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サルデーニャ王国おうこく

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サルデーニャ王国おうこく
Rennu de Sardigna(サルデーニャ
Regno di Sardegna(イタリア
Royaume de Sardaigneフランス語ふらんすご
1297ねん - 1861ねん イタリア王国
フランス第二帝政
サルデーニャの国旗 サルデーニャの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Foedere et Religione Tenemur
わがひとしほうかみによってまもられん
国歌こっか: S'hymnu sardu nationale(サルデーニャ
サルデーニャの国歌こっか
サルデーニャの位置
1850ねん
公用こうよう イタリア
フランス語ふらんすご
ピエモンテ
オック
宗教しゅうきょう カトリック
首都しゅと カリャリ名目めいもくじょう
トリノ事実じじつじょう
国王こくおう
1297ねん - 1327ねん ジャコモ1せい
1720ねん - 1730ねんヴィットーリオ・アメデーオ2せい
1730ねん - 1773ねんカルロ・エマヌエーレ3せい
1773ねん - 1796ねんヴィットーリオ・アメデーオ3せい
1796ねん - 1802ねんカルロ・エマヌエーレ4せい
1802ねん - 1821ねんヴィットーリオ・エマヌエーレ1せい
1821ねん - 1831ねんカルロ・フェリーチェ
1831ねん - 1849ねんカルロ・アルベルト
1849ねん - 1861ねんヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい
面積めんせき
1838ねん70,000km²
人口じんこう
1838ねん4,650,368にん
変遷へんせん
成立せいりつ 1297ねん
サヴォワニース喪失そうしつ1860ねん
リソルジメント
(イタリア王国おうこく成立せいりつ
1861ねん
通貨つうかサルデーニャ・リラ
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス
モナコの旗 モナコ
先代せんだい次代じだい
アルボレア裁判区 アルボレア裁判さいばん
ピサ共和国 ピサ共和きょうわこく
サッサリ共和国 サッサリ共和きょうわこく
神聖ローマ帝国 かみきよしマ帝国まていこく
サヴォイア公国 サヴォイア公国こうこく
ジェノヴァ共和国 ジェノヴァ共和きょうわこく
ジェノヴァ公国 ジェノヴァ公国こうこく
アラゴン連合王国 アラゴン連合れんごう王国おうこく
中央統合諸州 中央ちゅうおう統合とうごうしょしゅう
両シチリア王国 りょうシチリア王国おうこく
イタリア王国おうこく イタリア王国
フランスだい帝政ていせい フランス第二帝政

サルデーニャ王国おうこく(サルデーニャおうこく、サルデーニャ: Rennu de Sardignaイタリア: Regno di Sardegna)は、13世紀せいきから19世紀せいきにかけて存在そんざいしたヨーロッパの国家こっかである。領土りょうど現在げんざいイタリアフランスにまたがり、サルデーニャとうピエモンテサヴォワニースはくりょうアルプ=マリティームけん)を統治とうちした。その存続そんぞく期間きかん大半たいはんにおいて、王国おうこく本拠ほんきょはサルデーニャとうではなく大陸たいりくのピエモンテにあり、首都しゅとトリノであった。

サヴォイア支配しはいするこの王国おうこくは、19世紀せいきイタリア統一とういつ運動うんどう(リソルジメント)において中核ちゅうかくとなり、近代きんだいイタリア王国おうこく前身ぜんしんとなった。

ほんこうではサヴォイア以前いぜんの「サルデーニャおう」についても略述りゃくじゅつする。

概要がいよう

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「サルデーニャおう」の称号しょうごう中世ちゅうせい登場とうじょうし、その領土りょうど名目めいもくじょう「サルデーニャ王国おうこく」となった。13世紀せいきまつ以降いこう、サルデーニャはイベリア半島はんとうアラゴン王国おうこく(のちにスペイン王国おうこく)によって事実じじつじょう植民しょくみんとして支配しはいされた。

サヴォイア(現在げんざいはフランスりょうサヴォワ)からおこったサヴォイアサヴォイア公国こうこく)は、1720ねんにシチリアと交換こうかんするかたちでサルデーニャの領土りょうど獲得かくとくし、サルデーニャ王国おうこくしょうした。サヴォイア従来じゅうらいどお大陸たいりく本拠ほんきょとし、ピエモンテのトリノ首都しゅととしたことから、「ピエモンテ王国おうこく」ともばれる。ナポレオン戦争せんそうには大陸たいりく領土りょうど失陥しっかんし、サルデーニャとうのみを支配しはいする国家こっかとなって、カリャリ本拠ほんきょうつした。

1815ねんウィーン会議かいぎによりジェノヴァ共和きょうわこくをふくむ旧領きゅうりょう回復かいふく1860ねん一応いちおうのイタリア統一とういつたし、1861ねんイタリア王国おうこく建国けんこく宣言せんげんされた。

歴史れきし

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前史ぜんし: 18世紀せいき以前いぜんのサルデーニャ

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「サルデーニャおう」の称号しょうごう

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ひがしマ帝国まていこく支配しはい名目めいもくしたのち、サルデーニャにはカリャリ、トッレス、ガッルーラ、アルボーレアの4つの「裁判さいばん」(giudici)とばれる自治じち形成けいせいされるが、これらをおさめた「裁判官さいばんかん」(giudice)のなかには、神聖しんせいローマ皇帝こうていから「サルデーニャおう」として承認しょうにんされるものもいた。しかし、中世ちゅうせい在地ざいち勢力せいりょくからサルデーニャ全島ぜんとう実効じっこう支配しはい達成たっせいした人物じんぶつはなかった。11世紀せいき以降いこう、サルデーニャにピサジェノヴァ勢力せいりょく侵入しんにゅうし、両市りょうしによる植民しょくみんすすむ。

1297ねんローマ教皇きょうこうボニファティウス8せいは、アラゴン国王こくおう ハイメ2せいたいして、シチリア王国おうこくかんする権利けんり放棄ほうきしてアンジュー返還へんかんするようせまったが、その見返みかえりとしてサルデーニャ「王国おうこく」をコルシカとともに授封した(サルデーニャ国王こくおう ジャコモ1せい)。この返還へんかんはその事実じじつじょう無効むこうされたが、両島りょうしまの授封については1302ねんカルタベロッタのやく追認ついにんされた。

ハイメ2せい1323ねんからサルデーニャへの侵攻しんこう開始かいししたが、先住民せんじゅうみんやジェノヴァじん、ピサじんたちの抵抗ていこうい、征服せいふくすすまなかった。しかし、その1世紀せいきちかくにわたるこうそうのうちに、ジェノヴァやピサの勢力せいりょく衰退すいたいし、アラゴン=カタルーニャ連合れんごう王国おうこくによる支配しはい確立かくりつしていった(コルシカはジェノヴァの勢力せいりょくにとどまった)。以後いご、サルデーニャは名目めいもくじょうアラゴン連合れんごう王国おうこくいち王国おうこくとして、実態じったいカタルーニャじん植民しょくみんとして支配しはいされ、スペイン王国おうこく成立せいりつもこの状況じょうきょうつづいた。

スペイン継承けいしょう戦争せんそうとサルデーニャとう

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1700ねんスペイン・ハプスブルク断絶だんぜつすると、スペインにブルボンおうおくんだフランスと、ハプスブルク同族どうぞくであるオーストリアとがあらそい、ヨーロッパ諸国しょこくんでスペイン継承けいしょう戦争せんそう1701ねん - 1714ねん)が勃発ぼっぱつした。サヴォイアこうヴィットーリオ・アメデーオ2せいは、当初とうしょフランスがわ参戦さんせんしたが、途中とちゅうでオーストリアがわてんじている。

1713ねんむすばれたユトレヒト条約じょうやくで、サルデーニャとうはスペインからオーストリアに、シチリアとうはスペインからサヴォイアに割譲かつじょうされた。ヴィットーリオ・アメデーオ2せいシチリアおう1714ねん - 1720ねん)となった。

しかし、スペインは旧領きゅうりょう回復かいふく目指めざしてサルデーニャとうとシチリアとう占領せんりょうし、よんカ国かこく同盟どうめい戦争せんそう1718ねん - 1720ねん)が勃発ぼっぱつした。イギリス・フランス・オランダ・オーストリアの四国しこく同盟どうめいたいして敗勢はいせいまわったスペインは、1720ねんハーグ条約じょうやくむすんで和平わへいいたった。この戦争せんそうではシチリアとうとその周辺しゅうへん海上かいじょう同盟どうめいぐんとスペインとの戦闘せんとう展開てんかいされた。サヴォイアはおくれて同盟どうめいくわわったため、おおきな役割やくわりたさなかった。

サヴォイアのサルデーニャ王国おうこく

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1796ねんのイタリア(サルデーニャ王国おうこくあお

サルデーニャ王国おうこく成立せいりつ

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1720ねん、ヴィットーリオ・アメデーオ2せいは、シチリアとうオーストリアカール6せい割譲かつじょうし、その代償だいしょうとしてオーストリアからサルデーニャとう割譲かつじょうされた。ヴィットーリオ・アメデーオ2せいはサルデーニャおう称号しょうごう、「サルデーニャ王国おうこく」を成立せいりつさせた。

ポーランド継承けいしょう戦争せんそう(1733ねん - 1738ねん)では、フランス・スペインにくみして参戦さんせんし、ロンバルディア支配しはいするオーストリアとたたかった。

フランス革命かくめい・ナポレオン戦争せんそう

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フランス革命かくめい戦争せんそうさいしては、フランス革命かくめい政府せいふからはんオーストリア同盟どうめい締結ていけつする提案ていあんけたが、代償だいしょうとしてサヴォワニース割譲かつじょう要求ようきゅうされたため、1792ねん9月より同盟どうめい拒否きょひしてオーストリアがわ参戦さんせんした。しかし、まもなくフランスぐん敗北はいぼく1796ねん4がつ28にちにケラスコの休戦きゅうせんむすび、サヴォイア(サヴォワ)、ニッツァ(ニース)、クーネオ、テンダ(現在げんざいふつりょう)などをフランス割譲かつじょうした。1798ねんには、カルロ・エマヌエーレ4せいがトリノから追放ついほうされ、ピエモンテにはピエモンテ共和きょうわこく成立せいりつし、のちにフランスに併合へいごうされる。カルロ・エマヌエーレ4せいはサルデーニャとう拠点きょてんうつした。

1802ねんヴィットーリオ・エマヌエーレ1せい即位そくい近代きんだい政策せいさくすすめた。

1815ねんウィーン会議かいぎ決定けっていしたがって、フランス革命かくめい戦争せんそうおよナポレオン戦争せんそううしなった領土りょうど回復かいふくたした。また、このさいジェノヴァ併合へいごうした。

1821ねん3月、自由じゆう主義しゅぎ将校しょうこうだん中心ちゅうしんとした立憲りっけん革命かくめい勃発ぼっぱつした。王家おうけ一門いちもん貴族きぞくであるカリニャーノこうカルロ・アルベルト(のちに国王こくおうとなる)の理解りかい立憲りっけんせいへの移行いこう実現じつげんしようとしたが、革命かくめい方針ほうしんをめぐる内部ないぶ分裂ぶんれつもあり、オーストリア軍事ぐんじ干渉かんしょうけて失敗しっぱいした。

イタリア統一とういつへのみち

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1839ねんのサルデーニャ王国おうこく
カヴール首相しゅしょう。サルデーニャの近代きんだい尽力じんりょく

1831ねんカルロ・フェリーチェのないまま死去しきょし、サヴォイア本家ほんけサヴォイア=ブレッセ)は男子だんし継承けいしょうしゃうしなった。このため傍系ぼうけいカリニャーノこうカルロ・アルベルト王位おうい継承けいしょうした。カルロ・アルベルトは近代きんだい政策せいさくすすめたが、一方いっぽう絶対ぜったい主義しゅぎてき君主くんしゅとしてい、1833ねんには青年せいねんイタリア弾圧だんあつくわえている。

1848ねん、フランスのがつ革命かくめい契機けいきとしてヨーロッパ各地かくち自由じゆう主義しゅぎナショナリズム高揚こうようした(しょ国民こくみんはる)。きたイタリアでもはんオーストリアの反乱はんらん勃発ぼっぱつする(ミラノの5日間にちかんなど)。カルロ・アルベルトはこれにじょうじてオーストリアに宣戦せんせんし、ロンバルディア地方ちほう併合へいごうはかった(だいいちイタリア統一とういつ戦争せんそう)。しかし、共和きょうわとの反目はんもくなどがあり、ヨーゼフ・ラデツキーひきいるオーストリアぐん敗北はいぼくした。権威けんい失墜しっついさせ、1849ねんに、カルロ・アルベルトは退位たいい亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。

ちちカルロ・アルベルトの退位たいいによって即位そくいしたヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいは、1852ねん首相しゅしょうとしてカヴール伯爵はくしゃくカミッロ・ベンソ登用とうようした。

イタリアのおおくの国家こっか1848ねん熱狂ねっきょう反動はんどうしたのにたいし、サルデーニャでは自由じゆう主義しゅぎてき憲法けんぽう維持いじされ、教育きょういく充実じゅうじつ工業こうぎょう推進すいしん交通こうつうもう整備せいびなど、一連いちれん近代きんだい政策せいさく推進すいしんされた。このことはイタリア各地かくち人々ひとびとに、立憲りっけん君主くんしゅせい国家こっかであるサルデーニャを中心ちゅうしんとしたイタリア統一とういつへの支持しじつよめさせることになった。

しかし、サルデーニャを強国きょうこくにするためには、当時とうじ大国たいこく同盟どうめい関係かんけいむすぶことが必要ひつようであった。そのうえで、経済けいざいてきにもゆたかなロンバルド=ヴェネト(オーストリア帝国ていこくりょう)を併合へいごうすることがのぞまれた。そのため、東方とうほうこっていたクリミア戦争せんそうではオスマン帝国ていこくがわ参戦さんせんし、フランス・イギリスの歓心かんしんて、イタリア統一とういつけて有利ゆうり国際こくさい関係かんけい構築こうちくしていった。

1858ねん、サルデーニャはプロンビエールの密約みつやくフランスむすび、たいオーストリア戦争せんそうけての外交がいこうてき準備じゅんびととのった。1859ねん4がつ29にちよりサルデーニャとオーストリアの戦争せんそう開始かいしされ(だいイタリア独立どくりつ戦争せんそう)、フランスぐん援助えんじょけてソルフェリーノのたたか勝利しょうりおさめてロンバルディアヴェネト一部いちぶれた。中部ちゅうぶイタリアでは、パルマ公国こうこくモデナ公国こうこくトスカーナ大公たいこうこくでサルデーニャ王国おうこくへの合流ごうりゅう選択せんたくされた(中央ちゅうおう統合とうごうしょしゅう)。

1860ねんには、ガリバルディ義勇軍ぎゆうぐんせんにんたい、あるいはあかシャツたい)がみなみイタリアのりょうシチリア王国おうこく征服せいふくした。しかし、中央ちゅうおう統合とうごうしょしゅう編入へんにゅうさいして、フランスがプロンビエールの密約みつやく履行りこう要求ようきゅうしたため、サヴォワニースはくりょうアルプ=マリティームけん)の割譲かつじょう余儀よぎなくされる。1860ねん10月26にち、ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい会見かいけんテアーノの握手あくしゅイタリアばん)で、ガリバルディはかれしたが兵士へいしに「ここにイタリア国王こくおうがおられるのだ!」とげ、占領せんりょうをサルデーニャ王国おうこく献上けんじょうした。

1861ねん、トリノに召集しょうしゅうされただい1かいイタリア国民こくみん議会ぎかいは、2がつ18にちにヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのイタリアおう即位そくい承認しょうにん3月17にち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのイタリアおう即位そくい正式せいしき宣言せんげんされた。ここに、サルデーニャ王国おうこくイタリア王国おうこくとなる。

歴代れきだい国王こくおう

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  1. ヴィットーリオ・アメデーオ2せい1720ねん - 1730ねん
  2. カルロ・エマヌエーレ3せい(1730ねん - 1773ねん
  3. ヴィットーリオ・アメデーオ3せい1773ねん - 1796ねん
  4. カルロ・エマヌエーレ4せい(1796ねん - 1802ねん
  5. ヴィットーリオ・エマヌエーレ1せい(1802ねん - 1821ねん
  6. カルロ・フェリーチェ(1821ねん - 1831ねん
  7. カルロ・アルベルト(1831ねん - 1849ねん
  8. ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい(1849ねん - 1861ねん) → イタリア国王こくおう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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