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聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん の旗 はた
聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん (せいヨハネきしだん)は、11世紀 せいき に起源 きげん を持 も つ宗教 しゅうきょう 騎士 きし 団 だん 。テンプル騎士 きし 団 だん 、ドイツ騎士 きし 団 だん と共 とも に、中世 ちゅうせい ヨーロッパの三 さん 大 だい 騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい の1つに数 かぞ えられる。
本来 ほんらい は聖地 せいち 巡礼 じゅんれい に訪 おとず れたキリスト教徒 きりすときょうと の保護 ほご を任務 にんむ としたが、聖地 せいち 防衛 ぼうえい の主力 しゅりょく として活躍 かつやく した。ホスピタル騎士 きし 団 だん (Knights Hospitaller)ともいい、本拠地 ほんきょち を移 うつ すに従 したが ってロドス騎士 きし 団 だん 、マルタ騎士 きし 団 だん とも呼 よ ばれるようになった。現在 げんざい の正式 せいしき 名称 めいしょう は「エルサレム、ロードス及 およ びマルタにおける聖 ひじり ヨハネ主権 しゅけん 軍事 ぐんじ 病院 びょういん 騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい 」(ラテン語 らてんご : Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis 、イタリア語 ご : Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme )である。一般 いっぱん に「マルタ騎士 きし 団 だん 」と呼 よ ばれる。
1291年 ねん のアッコン包囲 ほうい 戦 せん で、城壁 じょうへき 上 じょう で戦 たたか う騎士 きし 団 だん 。1840年 ねん 頃 ころ の絵画 かいが
聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん の歴史 れきし は1023年 ねん ごろ、アマルフィ の商人 しょうにん がエルサレム の洗礼 せんれい 者 しゃ ヨハネ修道院 しゅうどういん の跡 あと に病院 びょういん を兼 か ねた巡礼 じゅんれい 者 しゃ 宿泊 しゅくはく 所 しょ を設立 せつりつ したことに始 はじ まる。第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん の後 のち 、プロヴァンス のジェラールの努力 どりょく によって、1113年 ねん に教皇 きょうこう パスカリス2世 せい から騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい として正式 せいしき な承認 しょうにん を得 え て、1119年 ねん に設立 せつりつ されたテンプル騎士 きし 団 だん と同様 どうよう に徐々 じょじょ に軍事 ぐんじ 的 てき 要素 ようそ を強 つよ めていった。ただし、この時代 じだい は主 おも に病院 びょういん (ホスピタル )騎士 きし 団 だん と呼 よ ばれる様 よう に、最大 さいだい 2,000人 にん が収容 しゅうよう 可能 かのう といわれた病院 びょういん や宿泊 しゅくはく 施設 しせつ も従来 じゅうらい どおり運営 うんえい されており、騎士 きし 出身 しゅっしん の修道 しゅうどう 士 し も平時 へいじ には病院 びょういん での医療 いりょう 奉仕 ほうし が義務付 ぎむづ けられ(騎士 きし と呼 よ ばれていても、公的 こうてき には修道 しゅうどう 請願 せいがん を立 た てた修道 しゅうどう 士 し であり、本来 ほんらい 的 てき な意味 いみ での騎士 きし ではない)、設立 せつりつ 時 じ の趣旨 しゅし を色濃 いろこ く残 のこ していた。当時 とうじ 、この騎士 きし 団 だん に入 はい ることは大変 たいへん な栄誉 えいよ とされていたが、その代償 だいしょう として騎士 きし 団 だん 在籍 ざいせき 中 ちゅう は如何 いか なる理由 りゆう があっても結婚 けっこん が禁止 きんし された。
騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい は十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか の防衛 ぼうえい の主力 しゅりょく となり、聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん だけで2つの大 だい 要塞 ようさい [1] と140の砦 とりで を守 まも っていた。1187年 ねん にエルサレムが陥落 かんらく した後 のち も、トリポリ やアッコン を死守 ししゅ していたが、1291年 ねん 、ついに最後 さいご のキリスト教徒 きりすときょうと の砦 とりで アッコン が陥落 かんらく した後 こう は、キプロス に逃 のが れた。この後 のち は海軍 かいぐん (実態 じったい は海賊 かいぞく )となってイスラーム 勢力 せいりょく と戦 たたか ったが、キプロス王 おう が騎士 きし 団 だん の存在 そんざい を恐 おそ れたこともあり、1309年 ねん に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう であったロドス島 とう を奪 うば いここに本拠地 ほんきょち を移 うつ した。これ以降 いこう 、ロドス騎士 きし 団 だん と呼 よ ばれるようになる。
1312年 ねん にテンプル騎士 きし 団 だん の資産 しさん が没収 ぼっしゅう されたとき、かなりの部分 ぶぶん が聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん に与 あた えられた。また、中東 ちゅうとう のイスラーム教徒 きょうと と戦 たたか う唯一 ゆいいつ の主要 しゅよう な騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい となったため、西欧 せいおう から多額 たがく の寄進 きしん を受 う けることができた。
騎士 きし 団 だん の構成 こうせい 員 いん は騎士 きし が500人 にん 程度 ていど で、母国 ぼこく 語 ご によって8つ[2] の騎士 きし 館 かん グループ に分 わ かれていた。各 かく グループ毎 ごと に騎士 きし 館長 かんちょう (戦闘 せんとう の際 さい には部隊 ぶたい 長 ちょう となる)がおり、全体 ぜんたい を騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう が統率 とうそつ した。各 かく 騎士 きし 館 かん の構成 こうせい 員 いん の人数 にんずう が常 つね に均等 きんとう であったことはなく、フランス人 じん の3騎士 きし 館 かん 、スペインの2騎士 きし 館 かん [3] の人数 にんずう が突出 とっしゅつ していた。
1444年 ねん にはマムルーク朝 あさ のスルターン 、1480年 ねん にはオスマン帝国 ていこく のメフメト2世 せい の襲撃 しゅうげき を受 う けたが、騎士 きし 団 だん はこれを撃退 げきたい した。西欧 せいおう では久 ひさ しぶりのオスマン・イスラーム勢力 せいりょく に対 たい する勝利 しょうり として騎士 きし 団 だん の評判 ひょうばん は高 たか まったが、1522年 ねん 、オスマン帝国 ていこく のスレイマン大帝 たいてい が400隻 せき の船団 せんだん と20万 まん 人 にん の兵 へい で来襲 らいしゅう した 。対 たい する騎士 きし 団 だん 側 がわ は雑兵 ぞうひょう まで含 ふく めて7千 せん 人 にん ばかりで、必死 ひっし の防戦 ぼうせん を繰 く り広 ひろ げたが衆寡 しゅうか 敵 てき せず、ついにロドス島 とう を明 あ け渡 わた してシチリア島 とう に撤退 てったい した。
再 ふたた び本拠地 ほんきょち をなくした騎士 きし 団 だん だが、教皇 きょうこう クレメンス7世 せい と神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい の斡旋 あっせん により、シチリア 王 おう からマルタ島 とう を借 か りることになった。賃貸 ちんたい 料 りょう は毎年 まいとし 「マルタの鷹 たか 」1羽 わ である。このマルタ島 とう でも、ロドス島 とう のときと同様 どうよう にイスラームやヴェネツィア のユダヤ人 じん に対 たい し海賊 かいぞく 行為 こうい を行 おこな い、マルタ島 とう はイスラーム教徒 きょうと やユダヤ人 じん の奴隷 どれい 売買 ばいばい の中心 ちゅうしん 地 ち となった。
1565年 ねん に再 ふたた びオスマン帝国 ていこく の大船 おおぶね 団 だん に襲 おそ われることになるが、スペイン の救援 きゅうえん とスレイマン1世 せい の死 し (1566年 ねん )によって、辛 かろ うじて防衛 ぼうえい に成功 せいこう した。このときオスマン軍 ぐん 撃退 げきたい に活躍 かつやく した騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう ジャン・ド・ラ・ヴァレット にちなんでマルタ島 とう の主 しゅ 要港 ようこう がヴァレッタ と名付 なづ けられた。続 つづ く1571年 ねん のレパントの海戦 かいせん でもマルタ騎士 きし 団 だん の船 ふね が参加 さんか している。
16世紀 せいき に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が盛 さか んになると、西欧 せいおう 各地 かくち の騎士 きし 団 だん 領 りょう は没収 ぼっしゅう されるようになり、その力 ちから と存在 そんざい 意義 いぎ は次第 しだい に失 うしな われていった。17世紀 せいき には、ロシア海軍 かいぐん やフランス海軍 かいぐん の一部 いちぶ として組 く み込 こ まれるようになった。
1798年 ねん 、ナポレオン・ボナパルト がエジプト遠征 えんせい の際 さい にマルタ島 とう を奪 うば った ため、根拠地 こんきょち を失 うしな った騎士 きし 団 だん は正教 せいきょう 国家 こっか であるロシア帝国 ていこく を頼 たよ り、1801年 ねん にロシア皇帝 こうてい パーヴェル1世 せい を騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう に選 えら んだ。1803年 ねん には再 ふたた びカトリック の総長 そうちょう に戻 もど るが、これ以降 いこう は求心力 きゅうしんりょく を失 うしな い、各地 かくち の支部 しぶ が独自 どくじ に活動 かつどう するようになる。1834年 ねん に本部 ほんぶ はローマ に移 うつ った。
その
系譜 けいふ に
連 つら なる
現在 げんざい の
主要 しゅよう な
組織 そしき については「
マルタ騎士 きし 団 だん 」を
参照 さんしょう
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橋口 はしぐち 倫 りん 介 かい 『十字軍 じゅうじぐん 騎士 きし 団 だん 』講談社 こうだんしゃ 、1994年 ねん
Gilles C. H. Nullens『正統 せいとう と異端 いたん 第 だい 二 に 巻 かん :テンプル騎士 きし 団 だん とヨハネ騎士 きし 団 だん 』無頼 ぶらい 出版 しゅっぱん 、2007年 ねん