデン(1867ねん-1892ねん
オーストリア=ハンガリー・クローネ(1892ねん-1918ねん
現在げんざい

ハンガリー王国おうこく(ハンガリーおうこく、ハンガリー: Magyar Királyság)は、かつて現在げんざいハンガリー中心ちゅうしんとする地域ちいき統治とうちしていた王国おうこくである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

王国おうこくのはじまり[編集へんしゅう]

955ねんレヒフェルトのたたかやぶれたマジャールじんたちは、戦後せんご当初とうしょ外交がいこうてきにはひがしマ帝国まていこく(ビザンツ)、ブルガリア帝国ていこく、あるいはルーシ(キエフ大公たいこうこく)などとむすびつくみちもあったが、だい首長しゅちょうのハンガリー大公たいこうゲーザ英語えいごばんは、973ねん神聖しんせいローマ皇帝こうてい依頼いらいして宣教師せんきょうし派遣はけんさせ、マジャールじんへのキリスト教きりすときょう布教ふきょうみとめた[1]。ゲーザのヴァイクは985ねんプラハせいアダルバートから洗礼せんれいけ、イシュトヴァーンの洗礼せんれいめいさづけられた[1]。イシュトヴァーンは997ねんちちゲーザのけてだい首長しゅちょうとなり、各地かくち軍事ぐんじ遠征えんせいおこなってハンガリーの統一とういつすすめ、1000ねん12月25にち[注釈ちゅうしゃく 1]ローマ教皇きょうこうシルウェステル2せいからさずかったかんむりもちいて、ハンガリーおうイシュトヴァーン1せいとしてエステルゴム戴冠たいかんしきおこなった[1]。こうして、正式せいしきにハンガリー王国おうこく発足ほっそくした。以後いご、その一族いちぞくであるアールパードあさによる統治とうちが300ねんつづいた。

以後いご、ハンガリー王国おうこく北部ほくぶスロヴァキアモラヴィア)、南部なんぶクロアチアのスラヴじん支配しはいれ、さらにルーマニアトランシルヴァニアにも勢力せいりょくばした。このころがハンガリーの絶頂ぜっちょうであり、ちゅうおう強国きょうこくとして君臨くんりんしていた。この時代じだい領域りょういきせいイシュトヴァーンの王冠おうかんばれ、以後いごハンガリーの歴史れきしかんにおいて重要じゅうよう位置いちめた。このためハンガリーおうとなるものはせいイシュトヴァーンの王冠おうかんいただものであるという概念がいねんまれた。

1240ねんにはモンゴル帝国ていこくバトゥによる侵略しんりゃくけ、甚大じんだい被害ひがいをうけた(モンゴルのポーランド侵攻しんこう)。この経験けいけんたことでハンガリー国王こくおう防衛ぼうえい体制たいせいととのえる必要ひつようせまられ、貴族きぞくそう土地とちあたえてかれらの主導しゅどう堅固けんご城塞じょうさいきずかせていった。おなじく防衛ぼうえいじょう観点かんてんからも城壁じょうへき都市とし発展はってんもとめられ、従来じゅうらいまでの都市としのほか、あらたにドイツじん入植にゅうしょく契機けいきとした都市とし形成けいせい発展はってんした。そのれいとして、シビウブラショフビストリツァコシツェなどがげられる。

ハプスブルクとオスマン[編集へんしゅう]

その1301ねんにアールパートあさ断絶だんぜつすると選挙せんきょ王制おうせいとなり、1308ねんナポリ王国おうこくアンジューからおうた(ハンガリー・アンジューあさ)。以後いご世襲せしゅう王朝おうちょうつづき、そのあいだハンガリーおうだけでなくポーランドおうねるようになったが1395ねん断絶だんぜつした。一方いっぽう、14世紀せいきになると東方とうほうからオスマン帝国ていこく興隆こうりゅうし、コソボのたたか以後いごバルカン半島ばるかんはんとう進出しんしゅつしてきた。神聖しんせいローマ皇帝こうていでハンガリーおうジキスムント連合れんごう十字軍じゅうじぐん組織そしきし、対抗たいこうしたが1396ねんニコポリスのたたか敗北はいぼくした。

15世紀せいきにはトランシルヴァニア貴族きぞくフニャディ英語えいごばんマーチャーシュ1せい中小ちゅうしょう貴族きぞく圧倒的あっとうてき支持しじけて国王こくおう即位そくいし、常備じょうびぐん維持いじしてつよもりきわめた[2]。しかし、ハンガリーはオスマン帝国ていこく脅威きょういつねにさらされていた。1526ねんモハーチのたたかではボヘミアおうねたハンガリーおうラヨシュ2せい(ルドヴィク)が戦死せんしする大敗たいはいきっし、ヤギェウォ王家おうけ断絶だんぜつした[3]。こうして、王冠おうかん姻戚いんせき関係かんけいにあったオーストリア大公たいこうハプスブルク継承けいしょうすることになった[3]。しかし、ボヘミアとハンガリーの貴族きぞくは、ラヨシュ2せいあねおっとであるオーストリア大公たいこうフェルディナント(のちの神聖しんせいローマ皇帝こうていフェルディナント1せい)を国王こくおうむかえることにはつよ抵抗ていこうした[4]。ボヘミアではほどなくしてフェルディナントを国王こくおう選出せんしゅつしたが、ハンガリーではポジョニ(ブラチスラヴァ)でフェルディナントが国王こくおう選出せんしゅつされたとき、すでにトランシルヴァニア出身しゅっしんだい領主りょうしゅサポヤイ・ヤーノシュがハンガリー国王こくおうとしてハンガリー貴族きぞくたちの支持しじけて選出せんしゅつされていた[4]。こうしたなか、1529ねん、オスマン帝国ていこくによってだいいちウィーン包囲ほういこっている[4]

ハンガリーを征服せいふくしたオスマン帝国ていこくスレイマン1せいはハンガリーを直轄ちょっかつオスマン帝国ていこくりょうハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護ほごりょうとした(トランシルヴァニア公国こうこく)。ハプスブルクはハンガリーの北部ほくぶ西部せいぶ支配しはいし(おうりょうハンガリー)、ハンガリーは150ねんちかくにわたり分割ぶんかつ支配しはいされ、両国りょうこく係争けいそうとなった[4]

1683ねんだいウィーン包囲ほうい以後いごだいトルコ戦争せんそう1699ねんむすばれたカルロヴィッツ条約じょうやくで、ハンガリーのほぼ全域ぜんいきがハプスブルクのものとなった[5]。これに反発はんぱつしたハンガリーじん貴族きぞくラーコーツィ・フェレンツ2せいとのあいだ民族みんぞく解放かいほう運動うんどうラーコーツィの独立どくりつ戦争せんそう)がたたかわれることとなったが、1711ねんには鎮圧ちんあつされた[5]

じゅうせい時代じだい[編集へんしゅう]

せいイシュトヴァーンの王冠おうかん戴冠たいかんするフランツ・ヨーゼフ1せい

19世紀せいき中盤ちゅうばんにさしかかるとハプスブルク帝国ていこくのヨーロッパでの影響えいきょうりょく相対そうたいてき低下ていかはじめた。

1848ねん2がつ革命かくめいでオーストリアが混乱こんらんすると、3月にコシュート・ラヨシュペシュト武装ぶそう蜂起ほうきし(ペシュト蜂起ほうき)、自治じち政府せいふ設立せつりつした。しかし国内こくない安定あんていもどしたオーストリアぐん鎮圧ちんあつされると、コシュートはハンガリーの独立どくりつ宣言せんげんしてふたたびブダペストを奪回だっかいした。しかしオーストリアぐんとロシアぐんまえやぶれ、独立どくりつ失敗しっぱいした(ハンガリー革命かくめい)。

しかし1866ねんプロイセン王国おうこくとのひろしおう戦争せんそう敗北はいぼくしてドイツでの覇権はけん喪失そうしつするなど弱体じゃくたいした帝国ていこく内部ないぶでは、ハンガリーじん支配しはい民族みんぞく独立どくりつ運動うんどうはなおも活発かっぱつした。

これを危惧きぐしたフランツ・ヨーゼフ1せいはハンガリーじんとともに帝国ていこく支配しはい強化きょうかはかり、1867ねんにハンガリー王国おうこく自治じちけん拡大かくだいみとめた。そしてみずからがオーストリア皇帝こうていとハンガリー国王こくおうねることで、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく成立せいりつした[6]。これは帝国ていこく維持いじしたいオーストリア政府せいふと、自治じちけん一層いっそう強化きょうかもとめるハンガリー貴族きぞく両者りょうしゃ利害りがい一致いっちしてできた融和ゆうわ妥協だきょう産物さんぶつで、「アウスグライヒ」(和協わきょう)とばれる[6]。ハンガリー王国おうこくはオーストリア=ハンガリーじゅう帝国ていこく一翼いちよくにな存在そんざい位置いちづけられた[6]王国おうこくないには独自どくじ内閣ないかく議会ぎかいかれ、ハプスブルクたいするハンガリーの影響えいきょうりょくつよまったのである[6]

19世紀せいきまつのハンガリーでは資本しほん主義しゅぎ勃興ぼっこうし、民族みんぞく主義しゅぎ高揚こうようした。首都しゅとブダペスト地下鉄ちかてつ整備せいびされるなどヨーロッパ有数ゆうすう近代きんだい都市としとしてのよそおいを調ととのえ、繁栄はんえいした。

王国おうこく終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく中央ちゅうおう同盟どうめい一翼いちよくになたたかったが、1918ねん敗北はいぼくした。11月16にちカーロイ・ミハーイ主導しゅどうによりハンガリー民主みんしゅ共和きょうわこくじゅう帝国ていこくから独立どくりつした。しかし共和きょうわこく軍事ぐんじりょく弱体じゃくたいであり、東部とうぶトランシルヴァニアルーマニア王国おうこくに、北部ほくぶハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)をチェコスロバキア占領せんりょうされた。

1918ねんじゅう帝国ていこく崩壊ほうかいし、1919ねんハンガリー革命かくめいにともなうハンガリー民主みんしゅ共和きょうわこく成立せいりつにより王国おうこく消滅しょうめつした[7]

歴代れきだい国王こくおう[編集へんしゅう]

アールパードあさが300ねん王国おうこく成立せいりつ以前いぜんふくめれば400ねんつづいたのち、13世紀せいきまつ断絶だんぜつするが、そのはアールパード王位おうい請求せいきゅうしゃによるこうそうて、1308ねん以降いこう選挙せんきょ王制おうせいとなる。14世紀せいきにはほぼアンジューあさ統治とうちつづいたが、その断絶だんぜつルクセンブルクハプスブルクフニャディヤギェウォあいだ王位おうい変遷へんせんした。

1526ねん以降いこうはハプスブルク王位おういをほぼ独占どくせんし(ただし当初とうしょ対立たいりつおうがいた)、同家どうけ神聖しんせいローマ皇帝こうていが、1804ねんからはオーストリア皇帝こうていがハンガリー王位おうい継承けいしょうした。ただし例外れいがいが2にんいる。1人ひとりローマおうフェルディナント4せいで、ちちフェルディナント3せい生前せいぜんにハンガリー王位おういゆずられ、次期じき皇帝こうていとしてローマおうにもなっていたが、帝位ていい継承けいしょうするまえ死去しきょした。このように、ハンガリー王位おうい帝位ていい継承けいしょう先立さきだって譲位じょういされることがおおかった。もう1人ひとりマリア・テレジアで、彼女かのじょ神聖しんせいローマ皇帝こうていではなかったが、ハンガリー女王じょおうほかにもボヘミア女王じょおうオーストリア大公たいこう即位そくいした。彼女かのじょおっとフランツ1せい神聖しんせいローマ皇帝こうていではあったが、オーストリア大公たいこう、ハンガリーおうなどではなかった。これは、マリア・テレジアがハプスブルク唯一ゆいいつ後継こうけいしゃでありながら、男子だんしでなかったため皇帝こうていになれなかったことでしょうじた(オーストリア継承けいしょう戦争せんそう参照さんしょう)。法的ほうてきにはマリア・テレジアのハンガリーおう継承けいしょうカール6せい1713ねんはっした国事こくじ勅書ちょくしょによるものである。

首都しゅと[編集へんしゅう]

1541ねんから1784ねんまでげんスロヴァキアの首都しゅとであるブラチスラヴァが首都しゅとになったのは、バルカン半島ばるかんはんとう侵入しんにゅうしてきたオスマン帝国ていこく圧力あつりょくからのがれるためである。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

オーストリア=ハンガリー帝国ていこく領域りょういきはな浅葱あさつきしょく地域ちいきがハンガリー王国おうこく
1914ねん当時とうじのハンガリー王国おうこく

統治とうち地域ちいき[編集へんしゅう]

現在げんざいハンガリー共和きょうわこくとはことなる。現在げんざい共和きょうわ国領こくりょう全域ぜんいきくわ

がハンガリー王国おうこく最大さいだい領域りょういきであった。

王国おうこくのこした問題もんだい[編集へんしゅう]

ハンガリー王国おうこくはかつてのその広大こうだい領域りょういきすうおおくのマジャールじんのこした。現在げんざいでも、スロバキア、クロアチア、セルビアモンテネグロ、ルーマニアにはすうおおくのマジャールじんんでおり、ハンガリーとこれらのくに外交がいこう問題もんだいひとつとなっている。

れいとして、ヴォイヴォディナにおいては1941ねんのユーゴスラビア侵攻しんこう理由りゆうひとつとなった。また、1989ねんこったルーマニア革命かくめいも、発端ほったんはルーマニアのマジャールじん問題もんだいであった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1001ねん1がつ1にちとするせつもある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • コーシュ・カーロイ しる田代たしろ文雄ふみおかんやく)、奥山おくやま裕之ひろゆき山本やまもと明代あきよ わけ『トランシルヴァニア その歴史れきし文化ぶんか恒文社こうぶんしゃ、1991ねん9がつISBN 4-7704-0743-2 
  • 南塚みなみづか信吾しんご へん『ドナウ・ヨーロッパ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく19〉、1999ねん3がつISBN 978-4-634-41490-7 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]