フェリペ5世 せい (Felipe V, 1683年 ねん 12月19日 にち - 1746年 ねん 7月 がつ 9日 にち )は、スペイン・ボルボン(ブルボン)朝 あさ 最初 さいしょ の国王 こくおう (在位 ざいい :1700年 ねん - 1724年 ねん 、1724年 ねん - 1746年 ねん )で[1] 、フランス 国王 こくおう ルイ14世 せい とスペイン・ハプスブルク家 か (アブスブルゴ家 か )出身 しゅっしん の王妃 おうひ マリー・テレーズ の長男 ちょうなん ルイ (グラン・ドーファン)の次男 じなん 。母 はは はバイエルン 選 せん 帝 みかど 侯 こう フェルディナント・マリア の娘 むすめ マリー・アンヌ・ド・バヴィエール 。数次 すうじ の中断 ちゅうだん を挟 はさ みながら、ボルボン朝 あさ は現 げん 国王 こくおう フェリペ6世 せい まで続 つづ いている。
アンジュー公 こう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
フェリペ5世 せい はヴェルサイユ宮殿 きゅうでん でフランス王子 おうじ フィリップ(Philippe)として生 う まれ、アンジュー 公 おおやけ 位 い を授 さづ けられた。兄 あに にブルゴーニュ公 こう ルイ (ルイ15世 せい の父 ちち 、プチ・ドーファンと呼 よ ばれる)が、弟 おとうと にベリー公 こう シャルル がいる。また、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい 兼 けん バイエルン選 せん 帝 みかど 侯 こう カール7世 せい ・ケルン選 せん 帝 みかど 侯 こう クレメンス・アウグスト 兄弟 きょうだい は母方 ははかた の従弟 じゅうてい に当 あ たる。
アブスブルゴ朝 あさ 最後 さいご の王 おう となったカルロス2世 せい には子供 こども がなく、王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ が問題 もんだい となっていた。カルロス2世 せい はまず、バイエルン選 せん 帝 みかど 侯 こう マクシミリアン2世 せい エマヌエル (マリー・アンヌの弟 おとうと )の息子 むすこ ヨーゼフ・フェルディナント を王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に指名 しめい し、アストゥリアス公 こう の位 い を授 さづ けた。カルロス2世 せい の同母 どうぼ 姉 あね マルガリータ・テレサ の孫 まご だったからであるが、ヨーゼフ・フェルディナントは1699年 ねん に早世 そうせい した。
ルイ14世 せい はこれを好機 こうき として、自分 じぶん の血 ち を引 ひ く者 もの を王位 おうい につけようと画策 かくさく した。フランスとスペインの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を兼 か ねることは反発 はんぱつ が強 つよ かったが、孫 まご でヨーゼフ・フェルディナントの従兄 じゅうけい に当 あ たるアンジュー公 こう フィリップを候補者 こうほしゃ に推 お した。フィリップの祖母 そぼ マリー・テレーズはマルガリータ・テレサとカルロス2世 せい の異母 いぼ 姉 あね であり、ルイ14世 せい 自身 じしん も母 はは アンヌ がスペイン王女 おうじょ であったことから、フィリップはスペイン王家 おうけ の血 ち を色濃 いろこ く引 ひ いていた。カルロス2世 せい は、フィリップのフランス王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん の放棄 ほうき を条件 じょうけん に、フィリップをスペイン王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に指名 しめい し、スペイン本国 ほんごく と全 ぜん 領土 りょうど の一括 いっかつ 相続 そうぞく を命 めい じて1700年 ねん 11月に没 ぼっ した。ルイ14世 せい は、フィリップに、フランス王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を保持 ほじ させたまま、「フェリペ5世 せい 」を名乗 なの らせてスペイン王 おう に即位 そくい させた。フィリップは翌 よく 1701年 ねん にスペインの首都 しゅと マドリード へ入城 にゅうじょう した。
しかし、フランスの勢力 せいりょく 拡大 かくだい を快 こころよ く思 おも わなかった各国 かっこく はフィリップの即位 そくい に反対 はんたい を唱 とな えた。スペイン領 りょう の一括 いっかつ 相続 そうぞく という事情 じじょう に加 くわ えて、フィリップがフランス王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を保持 ほじ していたことと、アメリカの奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 独占 どくせん 権 けん をフランスの貿易 ぼうえき 会社 かいしゃ に譲渡 じょうと したこと、スペイン領 りょう ネーデルラント をフランス軍 ぐん が占領 せんりょう してオランダ を威嚇 いかく したことからオランダ・イギリス は不満 ふまん を抱 だ いた。特 とく に、アブスブルゴ朝 あさ の同族 どうぞく であるオーストリア・ハプスブルク家 か は、同家 どうけ による王 おう 統 みつる を継続 けいぞく をさせるべく戦争 せんそう を仕掛 しか けた。それがスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう である[2] 。
スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
フェリペ5世 せい はマドリード入 い りした当初 とうしょ はいくつもの連合 れんごう 王国 おうこく で出来 でき ていたスペインの事情 じじょう から、それぞれの王国 おうこく の法 ほう を従来 じゅうらい 通 どお り尊重 そんちょう する宣言 せんげん を出 だ した。1702年 ねん にはイタリア 戦線 せんせん に赴 おもむ いてフランス軍 ぐん を手助 てだす けしている。しかし、1703年 ねん にポルトガル がイギリスとメシュエン条約 じょうやく を締結 ていけつ 、ポルトガルが敵 てき に回 まわ り、1704年 ねん にイギリスにジブラルタル を奪 うば われた。1705年 ねん になると戦争 せんそう 上 じょう 徴兵 ちょうへい と徴税 ちょうぜい を進 すす めたフェリペ5世 せい に反発 はんぱつ したカタルーニャ ・アラゴン ・バレンシア が同盟 どうめい 側 がわ に回 まわ り、ハプスブルク家 か がスペイン王 おう に推 お していたカール大公 たいこう を擁立 ようりつ した同盟 どうめい 軍 ぐん がバルセロナ を占拠 せんきょ (第 だい 1次 じ バルセロナ包囲 ほうい 戦 せん )、スペインはフェリペ5世 せい とカルロス3世 せい を称 しょう したカール大公 たいこう に2分 ふん された。
翌 よく 1706年 ねん にフランス軍 ぐん と共 とも にバルセロナの奪還 だっかん を図 はか ったが失敗 しっぱい (第 だい 2次 じ バルセロナ包囲 ほうい 戦 せん )、逆 ぎゃく に同盟 どうめい 軍 ぐん にマドリードを奪 うば われ一時 いちじ はブルゴス に退去 たいきょ した。しかし、フランスの将軍 しょうぐん ベリック公 こう がマドリードを奪還 だっかん してからは優勢 ゆうせい となり、1707年 ねん 4月 がつ 25日 にち にフランス・スペイン連合 れんごう 軍 ぐん の指揮 しき を執 と ったベリックがイギリス・ポルトガル・オランダ連合 れんごう 軍 ぐん をアルマンサの戦 たたか い で大勝 たいしょう するとアラゴン・バレンシアの征服 せいふく を果 は たし、1710年 ねん にフランスの将軍 しょうぐん ヴァンドーム公 こう がブリウエガの戦 たたか い 、ビリャビシオーサの戦 たたか い で連勝 れんしょう してスペイン戦線 せんせん で決定的 けっていてき に優位 ゆうい に立 た った。1713年 ねん にユトレヒト条約 じょうやく で同盟 どうめい 軍 ぐん が撤退 てったい 、カール大公 たいこう とも翌 よく 1714年 ねん のラシュタット条約 じょうやく で和睦 わぼく 、残 のこ ったカタルーニャはバルセロナを落 お として平定 へいてい (第 だい 3次 じ バルセロナ包囲 ほうい 戦 せん )、スペイン全土 ぜんど はブルボン家 か に平定 へいてい された。
戦争 せんそう はフランスが敗北 はいぼく したが、カール大公 たいこう が1711年 ねん に兄 あに の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ヨーゼフ1世 せい の早世 そうせい によって神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい を継承 けいしょう する(カール6世 せい )ことになったため、オーストリアに味方 みかた していた諸国 しょこく もカール6世 せい がカール5世 せい (スペイン王 おう カルロス1世 せい )時代 じだい のようにドイツ・スペイン両方 りょうほう の君主 くんしゅ となってハプスブルク家 か が再 ふたた び強大 きょうだい 化 か することを恐 おそ れ、スペイン王位 おうい 継承 けいしょう には反対 はんたい するようになった。これによってハプスブルク家 か はスペイン王位 おうい を断念 だんねん し、フィリップが晴 は れて「フェリペ5世 せい 」と名乗 なの ることが許 ゆる された[3] 。
王位 おうい は承認 しょうにん されたものの、スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう の結果 けっか ネーデルラント、シチリア島 とう を喪失 そうしつ し、それを奪回 だっかい しようとするも、同族 どうぞく フランスさえも敵 てき に回 まわ した四国 しこく 同盟 どうめい 戦争 せんそう の末 すえ 、ナポリ ・シチリア島 とう ・サルデーニャ島 とう などイタリアの領土 りょうど はスペインから失 うしな われた。
フェリペ5世 せい はスペイン本国 ほんごく とアメリカ大陸 あめりかたいりく の領土 りょうど の間 あいだ での貿易 ぼうえき を推進 すいしん した。この大西洋 たいせいよう 貿易 ぼうえき ではスペインの航海 こうかい 史上 しじょう 著名 ちょめい な人物 じんぶつ が多 おお く登場 とうじょう し、中 なか でもアマロ・ロドリゲス・フェリペ が最 もっと もよく知 し られている。フェリペ5世 せい はアマロの商業 しょうぎょう 的 てき 進出 しんしゅつ や侵略 しんりゃく 行為 こうい を支援 しえん していた。[4]
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "フェリペ5世 せい " スペイン王 おう – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年 ねん 9月 がつ )
フェリペ5世 せい は中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 国家 こっか の形成 けいせい を目指 めざ し、当初 とうしょ 尊重 そんちょう していた連合 れんごう 王国 おうこく の特権 とっけん を取 と り上 あ げる方向 ほうこう に進 すす んだ。1707年 ねん にアラゴン・バレンシア、1714年 ねん にカタルーニャに新 しん 国家 こっか 基本 きほん 法 ほう (新 しん 組織 そしき 王 おう 令 れい )を発布 はっぷ 、それぞれの王国 おうこく にあった議会 ぎかい ・参事 さんじ 会 かい など地方 ちほう の機関 きかん と特権 とっけん の廃止 はいし 、連合 れんごう 王国 おうこく の中心 ちゅうしん であったカスティーリャ の法律 ほうりつ に一本 いっぽん 化 か することを明言 めいげん した。但 ただ し、戦時 せんじ 中 ちゅう にフェリペ5世 せい を支持 しじ していたナバラ ・バスク は特権 とっけん を認 みと められている。
新 しん 国家 こっか 基本 きほん 法 ほう 発布 はっぷ 後 ご も引 ひ き続 つづ き改革 かいかく を進 すす め、1711年 ねん から中央 ちゅうおう から地方 ちほう に派遣 はけん する副 ふく 王 おう に代 か わって方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官職 かんしょく を新設 しんせつ 、同 おな じく新設 しんせつ した地方 ちほう 高等法院 こうとうほういん の議長 ぎちょう に据 す えて主宰 しゅさい 役 やく にすることで中央 ちゅうおう から地方 ちほう の統制 とうせい を図 はか った。行政 ぎょうせい 改革 かいかく も行 おこな われ、1724年 ねん に中央 ちゅうおう 機関 きかん に外務 がいむ ・法務 ほうむ ・財務 ざいむ ・陸軍 りくぐん ・海軍 かいぐん を担当 たんとう する5つの省庁 しょうちょう を新設 しんせつ 、貴族 きぞく 中心 ちゅうしん の顧問 こもん 会議 かいぎ を形骸 けいがい 化 か させ中小 ちゅうしょう 階層 かいそう からの登用 とうよう で権力 けんりょく を集中 しゅうちゅう した。軍事 ぐんじ 改革 かいかく にも手 て をつけ、徴兵 ちょうへい 制 せい の実施 じっし 、連隊 れんたい 制度 せいど を導入 どうにゅう 、カディス 、フェロル 、カルタヘナ の造船 ぞうせん 所 しょ 設置 せっち で海軍 かいぐん を強化 きょうか して軍事 ぐんじ 力 りょく の強化 きょうか を目論 もくろ んだ。
財政 ざいせい 改革 かいかく では重 じゅう 商 しょう 主義 しゅぎ を採 と り、直接 ちょくせつ 税 ぜい の新設 しんせつ 、スペイン領 りょう アメリカとの貿易 ぼうえき 港 こう をセビリア からカディスに移 うつ し、国内 こくない 関税 かんぜい を廃止 はいし して製品 せいひん 輸出 ゆしゅつ のため製造 せいぞう 工場 こうじょう を設立 せつりつ して大西洋 たいせいよう 貿易 ぼうえき の振興 しんこう を行 おこな った。この結果 けっか 、人口 じんこう は増加 ぞうか したが、貿易 ぼうえき を巡 めぐ るイギリスとの対立 たいりつ は続 つづ き、生活 せいかつ を輸入 ゆにゅう に頼 たよ るナバラとバスクで暴動 ぼうどう が発生 はっせい したため1723年 ねん に関税 かんぜい を復活 ふっかつ 、スペインの公用 こうよう 語 ご をカスティーリャ語 ご に一体化 いったいか させようとしてカタルーニャ語 ご の禁止 きんし を発布 はっぷ したが周囲 しゅうい に浸透 しんとう しない、カタルーニャの発展 はってん が著 いちじる しいなど問題 もんだい も残 のこ された[5] 。
外交 がいこう ではイタリア領 りょう 奪回 だっかい を目指 めざ して四 よん カ国 かこく 同盟 どうめい 戦争 せんそう で失敗 しっぱい したが、1733年 ねん に始 はじ まったポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう でフランスと第 だい 1回 かい 家族 かぞく 協定 きょうてい を結 むす び参戦 さんせん したことによってスペインはパルマ を手放 てばな したが、ナポリ、シチリアを奪回 だっかい する事 こと に成功 せいこう している。1739年 ねん に貿易 ぼうえき 上 じょう の対立 たいりつ からイギリスと戦端 せんたん を開 ひら き(ジェンキンスの耳 みみ の戦争 せんそう )、オーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう でも1743年 ねん に第 だい 2回 かい 家族 かぞく 協定 きょうてい を結 むす んで加 くわ わりパルマを再 さい 獲得 かくとく した。以後 いご 、これらの諸国 しょこく はブルボン家 か の分家 ぶんけ によって支配 しはい される事 こと となった。
1724年 ねん 、フェリペ5世 せい は16歳 さい の長男 ちょうなん ルイス1世 せい に一旦 いったん 王位 おうい を譲 ゆず った。しかしルイス1世 せい は同年 どうねん のうちに天然痘 てんねんとう で急死 きゅうし 、ルイス1世 せい には子供 こども がなく、ルイス1世 せい の弟 おとうと フェルナンド はまだ幼 おさな かったため、フェリペは再 ふたた び王位 おうい に就 つ かざるを得 え なかった。フェリペ5世 せい はその後 ご 20年 ねん あまり在位 ざいい し、1746年 ねん の没後 ぼつご にフェルナンドが王位 おうい を継 つ いだ(フェルナンド6世 せい )。遺言 ゆいごん により、自 みずか らが建 た てたラ・グランハ宮殿 きゅうでん 附属 ふぞく 教会 きょうかい に埋葬 まいそう された。晩年 ばんねん は躁鬱病 そううつびょう に苦 くる しみ、後妻 ごさい のエリザベッタ・ファルネーゼ (カルロス3世 せい らの母親 ははおや )に国政 こくせい の介入 かいにゅう を許 ゆる すなど不遇 ふぐう な生活 せいかつ を送 おく った。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "フェリペ5世 せい " スペイン王 おう – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年 ねん 9月 がつ )
フランスで育 そだ ったためスペイン語 ご を話 はな せず、入国 にゅうこく 後 ご もその状態 じょうたい で過 す ごしていた。スペインへ旅立 たびだ つ際 さい に祖父 そふ ルイ14世 せい から“Soyez bon Espagnol, c'est présentement votre premier devoir ; mais souvenez-vous que vous êtes né Français”「よきスペイン人 じん であれ、それがあなたの第 だい 一 いち の義務 ぎむ である。されどフランス人 じん であることを忘 わす れるな。」という言葉 ことば を受 う け取 と り、国 くに 制 せい と文化 ぶんか をフランス風 ふう に改革 かいかく した。また、躁鬱病 そううつびょう による意志 いし の弱 よわ さを祖父 そふ や周囲 しゅうい の側近 そっきん から心配 しんぱい され、精神 せいしん 安定 あんてい のためマリア・ルイーザ と結婚 けっこん 、彼女 かのじょ が1714年 ねん に亡 な くなるとエリザベッタ・ファルネーゼと再婚 さいこん 、生涯 しょうがい を通 とお してエリザベッタに支 ささ えられていた。
晩年 ばんねん になると躁鬱病 そううつびょう が悪化 あっか 、滅多 めった に衣類 いるい を取 と り替 か えない、洗顔 せんがん も行 おこな わず喫煙 きつえん の常習 じょうしゅう を止 と めないなど奇行 きこう に走 はし り、昼夜 ちゅうや が逆転 ぎゃくてん して夜 よる に政務 せいむ を行 おこな い昼 ひる に眠 ねむ る生活 せいかつ を送 おく った。生活 せいかつ を共 とも にしていたエリザベッタにもこの習慣 しゅうかん が移 うつ り、フェルナンド6世 せい も遺伝 いでん で躁鬱病 そううつびょう に苦 くる しむことになる[6] 。
[1]は、3名 めい ともフランス王 おう アンリ4世 せい を父 ちち としマリー・ド・メディシス を母 はは とする。
[2]は、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい フェルディナント2世 せい の娘 むすめ 。
1701年 ねん にサヴォイア 公 おおやけ ヴィットーリオ・アメデーオ2世 せい (後 ご のサルデーニャ 王 おう )の娘 むすめ で又 また 従妹 じゅうまい にあたるマリア・ルイーザ (マリア・ルイサ・デ・サボヤ)と結婚 けっこん した。マリア・ルイーザの姉 あね マリア・アデライーデ はフェリペ5世 せい の兄 あに ブルゴーニュ公 こう ルイと結婚 けっこん していた。マリア・ルイーザはフェリペ5世 せい との間 あいだ に4男 なん をもうけた。
ルイス1世 せい (1707年 ねん - 1724年 ねん ) - スペイン王 おう
フェリペ・ルイス(1709年 ねん )
フェリペ・ペドロ・ガブリエル(1712年 ねん - 1719年 ねん )
フェルナンド6世 せい (1713年 ねん - 1759年 ねん ) - スペイン王 おう
マリア・ルイーザが1714年 ねん に死去 しきょ すると、フェリペ5世 せい は同年 どうねん のうちにパルマ 公 おおやけ ラヌッチョ2世 せい の孫娘 まごむすめ エリザベッタ・ファルネーゼ (イサベル・デ・ファルネシオ)と再婚 さいこん した。エリザベッタはフェリペ5世 せい との間 あいだ に4男 なん 3女 じょ をもうけた。
アンリ4世 せい は高祖父 こうそふ 、カルロス4世 せい と両 りょう シチリア王 おう フェルディナンド1世 せい は孫 まご 、フェルナンド7世 せい と両 りょう シチリア王 おう フランチェスコ1世 せい は曾孫 そうそん 、イザベル2世 せい と両 りょう シチリア王 おう フェルディナンド2世 せい は玄孫 げんそん 、アルフォンソ12世 せい と両 りょう シチリア王 おう フランチェスコ2世 せい は来 らい 孫 まご 、アルフォンソ13世 せい は昆 こん 孫 まご 、フアン・カルロス1世 せい は雲 くも 孫 まご である。
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