ベーラ4世 せい (ハンガリー語 ご : IV Béla 、1206年 ねん 11月29日 にち - 1270年 ねん 5月3日 にち )は、ハンガリー王国 おうこく アールパード朝 あさ の国王 こくおう (在位 ざいい :1235年 ねん - 1270年 ねん )。祖父 そふ ベーラ3世 せい に倣 なら った王権 おうけん の強化 きょうか と、1241年 ねん のモンゴル 軍 ぐん の侵入 しんにゅう によって荒廃 こうはい したハンガリーの復興 ふっこう 事業 じぎょう により、ハンガリー王 おう の中 なか でも有名 ゆうめい な人物 じんぶつ の一人 ひとり である。
1206年 ねん 11月29日 にち に、ハンガリー王 おう アンドラーシュ2世 せい とゲルトルード の長子 ちょうし として生 う まれる。ローマ教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい の希望 きぼう により、ベーラ4世 せい の誕生 たんじょう 前 まえ にハンガリー王国 おうこく の聖職 せいしょく 者 しゃ たちは彼 かれ をハンガリー王位 おうい の後継 こうけい 者 しゃ として承認 しょうにん する宣言 せんげん を行 おこな った。
1213年 ねん 9月28日 にち に母 はは ゲルトルードが敵対 てきたい 的 てき な貴族 きぞく によって殺害 さつがい された時 とき 、おそらくベーラもその場 ば に居合 いあ わせていた。アンドラーシュ2世 せい はゲルトルードを殺害 さつがい した一団 いちだん の首謀 しゅぼう 者 しゃ のみを罰 ばっ して他 た の貴族 きぞく を許 ゆる し、ベーラは父 ちち に対 たい する反感 はんかん を抱 だ いた。
1214年 ねん 初頭 しょとう にブルガリア 皇帝 こうてい ボリル の娘 むすめ と結婚 けっこん し、結婚 けっこん から間 ま も無 な くハンガリーの若 わか 王 おう として戴冠 たいかん される。1217年 ねん 8月 がつ 、アンドラーシュが第 だい 5回 かい 十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか するため中東 ちゅうとう に発 た った時 とき 、ベーラは母方 ははかた のおじであるカロチャ大司教 だいしきょう ベルトルトに連 つ れられてシュタイアー に滞在 たいざい し、翌年 よくねん 中東 ちゅうとう から戻 もど ったアンドラーシュに続 つづ いてハンガリーに帰国 きこく した。
1220年 ねん にベーラはアンドラーシュからスラヴォニア の統治 とうち を委 ゆだ ねられた。同年 どうねん にニカイア帝国 ていこく 皇帝 こうてい テオドロス1世 せい の娘 むすめ マリア・ラスカリナ と結婚 けっこん するが、1222年 ねん に2人 ふたり の縁談 えんだん を取 と りまとめたアンドラーシュからマリアと離婚 りこん するように説得 せっとく される。しかしながら教皇 きょうこう ホノリウス3世 せい は2人 ふたり の離婚 りこん を無効 むこう とし、マリアを連 つ れ戻 もど したベーラは父 ちち の怒 いか りを避 さ けるためにオーストリア に移動 いどう した。結局 けっきょく アンドラーシュは折 お れてベーラを許 ゆる し、ベーラはスラヴォニア以外 いがい にダルマチア 、クロアチア の統治 とうち も委任 いにん された。
1226年 ねん にベーラはトランシルヴァニア の統治 とうち を任 まか され、ドミニコ会 かい 修道 しゅうどう 士 し によるドニエストル川 がわ 流域 りゅういき の西 にし に居住 きょじゅう するクマン人 じん への布教 ふきょう を支援 しえん した。布教 ふきょう の結果 けっか 、クマン人 じん の部族 ぶぞく 長 ちょう の中 なか に洗礼 せんれい を受 う けてベーラの支配 しはい を受 う け入 い れた者 もの も現 あらわ れる。
1234年 ねん にアンドラーシュが30歳 さい 年下 としした のベアトリーチェ を妻 つま に迎 むか えると、ベーラとアンドラーシュの関係 かんけい はより悪化 あっか する。1235年 ねん 9月 がつ 21日 にち にアンドラーシュが没 ぼっ した後 のち ベーラはハンガリー王位 おうい を継 つ ぎ、10月14日 にち にセーケシュフェヘールヴァール でエステルゴム 大司教 だいしきょう ロベルトから戴冠 たいかん を受 う けた。即位 そくい 直後 ちょくご に若 わか い継母 けいぼ と父 ちち の側近 そっきん を告発 こくはつ し、彼 かれ らの逮捕 たいほ を命 めい じた。
ハンガリー王 おう に即位 そくい した直後 ちょくご のベーラは、王権 おうけん の回復 かいふく と維持 いじ を試 こころ みた[ 1] 。貴族 きぞく に土地 とち と特権 とっけん を付与 ふよ したアンドラーシュの政策 せいさく とは逆 ぎゃく に、ハンガリーで施行 しこう されていた城 しろ 単位 たんい の県 けん 制度 せいど と王 おう 領 りょう の復帰 ふっき を試 こころ みた[ 2] [ 3] 。教皇 きょうこう の認可 にんか を得 え て、アンドラーシュが治世 ちせい の初期 しょき に貴族 きぞく に付与 ふよ した王 おう 領 りょう の回収 かいしゅう を行 おこな い、それまでは一般 いっぱん 的 てき ではなかった文書 ぶんしょ の使用 しよう を義務付 ぎむづ けた[ 4] 。また、王室 おうしつ 顧問 こもん 会議 かいぎ 場 じょう から貴族 きぞく たちの椅子 いす を運 はこ び出 だ して焼却 しょうきゃく し、出席 しゅっせき 者 しゃ に国王 こくおう への敬意 けいい を強 つよ く求 もと める[ 5] 。この領地 りょうち の回収 かいしゅう を初 はじ めとする強硬 きょうこう な政策 せいさく に、貴族 きぞく たちは不満 ふまん を抱 いだ く[ 4] [ 6] 。さらに都市 とし の地位 ちい を高 たか めるため、1237年 ねん にセーケシュフェヘールヴァールに関税 かんぜい 免許 めんきょ 、判事 はんじ の選出 せんしゅつ 権 けん などの特権 とっけん を付与 ふよ した[ 7] 。次 つ いでペシュト 、エステルゴム、ナジソンバト 、シェルメツバーニャ 、ニトラ などの領内 りょうない の主要 しゅよう な都市 とし にも、新 あら たに特権 とっけん を付与 ふよ した[ 7] [ 8] 。
時代 じだい を遡 さかのぼ り、1235年 ねん にドミニコ会 かい の修道 しゅうどう 士 し ユリアヌス (英語 えいご 版 ばん ) は、東方 とうほう に住 す むハンガリー語 ご を話 はな す民族 みんぞく を探 さが す旅 たび に出 で ていた[ 4] 。1239年 ねん にユリアヌスは帰国 きこく し、バシキリア (ヴォルガ 河 かわ ])で出会 であ ったマジャール人 じん から伝 つた え聞 き いた東方 とうほう のモンゴル帝国 ていこく がヨーロッパ遠征 えんせい を計画 けいかく している情報 じょうほう をもたらした。そして、ガリツィア に駐屯 ちゅうとん するモンゴル軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん バトゥ から、降伏 ごうぶく を促 うなが す書簡 しょかん が送 おく られる[ 9] 。同年 どうねん にベーラは族長 ぞくちょう クタン (ケテニュ)が率 ひき いる40,000戸 こ のクマン人 じん を受 う け入 い れ、彼 かれ らに居住 きょじゅう 地 ち を与 あた えて大 だい 貴族 きぞく とモンゴルの侵入 しんにゅう に対抗 たいこう する戦力 せんりょく に加 くわ えようと試 こころ みた。しかし、遊牧民 ゆうぼくみん であるクマン人 じん の生活 せいかつ 様式 ようしき は定住 ていじゅう 生活 せいかつ を営 いとな むハンガリー人 じん と相容 あいい れず、両者 りょうしゃ の対立 たいりつ は深刻 しんこく 化 か する[ 4] 。1240年 ねん にクタンを初 はじ めとするクマン人 じん の首領 しゅりょう とハンガリーの貴族 きぞく ・僧侶 そうりょ を会議 かいぎ に召集 しょうしゅう し、クマン人 じん の居住 きょじゅう 区 く の割 わ り当 あ てと首領 しゅりょう たちの洗礼 せんれい が決定 けってい されたが、なおもハンガリー国民 こくみん が抱 いだ くクマン人 じん と彼 かれ らを受 う け入 い れたベーラに対 たい する憎悪 ぞうお は収 おさ まらなかった[ 10] 。
モンゴルの侵入 しんにゅう に備 そな え、1239年 ねん 末 まつ にカルパティア山脈 さんみゃく 峡谷 きょうこく 部 ぶ に木 き の城砦 じょうさい を築 きず き、翌 よく 1240年 ねん にルーシ からモンゴルの脅威 きょうい を伝 つた える報告 ほうこく が伝 つた えられるとブダ で僧侶 そうりょ ・貴族 きぞく を招集 しょうしゅう しての会議 かいぎ の開催 かいさい を決定 けってい する。1241年 ねん のブダの会議 かいぎ ではクタンとクマン人 じん の逮捕 たいほ 、防衛 ぼうえい 策 さく について協議 きょうぎ されたが、会議 かいぎ 中 ちゅう に3月 がつ 12日 にち にバトゥ指揮 しき 下 か のモンゴル軍 ぐん が国境 こっきょう を突破 とっぱ した報告 ほうこく が届 とど けられる[ 10] 。
モヒの戦 たたか いで逃亡 とうぼう するベーラ4世 せい (右 みぎ から2人 ふたり 目 め の王冠 おうかん をかぶった人物 じんぶつ )
モンゴル侵入 しんにゅう の報告 ほうこく が伝 つた えられると、ベーラは貴族 きぞく とクマン人 じん に号令 ごうれい をかけ、軍隊 ぐんたい の招集 しょうしゅう を試 こころ みた[ 11] 。モンゴル軍 ぐん の通過 つうか した地域 ちいき は略奪 りゃくだつ と虐殺 ぎゃくさつ に晒 さら され、ペシュトの城壁 じょうへき の外 そと ではモンゴル騎兵 きへい がハンガリー軍 ぐん を誘 さそ い出 だ すために連日 れんじつ 挑発 ちょうはつ を行 おこな っていた[ 11] 。ペシュトの市民 しみん はクマン人 じん がモンゴルの侵入 しんにゅう を招 まね いたとみなし、クタンと部下 ぶか たちを殺害 さつがい した。クタン殺害 さつがい の報告 ほうこく が地方 ちほう に伝 つた わると、農民 のうみん たちはベーラの元 もと に向 む かおうとするクマン人 じん たちを殺害 さつがい する[ 12] 。合流 ごうりゅう したクマン人 じん たちは報復 ほうふく として平原 へいげん 部 ぶ と国境 こっきょう 地帯 ちたい で収奪 しゅうだつ を行 おこな い、略奪 りゃくだつ 品 ひん を携 たずさ えてブルガリア に移動 いどう した[ 12] 。
ベーラが実施 じっし した王権 おうけん の回復 かいふく に不満 ふまん を持 も つ大 だい 貴族 きぞく は協力 きょうりょく を拒 こば み[ 2] [ 5] 、ハンガリー軍 ぐん は減少 げんしょう した兵力 へいりょく でモンゴルと戦 たたか わなければならなかった。1241年 ねん 4月 がつ 11日 にち [ 13] のモヒ(ムヒ)平原 へいげん の戦 たたか い でハンガリー軍 ぐん は大敗 たいはい 、エステルゴムとカロチャの大司教 だいしきょう を始 はじ めとする聖職 せいしょく 者 しゃ と貴族 きぞく が戦死 せんし し、ベーラの弟 おとうと カールマーン も戦闘 せんとう の負傷 ふしょう によって落命 らくめい した[ 14] 。ベーラはプレスブルク(現在 げんざい のブラチスラヴァ )に逃 のが れて、同地 どうち を訪 おとず れていたオーストリア公 こう フリードリヒ2世 せい の保護 ほご を受 う ける。しかし、フリードリヒは以前 いぜん ベーラに支払 しはら った賠償金 ばいしょうきん の返済 へんさい を求 もと め、ベーラは多 おお くの財貨 ざいか を引 ひ き渡 わた し、オーストリアに隣接 りんせつ する3つの州 しゅう の割譲 かつじょう を余儀 よぎ なくされた[ 15] 。
オーストリアからザグレブ に移動 いどう し、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい と教皇 きょうこう グレゴリウス9世 せい のもとに援助 えんじょ を求 もと める使節 しせつ を送 おく った。フリードリヒ2世 せい に対 たい してはハンガリーに軍隊 ぐんたい を送 おく る見返 みかえ りとして神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めることさえ提案 ていあん したが[ 16] 、いずれの勢力 せいりょく もハンガリーに援助 えんじょ を行 おこな わなかった。
その頃 ころ モンゴル軍 ぐん はドナウ川 がわ 西部 せいぶ の領土 りょうど を略奪 りゃくだつ し、翌 よく 1242年 ねん に凍結 とうけつ したドナウ川 がわ を渡 わた ってより深 ふか く進軍 しんぐん した[ 17] 。ベーラはモンゴルの王族 おうぞく カダン の追跡 ついせき から逃 のが れるため、ダルマチアの海岸 かいがん 部 ぶ に避難 ひなん した。ダルマチア海岸 かいがん の都市 とし にはハンガリーからの亡命 ぼうめい 者 しゃ が多 おお く押 お し寄 よ せ、ベーラは貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ を伴 ともな ってスプリト 、トラオ に移動 いどう し、トラオからアドリア海 あどりあかい 沖 おき の島 しま に渡 わた った[ 18] 。一方 いっぽう カダンはクリス城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) (クリッサ)にベーラが立 た て籠 こ もっていると考 かんが えて包囲 ほうい を行 おこな うが失敗 しっぱい し、ベーラがクリッサにいないことを聞 き き知 し ると包囲 ほうい を解 と き[ 19] 、トラオとスプリトに軍 ぐん を分 わ けて進軍 しんぐん した。トラオに到着 とうちゃく したカダンはベーラが籠 こめ る島 しま の向 む かいに陣 じん を敷 し くが、1242年 ねん 3月 がつ にオゴデイ ・ハーン の訃報 ふほう が届 とど けられると東方 とうほう に帰還 きかん した。
ベーラはモンゴル軍 ぐん が完全 かんぜん に退却 たいきゃく したことを確認 かくにん して島 しま から出 で 、島 しま に自分 じぶん の名 な を冠 かん した「ベーラ島 とう 」という名 な を付 つ けた[ 20] 。
オーストリアを巡 めぐ る争 あらそ い、ガリツィアへの干渉 かんしょう [ 編集 へんしゅう ]
1242年 ねん に、ハンガリーは再建 さいけん した軍隊 ぐんたい を派兵 はへい してオーストリア公 こう フリードリヒ2世 せい と交戦 こうせん する。ハンガリーはオーストリアに占領 せんりょう されたショプロン とケーセグ (英語 えいご 版 ばん ) を奪還 だっかん し、ベーラはモンゴルの侵入 しんにゅう 中 ちゅう にオーストリアに割譲 かつじょう した3州 しゅう の返還 へんかん を要求 ようきゅう した。
1244年 ねん 6月30日 にち にハンガリーとヴェネツィア の間 あいだ に協定 きょうてい が結 むす ばれ、ハンガリーはザダル (ザラ)の主権 しゅけん をヴェネツィアに譲渡 じょうと 、ダルマチアの都市 とし からあがった税収 ぜいしゅう の3分 ぶん の1を確保 かくほ した。翌 よく 1245年 ねん にベーラは義理 ぎり の息子 むすこ ロスチスラフ・ミハイロヴィチ に軍事 ぐんじ 的 てき な援助 えんじょ を送 おく り、ガリツィア公国 こうこく の公子 こうし ダニーロ との争 あらそ いを助 たす けるが、ロスチスラフはダニーロによって打 う ち破 やぶ られる。同年 どうねん 、ハンガリーは王国 おうこく 西側 にしがわ の併合 へいごう を渇望 かつぼう するオーストリア公 こう フリードリヒから再 ふたた び攻撃 こうげき を受 う ける。ライタ川 かわ の戦 たたか いでハンガリー軍 ぐん は敗北 はいぼく するが、この時 とき に勝利 しょうり を収 おさ めたフリードリヒも戦死 せんし した。
1249年 ねん にベーラはバーン (太守 たいしゅ 、大 だい 貴族 きぞく )のSzörényが聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん に入団 にゅうだん することを認 みと めるが、この時期 じき にはモンゴル軍 ぐん が再 ふたた びヨーロッパに侵攻 しんこう する噂 うわさ が広 ひろ まっていた。同年 どうねん 、再 ふたた びロスチスラフの元 もと に援軍 えんぐん を送 おく るが、サン川 かわ の戦 たたか いでロスチスラフとハンガリーの連合 れんごう 軍 ぐん は敗北 はいぼく 、ガリツィアとの和平 わへい の締結 ていけつ に至 いた った。1250年 ねん にズヴォレン で両国 りょうこく は会談 かいだん し、ハンガリーはダニーロとロスチスラフの抗 こう 争 そう に介入 かいにゅう しないことを約束 やくそく した。
フリードリヒの落命 らくめい によってバーベンベルク家 か の男子 だんし は断絶 だんぜつ しており、周辺 しゅうへん の国々 くにぐに は彼 かれ が統治 とうち していたオーストリアとスティリア の統治 とうち 権 けん を巡 めぐ って争 あらそ っていた。バーベンベルク家 か の領地 りょうち の争奪 そうだつ 戦 せん において、1252年 ねん にハンガリーはオーストリア公 こう フリードリヒの姪 めい ゲルトルード(Gertrude of Austria )とガリツィアのダニーロの息子 むすこ ロマンとの結婚 けっこん を取 と りまとめた[ 21] 。同年 どうねん にベーラは軍 ぐん を率 ひき いてウィーン盆地 ぼんち を占領 せんりょう するが、フリードリヒの義兄 ぎけい であるボヘミア王 おう オタカル2世 せい もバーベンベルク家 か の領地 りょうち を要求 ようきゅう した。ベーラはオタカルの支配 しはい 下 か にあるモラヴィア を攻撃 こうげき するが、モラヴィアの主要 しゅよう 都市 とし であるオロモウツ の占領 せんりょう には至 いた らなかった。そのためベーラはローマ教会 きょうかい を介 かい してボヘミアとの和平 わへい を試 こころ み、プレスブルクでのオタカルとの協議 きょうぎ の結果 けっか 、二 に 国 こく の間 あいだ に講和 こうわ が成立 せいりつ する。教皇 きょうこう の調停 ちょうてい により、1254年 ねん のブダの和議 わぎ でフリードリヒの遺 のこ 領 りょう のうちスティリア公 おおやけ 領 りょう がハンガリーの支配 しはい 下 か に入 はい った[ 21] 。
クレッセンブルンの戦 たたか い
1246年 ねん 、ベーラは長子 ちょうし イシュトヴァーン にクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治 とうち を任 まか せるが、息子 むすこ と共同 きょうどう 統治 とうち を行 おこな う意思 いし は無 な かった。しかし、1258年 ねん にイシュトヴァーンはベーラに対抗 たいこう するための軍勢 ぐんぜい を集 あつ め、トランシルヴァニアの統治 とうち 権 けん を譲渡 じょうと するようベーラに迫 せま る。同年 どうねん 、ボヘミアの統治 とうち を望 のぞ むスティリアの貴族 きぞく たちが反乱 はんらん を起 お こし、鎮圧 ちんあつ の軍 ぐん を送 おく らなければならなかった。反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 後 ご 、ベーラはイシュトヴァーンにスティリア公 こう (英語 えいご 版 ばん ) 領 りょう を与 あた える。しかし、オタカル2世 せい の支援 しえん を受 う けたスティリアは再 ふたた び反乱 はんらん を起 お こした。ベーラはイシュトヴァーンとともにボヘミアを攻撃 こうげき するが、1260年 ねん 7月 がつ 12日 にち のクレッセンブルンの戦 たたか い (グロイセンブルン)でハンガリー軍 ぐん は敗北 はいぼく する。戦後 せんご 1261年 ねん のウィーンの和議 わぎ で、ベーラはやむなくスティリア公 おおやけ 領 りょう を手放 てばな した[ 21] 。
スティリアの放棄 ほうき 後 ご 、イシュトヴァーンはスティリアに代 か わる領地 りょうち を要求 ようきゅう するようになる[ 22] 。1261年 ねん にベーラはイシュトヴァーンとブルガリア への共同 きょうどう 出兵 しゅっぺい を行 おこな った。ベーラはイシュトヴァーンの弟 おとうと であるスラヴォニアのベーラとボヘミアに嫁 とつ いだ娘 むすめ アンナを寵愛 ちょうあい しており、イシュトヴァーンとの関係 かんけい は次第 しだい に悪化 あっか していく。
イシュトヴァーンはベーラと対立 たいりつ する貴族 きぞく を集 あつ め、対抗 たいこう する意思 いし を見 み せた[ 22] 。1262年 ねん の夏 なつ にエステルゴム大司教 だいしきょう とカロチャ大司教 だいしきょう の仲介 ちゅうかい によって2人 ふたり はポジョニ(現在 げんざい のブラチスラヴァ)で和議 わぎ を結 むす び、合意 ごうい に基 もと づいてイシュトヴァーンは若 わか 王 おう の称号 しょうごう を与 あた えられドナウ川 がわ 以東 いとう の地域 ちいき を支配 しはい した[ 22] 。しかし、双方 そうほう の支持 しじ 者 しゃ は互 たが いの領地 りょうち を攻撃 こうげき しあい、ベーラとイシュトヴァーンは支持 しじ 者 しゃ を増 ふ やすために王 おう 領 りょう の下賜 かし を乱発 らんぱつ 、王国 おうこく は内戦 ないせん 状態 じょうたい に陥 おちい った[ 22] 。
1267年 ねん に現状 げんじょう に不満 ふまん を抱 いだ く各地 かくち の中小 ちゅうしょう 貴族 きぞく 層 そう はエステルゴムで集会 しゅうかい を開 ひら き、2人 ふたり の王 おう に要求 ようきゅう を突 つ き付 つ けた。国内 こくない の秩序 ちつじょ を回復 かいふく するために2人 ふたり の王 おう は請願 せいがん を受諾 じゅだく し、ベーラ、イシュトヴァーン、スラヴォニア若 わか 公 おおやけ のベーラ3名 めい の名前 なまえ で「1267年 ねん 法令 ほうれい 」が発布 はっぷ される。請願 せいがん には中小 ちゅうしょう 貴族 きぞく の権利 けんり を守 まも る条文 じょうぶん が記 しる され、ベーラが実施 じっし した植民 しょくみん 政策 せいさく や文書 ぶんしょ 主義 しゅぎ に反対 はんたい する条文 じょうぶん も盛 も り込 こ まれていた[ 23] 。
1269年 ねん に寵愛 ちょうあい していたスラヴォニアの若 わか 公 おおやけ ベーラが亡 な くなると、アンナの影響 えいきょう 力 りょく はより強 つよ くなった。最期 さいご までベーラはイシュトヴァーンに心 しん を許 ゆる さず、ボヘミアのオタカルにアンナと彼女 かのじょ の取 と り巻 ま きの保護 ほご を委 ゆだ ねて没 ぼっ した。
モンゴル軍 ぐん が通過 つうか した地域 ちいき は破壊 はかい と略奪 りゃくだつ 、虐殺 ぎゃくさつ によって荒廃 こうはい しており、さらにモンゴル軍 ぐん が去 さ った1242年 ねん には疫病 えきびょう と飢饉 ききん がハンガリーを襲 おそ った[ 20] 。モンゴルの侵入 しんにゅう によって山岳 さんがく 地帯 ちたい では25%から30%、平原 へいげん 部 ぶ では50%から80%もの居住 きょじゅう 区 く が破壊 はかい され、人口 じんこう は半減 はんげん したと言 い われている[ 24] 。荒廃 こうはい した王国 おうこく の復興 ふっこう のため、ベーラは軍事 ぐんじ を中心 ちゅうしん とした改革 かいかく を実施 じっし した。
エステルゴムやセーケシュフェヘールヴァールなどの、モンゴル軍 ぐん の攻撃 こうげき に耐 た えた都市 とし や城砦 じょうさい が石造 いしづく りの城壁 じょうへき を備 そな えていたことを踏 ふ まえ、1240年代 ねんだい 末 まつ から石造 いしづく りの城 しろ の建設 けんせつ に取 と り掛 か かった[ 25] 。モンゴル襲来 しゅうらい 以前 いぜん の施政 しせい を転換 てんかん して貴族 きぞく からの王 おう 領 りょう の回収 かいしゅう を中止 ちゅうし し、新 あら たな領土 りょうど を与 あた えた上 うえ で城 しろ の建設 けんせつ と守備 しゅび 隊 たい の設置 せっち を呼 よ びかける[ 25] 。シャーロシュパタク (英語 えいご 版 ばん ) 、ヴィシェグラード などにはこの時代 じだい の建設 けんせつ 物 ぶつ が今 いま も残 のこ る。
モンゴル侵入 しんにゅう 以前 いぜん に王宮 おうきゅう を置 お いていたエステルゴムは大司教 だいしきょう に委 ゆだ ねられ、ブダに新 あら たな王宮 おうきゅう の建築 けんちく が計画 けいかく される。モンゴルの虐殺 ぎゃくさつ から逃 のが れたブダ・ペシュト近郊 きんこう の村落 そんらく の人々 ひとびと と移民 いみん を丘陵 きゅうりょう 地 ち に住 す まわせ、新 あたら しい城壁 じょうへき と王宮 おうきゅう を建設 けんせつ した[ 26] 。新 あたら しい王宮 おうきゅう を中心 ちゅうしん とした地域 ちいき はブダ 、再建 さいけん された本来 ほんらい のブダはオーブダ (古 ふる いブダ)と呼 よ ばれ、ペシュト とともに今日 きょう のブダペスト の原型 げんけい となる[ 26] 。
宮廷 きゅうてい の維持 いじ 費 ひ は領地 りょうち 、租税 そぜい 、鉱山 こうざん 、塩 しお から得 え られた収入 しゅうにゅう によって賄 まかな われた。また西欧 せいおう との交易 こうえき も活発 かっぱつ に行 おこな われ、牛肉 ぎゅうにく 、ワイン、塩 しお がハンガリーから輸出 ゆしゅつ され、布 ぬの 、絹 きぬ 、香辛料 こうしんりょう が輸入 ゆにゅう された[ 7] 。西欧 せいおう との交易 こうえき で得 え た銀 ぎん は国庫 こっこ に収 おさ められ、未 み 開発 かいはつ のスロバキアでは森林 しんりん と鉱山 こうざん の開発 かいはつ が進 すす められた[ 7] 。
国王 こくおう 軍 ぐん を弓 ゆみ を武器 ぶき とする軽 けい 騎兵 きへい と重 じゅう 武装 ぶそう の兵士 へいし で構成 こうせい しようという試 こころ みがなされ、騎兵隊 きへいたい はモンゴルの撤退 てったい 後 ご に再 ふたた びハンガリーが受 う け入 い れたクマン人 じん や従前 じゅうぜん から辺境 へんきょう 防衛 ぼうえい を担当 たんとう していたセーケイ人 じん などで編成 へんせい された[ 25] 。西欧 せいおう の騎士 きし をモデルとした重 じゅう 武装 ぶそう の兵士 へいし を生 う み出 だ すため、王国 おうこく 北部 ほくぶ の王 おう 領 りょう に新興 しんこう の小 しょう 領主 りょうしゅ 層 そう を創設 そうせつ し、彼 かれ らに兵力 へいりょく の供給 きょうきゅう を求 もと めた[ 27] 。
同時 どうじ に植民 しょくみん 政策 せいさく も進 すす められ、都市 とし の自治 じち 特権 とっけん の承認 しょうにん や農村 のうそん 地帯 ちたい の入植 にゅうしょく 者 しゃ への付与 ふよ が行 おこな われる。空白 くうはく 地 ち ではドイツ人 じん 、ルーマニア人 じん 、ルテニア人 じん の入植 にゅうしょく が進 すす められ[ 2] 、彼 かれ らには「客人 きゃくじん 」としての特権 とっけん が付与 ふよ された。分散 ぶんさん した所領 しょりょう を一 ひと つにまとめようとする大 だい 貴族 きぞく たちも植民 しょくみん に熱心 ねっしん であり、広大 こうだい 化 か した領地 りょうち に移住 いじゅう した領民 りょうみん に一定 いってい の権利 けんり と自由 じゆう を付与 ふよ した[ 28] 。中小 ちゅうしょう 貴族 きぞく のもとで悪条件 あくじょうけん に置 お かれていた領民 りょうみん たちは王 おう 領 りょう や大 だい 貴族 きぞく の領地 りょうち に移 うつ り、農民 のうみん の地位 ちい の向上 こうじょう につながった[ 28] 。
都市 とし 民 みん の自治 じち とともに、大 だい 貴族 きぞく への対抗 たいこう 策 さく として小 しょう 領主 りょうしゅ の権利 けんり が認 みと められ、モンゴル侵入 しんにゅう に際 さい してハンガリー国外 こくがい に移動 いどう したクマン人 じん とヤース人 じん が再 ふたた び呼 よ び戻 もど された。ドナウ・ティサ川間 かわま の地域 ちいき がクマン人 じん の居住 きょじゅう 区 く に定 さだ められ、王室 おうしつ とクマン人 じん の結 むす びつきを強化 きょうか するために王子 おうじ イシュトヴァーンとクマン人 じん 族長 ぞくちょう の娘 むすめ との婚姻 こんいん が成立 せいりつ した[ 29] 。
改革 かいかく の結果 けっか 、県 けん の統治 とうち は貴族 きぞく に委 ゆだ ねられ、各 かく 県 けん から中央 ちゅうおう の立法 りっぽう 議会 ぎかい に代表 だいひょう が送 おく られるようになった[ 2] 。改革 かいかく は荒廃 こうはい した国土 こくど の復興 ふっこう においては一定 いってい の成功 せいこう を収 おさ めたが、従来 じゅうらい の家産 かさん 制 せい 的 てき 支配 しはい に代 か わる新 あたら しい支配 しはい 体制 たいせい の導入 どうにゅう には至 いた らなかった[ 30] 。また、貴族 きぞく の政界 せいかい への進出 しんしゅつ 、ハンガリー人 じん とクマン人 じん の対立 たいりつ といった問題 もんだい も残 のこ る[ 2] 。
ブダペストの英雄 えいゆう 広場 ひろば に建 た てられたベーラ4世 せい の像 ぞう
1218年 ねん に皇女 おうじょ マリア・ラスカリナ (ニカエア帝国 ていこく 皇帝 こうてい テオドロス1世 せい ラスカリス と皇后 こうごう アンナ・アンゲリナ の次女 じじょ )と結婚 けっこん し、9子 し が生 う まれた。
アールパード朝 あさ の断絶 だんぜつ 後 ご にハンガリー王位 おうい を争 あらそ い、相次 あいつ いで即位 そくい したヴェンツェル(ヴァーツラフ3世 せい )、オットー 、カーロイ1世 せい の3人 にん の王 おう は、いずれもベーラ4世 せい の子孫 しそん である。
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薩摩 さつま 秀 しゅう 登 とう 「ドナウ・ヨーロッパの形成 けいせい 」『ドナウ・ヨーロッパ史 し 』収録 しゅうろく (南塚 みなみづか 信吾 しんご 編 へん 、新版 しんぱん 世界 せかい 各国 かっこく 史 し 、山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1999年 ねん 3月 がつ )
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パムレーニ・エルヴィン編 へん 『ハンガリー史 し 1』増補 ぞうほ 版 ばん (田代 たしろ 文雄 ふみお 、鹿島 かしま 正裕 まさひろ 訳 やく 、恒文社 こうぶんしゃ 、1990年 ねん 2月 がつ )
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