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ベーラ4世 (ハンガリー王) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ベーラ4せい (ハンガリーおう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベーラ4せい
Béla IV
ハンガリー国王こくおう
在位ざいい 1235ねん - 1270ねん

出生しゅっしょう (1206-11-29) 1206ねん11月29にち
死去しきょ (1270-05-03) 1270ねん5月3にち(63さいぼつ
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくニュラク・シゲテ
埋葬まいそう ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくエステルゴム
配偶はいぐうしゃ マリア・ラスカリナ
子女しじょ キンガ
アンナ
ヨラーン
エルジェーベト
イシュトヴァーン5せい
コンスタンツィア
マルギト
ベーラ
家名かめい アールパード
王朝おうちょう アールパードあさ
父親ちちおや アンドラーシュ2せい
母親ははおや ゲルトルート・フォン・アンデクス
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ベーラ4せいハンガリー: IV Béla1206ねん11月29にち - 1270ねん5月3にち)は、ハンガリー王国おうこくアールパードあさ国王こくおう在位ざいい1235ねん - 1270ねん)。祖父そふベーラ3せいならった王権おうけん強化きょうかと、1241ねんモンゴルぐん侵入しんにゅうによって荒廃こうはいしたハンガリーの復興ふっこう事業じぎょうにより、ハンガリーおうなかでも有名ゆうめい人物じんぶつ一人ひとりである。

生涯しょうがい

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幼年ようねん

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1206ねん11月29にちに、ハンガリーおうアンドラーシュ2せいゲルトルード長子ちょうしとしてまれる。ローマ教皇きょうこうインノケンティウス3せい希望きぼうにより、ベーラ4せい誕生たんじょうまえにハンガリー王国おうこく聖職せいしょくしゃたちはかれをハンガリー王位おうい後継こうけいしゃとして承認しょうにんする宣言せんげんおこなった。

1213ねん9月28にちははゲルトルードが敵対てきたいてき貴族きぞくによって殺害さつがいされたとき、おそらくベーラもその居合いあわせていた。アンドラーシュ2せいはゲルトルードを殺害さつがいした一団いちだん首謀しゅぼうしゃのみをばっして貴族きぞくゆるし、ベーラはちちたいする反感はんかんいた。

1214ねん初頭しょとうブルガリア皇帝こうていボリルむすめ結婚けっこんし、結婚けっこんからくハンガリーのわかおうとして戴冠たいかんされる。1217ねん8がつ、アンドラーシュがだい5かい十字軍じゅうじぐん参加さんかするため中東ちゅうとうったとき、ベーラは母方ははかたのおじであるカロチャ大司教だいしきょうベルトルトにれられてシュタイアー滞在たいざいし、翌年よくねん中東ちゅうとうからもどったアンドラーシュにつづいてハンガリーに帰国きこくした。

わかおう時代じだい

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1220ねんにベーラはアンドラーシュからスラヴォニア統治とうちゆだねられた。同年どうねんニカイア帝国ていこく皇帝こうていテオドロス1せいむすめマリア・ラスカリナ結婚けっこんするが、1222ねん2人ふたり縁談えんだんりまとめたアンドラーシュからマリアと離婚りこんするように説得せっとくされる。しかしながら教皇きょうこうホノリウス3せい2人ふたり離婚りこん無効むこうとし、マリアをもどしたベーラはちちいかりをけるためにオーストリア移動いどうした。結局けっきょくアンドラーシュはれてベーラをゆるし、ベーラはスラヴォニア以外いがいダルマチアクロアチア統治とうち委任いにんされた。

1226ねんにベーラはトランシルヴァニア統治とうちまかされ、ドミニコかい修道しゅうどうによるドニエストルがわ流域りゅういき西にし居住きょじゅうするクマンじんへの布教ふきょう支援しえんした。布教ふきょう結果けっか、クマンじん部族ぶぞくちょうなか洗礼せんれいけてベーラの支配しはいれたものあらわれる。

1234ねんにアンドラーシュが30さい年下とししたベアトリーチェつまむかえると、ベーラとアンドラーシュの関係かんけいはより悪化あっかする。1235ねん9がつ21にちにアンドラーシュがぼっしたのちベーラはハンガリー王位おういぎ、10月14にちセーケシュフェヘールヴァールエステルゴム大司教だいしきょうロベルトから戴冠たいかんけた。即位そくい直後ちょくごわか継母けいぼちち側近そっきん告発こくはつし、かれらの逮捕たいほめいじた。

治世ちせい初期しょき

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ハンガリーおう即位そくいした直後ちょくごのベーラは、王権おうけん回復かいふく維持いじこころみた[1]貴族きぞく土地とち特権とっけん付与ふよしたアンドラーシュの政策せいさくとはぎゃくに、ハンガリーで施行しこうされていたしろ単位たんいけん制度せいどおうりょう復帰ふっきこころみた[2][3]教皇きょうこう認可にんかて、アンドラーシュが治世ちせい初期しょき貴族きぞく付与ふよしたおうりょう回収かいしゅうおこない、それまでは一般いっぱんてきではなかった文書ぶんしょ使用しよう義務付ぎむづけた[4]。また、王室おうしつ顧問こもん会議かいぎじょうから貴族きぞくたちの椅子いすはこして焼却しょうきゃくし、出席しゅっせきしゃ国王こくおうへの敬意けいいつよもとめる[5]。この領地りょうち回収かいしゅうはじめとする強硬きょうこう政策せいさくに、貴族きぞくたちは不満ふまんいだ[4][6]。さらに都市とし地位ちいたかめるため、1237ねんにセーケシュフェヘールヴァールに関税かんぜい免許めんきょ判事はんじ選出せんしゅつけんなどの特権とっけん付与ふよした[7]いでペシュト、エステルゴム、ナジソンバトシェルメツバーニャニトラなどの領内りょうない主要しゅよう都市としにも、あらたに特権とっけん付与ふよした[7][8]

時代じだいさかのぼり、1235ねんにドミニコかい修道しゅうどうユリアヌス英語えいごばんは、東方とうほうハンガリーはな民族みんぞくさがたびていた[4]1239ねんにユリアヌスは帰国きこくし、バシキリアヴォルガかわ])で出会であったマジャールじんからつたいた東方とうほうモンゴル帝国ていこくがヨーロッパ遠征えんせい計画けいかくしている情報じょうほうをもたらした。そして、ガリツィア駐屯ちゅうとんするモンゴルぐんそう司令しれいかんバトゥから、降伏ごうぶくうなが書簡しょかんおくられる[9]同年どうねんにベーラは族長ぞくちょうクタン(ケテニュ)がひきいる40,000のクマンじんれ、かれらに居住きょじゅうあたえてだい貴族きぞくとモンゴルの侵入しんにゅう対抗たいこうする戦力せんりょくくわえようとこころみた。しかし、遊牧民ゆうぼくみんであるクマンじん生活せいかつ様式ようしき定住ていじゅう生活せいかついとなむハンガリーじん相容あいいれず、両者りょうしゃ対立たいりつ深刻しんこくする[4]1240ねんにクタンをはじめとするクマンじん首領しゅりょうとハンガリーの貴族きぞく僧侶そうりょ会議かいぎ召集しょうしゅうし、クマンじん居住きょじゅうてと首領しゅりょうたちの洗礼せんれい決定けっていされたが、なおもハンガリー国民こくみんいだくクマンじんかれらをれたベーラにたいする憎悪ぞうおおさまらなかった[10]

モンゴルの侵入しんにゅうそなえ、1239ねんまつカルパティア山脈さんみゃく峡谷きょうこく城砦じょうさいきずき、よく1240ねんルーシからモンゴルの脅威きょういつたえる報告ほうこくつたえられるとブダ僧侶そうりょ貴族きぞく招集しょうしゅうしての会議かいぎ開催かいさい決定けっていする。1241ねんのブダの会議かいぎではクタンとクマンじん逮捕たいほ防衛ぼうえいさくについて協議きょうぎされたが、会議かいぎちゅうに3がつ12にちにバトゥ指揮しきのモンゴルぐん国境こっきょう突破とっぱした報告ほうこくとどけられる[10]

モンゴルぐん侵入しんにゅう

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モヒのたたかいで逃亡とうぼうするベーラ4せいみぎから2人ふたり王冠おうかんをかぶった人物じんぶつ

モンゴル侵入しんにゅう報告ほうこくつたえられると、ベーラは貴族きぞくとクマンじん号令ごうれいをかけ、軍隊ぐんたい招集しょうしゅうこころみた[11]。モンゴルぐん通過つうかした地域ちいき略奪りゃくだつ虐殺ぎゃくさつさらされ、ペシュトの城壁じょうへきそとではモンゴル騎兵きへいがハンガリーぐんさそすために連日れんじつ挑発ちょうはつおこなっていた[11]。ペシュトの市民しみんはクマンじんがモンゴルの侵入しんにゅうまねいたとみなし、クタンと部下ぶかたちを殺害さつがいした。クタン殺害さつがい報告ほうこく地方ちほうつたわると、農民のうみんたちはベーラのもとかおうとするクマンじんたちを殺害さつがいする[12]合流ごうりゅうしたクマンじんたちは報復ほうふくとして平原へいげん国境こっきょう地帯ちたい収奪しゅうだつおこない、略奪りゃくだつひんたずさえてブルガリア移動いどうした[12]

ベーラが実施じっしした王権おうけん回復かいふく不満ふまんだい貴族きぞく協力きょうりょくこば[2][5]、ハンガリーぐん減少げんしょうした兵力へいりょくでモンゴルとたたかわなければならなかった。1241ねん4がつ11にち[13]モヒ(ムヒ)平原へいげんたたかでハンガリーぐん大敗たいはい、エステルゴムとカロチャの大司教だいしきょうはじめとする聖職せいしょくしゃ貴族きぞく戦死せんしし、ベーラのおとうとカールマーン戦闘せんとう負傷ふしょうによって落命らくめいした[14]。ベーラはプレスブルク(現在げんざいブラチスラヴァ)にのがれて、同地どうちおとずれていたオーストリアこうフリードリヒ2せい保護ほごける。しかし、フリードリヒは以前いぜんベーラに支払しはらった賠償金ばいしょうきん返済へんさいもとめ、ベーラはおおくの財貨ざいかわたし、オーストリアに隣接りんせつする3つのしゅう割譲かつじょう余儀よぎなくされた[15]

オーストリアからザグレブ移動いどうし、神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ2せい教皇きょうこうグレゴリウス9せいのもとに援助えんじょもとめる使節しせつおくった。フリードリヒ2せいたいしてはハンガリーに軍隊ぐんたいおく見返みかえりとしてかみきよしマ帝国まていこく宗主そうしゅけんみとめることさえ提案ていあんしたが[16]、いずれの勢力せいりょくもハンガリーに援助えんじょおこなわなかった。

そのころモンゴルぐんドナウがわ西部せいぶ領土りょうど略奪りゃくだつし、よく1242ねん凍結とうけつしたドナウがわわたってよりふか進軍しんぐんした[17]。ベーラはモンゴルの王族おうぞくカダン追跡ついせきからのがれるため、ダルマチアの海岸かいがん避難ひなんした。ダルマチア海岸かいがん都市としにはハンガリーからの亡命ぼうめいしゃおおせ、ベーラは貴族きぞく聖職せいしょくしゃともなってスプリトトラオ移動いどうし、トラオからアドリア海あどりあかいおきしまわたった[18]一方いっぽうカダンはクリスじょう英語えいごばん(クリッサ)にベーラがもっているとかんがえて包囲ほういおこなうが失敗しっぱいし、ベーラがクリッサにいないことをると包囲ほうい[19]、トラオとスプリトにぐんけて進軍しんぐんした。トラオに到着とうちゃくしたカダンはベーラがこめしまかいにじんくが、1242ねん3がつオゴデイハーン訃報ふほうとどけられると東方とうほう帰還きかんした。

ベーラはモンゴルぐん完全かんぜん退却たいきゃくしたことを確認かくにんしてしまからしま自分じぶんかんした「ベーラとう」というけた[20]

オーストリアをめぐあらそい、ガリツィアへの干渉かんしょう

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1242ねんに、ハンガリーは再建さいけんした軍隊ぐんたい派兵はへいしてオーストリアこうフリードリヒ2せい交戦こうせんする。ハンガリーはオーストリアに占領せんりょうされたショプロンケーセグ英語えいごばん奪還だっかんし、ベーラはモンゴルの侵入しんにゅうちゅうにオーストリアに割譲かつじょうした3しゅう返還へんかん要求ようきゅうした。

1244ねん6月30にちにハンガリーとヴェネツィアあいだ協定きょうていむすばれ、ハンガリーはザダル(ザラ)の主権しゅけんをヴェネツィアに譲渡じょうと、ダルマチアの都市としからあがった税収ぜいしゅうの3ぶんの1を確保かくほした。よく1245ねんにベーラは義理ぎり息子むすこロスチスラフ・ミハイロヴィチ軍事ぐんじてき援助えんじょおくり、ガリツィア公国こうこく公子こうしダニーロとのあらそいをたすけるが、ロスチスラフはダニーロによってやぶられる。同年どうねん、ハンガリーは王国おうこく西側にしがわ併合へいごう渇望かつぼうするオーストリアこうフリードリヒからふたた攻撃こうげきける。ライタかわたたかいでハンガリーぐん敗北はいぼくするが、このとき勝利しょうりおさめたフリードリヒも戦死せんしした。

1249ねんにベーラはバーン太守たいしゅだい貴族きぞく)のSzörényがひじりヨハネ騎士きしだん入団にゅうだんすることをみとめるが、この時期じきにはモンゴルぐんふたたびヨーロッパに侵攻しんこうするうわさひろまっていた。同年どうねんふたたびロスチスラフのもと援軍えんぐんおくるが、サンかわたたかいでロスチスラフとハンガリーの連合れんごうぐん敗北はいぼく、ガリツィアとの和平わへい締結ていけついたった。1250ねんズヴォレン両国りょうこく会談かいだんし、ハンガリーはダニーロとロスチスラフのこうそう介入かいにゅうしないことを約束やくそくした。

フリードリヒの落命らくめいによってバーベンベルク男子だんし断絶だんぜつしており、周辺しゅうへん国々くにぐにかれ統治とうちしていたオーストリアとスティリア統治とうちけんめぐってあらそっていた。バーベンベルク領地りょうち争奪そうだつせんにおいて、1252ねんにハンガリーはオーストリアこうフリードリヒのめいゲルトルード(Gertrude of Austria)とガリツィアのダニーロの息子むすこロマンとの結婚けっこんりまとめた[21]同年どうねんにベーラはぐんひきいてウィーン盆地ぼんち占領せんりょうするが、フリードリヒの義兄ぎけいであるボヘミアおうオタカル2せいもバーベンベルク領地りょうち要求ようきゅうした。ベーラはオタカルの支配しはいにあるモラヴィア攻撃こうげきするが、モラヴィアの主要しゅよう都市としであるオロモウツ占領せんりょうにはいたらなかった。そのためベーラはローマ教会きょうかいかいしてボヘミアとの和平わへいこころみ、プレスブルクでのオタカルとの協議きょうぎ結果けっかこくあいだ講和こうわ成立せいりつする。教皇きょうこう調停ちょうていにより、1254ねんのブダの和議わぎでフリードリヒののこりょうのうちスティリアおおやけりょうがハンガリーの支配しはいはいった[21]

息子むすこイシュトヴァーンとのあらそ

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クレッセンブルンのたたか

1246ねん、ベーラは長子ちょうしイシュトヴァーンにクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治とうちまかせるが、息子むすこ共同きょうどう統治とうちおこな意思いしかった。しかし、1258ねんにイシュトヴァーンはベーラに対抗たいこうするための軍勢ぐんぜいあつめ、トランシルヴァニアの統治とうちけん譲渡じょうとするようベーラにせまる。同年どうねん、ボヘミアの統治とうちのぞむスティリアの貴族きぞくたちが反乱はんらんこし、鎮圧ちんあつぐんおくらなければならなかった。反乱はんらん鎮圧ちんあつ、ベーラはイシュトヴァーンにスティリアこう英語えいごばんりょうあたえる。しかし、オタカル2せい支援しえんけたスティリアはふたた反乱はんらんこした。ベーラはイシュトヴァーンとともにボヘミアを攻撃こうげきするが、1260ねん7がつ12にちクレッセンブルンのたたか(グロイセンブルン)でハンガリーぐん敗北はいぼくする。戦後せんご1261ねんのウィーンの和議わぎで、ベーラはやむなくスティリアおおやけりょう手放てばなした[21]

スティリアの放棄ほうき、イシュトヴァーンはスティリアにわる領地りょうち要求ようきゅうするようになる[22]1261ねんにベーラはイシュトヴァーンとブルガリアへの共同きょうどう出兵しゅっぺいおこなった。ベーラはイシュトヴァーンのおとうとであるスラヴォニアのベーラとボヘミアにとついだむすめアンナを寵愛ちょうあいしており、イシュトヴァーンとの関係かんけい次第しだい悪化あっかしていく。

イシュトヴァーンはベーラと対立たいりつする貴族きぞくあつめ、対抗たいこうする意思いしせた[22]1262ねんなつにエステルゴム大司教だいしきょうとカロチャ大司教だいしきょう仲介ちゅうかいによって2人ふたりはポジョニ(現在げんざいのブラチスラヴァ)で和議わぎむすび、合意ごういもとづいてイシュトヴァーンはわかおう称号しょうごうあたえられドナウがわ以東いとう地域ちいき支配しはいした[22]。しかし、双方そうほう支持しじしゃたがいの領地りょうち攻撃こうげきしあい、ベーラとイシュトヴァーンは支持しじしゃやすためにおうりょう下賜かし乱発らんぱつ王国おうこく内戦ないせん状態じょうたいおちいった[22]

1267ねん現状げんじょう不満ふまんいだ各地かくち中小ちゅうしょう貴族きぞくそうはエステルゴムで集会しゅうかいひらき、2人ふたりおう要求ようきゅうけた。国内こくない秩序ちつじょ回復かいふくするために2人ふたりおう請願せいがん受諾じゅだくし、ベーラ、イシュトヴァーン、スラヴォニアわかおおやけのベーラ3めい名前なまえで「1267ねん法令ほうれい」が発布はっぷされる。請願せいがんには中小ちゅうしょう貴族きぞく権利けんりまも条文じょうぶんしるされ、ベーラが実施じっしした植民しょくみん政策せいさく文書ぶんしょ主義しゅぎ反対はんたいする条文じょうぶんまれていた[23]

晩年ばんねん

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1269ねん寵愛ちょうあいしていたスラヴォニアのわかおおやけベーラがくなると、アンナの影響えいきょうりょくはよりつよくなった。最期さいごまでベーラはイシュトヴァーンにしんゆるさず、ボヘミアのオタカルにアンナと彼女かのじょきの保護ほごゆだねてぼっした。

王国おうこく復興ふっこう事業じぎょう

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モンゴルぐん通過つうかした地域ちいき破壊はかい略奪りゃくだつ虐殺ぎゃくさつによって荒廃こうはいしており、さらにモンゴルぐんった1242ねんには疫病えきびょう飢饉ききんがハンガリーをおそった[20]。モンゴルの侵入しんにゅうによって山岳さんがく地帯ちたいでは25%から30%、平原へいげんでは50%から80%もの居住きょじゅう破壊はかいされ、人口じんこう半減はんげんしたとわれている[24]荒廃こうはいした王国おうこく復興ふっこうのため、ベーラは軍事ぐんじ中心ちゅうしんとした改革かいかく実施じっしした。

建設けんせつ事業じぎょう経済けいざい

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エステルゴムやセーケシュフェヘールヴァールなどの、モンゴルぐん攻撃こうげきえた都市とし城砦じょうさい石造いしづくりの城壁じょうへきそなえていたことをまえ、1240年代ねんだいまつから石造いしづくりのしろ建設けんせつかった[25]。モンゴル襲来しゅうらい以前いぜん施政しせい転換てんかんして貴族きぞくからのおうりょう回収かいしゅう中止ちゅうしし、あらたな領土りょうどあたえたうえしろ建設けんせつ守備しゅびたい設置せっちびかける[25]シャーロシュパタク英語えいごばんヴィシェグラードなどにはこの時代じだい建設けんせつぶついまのこる。

モンゴル侵入しんにゅう以前いぜん王宮おうきゅういていたエステルゴムは大司教だいしきょうゆだねられ、ブダにあらたな王宮おうきゅう建築けんちく計画けいかくされる。モンゴルの虐殺ぎゃくさつからのがれたブダ・ペシュト近郊きんこう村落そんらく人々ひとびと移民いみん丘陵きゅうりょうまわせ、あたらしい城壁じょうへき王宮おうきゅう建設けんせつした[26]あたらしい王宮おうきゅう中心ちゅうしんとした地域ちいきブダ再建さいけんされた本来ほんらいのブダはオーブダふるいブダ)とばれ、ペシュトとともに今日きょうブダペスト原型げんけいとなる[26]

宮廷きゅうてい維持いじ領地りょうち租税そぜい鉱山こうざんしおからられた収入しゅうにゅうによってまかなわれた。また西欧せいおうとの交易こうえき活発かっぱつおこなわれ、牛肉ぎゅうにく、ワイン、しおがハンガリーから輸出ゆしゅつされ、ぬのきぬ香辛料こうしんりょう輸入ゆにゅうされた[7]西欧せいおうとの交易こうえきぎん国庫こっこおさめられ、開発かいはつのスロバキアでは森林しんりん鉱山こうざん開発かいはつすすめられた[7]

軍事ぐんじ行政ぎょうせい

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国王こくおうぐんゆみ武器ぶきとするけい騎兵きへいじゅう武装ぶそう兵士へいし構成こうせいしようというこころみがなされ、騎兵隊きへいたいはモンゴルの撤退てったいふたたびハンガリーがれたクマンじん従前じゅうぜんから辺境へんきょう防衛ぼうえい担当たんとうしていたセーケイじんなどで編成へんせいされた[25]西欧せいおう騎士きしをモデルとしたじゅう武装ぶそう兵士へいしすため、王国おうこく北部ほくぶおうりょう新興しんこうしょう領主りょうしゅそう創設そうせつし、かれらに兵力へいりょく供給きょうきゅうもとめた[27]

同時どうじ植民しょくみん政策せいさくすすめられ、都市とし自治じち特権とっけん承認しょうにん農村のうそん地帯ちたい入植にゅうしょくしゃへの付与ふよおこなわれる。空白くうはくではドイツじん、ルーマニアじん、ルテニアじん入植にゅうしょくすすめられ[2]かれらには「客人きゃくじん」としての特権とっけん付与ふよされた。分散ぶんさんした所領しょりょうひとつにまとめようとするだい貴族きぞくたちも植民しょくみん熱心ねっしんであり、広大こうだいした領地りょうち移住いじゅうした領民りょうみん一定いってい権利けんり自由じゆう付与ふよした[28]中小ちゅうしょう貴族きぞくのもとで悪条件あくじょうけんかれていた領民りょうみんたちはおうりょうだい貴族きぞく領地りょうちうつり、農民のうみん地位ちい向上こうじょうにつながった[28]

都市としみん自治じちとともに、だい貴族きぞくへの対抗たいこうさくとしてしょう領主りょうしゅ権利けんりみとめられ、モンゴル侵入しんにゅうさいしてハンガリー国外こくがい移動いどうしたクマンじんヤースじんふたたもどされた。ドナウ・ティサ川間かわま地域ちいきがクマンじん居住きょじゅうさだめられ、王室おうしつとクマンじんむすびつきを強化きょうかするために王子おうじイシュトヴァーンとクマンじん族長ぞくちょうむすめとの婚姻こんいん成立せいりつした[29]

改革かいかく結果けっかけん統治とうち貴族きぞくゆだねられ、かくけんから中央ちゅうおう立法りっぽう議会ぎかい代表だいひょうおくられるようになった[2]改革かいかく荒廃こうはいした国土こくど復興ふっこうにおいては一定いってい成功せいこうおさめたが、従来じゅうらい家産かさんせいてき支配しはいわるあたらしい支配しはい体制たいせい導入どうにゅうにはいたらなかった[30]。また、貴族きぞく政界せいかいへの進出しんしゅつ、ハンガリーじんとクマンじん対立たいりつといった問題もんだいのこ[2]

家族かぞく

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ブダペストの英雄えいゆう広場ひろばてられたベーラ4せいぞう

1218ねん皇女おうじょマリア・ラスカリナニカエア帝国ていこく皇帝こうていテオドロス1せいラスカリス皇后こうごうアンナ・アンゲリナ次女じじょ)と結婚けっこんし、9まれた。

アールパードあさ断絶だんぜつにハンガリー王位おういあらそい、相次あいついで即位そくいしたヴェンツェル(ヴァーツラフ3せい)、オットーカーロイ1せいの3にんおうは、いずれもベーラ4せい子孫しそんである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ エルヴィン『ハンガリー 1』増補ぞうほばん、86ぺーじ
  2. ^ a b c d e 薩摩さつま「ドナウ・ヨーロッパの形成けいせい」『ドナウ・ヨーロッパ』、47-48ぺーじ
  3. ^ 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、87-88ぺーじ
  4. ^ a b c d 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、88ぺーじ
  5. ^ a b エルヴィン『ハンガリー 1』増補ぞうほばん、87ぺーじ
  6. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、173ぺーじ
  7. ^ a b c d 南塚みなみづか信吾しんご図説ずせつハンガリーの歴史れきし』(ふくろうのほん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん3がつ)、18-19ぺーじ
  8. ^ Juck, Ľubomír (1984). Výsady miest a mestečiek na Slovensku (1238–1350). Bratislava: Veda 
  9. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、172-173ぺーじ
  10. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、176ぺーじ
  11. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、177ぺーじ
  12. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、178ぺーじ
  13. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、182ぺーじ
  14. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、183ぺーじ
  15. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、190-191ぺーじ
  16. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、199ぺーじ
  17. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、188ぺーじ
  18. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、192-193ぺーじ
  19. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、193ぺーじ
  20. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かん、194ぺーじ
  21. ^ a b c エーリヒ・ツェルナー『オーストリア』(リンツビヒラ裕美ひろみやくいろどりりゅうしゃ、2000ねん5がつ)、149-150ぺーじ
  22. ^ a b c d 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、92ぺーじ
  23. ^ 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、93ぺーじ
  24. ^ 井上いのうえ浩一こういち栗生くりゅうさわ猛夫たけお『ビザンツとスラヴ』(世界せかい歴史れきし11、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1998ねん2がつ)、372ぺーじ
  25. ^ a b c 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、89ぺーじ
  26. ^ a b エルヴィン『ハンガリー 1』増補ぞうほばん、92ぺーじ
  27. ^ 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、89-90ぺーじ
  28. ^ a b 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、91ぺーじ
  29. ^ エルヴィン『ハンガリー 1』増補ぞうほばん、95ぺーじ
  30. ^ 鈴木すずき「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき』、90-91ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 薩摩さつましゅうとう「ドナウ・ヨーロッパの形成けいせい」『ドナウ・ヨーロッパ収録しゅうろく南塚みなみづか信吾しんごへん新版しんぱん世界せかい各国かっこく山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん3がつ
  • 鈴木すずき広和ひろかず「ハンガリー王国おうこく再編さいへん」『ヨーロッパの成長せいちょう 11-15世紀せいき収録しゅうろく岩波いわなみ講座こうざ世界せかい歴史れきし8、岩波書店いわなみしょてん、1998ねん3がつ
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』2かんこうとおる訳注やくちゅう東洋文庫とうようぶんこ平凡社へいぼんしゃ、1968ねん12がつ
  • パムレーニ・エルヴィンへん『ハンガリー 1』増補ぞうほばん田代たしろ文雄ふみお鹿島かしま正裕まさひろやく恒文社こうぶんしゃ、1990ねん2がつ
先代せんだい
アンドラーシュ2せい
ハンガリー国王こくおう
1235ねん - 1270ねん
次代じだい
イシュトヴァーン5せい