イタリア発祥 はっしょう の料理 りょうり については「ピザ 」をご覧 らん ください。
ピサ (伊 い : Pisa ( 音声 おんせい ファイル ) )は、イタリア共和 きょうわ 国 こく トスカーナ州 しゅう にある都市 とし であり、人口 じんこう 約 やく 89,000人 にん の基礎 きそ 自治体 じちたい (コムーネ )。
ピサ県 けん の県 けん 都 と である。
Pisa は [ˈpiːza] (ピーザ )と発音 はつおん される。
市 し 北部 ほくぶ にはピサーノ山 さん があり、ヴァルダルノ 谷 たに と接 せっ する。市 し はリグリア海 うみ で潟 かた 地帯 ちたい を形成 けいせい するアルノ川 かわ とセルキオ川 がわ の合流 ごうりゅう 地点 ちてん にある。
ピサ西部 せいぶ を含 ふく むヴィアレッジョ とリヴォルノ の間 あいだ の地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん 地域 ちいき は、2004年 ねん にユネスコ の生物 せいぶつ 圏 けん 保護 ほご 区 く に指定 してい された[ 5] 。
隣接 りんせつ するコムーネは以下 いか の通 とお り。括弧 かっこ 内 ない のLIはリヴォルノ県 けん 所属 しょぞく を示 しめ す。
ピサにおけるイタリアの気候 きこう 分類 ぶんるい (it ) および度 ど 日 び は、zona D, 1694 GGである[ 6] 。
また、イタリアの地震 じしん リスク階級 かいきゅう (it ) では、zona 3 (sismicità bassa) に分類 ぶんるい される[ 7] 。
ピサの起源 きげん は数 すう 世紀 せいき にわたって不明 ふめい なままである。ペラスゴイ 人 ひと 、ギリシャ人 じん 、エトルリア人 じん 、リグーリア人 じん といった民族 みんぞく が市 し の創立 そうりつ 者 しゃ の候補 こうほ となっている。紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき の考古学 こうこがく 的 てき 痕跡 こんせき は、ピサがギリシャ、ガリア と交易 こうえき を行 おこな っていた港湾 こうわん 都市 とし だったことを立証 りっしょう している。1991年 ねん のアレーナ・ガリバルディ (プロサッカークラブACピサ1909 のホームグラウンド・スタジアム)での発掘 はっくつ 作業 さぎょう 中 ちゅう にエトルリアのネクロポリス の遺跡 いせき が発見 はっけん され、エトルリア人 じん が主導 しゅどう 的 てき 地位 ちい にあった可能 かのう 性 せい が高 たか まった。
古代 こだい ローマ の書物 しょもつ で、ピサは「古都 こと 」として記述 きじゅつ されることが多 おお い。マウルス・セルウィウ・ホノラトゥス はピセイ王 おう (Pisei) テウティまたはペロペスが紀元前 きげんぜん 13世紀 せいき に町 まち を作 つく ったとした。ストラボン はピサの起源 きげん を神話 しんわ の中 なか のトロイ 陥落 かんらく 後 ご のピロス王 おう ネストル にあるとした。ウェルギリウス は『アエネイス 』において、ピサは既 すで に大 おお きく発展 はってん した都市 とし だと記述 きじゅつ した。エトルリア人 じん の土地 とち にできた市 し の基礎 きそ は、アルフェウス 川 かわ 流域 りゅういき 出身 しゅっしん の移住 いじゅう 者 しゃ にあるとされていた。
軍船 ぐんせん の武器 ぶき である衝角 はピサが起源 きげん とされており、ピサの軍港 ぐんこう としての役割 やくわり は既 すで に古代 こだい から、揺 ゆ るぎのないものとなっていた。ピサは、当時 とうじ 小 ちい さな村 むら にすぎなかったジェノヴァ からオスティア へ至 いた る沿岸 えんがん 唯一 ゆいいつ の防衛 ぼうえい 拠点 きょてん であった。ピサは、ローマ海軍 かいぐん の対 たい リグーリア人 じん 、ガリア人 じん 、カルタゴ 人 ひと 遠征 えんせい の基地 きち とされた。紀元前 きげんぜん 180年 ねん 、ローマ法 ほう の下 した で植民 しょくみん 地 ち ポルトゥス・ピサヌス (Portus Pisanus ) となった。紀元前 きげんぜん 89年 ねん 、ポルトゥス・ピサヌスはムニキピウム となった。皇帝 こうてい アウグストゥス は重 じゅう 要港 ようこう として植民 しょくみん 地 ち の防衛 ぼうえい を強化 きょうか し、その名 な をコロニア・ユリア・オブセクエンス (Colonia Iulia obsequens ) へ変更 へんこう した。313年 ねん 以降 いこう 、キリスト教 きりすときょう の司教 しきょう 座 ざ が置 お かれていた。
ロ ろ ーマ帝国 まていこく の末期 まっき 、イタリアの他 た 都市 とし は衰退 すいたい の道 みち を歩 あゆ んだが、ピサはさほど衰 おとろ えなかったといわれている。これは河川 かせん の水運 すいうん の規模 きぼ の大 おお きさと、強力 きょうりょく な防衛 ぼうえい 力 りょく に支 ささ えられていた。7世紀 せいき 、ピサはローマ教皇 きょうこう グレゴリウス1世 せい に対 たい し、教皇 きょうこう が行 おこな うラヴェンナ の対 たい 東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 軍事 ぐんじ 遠征 えんせい においておびただしい数 かず の船舶 せんぱく を供給 きょうきゅう することで支援 しえん した。ピサは、トスカーナ (当時 とうじ はトゥスキア)が自 みずか らの通商 つうしょう 権 けん が妨 さまた げられた近郊 きんこう 地域 ちいき とともに同化 どうか したことで、大 たい した抵抗 ていこう もなくロンゴバルド族 ぞく の手 て に陥 おちい ちた中 なか 、たった一 ひと つ残 のこ った東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の中心 ちゅうしん であった。ピサはこのやり方 かた で北 きた ティレニア海 うみ の主 しゅ 要港 ようこう としてその存在 そんざい を重 おも くし、トスカーナ=コルシカ島 とう およびサルデーニャ島 とう 、フランス ・スペイン の南岸 なんがん 間 あいだ の主要 しゅよう 貿易 ぼうえき 中心 ちゅうしん 地 ち となった。
カール大帝 たいてい が、ロンゴバルド王 おう デジデリウス 指揮 しき のロンゴバルド軍 ぐん を774年 ねん に打破 だは した後 のち 、ピサは危機 きき を迎 むか えたがすぐに回復 かいふく した。政治 せいじ 的 てき にはルッカ 公国 こうこく の一部 いちぶ となった。930年 ねん 、ピサはトゥスキアの辺境 へんきょう 侯 こう 内 ない の州都 しゅうと となった(この地位 ちい は神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい オットー1世 せい が即位 そくい するまで保持 ほじ された)。ルッカは首都 しゅと となったが、ピサはそれをしのぐ最 さい 重要 じゅうよう 都市 とし となった。10世紀 せいき 半 なか ばのクレモナ 司教 しきょう リウトプランド は、ピサを『トゥスキア州 しゅう の首都 しゅと 』(Tusciae provinciae caput) と呼 よ んだ。そして一 いち 世紀 せいき 後 ご 、トゥスキア辺境 へんきょう 侯 こう はピサ侯 こう と普通 ふつう に称 しょう されるようになった。1003年 ねん 、ピサは、ルッカの方針 ほうしん に反 はん し、イタリアにおける最初 さいしょ のコムーネ戦争 せんそう の主役 しゅやく となった。海軍 かいぐん の要衝 ようしょう としての観点 かんてん から、9世紀 せいき 以降 いこう サラセン人 じん 海賊 かいぞく の出現 しゅつげん が市 し をその海軍 かいぐん 力 りょく の拡大 かくだい に駆 か り立 た てることとなった。続 つづ く年月 としつき 、この海軍 かいぐん 力 りょく がピサにさらなる拡大 かくだい の機会 きかい を与 あた えた。828年 ねん 、ピサ艦隊 かんたい が北 きた アフリカを猛襲 もうしゅう した。871年 ねん 、ピサ艦隊 かんたい はサラセン人 じん からのサレルノ 防衛 ぼうえい の主力 しゅりょく となった。970年 ねん 、ピサ艦隊 かんたい は、カラブリア 沿岸 えんがん の前線 ぜんせん で東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 艦隊 かんたい を打 う ち負 ま かすという、オットー1世 せい の遠征 えんせい に強力 きょうりょく な支援 しえん も行 おこな った。
ピサ共和 きょうわ 国 こく の旗 はた 。イタリア海軍 かいぐん 旗 はた を構成 こうせい する歴史 れきし 的 てき なイタリア海洋 かいよう 共和 きょうわ 国旗 こっき の一 ひと つ
ピサの力 ちから は強固 きょうこ な海運 かいうん 国家 こっか として成長 せいちょう し始 はじ め、歴史 れきし 的 てき なイタリアの海洋 かいよう 国家 こっか 4つのうち1つ(その他 た の3つとは、アマルフィ共和 きょうわ 国 こく 、ジェノヴァ共和 きょうわ 国 こく 、そしてヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく )に数 かぞ えられる伝統 でんとう ある栄誉 えいよ を獲得 かくとく した、11世紀 せいき に頂点 ちょうてん に達 たっ した(レプブリケ・マリナーレ )。
当時 とうじ 、ピサは非常 ひじょう に重要 じゅうよう な貿易 ぼうえき 市 し であり、突出 とっしゅつ した地中海 ちちゅうかい 商人 しょうにん の艦隊 かんたい および海軍 かいぐん によって管理 かんり されていた。1005年 ねん 、南 みなみ イタリアのレッジョ・カラブリア 略奪 りゃくだつ によってその勢力 せいりょく を伸 の ばした。ピサは絶 た え間 ま なく、サルデーニャやコルシカを基地 きち とし、地中海 ちちゅうかい を手中 しゅちゅう に置 お こうとするサラセン人 じん と対立 たいりつ した。1017年 ねん 、サラセン人 じん 王 おう ムガヒドの敗北 はいぼく によって、ジェノヴァと同盟 どうめい したピサがサルデーニャを陥落 かんらく させた。この勝利 しょうり は、ピサにティレニア海 うみ での覇権 はけん を与 あた えた。ピサがその後 ご サルデーニャからジェノヴァを追 お い出 だ すと、新 あら たな対立 たいりつ と敵対 てきたい 関係 かんけい が2つの海洋 かいよう 共和 きょうわ 国 こく の間 あいだ に生 う まれた。1030年 ねん から1035年 ねん の間 あいだ 、ピサはシチリア においていくつもの敵対 てきたい する町 まち を打 う ち負 ま かすのに成功 せいこう し、北 きた アフリカのカルタゴを征服 せいふく した。1051年 ねん から1052年 ねん 、提督 ていとく ヤコポ・チウリーニがジェノヴァからさらなる憤怒 ふんぬ を挑発 ちょうはつ して、コルシカ島 とう を征服 せいふく した。1063年 ねん 、提督 ていとく ジョヴァンニ・オルランドはサラセン人 じん 海賊 かいぞく からパレルモ を奪 うば ったノルマン人 じん ルッジェーロ1世 せい の支援 しえん へ向 む かった。パレルモでサラセン人 じん から黄金 おうごん の財宝 ざいほう を奪 うば うことをピサ人 じん は許 ゆる された(ピサ大 だい 聖堂 せいどう や有名 ゆうめい なミラコーリ広場 ひろば を建 た てるためであった)。
1060年 ねん 、ピサはジェノヴァとの最初 さいしょ の戦 たたか いに従事 じゅうじ しなくてはならなかった。ピサの勝利 しょうり が、地中海 ちちゅうかい でのその地位 ちい を堅固 けんご にすることとなった。教皇 きょうこう グレゴリウス7世 せい は1077年 ねん にピサ人 じん によって施行 しこう された『海 うみ の慣習 かんしゅう 法 ほう 』を承認 しょうにん した。そして皇帝 こうてい ハインリヒ4世 せい はピサに、長老 ちょうろう 会議 かいぎ で助言 じょげん される独自 どくじ の執政 しっせい 官 かん を任命 にんめい する権利 けんり を授 さづ けた。これは単純 たんじゅん に当時 とうじ の状況 じょうきょう の確認 かくにん であった。なぜならばそれまでピサ侯 こう が既 すで に権力 けんりょく から閉 し め出 だ されていたからである。1092年 ねん 、教皇 きょうこう ウルバヌス2世 せい は、ピサをコルシカおよびサルデーニャにおける宗主 そうしゅ 国 こく として認 みと め、同時 どうじ に町 まち の地位 ちい を大司教 だいしきょう 座 ざ の位 い へ引 ひ き上 あ げた。
1088年 ねん 、ピサは北 きた アフリカのマフディア(現 げん チュニジア )を略奪 りゃくだつ した。4年 ねん 後 ご 、ピサとジェノヴァの艦隊 かんたい は、バレンシア王国 おうこく のエル・シッド を討 う つカスティーリャ 王 おう アルフォンソ6世 せい を支援 しえん した。120隻 せき ものピサ艦隊 かんたい は第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん にも参加 さんか した。そしてピサ人 じん は1099年 ねん のエルサレム 占領 せんりょう において助 たす けとなった。聖地 せいち へ至 いた るピサの艦隊 かんたい は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう の島々 しまじま をいくつか略奪 りゃくだつ する機会 きかい を忘 わす れなかった。ピサ人 じん の十字軍 じゅうじぐん はピサ大司教 だいしきょう ダゴベルト (のちにエルサレム総 そう 主教 しゅきょう となる)に率 ひき いられていた。ピサとその他 た の海洋 かいよう 共和 きょうわ 国 こく は十字軍 じゅうじぐん で、シリア 、レバノン 、パレスチナ の東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん 諸 しょ 都市 とし で通商 つうしょう 地点 ちてん や植民 しょくみん 地 ち をつくった。特 とく にピサ人 じん はアンティオキア 、ヤッファ 、トリポリ 、ティルス 、ラタキヤ 、アッコン に植民 しょくみん 地 ち をたてた。彼 かれ らはエルサレムとカエサリア にも別 べつ の所領 しょりょう を持 も ち、加 くわ えてカイロ 、アレクサンドリア に、より小 ちい さな自治 じち 権 けん を持 も つ植民 しょくみん 地 ち を抱 かか えていた。もちろんコンスタンティノープル にも、皇帝 こうてい アレクシオス1世 せい コムネノス から特別 とくべつ な係留 けいりゅう 許可 きょか と通商 つうしょう 権 けん とを授 さづ けられていた。これら全 すべ ての都市 とし で、ピサ人 じん は特権 とっけん と徴税 ちょうぜい 免除 めんじょ 権 けん を授 さづ けられていた。しかし都市 とし が攻撃 こうげき された場合 ばあい は防衛 ぼうえい に貢献 こうけん しなければならなかった。12世紀 せいき 、コンスタンティノープル東部 とうぶ にあるピサ人 じん 居住 きょじゅう 区 く は人口 じんこう 1,000人 にん に成長 せいちょう していた。12世紀 せいき の数 すう 年間 ねんかん 、ピサはヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく に打 う ち勝 か ち、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を結 むす んだ国家 こっか であり、最 もっと も地位 ちい に揺 ゆ るぎない商人 しょうにん となっていた。
大 だい 聖堂 せいどう 付属 ふぞく 洗礼 せんれい 堂 どう
1113年 ねん 、ピサと教皇 きょうこう パスカリス2世 せい は共 とも にバルセロナ伯 はく とその他 た プロヴァンス およびイタリア諸侯 しょこう (ジェノヴァを閉 し め出 だ している)と組 く んでムーア人 じん からバレアレス諸島 しょとう を解放 かいほう する戦争 せんそう を始 はじ めた。マジョルカの王 おう ・王妃 おうひ は鎖 くさり につながれてローマへ連行 れんこう された。ムラービト朝 あさ はすぐに諸島 しょとう を再 さい 征服 せいふく したのだが、戦利 せんり 品 ひん はピサ人 じん が壮麗 そうれい な建物 たてもの の部品 ぶひん とするため持 も ち出 だ していた(特 とく に大 だい 聖堂 せいどう 建設 けんせつ のため)。ピサは西 にし 地中海 ちちゅうかい における最高 さいこう 位 い を狙 ねら える地位 ちい を得 え た。
その後 ご 数 すう 年 ねん の強力 きょうりょく なピサ艦隊 かんたい は、ピエトロ・モリコーニ大司教 だいしきょう に率 ひき いられ、残忍 ざんにん な戦闘 せんとう の後 のち にサラセン人 じん を海 うみ へ投 な げ込 こ んだ。短期間 たんきかん ではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝 せんしょう はジェノヴァとの敵対 てきたい 関係 かんけい を悪化 あっか させた。ピサの対 たい ラングドック 貿易 ぼうえき 、対 たい プロヴァンス 貿易 ぼうえき (ノーリ 、サヴォーナ 、フレジュス 、モンペリエ )は、イエール 、フォス 、アンティーブ 、マルセイユ のような都市 とし でジェノヴァ勢力 せいりょく の障害 しょうがい となったのである。
1119年 ねん にジェノヴァが、母国 ぼこく へ戻 もど る途中 とちゅう の数 すう 隻 せき のピサ船舶 せんぱく に攻撃 こうげき したことで戦争 せんそう が始 はじ まり、1133年 ねん まで続 つづ いた。2都市 とし は互 たが いに陸海 りくかい で争 あらそ ったが、戦闘 せんとう 行為 こうい は海賊 かいぞく のような猛攻 もうこう と略奪 りゃくだつ に限 かぎ られていた。
1135年 ねん 6月 がつ 、クレルヴォーのベルナルドゥス がピサ会議 かいぎ の主導 しゅどう 者 しゃ となり、彼 かれ は1130年 ねん に選出 せんしゅつ された教皇 きょうこう アナクレトゥス2世 せい に対抗 たいこう してインノケンティウス2世 せい の権利 けんり を援護 えんご した。アナクレトゥス2世 せい はノルマン人 じん 支持 しじ を得 え て教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ されたが、ローマの外 そと では正式 せいしき な教皇 きょうこう に認 みと められていなかった。インノケンティウス2世 せい はジェノヴァとの対立 たいりつ を解消 かいしょう すべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域 りょういき を取 と り決 き めた。 ピサは決定 けってい にならったが、ジェノヴァによって妨 さまた げられた。シチリア王 おう ルッジェーロ2世 せい とインノケンティウス2世 せい の対立 たいりつ が関係 かんけい していたためである。海洋 かいよう 共和 きょうわ 国 こく の一 ひと つアマルフィ共和 きょうわ 国 こく (ノルマン支配 しはい に変 か わってから既 すで に衰退 すいたい し始 はじ めていた)を、ピサが1136年 ねん 8月 がつ 6日 にち に征服 せいふく した。ピサは港 みなと に停泊 ていはく する船舶 せんぱく を破壊 はかい し、周辺 しゅうへん 地域 ちいき の複数 ふくすう の城 しろ を略奪 りゃくだつ 、そしてアヴェルサ からルッジェーロ2世 せい が送 おく り込 こ んだ軍 ぐん を後退 こうたい させた。この勝利 しょうり がピサをその権力 けんりょく の頂点 ちょうてん へ導 みちび き、ヴェネツィアと対等 たいとう の位置 いち へと押 お し上 あ げた。2年 ねん 後 ご 、ピサ兵 へい がサレルノを略奪 りゃくだつ した。
続 つづ く数 すう 年 ねん 、ピサはギベリン(皇帝 こうてい 派 は )の忠実 ちゅうじつ な支持 しじ 者 しゃ の一 ひと つであった。これが皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい によってさらに評価 ひょうか された。彼 かれ は1162年 ねん と1165年 ねん に2つの重要 じゅうよう な公文書 こうぶんしょ と、以下 いか の特権 とっけん を授 さづ けた。『ピサの田園 でんえん 地帯 ちたい における司法 しほう 権 けん から帝国 ていこく が手 て を引 ひ くこと、ピサ人 じん は神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 全土 ぜんど 、チヴィタヴェッキア 、ポルトヴェーネレ 、パレルモ の半分 はんぶん 、メッシーナ 、サレルノ、ナポリ 、ガーエタ全体 ぜんたい 、マーザラ・デル・ヴァッロ 、トラーパニ など沿岸 えんがん 都市 とし で貿易 ぼうえき の自由 じゆう が授 さづ けられること、シチリア王国 おうこく の全 すべ ての都市 とし でピサ商人 しょうにん の家 いえ が通 とお りに建 た てられること』。これらの特権 とっけん の一部 いちぶ は後 のち にハインリヒ6世 せい 、オットー2世 せい 、フリードリヒ2世 せい らによって追認 ついにん された。これらはピサの権力 けんりょく の最高潮 さいこうちょう を記 しる していた。しかし、ルッカ、マッサ 、ヴォルテッラ 、フィレンツェ といった都市 とし のピサへの敵意 てきい にも拍車 はくしゃ がかかった。これら諸 しょ 都市 とし は海 うみ に向 む かって横切 よこぎ り自国 じこく の力 ちから を拡大 かくだい するもくろみがあった。ルッカとの衝突 しょうとつ も、モンティノーゾ城 じょう の所有 しょゆう と、フランチジェナ街道 かいどう (ローマ=フランス間 あいだ の主要 しゅよう 交易 こうえき 道 どう )の掌握 しょうあく という狙 ねら いに関係 かんけい していた。ピサの突然 とつぜん の権力 けんりょく 拡大 かくだい は、ジェノヴァとの別 べつ の戦 たたか いへ導 みちび くことになっただけだった。
ジェノヴァは南 みなみ フランスの市場 いちば で広範囲 こうはんい に優勢 ゆうせい な地位 ちい を獲得 かくとく していた。戦争 せんそう は1165年 ねん にローヌ川 がわ で、ピサの通商 つうしょう 中心 ちゅうしん 地 ち へ護送 ごそう していたピサ船 せん を、ジェノヴァと同盟 どうめい 者 しゃ であるトゥールーズ伯 はく が攻撃 こうげき したことで始 はじ まった。これは失敗 しっぱい した。ピサは他方 たほう でプロヴァンス伯 はく とも同盟 どうめい していたのである。戦争 せんそう は1175年 ねん まで決定的 けっていてき な勝利 しょうり のないまま続 つづ けられた。摩擦 まさつ の別 べつ の局面 きょくめん は、ピサ、ジェノヴァともハインリヒ6世 せい によって特権 とっけん を授 さづ けられていたシチリアで起 お きた。1192年 ねん 、ピサはメッシーナ 征服 せいふく を成 な し遂 と げた。この挿話 そうわ は、1204年 ねん のジェノヴァのシラクーザ占領 せんりょう という全盛 ぜんせい を極 きわ めた戦 たたか いによって、続 つづ いて起 お きた。後 ご 、シチリアの貿易 ぼうえき 地点 ちてん は新 しん 教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい が即位 そくい したことで失 うしな われた。彼 かれ の前任 ぜんにん 者 しゃ ケレスティヌス3世 せい (フィレンツェ率 ひき いるトスカーナのゲルフ同盟 どうめい と同盟 どうめい していた)によってピサが破門 はもん された見解 けんかい を排除 はいじょ したにもかかわらずである。すぐに彼 かれ はジェノヴァとの条約 じょうやく を明文化 めいぶんか し、南 みなみ イタリアでのピサの存在 そんざい がさらに弱 よわ まることになった。
南 みなみ ティレニア海 うみ でジェノヴァが優勢 ゆうせい であるのと反対 はんたい に、ピサはスペイン・フランスの伝統 でんとう 的 てき な基盤 きばん との協力 きょうりょく 関係 かんけい を強化 きょうか していた(マルセイユ 、ナルボンヌ 、バルセロナ など)。そしてアドリア海 あどりあかい を治 おさ めるヴェネツィアへ挑 いど もうとしていた。1180年 ねん 、ピサとジェノヴァはティレニア海 うみ およびアドリア海 あどりあかい での非 ひ 集団 しゅうだん 的 てき 条約 じょうやく に同意 どうい した。しかしコンスタンティノープルの皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノス が死 し んだことで状況 じょうきょう が変化 へんか した。すぐにヴェネツィアの護送 ごそう 船団 せんだん が東 ひがし ローマで攻撃 こうげき されたのである。ピサはアンコーナ 、プーラ 、ザダル 、スプリト 、そしてブリンディジ との貿易 ぼうえき ・政治 せいじ 的 てき 法令 ほうれい に署名 しょめい した。1195年 ねん 、ピサの船隊 せんたい はヴェネツィアからの独立 どくりつ を守 まも るプーラへ到着 とうちゃく したが、セレニッシマ(ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の別称 べっしょう )はすぐ反乱 はんらん を起 お こした海港 かいこう を再 さい 平定 へいてい し遂 と げたのである。
1年 ねん 後 ご 、2都市 とし はピサにとって好 この ましい結果 けっか となった和平 わへい 条約 じょうやく に署名 しょめい した。しかし1199年 ねん 、ピサ人 じん がプッリャ にあるブリンディジ港 こう を封鎖 ふうさ するという乱暴 らんぼう をジェノヴァに対 たい して働 はたら いた。続 つづ く海戦 かいせん ではピサはヴェネツィア艦隊 かんたい に破 やぶ られた。1206年 ねん に終 お わった戦争 せんそう で、ピサはアドリア海 あどりあかい への拡大 かくだい の野望 やぼう を全 すべ てあきらめる条約 じょうやく を結 むす んだ(アドリア海 あどりあかい での既 すで にある貿易 ぼうえき 地点 ちてん は保持 ほじ された)。ピサ=ヴェネツィア共闘 きょうとう における観点 かんてん から、ジェノヴァの台頭 たいとう に対抗 たいこう して団結 だんけつ し、時 とき には対 たい コンスタンティノープル貿易 ぼうえき による恩恵 おんけい の増大 ぞうだい に手 て を結 むす んだのだった。
1209年 ねん と1217年 ねん 、レーリチ でジェノヴァとの敵対 てきたい 関係 かんけい の最終 さいしゅう 解決 かいけつ のため2度 ど の会議 かいぎ が開 ひら かれ、20年間 ねんかん の和平 わへい 条約 じょうやく が結 むす ばれた。しかし1220年 ねん 、フリードリヒ2世 せい がチヴィタヴェッキアからポルトヴェーネレまでのティレニア海 うみ 沿岸 えんがん を自分 じぶん の宗主 そうしゅ 権 けん が及 およ ぶ地域 ちいき と確認 かくにん した。反 はん ピサを旗印 はたじるし に掲 かか げたジェノヴァとトスカーナの反感 はんかん が再 さい 熱 ねっ したのである。その後 ご の数 すう 年間 ねんかん のピサは、ガルファニャーナ でルッカと激突 げきとつ し、カステル・デル・ボルコでフィレンツェ軍 ぐん によって敗退 はいたい させられた。ピサの強力 きょうりょく な皇帝 こうてい 支持 しじ 派 は としての位置 いち が、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい と格闘 かくとう していた教皇 きょうこう に対 たい してこの町 まち を全 まった く正 せい 反対 はんたい にしてしまっていた。そしてついに教皇 きょうこう は北 きた サルデーニャにあるピサの所領 しょりょう と町 まち を奪 うば い取 と ろうとした。
1238年 ねん 、グレゴリウス9世 せい は反 はん 皇帝 こうてい 派 は であるジェノヴァ=ヴェネツィア間 あいだ の同盟 どうめい 関係 かんけい を樹立 じゅりつ させ、結果 けっか としてその同盟 どうめい は反 はん ピサ同盟 どうめい にもなった。一 いち 年 ねん 後 ご 、グレゴリウス9世 せい は皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい を破門 はもん し、1241年 ねん にはローマで反 はん 皇帝 こうてい 会議 かいぎ が招集 しょうしゅう された。1241年 ねん 5月3日 にち に、皇帝 こうてい の息子 むすこ であるエンツォが率 ひき いるピサの連合 れんごう 艦隊 かんたい とシチリア船団 せんだん が、北 きた イタリアとフランス、トスカーナの前 まえ にあるイーゾラ・デル・ジーリオ から運 はこ んできた高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ を乗 の せたジェノヴァの護衛 ごえい 船 せん へ攻撃 こうげき を仕掛 しか けた。ジェノヴァは25隻 せき の船 ふね とおよそ1000人 にん の船乗 ふなの りが失 うしな われ、2人 ふたり の枢機卿 すうききょう と1人 ひとり の司教 しきょう は身代金 みのしろきん のため捕虜 ほりょ として連 つ れ去 さ られた。この目立 めだ った勝利 しょうり の後 のち 、ローマでの会議 かいぎ は失敗 しっぱい した。しかし、ピサは破門 はもん された。この極端 きょくたん な処置 しょち は1257年 ねん に除 のぞ かれただけだった。いずれにしろ、トスカーナ諸 しょ 都市 とし はコルシカの都市 とし アレーリア を征服 せいふく するのに好 この ましい位置 いち にあり、その地 ち の利 り を利用 りよう しようとしていた。1243年 ねん にはトスカーナ諸 しょ 都市 とし がジェノヴァを包囲 ほうい しようと準備 じゅんび さえした。
リグーリアにあるジェノヴァ共和 きょうわ 国 こく はしかし、この一 いち 撃 げき から素早 すばや く立 た ち直 なお り、数 すう 年 ねん 前 まえ にピサが征服 せいふく していたレーリチを、1256年 ねん に奪 うば い返 かえ した。
地中海 ちちゅうかい での大 おお きな拡張 かくちょう と商人 しょうにん 階級 かいきゅう の突出 とっしゅつ は、市 し の慣習 かんしゅう における修正 しゅうせい を勧告 かんこく した。施政 しせい 官 かん のいるシステムは1230年 ねん に廃止 はいし され、新 あら たな市 し の統治 とうち 者 しゃ は政 せい 軍 ぐん の指導 しどう 者 しゃ として市民 しみん 隊長 たいちょう (Capitano del Popolo) と名付 なづ けられた。これらの改正 かいせい にもかかわらず、征服 せいふく 地 ち と共和 きょうわ 国 こく 本国 ほんごく は、デッラ・ゲラルデスカ家 か とヴィスコンティ家 か の競争 きょうそう 関係 かんけい にある2貴族 きぞく によって悩 なや まされた。1237年 ねん 、大司教 だいしきょう と皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい がライバル関係 かんけい の2家 いえ を和解 わかい させようと仲介 ちゅうかい したが、緊張 きんちょう は止 や まなかった。1254年 ねん 、市民 しみん が暴動 ぼうどう を起 お こし、コムーネにおける彼 かれ らの政治 せいじ 代表 だいひょう として12人 にん のアンツィアーニ・デル・ポポロ(Anziani del Popolo 、市民 しみん の長老 ちょうろう )を押 お しつけた。彼 かれ らも立法 りっぽう 権 けん のある評議 ひょうぎ 委員 いいん (貴族 きぞく からなる)を補足 ほそく し、新 あら たな市民 しみん の評議 ひょうぎ 委員 いいん とともに、主要 しゅよう なギルド や市民 しみん の会社 かいしゃ の長老 ちょうろう によって構成 こうせい されていた。これらは、主要 しゅよう な全体 ぜんたい 議会 ぎかい と立法 りっぽう 機関 きかん の法律 ほうりつ を批准 ひじゅん する権力 けんりょく を持 も っていた。
アルベルティーノ・モロシーニ が指揮 しき するピサ最高 さいこう 艦隊 かんたい が、1284年 ねん 8月 がつ 6日 にち のメローリアの海戦 かいせん (イタリア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で、ベネデット・ザッカリーア とオベルト・ドーリア 率 ひき いるジェノヴァ艦隊 かんたい の輝 かがや かしい高等 こうとう 戦術 せんじゅつ に大敗 たいはい を喫 きっ した時 とき 、ピサの衰退 すいたい が始 はじ まった。この敗北 はいぼく でピサの海運 かいうん 力 りょく は終 お わり、共和 きょうわ 国 こく は二度 にど と以前 いぜん のような力 ちから を取 と り戻 もど すことはなかった。1290年 ねん 、ジェノヴァはピサの主 しゅ 要港 ようこう であるピサーノ港 こう を破壊 はかい した。そして、スキピオ・アエミリアヌス がカルタゴ にしたように、塩 しお で覆 おお ったのである。ピサ周辺 しゅうへん 地域 ちいき は、メローリア海戦 かいせん によって数 すう 千 せん 人 にん の船員 せんいん を失 うしな った痛手 いたで から復活 ふっかつ するのをピサに許 ゆる さなかった。一方 いっぽう でリグーリア地方 ちほう がジェノヴァへ十分 じゅうぶん な船員 せんいん を補償 ほしょう したのである。品質 ひんしつ が劣 おと ったけれども品物 しなもの が貿易 ぼうえき で行 い き来 き し続 つづ けたが、アルノ川 かわ がその流 なが れを変 か え始 はじ めた時 とき 、終焉 しゅうえん がやってきた。川 かわ から上 あ がって市 し の港 みなと へ入 はい るガレー船 せん を妨 さまた げるようになったのである。そして近郊 きんこう でマラリア の流行 りゅうこう がみられるようになった。1324年 ねん のうちに、サルデーニャ全体 ぜんたい がアラゴン王国 おうこく に奪 うば われた。
常 つね に皇帝 こうてい 派 は であったピサは、14世紀 せいき の過程 かてい で、コンドッティエーレ であるウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラ 指揮 しき のピサ軍 ぐん はモンテカティーニの戦 たたか い でフィレンツェ共和 きょうわ 国 こく を敗退 はいたい させさえし、ピサは再 ふたた び軍事 ぐんじ 力 りょく を作 つく り上 あ げようとした。しかしそのすぐ後 ご 、ピサは共和 きょうわ 国内 こくない の内部 ないぶ 闘争 とうそう によって二分 にぶん され、力 ちから を失 うしな ったことで弱体 じゃくたい 化 か し、1406年 ねん にフィレンツェに占領 せんりょう された。1409年 ねん 、ピサは大 だい シスマ解消 かいしょう を目的 もくてき としたピサ公 おおやけ 会議 かいぎ の場 ば となった。さらに15世紀 せいき 、港 みなと が堆積 たいせき され海 うみ から切 き り離 はな されたことで、海 うみ への行 い き来 き がさらに困難 こんなん になった。1494年 ねん にフランス王 おう シャルル8世 せい はナポリ王位 おうい を請求 せいきゅう してイタリア諸国 しょこく へ侵攻 しんこう 、フィレンツェ共和 きょうわ 国 こく が敗退 はいたい し、ピサは第 だい 二 に 次 じ ピサ共和 きょうわ 国 こく として自治 じち 権 けん を再生 さいせい する機会 きかい をいきなりつかんだ。
しかし新 あら たな自由 じゆう は長 なが くなかった。15年間 ねんかん の戦争 せんそう と包囲 ほうい 戦 せん の後 のち 、ピサは1509年 ねん にアントーニオ・ダ・フィリカヤ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、アヴェラルド・サルヴィアーティ、ニッコロ・カッポーニ率 ひき いるフィレンツェ軍 ぐん に再 さい 征服 せいふく されたのである。トスカーナ第 だい 1の港 みなと の地位 ちい はリヴォルノ に奪 うば われた。ピサは主 しゅ として第 だい 2の地位 ちい に甘 あま んじ、1343年 ねん 創立 そうりつ のピサ大学 だいがく の存在 そんざい によって文化 ぶんか 的 てき 役割 やくわり に駆 か り立 た てられた。その衰退 すいたい ぶりは人口 じんこう に明 あき らかに見 み られ、中世 ちゅうせい 以後 いご ほぼ不変 ふへん であった。
ピサは科学 かがく 者 しゃ ガリレオ・ガリレイ の生誕 せいたん 地 ち である。いまだ大司教 だいしきょう 座 ざ がとどまっている。
ピサ大 だい 聖堂 せいどう と斜 はす 塔 とう
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に繰 く り返 かえ し爆撃 ばくげき を受 う けたが、戦後 せんご には工業 こうぎょう 中心地 ちゅうしんち および鉄道 てつどう のハブ地 ち となっている。
ピサの斜 はす 塔 とう
ミラコリ広場 ひろば にあるカンポサント
サンタ・マリア・デッラ・スピナ教会 きょうかい のファサード
サン・フランチェスコ教会 きょうかい
パラッツォ・デッラ・カロヴァーナ
チッタデッラ
川 かわ を跨 また いで旧 きゅう 市街 しがい の北側 きたがわ には、ミラコリ広場 ひろば (「ピサのドゥオモ広場 ひろば 」として世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく )にはピサ大 だい 聖堂 せいどう 、ピサ洗礼 せんれい 堂 どう 、墓所 はかしょ (カンポサント)などの史跡 しせき や建築 けんちく 物 ぶつ があり、ピサの斜 はす 塔 とう もその1つである。
カヴァリエーリ広場 ひろば (Piazza dei Cavalieri ) - 市 し 第 だい 二 に の広場 ひろば 。かつて聖 せい ステファノ騎士 きし 団 だん 本部 ほんぶ が置 お かれていたことからこの名 な がついた。中世 ちゅうせい ピサの政治 せいじ 中心 ちゅうしん 地 ち であった。
サント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会 きょうかい (Chiesa di Santo Stefano dei Cavalieri ) - ジョルジョ・ヴァサーリ 設計 せっけい 。原型 げんけい は本堂 ほんどう 1つであったが、17世紀 せいき にさらに2つが加 くわ えられた。ドナテッロ作 さく の胸像 きょうぞう とヴァサーリ、アレッサンドロ・フェイ、ヤコポ・リゴッツィ、ヤコポ・キメンティの絵画 かいが を所蔵 しょぞう 。16世紀 せいき から18世紀 せいき 、騎士 きし 団 だん とトルコの多 おお くの海戦 かいせん からの略奪 りゃくだつ 品 ひん も含 ふく まれる。
サン・シスト教会 きょうかい (Chiesa di San Sisto) - 教皇 きょうこう シクストゥス2世 せい へ献 けんじ 堂 どう 。1133年 ねん 聖 きよし 化 か 。以前 いぜん は長老 ちょうろう 会議 かいぎ が行 おこな われたこともある。市内 しない で有数 ゆうすう の保存 ほぞん 状態 じょうたい の良 よ い初期 しょき ロマネスク様式 ようしき 建築 けんちく 。
サン・フランチェスコ教会 きょうかい (Chiesa di San Francesco) - 1276年 ねん 以後 いご 建設 けんせつ 。ジョヴァンニ・ディ・シモーネ設計 せっけい 。1343年 ねん に新 あたら しい礼拝 れいはい 堂 どう が加 くわ えられた。一 ひと つの本堂 ほんどう と有名 ゆうめい な鐘楼 しゅろう 、15世紀 せいき の回廊 かいろう で知 し られる。ゲラルデスカ礼拝 れいはい 堂 どう にはウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ と息子 むすこ たちを埋葬 まいそう している。
サン・フレディアーノ教会 きょうかい (Chiesa di San Frediano) - 1061年 ねん 建設 けんせつ 。3つの側 がわ 廊 ろう のあるバシリカの内装 ないそう 、12世紀 せいき からのキリスト磔 はりつけ 像 ぞう がある。16世紀 せいき に描 えが かれたヴェントゥラ・サリンベーニ、ドメニコ・パッシニャーノ、アウレリーオ・ロミ、ルティリオ・マネッティの絵画 かいが が修繕 しゅうぜん の間 あいだ に加 くわ えられた。
サン・ニコラ教会 きょうかい (Chiesa di San Nicola) - 1097年 ねん 建設 けんせつ 。1297年 ねん から1313年 ねん までアウグスチノ会 かい によって拡大 かくだい された。ジョヴァンニ・ピサーノ設計 せっけい とされる。8角形 かくがた の鐘楼 しゅろう は13世紀 せいき 半 なか ばからのもの。
サンタ・マリア・デッラ・スピナ教会 きょうかい (Chiesa di Santa Maria della Spina) - 1230年 ねん 、ルポ・ディ・フランチェスコによるものとされるゴシック建築 けんちく 。
サン・パオロ・ア・リパ・ダルノ教会 きょうかい (Chiesa di San Paolo a Ripa d'Arno) - 952年 ねん 頃 ごろ 創立 そうりつ 。12世紀 せいき 半 なか ばに拡大 かくだい 。ピサ大 だい 聖堂 せいどう と似 に ている。奇妙 きみょう なピラミッド型 がた の先端 せんたん のある、ロマネスク様式 ようしき のサンターガタ礼拝 れいはい 堂 どう を伴 ともな う。
ボルゴ・ストレット (Borgo Stretto) - アルノ川 かわ 沿 ぞ いのルニャルノ大通 おおどお りと、中世 ちゅうせい のアーケード下 か をぶらつくことのできる近辺 きんぺん 。ゴシックとロマネスクの折衷 せっちゅう されたサン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会 きょうかい (990年 ねん )を含 ふく む。そこには少 すく なくとも2つの異 こと なるたいそうな斜 はす 塔 とう があり、一 ひと つは中央 ちゅうおう のサンタ・マリア通 どお りの南端 なんたん に、もう一方 いっぽう は川 かわ 沿 ぞ いの歩道 ほどう ピアッジェを通 とお り抜 ぬ ける中途 ちゅうと にある。
メディチ宮殿 きゅうでん - かつて、1392年 ねん から1398年 ねん までピサを支配 しはい したアッピアーノ家 か が所有 しょゆう 。1400年 ねん にメディチ家 か が獲得 かくとく し、ロレンツォ・デ・メディチ が滞在 たいざい した。
ピサ植物 しょくぶつ 園 えん (Orto botanico di Pisa) - ヨーロッパ最古 さいこ の大学 だいがく 付属 ふぞく 植物 しょくぶつ 園 えん
パラッツォ・レアーレ (Palazzo Reale) - かつてローマ貴族 きぞく カエターニ家 か が住 す んだ。ここでガリレオ・ガリレイは、自分 じぶん の天体 てんたい 望遠鏡 ぼうえんきょう で発見 はっけん した惑星 わくせい をトスカーナ大公 たいこう へ見 み せた。宮殿 きゅうでん はコジモ1世 せい ・デ・メディチ のため1559年 ねん にバッチョ・バンディネッリ が建 た てた。のち他 た の宮殿 きゅうでん も含 ふく め拡大 かくだい された。
パラッツォ・ガンバコルティ (Palazzo Gambacorti) - 14世紀 せいき のゴシック様式 ようしき 。現在 げんざい は市役所 しやくしょ が入 はい っている。内部 ないぶ では、ピサの海上 かいじょう の勝利 しょうり を表 あらわ したフレスコ画 が が見 み られる。
パラッツォ・アゴスティーニ (Palazzo Agostini) - パラッツォ・デッルッゼーロ (Palazzo dell'Ussero) の名 な でも知 し られるゴシック様式 ようしき の建物 たてもの 。15世紀 せいき のファサード、1155年 ねん 以前 いぜん からという古代 こだい の市 し 城壁 じょうへき を持 も つ。建物 たてもの の名 な は、1775年 ねん 9月 がつ 1日 にち にできた歴史 れきし ある会合 かいごう 場所 ばしょ カッフェ・デッルッゼーロ (Caffè dell’Ussero) にちなむ。
トゥットモンドの壁画 へきが - キース・ヘリング が最後 さいご に行 い った公共 こうきょう の場 ば の作品 さくひん 。サンタントーニオ教会 きょうかい の背面 はいめん 壁 かべ に1989年 ねん 6月 がつ に描 えが かれた。
ムゼオ・デッロペラ・デル・ドゥオモ (Museo dell'Opera del Duomo) - ニコラ・ピサノ 、ジョヴァンニ・ピサノ の彫刻 ちょうこく 作品 さくひん の原作 げんさく を展示 てんじ 。他 た に大 だい 聖堂 せいどう の至宝 しほう を展示 てんじ 。
シノピエ美術館 びじゅつかん (Museo delle Sinopie) - カンポサントから出 で た出土 しゅつど 品 ひん を展示 てんじ 。
国立 こくりつ サン・マッテオ美術館 びじゅつかん (Museo Nazionale di S. Matteo) - 12世紀 せいき から15世紀 せいき の彫刻 ちょうこく と絵画 かいが を展示 てんじ
国立 こくりつ パラッツォ・レアーレ美術館 びじゅつかん (Museo Nazionale di Palazzo Reale) - パラッツォ・レアーレに暮 く らした貴族 きぞく らの所有 しょゆう 物 ぶつ を展示 てんじ
ムゼオ・ナツィオナーレ・デッリ・ストルメンティ・ペル・イル・カルコーロ (Museo Nazionale degli Strumenti per il Calcolo) - 科学 かがく 分野 ぶんや で用 もち いられた器具 きぐ の収集 しゅうしゅう 品 ひん を展示 てんじ 。ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク の圧縮 あっしゅく 機 き 、おそらくガリレイ所有 しょゆう とされているコンパスなど
ピサ大学 だいがく 自然 しぜん 史 し 博物館 はくぶつかん (Museo di storia naturale e del territorio dell'Università di Pisa) - 市 し 郊外 こうがい のチェルトーザ・ディ・ピサにある。ヨーロッパ有数 ゆうすう の大 おお きさのクジラ目 め の骨格 こっかく を展示 てんじ
ピサは、ピサ大学 だいがく の所在地 しょざいち である。ピサ大学 だいがく はメインキャンパスを持 も たずピサ市内 しない に講義 こうぎ 棟 とう が点在 てんざい していることが特徴 とくちょう 的 てき である。特 とく に物理 ぶつり 学 がく 、数学 すうがく 、工学 こうがく 、コンピューター科学 かがく の各 かく 分野 ぶんや で名高 なだか い。サンターナ大学院 だいがくいん 大学 だいがく 、ピサ高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう は、イタリアの学問 がくもん 研究 けんきゅう のエリート養成 ようせい 機関 きかん で、主 しゅ として大学院生 だいがくいんせい の教育 きょういく と研究 けんきゅう を行 おこな う。そのほか、イタリア学術 がくじゅつ 会議 かいぎ (CNR) 所属 しょぞく の有機 ゆうき 金属 きんぞく 化学 かがく 研究所 けんきゅうじょ (ICCOM) 拠点 きょてん があり、計算 けいさん 機 き 科学 かがく 、情報 じょうほう 科学 かがく などの研究 けんきゅう が盛 さか んである。
東側 ひがしがわ の地中海 ちちゅうかい に面 めん した高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 街 がい マリーナ・ディ・ピサ (en ) は、年金 ねんきん 生活 せいかつ 者 しゃ が多 おお く暮 く らす夏 なつ のリゾート地 ち である。
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年間 ねんかん
最高 さいこう 気温 きおん (°C)
10
11
15
18
22
26
30
29
26
21
16
11
19.6
最低 さいてい 気温 きおん (°C)
2
3
4
7
10
14
18
17
14
11
6
2
9
降水 こうすい 量 りょう (mm)
69
71
72
85
56
48
28
52
93
112
135
80
901
ピサには、以下 いか の分離 ぶんり 集落 しゅうらく (フラツィオーネ)がある。
Calambrone, Coltano, Marina di Pisa, San Piero a Grado-La Vettola, San Rossore, Tirrenia
ピエル・パオロ・パゾリーニ の『王妃 おうひ メディア』、第 だい 30回 かい カンヌ国際映画祭 かんぬこくさいえいがさい パルムドール を受賞 じゅしょう した『父 ちち パードレ・パドローネ 』、第 だい 69回 かい アカデミー賞 しょう 作品 さくひん 賞 しょう を受賞 じゅしょう した『イングリッシュ・ペイシェント 』が、ピサで撮影 さつえい された。
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