コルシカ島 とう (コルシカとう、コルシカ語 ご : Corsica )、または、コルス島 とう (コルスとう、仏 ふつ : Corse 、フランス語 ふらんすご 発音 はつおん : [kɔʁs] )は、地中海 ちちゅうかい 西部 せいぶ 、イタリア半島 はんとう の西 にし に位置 いち するフランス 領 りょう の島 しま である。面積 めんせき は約 やく 8,680km2 (日本 にっぽん の広島 ひろしま 県 けん と同 どう 程度 ていど )と、地中海 ちちゅうかい ではシチリア島 とう 、サルデーニャ島 とう 、キプロス島 とう に次 つ いで4番目 ばんめ に大 おお きい。漢字 かんじ 表記 ひょうき は哥而西 にし 加 か [1] 。
フランス皇帝 こうてい ナポレオン1世 せい の出身 しゅっしん 地 ち [2] として知 し られ、1980年代 ねんだい にはコルシカ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FLNC) が活動 かつどう して爆 ばく 弾 だん テロ事件 じけん を頻発 ひんぱつ させていたことでも知 し られる。
島 しま の名前 なまえ の「コルシカ」 (Corsica ) はイタリア語 ご での呼称 こしょう であり、フランス語 ふらんすご では「コルス」 (Corse ) 、コルシカ語 ご では「コルシガ」 (Corsica ) となる。フェニキア語 ご で「森林 しんりん の多 おお い」の意 い 。
フランスの地域 ちいき 圏 けん の一 ひと つとされるが、1991年 ねん 以降 いこう は他 た の地域 ちいき 圏 けん にはない権限 けんげん が付与 ふよ されたコルス地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい (Collectivité Territoriale de Corse, CTC ) がコルシカ島 とう 全体 ぜんたい の行政 ぎょうせい を統括 とうかつ する。
島 しま は南部 なんぶ のコルス=デュ=シュド県 けん (Corse-du-Sud, 2A ) 及 およ び北部 ほくぶ のオート=コルス県 けん (Haute-Corse, 2B ) に分 わ けられたが、2018年 ねん 1月 がつ 、コルシカ島 とう では県 けん が廃止 はいし され、上記 じょうき 2県 けん の議会 ぎかい 、県庁 けんちょう の機能 きのう と権限 けんげん がコルス地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい に統合 とうごう された。これにより、CTCは、「コルス単一 たんいつ 地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい (Collectivité unique de Corse)」、「コルス公共 こうきょう 団体 だんたい (Collectivité de Corse)」とも呼 よ ばれるようになった。
コルシカ島 とう (コルス島 とう )の位置 いち
1914年 ねん のヨーロッパ の民族 みんぞく 地図 ちず
南北 なんぼく 183km、東西 とうざい 83kmに及 およ ぶ島 しま は2億 おく 5千 せん 万 まん 年 ねん 前 まえ に西側 にしがわ で隆起 りゅうき した花崗岩 かこうがん に5千 せん 万 まん 年 ねん 前 まえ に東側 ひがしがわ の堆積岩 たいせきがん が押 お し付 つ けられ片岩 かたいわ が出来 でき たという地質 ちしつ からなり、ほとんどが急峻 きゅうしゅん な山岳 さんがく で占 し められ、2500メートルを超 こ える高峰 こうほう が連 つら なる。最高峰 さいこうほう はチント山 さん (コルシカ語 ご ではモンテ・ヂントゥ)で2710メートル、ついでロトンド山 さん (同 どう モンテ・ロドンドゥ、2625メートル)、アル・バルダート山 さん (同 どう カブ・アウ・ベルダードゥ、2583メートル)、ビアンコ山 さん (同 どう カブ・ウィアンク、2562メートル)、ミヌータ山 さん (同 どう プンタ・ミヌーダ、2556メートル)である。これら高峰 こうほう は島 しま を2つに分 わ けるように西北 せいほく から南東 なんとう へ連 つら なっており、その西側 にしがわ と東側 ひがしがわ では風俗 ふうぞく や社会 しゃかい 形態 けいたい 、言語 げんご などが対照 たいしょう 的 てき に異 こと なっている。
沿岸 えんがん 部 ぶ の気候 きこう は他 た の地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん 地域 ちいき と大差 たいさ なく年中 ねんじゅう 温暖 おんだん で少雨 しょうう であるが、山岳 さんがく 地域 ちいき は冷涼 れいりょう 多雨 たう で冬季 とうき には雪 ゆき が積 つ もり、スキー場 じょう が4箇所 かしょ ある。
沿岸 えんがん 部 ぶ の地形 ちけい は東部 とうぶ (東海岸 ひがしかいがん )と西部 せいぶ (西海岸 にしかいがん )でまったく異 こと なっている。東海岸 ひがしかいがん は極 きわ めて単調 たんちょう で、コルシカに数少 かずすく ない平野 へいや も広 ひろ がり、ラグーン (潟 かた )も所々 ところどころ で見 み られる。ラグーンのうち主 おも なものは北部 ほくぶ にある全域 ぜんいき が自然 しぜん 保護 ほご 区 く に指定 してい されているビグリア潟 かた (コルシカ語 ご で「ビグーヤ」)、中部 ちゅうぶ アレリア近辺 きんぺん にあり、カキ やム む ール貝 るがい の養殖 ようしょく が行 おこな われているディアヌ潟 かた (同 どう 「ディアナ」)、ウルビノ潟 かた (同 どう 「ウルビーヌ」)である。
一方 いっぽう 西海岸 にしかいがん は断崖絶壁 だんがいぜっぺき が続 つづ き、平野 へいや は中部 ちゅうぶ のグラヴォナ川 がわ (コルシカ語 ご で「ア・ラウォーナ」)河口 かこう 付近 ふきん にあるのみである。西海岸 にしかいがん 北西 ほくせい 部 ぶ のポルト湾 わん は奇岩 きがん 群 ぐん で知 し られ、「ピアナのカランケ、ジロラータ湾 わん 、スカンドーラ自然 しぜん 保護 ほご 区 く を含 ふく むポルト湾 わん 」として世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されている。
コルシカ島 とう は面積 めんせき の割 わり に急峻 きゅうしゅん な山岳 さんがく 地帯 ちたい が大半 たいはん を占 し め、それほど大 だい 規模 きぼ の農業 のうぎょう ・産業 さんぎょう が展開 てんかい できない土地 とち であるため居住 きょじゅう 人口 じんこう は少 すく なく、沿岸 えんがん 部 ぶ および山岳 さんがく 部 ぶ には手付 てつ かずの自然 しぜん が残 のこ されている。島 しま 全体 ぜんたい の4割 わり 近 ちか くがコルシカ地域 ちいき 自然 しぜん 公園 こうえん (PNR) に指定 してい されており、夏 なつ にはハイカーが大勢 おおぜい 訪 おとず れる。
北部 ほくぶ の森林地帯 しんりんちたい には現地 げんち 語 ご でキツネネコ (コルシカ語 ご :ghjattu-volpe)と呼 よ ばれる野生 やせい のネコ が生息 せいそく しており、近年 きんねん の研究 けんきゅう で同種 どうしゅ はコルシカ島 とう 固有 こゆう の種 たね であるとフランス生物 せいぶつ 多様 たよう 性 せい 局 きょく により発表 はっぴょう された[3] 。
コルシカ(コルス)の旗 はた
主要 しゅよう な都市 とし はアジャクシオ (コルス=デュ=シュド県 けん 、南西 なんせい 部 ぶ )とバスティア (オート=コルス県 けん 、北東 ほくとう 部 ぶ )、カルヴィ (オート=コルス県 けん 、北西 ほくせい 部 ぶ )、コルテ (オート=コルス県 けん 、中央 ちゅうおう 部 ぶ )、サルテーヌ (コルス=デュ=シュド県 けん 、南部 なんぶ )が挙 あ げられる。これらのうち、コルテとサルテーヌは内陸 ないりく 部 ぶ の都市 とし だが、ほかは沿岸 えんがん 部 ぶ の都市 とし である。
都市 とし の規模 きぼ はいずれも小 ちい さい。最大 さいだい の都市 とし アジャクシオでも人口 じんこう は6万 まん 人 にん 前後 ぜんこう である[4] 。バスティアも同様 どうよう である。カルヴィやコルテに至 いた っては1万 まん 人 にん にも満 み たない。
古代 こだい ・中世 ちゅうせい [ 編集 へんしゅう ]
はるか昔 むかし には、山岳 さんがく 部 ぶ に居住 きょじゅう する先住民 せんじゅうみん と外来 がいらい の支配 しはい 者 しゃ に明確 めいかく に区分 くぶん されていた。先住民 せんじゅうみん についてはその詳細 しょうさい は未 いま だ解明 かいめい されていないが、ケルト先住民 せんじゅうみん と共通 きょうつう する文明 ぶんめい 、例 たと えば巨石 きょせき 文明 ぶんめい や人物 じんぶつ の彫塑 ちょうそ のある石柱 せきちゅう が島 しま の南部 なんぶ に多数 たすう 見 み られる。
一方 いっぽう 、外来 がいらい 者 しゃ は紀元前 きげんぜん にはフォカイア 、エトルリア 、カルタゴ などが、中継 ちゅうけい 貿易 ぼうえき 拠点 きょてん としてコルシカ島 とう の沿岸 えんがん 地帯 ちたい の覇権 はけん を争 あらそ った。島 しま 東部 とうぶ 海岸 かいがん にあるアレリアにはエトルリアの遺跡 いせき がある。最終 さいしゅう 的 てき に島 しま に対 たい する覇権 はけん を握 にぎ ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争 せんそう で古代 こだい ローマ に敗 やぶ れたため、紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 頃 ころ から島 しま の支配 しはい 権 けん はローマに移 うつ る。
ローマはアレリアに都市 とし を建造 けんぞう し、さらに北部 ほくぶ バスティア南郊 なんこう にマリアナを築 きず く。ローマによる繁栄 はんえい はしばらく続 つづ くが、ロ ろ ーマ帝国 まていこく が東西 とうざい に分裂 ぶんれつ し、ゲルマン勢力 せいりょく の侵入 しんにゅう が始 はじ まると、コルシカ島 とう には外部 がいぶ 勢力 せいりょく 、特 とく に海賊 かいぞく による襲撃 しゅうげき が始 はじ まる。
6世紀 せいき 後半 こうはん 頃 ごろ から、十字軍 じゅうじぐん によるイスラム 勢力 せいりょく のヨーロッパ からの駆逐 くちく が完了 かんりょう する11世紀 せいき 頃 ころ までこの状態 じょうたい が続 つづ き、島 しま ではこの期間 きかん を「暗黒 あんこく 時代 じだい 」と呼 よ んでいる。山岳 さんがく 部 ぶ の先住民 せんじゅうみん たちはローマ時代 じだい には平地 ひらち に降 お りて、ローマ人 じん と共存 きょうぞん した時期 じき もあったが、暗黒 あんこく 時代 じだい になると外部 がいぶ 民族 みんぞく の襲撃 しゅうげき を恐 おそ れて、再 ふたた び山岳 さんがく 部 ぶ の小 しょう 集落 しゅうらく (パエーゼ)に身 み を潜 ひそ めて自給自足 じきゅうじそく の生活 せいかつ にもどる。近代 きんだい 以降 いこう フランスではコルシカの独自 どくじ の風習 ふうしゅう が取 と り上 あ げられているが、その独自 どくじ 性 せい はこの暗黒 あんこく 時代 じだい に遡 さかのぼ ると思 おも われる。
イタリア諸 しょ 国領 こくりょう [ 編集 へんしゅう ]
ピーリー・レイース によるコルシカ島 とう の地図 ちず
中世 ちゅうせい になるとイタリア半島 はんとう の都市 とし 国家 こっか 、ピサ とジェノヴァ がコルシカ島 とう を植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい する。ローマ教皇 きょうこう の命 いのち により11世紀 せいき にピサがコルシカ島 とう を統治 とうち するが、その後 ご ジェノヴァが徐々 じょじょ に島 しま の沿岸 えんがん 地帯 ちたい に城塞 じょうさい 都市 とし を建造 けんぞう し、ピサからその支配 しはい 権 けん を奪 うば い取 と ってゆき、13世紀 せいき にはジェノヴァの支配 しはい が確立 かくりつ する。現在 げんざい のコルシカにある都市 とし のほとんどがジェノヴァ統治 とうち 時代 じだい にジェノヴァによって建造 けんぞう されたものである。ジェノヴァの支配 しはい は過酷 かこく であり、島民 とうみん はたびたび反乱 はんらん を起 お こした。中世 ちゅうせい では16世紀 せいき のサンピエール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (サンピエロ・コルソ)の反乱 はんらん が最大 さいだい のもので、これはジェノヴァによって鎮圧 ちんあつ された。
コルシカ独立 どくりつ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
1729年 ねん に始 はじ まるコルシカ独立 どくりつ 戦争 せんそう はかつてなく大 だい 規模 きぼ かつ組織 そしき 的 てき な闘争 とうそう だったためにジェノヴァはこれを抑 おさ えられず、1768年 ねん にジェノヴァとフランスはフランス軍 ぐん をコルシカに派兵 はへい するかわりにジェノヴァは一定 いってい 期間 きかん のコルシカ統治 とうち 権 けん をフランスに譲 ゆず るという内容 ないよう の、ヴェルサイユ条約 じょうやく を締結 ていけつ した。一方 いっぽう のコルシカは1755年 ねん 、独立 どくりつ 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ パスカル・パオリ を首班 しゅはん とする独立 どくりつ 政府 せいふ を樹立 じゅりつ し、コルシカの国歌 こっか や国旗 こっき 、憲法 けんぽう 、通貨 つうか や大学 だいがく 、徴兵 ちょうへい 制 せい など近代 きんだい 国家 こっか の原型 げんけい ともいえる制度 せいど も創出 そうしゅつ していった。フランス軍 ぐん とコルシカ軍 ぐん との間 あいだ で戦争 せんそう が始 はじ まると(en:French conquest of Corsica 、1768年 ねん - 1769年 ねん )、1768年 ねん 10月 がつ のボルゴの戦 たたか い (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) ではバスティア南郊 なんこう でコルシカ軍 ぐん はフランス軍 ぐん を駆逐 くちく したが、1769年 ねん 5月 のポンテ・ノーウ(ポンテ・ヌオーヴォ)の戦 たたか い (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (フランス語 ふらんすご : Bataille de Ponte Novu 、イタリア語 ご : Battaglia di Ponte Nuovo )では、フランス軍 ぐん の圧倒的 あっとうてき 兵力 へいりょく の前 まえ にコルシカ軍 ぐん は敗 やぶ れ去 さ り、パオリは英国 えいこく に亡命 ぼうめい する。これ以降 いこう 、コルシカ島 とう は完全 かんぜん にフランス領 りょう になった。のちにフランス皇帝 こうてい となるナポレオン・ボナパルト が生 せい を享 とおる けるのは、この戦役 せんえき から3か月 げつ 後 ご のことである。
こうした歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい もあって、コルシカ島 とう ではフランス併合 へいごう 後 ご 、断続 だんぞく 的 てき に民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう が起 お きている。1975年 ねん 8月 がつ に自治 じち 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく (ピエ・ノワール )とフランス治安 ちあん 当局 とうきょく との間 あいだ で激 はげ しい闘争 とうそう (アレリア (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 闘争 とうそう )が展開 てんかい され、自治 じち 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく が非合法 ひごうほう 化 か されると、分離 ぶんり 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく のコルシカ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FLNC) が組織 そしき されるが、1982年 ねん に地方 ちほう 分権 ぶんけん 政策 せいさく の一環 いっかん としてコルシカ地域 ちいき 議会 ぎかい が設置 せっち されると求心力 きゅうしんりょく を失 うしな い分裂 ぶんれつ する。そして現在 げんざい 繰 く り広 ひろ げられている武力 ぶりょく 闘争 とうそう は独立 どくりつ 戦争 せんそう などではなく、民族 みんぞく 主義 しゅぎ を名乗 なの るグループ同士 どうし の内部 ないぶ 抗 こう 争 そう であり、近年 きんねん は[いつ? ] 失業 しつぎょう で悶々 もんもん としている島 しま の若者 わかもの たちを徴用 ちょうよう するなど非行 ひこう 問題 もんだい 化 か しつつある。一般 いっぱん の島民 とうみん は民族 みんぞく 主義 しゅぎ には理解 りかい を示 しめ しつつも、政治 せいじ 運動 うんどう からは一線 いっせん を画 かく しており、コルシカ人 じん がフランスからの独立 どくりつ を望 のぞ んでいるという指摘 してき は不正確 ふせいかく である[5] 。
ピサ・ロマネスク様式 ようしき のアレンゴ の教会 きょうかい 。ピサの影響 えいきょう が見 み て取 と れる。
コルシカ住民 じゅうみん は文化 ぶんか や言語 げんご の面 めん で、大陸 たいりく 部 ぶ のフランス本土 ほんど とは異 こと なった面 めん を持 も っている。
近年 きんねん は[いつ? ] コルシカにおけるアイデンティティ の高 たか まりにより、コルシカの文化 ぶんか やこれを基盤 きばん にした芸術 げいじゅつ などを見直 みなお すさまざまな活動 かつどう が行 おこな われているが、その代表 だいひょう がかつての即興 そっきょう 詩吟 しぎん をベースにしたポリフォニー である。複数 ふくすう 人 じん が楽器 がっき を使 つか わずに奏 かな でる多 た 声 こえ の男声 だんせい 合唱 がっしょう がその中心 ちゅうしん で、グループ「イ・ムヴリニ」(I Muvrini) がその代表 だいひょう 格 かく である。それ以外 いがい に「ア・ヴィレッタ 」(A Filetta)、「ティアミ・アディアレージ」(Chjami Aghjalesi)、「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」(Canta u Populu Corsu)、「スルディアンティ」 (Surghjenti) などのグループがある。伝統 でんとう 的 てき な男性 だんせい 多 た 声 こえ 合唱 がっしょう については、2009年 ねん 「パディエッラ 風 ふう の歌謡 かよう 」(Cantu in paghjella) としてユネスコ の無形 むけい 文化 ぶんか 遺産 いさん に登録 とうろく されている。
現在 げんざい の住民 じゅうみん の日常 にちじょう 語 ご はフランス語 ふらんすご である。コルシカ語 ご も依然 いぜん として、学校 がっこう 教育 きょういく やテレビ・ラジオ放送 ほうそう 、広告 こうこく ・商標 しょうひょう 、文化 ぶんか 活動 かつどう などで盛 さか んに用 もち いられている。コルシカ語 ご は公用 こうよう 語 ご ではないものの、コルシカ語 ご を含 ふく むフランスの地域 ちいき 語 ご (詳細 しょうさい はフランスの言語 げんご 政策 せいさく を参照 さんしょう )は、2008年 ねん のフランス共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう 改正 かいせい により、フランスの文化 ぶんか 遺産 いさん であると新 あら たに規定 きてい された(第 だい 75条 じょう の1)。
コルシカ島 とう の特産 とくさん 物 ぶつ は、豚 ぶた および豚肉 ぶたにく 燻 いぶし 製品 せいひん 、クリ の粉 こな から作 つく った菓子 かし 類 るい である。ワイン やチーズ の産地 さんち としても有名 ゆうめい で、ワインは「パトリモニオ」や「ミュスカ・デュ・カップ・コルス」、チーズではフレッシュチーズのブロッチュ が有名 ゆうめい である。クリで作 つく られたビール 「ピエチュラ」(ピエトラ)もある。
観光 かんこう ・サービス業 ぎょう といった第 だい 三 さん 次 じ 産業 さんぎょう に大 おお きく頼 たよ らざるを得 え なくなっている。だが、観光 かんこう はシーズン期 き が7月 がつ と8月 がつ のみで、また近隣 きんりん にフランスの大陸 たいりく 本土 ほんど 南岸 なんがん のコート・ダジュール やスペイン のバレアレス諸島 しょとう にあるイビサ 、イタリア のリグーリア海岸 かいがん などの国際 こくさい 的 てき リゾート 基地 きち に囲 かこ まれており、激 はげ しい競争 きょうそう に晒 さら されている。サービス業 ぎょう はスーパーマーケット などの小売 こうり 業 ぎょう の他 ほか 、運輸 うんゆ ・公務 こうむ 関係 かんけい 者 しゃ が圧倒的 あっとうてき に多 おお い。
なお、コルシカ島内 とうない では食料 しょくりょう 品 ひん をはじめとして衣料 いりょう 品 ひん 、石油 せきゆ 製品 せいひん 、住宅 じゅうたく 関連 かんれん 費用 ひよう 、電気 でんき 、ガス、水道 すいどう などにかかる付加 ふか 価値 かち 税 ぜい がフランス本土 ほんど よりも低 ひく く設定 せってい されている。
ポルト=ヴェッキオ の港 みなと
コルシカ島 とう には四 よっ つの空港 くうこう があり、パリ 、ニース 、マルセイユ などのフランスの地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん の都市 とし と航空 こうくう 路 ろ で連絡 れんらく されている。作家 さっか アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ の最後 さいご の出撃 しゅつげき 地 ち であったバスティア・ポレッタ国際 こくさい 空港 くうこう (en:Bastia – Poretta Airport ) もその一 ひと つで、当時 とうじ は自由 じゆう フランス軍 ぐん 空軍 くうぐん の「ボルゴ飛行場 ひこうじょう 」だった。一方 いっぽう 、航路 こうろ はマルセイユ、ニース、トゥーロン 、イタリアのサヴォナ 、ジェノヴァ、サルデーニャ島 とう との連絡 れんらく があり、最高 さいこう 35ノット を誇 ほこ る高速 こうそく フェリー路線 ろせん もある。入島 にゅうじま 税 ぜい ・出島 でじま 税 みつぐ が課 か せられる。
島内 とうない の都市 とし 間 あいだ を結 むす ぶ交通 こうつう はアジャクシオ、バスティア、コルテ、カルヴィを連絡 れんらく するコルシカ鉄道 てつどう があるものの便数 びんすう は決 けっ して多 おお くなく、ほかに1日 にち に1、2便 びん しかない都市 とし 間 あいだ 路線 ろせん バス もあるが、それ以外 いがい には公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん はない。よって島内 とうない の移動 いどう には、自動車 じどうしゃ (レンタカー )による移動 いどう 、タクシー の利用 りよう が交通 こうつう 機関 きかん 利用 りよう よりも便利 べんり で効率 こうりつ 的 てき である。島内 とうない には国道 こくどう 193、194、196、197、198、200号線 ごうせん があるが、高速 こうそく 道路 どうろ はない。国道 こくどう の道路 どうろ 事情 じじょう は極 きわ めて悪 わる かったが、1990年代 ねんだい 以降 いこう は徐々 じょじょ に改善 かいぜん されている。
プロプリアーノ 市街 しがい 近辺 きんぺん の海岸 かいがん 線 せん
島 しま の一般 いっぱん 道 どう を閉鎖 へいさ して行 おこな われるラリー は『ツール・ド・コルス 』と呼 よ ばれ、1956年 ねん から毎年 まいとし 開催 かいさい 。1973年 ねん から行 おこな われているWRC(世界 せかい ラリー選手権 せんしゅけん )のラウンドにも組 く み込 こ まれている。「直線 ちょくせん が200mあったらコルスではない」とまで言 い われる、カーブだらけで荒 あ れた路面 ろめん のテクニカルなターマック (舗装 ほそう 路 ろ )ラリーコースとして数々 かずかず の名 めい 場面 ばめん を生 う み出 だ している。
山岳 さんがく 地帯 ちたい を縫 ぬ うように走 はし る断崖 だんがい 路 ろ で行 おこな われるこのイベントでは、ワークスドライバーであってもしばしば大 だい 事故 じこ を引 ひ き起 お こす。グループB 時代 じだい の1985年 ねん ・1986年 ねん には、2年 ねん 連続 れんぞく でランチアのワークスドライバーが死亡 しぼう 。1985年 ねん には、ランチア・ラリー037 を駆 か るアッティリオ・ベッテガ が立 た ち木 ぎ に衝突 しょうとつ して死亡 しぼう 。1986年 ねん には、ランチア・デルタS4 を駆 か るヘンリ・トイヴォネン がコースオフで崖 がけ から転落 てんらく し、木 き に衝突 しょうとつ した瞬間 しゅんかん に起 お きた発火 はっか ・爆発 ばくはつ で死亡 しぼう している。これらの事故 じこ は、グループBカテゴリ消滅 しょうめつ のきっかけとなった。他 ほか にも1997年 ねん には、この年 とし のワールドチャンピオンである三菱 みつびし のトミ・マキネン が路上 ろじょう に出 で てきた牛 うし に衝突 しょうとつ し、崖 がけ 下 か に転落 てんらく してリタイアしている。
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