フェリペ5せい (スペインおう)

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フェリペ5せい
Felipe V
スペイン国王こくおう
在位ざいい 1700ねん11月16にち - 1724ねん1がつ15にち
1724ねん9月6にち - 1746ねん7がつ9にち
べつごう アンジューこう
シチリア国王こくおう
ナポリ国王こくおう
サルデーニャ国王こくおう

出生しゅっしょう (1683-12-19) 1683ねん12月19にち
フランス王国おうこくヴェルサイユ
死去しきょ (1746-07-09) 1746ねん7がつ9にち(62さいぼつ
スペイン帝国ていこくマドリード
埋葬まいそう スペイン帝国ていこくラ・グランハ宮殿きゅうでん
配偶はいぐうしゃ マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア
  エリザベッタ・ファルネーゼ
子女しじょ ルイス1せい
フェルナンド6せい
カルロス3せい
マリアナ・ビクトリア
フェリペ
マリア・テレサ・アントニア・ラファエラ
ルイス・アントニオ
マリア・アントニエッタ
家名かめい スペイン・ブルボン
王朝おうちょう スペイン・ブルボンあさ
父親ちちおや フランスおう太子たいしルイ(グラン・ドーファン)
母親ははおや マリー・アンヌ・ド・バヴィエール
サイン
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フェリペ5せい(Felipe V, 1683ねん12月19にち - 1746ねん7がつ9にち)は、スペイン・ボルボン(ブルボン)あさ最初さいしょ国王こくおう在位ざいい1700ねん - 1724ねん、1724ねん - 1746ねん)で[1]フランス国王こくおうルイ14せいスペイン・ハプスブルク(アブスブルゴ出身しゅっしん王妃おうひマリー・テレーズ長男ちょうなんルイ(グラン・ドーファン)の次男じなんははバイエルンせんみかどこうフェルディナント・マリアむすめマリー・アンヌ・ド・バヴィエール数次すうじ中断ちゅうだんはさみながら、ボルボンあさげん国王こくおうフェリペ6せいまでつづいている。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

アンジューこう時代じだい[編集へんしゅう]

フェリペ5せいヴェルサイユ宮殿きゅうでんフランス王子おうじフィリップ(Philippe)としてまれ、アンジューおおやけさづけられた。あにブルゴーニュこうルイルイ15せいちち、プチ・ドーファンとばれる)が、おとうとベリーこうシャルルがいる。また、神聖しんせいローマ皇帝こうていけんバイエルンせんみかどこうカール7せいケルンせんみかどこうクレメンス・アウグスト兄弟きょうだい母方ははかた従弟じゅうていたる。

アブスブルゴあさ最後さいごおうとなったカルロス2せいには子供こどもがなく、王位おうい継承けいしょうしゃ問題もんだいとなっていた。カルロス2せいはまず、バイエルンせんみかどこうマクシミリアン2せいエマヌエル(マリー・アンヌのおとうと)の息子むすこヨーゼフ・フェルディナント王位おうい継承けいしょうしゃ指名しめいし、アストゥリアスこうさづけた。カルロス2せい同母どうぼあねマルガリータ・テレサまごだったからであるが、ヨーゼフ・フェルディナントは1699ねん早世そうせいした。

ルイ14せいはこれを好機こうきとして、自分じぶんもの王位おういにつけようと画策かくさくした。フランスとスペインの王位おうい継承けいしょうけんねることは反発はんぱつつよかったが、まごでヨーゼフ・フェルディナントの従兄じゅうけいたるアンジューこうフィリップを候補者こうほしゃした。フィリップの祖母そぼマリー・テレーズはマルガリータ・テレサとカルロス2せい異母いぼあねであり、ルイ14せい自身じしんははアンヌがスペイン王女おうじょであったことから、フィリップはスペイン王家おうけ色濃いろこいていた。カルロス2せいは、フィリップのフランス王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうき条件じょうけんに、フィリップをスペイン王位おうい継承けいしょうしゃ指名しめいし、スペイン本国ほんごくぜん領土りょうど一括いっかつ相続そうぞくめいじて1700ねん11月にぼっした。ルイ14せいは、フィリップに、フランス王位おうい継承けいしょうけん保持ほじさせたまま、「フェリペ5せい」を名乗なのらせてスペインおう即位そくいさせた。フィリップはよく1701ねんにスペインの首都しゅとマドリード入城にゅうじょうした。

しかし、フランスの勢力せいりょく拡大かくだいこころよおもわなかった各国かっこくはフィリップの即位そくい反対はんたいとなえた。スペインりょう一括いっかつ相続そうぞくという事情じじょうくわえて、フィリップがフランス王位おうい継承けいしょうけん保持ほじしていたことと、アメリカの奴隷どれい貿易ぼうえき独占どくせんけんをフランスの貿易ぼうえき会社かいしゃ譲渡じょうとしたこと、スペインりょうネーデルラントをフランスぐん占領せんりょうしてオランダ威嚇いかくしたことからオランダ・イギリス不満ふまんいた。とくに、アブスブルゴあさ同族どうぞくであるオーストリア・ハプスブルクは、同家どうけによるおうみつる継続けいぞくをさせるべく戦争せんそう仕掛しかけた。それがスペイン継承けいしょう戦争せんそうである[2]

スペイン継承けいしょう戦争せんそう[編集へんしゅう]

フェリペ5せいはマドリードりした当初とうしょはいくつもの連合れんごう王国おうこく出来できていたスペインの事情じじょうから、それぞれの王国おうこくほう従来じゅうらいどお尊重そんちょうする宣言せんげんした。1702ねんにはイタリア戦線せんせんおもむいてフランスぐん手助てだすけしている。しかし、1703ねんポルトガルがイギリスとメシュエン条約じょうやく締結ていけつ、ポルトガルがてきまわり、1704ねんにイギリスにジブラルタルうばわれた。1705ねんになると戦争せんそうじょう徴兵ちょうへい徴税ちょうぜいすすめたフェリペ5せい反発はんぱつしたカタルーニャアラゴンバレンシア同盟どうめいがわまわり、ハプスブルクがスペインおうしていたカール大公たいこう擁立ようりつした同盟どうめいぐんバルセロナ占拠せんきょだい1バルセロナ包囲ほういせん)、スペインはフェリペ5せいとカルロス3せいしょうしたカール大公たいこうに2ふんされた。

よく1706ねんにフランスぐんともにバルセロナの奪還だっかんはかったが失敗しっぱいだい2バルセロナ包囲ほういせん)、ぎゃく同盟どうめいぐんにマドリードをうばわれ一時いちじブルゴス退去たいきょした。しかし、フランスの将軍しょうぐんベリックこうがマドリードを奪還だっかんしてからは優勢ゆうせいとなり、1707ねん4がつ25にちにフランス・スペイン連合れんごうぐん指揮しきったベリックがイギリス・ポルトガル・オランダ連合れんごうぐんアルマンサのたたか大勝たいしょうするとアラゴン・バレンシアの征服せいふくたし、1710ねんにフランスの将軍しょうぐんヴァンドームこうブリウエガのたたかビリャビシオーサのたたか連勝れんしょうしてスペイン戦線せんせん決定的けっていてき優位ゆういった。1713ねんユトレヒト条約じょうやく同盟どうめいぐん撤退てったい、カール大公たいこうともよく1714ねんラシュタット条約じょうやく和睦わぼくのこったカタルーニャはバルセロナをとして平定へいていだい3バルセロナ包囲ほういせん)、スペイン全土ぜんどはブルボン平定へいていされた。

戦争せんそうはフランスが敗北はいぼくしたが、カール大公たいこう1711ねんあに神聖しんせいローマ皇帝こうていヨーゼフ1せい早世そうせいによって神聖しんせいローマ皇帝こうてい継承けいしょうする(カール6せい)ことになったため、オーストリアに味方みかたしていた諸国しょこくもカール6せいカール5せい(スペインおうカルロス1せい時代じだいのようにドイツ・スペイン両方りょうほう君主くんしゅとなってハプスブルクふたた強大きょうだいすることをおそれ、スペイン王位おうい継承けいしょうには反対はんたいするようになった。これによってハプスブルクはスペイン王位おうい断念だんねんし、フィリップがれて「フェリペ5せい」と名乗なのることがゆるされた[3]

王位おうい承認しょうにんされたものの、スペイン継承けいしょう戦争せんそう結果けっかネーデルラント、シチリアとう喪失そうしつし、それを奪回だっかいしようとするも、同族どうぞくフランスさえもてきまわした四国しこく同盟どうめい戦争せんそうすえナポリ・シチリアとうサルデーニャとうなどイタリアの領土りょうどはスペインからうしなわれた。

フェリペ5せいはスペイン本国ほんごくアメリカ大陸あめりかたいりく領土りょうどあいだでの貿易ぼうえき推進すいしんした。この大西洋たいせいよう貿易ぼうえきではスペインの航海こうかい史上しじょう著名ちょめい人物じんぶつおお登場とうじょうし、なかでもアマロ・ロドリゲス・フェリペもっともよくられている。フェリペ5せいはアマロの商業しょうぎょうてき進出しんしゅつ侵略しんりゃく行為こうい支援しえんしていた。[4]

戦争せんそう[編集へんしゅう]

フェリペ5せい中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか形成けいせい目指めざし、当初とうしょ尊重そんちょうしていた連合れんごう王国おうこく特権とっけんげる方向ほうこうすすんだ。1707ねんにアラゴン・バレンシア、1714ねんにカタルーニャにしん国家こっか基本きほんほうしん組織そしきおうれい)を発布はっぷ、それぞれの王国おうこくにあった議会ぎかい参事さんじかいなど地方ちほう機関きかん特権とっけん廃止はいし連合れんごう王国おうこく中心ちゅうしんであったカスティーリャ法律ほうりつ一本いっぽんすることを明言めいげんした。ただし、戦時せんじちゅうにフェリペ5せい支持しじしていたナバラバスク特権とっけんみとめられている。

しん国家こっか基本きほんほう発布はっぷつづ改革かいかくすすめ、1711ねんから中央ちゅうおうから地方ちほう派遣はけんするふくおうわって方面ほうめんぐん司令しれい官職かんしょく新設しんせつおなじく新設しんせつした地方ちほう高等法院こうとうほういん議長ぎちょうえて主宰しゅさいやくにすることで中央ちゅうおうから地方ちほう統制とうせいはかった。行政ぎょうせい改革かいかくおこなわれ、1724ねん中央ちゅうおう機関きかん外務がいむ法務ほうむ財務ざいむ陸軍りくぐん海軍かいぐん担当たんとうする5つの省庁しょうちょう新設しんせつ貴族きぞく中心ちゅうしん顧問こもん会議かいぎ形骸けいがいさせ中小ちゅうしょう階層かいそうからの登用とうよう権力けんりょく集中しゅうちゅうした。軍事ぐんじ改革かいかくにもをつけ、徴兵ちょうへいせい実施じっし連隊れんたい制度せいど導入どうにゅうカディスフェロルカルタヘナ造船ぞうせんしょ設置せっち海軍かいぐん強化きょうかして軍事ぐんじりょく強化きょうか目論もくろんだ。

財政ざいせい改革かいかくではじゅうしょう主義しゅぎり、直接ちょくせつぜい新設しんせつ、スペインりょうアメリカとの貿易ぼうえきこうセビリアからカディスにうつし、国内こくない関税かんぜい廃止はいしして製品せいひん輸出ゆしゅつのため製造せいぞう工場こうじょう設立せつりつして大西洋たいせいよう貿易ぼうえき振興しんこうおこなった。この結果けっか人口じんこう増加ぞうかしたが、貿易ぼうえきめぐるイギリスとの対立たいりつつづき、生活せいかつ輸入ゆにゅうたよるナバラとバスクで暴動ぼうどう発生はっせいしたため1723ねん関税かんぜい復活ふっかつ、スペインの公用こうようカスティーリャ一体化いったいかさせようとしてカタルーニャ禁止きんし発布はっぷしたが周囲しゅうい浸透しんとうしない、カタルーニャの発展はってんいちじるしいなど問題もんだいのこされた[5]

外交がいこうではイタリアりょう奪回だっかい目指めざしてよんカ国かこく同盟どうめい戦争せんそう失敗しっぱいしたが、1733ねんはじまったポーランド継承けいしょう戦争せんそうでフランスとだい1かい家族かぞく協定きょうていむす参戦さんせんしたことによってスペインはパルマ手放てばなしたが、ナポリ、シチリアを奪回だっかいすること成功せいこうしている。1739ねん貿易ぼうえきじょう対立たいりつからイギリスと戦端せんたんひらき(ジェンキンスのみみ戦争せんそう)、オーストリア継承けいしょう戦争せんそうでも1743ねんだい2かい家族かぞく協定きょうていむすんでくわわりパルマをさい獲得かくとくした。以後いご、これらの諸国しょこくはブルボン分家ぶんけによって支配しはいされることとなった。

1724ねん、フェリペ5せいは16さい長男ちょうなんルイス1せい一旦いったん王位おういゆずった。しかしルイス1せい同年どうねんのうちに天然痘てんねんとう急死きゅうし、ルイス1せいには子供こどもがなく、ルイス1せいおとうとフェルナンドはまだおさなかったため、フェリペはふたた王位おういかざるをなかった。フェリペ5せいはその20ねんあまり在位ざいいし、1746ねん没後ぼつごにフェルナンドが王位おういいだ(フェルナンド6せい)。遺言ゆいごんにより、みずからがてたラ・グランハ宮殿きゅうでん附属ふぞく教会きょうかい埋葬まいそうされた。晩年ばんねん躁鬱病そううつびょうくるしみ、後妻ごさいエリザベッタ・ファルネーゼカルロス3せいらの母親ははおや)に国政こくせい介入かいにゅうゆるすなど不遇ふぐう生活せいかつおくった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

フランスでそだったためスペインはなせず、入国にゅうこくもその状態じょうたいごしていた。スペインへ旅立たびださい祖父そふルイ14せいから“Soyez bon Espagnol, c'est présentement votre premier devoir ; mais souvenez-vous que vous êtes né Français”「よきスペインじんであれ、それがあなたのだいいち義務ぎむである。されどフランスじんであることをわすれるな。」という言葉ことばり、くにせい文化ぶんかをフランスふう改革かいかくした。また、躁鬱病そううつびょうによる意志いしよわさを祖父そふ周囲しゅうい側近そっきんから心配しんぱいされ、精神せいしん安定あんていのためマリア・ルイーザ結婚けっこん彼女かのじょが1714ねんくなるとエリザベッタ・ファルネーゼと再婚さいこん生涯しょうがいとおしてエリザベッタにささえられていた。

晩年ばんねんになると躁鬱病そううつびょう悪化あっか滅多めった衣類いるいえない、洗顔せんがんおこなわず喫煙きつえん常習じょうしゅうめないなど奇行きこうはしり、昼夜ちゅうや逆転ぎゃくてんしてよる政務せいむおこなひるねむ生活せいかつおくった。生活せいかつともにしていたエリザベッタにもこの習慣しゅうかんうつり、フェルナンド6せい遺伝いでん躁鬱病そううつびょうくるしむことになる[6]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

フェリペ5せい ちち:
ルイ
祖父そふ:
ルイ14せい
祖父そふ:
ルイ13せい[1]
祖母そぼ:
アンヌ・ドートリッシュ
祖母そぼ:
マリー・テレーズ・ドートリッシュ
祖父そふ:
フェリペ4せい
祖母そぼ:
イザベル[1]
はは:
マリー・アンヌ・ド・バヴィエール
祖父そふ:
フェルディナント・マリア (バイエルンせんみかどこう
祖父そふ:
マクシミリアン1せい(バイエルンせんみかどこう
祖母そぼ:
マリア・アンナ[2]
祖母そぼ:
ヘンリエッテ
祖父そふ:
ヴィットーリオ・アメデーオ1せい(サヴォイアこう
祖母そぼ:
マリーア・クリスティーナ[1]

[1]は、3めいともフランスおうアンリ4せいちちとしマリー・ド・メディシスははとする。 [2]は、かみきよしマ帝国まていこく皇帝こうていフェルディナント2せいむすめ

子女しじょ[編集へんしゅう]

1701ねんサヴォイアおおやけヴィットーリオ・アメデーオ2せいサルデーニャおう)のむすめまた従妹じゅうまいにあたるマリア・ルイーザ(マリア・ルイサ・デ・サボヤ)と結婚けっこんした。マリア・ルイーザのあねマリア・アデライーデはフェリペ5せいあにブルゴーニュこうルイと結婚けっこんしていた。マリア・ルイーザはフェリペ5せいとのあいだに4なんをもうけた。

  • ルイス1せい(1707ねん - 1724ねん) - スペインおう
  • フェリペ・ルイス(1709ねん
  • フェリペ・ペドロ・ガブリエル(1712ねん - 1719ねん
  • フェルナンド6せい(1713ねん - 1759ねん) - スペインおう

マリア・ルイーザが1714ねん死去しきょすると、フェリペ5せい同年どうねんのうちにパルマおおやけラヌッチョ2せい孫娘まごむすめエリザベッタ・ファルネーゼ(イサベル・デ・ファルネシオ)と再婚さいこんした。エリザベッタはフェリペ5せいとのあいだに4なん3じょをもうけた。

アンリ4せい高祖父こうそふ、カルロス4せいりょうシチリアおうフェルディナンド1せいまご、フェルナンド7せいりょうシチリアおうフランチェスコ1せい曾孫そうそん、イザベル2せいりょうシチリアおうフェルディナンド2せい玄孫げんそん、アルフォンソ12せいりょうシチリアおうフランチェスコ2せいらいまご、アルフォンソ13せいこんまご、フアン・カルロス1せいくもまごである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 川成かわなりよう『スペイン文化ぶんか読本とくほん丸善まるぜん出版しゅっぱん、2016ねん、158ぺーじISBN 978-4-621-08995-8 
  2. ^ 長谷川はせがわ、P146 - P147、友清ともきよ、P21 - P26。
  3. ^ 友清ともきよ、P156 - P159、P177 - P179、P197 - 199、P292 - P294、P365 - P366、せき、P379 - P382。
  4. ^ El corsario de Dios. Documentos sobre Amaro Rodríguez Felipe (1678-1747)
  5. ^ せき、P382 - 390。
  6. ^ 西川にしかわ、P71 - P88、P101 - P105、長谷川はせがわ、P161 - P162。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
カルロス2せい
スペイン国王こくおう
だいいち統治とうち

1700ねん - 1724ねん
次代じだい
ルイス1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
ルイス1せい
スペイン国王こくおう
だい統治とうち

1724ねん - 1746ねん
次代じだい
フェルナンド6せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
カルロ5せい
ナポリ国王こくおう
1700ねん - 1713ねん
次代じだい
カルロ6せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリッポ3せい
シチリア国王こくおう
1700ねん - 1713ねん
次代じだい
ヴィットーリオ・アメデーオ
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
カルロ2せい
サルデーニャ国王こくおう
1700ねん - 1713ねん
次代じだい
カルロ3せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
カルロ1せい
ミラノこう
1700ねん - 1714ねん
次代じだい
カルロ2せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル3せい
ブルゴーニュこう
1700ねん - 1706ねん
次代じだい
空位くうい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル3せい
ブラバントこう
1700ねん - 1706ねん
次代じだい
シャルル4せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル3せい
リンブルフこう
1700ねん - 1706ねん
次代じだい
シャルル4せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル4せい
ルクセンブルクこう
1700ねん - 1712ねん
次代じだい
マクシミリアン2せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル3せい
ブルゴーニュはく
1700ねん - 1713ねん
次代じだい
シャルル4せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル4せい
フランドルはく
1700ねん - 1714ねん
次代じだい
シャルル5せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
シャルル3せい
アルトワはく
1700ねん - 1713ねん
次代じだい
シャルル4せい