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カスティーリャ王国おうこく

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カスティーリャ王国おうこく
Reino de Castilla (スペイン)
レオン王国
ナバーラ王国
アラゴン王国
1035ねん - 1715ねん スペイン王国
カスティーリャ王国の国旗 カスティーリャ王国の国章
王室おうしつくにあきら
カスティーリャ王国の位置
カスティーリャ王国おうこく版図はんと変遷へんせん
言語げんご スペイン
バスク
モサラベ
アル・アンダルス=アラビア
国教こっきょう カトリック
宗教しゅうきょう ユダヤきょう
イスラム教いすらむきょう
首都しゅと ブルゴストレドマドリード
国王こくおう
1035ねん - 1065ねん フェルナンド1せい
ヒメノ初代しょだい
1217ねん - 1252ねんフェルナンド3せい
ボルゴーニャだい6だい
1474ねん - 1504ねんイサベル1せい
トラスタマラだい6だい
1516ねん - 1556ねんカルロス1せい
ハプスブルク神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せい
1700ねん - 1715ねんフェリペ5せい
(フランス国王こくおうルイ14せいまごブルボンちょうスペイン成立せいりつ
変遷へんせん
独立どくりつ 1035ねん
アラゴン王国おうこくとカスティーリャ王国おうこく同君どうくん連合れんごう成立せいりつ1469ねん
消滅しょうめつ1715ねん
現在げんざいスペインの旗 スペイン

カスティーリャ王国おうこく(カスティーリャおうこく、スペイン: Reino de Castilla)は、中世ちゅうせいヨーロッパイベリア半島はんとう中央ちゅうおうにあった王国おうこくである。キリストきょうこくによるレコンキスタ国土こくど回復かいふく運動うんどう)において主導しゅどうてき役割やくわりたし、スペイン王国おうこく中核ちゅうかくとなった。

Castillaの日本語にほんご表記ひょうきは、カスティーリャ、カスティーリヤカスティリャカスティーリァカスティーリアカスティリアカスティーヤカスチラカストリヤカストリアカステリヤカステリアカスティージャ様々さまざまおとうつされている。また菓子かしカステラは、王国おうこくめいポルトガル発音はつおんである「カステーラ」(Castela)からとされている。

カスティーリャはくりょう

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8世紀せいき初頭しょとうイスラム教いすらむきょう勢力せいりょくがイベリア半島はんとう侵略しんりゃくキリスト教きりすときょう勢力せいりょく半島はんとう北端ほくたんカンタブリア山脈さんみゃく以北いほくおよび北東ほくとうピレネー山脈さんみゃく山麓さんろく周辺しゅうへんいつめられた。カンタブリア山脈さんみゃくきたではアストゥリアス王国おうこく成立せいりつ、イスラムぐん衝突しょうとつしつつも、徐々じょじょ南方なんぽう領域りょういきひろげていき、914ねんレオン遷都せんとした(これ以降いこうレオン王国おうこくばれる)。

レオン王国おうこく東部とうぶ地域ちいきは、メセータばれるまわりを山々やまやまかこまれる高原こうげんひろがり、つねにイスラムぐん侵攻しんこうルートとして使つかわれ、戦闘せんとうかえされた。この地域ちいき住人じゅうにんは、防衛ぼうえいのためおおくの城塞じょうさいつくった。この地域ちいきカスティーリャばれるようになったのは、スペインしろ意味いみするカスティーリョ(castillo)に由来ゆらいするとわれる。当初とうしょこの複数ふくすうはくりょうかれていたが、最前線さいぜんせんとしての軍事ぐんじりょく強化きょうか目的もくてきとして、932ねんにカスティーリャはくりょうとして統合とうごうされた。カスティーリャはくフェルナン・ゴンサレスは、レオン王国おうこくないでの地位ちいつよめ、はくりょうたいする王国おうこく支配しはいりょく排斥はいせきし、961ねんには事実じじつじょう独立どくりつした。

1029ねんに、カスティーリャはくガルシア・サンチェス暗殺あんさつされると、そのいもうととしていたナバラおうサンチョ3せいはくりょう継承けいしょうし、ナバラ王国おうこく併合へいごうした。このころ、イベリア半島はんとう中部ちゅうぶおよび南部なんぶのイスラムけんアル=アンダルス)ではこうウマイヤあさ内紛ないふん衰退すいたいし、タイファばれる小国しょうこく乱立らんりつする群雄割拠ぐんゆうかっきょ時代じだいかっていた。タイファのおおくはキリスト教きりすときょうこくのナバラにみつげおさめしつつ、タイファあいだでの戦争せんそうによりますます疲弊ひへいしていった。

カスティーリャ=レオン王国おうこく

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サンチョ3せい時代じだいあかがナバラ王国おうこくで、カスティーリャはそのもっと西にしぎゃくT字形じけい部分ぶぶん
1210ねんのイベリア半島はんとう

1035ねんにサンチョ3せい死去しきょすると、ナバラ王らおう国領こくりょうは4にん王子おうじによって分割ぶんかつ相続そうぞくされた。カスティーリャを相続そうぞくした次男じなんフェルナンド1せいはカスティーリャおうしょうし、1037ねんにはレオンおうベルムード3せいたおしてレオン王位おういをも獲得かくとくする。こうしてカスティーリャ=レオン王国おうこく誕生たんじょうした。

フェルナンド1せい死後しご分割ぶんかつ相続そうぞくされたが(1065ねん)、カスティーリャおうとなった長男ちょうなんサンチョ2せいおとうといもうとらの領地りょうちちからずくでさい統合とうごうすべく行動こうどうこす。しかし、最後さいごのこった都市としサモラ攻囲こういちゅう1072ねんにサンチョ2せい暗殺あんさつされた。その結果けっか亡命ぼうめいしていたおとうとのレオンおうアルフォンソ6せい同年どうねんにカスティーリャの王位おういて、ふたたりょう王国おうこく同君どうくん連合れんごうとなった。

アルフォンソ6せい1085ねん、イスラムこくトレド攻略こうりゃくし、さらに支配しはい領域りょういき拡大かくだいさせようとした。危機ききかんいたタイファ諸国しょこくは、アフリカのムラービトあさ援助えんじょもとめた。ムラービトあさはそれにこたえて1086ねんへい上陸じょうりくさせ、サグラハスのたたかにおいてアルフォンソ6せいひきいるカスティーリャぐん撃破げきはした。やぶれたアルフォンソ6せいはトレドまで撤退てったいした。決戦けっせんやぶれはしたが、アルフォンソ6せいはイベリア半島はんとう中央ちゅうおうながれるタホがわ流域りゅういき以北いほくキリスト教きりすときょうけんとすることに成功せいこうした。一方いっぽう南部なんぶのアル=アンダルスでは、ムラービトあさによってタイファ諸国しょこく併合へいごうされ、統一とういつされた。

アルフォンソ7せい時代じだいに、カスティーリャ王国おうこくからポルトガル王国おうこく独立どくりつした(1143ねん)。また、ムラービトあさわりムワッヒドあさがイベリア半島はんとう南部なんぶ統治とうちする。1157ねんにムワッヒドぐん包囲ほういされたアルメリア救援きゅうえんわず、カスティーリャへ帰還きかんする途中とちゅうにアルフォンソ7せい死亡しぼうすると、カスティーリャ=レオン王国おうこく2人ふたり息子むすこ再度さいど分割ぶんかつ相続そうぞくされ、サンチョ3せいのカスティーリャ王国おうこくフェルナンド2せいのレオン王国おうこくとにかれた。カスティーリャは、ひがしとなりアラゴン連合れんごう王国おうこくとは条約じょうやく国境こっきょうさだめていたが、西にしとなりのレオン、ポルトガルとは国境こっきょうせんをめぐって戦闘せんとうかえされた。ムワッヒドあさとのたたかいも進展しんてんせず、一進一退いっしんいったいかえしていた。

このような状況じょうきょうで、教皇きょうこうインノケンティウス3せいは、キリストきょう諸国しょこくあいだあらそいをやめ、カスティーリャおうアルフォンソ8せい指揮しき一致いっち団結だんけつしてたいイスラム戦争せんそう邁進まいしんすることをめいじた。これにしたがい、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国かっこくへい、さらにテンプル騎士きしだんなどの騎士きし修道しゅうどうかいやフランスの司教しきょうひきいられた騎士きしらが集結しゅうけつした。ムワッヒドあさカリフムハンマド・ナースィルも10まん以上いじょうへいあつめ、キリストきょう連合れんごうぐんやぶるべく北上ほくじょうする。りょうぐん1212ねん7がつ16にちラス・ナバス・デ・トロサ決戦けっせんし、キリストきょう連合れんごうぐん勝利しょうりした(ラス・ナバス・デ・トロサのたたか)。このたたかいによって、ムワッヒドあさはイベリア半島はんとうでの支配しはいりょくうしない、イスラム勢力せいりょくけんふたた小国しょうこく乱立らんりつ状態じょうたいとなり、そのおおくはタイファ同士どうし主導しゅどうけんあらそいでやぶれたり、いきおいづいたキリスト教きりすときょう諸国しょこく餌食えじきになり、ほろびた。そのなかグラナダ首都しゅととするナスルあさグラナダ王国おうこく成立せいりつする。

カスティーリャ王国おうこく統一とういつ

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カスティーリャおうアルフォンソ8せいむすめベレンゲラとレオンおうアルフォンソ9せいとのあいだまれたフェルナンド3せいは、1217ねんははから王位おういゆずられカスティーリャおうとなっていたが、ちちともな1230ねんにレオン王位おうい継承けいしょうした。レオンとカスティーリャはふたた同君どうくん連合れんごうとなったが、これ以降いこう両国りょうこくかれることはなかったため、たんカスティーリャ王国おうこくばれる。

1236ねんコルドバ攻略こうりゃく成功せいこう1246ねんにはナスルあさ臣従しんじゅうさせる。1248ねんセビリア攻略こうりゃくには、ナスルあさからもへい拠出きょしゅつさせ、長期ちょうきせんすえ陥落かんらくさせた。こうして、イベリア半島はんとうのイスラムこくはナスルあさグラナダ王国おうこくのみとなった。

フェルナンド3せいのちいだアルフォンソ10せいは、カスティーリャとレオンでことなっている政治せいじ制度せいど法律ほうりつ通貨つうか税制ぜいせい度量衡どりょうこうなどの統一とういつにとりかかり、ローマほうもとに『なな法典ほうてん』を編纂へんさんした。首都しゅとトレドではトレド翻訳ほんやく学派がくはばれる学者がくしゃ集団しゅうだん努力どりょくやアルフォンソ10せい支援しえんアラビアかれた医学いがく数学すうがく天文学てんもんがく著作ちょさくラテン語らてんご翻訳ほんやくされ、ヨーロッパにもたらされた。

アルフォンソ11せいは『なな法典ほうてん』を実施じっしうつした。グラナダ王国おうこくは、アフリカのマリーンあさ提携ていけいしてカスティーリャ王国おうこく対抗たいこうしていたが、1340ねんサラードのたたかでカスティーリャぐん勝利しょうりし、マリーンあさにイベリア半島はんとうからかせ、グラナダ王国おうこく孤立こりつさせた。しかし、グラナダを攻略こうりゃくすることはできなかった。1343ねんカタルーニャ上陸じょうりくしたペストは、翌年よくねんカスティーリャでも猛威もういるい、ぜん人口じんこうの2わりちかくが死亡しぼうした。また、王権おうけん強化きょうか目指めざおう下級かきゅう貴族きぞく登用とうようし、有力ゆうりょく貴族きぞくさえようとするが、既得きとくけんまもりたい有力ゆうりょく貴族きぞく反発はんぱつし、王位おうい継承けいしょうけんをめぐるあらそいに発展はってんする。ペドロ1せい庶子しょしであるエンリケ2せい王位おうい継承けいしょうけんあらそいは、アラゴン、グラナダ、さらには、ひゃくねん戦争せんそうなかのフランスとイングランドの介入かいにゅうまねき、戦乱せんらん拡大かくだいする(だいいちカスティーリャ継承けいしょう戦争せんそう)。エンリケ2せいいちはペドロ1せいやぶれるが(ナヘラのたたか)、1369ねんにペドロ1せいモンティエルのたたか戦死せんし、エンリケ2せいがカスティーリャおう即位そくいし、トラスタマラあさひらかれた。

トラスタマラあさ

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イサベル1せいがカスティーリャおう即位そくいした1474ねんにおけるイベリア半島はんとう勢力せいりょく地図ちず
グラナダの降伏ごうぶく英語えいごばん』。右側みぎがわがカトリックりょうおう(イサベルとフェルナンド)

エンリケ3せい死去しきょすると、息子むすこフアン2せい即位そくいし、エンリケ3せいおとうとフェルナンドが摂政せっしょうとなった。フェルナンドは1410ねんたいグラナダ戦争せんそう開始かいしし、アンテケーラ攻略こうりゃくした。フェルナンドは1412ねんアラゴンおう選出せんしゅつされ(カスペの妥協だきょう)、フェルナンド1せいとなるが、そのもカスティーリャの宮廷きゅうてい影響えいきょうりょくおよぼしつづけた。フェルナンド1せい死後しご息子むすこたちが権勢けんせいるっていたが、成人せいじんしたフアン2せいとカスティーリャ貴族きぞくらはこれを追放ついほう、アラゴンとの関係かんけい悪化あっかした。

エンリケ4せい有力ゆうりょく貴族きぞくらとのあいだあらそったが、1468ねんにトロス・デ・ギサント協定きょうていむすび、王位おうい継承けいしょうしゃむすめフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族きぞくらが異母いぼいもうとイサベル1せいとすることに同意どういした。1474ねんにイサベル1せい即位そくいすると、アラゴンおう太子たいしであるおっとフェルナンド5せい共同きょうどう統治とうちしゃとした。一方いっぽう、ポルトガル王妃おうひとなっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王じょおう即位そくい宣言せんげんし、カスティーリャはイサベル支持しじとフアナ支持しじとに分裂ぶんれつする。フアナ支持しじとポルトガルの連合れんごうぐんたいし、イサベルとアラゴンの連合れんごうぐん戦闘せんとう勝利しょうりし、1479ねん、ポルトガルはイサベルの王位おうい継承けいしょう承認しょうにんした。同年どうねんにフェルナンドもアラゴンおう即位そくいし(アラゴンおうとしてはフェルナンド2せい)、カスティーリャとアラゴンが同君どうくん連合れんごうとなった。イサベルとフェルナンドは国内こくない反対はんたい討伐とうばつしたのち1482ねんに、たいグラナダ戦争せんそう開始かいしする。そして1492ねん、グラナダは陥落かんらくし、レコンキスタは終結しゅうけつした。

1504ねんにイサベルが死去しきょすると、ハプスブルクとついでいたむすめフアナ女王じょおう即位そくい、フェルナンド5せい摂政せっしょうとなった。1515ねん、ナバラ王国おうこく併合へいごうし、イベリア半島はんとうはカスティーリャ=アラゴン連合れんごう王国おうこく(すなわちスペイン王国おうこく)とポルトガル王国おうこくの2ヶ国かこくとなった。

新大陸しんたいりく

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1492ねんクリストファー・コロンブス西にしインド諸島しょとう到達とうたつ1494ねんにポルトガルとのあいだ締結ていけつされたトルデシリャス条約じょうやくもとづき、カスティーリャ王国おうこくは、アメリカ大陸あめりかたいりくをその領土りょうどにする。

スペイン王国おうこく

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フェルナンド5せい死去しきょすると、まごカルロス1せいアラゴン、カスティーリャりょうおう即位そくいする。これにより、ハプスブルクちょうスペイン成立せいりつする。ただしこの時点じてんでは、カスティーリャ王国おうこくスペイン構成こうせいするくにの1つとして、政治せいじてき独自どくじせい保持ほじつづけた。カスティーリャ王国おうこくがスペイン王国おうこく糾合きゅうごうされ正真正銘しょうしんしょうめい消滅しょうめつするのは、スペインが没落ぼつらくし、スペイン継承けいしょう戦争せんそうブルボンちょうスペイン成立せいりつしたのちフェリペ5せい時代じだいに、おそまきながら国内こくない中央ちゅうおう集権しゅうけん実施じっしされたときであった。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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